指先に触れるもう一つの手。握りしめた手が触れ合う。温かな場所。
母は云った。
まだだめよ。そのままでいて。
わたしは頷いた。
わたしの隣にいる、もうひとりのわたしも再び眠りに入る。
おかあさん、ちゃんと起こしてね。
わたしとわたしはうとうとと、戻る。
うつつにみる、まどろみへと。
それは優しく切ない夢だった。
目尻から流れる涙で目が覚め、指先が頬を濡らした跡を拭う。
瞼を擦りながら周囲を見回すとまだ夜が明けきっていないようだった。布団の中で暖を取り目が慣れるのを待ってから時計を見ると5時を回ったばかりだと知る。このまま二度寝すれば幸せだろうと思いつつももぞもぞと毛布の中で手足をはみ出しながら、背伸びした。
テレビを付ければちょうど天気予報をしており、天気予報士がはつらつとした声で空模様を伝えている。
『本日の天気は全国的に晴れ、からりと晴れ洗濯物を干すには良い一日となりそうです』
彼女、はカーディガンを羽織り、ストーブを付けて前髪を髪留めで押え、ぱたぱたと洗面所へと向かえば、パクリと歯ブラシを銜えこむ。
水を入れスイッチオン。放っておくと湯が沸くティファールは便利だった。朝の必需品とも言えるだろう。
洗顔しさっぱりとしたところで、窓越しに空を見た。
青が広がり、雲ひとつない。
ゆっくりと窓を開ければ冷たい風が室内へと流れ入った。
ぶるりと身が震える。けれど彼女は凛としたような、朝の空気が好きだった。ゆっくりと空に昇ってくる朝日も、そして軒先から聞こえてくる雀のさえずりさえ、今日という日常の始まりを知らせてくれる。
肩にかかる髪が風にたなびく。高層ビルによって切り取られたように見える空の向こう側に視線を向ければ、だいたいの一日の様子が分かる。
晴れの日と雨の日とでは風の匂いが違うのだ。
「夕方から雨。傘は必需、かな」
唇から洩れる声は、朝の澄んだ空気の中に溶けてゆく。
軽めの朝食を取り、道着に着替えて庭で軽く体を動かした。大抵は型を取るだけで終わる。祖父が生きていた時は道場で相手をして貰っていたが、今はひとり、呼吸を乱さないようにひと通りを流すだけだ。
太陽の光が燦々と照りだしてくると汗を流し、服を着替える。そうするといつもはここで自宅を出なければならない時間となる。だが今日は随分と早起きしてしまったため、時間が余っていた。駅まで自転車で15分、雨を考えて徒歩で行くとしても30分もあればお釣りがくる。
本棚からどれにしようかと迷っていた指先が一冊、を選んだ。
『星の航海術をもとめて』
友人たちからは本の虫と言われてしまうほど、家の中には部屋ごとに、様々なジャンルの書が並んでいる。その殆どは父や母が蓄えていた書物だ。だがそろそろ、自分が買った本達も、部屋をひとつ占領しそうな勢いであるのは間違いない。
友人達と大学の帰りに本屋によれば、最後の最後まで粘るのが常だった。
どれもこれも、読んでみたいものばかりで目移りしてしまうのだ。
「飽きないねー」
友人達は苦笑しながらも、行くよー、と必ず声をかけてくれる。彼女はその時、手にしていた本を戦利品としていた。
「好き過ぎるってのも面倒だよね」
そう言われても仕方が無い。これだけは引けない、こだわりだった。
好きなのだもの。いつもそう返答する。
そう言いながら、なぜか、知らなければならないという焦りに似た感情もまたある事を彼女は知っていた。
理由は分からなかったが、大切な約束のような気がする、といつも思う。
彼女は紅茶を入れ、時計にタイマーをセットし、居間のソファーではらりとページを捲った。
手の中にある本には、口承でのみ伝えられてきた航海の技法を、カヌーに乗った若者の大冒険を添えて書かれている半フィクションものだ。読み返す度に何度、眼前に広がる青を瞼の奥に思い浮かべただろう。
大学を卒業した後、仕事をしながら船舶免許を取ってもいいかもしれない。
そんなことを思う。
そしてどこか南の島で小さな小舟を操りながら、実際に青の視界へ旅立つのも楽しそうだと想像した。
出来るかどうかは置いておき、やってみたいこと、を夢見るのは楽しいし、もし今、出来なかったとしても、いつか、できるかもしれない。
小さな頃から感じる、海への憧憬は今も変わらず続いている。
久々に懐かしい夢を見た。
母の中に居た時の、優しい暖かさとでもいうのだろうか。
小さな時、どうしてひとりなの?と両親に何度も尋ねていたのだという。ひとりではなかった、もうひとり、寄り添うように眠る存在が居た筈なのに、と。
生まれる時も難産だと聞いた。
陣痛が弱く、まるでまだ体内に留まって居たいと願っていたようだ、と。
ふと視界が揺らぐ。
アラームが鳴る前に時計の針を確認し、ゆっくり本を閉じた。
鞄を取り、財布の中身を確認する。帰りに寄る場所があった。
今年も今日で終わりを迎えるというのに、論文の資料作成がやってもやっても終わらないのが原因だ。
個人分はなんとか提出出来そうだが、グループでのまとめがなかなか難しかった。誰かがまとめ役をしてくれたらいいのに。誰も彼もがそう思いなあなあとなってしまったのがいけなかった。
とはいえ彼女も自分から立候補して、やります、などと率先する性分ではない。
早めに帰れたらいいな。そうして紅白を見よう。
そしてゆく年くる年が終わってからケーキを食べ、寝ようと思っていた。
20回目の誕生日が、もう少しでやってくる。
彼女は書きかけのレポートが入ったカバンを手に、家を出る。
「行ってきます」
夕方、突然の雷雨が交通機関を麻痺させた。
天気予報を信じていた人々は携帯電話を片手に、空の機嫌を見守っている。
夏場は珍しく無くなったゲリラ豪雨だが、真冬の発生は余り見られない、という。
雷が避雷針へと幾つも手を伸ばしていた。
何かを引き裂くような、爆音。
そして停電。雷を苦手とする人々が悲鳴を発する。
人々はみな、足止めされた場所で空を見上げた。視線を落としていた携帯や時計、本等から、パトカーと救急車のサイレンがこだまする黒く立ちこめた雲へと。
わたしはゆっくりと瞬きした。
頭がぼう、っとした。眠り過ぎたのか思考が霞んでいる。眠りから覚めると見知らぬ天井が…見えない。まどろみが強く、いまいち意識もはっきりと持てないでいた。
ここはどこだろう。まず考えたのはそれだった。
大学から帰る途中で降り始めた雨に負けず、駅に向かっていたはずだ。
思いの外激しい雨粒にしっかりと傘を持ち歩いていた。
…確か、雷が凄くて…
ぼんやりとした視界がもどかしい。倒れてしまったのだろうか。病院、にしては賑やかな声が聞こえるような気がする。
ここはどこだろう。
叔母に、連絡がいってしまったのだろうか。もしそうならメンドクサイ事になりそうだと思いながら、目を瞬(しばた)かせた。
なにせ叔母は海外在住で、日本とは地球半周分ほどかかる国に住んでいる。
『だから言ったじゃない。こっちにおいで、って。何かあった時直ぐに駆けつけてあげられないのだから』
きっと今回もお小言を貰うだろう。
心配してくれるのはありがたかった。けれど、出来るだけ干渉されたくない、とも思っていた。
荷物の中には学生証と定期が入っている。病院に運ばれたと仮定するなら、まずは大学に連絡が行くだろう。そこで止まっていて欲しいと切に願う。
とりあえず起きなければ。
そう思って手足を動かすが、いつものようには動かせなかった。しかもなぜか急に不安が湧き出して止まらなくなる。抗おうとしても理性より、感情が優先され、言葉にならない音が泣き声に変わるまでそう時間はかからない。
「なにやってんだい、ホント下手だねぇ」
賑やかしさが終わらない周囲から、そんな声が聞こえた。
「おかしいのう。つい今の今まで寝とったのに」
困ったような表情を浮かべる男から、同年くらいだろうか、かつてのありし日を知っている老婦人が、必死に泣き声をあげる、赤子をひょいと抱きかかえた。
「ほうら、安心おし。周りがうるさいから、びっくりしちまったんだよねぇ」
心地よく揺れる腕の中で、はふう、と息をつく赤子に老婦人は語りかける。
「もう大丈夫だよ。ごつごつとしたガープさんの腕は固かったかい」
「……」
わしはこういうのは苦手なんじゃ。
大きな巨体した、白いものが目立ち始めた男が胸を張って言う。
その意識はどんなもんだと自慢しているようにも聞こえる大きな笑い声だった。
祭り囃子のような人々の声が周囲を取り囲む。男の寄港に、多くの人が沸き立っているようだ。聞こえてくる言葉は、うたげ、飲み放題、料理。
楽しげな声音が多く響いている。
そこに至る前。
確かな意識を持っていたとは言い難かったが、随分と長い間、波の音を聞いていたような気がしていた。
口元に寄せられる甘い液体が喉を通過していた時以外はずっと寝ていたようなものだから、確とした記憶では無かった。けれど耳に覚えているほど聞き続けていた音は、そうそう忘れないものだろう。
とある小さな村に、巨大な船が港についた。特色ある船は遠く海原を進んでいる姿を見るだけで、どこに属しているのかを如実に表す。
それは世界を守る船だった。しかも着した村では特別な意味も含んでいる。
港に着いた男はゆっくりと村へと入ってゆく。
良く見知った場所なのだろう。
両の手に生まれて数か月しか経っていない、首が座りかけた乳児を掴んで道を進んでいる。
途中で出会った、道の先に住む住人だろうか。歓迎を親しげな言葉で放ちつつ、道すがらを共に歩く。
特色ある船、は軍艦だった。
村に近づくたび、増えてゆく人の群れをかき分けるかのように、水兵が中将、とその男の名を呼んだ。
「なんじゃ、なにか…」
こそりと伝令を耳元で報告すると、放っておけと面倒くさそうに一蹴する。どうせ任務という枠から外れているのはいつものことで、そこら辺に漂っている海賊船の3つ位を沈めれば帳尻が付くからだ。
聞けば物騒な会話だと誰もが思うはずのものを堂々としていても、周囲の人垣は全く崩れない。それどころか、近頃沖合に黒い髑髏旗を付けた船が見えるのだと不安を口にする者達も居る。
「分かった。後ほど行かせよう」
海軍船を見ればこの海域から出ていくだろうが、と黒い口髭を蓄えた口角が上がる。がしかしこの男、ガープ的には海賊(それ)よりも優先すべき事項があった。
己が船長を務める軍艦には、両手に握る子供らが使っていたベットや身の回り品が乗せられている。まずはそれらをこの村にある自宅に運ばなくてはならない。
今日明日くらいは村に滞在するつもりでいたが、長くは隠し通せないだろう。ガープは本来向かう海域へ出ずに、大周りともいえる航路を取っていた。全ては双子をこの村に届けるために船長特権で下したのだ。
このふたりを、この島に送り届けるためだけに、東の海へやって来た。
すやすやと眠る赤子らは、周囲がどんなに騒いだとしても起きなかった。
時折薄く目を開くものの、すぐにまた、眠りの中へと落ちてゆく。
生まれたのがつい先日だ。外に出たとしてもすぐに動き回れるはずもない。
「ガープさんの孫かい、その子らは」
「可愛いじゃろ。エースとアン、という」
男は目を細めた。
どういう経緯であれ、ガープに託されたこの子供たちは、彼にとって初孫と言っても良いだろう。可愛くない訳が無い。
「どうれ、遊んでやろう」
何を思い誤ってか、ガープは盛大な笑いの後、高い高いを始める。
後方、海側より荷車を引き、押していた海兵が遠くに見える小さな、上空に放り投げられる何かを見れば慌てて駆け寄り奪った。
首もまだ座っていないのになにしているのかと上司に注意し、抱きとめた小さな体をあやしながら、手持無沙汰なガープをも働かせて家の装丁が整ったベットへと双子を寝かしつける。
そうして目を覚まし、お腹が空いたのか、それとも人肌が恋しかったのか。泣き始めた女児をガープが抱けば、余計に泣き叫び始めたのを見かねて、老婦人が取り上げたと言う流れだ。
まだぐずぐずと、いつ泣きだすのか解らないご機嫌斜めの状態ではあるが、一応は老婦人に抱かれるのは納得しているかのようにも見える。
自分の名をアン、と認識した彼女はは深呼吸をし、自分を落ちつける。一体何がどうなっているのかを確かめたかったが、五里霧中だった。
状況を確認しようと試みるも、目も見えず聞き慣れた言葉は全く聞こえてこない。
全力で棚上げしたかった。
問題だらけで、出来るのは泣く事くらいしかないのではないだろうか、とすら思う。
指を動かそうにも力が入らず、理性よりも感情が優先された。
戸惑いしかない。
けれど自分を包みこむ手は優しかった。
随分と頬に当たるひげが邪魔だとは思ったが、言葉に出来ない。
どことなしか幼い頃、母に抱っこして貰っていたような、懐かしい気持ちだった。この手は自分ともうひとりに危害を与えない。それだけはなぜか分かった。
赤ちゃんってこんな気持ちなのかなぁ。
アンはふと思う。
触れて来る手だけが頼りだ。
確か生まれたばかりの新生児は、最初光の明暗しか認識できず、成長するに従い視力を得たはずだ。
テレビでそんな事を放映していたような記憶がある。
何かが近づいて来た。
それは安心できる匂いだった。
おじい、ちゃん?
アンは数年前に身罷った、祖父かと声を出す。
懐かしい顔がそこにある気がした。また会えるだなんて、夢でも見ているのだろうか。手を伸ばし笑いかける。
「おお?」
「ガープさん、抱いておやりよ」
大きな掌が体を包む。ごわごわとした腕に戸惑いを浮かべながら幼子を抱く男の顔はいつもよりも優しい感じがした。周囲の声がひそひそと、だが確実に聞こえるような大きさで子煩悩ぶりを発揮し始めているガープを噂する。
「エースは良く寝る子ね」
お腹が空いたのかしら、それとも…
村の女達はガープから女児を再び取り上げると、てきぱきとミルクを飲ませ、着替えを終わらせた。もう一人は掛けられていたタオルケットを蹴飛ばし、大の字になって寝続けている。その横へ、うとうととし始めた幼子を横たわらせた。
触れ合う手が心地よくて、アンはそのまま瞳を閉じる。
今まで何かが足りなかった。手を伸ばせばあるはずの何かが、どこかに行ってしまったような気がしていた。
よかった、横に居る。
感じていた孤独感と違和感が全て消え去っていた。
?
アンは幸せな気分と共に押し寄せる眠気を理性でどうにか横に寄せて、考える。
先ほど自分を抱いた人物は誰なのか、と。
最初は祖父と思ったのだが、なんだか違う気がした。身長は高くはあったが、あんなにごつごつはしていなかったはずだ。しかも髪がまだ黒かった。
しかも、だ。して貰っている事をかき集めて考察するに、なぜが赤ちゃんまで退行しているような気がしてならない。
とりあえずは自分が赤ん坊になっているのを容認し、棚に上げよう。次の問題は言葉だ。近しい言語が、聞き覚えのある響きもあったが、なぜだか全てが初めてに思える。
そしてふと気付く。記憶がふたつある、という事に、だ。
…っ
瞬間こめかみに感じた痛みに両目を瞑る。
モンキー・D・ガープ。
彼は世界の”正義”を守る世界政府直属の海上治安維持組織、海軍本部中将であり、未来に生まれてくるだろう弟の祖父に当たる。
弟…なにそれ。
流れ込んでくる何かを必死に振り払おうとするが、拒めない何かがどんどんと流れ込んでくる。
清濁など関係無い、渦だ。
針を刺したような痛みは次第に悩全体を苛む苦しみへと変わる。
それはまるで、古い記憶をまっさらな、新しい今から重ねられるだろう月日の為に塗りつぶされるかのような感覚だった。
いわゆる死、というモノの体験とでもいうべきか。
人は生まれる前の記憶を持たない。時折、例外的に保持したまま生まれてくる個体もあるが、それは本当に稀なことだ。多くは生まれてからの記憶しか無いし、どこからヒトはやって来て、去るのか謎のままだ。
忘れてなんかやるものか。半ば意地だったともいえる。
かつての自分、今の自分。
かつての境遇、これからの断片が小さな体に駆け巡った。
声をあげれば、祖父が何事だと己の身を再び抱き上げる。
息が苦しく、空気が欲しくてぱくぱくと口を動かした。
泣いているつもりは無かったが、生理的に流れる体液が頬を伝う。
長い、長いふたつの世界をたゆたいながらみていた、現が重なった。
…わたしは母を此方でも失っているのか。
妊娠も42周を越えると過期となり母体へ多大な悪影響を及ぼす。また胎児を守っている胎盤の機能不全も起きやすくなり、医療が発達していたあちら側ではこの事実が発覚したその日に誘発分娩がおこなわれていただろう。
しかし。此方側ではその処置すら難しい。
置かれている状況も変わっていただろう。
こちらの母はふたつの命をこの世に送り出し、力尽き果てた。
『…女の子ならアン、男の子なら…エース』
母の声は慈しみに満ちていた。
「彼がそう決めてた…この子たちの名は…」
忘れまい、と願う。
いつかこの事を、エースに伝えるまでは覚えておきたい、と強く願った。
生まれてきてくれてありがとう。かつての母はアンではない自分にもそう言ったからだ。
声は出なかった。ほろほろと流れ落ちる涙を拭く事も出来ずに、歪み、霞んだ景色をただ見つめる。
記憶は残った。ぐらぐらと脳が揺れ、飲んだばかりのミルクを吐き出したい欲求にかられるが、なんとか耐える。一度口に入れたものは、出さない主義だった。
情報を振りかえって思ったのは、向こうに戻る術を考えるより、現実をまず何とかするべきだろう、ということだ。
あちらでの生活は、確かに捨て難い。自分の置かれていた状況は一般的な普通とは多少違っていたが、こちらと比べると十二分に平穏な部類に入る。
まずは生きなければならない。
受け入れた。受け入れざるを得なかった。
嫌だ、元のわたしに返してと否定しても何かが変わるわけでもない。
夢であれば覚めるのを待てばいいが、まぎれも無く現実であるように感じられた。
逃げ場所など無いならば、非現実的であったとしても受け入れて対処した方が絶対に良い結果が生まれる。
原因をいつまでも探し求めるより、結果から次の手をどうするかを考えるべきだ。
与えられた情報を上手く使って乗り切る術を思考する。
どうすればいい?
答えは明確だった。
この小さな体で出来る事は限られている。
体はまだ自由に動かせないが、首が座り始める前後であるならば、せいぜい生まれてから3カ月から4カ月だろう。
何よりも今は、大きくならねばならない。
未来を先見させられるというのは、余り気持ちの良いものではないというのも分かった。確実に起きるかどうかはこれから確かめなければならないが、こういう者はきっと起るべくして起るものなのだろう。
様々な事情が絡み、預けられた経緯も理解する。
だがしかし。
自由奔放な悩を持つ義祖父の取るこれからの行動は、放任や放置などという言葉では生ぬるいと言えた。例えるならば土に埋める種を海水に浸す、ご飯だと肉食の生きた獣の前に放り出す。あげればきりが無い。
根本的に何かが間違っていると、アンは力いっぱい叫びたかった。
あちらで良く言う、目に見えぬ何かの存在が起因していると言うならば、首元を引っ掴んで文句を一言、言ったとしても罰は当たらないはずだ。
それでも回避出来ないというならば、対処を会得するしかないだろう。
「さて、この子たちをどうするかじゃが…」
ガープは大人しくしている子供達を見た。目的地に連れてきたは良いが、このままここに赤子だけで置いておくのにも無理がある、とは理解していた。
若くしてこの村の村長となった友人を頼っても良いが、折角だからもうひとつの伝手、を使うのも良いだろうと決める。
明日にでもあいつらに預けてみるか。
そのつぶやきが誰を指しているかは明白だった。
どういう未来が待ち構えているかが分かっていても、事に当たる事が出来なければ意味が無い。坂道でボールを転がせば、絶対に下に到着するまで止まらない、物理法則と同じだ。
あいつ、とはこの村から見える裏山、コルボに根城を持つ山賊ダダン、だろう。
窃盗、詐欺、殺人。
山賊ゆえに自分たちが生きてゆく糧を手に入れる手段が暴力であってもためらわない人物のようだった。
ある意味哀れだ、とアンは思う。山賊を生業にしている誰もが、最初から暴力を振るう側ではなかったはずだ。
弱肉強食、力を持たない者から淘汰される場所で生きていれば、持たざる者は持てる者から奪い取ってなにが悪い、と考え至るにさほど時間はかからないだろう。
人間は基本、獣だ。両親と幼いころから確立された教育で考える知恵を得、思考し、理性を育む。
子は親の背中を見て育つ、とは名文句だ。子供は周囲を見て、親のまねをしながら大きくなってゆく。言葉や知識も然り、だ。
ダダンの下で育てばそのまま親を継いで賊の頭になるか、はたまたグレて自分の一家を旗揚げするか。もしくは反面教師として真逆の路を歩むか。
3つあげた選択肢の中で、最も行きつくに難しいのは最後だ。
この人、はそれを望んでいるのだろうけれど。
難しいだろうなぁ。
生まれたばかりの赤ちゃんに、少なくともエースに、空気を読めというのは酷だと思う。
ため息をつくと幸せが逃げてゆくと言われるが、果たしてどれほどついているのかアンは判らなくなってきていた。
結局、ガープはそろそろ灸を据えなければならない頃合いになっていた腐れ縁のダダンをはじめとする山賊たちを半壊状態に陥らせ、今までの罪を問わない代わりに二人の赤子を押しつけた。
その”話し合い”の中身は凄まじかった。半ば目を回しながらアンは確かに見る。
脚から生み出された空気を切り裂く音が耳に届いた瞬間、山賊たちは鋭い刃で切り裂かれたような傷を負った事を。拳銃の弾をいともたやすく回避し、相手に肉薄するまで瞬きをする暇も無かった事を。
余りの恐怖と痛みに叫び出す者や逃げ出す者たちもいる。
蹴りで呼び起こす鎌風は嵐脚(らんきゃく)、銃弾回避は紙絵(カミエ)、瞬間的に移動したのは剃(ソル)というものらしい。
優しく何かが教えてくれる。
名を上げた3つの技は海軍で教えられている体術のひとつで、ひとつひとつを一式と称し、使い手達を~式使い、と呼ぶ。
この術を会得する為には長い年月を必要とする為、海軍内でも使い手は一握りだ。習得しようとしても出来ない人員の方が断然多いという。
「ガープ、お前はいつもそうだ!厄介事の度にあたしんとこに来んな!」
ぼろ雑巾のようになりながらも、ダダンは立ちあがり叫ぶ。
二人は旧知の間柄なのだろう。出かける時も『友人』に会いに行く、と言っていたからだ。
「もう一度言うぞ。お前が育てろ、ダダン」
「だから誰の子か聞いてるんだよ、あたしはっ!!」
切れた皮膚からぴゅーと血が怒りにまかせて叫ぶダダンから飛んだ。
「お頭っ」
手下のひとりが止血に走り寄り、緊迫した空気が再び流れだした瞬間、義祖父が大暴れしている時も寝ていたエースが目を覚まし力の限り泣き叫び始める。
手を伸ばしても身長分以上の距離が足りない。大丈夫だと伝えようとも言葉が発せない。
かたやぐったりと回る景色を瞼を閉じ隔絶したアンは思う。
あんまり怒ると出血多量で死んじゃうよ、おばさん。おじいちゃんも手加減するならもう少し優しくすればいいのに。筋肉馬鹿なんだから。これは血筋?この島の風土?Dの名前を継ぐ人っていうのはみんな可愛すぎるほど直線たりする?
普通の生まれたてであればこんな事は思わないだろう。
だがさらりと毒舌が吐けるくらいには意識を保っていられた。精神的に、ではなく肉体的に耐えられる負荷までが限界だったが、意図して物事を昨日より今日と、見られるようにはなっていた。
まさか、と。アンは思い至る。
ダダンは一家を束ねる頭であったが、女でもある。ほんの少しでも母性本能に火が付く事を願っていたとか…。
自身の考えを、そらもう力いっぱい、思いっきり地平線の彼方へと放り投げた。
ダダンという人物に文句を言うのはきっと、お角違いなのだろう。
女だてらに頭を張るのは、気概が無くては出来ない事だ。もしかすれば優しい人物なのかもしれない。ただ幼い身の上で、たらいまわしにされるのだけは遠慮したかった。山賊という打ち止め感のある小さな組織に、横のつながりがあるとは思えなかったが。
海軍の仕事もあり手元で育てられない環境だとは言え、預け先にここを選ぶガープの内心を覗けるものなら見てみたかった。
お前達を立派な海兵にしてやる。そう何度も、アンがアンとして意識を持ち始めてから何度も聞いていたからだ。
海軍に入れたいのなら、それなりの預け先もあるような気もする。たとえば引退した同僚とか、良く耳にするセンゴクという人物に相談すれば何か良い方法を見つけてくれるかもしれない。
そう思いながら、アンは違和感を覚える。
与えられた情報が真実である、という前提ではあるのだが、自分達を引き取り、義理とはいえ祖父となってくれたこの人物は父との約束を守った。
死を迎える自分に替わって、生まれてくる子供を頼む、そう一方的に言われた言葉を、果たしたのだ。
母が長期の間、胎児を己が体の中に留め続けたのも、海軍がとある偉業を成し遂げた、父から連なるその血を根絶やしにするために放った者らから守るためだったはずだ。
義祖父は本来、抹殺側に立つ。
世界の決定に従うべき立場でありながら、母の出産を見守り、こうして生まれたばかりの乳児を、自分の息がかかった安全な場所に連れて来てくれたのだ。
生まれてくる子には罪は無い。
たしかにそうだろう。親の罪を子に着せるのは時代錯誤もいいところだ。
だが犯罪者の子供としてレッテルを張られ、逃げるように居住地を変えている二次的な被害者となっている存在があることもまた、事実だった。
守られている。
意識や知識があったとしても、何の役にもたっていなかった。
無力だと言うつもりもない。ただ動きようにも動けない事情がある。なにせこちらでは生まれたばかりなのだから。
東の海(イーストブルー)は最も穏やかな海とされ、辺境に位置するこの国は一応、海賊に襲われにくい場所であろうとは推測出来る。
「しゃあない、お前ら。こいつらの面倒みてやれ」
背を向け去る義祖父を見送る。
こうして二人はダダンのもとで暮らし始める。
どんな生活が待っているかは蓋を開けてみなければわからないが、恐々と触れてくる手は温かかった。
今は静かに時を過ごそう。
秒針は進み始めた。時を巻き戻す事も、無理に進める事も出来ない。
一秒づつ、刻まれてゆく。
今は早く大きくなること。行動出来るようになる事。走れるようになったら…
出来る事をひとつづつしてゆこう。
そう心に決めアンは瞼を閉じた。