16-海軍本部
16-海軍本部
ウォータセブンから数日で、本来の目的地へと到着した。
青い海の中に三日月形の島があり、その上にはどっしりとした大きな山があった。それに沿うように海軍、と大きく書かれた文字が描かれた建物が中央にそびえ立っている。
壮観だった。夜更かししすぎて眠い目もぱっちりと開く。
水の都も綺麗な街並みをしていたが、頑丈であれと造られた、どっしりとした本部の姿はさすがに目を見張った。
日の当たる時間に甲板に出るのも久しぶりだ。きらきらと光る青のまぶしさに目を細める。
本部に着くまで最低限の訓練と雑用を終わらせると、船底にある牢でいろいろな話をするのが日課となっていた。昼ごはんも皿に積んで下に持って行き、トムと一緒に食べる。大きな体をしている割にはそんなに量を必要としなかったため、アンが持ちこむ量で充分だった。
「心配するな。CPには渡さん」
裁判の夜、アンは義祖父に全てを白状させられていた。
だから短い航海の最中、アンが船底へ通うのを止めなかった経緯(いきさつ)がある。
夜の鍛錬だけは変わらず続けていたが、エースからは今回の件に関して、やっぱおれ海賊の方が気楽だ、と言わせてしまった。海軍の全てが汚れている訳ではない。ただ白いままでは処理できない、大人の事情といういろいろがあるのだろう。
無い方が望ましいけれど、組織を運営する為、社会生活上、やむを得ず必要とされる物事---必要悪もまた世界にはある。物事の表裏だ。そして兄弟と共に暮らしていたあの地域はその裏側にあたる。裏側で暮らしてきたエースやアンにとって、表の綺麗さは取り繕らわれたニセモノにしか見えないのだ。
エースには思うがまま、やりたいようにすればいいと、それだけを初日に念押しされた。
そのほかは他愛の無い、ルフィーがワニにまた丸のみされたとか、幼い頃に放り投げられた谷に向かっているだとか、マキノが服を届けに来てくれたとか。
森での生活を、瞼を閉じれば思い描く事が出来た。
(そういえば"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"に人が戻って来てるって言ってたのは?)
(ああ、お前が言ってた通り、ゴミの投棄が始まったんだ。門が開いてる間は軍隊が銃を撃ってくるけど、ありゃ威嚇だな。締まった後に生き残った奴らが漁ってるみてェだぞ)
ふぅん。
焼かれてから2カ月、でもまあそんなものか。とアンは指折りながら片手で腕立て伏せを続ける。
(あとルフィが剃を覚えたぞ。次は空を飛ぶんだと張り切ってる)
(わたしやエースも使うから、時間の問題とは思ってたけど)
弟は動体視力が小さな頃から優れていた。しかし体がゴムであるため普通の肉体を持つ人と同じ訓練をしても習得には至らなかったのだ。能力の特性を生かし伸縮、を傾ける術を考えだし、手にしたという。
(発想の転換、柔らかいね)
(まぁな、体も温まっただろう。さっさとやっちまおう。今日は大分走ったんで眠ぃんだ)
そして船が着岸する。離陸準備をし港へ降り立った。
船は3日の停泊後、新たな航海に出ることが既に通告されている。
アンは海兵達にまた明後日、と挨拶をし義祖父と共に本部へと向かった。石畳が続き、堅固な要塞でもある本部内部へと入ってゆく。
まず通されたのはガープの部屋だった。
なぜか途中から義祖父に抱えられて部屋まで連行されると言う、意味不明な事をされてしまい、今はちょこんとひとり取り残されていた。
戻って来るまで待っておれ、と言い置かれ、それきりだ。
待っている間は茶でもせんべいでも好きに飲み食いしても良いと聞いていた。
部屋は思いの外、綺麗に清掃されていた。それはそうだろう。一応、中将殿の執務室なのだ。ぱっと見の外見からは想像できなかったのだが、外と中のイメージが違った。内装というよりは、中見まるっと洋風の雰囲気が漂っている。全体としての外観はどちらかと言えば中華風の佇まいをしているのだが、義祖父の部屋に持ちこまれた中身はほぼ和風。なぜ畳が執務室に敷かれているのかと不思議に思えば、義祖父はカーペットが気に入らなかったらしい。海軍本部は外と内、そして各部屋の中身がてんでばらばらと言う不思議な建物だった。
二間続きの隣を覗いてみると、簡易の宿泊所になっていた。
布団がひきっぱなしになっていたので窓を開けて干してみる。
見栄えが悪いとか苦情が来るかもしれないが、受けるのは義祖父だ。気にしてはいけない。
トムは本部内にある牢に投獄されると聞いていた。
ボガード副長が責任をもって連行すると、目深にかぶった帽子から優しげな目を細めていた。だからそれを信じること、にしたのだ。長年、ガープ中将を見続けているのだ。嘘はつかないだろう。
ちなみに義祖父以外が身柄を引き取りに行っても、出さないという手続きにしているという。
本当ならばすぐにでもここを抜け出し、トムの下へ行きたかった。船で出来るだけ一緒に居たのは、気配を覚えるためだ。誰もが違う雰囲気を持っているように、ひとりひとりが纏う気配も違うのだ。
距離的には遠い。
地理が不明確であることも不利な要因だ。世界中の海兵を一括している本部だ。まっすぐ向かっても、まず目的地には着かない。所定の廊下を通り、階段を下り、設置されている場所だと推測できる。
こっそり抜け出して会いに行ったとしても、すぐには戻って来れないだろう。
自身の目で確認したいがしかし、ここは義祖父を、ボガードを信じて待つしかない。
こういう時、人の心が読めたならばどんなにいいだろうか、と思う。内心が分かれば、会話するのも楽そうでもあった。
見聞色の使い手になれば、これらが出来るらしい、とも聞いている。
テレパシーの一種かとも考えたが、まるで漫画の世界の再現のようで、どこかわくわくともしていた。
アンはお茶でも淹れるかと、動き出す。じっとしているとお尻のあたりがむずむずするのだ。落ち着きが無い、と言われるかもしれないが、じっとしているのが性に合わないのだ。
そうして戸棚の中を捜索しはじめる。
まずはやかんを発見。水を入れコンロに乗せて沸かしておく。
茶葉は大きめの缶の中に山盛り入っていた。それを急須の中にいれ、沸いた湯を注ぐ。上にかけるのは蒸らせるための布だ。
しばし放置しておけば、美味しい緑茶が出来るだろう。
窓からは温かな風が流れて来ていた。暑くも寒くもない。
"偉大なる航路(グランドライン)"に分布する島国は、春夏秋冬という4つの気候のうちどれかを基本として持っている。4つの季節が頻繁に入れ替わると言う自然環境の厳しい場所もあるらしいが、たいていは基本気候から揺らぐことは無い。
となればこの島は春か秋、なのかと考えながら、お菓子がありそうな棚をがさごそと探す。
かりんとうと、しょうゆせんべいが見つかった。そのほかチョコレートやビスケット、飴類、そしてなんのために収められているのか、干し草まである。
考えた結果、袋を開けたのはかりんとうとしょうゆせんべいだった。木の大きな器をすすいで綺麗に水気を拭き取り、中に形を整えながら入れる。
これでいつ義祖父が帰って来ても、ゆっくりお茶が飲めるだろう。
ソファーで早速入れたばかりの緑茶をすする。
飲み慣れた味ははやり格別だ。コーヒーもあったが、実は牛乳が無いとあちらでも飲めなかった。紅茶ならばストレート可能だが、コーヒーだけはどうも舌が受け付けない。
コンコン、とノックの音が聞こえた。
アンは立ちあがり、ドアをそっと開ける。
義祖父ではない、そう思ったからだ。義祖父であれば問答無用にガチャリと開けて入ってくる。
「失礼する」
中に入って来たのは壮年の男だった。丸眼鏡をかけ、海軍の帽子に等身大のカモメのオブジェクトをつけ、アフロな髪型をし、あごひげをみつあみにした…ちょっと変わった風貌の人物だ。
厳しい眼光が降る。
それをアンは真正面から受け止め、流す。殺気や敵意が感じられなかったため、ほんの少しだけ受けてみた。しかし長い間受けていると息が苦しくなってくる。だから闘牛士のように、ひらり、とそれを床へと誘導した。もし床に痛覚があったならば、激しい痛みを訴えていただろう。想像してみるとシュールすぎる。
ドアの前でずっと見つめあっていても物事は進まない。
「今お茶を入れていたんです。おじさんもいかがですか。義祖父ももう少しで戻って来ると思います」
「……もらおう」
しばしの間を置き、男が応える。一緒に連れて来ていた仔ヤギも中に入り、小さな鳴き声を上げた。
「かわいい」
「生まれて3カ月ほどだ。以前飼っていた子が産んでな」
おやつがあった棚にはなぜか、干し草まで常備されていたのを思い出し、取り出してくる。義祖父が用意する訳は無いから、ボガード辺りがもしも、を想定して備えていたのだろう。
それから30分後、義祖父が帰って来た。
「センゴク!! なぜ自室に居らん!! 待ちぼうけてしもうただろう!!」
「お前がいつまでたっても来んから来てやったんだ」
「あ、おじいちゃんお帰りなさい。センゴクおじさんとお茶頂いてます」
三者三様の言葉がぶつかり、通り抜けてゆく。
アンは義祖父から何度か、センゴクの名を聞いたことがあった。
若かりし頃は義祖父を含め、もうひとりの戦友と共に何千と言う海賊を沈めてきたという。今はそれぞれ階級も上がり、己の立場で出来る事をし続け、ほとんど顔を合わすことはないのだそうだ。しかしその中でひとり、双方と顔を合わせるのが海軍本部から動かずとも良い座である最高権力者となったセンゴクである。
ちなみに義祖父が言う、もうひとりの戦友、は教官として海軍内に在籍はしているらしい。
アンは両者を観察し、にらみ合いがしばらく続くと判断。ふたりの間をすり抜け、茶の用意を始めた。注ぎ入る湯が、こぽこぽと香りを放ちながら音を立て、湯気が立ち上る。
小さな体はこういうとき、便利である。
「はい、おじいちゃん。香ばしい間にどうぞ」
どかりとソファーに腰を下ろし、荒い息をつく義祖父の前に茶を置く。少なくなっていたセンゴクの湯飲みにも追加を足し、所定の位置へ急須を置いた。
黙ったままのふたりの様子をしばし伺っていたが、なにやらアンの存在が話しづらくしているらしい。
ならば適当な理由をつけて部屋を出ておくか、と思案する。トムのところへは…無理だろう。が近場なら許してもらえるかもしれない。
「ねえ、おじいちゃん、中庭行っていいかな」
抱えられている最中に見えた、コの字型になっている場所を思い浮かべながら、尋ねる。
するとすんなり許可が出た。
行きかたを問えば、道なりであると教えられる。
「じゃあ行ってきます」
出来るだけ子供らしい笑顔を浮かべ、アンは一礼してドアを閉める。
「本当にお前の孫か、ガープ」
センゴクの口から出たのは疑問だった。いかがわしいうえこの上ない。
「わしの孫以外になにがある」
最もな切り返しにセンゴクは真一文字に口を結ぶ。
受け入れるか否かはまだ、賛否が分かれているのだ。最終判断はセンゴクが仕切ることになってはいるが、まだ11歳だ。
早すぎる。子供にとって1年の差は大きい。
規定では12からとなっているものの、最低年齢で海軍へ入るものなどほとんど無かった。
初回の見立てでは聡い子供であるのは疑いようも無いだろう。今時の子供は成長が早い。早熟タイプであるとも考えられる。
肝が据わっているのはいい事だ。殺気は込めてはいなかったが、新兵達が背筋を伸ばし委縮する程度の威圧はかけた。さらりと受け流したのにはさすが驚きはしたが、ガープの孫であるならばそれなりの素質もあるだろう。
場の空気を読んで退出するのは全く似てはいなかったが、育った環境にもよる。後はどれだけ度量を持っているか、が問題だ。
本当にあの子供を海兵とするのか。センゴクはガープを見る。
「六式は仕込んである。覇気もある程度使いこなす。3つ目も多少はコントロール出来ておる」
せんべいをバリバリ食べながら、ガープは何気なしにさらりと言い放った。
「…覇王色か」
「司法船を襲った輩を捕まえたのはアンじゃ」
センゴクは腕を組む。
覇王色の覇気を持つ人材は貴重な戦力と成り得る。
4つの海を駆け上がって来る海賊と、その先にある新世界で猛威を振るう大海賊達の動きが活発さを増してきているのも悩みの種だが、海軍全体の人員不足もセンゴクの頭を痛ませる種でもあった。ある一定の力量までのし上がって来る人員は数多く居る。だが人の上に立ち、指揮できる人材となれば、一気に定員を割るのだ。
「使えそうなのか」
「それは見てみればわかるじゃろう」
中庭と思っていた場所は海兵達の訓練所だった。緑に囲まれ、ベンチや噴水もある。ぱっと見、公園のようにも見えるよう作られていた。広場の中央にはむき出しの土があり、まるで運動場のようだ。
廊下では上の階級者に会う度敬礼をしなければならないらしく、アンは途中、人の姿が途切れた瞬間を見計らって窓から外へ飛びだした。目指す場所までそんなに高さは無い。飛べばすぐ、木の中だ。幹を伝って下に下りると公園のような場所にはぐったりとした姿か至る所に転がっていた。
笛の音が鳴る。もうそんな時間かと男達は体を持ちあげ、日の当たる砂地に向けて歩き始めた。
「おい、集合時間だぞ早く来い」
「え、あ、ええ?」
3列に並ぶ海兵達の真正面には訓練の指揮を執っている男が立っていた。コートを羽織っているという事は、ボガード副長と同じ将校なのだろう。
これから行われるのは、1対1の模擬戦であるらしい。将校が説明している。その間は休めの態勢を取り、身動きせずに聞くのみだ。
アンは小さなあくびをかみ殺す。義祖父の船では訓練中、余り待機させられる事が無かったからだ。随時体を動かし続けた後は、腹を満たし、風呂でその日の疲れを洗い流せば泥のように眠る。そしてまた朝が来れば体を動かし、の毎日だった。
次々と将校に、海兵達は倒されてゆく。
そして後ろから4番目、アンの順番が巡って来た。
小さな姿に、将校ははて、と首を傾げるが海兵の制服を着ているのだから、どこかの部隊から紛れ込んだ新兵だろう、そう思考で完結したようで、かかって来なさい、と手招きした。
「宜しくお願いします」
アンは構えを取る。基本は自然体だ。将校は木刀を構える。
間合いを取り、相手の出方を見ていた。視線が小さな体に集まってゆく。
ただ立っているだけなのに、将校もなかなか打ち込みに入れない。
いつまでも立っているだけでは時間が勿体ないと、アンは姿をかき消す。海兵達は自分たちの目を疑った。
アンの視線は将校を捉えたまま、動かさない。手刀を相手の手首にとん、と入れる。緩んだ掌からこぼれた木刀を指で器用に拾い、もう片方の手でそのまま将校の手首を掴み前方へ引っ張った。
将校は反射的に子供の力に負けじと踏ん張るがしかし。重心が後ろに下がった瞬間引っ張っていた手を放し、腰のあたりをトン、と押した。将校の体が尻もちをつく。
とどめに首元へ木刀を添えて終わりだ。
一瞬の事だった。
回りも一体何事が起ったのかと、目を丸くしている。
「逃げたぞ、追え!!!」
瞬間的に空気がざわめいた。それはまるで羽休めしていた鳥たちがいっせいに飛び立つそれとよく似ている。
アンは建物の向こう側に意識を向けた。
発砲音が聞こえてくる。金属製の物がなぎ倒される音と、肉が砕ける殴打音が耳に届いた。
何事かと将校も我を取り戻し、立ちあがる。
「イザドー!!! 止まれ!!」
「剛腕力のイザドーが逃げ出したぞ!!」
海軍本部に召集される海兵は支部と違い、ある程度の実力を持つ人材が集められると聞いていた。イザドーと言う人物は懸賞金5800万を掛けられた海賊らしい。1億で大佐が出張る目安だと船で教えて貰っていたのを思い出す。その半分なのだから十分、ここにいる人員で事足りるような気もしていたのだが…なにやら港の方でアクシデントが発生したらしい。
「ねえ、港から東の方に逃げた場合、まわりこめるのはどっち?」
「それならあっちに通路があるが…」
「案内してくれる?」
「いや、訓練中だし、持ち場を離れるわけには」
軍隊では上司の命令は絶対だ。しかしアンはまだ、何処にも組み込まれてはいない。
「行き方を教えてください」
アンは本部内部には他にも海兵が居るから大丈夫と言われたが、それでも、と食い付いた。
「普段上の命令が絶対なのは、指揮者の指示が情報の裏付けがある的確なものだから。でも今は非常事態かもしれない。発砲があったよね。たくさんの人が倒れているよ。傷ついた人を救えるかもしれないのに…自分が行っても何も出来ないだなんて決めつけるのは早計すぎと思わないのかな。動く気の無いのならそこで指をくわえて傍観してて」
回り込む通路があると言われた方向へ、言葉を吐き捨てて走る。
殆どの海兵がぽかんとしていた。
だがその中でも、動きだした人員がぽつぽつとアンの背を追う。
「おい、お嬢ちゃん。こっちだ、こっち」
「いい啖呵切ってくれたなぁ」
喧騒が次第に大きく、近くなってゆく。悲鳴も聞こえてきた。
懸賞金と実力は比例しない事も多いという。海軍から指名手配が掛かるのは行った行為と、残された残骸の悲惨さで決められているらしい。上手く立ちまわり、村があった事すら分からなくなるまで破壊し、消してしまえば奪略し大量殺人しても要は懸賞金が掛けられない。
なんという適当な賞金額設定だろう。
「どうするんだ、お嬢ちゃん」
剛腕力のイザドーという人物を捉えたアンは、相手の目的を考えていた。
ふたつ名が示す通り、相当力が強いのだろう。まともに受けてしまえばたちまち全身の骨が砕けてしまう可能性もある。
この本部まで身柄が運ばれてきたという事は、公開処刑されるのだろうか。もしくは取り調べの後、監獄へ送られるのだろうか。
過去に一度だけ脱獄者を出したのみと言われる、大監獄に行くくらいなら、最後の大暴れを本部で行おうという魂胆なのか、この場所を死に場所として定めたのか。心の中は覗けない。
指揮者を探す。しかし将校のコートを羽織っている人物の姿が見えない。囚人を連行する時、付き添うのでは無かったのか。
「射撃が出来る人、居る?」
どんなに体中を鍛え鉄壁の防御を誇るといえども、弱点は幾らでもある。
「もし出来るなら、誰も上の人が来なくて危なくなったら目を狙って。眼球は鍛えようと思っても早々出来る場所じゃないから」
出来る、と答えたひとりにそういい置き、アンは駆けた。
まだ対等にやりあえる人員が到着した様子が無い。
義祖父も上の方にいるはずで、こういう暴走を止めるのを嬉々としてやってきそうなものなのだが、その様子も無かった。ボガード副長を含む船の皆は宿舎に戻ると確か言っていた気がする。となれば、ガープ中将の船に乗っていた乗組員達と合流するのは諦めた方がよさそうだった。
息を整え拳に力を集中する。
剃で一気に距離を詰め、相手を撃つ。壁に衝撃が伝わり、蜘蛛の巣状にひび割れ、崩壊した。男の体はそのまま外へと吹き飛ばされる。
「無事な人は怪我をした人の救護に回りなさい!! まだ動ける人は誰か対処できそうな上の人呼んで来る!! 力及ばない人は無理に対応しなくても構わない、自分の出来る事をして!! 走れ!」
アンは希望を飛ばす。その声は喧騒の中にありながら、ひどく響いた。海兵達はびくりと身ぶるいし、金縛りが解けたかのよう仁動き始める。
曹長や軍曹クラスが大勢居るはずなのに、指示を飛ばされなければ自分の意思で動ける人員が居ないとはどういうことだろう。アンは意図的なものを感じながら、打ち飛ばした相手を追った。
そして瓦礫から置き上がってくるイザドーと対峙する。
「なんだぁお前ぇ、ガキは大人しく母ちゃんのおっぱい飲んでればええで…」
アンは答えない。
「今のは久々に痛かったぁ…おらぁどうせ投獄いきさぁ。なあ、おらぁ殺すんか」
「やだ」
間髪入れずきっぱりと否定する一言に、イザドーは大きな笑い声を上げる。
「わたしは貴方がこの場で暴れたからそれを止めに来ただけ。生きるか死ぬか、苦しむか楽になるかは自分で決めて」
もっともだ。正論過ぎて笑いすらこみ上げてくる。男は獰猛に笑みを引く。
「ほじゃおらぁの最後の相手してくれるか」
間近で見るイザドーは大きかった。見上げてもあごの下が見えるだけだ。顔を見ようと思うならばもうちょっと下がらなければならない。
「大人しく、してほしい」
出来るならば。
アンとて戦いたいわけではないのだ。決して戦いが三度の飯よりも好物だとする戦闘民族ではない。
しかし男は手負いだ。
手負いの獣ほど、強く足掻く。足掻いて生き延びようとする。本能が死を否定するからだ。
小さなため息は振りかぶられた両腕を振り下ろす風圧にかき消された。数ミリ、体の横を拳が通過する。力は強い、だが森の猛獣たちや、ボガード副長の剣撃よりは遅い。
アンは再度振りあげられ、迫る片腕の肘に向かって拳を当てる。下への遠心力に加えて横からの力が加わり、男の体が左側に弾け飛ぶ。しかし男は何度も立ちあがった。
その度に少女によってあちらこちらへ飛ばされている。
その様子を見つめている幾つもの視線があった。その中のふたつは、ガープとセンゴクだ。
義祖父と目があった。
いつもの優しさを含んだ目ではなく、それは海軍将校としての厳しさを内包したものだった。
アンはため息をひとつ落とす。祖父が下りてくる気が無いのが分かったからだ。感じる視線のどれもが、ひとつとして動かない。
試されている。
なんのために、は愚問だろう。
義祖父はアンが力を欲しているのを知っている。自らの力でもぎ取ってみろ、そう言っているようにも思えた。
覚悟を、決めなければならない。
自ら定めたことだ。踏み込むこと、に躊躇してどうする。
運命を変えるには力が必要だった。しかし、これは何かが違う。
「…どうして、命を粗末にするの?」
アンが静かに尋ねる。自らの身を痛めつけるように、イザドーは何度も何度も立ち向かってきたからだ。なぜ逃げないのだろう。逃げようと思えば出来るはずだ。なぜならアンの技量はまだヒヨッコも同然で、狙った箇所には当たっているものの、致命傷には至っていない。苦痛が全身をさいなんでいるはずだ。
広場で知り合った海兵による銃の援護射撃が何度も入っていた。目という部分を狙うには至らなかったが、体に幾つも銃弾の跡が生々しく出来ていた。
「おらぁ海に出るしか生きられなんだ。陸にうちあげられちゃ…死んでんのと変わらねぇ。船の奴らは全部死んだ。船長もだ。どうせなら海でおらぁ死にたかった…」
ぽたぽたと滴る血が土に染み込まれてゆく。
「でも、なんでっ」
「死にてぇんだ。終わりてぇ、あんた、最後もらってくれや」
男の言葉に臆する。
生きるために、今までは猛獣を狩った。その命を取りこんで今まで生きて来た。
けれど、今は、この男の命を終わらせるために殺す選択を迫られている。
刈り取られた命を、その肉を食べるわけでは無い。
ただ奪うだけの行為だ。
男はこれまで、たくさんの人を殺してきたのだろう。生きるために。ただ毎日を懸命に生きている人達の命も奪った凶悪な人物なのかもしれない。けれど。
奥歯を噛む。
悲しかった。胸が痛んだ。
アンの中に渦巻く感情が悲鳴を上げる。
慟哭があ、の音を響かせた。
男は望んだ。命が望んだ。ひとつの命としての終わりを、その終止符をアンに願った。
ならば、ならばこそだ。
わたしが死神の鎌を振りぬこう。
剣の扱いは得意ではない。痛みも多分にあるだろう。
しかしその命、確かにわたしが貰い受ける。
手にした刀でその首を一閃した。
ぬらり、と頭と胴を繋げていた接続部分がゆっくりと滑り落ちてゆく。
赤が噴水のように飛沫を上げた。それらが黒の髪を、白の制服をことごとく染め上げる。
銃を撃っていた海兵が歓声の声を上げた。幼い海兵が凶悪な海賊の首を取ったのだ。
アンは視線を上に上げる。すでにそこに義祖父は居なかった。
転がり止った男の顔は穏やかだった。剣が手のひらから零れ落ちる。
「おやすみ、良い……夢を」
いくつもの、アンを見定めていた視線が消えた。仕組まれた試用(ショウタイム)に幕が下りたのだ。