海軍の朝は早い。そして規則的である。
有事の際もこれは変わらない。夜間勤務に割り当てられない限り、起床は5時半と決まっていた。階級は関係なく、海兵の規約である。ガープの船に乗っているときも同じだった。
アンは丸めていた体を伸ばす。括りつけてある縄が軋み小さく鳴った。
縦長ではあるこの部屋は、大人がひとり寝転べば身動きが取れなくなってしまうだろう空間しかない。なぜならここは元々倉庫として使われていた場所だからだ。現在においてはアンの個室である。扉は唯一、艦長である黄猿の執務室に続いていた。
新兵も玄人も軍艦での任務期間中は合同部屋が基本だ。この黄猿艦に乗り込んだ際、どんな人たちと同部屋になるだろうと心躍らせていたアンをひとつめの絶望の淵に叩きつけたのはこの個室、だった。
持ち込まれている所有物は少ない。備品からランタンひとつと小さな机が支給され、その上に数冊の本が立てかけられている。衣服は小さな箱の半分程度、だろうか。ベッドを置く広さは、無い。そのため例外的にフックが壁に打ち付け固定され、柱と繋がり吊られているハンモックを寝床としていた。最初本当にこれで寝れるのだろうか、と不安だったアンも良い意味で裏切られ、快適で快眠の日々を過ごしている。
長年、日の出と共に目覚めを繰り返してきた体の体内時計は正確無比だ。
空気の通り道から伺える隣の様子を伺うに、まだボルサリーノも起きてはいないようだった。
余りにも感じない気配にしばらく意識を集中する。アンが思うに見聞色とは空間把握能力であろう。周囲に対し、どれだけ迅速に、かつ細密に変化を読み取ることができるか。上級者になれば対する相手の鼓動までもが耳に届き、どういう精神状態であるのかまで知ることが可能であるらしい、との伝聞も仮説が正しければありえない話ではない。使い手が武装色に比べて少ないのもここに来てよく分かった。訓練の仕方としては多くを聞く努力をすること、のみである。余りにも抽象的過ぎ、その能力を取得している海兵に尋ねてみたところ、「語らず黙し、ただ聞くべし」という答えが戻ってきた。結局のところ具体的な訓練方法は無いに等しく、開花をただ待ち続ける他無い、のだろう。だが周囲を知り続ける、というこの行為は肉体を使った訓練より疲労を蓄積させる。精神的にくる、といえば分かってもらえるだろうか。
ちなみに義祖父は武装色であった。見聞に対する素質はミリ程度も無かったという。人が持つ能力の器の値が10であるならば武装色に全振りしているのが義祖父である。アンの場合、覇王の素質であるが見聞7の武装3の割合位だろう、と言われていた。
部屋をひとつ隔てた向こう側から、規則正しい鼓動が聞こえている。だがそれはいつもよりゆっくりだ。
昨晩は戻って来れたのだろう。初日はなんだかんだと天竜人がごね、黄猿直々の夜間護衛だった。
日の出までもうしばらく時間が必要な今。アンは吊ベットから身を滑らせて床に下りる。身支度を整え向かうのは後部甲板だ。
黄猿艦では航海中のみ転落事故防止のため、夜間の自主訓練が禁じられている。ならば、とふたりで相談した結果、朝に鍛錬をしよう、と纏まった。
アンが海軍で扱かれ、反復によって覚えさせられている肉体動作はエースにとっても刺激だ。自然の中で身につけた独自の動きは確かに次の行動を読まれにくいものの、無駄も内包し効率的ではない。今まで3撃掛かって倒していた相手を初動1撃で沈められるようになったのは、悔しいがアンが島から出たからだった。
ドーン島とシャボンディの時差はだいたい1時間くらいだろうか。マリンフォードよりも若干短い。なので寝起きの悪いエースが本格的に目を覚まし、機嫌がよくなった頃に丁度開始、となる。ただし空腹のため無口であるが、それは致し方ないだろう。
お互い目を閉じ、相手を思い浮かべながら組み手を行なう。最近はそこにルフィが加わり、複雑性を増していた。エースからはルフィが見えるが、アンからは全く分からない状態である。エースとの連携で、何度、お前ルフィに寸止めされてたぞ、と敗北宣言されているか分からない。見えないのだから対応できないと引き下がるのも腹が立ち、最近は対エースというより、対透明ルフィとの戦いがメインとなっている。
弟からしてもアンは透明人間だ。なのにどうして、ルフィに出来てわたしに出来ないのだろうか。否、出来ないはずはない、と半ば意固地になっているのも承知している。だが兄弟達は何一つ文句言わず、アンに付き合い、ただひたすらやり続けてくれる。
「っ、しくじった・・・」
寸止めされる気配がし、アンは両手を上げる。エースが仕掛けてくる足払いに気を取られすぎ、上半身の守りがおろそかになったのだ。ここ数日、エースを通じてなんとなく弟が分かるような気がするときもあるのだが、それはまだ、気のせい、から抜け切れていない。どうせならば本物の透明人間と対峙しても勝てるようになりたいと思う。なぜなら、この不思議に満ちた世界には本当に透明人間がいるかもしれない。その時に涼しい顔で対応したいではないか。格好つけかもしれない。だがもしそういう状態に陥った時、手立てが無いと焦りたくないのだ。
「今日もありがとう、道中気をつけて。マキノさんによろしくね」
アンは小さくつぶやきながら食堂へと向かう。あちらの様子を伺えば、兄弟たちも坂を駆け下りフーシャ村へ向かっているようだった。不確かな物の終着駅(グレイターミナル)へ行かなくなってから、朝食はほぼ、マキノの店で食べている。兄弟が揃えば宝払いかと思いきや、アンの教育がようやく根付いたのか、内部に点在する村周辺で討伐系の仕事を請け、達成報酬で得た金銭で食事をしている。
簡単に言えば、両者の得が合わさった結果だ。
内部はまだ人の手が入らぬ手付かずの森が多い。首都から運ばれてくる物品より近場の森で狩猟した肉や畑で育てた作物が村々の命を支えている。兄弟達は日々、縄張りを持つ主と対峙するため内陸部へ向かう。その際に村人達から依頼を受け、達成するのだ。そして夕闇が降りる頃、夕食を持ってダダンの家に戻る。
黄猿の元に配属されて半年余り。この船で過ごすのも大分慣れてきていた。食堂に一番乗りするのもほぼ、毎日だ。その際、顔見知りの女性士官と会話する機会が多くなっていた。非常事態を除き、基本的に女性は夜勤に振り分けられない。なので朝、出会う確立が高くなる。食堂にはクーが運ぶ新聞が数部置かれている。朝食を終えてからそれを広げ、席が半分ほど埋まるまで閲覧すると席を立った。
「おうい、アン准尉、これ持って行ってくれるか」
「あ、はい」
上官は基本、別室で食事を取る。上官を含め、同じ場所で食事を取ると下士官が緊張するからだ。
だがここシャボンディに着いてから、その食事に黄猿艦長が来ていない、という。この艦の栄養管理をしている栄養士たちはそんな艦長へ、手軽に食べられる軽食を少量、一日に数度差し入れしていた。なぜなら頭がつぶれると、頼りになる副官たちが居るとはいえ、にっちもさっちも行かなくなるからだ。
アンは小皿に置かれたちいさな三角と香り深い飲み物を盆に載せ、食堂を出た。
「あ、准尉。ねえ、今日の集合、あなたの班、遅くなってるの知ってる?」
「いえ」
「そう、会えてよかったわ」
今日はよく話しかけられる日だ、とアンは小さく笑みながら、アンは指示されたとおり、黄猿の元へと参じた。護衛任務に当たる精鋭たちはまだ来ていない。だが夜明け前は閑散としていた艦長室にも副官の数名が常駐し始めると、一気に賑やかしくなる。
「おじさん、サンドイッチとコーヒー、預かってきたよ」
「ありがとうねぇ」
言葉のゆったりさとは裏腹に、その手には各方面からの報告書が握られている。
枚数は副官の努力により抑えられているが、それでも賞金首関係の最終処理は大将が見、判を押さねばならなかった。賞金は数を増やし続けている海賊の中でも、特に危険性の高い無骨者にかけられる。この人物を間違いなく拿捕しました。安心してください、と世界に発表するのだ。まさかの捕り間違えなど、あってはならない。
沈黙がその場を支配していた。アンは壁に背を任せ、瞳を閉じた。今日もまた、慌しい一日が始まる。息をつく暇すらも無いかもしれない。だから今、ここに横たわる静けさを苦いとは思わなかった。耳を澄ませば人のざわめきやさざなみが聞こえる。世界は静かであるようで、実際にはこんなにも賑やかだ。
耳に届く靴音に瞼を開き皿を見れば、上に置かれていた食事も全てなくなっていた。
しばらくすると3名の副官が部屋に揃う。
アンを見ても何も言わないのは、無いものとして意図しているわけではない。彼女だけが出来る、大切な業務がある、と知っているからこそ何も発さないのだ。
黄猿は副官と共に今日の予定の確認をとっていく。
全てが終了すると副官のひとりがジェラルミンケースを開け、中にいくつか束ねた書類を入れた。今までなら帰港した後に計らわれるものだ。しかしアン准尉がこの船に乗り込んでからは本部で待機、訓練している日々と同様の、処理速度となっている。そのおかげ、で遠洋に出る場合も資金の貧窮が無くなっていた。
准尉は鍵がかけられたケースを受け取り、瞬時に姿を消す。何度目にしても慣れない。そこにあるはずのものが忽然と消え失せるのだ。不可思議な現象に、天を仰ぎ目を瞑るしかない。
スーツケース型のそれに入れられた中には、新たな七武海の選定候補に関する重要書類が入っている。
海軍では黄猿の能力に関し、非常に強い関心を持っていた。否、訂正しよう。海軍本部に設置されてはいるが、世界政府直下の別組織が研究していた。黄猿が食したピカピカの実を兵器有用するために、その組織がボルサリーノが得た能力を科学的に解析したのだ。そして新たに配属されたアン・D・ポートガス准尉の身も実験体と位置づけ、日々の体調管理の詳細を要求している。
二度あることは三度ある。ふたり目への試みがなかなか出来ない鬱積が溜まったのだろうか。組織が目を着けたのは革命軍に所属する賞金首、暴君だった。
黄猿も、准尉も、そして暴君も。長距離移動出来る能力者である。
何を企んでいるのか、副官には全く分かりかねたが、これだけは言えた。彼らは人ならざるなにかを作ろうとしているのではないか。神と云うものを信じてはいないが、それに近いものを造り出そうとしているのではないか、と。
目を瞬かせるとそこは石畳の上、だった。
連続するくしゃみを手で押さえつつ、アンは青空が広がるマリンフォードを仰ぎ見る。
ジェラルミンケースは既におつるへ渡してきた。実は今、表門とは逆にある、居住区へ繋がる裏道のひとつをアンは歩いている。
科学班、と呼称されている組織の長が首を長くしてアンを一日千秋の思いで待っている。是非来てくださらないか、とお招きを受けたからだ。出来れば行きたくはない。だが適度に行かなければ義祖父やクザンの手を煩わせてしまう。おるつの計らいで、黄猿艦には連絡してもらえるという。おつるは義祖父と懇意であり、個人的にアンを助けようとしてくれている。だから頭を下げ感謝を伝えた。好意を受け、アンは研究棟へと向かう。
毎回の呼び出しにはうんざりとするが、10回に1回であればいいだろう。そう考え、今回は14回目にして1ヶ月半ぶりの招待を受けた。
白衣を着た、科学者(マッドサイエンティスト)たちとの会話は少ない。必要最小限だけだ。
採血をうけ、心拍や血圧、その他諸々の検査系を走破させられた後、全方向を走査できる機械の中を瞬間移動する。全て消耗させられるのはいつものことだ。黄猿艦に戻るための1回を残し、アンは装置の中から出た。半年以上に渡り収集された情報から、どれくらい飛べるのか、おおよその数字がはじき出されているのだ。1回だけであればそうでもないが、2回目からは水中から地上に出たときのような気だるさが体を襲う。しかし表に出さぬようきびきびと動き、そしてもう一度、血液を抜かれに向かった。これが終わるとお役ごめん、となるからだ。
現段階で一日に瞬間移動出来る回数は最大で3回だった。体調が悪いときは2回だが、今日はまだ余裕がある。甘いものを食べ、少し休憩すればとべるだろう。
研究棟の入り口に近い待合室のようなところで、ぐったりとしていると、アンを呼ぶ声が聞こえた。
「Dr.ベガバンク…何か御用で?」
重たげな瞼をゆっくりと持ち上げ、その人物を見た。
数居る高圧的な研究者とは違い、どちらかといえば、なぜこんな人物がなぜこんなところに居るのか本当に分からない。というのが本音である。
「これを渡しに来たんだ」
「……え」
ポケットの中に入っていたのは、チョコレートだった。中にピーナッツとキャラメルが入った、弟が特に好物としている腹持ちよい食べ物である。それに加え牛乳瓶がひとつと、はちみつを固めた飴が多数手のひらからこぼれた。
「あ…あの」
「じゃあこれで戻るね。次は美味しい紅茶でもご馳走するから」
また会えるのを楽しみにしているよ。
そう言って白衣を揺らし、Dr.ベガバンクは姿を消した。椅子の上には置かれたそれらが広がっている。
アンは牛乳のキャップを開け、口をつける。博士が持ってきたもの、に限って何かへんな薬剤が混ぜられていることは無いだろう。他のは信じられないが、博士ならば大丈夫だろう、そう思えた。
貰った甘味を飴を残して食べ終え、しばらくの間、目を閉じる。まどろみを終えれば、既にその身は甲板の上にあった。
「准尉、お待ちしておりました」
伝令の任務に就く下士官がアンの姿を確認後、走り寄って来る。差し出されたメモには最終目的地が書かれ、幾つかの中継地も羅列されていた。
走り書きにはつる大参謀から直通が入り、込み入った用件が入ったため帰すのが遅れる、そう伝えられたの聞いたという。
アンは待っていてくれた下士官に礼を伝え、ふわりとその身を浮かせた。空を蹴り、空を往く。それは会得する者を選ぶという、六式のひとつだった。
「ご、御武運を!」
伝令の声にアンは振り向く。
覗いた顔に、伝令は目を見開いた。先日、黄猿閣下に直接、訓練を受けていた小さな体が何度も、何度も空を飛んだのを見ていた。部位を失う事こそ無かったが、随分と派手に痛めつけられているように感じていた。普通であれば降参し、ご指南ありがとうございました、と逃げても良いだろう。
しかし准尉は怯まなかった。逃げなかった。悪魔の実の能力を使い出した黄猿に、猛然と牙をむいたのだ。
力の差は歴然だった。敵うはずがない。現に誰もがたじろぐほどの痛手を負っている。何がそこまで准尉を駆り立てるのか。もうやめてくれ、何度叫びそうになったのか分からなかった。満身創痍になっても止まらなかった。
出来る事ではない。伝令は身を震わせたのを覚えている。
その准尉が微笑んだ。
薄く笑んだ唇が言葉を紡ぐ。これから向かうのは戦場だ。震えてもおかしくは無い、戦場だ。自信に満ちた瞳が伝令の心を射抜く。
己よりも年下であるのに、なんという可能性を秘めた背中なのだろう。思わずその背が見えなくなるまで、見送ってしまった。
伝令は上官の一喝で我を取り戻す。
足の速さは誰にも負けない。そう自負し、その足で救える何かを求め海兵となった。伝令は走る。報を背に、いつかはあの背のように、空翔る術を手に入れるのだ、とそう決意し疾駆する。
そしてアンも60番台のマングローブ群をただひたすらに走っていた。この番台は世界政府と海軍の船が出入りする港がある。下を行けば警邏中の仲間にも会うだろうが、世界貴族の世話を焼くために追従してきた役人もまた出歩いていた。海兵は役人にとって態のいい下働きだ。何を言いつけられるか分かったものではない。出会わなくとも、アン個人の用件で班に迷惑をかけている。出来るだけ早くに追いつかねばならなかった。とはいえ遠方に割り当てられているため、班はボンシャ(車)に乗って行ったのだという。
最終目的地は20だ。
70がホテル街、50が造船所とコーティング工房が連なり、40が観光地、30には遊園地やテーマパークが広がっている。
まだそこらは世界貴族が来訪していない場合、海賊の有無があっても安全地帯、と宣言してもいい。
だが0から20番台は長期の間、無法地帯となっている。駐屯している部隊だけでは主要部を防衛するのが精一杯なのだ。暴れる海賊に対応出来るのは海兵だけであり、この島独自の治安部隊も存在はしているが、手を出せばどうなるか、は一目瞭然であった。
20に向かった班は3つ、そのひとつにアンは配置されている。
それぞれは黄猿が護衛任務に選りすぐった人員の一覧にもある人物であり、本日の最重要案件を遂行する者たちであった。
最終目的地には人間屋(ヒューマンショプ)、いわゆる人身売買を生業とした業者が集っている。班が摘発に向かっているのはいわゆる、認可を受けていない闇業者だ。
燻し、潰しても次々と闇は溢れる。なぜならここ、にはこの地域最大にして人魚と言う珍しい品目も多く出されるため、奴隷を所持できる身分を持つ人々が集まってくるのだ。
またこの会場へは世界貴族がよく足を運ぶため、定期的に清掃しなければならなない場所でもあった。
海軍は人々を守る集団である。しかし海軍は世界政府の僚属(ばくぞく)でもある。世界政府が定める、保護対象の優先は厳守せねばならなかった。その頂が世界貴族であり、如何なる理由があろうとも、逸脱は許されていない。正義の二文字が悲壮に揺れる。この時ばかりはただ、ただ人々が向けてくるねめつく視線に耐えなければならなかった。
その心情を慮(おもんばか)ると、乗り越えて来た兵(つわもの)たちは本当に強い。
△▽△▽△▽△▽△▽△▽
怒号が響いている。幾人もの男が、少年と少女を取り囲んでいた。ひとりはいけ好かない海兵の姿をし、もうひとりは彼らの憎悪の対象となっている天竜人である。
なぜ天竜人の子供がこんな場所に居るのか。それはこの地へ奴隷を買いに来たのだろう。
なぜ天竜人の子供がひとりでこんな場所に居るのか。それは…親とはぐれた、とは考えにくい。なぜならば黄猿大将が選抜した幾人もの精鋭たちがその周囲を守っているからだ。
どうして単独行動を許しているのか。
アンは背に冷や汗を感じながら、男たちをけん制する。
男たちは奴隷商に関わる者達ではなかった。政府が奴隷の所持を認めているとはいえ、その主張は間違っている、と声を上げる者達もまた存在していた。人の上に人を作ってはならない。今はまだ小さな声だが、フィッシャー・タイガーの件を経て、革命軍によって薄く広がりを始めている。
彼らはそれよりも以前から、細々と買う胴を続けてきた一派だった。
奴隷を扱う者達を憎んでいた。奴隷を売買する者達を恨んでいた。取得するものを守る存在を嫌っていた。
世界には余りにも嫌なものが多すぎる。ならばその嫌なものが全て無くなればいい。人々の多くは自分の身にその不幸が降りかかるまで、所詮は他人事と忌避する。だがそれでは遅すぎる。誰かを待っているのでは遅いのだ。ならば自らが動くしかない、たとえひとりであろうとも、奴隷という存在を無くすために、活動し始めた始まりの人の後に続いた人々が彼らだ。
創始者は既にこの世の人ではない。
だから、であろう。創始者の意図した行動を超え、奴隷となった人々の身を助ける、から奴隷を所有する者たちを排除する、に置き換えられてしまっていた。彼らは奴隷を購入し帰途に着く、支配階級の王侯を中心に狙いを定め得物としている。
彼らが危険思想の狂人だと言われている所以は助けるべき奴隷も共に、海に沈められる場合もある、という事だ。
例えばその身が海賊であった場合や彼らを受け入れない国に暮らす人々を容赦なく切り捨てている。しかし、彼らとなる多くが一度その身分に落とされた者たちの家族、血縁であった。そして彼らを匿うその多くが、奴隷として大切な存在を奪われた人々であった。
世界政府としては天竜人に手を出さなければ、それぞれの国が対応すべき案件だと正式に表明している。海軍には監視はしても手を出すな、と告達されていた。
だが今回は。後ろに在るのは天竜人だ。海兵が手を出しても良い、事例となる。
「・・・っ」
アンは葛藤していた。この少年に、では無い。
本来ならば切り離して考えなければならなかった。少年は天竜人であるが、サボを失ったきっかけを作った本人ではない。けれど天竜人というだけで憤り沸いていた。
今だけでいい、感情を押し殺せ。アンは深く息を吐き、目の前に集中する。
少年はそんな海兵の背に庇われながら、自身を取り巻く周囲を見ていた。
一体何がこの事態を生んだのか。少年はその理由を理解している。
退屈だったのだ。地上とはかくも騒然としているのに、どうして人々は下を向き続けているのだろうか。書物で描かれていたように、人々が笑い興じる楽しみの場ではなかったのか。
屋敷と同じく、そこにあるのは恐怖から生まれる憂俱(ゆうぐ)だ。処分されることを恐れ戦き、ただ額を床にこすり付けて対象が去るのを待つ。
同じものは、いらない。
だから新たを得られると誘われたからこそ来たのだ。父からもそろそろ天竜人の嗜みとして、奴隷が必要だとする絶好の外出の機会を得た。聖地と呼ばれる街は美麗ではあるがどこか浮世離れしているように感じていた。なぜかは分からない。だがそう感じていたのだ。だから外出がとても楽しみでならなかった。心躍る感覚とはこれか、と日々を待った。
その結果がこれだ。
これならばまだ、見つけた、秘密の部屋の書庫に篭っていたほうが有意義であった。
理由をつけ、父から離れた。
護衛すらついてくるのを否定した。
聖地と同じであれば、そんなものは必要がないはずなのだ。
少年は追われた。
逃げながら、深刻な状態であるのに、少年は笑んでいた。
ああ、これが生きているということか。
少年は笑みを濃くする。息が苦しい、足がだるく重くなってゆく。実を得るとは実に不快であった。だがそれが心地良くも感じる。
「ほらほら、鬼ごっこは終わりですよ」
少年は追い詰められていた。汗が体に張り付き、べったりとしている。息を吸い込めばカラカラに乾いた気管が痛んだ。
樹木が絡み合った奥に追い立てられたらしい。
いつの間にか鬼の数が増えていた。なんだ天竜人とは以外に人気者ではないか。
少年は荒く呼吸を繰り返しながら、笑みを崩さない。
「さあさ。ご両親の元へ連れて行って差し上げましょう」
伸ばされた手が奇妙に歪む。首をつかまれたのだ。抗う力など残されては居ない。目から体液が滲み、景色が混ざってゆく。
「丁重にに扱えよ?」
男が動脈を押さえ楽しそうに弧月を浮かべる。
「天竜人はヒトを超え、ヒトを支配する選ばれた存在じゃなかったっけ」
「そういえば随分と苦しそうじゃないか」
少年はこれが死、の恐怖というものらしい。と、おぞましくも屋敷内で震え、そのたびに薬剤を投薬される多くが浮かんだ。
少年の周囲でもそれは日常茶飯事に行なわれている。なぜならば世界貴族が主で、奴隷は従うべきものでしかない。それに反旗を翻されると、途端に激昂する。少年は父や母、兄や姉たちですら、どうして喜々として奴隷をいたぶるのか。どうしても分からないでいた。
だがこの、異常だと感じる精神が天竜人の中では異状であることを、最近知ってしまった。全ては偶然見つけたあの書庫の中にある、多くの書物が語ってくれたのだ。
優越感。そして劣等感。
かつて世界をふたつに割った戦いを征し、世の人々に平和をもたらした功績により、天竜人という称号を得た多くが今や、見る影も無く堕ちてしまっている。
聖地に暮らす多くは蝶よ花よと持ち上げられ、下々民と呼ぶ人々には想像できない、贅を尽くした生活を送っているが、何一つとして自力でことを成す事が出来ない劣等だ。朝、起きるときもそう。着替えも奴隷たちが全て行なう。食事も口を空けるだけでよい。横に添った、お気に入りの奴隷に口へ運ばせるのだ。そして自力で歩ず、騎乗奴隷に乗り移動する。興じる遊びといえば、奴隷たちを競わせ、その勝ち負けは生か、死か。まるでいつ壊しても良いとし、与えられるおもちゃのようだと思い、ああ、そうなのだ、と納得する。何十年も生きているくせに、その精神は子供のままである、のだ。
少年はただひとり、書庫へと隠れ続けた。
家を継ぐのは兄と決まっている。少年もそれを覆すつもりは無い。どちらかといえば構ってくれる父を除き、母と、兄や姉は、どこか少年によそよそしかった。
いつも世話を焼いてくれる奴隷に言わねば引き裂くぞ、と天竜人に相応しい物言いで詰め寄ると、戸惑いながらも教えてくれた。
「あなた様は、養子であると聞いて、おります」
何でも兄が少年が養子に来るまで、寝たきりであったというのだ。ピラニアという魚に餌を与えようとしたところ、全て落してしまったのだという。それを魚人の奴隷に取りに行けと命じ、薬で言いなりとなっていた魚人が最後の抵抗をしたのか、共に水槽の中に落ち意識を失った。意識を取り戻さぬまま数年が経ち、赤子の少年が迎えられたがしかし、その翌年に兄が意識を取り戻したのだ。
よって少年は用無しとなった。
しかし父だけは少年を可愛がっていた。
時折、少年に媚びるような素振りが腑に落ちなかったが、筆頭執事を落とし得た情報によると20家ある天竜人の中でも、格の高い家から養子に来たらしく、粗末に扱うわけにもいかない事情なのだ、という。
少年がもしここで死ねば、家の中で煙たがられている存在が消え、実に天竜人らしい家庭に戻るだろう。
そして天竜人である少年を殺害できればその行動はさらに加速し、我らに出来ぬものはないと暴走、後になぜ、こんなことになったのだと死に際にでも言葉を残すに違いない。
「っ、くく、ははは!」
少年は笑い出す。今まで感情を抑えて生きてきた。
だがそれこそが間違いであったのだ。生きること、とはなんと苦しいのだろう。なんと辛いのだろう。命を捨てたほうが楽であると誤認してしまうのもわかる。
少年は手足を欲した。耳と目を欲した。
そうだ、やはり出来るならば同年くらいがいい。少年の願いを聞き、世界中を巡って様々を伝えてくれる。
悪魔の実の能力はさほど重要ではないが、黄猿のような移動系であれば急な呼び出しも可能となるだろう。父と共に行ったオークションでは好みの人物は居なかった。だから言ってやったのだ。父が決して叶えられないだろう、無理難題を。
少年は男達に囲まれたまま、なんら状況が好転している訳ではない。むしろ悪化している、と言っても過言ではないだろう。
少年は達観していた。ここで死ぬ命ならばそれだけの価値しかなかったのであろう。もし、己だけに課せられた役目があり、それを成すためにこの世に生まれたならば、こんな場所で死ぬわけは無いではないか。さあ、助けに来い。
少年はゆっくりと手を頭上に掲げる。
振り下ろした次の瞬間、少年の首を掴んでいた男の力が緩み、そのまま地面へと落ちた。
一番驚いたのは手を振り上げていた本人だった。
霞む目の前には、見慣れぬ海兵の服を着た誰かがおり、少年を背に囲んでいる者たちをけん制している。
黄猿が少年を追わせていたのか、と考えたが即座に否定する。ひとりとして付いてくれば、その体に銃を何十発も撃ちいれてやる、と威嚇射撃したのだ。全て撃ちつくし、弾丸を失っていた。もしそれが残っていたならば、このような状態にならなかった可能性もある。
しかも海兵にしては幼かった。今まで見てきた中では最も少年に近い。
「・・・今、引くなら追いかけはしない」
班とも合流できてはいないが、年端もいかぬ少年が襲われている現場を黙って通り過ぎるなど出来なかった。
アンは男達に警告する。だが男達は引かなかった。当然だろう。彼らが最も手にかけたいものが、のこのこと彼らの領域へ来てくれたのだ。逃すはずはない。逃がす理由など、ありはしなかった。
「敵対とみなします。現在時刻1538を持ち、海兵としての責務を全うすることを、ここに宣言する」
ポケットから取り出されたのは懐中時計だった。世界に数多く出回っている既成品だ。
突如少女の目の前に居た男が後方へと飛んだ。その様は言葉通り、である。その動きを捉えられていたならば、少女が男のわき腹を肘鉄を当て、その反動を使い下腕肩甲骨へむけ打ちつけたのを見ただろう。
ちらり、と周囲を少女は見る。ひとりひとりの顔を確認し、どうするのかを再度、その眼光で問う。
数秒の後、ひとりが踵を返した。ひとりがしりもちをつき、後退し始めた。ひとりがその場で泡を吹いて倒れた。飛ばした男は身動きせず、そのまま樹木にめり込んでいる。
「お怪我はございませんか」
「うむ。大儀である」
その場に膝を折り、視線を合わせてきた海兵に、彼は満足げに頷く。
思い描いたままの理想がそこに跪いていた。天が差し向けたのだと少年は疑いもなくそう思える。そして、もうこれは、誰がなんと言おうが自分のものであると決めていた。彼が持つ、父よりも少ない財産でよければ全て差し出してもいい。それくらい欲しい、手放すべきではない、と今まで感じたことの無い取得欲が湧き上がってくる。
止まっていた時が、今まさにここから動きだす。そんな予感と共に少年を取り巻く景色の色が鮮やかに彩られてゆく。
少年は過去に記されたものばかりを追ってきた。そしてその廻りに戻ろうとしていた。だがそれを否定するかのように新たが現れた。
まっさらな一面が示されている。それを少年は欲していた。
だが許されないと勝手に思っていた。父の全ては兄が継ぐ。己はひっそりとあればいい、と。
ならばゼロから始めればよいのだ。
アンはアンでこの少年が天竜人である、と気づいていた。
独特な衣装を纏っているのだ。間違うはずも無い。だが、外界を隔てるために作られたシャボンの膜も、それを作り出す装置もどこかに落としてきているようだった。使っていると知ってはいても、どう使うかは知識外だ。どうすればいいのか、分からない。
「あの、シャボンは…」
「必要ない。このまま往く」
「どちらから……」
「分からぬ。案内せよ。その栄誉を与える」
アンは手を差し出してきた彼、の望みどおり手を繋ぎ、その場を後にする。
歩きながら子電伝虫を借りてこなかった事を後悔した。もしそれがあれば、すぐにでも連絡を取り、指示を仰げたからだ。
少年は間違いなく、黄猿が護衛している天竜人の息子だろう。通常では考えられないが、黄猿に何かあったのだろうか、と思う。だがもし何かがあれば、既にこの周辺が慌しくなっているに違いない。襲撃を受けたのだとすれば、班が隊になっているからだ。
横を見れば手を繋ぐ聖はご機嫌だった。ゆっくりと視線を真正面に戻す。
聖曰く、追い立てられると気づいたのは男達に囲まれた時だった、という。それまでは人に会いたくなくて、ひたすらに避けて来た。のだと言った。
途中で黒服を着た骸を見つけた。抵抗したのだろうが、多数に無勢だったに違いない。いたるところに朱が飛び散っていた。取り乱すかと思われていた聖は以外に冷静で、先に進むことを要求してきた。
アンは大体の位置を覚え、再び歩き出す。
聖に足は大丈夫かと聞けば、最初は気にするな、と言い、速度が落ちてきた頃にもう一度尋ねれば、おんぶを所望された。
不敬ではないかと尋ねれば、我が望むのだ致せ、と笑み。腹の虫が鳴った聖にDrからもらった飴を渡せば、美味だと喜ぶ声が聞こえてきた。アンの中にあった天竜人像ががらり、と音を立てる。
アンは聖の体温を背に感じながら、黙々と歩いた。
ヤルキマン・マングローブを半株ほど超えた頃だろうか。肩に頭の重みが乗った。四肢からも力が抜け始めている。
疲れたのだろう。
子供の足だけで一株を超えたとするならば、距離にして10キロを超える道のりを歩いたことになる。
最初は子守唄にしよう、と思っていた。しかし口から出た最初の音は T だった。
それは夜空の星を唄ったものだ。
この世界には無い音も含まれているが、眠る子に口ずさむ子守唄だ。覚えてはいないだろう。
アンは久々に発するその韻に懐かしさを感じ、笑む。
きらきらひかる小さなお星様。あなたはいったい何者なの。
少年からはまだ、自身が何者であるかを聞いてはいない。アンがそうであろう、と推測しているだけだ。
間違ってはいないだろうが、まさしく空のダイアモンドみたいにきらきらと光る、小さなお星様。あなたは一体何者かしら、だ。
静かな寝息が聞こえてくる。
アンは班が目指した最終目的地へとゆっくりと走り出した。