――――二年前。
「魂を返す、ですか? ふむ……できなくはないですが、あまりやりたいことではありませんねぇ」
ディズ・クロスは彼と対峙していた。
ホグワーツではスリザリンの継承者による襲撃が続き、ついには連れ去られる事件までが発生していたころだ。
「今も結構ギリギリなんですよ? この氷結封印、見ての通りレジストしきれていないんですよ。予想よりも福音の御子が弱体化していなかったもので。当然ですけど半月期の弱点を克服していたんですねぇ」
目の前の悪魔――あの父親を名乗る男のパトロンが仕向けたというこいつはすでにボロボロだった。
片腕はなく、その切断面は凍り付いて砕けたようになっている。
彼がここに来るまでに戦っていたのは――この悪魔にこれほどの傷をつけた相手はあの異色の魔法使い、リオン・M・スプリングフィールドだ。
ディズはこの悪魔たちの目的――あの連中が目的にしているらしい分霊箱の一つ“秘密の部屋の鍵”を対価にすることで交渉を行っていた。
自分が探し出した“鍵”を渡す代わりにこの中に捕われた魂を元の持ち主に返すこと。
現在一度はこの悪魔が誘い出したスプリングフィールド先生は城内に戻り、もう一人の潜入悪魔と交戦しているらしい。
できるのならばこのまま“鍵”をもって彼ともう一度遭遇することなく撤退したいということなのだが、それをすれば“鍵”の中に取り込まれた魂の持ち主は遠からず死んでしまう。
なんの準備もなく魂を抜き取られた肉体はそれほど長くはもたないのだ。
ロキと名乗るこの悪魔は僅かな時間、ディズを上から下まで見回すと、ふっと微笑んだ。
「まぁいいでしょう。このままだとダーフィトを回収できそうにありませんし、一応不要な殺害はしないように言われていますしね」
彼の召喚主は、こちらの人を殺害できないように造られている。
そのため召喚された悪魔もそれに準ずる制限を受けているのだ。
だが実は、召喚悪魔であるロキたちは、召喚主ほど厳しい制限をかけられているわけではないし、今回の件ではあくまで生徒から魂を抜き取ったのは“秘密の部屋の鍵”とやらなので、放っておいても彼にとっては問題にはならない。
ただ放っておけば間接的に見殺しにすることになるだけだ。
「ただ覚えておきなさい。貴方が依頼主の側であるからことは構えませんが、これは貴方への貸しです」
ゆえに今回はあくまでも前途有望な雛になりそうな卵への期待という貸しだ。
「今はまだ貴方は雛にすらなっていない卵だ。いずれ貴方にはこの貸しを返していただくでしょうね。貴方が今よりももっと殺すに惜しいと思える存在になったときに」
そして2年後……彼は再び悪魔とまみえていた――――――――
第92話 そろそろエサにかかった頃合いかと遠くで魔法使いは考えていた
懐かしきホグワーツの城へと向かう最中の特急は多くの子らを乗せたままその動きを止め、その中の一車両は外装を哀れな状態にさせられて中にいた少年少女たちを外気に晒していた。
それをなした張本人は宙に佇み彼らを見下していた。
そこに居合わせたハリーやセドリック、咲耶たちにも見覚えのある、忘れがたき人外――上級悪魔の一体、ロキ侯爵。
「前に見た時は、才覚と度胸だけの賢しい卵といったところでしたが……ふふふ、随分と厳しい師についたようですね。今は巣立ちを前にした雛といったところにまで成長しておられる」
挨拶代りの一撃を察知し、そして障壁魔法を展開することで自分のみならず車内の人や物を守りきった旧知の少年に微笑みかけていた。
「君には借りがありましたねぇ」
微笑みを向けられた相手、ディズは対して表情を硬くし、杖を握る掌にはじっとりと汗ばむ湿りを感じていた。
格上の相手との戦闘経験は魔法世界で得ることができた。しかしそれは逃げるという選択肢を選ぶことができたし、どのような方法でも生き残ればいいというものであった。
だが今は違う。
今回は逃げという手をうつことはできない。
「借り?」
「以前は彼の我儘のおかげで随分と大変な目にあったものでね」
ロキの言葉に反応する余裕があったのは、ディズではなくハリーであった。
相手が自分よりも遥かに実力者であることを見抜き、すでに一分の余裕もない戦闘態勢に入っているディズに対して、ハリーは警戒しつつも言葉を交わしてくる悪魔相手にその言葉を聞き、疑問を尋ねる余裕を見せていた。
「どういうことだ」
「…………」
ハリーにとっては、現れた悪魔は一見分かりやすい敵ではあるが、スリザリン生であり不信な経歴を持つディズもまた警戒すべき相手なのだ。
ハリーは杖を悪魔に向けつつもディズを睨み付けた。
答える余裕のないディズのリアクションは、ハリーからしてみれば詰問を無視しているように見え、ハリーは苛立ちを募らせた。
そんな子供の様子にロキは愉快そうに笑みを浮かべた。
「おや、ご存じない? そちらの坊ちゃんと、君のご友人のお嬢さんはもう少し彼に感謝した方が良いと思いますけどね」
ロキは拘束されて床に転がるマルフォイを手で示して言った。
「彼が魂を返すように命じなければ、そのまま死んでいたのですからね。もっともそのおかげで私は福音の御子の前に顔を出して臣下を一人爆発させる羽目になってしまったのですから」
あの時の事件の、知られざる側面を。
「だから、あの時の借りを返していただきましょうかね」
「!!」
気配が、変わった。
瞬時にそれに気づき、反応したのはディズだった。
高速移動術によって消えたように動いたロキに対して、ディズもまた瞬動術で反応し、互いに魔力を刃の形にして切り結んだ。
「なっ!!?」
突如として終わりを告げた会話、始まった戦いにハリーたちはついていけていなかった。
二人の激突が熱波と冷気とが乱気流を生み出してハリーたちは吹き飛ばされそうになっていた。
「ほう、エンシス・エクセクエンス? なるほど、師匠譲りというわけですか」
「くっ」
ロキとディズ。
切り結ぶ二人の刃はそれぞれ炎と氷の魔力によって編まれている。
ただしディズの氷の刃は、物質的な氷ではなく状態の強制相転移によって生み出される魔法の刃――
「けれどまだ――――未熟!!」
「づあッ!!」
だがその魔法はディズをもってしても遥かに高難度。魔法世界での修行を経た今でもそれはまだ
刃が砕かれ、吹き飛ばされる。
体勢の崩れたディズにロキは炎の刃を振りかぶり
「ぬっ!?」
ギンッッと別の刃がロキを襲い、ロキは刃を薙いでそれを防いだ。
白く小さな体で振るわれる刀。
「式神っ!」
「我が姫、藤原朝臣近衛咲耶様の命によりこの白狼天狗、白葉がお相手仕る!!」
咲耶の式神白葉が愛刀“魁丸”を構え、短距離瞬動術によってロキへと接近した。
振るわれる刃はかつて悪魔と対峙した時の、シロとしての太刀筋よりも数段に鋭く、あのときよりも上位の悪魔であるロキを相手にしても渡り合う剣戟を見せていた。
そして白葉が前衛の戦士としてロキを封じれば、
「シュバルツ・シュタル・デア・シャッテン! 影の地 統ぶる者、スカサハの、我が手に授けん、三十の棘もつ愛しき槍を!!」
――「
距離を開けたディズが魔法の詠唱へと入り、周囲に5本の雷の槍を現出させた。
「ちっ!!」
放たれる5つの槍は、流石に直撃を受ければロキといえども無傷では済まない。
ロキは投擲槍を躱し、あるいは弾き――その奥から短剣に断罪の剣を付与させた魔法剣を携えたディズが迫る。
この場面での
魔法世界での修行をしたことでかえって無意味に自信をつけたのか、ロキは継続させている炎の刃でその体を真っ二つに焼き焦がそうとし、
「なにっ!!!」
“ディズの体を透過して”斬撃がロキへと襲い掛かった。
咄嗟に体をずらして回避するも、完全には躱しきれず、斬撃はロキの魔法障壁に触れ――しかしそれすらも素通りしてロキの右腕を半ばから斬り裂いた。
――斬空閃 弐の太刀――
宙を舞う右腕。
だがそれに気をとられている間はない。
弐の太刀の斬撃によりまったくの無傷だったディズが左手に持った魔法剣を振るいロキに切りかかってきている。
「ちっ!」
舌を打ち、距離をとるロキだが、一瞬早く魔法障壁に魔法剣がぶつかり、込められた障壁破壊の術式が障壁を砕く。
壁を取り除いたディズはそのまま連撃に右手の杖を掲げて魔法を放った。
放たれた麻痺呪文が障壁を失ったロキへと突き刺さり、その体を吹きとばす。とはいえ流石に悪魔の抗魔力は伝統魔法の効力を打ち消しているのか、体の自由を奪うには至らない。
「ぬぅっ!!」
「シュバルツ・シュタル・デア・シャッテン! 来たれ虚空の雷、薙ぎ払え!!」
――「
立て直す間は与えない。
ハイエイシェントによる雷斧の魔法が悪魔へと突き刺さり、紫電が周囲の空気を焼いた。
「おいおい、メチャクチャ強くなってないか、クロス!? というか今、思いっきりなんか体通っていったけど、大丈夫なのか!?」
「それもそうだけど、っ。できるだけ距離をおいた方がいい、リーシャ、みんなも。」
リーシャやセドリックたちには三人の攻防とその余波は見ていることしかできなかった。
助太刀しようにも目まぐるしく動く激しい攻防に彼らの技量で手を出せば足を引っ張るおそれが強かった。それが分かるほどには、セドリックは聡かった。
まともに直撃した雷の斧。
「ちっ!」
しかしディズはその手応えに舌を打った。
まだ倒しきれていない。
おおよそ予想してはいたが、そこそこの決め技である雷の斧でも、あのレベルの相手を一撃で沈めることはできない。
追撃しようと杖を振るおうとしたディズだが、轟ッ、と炎が吹き荒れ、構えていたディズはシロとともに吹きとばされた。
ディズは咄嗟魔法障壁と炎に対する対抗呪文で防御し、白葉も防いでいた。
「姫様ッ!」
吹き飛ぶ二人を見て叫び声を上げそうになった咲耶だが、白葉の求める鋭い声ではっと立て直した。
相手は炎を使っている。
咲耶がこの夏必死に学んだ炎の呪術。ならばそれは彼女にとっても土俵の上だ。
パン! と甲高く柏手を打った咲耶は素早く不動明王印を結んだ。
「のうまく・さらばたたぎゃていびゃく・さらばぼっけいびゃく・さらばたたらた・せんだまかろしゃだ・けん・ぎゃきぎゃき・さらばびぎんなんうん・たらたかんまん!!」
咲耶の火界呪により制御された焔がシロの魁丸に宿り、ロキの火炎剣と切り結んだ。
悪魔の黒炎と同等以上の咲耶の焔。
打ち合わせる度にロキは自身の炎の制御が剥がされそうになるのを感じていた。
「花の姫君も随分と――」
「シュバルツ・シュタル・デア・シャッテン。光の精霊127柱! 集い来りて敵を射て!
「!!!」
咲耶の加護を受ける白葉とロキとが切り結ぶ隙にディズは詠唱を行い、制御可能な限界数の魔法の矢を放った。
「これは、評価を見誤っていましたね」
たまらず後退するロキ。
「巣立ち前の雛鳥ではなく、すでに巣立ちの準備を終えた若鷹でしたか」
白葉との共闘とはいえディズの力はロキの想定を上回っていた。
眼がいいのか前衛で激しく撃ち合う白葉に絶妙なタイミングで後方射撃を行い、あるいは中距離でも技のある白葉を活かすために伝統魔法の使い手には滅多に見ない近接戦闘も仕掛けてくる。
ディズが遅延させていた術式を解放して雷の槍を周囲に纏わせ、白葉が焔刃を構え、ロキに追撃しようとし、
「才能と未来ある青い果実を摘むのも愉しみですが、収穫の時を迎えた果実を貪るのは王道の愉しみ!」
下がったロキが今度は前へと踏み込んだ。苛烈な踏込に足元が陥没して亀裂が奔る。
――速いッッ!!?――
ディズの魔法により引き上げられた感覚をもってしても捉えきれないほどの瞬動術。
「ガッッ!!」
ロキは一気にディズとの距離を縮めるとともに勢いそのままにディズへと拳打を撃ちこんだ。
白葉が反応して焔刃を振り払おうとするが、それよりも早くロキの魔法が発動した。炎の中から湧き出す無数の蜂。
――
「しまっ――!!」
高速で飛来した炎の蜂が白葉に群がり、触れた瞬間爆発を起こしてその体を炎に包んだ。
吹き飛ぶディズは、白葉を炎に包んだロキがギュンとその姿を変貌させたのを見た。
取り巻く炎の中から現れたのは黒炎の体の魔物。
――変身!? 悪魔の本性かっ!!――
黒炎の悪魔が赤い瞳を光らせて口を開いた。
それは魔法世界でドラゴンが行なうブレスの予備動作にも似た瞬間。
「ッッ!!!」
「ガ、ハァッッ――――!!!!!」
咆哮と共に吐き出される黒炎の咆撃。
回避は間に合わない。
判断は素早く、ディズは魔法障壁を強化して空中で防御の態勢をとった。
「ディズ君!!!」
黒炎に呑まれるディズの名を咲耶が叫んだ。
咆撃が過ぎ去ると、明らかにダメージを負ったディズが転がり落ちた。
ディズは体勢の整わない着地にもかかわらず素早く身を起こし、敵の追撃に目を向けた。
――間に合わないッ!!!――
ロキはすでに自身黒炎と化した腕を振りかぶっており、魔法障壁の破れたディズへとその爪牙を振り下ろした。
そのタイミングは魔法障壁を張り直すにも魔法での迎撃を選択するにも遅く爪炎の牙が放たれ、ディズへと迫り―――――
「ぬっ!!!」
その目の前に氷の壁がせり上がり、悪魔の攻撃を阻んだ。
「氷っ!?」
炎と氷の衝突は、破壊音と衝撃を響かせながらもその一撃では突破を許さなかった。
唐突に現れたその氷壁。
ロキは咄嗟の反応として後ろに下がり、その判断が自らを救った。
先程までロキがいた場所には地面から氷柱が鋭い先端をもってわき上がり、すんでのところで彼の体に風穴をあけ損ねていた。
「これは…………」
距離を取ったロキは体勢を整え、ディズは片膝を地につけた状態で見た。
金の髪、黒いマントを靡かせて空から降りる魔法使いの姿を。
「ここで貴方の登場ですか。福音の御子」
あの時の対峙を繰り返すかのように、魔法使いは悪魔と向き合った。
「ふん。少しはやれるようにはなったみたいだが、まだまだだな」
「マスター」「リオン!」
以前との違いは守るべきものと弟子を後ろにしていること、そしてあの時の半月とは違い、満月の影響を受けていることだろう。
「どうやら誘い出されたようですねぇ……」
リオンと相対したロキは頬を引き攣らせた笑みを浮かべ、リオンは獲物を前にした狩人のように口元を歪めた。
この夏休みかかってようやく最後に吊り上げられた獲物なのだ。しかもそいつは一度は自分の手から逃れた相手なのだ。
「大人しくしろとは言わねぇよ。首だけにしてからゆっくり背後関係を聞かせてもらおうか」
強力な魔法先生の登場にセドリックたちが安堵の息をついていた。
目の前で繰り広げられていた戦いが小康状態となり、周囲の状況にも気を向ける余裕ができると、他の車両の生徒はすでに近くからは避難しており、それとは逆にどたどたと駆けてくる音が聞こえた。
「何事だっ!?」
「ドーリッシュ先生!!」
杖を片手に駈け込んで来たのは首にロケットのようなペンダントをかけた短い白髪頭の男。新しい“闇の魔術に対する防衛術”の教授であり、現役の闇祓いである魔法使いが遅まきながらやってきて、ボロボロになった車両の残骸と対峙する二人を見て目を剥いた。
「これはどういうことだ!?」
彼にとっては初めて見る者が二人。
一人は炎の体の魔法生物。もう一人は事前に情報を渡されていた“闇の魔法使い”。
闇祓いにとって、どちらが襲撃者か断定できない状況であり、どちらとも警戒すべき状況なのかもしれない。
後ろの方で魔法使いが何かを喚いているのをバックにリオンは右手に魔力を集中させた。
白く輝く爪牙が剣となる。
遠方から転移してきたリオンよりも遅くに駆け付けた魔法使いが何をしていたのかはリオンには分からない。
周辺生徒の避難を行っていたのか、
そうであるのならば別にどうでもよかった。
リオンがここにいる以上、そちらは弟子の領分であり、爆炎に包まれていた咲耶の式神もダメージを受けてはいるが咲耶のもとへと戻っている。
今は
「なるほど……ですが。誘い出されたのは、どちらですかねッッ!!!」
爆ぜるように飛び出したロキに対し、リオンはグンッと右手を振り上げた。
指の数と同じだけの氷の刃が周辺の森ごと薙ぎ払う破壊を伴ってロキを薙いだ。
「きゃぁああっっ!!!!」
「ちょっ! スプリングフィールド先生っ!?」
「くっ!」
フィリスやリーシャたちの驚きの声が上がった。
セドリックが障壁を展開して破壊の余波を弱めるが、衝撃は突風となって彼女たちに襲い掛かっている。
「アス・ラック・アレイスト・クルセイド――――」
リオンは片手を上げて呪文を詠唱、セドリックたちが屋根の吹き飛んだ頭上を見上げると、空ではなく見渡す限りの氷の塊が輝いていた。
――
直径数十mにもなろうかという氷の塊が瞬時に生成され、リオンが腕を振り下ろすと同時に空気を唸らせて吹き飛んだロキのいるであろうあたりを諸共に押し潰すように落ちた。
「マスター! 相手は――」
「お前は障壁張って見てろ。――――
予期していた通りの師匠の乱入にディズは立ち上がるがリオンは短く指示を飛ばすと右手を掲げて待機させていた術式を解き放った。
右の掌に白い螺旋の渦が生まれ、周囲の温度を急激に低下させる。
――「千年氷華!!!」――
「
リオンは掌に生まれた小さな竜巻を握り潰した。
「くっ! 術式兵装!? サクヤ、セドリック・ディゴリー、障壁を!!」
すでに戦闘思考へと切り替え、大技を発動させたリオンを見て、ディズは後方に下がりながら障壁を展開し、同時に自身よりも遥かに強大な魔力を持つサクヤと、この場では信用のおけるセドリックに自身と仲間とを守るように指示した。
吹き飛ばされ、氷神の鉄槌による追撃を受けたロキは砕けた氷塊の中から纏っている炎を活性化させて素早く這い出た。
「ちっ! あれは――――」
ロキは現れた敵の姿に顔を歪めた。
悪魔であるロキが本性である炎の化身を晒したのとは違う。
以前戦った時、彼を、そして彼の部下を瞬殺した“闇の魔法”。
以前とは異なる、氷を支配する空間掌握型の術式兵装『氷の王』。
リオンの指がくんっと突き上げられ、ロキの足元から氷柱が突き上がる。
「くっ!」
直撃すれば胴体に風穴が空くであろうそれを避けた。
氷のような白く透き通る姿に変じたリオンの魔力が場を侵食していき、彼を中心に一気に列車が、森が凍り付いていき、空間に氷精が満ちていく。
「さむっ!! てかこおってるっ!?」
「リオンやりすぎは……槍!!?」
空間を支配した主の一挙手により、森の上空一面に無数の槍が顕現して狙いを定めた。
—―
その魔法名が表す如く、氷の槍が豪雨のように降り注ぐ。
たった一体を相手取っているとは思えないほどに大規模な爆撃のような攻撃。
「スプリングフィールド先生は戦争でもしてるのかよっ!?」
「サクヤ、先生のあの変身技って、“闇の魔法”!?」
「雷じゃない。二つ目の変身」
リオンは戦場を列車から引き剥がすように前へと進み、ディズは咲耶や友人たちの近くへと退がった。
降り注ぐ氷の槍をロキは召喚した炎の大剣で薙ぎ払い、まだ降り注ぎ続ける槍雨の中をリオンが縮地で距離を詰めて痛打を放ち、吹き飛ばされた。
「ちぃっ!」
「はっ!」
吹き飛ばされつつも地を削りながらそれに耐え、向かい合う。
氷の剣と炎の剣が再びせめぎ合う。
だが今度は使い手の技量が桁違いだった。
ロキもまた先程までの若鳥相手の時とは違い、福音の御子相手では殺害規制を解除して殺すために力を振るうが相手もまた以前の時とは違っていた。
中途半端な半月期ではなく吸血鬼としての力を全力で振るえる満月期のリオン・スリングフィールド。
しかも今この空間はリオンの土俵だ。氷の精霊に満ち、支配された領域。
今が夏で、気温の高い時期だというのは関係しない。
だが、これ以上の熱量――火の精霊が顕在化する領域ならば?
「!?」
ロキはにぃと笑い。リオンは瞠目した。
ロキの魔力が昂ぶり、それに反応し、周囲に巡らした氷圏が急激な温度上昇によって溶かされていく。
「………………」
「魔力量のみを見れば、貴方は私よりも遥かに上だ。特に
「……なんのことだ」
ロキの纏う黒炎が勢いを増し、極限まで高められた火精の活動が空間を歪めていく。
「氷は炎に溶かされる」
炎が形をなして魔神が顕現する。その威容はもはや人の業によるものとは思えない神威。
セドリックやハリーたち、そしてディズですら見たこともないほどに巨大で、この世に終焉をもたらす神の姿にも見える炎の魔神。
「この氷の空間支配が今の貴方の切り札なら、貴方は私には勝てない」
――――炎帝召喚!!――――
炎の上級悪魔の召喚により現れた魔神が、リオンの創った氷圏、氷の精霊で満ちた世界を再び塗り替えようとしていた。
「なっ! 炎の巨人!?」
特急から離れた空に、遠くからだからこそ見えるあまりにも大きな、天を衝くほどに巨大な炎の魔神が突如として現れ、ハリーが唖然と声を上げた。
「まずい! スプリングフィールド先生の氷が溶かされていく」
炎の魔神はその威容に相応しい熱量を誇っており、さきほどまで凍り付いていた周辺の空間、リオンが作り上げた氷の世界がどんどんと溶かされている。
セドリックが驚きと危機を感じるほどに、世界のありようが一変しようとしていた。
炎の魔神が拳を振りかぶり、ドウッ!!!! と衝撃音を響かせて魔神の拳が宙に浮かんだリオンへと直撃していた。
「…………たしかにまずいな」
杖を手に臨戦態勢をとっていたディズも空で行われている攻防を見て呟いた。
師であるリオン・スプリングフィールドの力はよく知っている。
「本気で加減はしなさそうだっ!!」
ディズが懸念したのは不安などあるはずのない師匠のことではなく、いよいよもって自分たちのことを忘却して暴れる師匠の余波のことだ。
天高くそびえる炎の魔神の、そのさらに上空から巨大な氷の柱が6本。
――
拳を受け止められた右腕をはじめとして次々に魔神へと落ちて貫いた。
一つ一つの氷柱が魔神と比しても十分な体積・質量をもつ巨大な氷塊で、魔神の熱をもってしても容易くは溶けずにその動きを縫い止めた。
だが、いずれはその氷も魔神の熱に溶けてしまうはずで――――
「アス・ラック・アレイスト・クルセイド。契約に従い、我に従え、氷の女王。来たれ、永久の闇、
上級以下の魔法の詠唱を必要としないはずの“氷の王”が高らかにハイエイシェントを謳った。
両手に宿る膨大な魔力と氷精、闇精が魔神の周囲の温度を再び急激に低下させていき、それは極低温にまで達する。
「全ての命ある者に等しき死を。其は、安らぎ也」
大地が、森が、空気が、そして魔神の炎の体までもがその分子運動を停止して凍りついていく。150フィート四方。制御された領域を絶対零度に凍てつかせる。魔法で領域こそ制御されているが、溢れた冷気が対流となって突風を生み出し、極寒の空気を列車にまでもたらした。
夏のイギリスに現れる厳冬の風。
「ウソでしょ、炎が凍りついていく……」
ハーマイオニーが、いや彼女だけでなく列車の中に居た全ての魔法使いが唖然として巨人を見上げていた。
具現化したとはいえ炎が凍るという異常事態。
そして
――「
最後の一節とともに、氷の異界と化した世界は崩壊していき、それとともに凍りついた炎の魔神が砕けた。
崩壊した氷の世界を唖然として見上げていたハリーたちは昇り始めた満月を背後に吸血鬼の魔法使いが空から降りてくるのを見つめた。
蝙蝠のような漆黒のマントが靡き、溢れる魔力の残滓は先ほどまでの氷結の魔法の名残を残して凍てついている。
咲耶の近くに降りたリオンはマントをばさりと振った。
黒いマントが丸まって、まるで手品のように虚空に消え、その代わりに小さな人形がトンっと地面に降りた。
「チャチャゼロ。さっきの悪魔の回収をしてこい」
人形――チャチャゼロにリオンは命令を出した、
「粉々ニナッテンジャネエノカ?」
「調節したから首から上だけは残っているはずだ。悪魔の生命力なら生きているだろ」
首から上だけの相手に何をするつもりなのか、ハリーは冷徹な目で人形を見下しているスプリングフィールド先生をゾッとして見た。