空に立ち上る巨大な樹木が立ち並んでいた。陽の光を受け七色に輝くシャボン玉が浮く幻想的な風景に、初めてここを訪れる海兵達から自然と歓声を上がっている。甲板掃除を任された新兵達も仕事を忘れ、近づいてくるその光景に身を乗り出し眺めていた。手のひらで影を作りながら、アンもそれを見上げる。
「あれがシャボンディ諸島」
突然の出航を命じられ、2日かけてやって来た場所は"赤い土の大陸(レッドベルト)"を間近で見上げる事の出来るシャボンディ諸島と呼ばれる場所だった。
シャボンディは厳密に形容すれば島では無い。巨大種であるヤルキマン・マングローブが群生し陸地を形成している珍しい海漂林だ。しかし人が地面に足をつけ、生活を送ることが可能な陸地を形成する場所、という意味で諸島と呼ばれていた。地面を形作る木は全部で79本、それぞれに人々が住み施設が立ち並んで町となっている。
船がゆっくりと海軍の駐屯地が置かれた番号へと近づいてゆく。アンはぶるり、と体を震わせた。武者震いだろうか。それともこれからを暗示した寒気だろうか。
どちらにしろ、シャボンディは海兵にとって鬼門であるのは間違いなかった。
そして幸か不幸か、この艦船に乗る多くが未だにここ、へ向かうことになった経緯を知らないでいる。大将が主に新兵に対し、緘口をしいたのだ。
偉大なる航路(グランドライン)へ配属された海兵たちである。よもや逃げ出すこと、は無いだろうが念にはねんを、というところだろうか。重要事項に関しては場所に到達してから伝えられる。軍隊の末端とはそういうものだ。上が下した判断に従い戦場へと向かうのが仕事である。
東西南北の海に住む人々の多くはシャボンディに関して他人事であった。なぜならば自分たちの生活に直接関わってくることが無いからだ。しかもこの島に関しての情報は新聞単独による案内でしかしらない。海賊を名乗る不法者がその島を目指していると認識していても、そこが海賊たちにとってどういう意味を持っているのか、わざわざ調べてまで知る必要も、その暇も無かった。
四方の海に住む人々はシャボンディが話題に上るたび、こう言うだろう。そんな果てを気にしてどうする。旅行に行くにしても遠すぎやしないか。そして海賊が上陸し、好き放題暴れている記事を目にするたび、同情しつつもここでなくて良かったと胸を撫で下ろすのだ。
海賊もその例に漏れない。
ある程度の情報を集めはするものの、海賊と称される多くは前もって巡航路を選定などしなかった。大概の場合、ノリと勢いで向かってゆく。サボですらそうだった。行けば何とかなるだろう。と、楽観的に物事を決めていた。その他もろもろの教育を受けず、海賊にしかなれなかった者達が烏合となるならば、間違いなくその分かりやすい一本道を選んでしまうのだろう。
探せばあるのに、もったいない。とアンは思う。
海に出るという事は人生をかけた大博打に出るのとイコールで繋がる。下準備無く出発して、どうなるというのだろう。当たって砕けたいのだろうか。価値ある情報は確かに値は張るものの、売買されている。それなのに、その一手間を惜しんでどつぼに嵌る様を見ていると、本当にゴールド・ロジャーがあると宣言したワンピースを目指しているのか、と声を大にして言いたくなる。
幸いなことにアンは知識としてこの島の概要を見知っていた。
そして目的地を聞いた際、最悪だ、と思ったのも否定しない。
しかしながら、世界貴族とは余程のものなのであろう、と認識を新たにする。胸の奥がちくりとしたが、あえて無視し。海軍本部最高戦力と称される対象のひとりを容易く呼び出せるその存在に唖然とした。
この島に来ることが決定し、ほんの少し、楽しみだとした心も否定しない。なぜならば未来、エースと共にここに来るだろうからだ。卓上の知識と実際がイコールで結ばれているとは限らない。直接、物事を知れる良い機会でもあった。今回の件がどう転ぶのか。出来るだけ穏便に、事が進めばいい、とアンは思いながら近づいてくる緑を仰いだ。
上陸の準備を行なうべし、との号令が放たれる。
今回のシャボンディ巡視はやんごとなき世界貴族である天竜人が滞在している間、その身に危険が及ばないよう海軍が護衛を務める事だ。多くが口を真一文字に結び、無言を貫いていた。知っている者達は、触らぬ神にたたりなし、だと心得ているからだ。出来れば近づきたくは無い。この諸島にも任務で来たくはない。しかし黄猿の元へ配属された海兵は、この苦行に耐えるしかなかった。
多くの場合、黄猿大将は単独でこの任務に当たることが多い。わざわざ戦艦を動かし、事に対処するのは余程の事情が重ならない限り行なわなかった。例えば海賊が異常発生し、四方の海では狩りきれず中央突破してここ、シャボンディに集中する時期だけ包囲網を張る等だ。
アンは新兵に混じり甲板掃除に使うブラシを収納した後、行軍の列に加わった。真新しいセーラーの襟が海風に揺れる。視線を上げれば配属されて間もない新兵たちが一様に表情を固くしていた。緘口令の内容で、そうなっているのではない。海兵を続けていれば嫌でも耳に入ってくる。ここが前半の海、偉大なる航路(グランドライン)で最も多く激戦が繰り広げられている地であると何度も耳に挟むのだ。身が縮こまるのも分かろう。そしてアンがふたり組み(コンビ)を組む人物と目があった。両者共に笑みで返し、歩みを進める。アンはかちんコチンに固まる周囲に紛れ桟橋を渡り、シャボンディに初上陸した。
そして作戦が伝えられる。
「ちらほらとねぇ、到着し始めてる新人(ルーキー)賞金首を10人ほどやっちゃうよぉ。用意と心積りは万全にしておくようにねぇ」
船を動かした目的を、さらりと言い終え、黄色ストライプの男はゆらり、と正義の白を揺らし一歩を踏み出した。長らくこの船に勤める海兵たちは、胸を撫で下ろす。この船に着任したばかりの海兵たちは、突然の命令に息を詰まらせた。
なるほど。
アンはひとり納得していた。これがボルサリーノという人物が率いる、部隊であるのか、と。
飄々とし、どっちつかずの正義を掲げる黄猿という人物は義祖父の言うとおり、確かに狸だ。侮ってかかると痛い目を見るだろう。例えば今の命令伝達だ。
ボルサリーノはこの島に来た目的を、天竜人の護衛だと言った。だがこの護衛を海兵に回すとは一言も言わず、海兵には賞金首を狩れ、と命じた。
見せるのが目的なのだろう、そうアンは予想している。呼び出しに託けた、選抜だ。
義祖父曰く、大将という役職は劇薬である、らしい。そうガープ中将が言うには理由がある。
その椅子に座っていられる期間は長い者で15年、短ければ3年もてばいいとされていた。
それはなぜなのか。
義祖父曰く、体ではなく心の問題である。そう言い切った。長年中将職に居れば、伝わってこないはずの情報も耳に入ってくるようになる。かつての日、義祖父に手伝ってくれ、と頼まれてぺらりと覗き見た書類各種に諜報が紛れ込んでいたのを知っている。義祖父は立場的に中将を貫いてはいるものの、実際的には独自の情報網を使い、中将と参謀を兼任しているようなもの、だった。だから元帥は遠まわしにそれを知っているか、と尋ね、ガープ中将の反応で成否を判断している部分も少なからず見受けられた。
そう。中将から大将へ昇格する際、与えられる機密が半端ではない、のだ。
任期が短くなる、責任に対する過重だけではなく、世界の中心に横たわる闇に触れるため、精神が持たない、とするほうが自然か。
ガープが知る歴任の中で、センゴクが元帥に昇格し今の黄色に変わるまで、片手では足りない大将が役職を辞した、とアンは聞いている。
「狸の腹芸も一興じゃろう」
義祖父の声が耳の奥で繰り返された。
別段義祖父もボルサリーノを見下してそう言った訳ではない。腹芸も技能のひとつだ。
内心で舌を出しつつ、義祖父を丸め込もうとした名前の件の追撃に額を弾かれたような感覚だ。まったく、どちらが役者なのか分からなくなってくる。
ボルサリーノは今まさにふるいの上に艦隊を置いた。
これからの数日、黄猿の艦隊に不必要な人間が落されていくだろう。
かつてからこの艦に配属されているものであれば誰もが通ってきた道ではある。だがこれは劇薬だ。
天竜人という存在を知らず、良心のみで海兵になった者には悲壮な選択が待っている。
聡い者ならば、大将が説明する段階で気づいていてもおかしくは無い。
だが黄猿が欲している人員の能力はそれではないだろう、とアンは考えていた。
必要悪。
これを含められる人物を探している。表に漏れ出た闇に触れても踏ん張れる誰かを探しているのだ。
正義の反対は悪だと思いがちだが、実は違う。不義、だ。人の道に外れること、といえば言葉の硬さが和らぐだろうか。しかし人の道とはなんだろう。その定義すら人が作り出している。ならば加えて問おう。
悪、とは何ぞや、と。
そうだ。ソムイタモノを指す。
海軍が掲げる正義は結局のところ、この世を支配する『世界政府』を否定する勢力に対し、正義を行なうのだ。
これを正しく理解し、軍務についている人々がどれだけいるのか。数えてみれば分かる。あっという間に万が百の単位まで落ちるだろう。
悪に強きは善にも強し、という。
ボルサリーノはコレを望み、待ち望んでいる。多くがコレに自力でたどり着き、自身の正しき義を確立することを切望しているのだ。
「ホント、ハードル高いよね」
海軍には志高い人員が多く集まるとはいえ、そこまで達観できる人材などごくわずかだろう。
人間は視野が狭い。広く見渡し情報を拾うのは苦手としている。
「そうでもないようだけどねぇ」
小さな呟きを拾ったその人が横を通る間際、意味深な一言を落して去ってゆく。
アンはそれを聞き流した。
だが周囲は一体何のことだと顔を見合わせている。まさに知らぬが仏、だ。
部隊は規定の人数に分けられ班となり、早速、諸島の各方面へと散ってゆく。
新兵だけを固めた分配はない。上司を見て学ぶ。基本的な叩き上げでもあった。そこで見るだろう。感じるだろう。海兵になってもどうにも出来ない、苦さがあることを。そしてその際たるは黄猿が直々に護衛する、天竜人という存在だ、ということを。
だがそれは意図的に仕組まれていた。できるだけ多くの後輩が残ってくれることを願うばかりだ。
そして幾人かの中に再び紛れ、アンは歩みを共にした。
歩きながら黄猿が語った、ときどきある、というやんごとなき世界貴族の呼び出しについて思索する。
不確定要素が多すぎるが、新たな情報が手に入り次第、修正していけばいいだろう。根本からひっくり返されても構わない。想像し、最悪を回避する手段とする。サボには悪い癖だと言われたが、楽しいのだから仕方が無い。これのおかげで、エースやルフィの暴走をあわや、という段階であったが首根っこを引っ掴んで大事を得たこともある。悪いばかりではないが残念な結果へ転がらなかったのは、もうひとりの参謀が居たからだ。多少は控えるよう頑張ろうと思った。
深呼吸して息を整える。
そもそも天竜人とは特権階級である。諸国の王を束ねる集団が世界貴族である天竜人だ。
ファンタジーで当てはめるなら、海軍が騎士であり、諸国の王たちは領主、世界政府が政を左右する宰相などの政治集団、そして世界貴族が王と例えられるだろう。
しかしここで言いようの無い気持ち悪さがアンを襲う。
王である世界貴族に、責任が課されていない、のだ。だが王である天竜人が持つ権は多種多岐に渡っている。
普通は大きな責務を負うからこそ、その責務を全う出来る様に権が付随されるものだ。
だが彼らは政権に関与していない。世界の頂にあるのに、その全てを世界政府に丸投げしていた。
責務が無いのにもかかわらず、ここまで過剰に盛られた権限に疑問を抱く。
物事とは立体によく例えられる。一方からでは丸にしか見えなくとも、視点を90度横に移動し遠目で見れば、長細く尖った三角円柱であることが分かる、というものだ。その考え方を応用し、アンは真下に潜ってみた。
・・・反対の可能性を探った、のだ。
特権という抗えない楽を与えられ飼われている、とするのはどうだろうか。なんとなく細い糸がよりあう様な気がしないこともない。
そこまで考え顔を上げると、何事かが起こったらしい。前を歩く海兵の腰にぶつかり止まった。
なんでもこの先で幾つかの海賊団が競り合っている、のだという。先行していた班から足の速い数名が戻り、伝達を繋げているという。アンの班でも俊足のひとりが選ばれ、他の班が向かった方向へ走ってゆく。
黄猿艦ではふたりで一組を作り、それを3つ集めて班として定めている。そして班を五つ併合したものを小隊としていた。
各班には子電伝虫が渡されているものの、電波の範囲が狭く、かつ、この諸島独特の地形も相まって使いにくくなっている。そのため班には必ず、伝令がひとりないしふたり、含まれていた。
「分かった。集合地点で待機しておいてくれ。すぐに行く」
かすかな電波を拾い、班の責任者が連絡を取り合う。アンは周囲に異議を唱えず、大人しくしていた。見聞色を多少使えるとはいえ、エースが居ない状態で遠くを聞くのは難しすぎたからだ。
ガープ中将の孫である、と既に黄猿艦の者達は知っている。隠していても人の口に戸は立てられない、と早々にボルサリーノが暴露したのだ。黄猿艦海兵たちの反応は冷ややかだった。それがどうした、と11歳の小娘が本当に使い物になるのか。厳しい目がそこかしこにある状態が続いている。
だがそれがいい。
アンはひとりほくそ笑んでいた。
もし中将の孫だとし、担ぎ上げて来ようものなら幾人かに喧嘩を売ろうかと思っていたのだ。
義祖父の七光りがあっても、使うつもりは毛頭無い。さりとて侮られているばかりでは癪に障る。ただ海兵となり、あの島での生活が普通とはかけ離れていること、前半戦だけならば十分と通用する、それが分かっただけでも収穫といえるだろう。
集合場所には3班が集っていた。
到着すると丁度、早駆けができる斥候が帰ってきた直後だったらしい。小隊の態を成し始めた集団は大尉を指揮官に作戦を練り始める。
海賊は全てあわせ、ざっと100名余り。手配された顔は無いが、この諸島までたどり着けた海賊たちである。手を抜くような真似は出来ない。
「大将は予定通り、天竜人を迎えに行かれている。手を煩わせぬよう、一気に叩きに往くぞ」
伝達された作戦は、両海賊の頭、主力を叩く押さえるものだ。数が多い末端をいちいち始末しては、圧倒的に少数であるこちらの消耗が激しくなる。
海賊同士が争っているが、海軍を見るや共闘してくる可能性もあった。だがそもそもが烏合の衆である。
中心人物さえ捕らえてしまえば、自然と散っていくだろう。・・・海賊の生死は問われなかった。
戦いが始まる。
先制したのは海軍だった。黄猿がピカピカの実の能力者であるからだろうか。遠距離射撃を得意とする狙撃手が多く在籍していた。シャボンを体に巻きつけ、苔むした幹の影から的目掛けて弾を撃つ。数にして15、その銃声が秒を合わせれば大砲のごとく響いた。
喧騒が静まり返る。そして音の元を探すよう指示する。それが隙となるのだと知らずに、だ。
生まれた空白を指揮官は上手く利用した。海賊がやきもきとしている間に、各個撃破してゆく。
遠距離攻撃を持たないアンは、その様子を見ていることしか出来ない。組となっているもうひとりもそうだ。接近戦を得意としており、遠方射撃が主な今作戦に関しては主役の彼らの補佐に回る。
だがこの戦い方は道理に合っていた。わざわざ真正面に立ち、堂々と立ち会うなど、どこの熱血漢だ。
海軍は海賊との戦いに限り、勝たねばならない集団である。これが国同士の戦いであれば奇襲を卑怯だと罵る声もあるだろう。だが相手が海賊に限り、そららは黙殺される。
小隊はいくつもの物言わぬそれを作り出した。そして静かになった跡地でひとつづつ、袋にそれらを詰めてゆく。作業を手伝いながらそれらをどうするのかと問えば、焼くのだと言う。
もくもくと作業を続けていれば、手元が暗くなり始めていた。見上げれば空が茜色に染まり始めている。
アンは自身の名を呼ぶ声に応え、走り出す。
時は夕方より遡る。
天空に最も近い場所から下りて来たのはいつも黄猿を呼び出す顔ではなかった。
サングラスの裏で、密かに目を細らせる。ボルサリーノに追随する兵たちは黄猿が選び抜いた精鋭たちだ。よもやの事態はないだろうが、注意を怠るべきではない。
天竜人とはこの世界における頂だ。800年前世界政府を作り上げたという20人の王の末裔であり、その血筋を今に伝える尊き存在として敬いの対象とされていた。
その言はなによりも優先され、聖地以外に住む人々を賤しめ下々民と呼ぶ。そして下賎とする身をよく好み、望んだ。天竜人と呼ばれてはいても、受肉した生き物である。その欲求を満たすために、更なる贄を欲しがってはこの諸島へとやってくるのが常だ。
黄猿はいつもとは毛色の違った世界貴族に違和感を禁じえなかった。
その引っ掛かりがなんであるか、までは分からない。わからないがこの感覚は不愉快であった。
ボルサリーノは大将と呼ばれる役職に就いた初期から、この役目をほぼひとりで負ってきた。
もともとは平等な分配だったという。しかし天竜人という存在に関わった多くは良心の呵責により意図的に避け始めた。3人しか配置されないそれぞれに押し付けあい、関係を壊していった。
かつて黄猿というふたつ名を貰い、大将という役職に就いたばかりの頃、後に青雉が座す地位にあった者がボルサリーノへと天竜人に関する情報の譲渡と共に、あと数ヶ月で職を辞すと伝えてきた。それまでに慣れてくれという旨意だった。苦心してきたのだろう。肩の荷を下ろす準備が終わっているためか、以前会った時よりも表情が柔らくなっていたようにも思う。
今でもそうだ。
ボルサリーノよりも早くに大将となった赤犬は呼び出しが来るだろう頃を見計らい、新世界を半周する巡視に出かけ、青雉もよからぬ気配を察知し単独、自転車に乗ってどこかに視察に出かけてしまう。どう足掻いてもお鉢がこちらに回ってくるようになっているのだ。そして船を使わず、召集がかかった時点で即、向かえるという能力もあつらえ向きだった。
政府の一部では近年まれに見る、天竜人を手玉に取れる男、と密かに揶揄されていると知っている。
だが元を辿れば世界貴族の御用聞きは政府役人の職分だった。否、今でもそうだ。しかし楽を覚えた役人はただの付き添いと化している。本来ならば護衛任務に就くだけの技量を得なければならなかったが、それらをすべて海軍へ丸投げした。きっかけが何であったのか黄猿は知らない。だが50年間も代行していれば既成事実も成立する。
「聞いていた通りじゃ、私を待たせおって」
黄猿はその問いかけに答えず、黙ったままその膝を折る。追随していた海兵もそれに習った。
「まあよい、行くえ」
天竜人は跨いだ人の腹を蹴った。
のろのろとそれが動き出す。不条理の行進が始まったのだ。
△▽△▽△▽△▽△▽△▽
-----時は数日前に遡る。
「シャボンディ諸島、ですか? 諸島には行ったことが無いですね」
とある休日の夕暮れ。
アンは台所から上官、兼、居候先の家主へ答える。
入隊からしばらくのときが経ち、英雄の孫を見る目が少しずつ変化の兆しが見え始めた頃、瞬間移動、というアン独自の能力について海軍内では物議を醸していた。
論点はたったひとつ、なぜ実を口にしていない人間がそのような力を持っているのか、だ。
海軍はアンの体を徹底的に調べようとした。外道な手段は今のところ、とられてはいない。ガープが中将の権をもって、徹底的に排除したのだ。クザンもそれに同意し、手を貸していた。くすぶってはいるが手を出せない状態、である。
ガープは本来、己が自由に動ける以上の地位や権威に興味を示さない人物だ。幾度大将への昇格を打診されても頑として首を縦に振らなかった。誰もが望んで果たせない役職を、必要ない、と断り続けている程だ。
だからセンゴクは瞼を閉じた。孫娘は故郷の島でひっそりとその存在を隠し育ててきた玉だ。傷ひとつでもつければ、眠った獅子が目を覚ますだろう。お互い老いたとはいえ、牙までは抜かれてはいない。センゴクは苦肉の策として元帥権限を発動させ、人道的見地から、本人の意思を無視せず行なわれる検査のみを勧告、とした。
上記の理由から、多少血を抜かれたり医療塔に数日間監禁されたりはするが、皮を剥がれたり、手足を切り刻まれたりはされていない。
便利なその能力が、もし何らかの媒体を仲介して他にも分け与えることが出来たならば。
様々な憶測が立てられ、本人のあずかり知らぬ場所で背びれと尾びれがついている。
利用を目論む勢力がじわじわと魔の手を伸ばしては来ているが、その全てが今のところ、青雉の手によって凍らされている状態だ。
アン個人としてはなんともし難い状態であった。
能力を研究するのは良いだろう。だがアンは海兵として、世界を知りにきた。研究者の知的欲求を満足させる実験動物になるために義祖父に手を引かれて来たのではない。
だが義祖父もクザンも組織の中に組み込まれた駒である以上、上部組織の命令は絶対だ。任務で引き離されてしまえば、アンの身を守ってくれる盾がいなくなってしまう。由々しき事態の出来上がり、である。
誰にも侵されない、絶対的な何かが欲しかった。
「一度行けば、まあ、はい」
続いての問いへは曖昧に濁す。
ドーン島に居た頃、アンはこの能力を頻繁には使用していなかった。その主な理由は疲れすぎる、に終始する。島内部を移動するだけであれば走ったほうが疲労の面でおつりがきたからだ。
瞬間移動の利点は一度訪れた場所であれば、現在地の真裏であっても行くことが出来ること、だろう。
そんな便利な能力だが、使用に関しての制限があった。『一度でも』という文言がみそだ。能力の暴走が無い限り、実際に地に足をつけた場所、という制約が付く。また、物質の中に入り込むこと、も不可だった。人に限らず物には存在概念がある。その形を侵すことは出来なかった。水の中、を例にあげよう。シャボンで空間内部に気泡のような体を収められる空間がある場合は飛んでいけるが、シャボンディにある巨大なマングローブのようにしっかりと実(じつ)が詰まった物質の中には入っていけない、のだ。
アンはコンロから土鍋を下ろし、バスタオルでぐるりと巻き始める。炊飯器で炊くほうが楽ではあったが、今日は久し振りの休日ということで、一手間かけて夕食を作っていた。
客人が来る。そうボルサリーノに聞いていたため、久々に腕を振るったのだ。
蚊取り線香の煙がゆらゆらと風に揺られ立ち上ってゆく。
開け放たれている家屋の縁側には、日本酒を片手に枝豆や塩辛をつまむ黄猿の姿があった。
「おお、いらっしゃい」
「入るけぇ」
声が聞こえ、アンは居間を覗く。するとそこに居たのは着流し姿の赤犬だった。
目がぱちくりと瞬く。
赤犬といえば、海軍内で過激派をまとめる牽引役としても有名である。黄猿の立場としては、海賊と名乗るもの全てを殲滅し尽せば世界は平和であるという急進派と、海賊であっても人であるのだから捕らえ生きたままその罪を償わせるべきとする漸進派の中間ではあるものの、個人としてはサカズキ大将と仲が良かった。
「うまげなのう。ちょっとくれえや」
「いいよぉ。けど食べ過ぎないようにねぇ」
今夜の夕餉はご馳走ばかりだ、とボルサリーノが続けると、きつく結んでいた真一文字が少しばかり崩れた。
アンは新しいお猪口とつけものを5品ほそ器によそい、ふたつの背に向かった。並び、すだれの影で杯を酌み交わしているそれぞれをただ見ただけでは、海賊なら誰もが恐れる大将であると誰が思うだろうか。
両者は言葉無く、ただ静かに酒を酌み交わしている。
アンはサカズキが苦手だった。
表情が怖い、というわけではない。強面を語るならば、まずは義祖父からだろう。
大将、赤犬に抱く感想は、近づきたくないほどの怒気を放つひと、だった。理由は分からないがいつも何かに憤っている。
人間とは面白い生き物で、どんなに強い怒りを覚えても、随時ではいられない。どこかで小休止置かれ、再びその感情が顔を出す。しかし赤犬は違った。眉の間に深く刻まれた皺には、何かしらの原因があるのだろう。しかしそれに関し、どうしてなのか、と聞けるほど赤犬との接点も良好な関係も無かった。
ただ会うたび、心が締め付けられるように、痛むのだけは確かだ。
器を置き、頭を下げて立ち上がる。
「うまい、よーつかっちょる」
箸を伸ばした先は昆布の塩煮ときゅうりを漬けたものだった。ボルサリーノが甘口の酒を好むため、あてのほうが辛味となる。
「だめだよぅ。アンはウチの子なんだ」
「年ごとじゃけ、次はわしが貰い受ける言うたじゃろう」
席を立ち、台所へ向かうアンの背に、そんな会話が流れてきた。
そう。アンの異動が正式に決まったのだ。
本来は配属された艦から、階級が上がっても離れることは少ない。無い、のではなく少ないのは将校へ昇格が決まった際、戦力が不足している艦隊、または偉大なる航路(グランドライン)内の支部へと移る場合もあるからだ。
アンに関して、だが海軍上層部の評価はまずまず、といっていい。黄猿が取りまとめる艦隊に限ってだが、下士官からも慕われているようだった。己たちよりも低いはずの年齢を、精神的な成熟で賄っている様を嫌う者たちも居るが、能力の高さ故にに迂闊に手が出せない状態であるという。
海軍もさまざまが集まっている集団だ。全てに気に入られ、好ましく思ってもらえるなどありはしない。あからさまな態度を示す者は居ないが、陰口は日の当たらない場所で積み上げられている。
これらに対し、アンの対応は『特になにもしない』だった。
嫌味や皮肉など、人間であれば誰しも口にするものだ。一度たりともした事がない、は嘘だろう。もしそれが本当であれば、心根が純粋な正義感溢れる輝かしい人物である。出来ればそのまま、穢れを知らず万進して欲しいと願うばかりだ。
しかし人間とは他人を羨む。隣の芝は青い、ということわざがあるくらいだ。
疎ましく思うはずがない。なんと人間味ある行動なのだろう。そう思っていた。
出来るだけ自然体でありつづける。アンはそう決めていた。
相手の希望を叶えるために自分を変えるなど、本末転倒もいいところだ。
アンの性格が辛らつで、嫌われるべくしてそうなるもの、であれば変える努力をしなければならないが、今のところは問題なさそうだ、と踏んでいる。
一年ごとの引越し。
出来るだけ荷物を増やさないようには頑張っているものの、私物は着々とカサを増していた。特記すべきはその書物の量だ。ドーン島では手に入らない、専門的な知識が詰められた英知が本屋の棚に当たり前の顔をして鎮座していたのだ。手が伸びないわけが無かった。
一度島に戻り、本棚を増設しなければならない必要性に駆られている。
住居については未成年だという事で寮への入居は見送られていた。もう少し年齢が上がれば一人暮らしもできるようになるだろう、との配慮であったが、ふたを開けてみれば炊事、洗濯、清掃、何でもござれ状態だ。裁縫は多少苦手だとしていたが、ボタンが取れてしまったくらいであれば簡単に補修出来る。何も問題は無かった。しかし未成年という一点につき、特例ともいうべき黄猿の家に居候となった。そのため次年度の異動はそのまま、居候先の変更となる。アンは義祖父の家に入れないかどうか、今度会った時に聞いてみよう、と思っていた。なぜなら上司と共に暮らす、ということは、その人物と親しくなる確立が上がる。アンは海軍で過ごす期間を3年と決めていた。だから余り、親しい人物が増えると困る事態となりかねなかったのだ。
またボルサリーノという上司はアンを艦内全てにたらいまわし、した。
それは適正を調べるための行脚と言ってもいい。一体何に適正があるのか。実際にこれが得意だとし入隊してきた人員でも、他の部門で能力を開花させた例もある。艦の中に存在するいくつもの部署に各10日、様子見をしながら入れ替えた結果、どれもこれも平均値より多少上ではあるが、突出したものはなにも無かった。簡単にいえば、器用貧乏、なのである。さまざまな分野を知ってはしていても、どれもこれもが中途半端という結論が出た。
黄猿としては悩ましい配置であった。どこに行かせたとしても、中央値は必ず持って帰って来るだろう。だが、これといった特性がない人物ほど扱いに困るのものだ。海兵となった多くを見てきた黄猿が思慮するに、指揮が向いているわけでもなく、突撃に特化しているわけでもない。かといって文官として据えるわけにもいかず、全く困った采配となった。
結局、悪魔の実を口にした能力者と同格ではなく、その他大勢の中に紛れ込ませることとなった。英雄の孫だけあり、銃器を手に戦う一般とは明らかに基礎能力が違うものの、能力者と比べると劣っている感がどうしても否めないのだ。
だがこれが嬉しい誤算へと繋がった。
誰もが最初、こんな子供が背伸びをし海兵などになっても使い物にならないだろう。と彼女に向けられた第一印象はそれだった。
賞金首を拿捕した情報は流れていたが、人の噂を鵜呑みにする者が少ないこの黄猿艦では、伝わるうちに話が大きく膨らんだのだろう。という評価になっていた。ところが実地訓練に入った途端、その真価が発揮された、のだ。
すさまじい、と言ってよい耐久を見せた。聞けば毎日野山を走破していたのだという。瞬発力に関しては中の中だが、距離が伸びれば同じ速さで走り続けられる少女に軍配が上がるだろう。それほど少女の足は艦の誰よりも強靭だった。
しかし数名が立ち上がる。11歳に負けてなるものかと、追い上げを始めたのだ。最初は見ているだけだった多くもそれに引きずられるように後を追い始め、結果的には奮闘するものの生まれながらの野生児には一歩及ばず、脱落者が続出した。
ボルサリーノは兵を指揮する立場からその様を見、少女に下していた評価を取り下げねばならなかった。
まさしく少女は、英雄の孫であったのだ。その背を追い、引きずられる。知らぬうちに感情を引き出されている。好悪関係なく、気になって仕方が無くなる。それは現在、海軍では最も必要とされる能力だった。人々を先導してゆく力、それを彼女は、その祖父と同様に保持していた。
どう成長していくかは采配に拠るだろう。肩へ重圧が一気に押し寄せてくる。だがそれもまた楽しみのひとつとなった。
そんな中、決まった遠征だった。艦に伝えられたのはシャボンディ行きの通知だ。
目的は知らされなかった。
「もう連れて往けと」
「仕方がないよねぇ」
声音が重い。
海兵は世界政府の下部組織だ。だが天竜人は絶対的正義の外側に存在する特権だった。
世界貴族はなにものにも縛られない。世界の全てを自由に出来る権利を保障されていた。政府に加盟する王たちであったとしても、天竜人に気に入られたならば隷属しなければならなかった。だが唯一海兵だけはその身を奴隷に望まれても恩赦される法が施行されている。
だが海兵は例え天竜人に銃でその体を撃ち抜かれても、不平を口にしてはいけない。
どちらにしろ、天竜人とは多くにとって理不尽の塊であった。
夕食はつつがなく終わった。アンは皿を洗いながら、作り手冥利の完食に笑みを浮かべる。
身を崩さぬまま瀬戸物にのせられた鯖の味噌煮と豆腐とわかめの澄まし汁、酒が進むであろうあてを縁側で箸をすすめていたものとは別の幾つかを並べ、少量づつ盛った野菜の和え物が食卓に置かれた。
食事風景は他愛も無い。誰もが無言で食を進めていただけだ。
だが空いてゆく皿が気に入ってもらえた証ともいえる。アンは満足していた。
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そして夕焼け空は闇の帳に閉ざされる。
揺れが止まったのを感じ、アンはゆっくりと瞼を開いた。荷台に乗せてもらえたのは、思いがけない幸運だった。日が落ちると途端に眠くなってしまうのだ。どんなに大人であろうと努力しても、体の欲求には逆らえない年齢だった。
あくびを噛み殺しながら班に加わり、耳を側立てていると、黄猿大将はまだ駐屯地に戻ってきていないようだ、と聞こえてくる。
だが今日の終わりも近いのだろう。各方面に散っていた班が次々と駐屯地へ戻ってきていた。
小隊はボンシャ(車)を使い、詰めたそれらを往復運搬し続けていた。袋が積み重ねられ、山となっている。
駐屯地に勤務する者たちも荷降ろし作業に手を貸してくれていた。夜勤との交代が終わった人員がそのまま、補強員として入っていたのだ。
「あー、なんか気が重いわ」
「やっぱそうだよなぁ。毎日ではないが、こう立て続けに降りてくると堪ったもんじゃない」
作業をしながら小さく愚痴が吐かれていた。
多くが黙々と手を進めているが、誰もが同じ気持ちなのだろう。無意識に首を振っている幾人かが居た。
この島では天竜人の悪口(あっこう)が法で禁止されている。敬愛されるべき血族を貶めるなど、許されるべきではないからだ。しかし現状、捕まったとしても軽度な罰金刑で終わっていた。
なぜなら統治している行政が政府に言い訳出来る様にするための法であるからに他ならない。シャボンディ自治として、不届き者はきちんと罰していますよ。という形式を保つための外形だった。
島に駐屯する海兵たちは鬱憤のはけ口を探すようになってゆく、という。それだけこの地で勤めると心身ともに疲弊するのだろう。世界政府の横暴を止められず、本来手を差し伸べるはずの、助けを呼ぶ住人たちをなぎ倒さなければならない。それが仕事でもあった。
駐屯地を任されている将校は、海兵たちのそれらを聞かぬ振りをしていた。良くない傾向ではある。だが全てを禁じてしまうとこの島に留まる海兵が居なくなってしまうのだ。
「滞在期間どれくらいだろうな」
「さあて、分からん。分からんが・・・」
目的は末の息子である聖の誕生日祝いであるらしい。推測であるのは又聞きである事ともうひとつ、本当の目的が表沙汰になれば襲撃される恐れがあった。そのため情報が伏せに伏せられていたためだ。
かつて、はこのような心配は無用だったろう。なぜなら天竜人に危害を加えようと企む輩など存在しなかったからだ。世界貴族と聞けば誰もが畏怖し、近寄るのも憚る存在に祭り上げられていた。長い年月をかけ築かれてきた固定観念により、手を出すなどもっての外、となっていたのだ。
しかし、今やそれが脆くも崩れ始めている。
事の発端は紛れも無く、フィッシャー・タイガーの聖地襲撃後に放たれた宣言だろう。そして規模を拡大し続ける、解放軍と言う名の組織が触らず、と決められていた牙城に杭を入れ始め、世界政府とは違う情報を放出している事実だ。人々は疑問を抱え、考えるきっかけを得た。
・・・とはいえ、多くにとって天竜人は物語の中のひとと変わりない。無関心と言っても過言ではなかった。なぜならば天竜人は雲の上の人、であり一生に一度、その姿を目にするか否か、という遭遇度なのだ。
が、この島は違う。
四方の海ではその姿を一度でも拝めれば、一生の語り草に出来るだろうが、このシャボンディでは頻繁に、それこそ月に一家族という頻度で足しげく通ってくるため、誰しもがその姿を日常的に知り、生活と密着している。
ではなぜこの島に天竜人がやってくるのだろうか。それは聖地から天竜人が世界政府下す、複雑な手続きを必要とせず、気軽に訪れる場所だから、に他ならない。
住人たちにとって海賊も天竜人も等しく人災であった。しかし天竜人が島に来るのを住人は黙認している。どちら共に歓迎はしていない。だが、島民にとって海賊は邪魔以外の何者でもないが、天竜人は実利をもたらす客であった。
なぜならば天竜人は個人で動かない。必ず集団となってやってくる。護衛は海軍が担っているものの、その言を繰り返し、肯定し実行するのは世界政府の役人だ。日帰りならば少人数だが、宿泊となればそこに日々の世話を行なう用人が列を成してやってくる。世界貴族とはいえ当然、行動に関わる金銭は発生した。
シャボンディで暮らし、商売で生計を立てている人々は、天竜特需、とにこれ呼称し、密かに諸手を挙げていたのだ。
海兵にとっては胃が痛んで仕方が無い状態ではあるものの、住人達にとってはある意味、巨万の富を手に入れる機会でもあった。天竜人の気まぐれと怒りにさえ触れなければ、それに付属する多くから日々の何十倍という恵みを受けられる。しかも海兵が護衛に入るため、島全体の安全性も高まり一石二鳥だった。
そう、目には見えない需要と供給、そして裏で動く巨大な金銭により、この島は成り立っている。
海賊にとっては天竜人はどうでもよい存在ではある。だが海軍がその護衛に入ってしまうと、最早のっぴきならない。コーティング作業が終わるのを気を揉みながらただ静かに待つしかなかった。そうでなければ、ここで目的が絶えてしまう。彼らは様々な危険を冒しながら、前半の海をようやく終えたのだ。海賊は魚人島到着の夢を見る。そしてその先に至れる未来を切実に願っていた。それを些細な争いで棒に振るなど、誰も望まない。よって天竜人が来島し、海兵が護衛任務につくとこの島の住人達は忍びやかに拍手している、状態なのだ。
海兵は直接それを聞かずとも島の雰囲気で、そうなのだろう、と感じ取っていた。
だから海兵は天竜人という嵐が過ぎ去るのを待つしかないのだ。それが駐屯地に送られてきた者達が悟り、伝え続けている最善の、得策であった。
白の光が照らす駐屯地は昼間のように明るい。しかし一歩でも壁の向こう側に出れば深い闇が横たわっている。
そこへこの基地には不似合いな、ランタンを灯した荷馬車が到着した。門前に立っている海兵とは顔見知りのようで、挨拶を交わしそのまま中へと入ってくる。
「おおい、ここでいいかね」
「ああ、そこらへんに置いて貰ってかまわないよ」
アンはどさり、と聞こえた重量物が地面に落される音に振り返った。
「娘さん・・・海兵さんでも見んほうがええ・・・」
目が、合った。
そしてアンが詰めた、同じ袋の隙間から一筋、長い髪が垂れ下がっていた。
被害者、だった。
天竜人に出会った場合、人々はその場に膝をつけ頭を垂れなければならなかった。決して世界貴族を注視してはいけない。この諸島に住む人々であれば誰でも知っている決まりごとだった。
海兵でもそうだ。基本的に無礼講が許されていたが、階級が大佐以下であれば天竜人の気分次第で膝を地につけなければならなかった。
アンはその光景に立ち尽くす。
ここでも人の命が、こんなにも軽く扱われている。なぜなのだろう。
感情がいう事を聞いてくれない。
詭弁だと知っている。だが、それでも中央に近い場所くらいは、位高ければ徳高きを要す、を行なうべきではないか。長く続く統治だからこそ、人々の安寧を、指し示さなくてはならないのではないか。
腐敗と呼ぶのも甚だしい。
怒りを通り越し、脱力感がその身を襲う。
ああ、そうか。
アンは夢でみるような、ふわりとした感覚の中に浮かぶ。浮かんで周囲を見た。
景色が歪み、アンを中心に黒が渦を巻く。
世界は既に歪み捻れきっているのだ。知られたくない秘密を闇の中に隠しておくため、さらなる闇を作り人の目をそちらに引き付けている。人々は精神を圧迫され、遠くを見なくなっていた。近い場所ばかり目を凝らし、生き残るために必死になっているのだ。遠くから眺めることが出来るならば、どれだけこの島が不規則な曲線に晒されているかが分かるだろう。
シャボンディの人々は自分よりも不幸な人間が居る。だからまだ、自分は大丈夫なのだ。そう思い込まされている。それを卑怯だとは思わない。そうした政策は、アンが知る過去の事例でもとられていたからだ。
この諸島に垂れ流されている闇は深い。はるか上空にある深淵から伸ばされている数多くの触手の先端がここに伸びている。さながら聖地とは名ばかりの、憎悪製造機の檻だ。
だから奴隷、という身分をわざわざ作ったのだろう。生まれや身分関係無く、所持できる特別な者達に敵意が向くように。よく出来た制度だ、とアンは思った。
だが、その一方で奴隷全てがこの制度を忌んでいるわけではない。救済されている多くも、ある。
奴隷と言う身分は、両親があり衣食住が揃った環境で、教育を受け成長した人物であれば厭うだろう。しかしもともと住む家も無く、汚泥が沈んだ上澄みの水溜りをすすり、固くカビが生えたパンを齧っていた、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)のような場所で暮らしていた者達であればどうであろうか。
飽きられれば、見世物としての価値が無くなれば競にかけられ、手放されるだろう。しかしそれまでは温かな寝床と栄養のある食事が保障されるのだ。飢えることも寒さに震えることも、体を苛む痛みも無い。
ゴミ山で暮らしていたあの幼子たちと似たような環境にあるものたちは、笑ってその首を差し出すだろう。
己の身を不幸だ、と感じられる者たちはまだ、幸せなのだ。明日からはきっと、多くが目にする。
「おい、おい、娘さん、大丈夫か」
「あ、はい、大丈夫、です」
アンはオウム返す。
少しだけ頭の芯がずきり、と痛んでいたが、我慢できない程ではなかった。
海軍は確かに、正義の名のもとに人々の暮らしを守ろうとしている。入隊を希望する人々は、弱きを助け、悪を挫く正義の二文字に憧れと希望を抱いてやってきていた。ただ世界は正と不、善と悪と、明暗の二つで分けられるほどシンプルな作りをしてはいなかった。光が強ければ強いほど、闇もまた濃くなる。そして長い年月の末に白と黒、そのどちらにも属さない勢力が出てくるのは致し方無い流れでもある。
つまるところ、海軍と海賊は、属する組織の有無と名が違うだけで、同じ穴のムジナなのだろう。
アンの目には公か私か。国か個人か、の差にしか見えなくなっていた。
だからと言って楽の誘惑が強い悪の道に進めと誘っている訳では無い。自分が信じる道を、しっかりとその両目で確かめて選択してゆくしかないのだ、と声を大にして云いたいのだ。
その功(いさおし)を海軍で成そうとするもよし、どちらの色にも染まらず、灰色の路を進むもよし、己の身ひとつだけで成りあがろうとするも、あえて闇を背負うもよし、なのだ。
もしアンが天竜人に囚われたなら、間違いなくエースが死に物狂いで奪い返しに来るだろう。
己が身を滅ぼしたとしても、殴りに来る。それはすごく幸せな事だ。
「アン准尉、船に戻るぞ」
「はい、了解いたしました」
上官の声がいくつも重なり黄猿艦の者たちが帰投し始める。手にはランタンが揺れ、幾つかの明かりが固まって進む。見上げた空には月が細くあった。
今夜ばかりは悪夢すら手のひらで転がせそうだと、自嘲気味に下限の月に笑いかける。