ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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世界の共有、開けた景色

 咲夜は一人で感傷に浸っていた。

 フランドールの顔に浮かんでいる笑みは、レミリアの笑みとは違って見える。とても無垢な笑顔に見える。そこには立場もない、尊厳もない。自然に笑う様は―――咲夜の心に色を付けた。

 

 

(妹様は、こんな笑顔で笑えるのですね)

 

 

 そして、フランの笑顔を作り出した肝心の少年とパチュリーは、フランの笑っている様子を気に留めることなく、お互いに言葉を浴びせ続けていた。

 

 

「僕なら大丈夫だから。死んだら―――それはその時だよ」

 

「貴方は死んでも困らないかもしれないけど、私たちは困るのよ」

 

 

 少年は死んではならない人間だ。少年が死んで失われるものはかなり大きく、その影響は計り知れない。

 それは、死んでしまった場合に悲しむ人間が多いとか、藍が依存しているのを知っていて死んだ後に報復を受けるなんてことを考えているわけではない。それを知っているのは少年と最寄りの人間だけだ。そんなことをパチュリー達――――紅魔館の人間は知らない。

 ただ、少年の友好関係を抜きにしても、死んでしまった場合のリスクを考えれば、少年を一人にするわけにはいかなかった。

 

 

「貴方……自分の立場を分かっているの? 貴方は八雲側からの使者なのよ? 重要人物なの、ちゃんと自覚してる?」

 

 

 少年は、客人として紅魔館に招かれている立場である。八雲側の重要人物として招かれている立場である。招かれている立場である少年に粗相をしてしまえば、どうなるかは想像に難くない。使者を殺してしまえば、友好関係を結ぶことはできなくなる。それは、戦国時代に使者が大事に扱われていた事実からも理解できることである。

 

 

「貴方を死なせてしまうということは、そのまま交流が断絶することになるのよ? 幻想郷を管理している立場の八雲紫との繋がりが完全に無くなってしまうの」

 

 

 使者を殺すことは―――国交を断行することだ。八雲とはこれ以降関係を持たないというに等しい。最悪、八雲との関係が修復不可能になる。戦争状態に陥る。

 

 

「繋がりが無くなるだけでも厳しいものがあるのに―――戦争にまで発展したら失うものが多すぎる。貴方が死んで八雲と戦争状態になるのだけは絶対に避けなければならないのよ」

 

「分かっているよ」

 

「本当に分かっているのかしら?」

 

 

 パチュリーの疑いを持つ瞳が少年へと向けられる。

 本当に事の重大さが分かっていれば、フランと二人きりになりたいなど言わないはずである。パチュリーの視線が少年を射抜くように突き刺さる。

 少年はパチュリーの視線に我慢できなくなったのか、困った表情を浮かべた。

 

 

「僕も随分と信用ないよね」

 

「当たり前でしょう? 貴方とは会って一日しか経っていないのよ。信用しろって方が無理な話よ」

 

「うふふっ……」

 

 

 まさにその通りである。理論的に考えれば、パチュリーの言っている結論に至るだろう。信用は後ろにある権力によって支えられるか、積み立てられてきた小さな出来事によって構成されている。

 銀行員が契約の話をして、信用して欲しいと言われれば、銀行員を信用するのではなく銀行を信用するだろう。これまでの銀行の素行から信用してもいいと判断するだろう。

 それは―――残念ながら八雲紫にはない部分である。だったら後者しかないわけなのだが、会って1日しか経っていない状況で信用など積み立てているわけがなかった。

 フランは、二人のやり取りにくつくつと笑いを堪える。

 少年とパチュリーは、笑いを堪えるフランを無視して話を進めた。

 

 

「でも、ここは引いて欲しい。なんなら遺書でも何でも書いてあげるから」

 

 

 遺書―――それはつまり遺言を残すという意味になる。死を覚悟しているというニュアンスになる。

 まるで死んでも良いと言っているようだ。パチュリーはそこまで言う少年を不思議に思い、問いかけた。

 

 

「そこまでして二人きりになりたいのかしら?」

 

「そうだよ」

 

「はぁ、貴方もレミィと一緒ね。一度言い出すと言葉を曲げないのは……」

 

 

 パチュリーの口から思わずため息が出た。少年の変わらない意志にレミリアのことが想起される。

 少年の意志は、どれだけ理屈を述べても曲がらない。一度決めてしまったことは変えられないと言わんばかりに真っ直ぐに意志を示している。

 パチュリーは、しばらくの沈黙の間沈黙によって間を空けると少年に条件を突きつけた。

 

 

「条件を付けるわ。私たちが部屋を出て行く代わりに監視をさせてもらう。少しでも危ない動きが見えたら即座に入るから」

 

「それでいいのなら」

 

 

 少年は、即座にパチュリーからの条件を飲み込む。そもそも少年としては、パチュリーの提示している条件を拒否する理由がない。別にここから犯罪となるようなことをするわけでも、してはならないことをするわけでもないのだから。

 パチュリーは、少年の目を睨み付けるように見ながら持ち合わせている一冊の本を手渡した。

 

 

「これを持っていなさい」

 

 

 手渡されたパチュリーの本に視線を集め、まじまじと見つめる。

 この本を持っているだけでいいのかな。この本に監視ができるような、そんな便利機能がついているのかな。

 少年は、興味深げに本に目を奪われていた。そんな少年の視界に入るように本の上に右手が置かれる。パチュリーは、ぽんと本を一度叩くと少年に告げ口するように囁いた。

 

 

「くれぐれも気を付けるのよ」

 

「気を付けてください」

 

 

 パチュリーと咲夜の二人は、置き言葉を残して外の扉の方へと歩いていく。

 パチュリーの後を追いかけると思った咲夜は、扉を出るというところで止まるとフランへと言葉を投げかけた。

 

 

「妹様も、笹原に対して粗相を働かないように気を付けてくださいね」

 

「そんなことしないわ」

 

「それなら安心です。失礼いたしました」

 

 

 フランの答えに満足そうに咲夜の顔に笑みが作られる。フランは、これまで見たことのない咲夜の表情に少し驚きながら咲夜の後姿を見送った。

 扉は完全に締め切られ、二人の姿が見えなくなる。

 フランの視線が扉から少年へと移る。そして、心の中に渦巻く不思議な感覚に戸惑いながらもフランの口が開かれた。

 

 

「ねぇ、どうして私を信用してくれたの?」

 

「どうして信用されないと思ったの?」

 

 

 フランの質問は、すぐさま少年に質問で切り返された。

 どうして信用してくれたのなんて質問は―――聞くほどのものではない。少年がフランを信用した理由など一つしかなく、言うほどのことでもないと思っていた。

 初対面の相手と話をする際に相手を信用しないということは、そのまま会話の拒絶になる。曲がりなりにもフランと会うために来ているのだから、フランのことを信用するのは当たり前で必要なことなのだ。フランの口にしている言葉を全て嘘だと思ってしまったら、会話などできやしないのだから。

 フランは、少年からの切り返しに僅かに口を紡いだ後、苦しそうな表情で声を響かせた。

 

 

「……私、みんなから嫌われているし、危ないって思われているから」

 

 

 フランには、自分が紅魔館の住人に嫌われているという自覚があった―――危険物扱いされていることに自覚があった。

 

 

「あなたも言われたでしょう? みんなから危ないって」

 

 

 周りの目が―――注がれる。

 周りの声が―――耳に届く。

 目を塞いでも。

 耳を塞いでも。

 否が応でも入って来る。

 塞いだ手を素通りするように心に直撃する。

 長い間紅魔館の中に響く情報を拾って生きてきた。紅魔館の中だけが自分の世界。部屋の中だけが自らの生きている世界。そんなフランにとってそれは、聞きたくなくても聞こえてくるもの、理解したくなくても理解できてしまうものだった。

 

 

「そんな私と二人きりになるって言い出すなんて思わないじゃない」

 

「僕は、誰かからの評価をそのまま鵜呑みにはしないよ」

 

 

 少年は、暗い表情を見せるフランにはっきりと自分の気持ちを伝える。

 少年は、他人が言っている感覚的なものをそのまま鵜呑みにすることは決してない。今まで生きてきて一度だって相手の感覚をそのまま受け入れたことはなかった。

 なぜならば、他人の評価はあくまでも他人が決めた評価であるからだ。

 

 

「周りの人はどう思っているか分からないけど、僕が理解してくれていると、気持ちを共有してくれていると思っているかもしれないけど――――僕は一度だってそのまま受け入れたことは無いよ」

 

 

 真偽のほどが分からない、程度も分からないような他人の基準を受け入れる。そんなこと少年にはできない。受け入れることができていれば、こんなふうに生きていなかった。

 基準は自分で作る。自分で境界線を引き、心に刻む。それが少年のやり方―――変えられない少年の生き方だ。

 分かってもらえたと思っているのは、相手が勝手に受け入れてくれたと勘違いしているだけだ。あるいは、いつの間にか少年に合わせている事実に気付いていないだけだ。

 

 

「僕の見えている景色とみんなが見ている景色は違うし、僕から見た世界とみんなから見た世界は違うから」

 

 

 少年の心は、境界を曖昧にする程度の能力によって独自の世界が構築されている。

 少年の特殊な心の中では誰かの評価をそのまま鵜呑みにすること=自分の中にその人のイメージを作ることになる。

 

 

「僕が見ている世界は、いつだって僕のものだ。僕だけが決めていい世界だ。良いも悪いも、僕の世界の境界線はいつだって僕が決める」

 

 

 先入観は、少年の判断基準を大きく鈍らせる。境界線が引かれている少年にとって、他人からの評価は悪影響にしかならない。勿論、世間で言われていることをそのまま受け入れることは必要なことであるのだが、そういったことは家族と相談して受け入れるという態勢を取っている。少年の両親が生きていた時ならば父親と母親に相談し、今では紫と藍に尋ねている形になっていた。

 

 

「誰かが引いた境界線は、あくまでもその人の中での話だ。僕の決めた物とは違う」

 

 

 あの人が言っているからそうなのだろうという概念は少年に迷いを生じさせる。人参がまずいという他人からの主観を受け入れれば、人参はまずいものとして分類されてしまうことになる。

 特に少年の場合は―――見えている景色が他人と全く違う。

 だからこそ―――少年は自分の世界を大事にしてきた。他人の価値観を鵜呑みにすることなく、自分の領域を守ってきた。

 

 

「当然のことだけど、みんなから見た君と僕から見た君は全然違う。僕は、あくまでも僕が見た景色の方を大事にしたい」

 

 

 少年は、そこまで話すと笑みを浮かべて最後の落としどころを作った。

 

 

「それに、幻想郷に来てしまっている以上、他人に合わせる意味はあんまりないからね」

 

「うふふ、貴方はおかしいわ。私はあんまり多くの人間と会ったことないけれど、貴方が変わっているのは分かるもの」

 

 

 フランは、少年のコメントを聞いて笑う。そして同時に余りに自然に浮かんだ笑みに疑問を抱えた。

 なぜなのだろうか、話していると自然と気持ちが落ち着いてくる。今まで会ったことのないタイプだからなのか。あくまでも平常心でいてくれるからなのか。いつも湧き上がってくる暗い感情が身を潜めている。

 少年は、そっと笑顔を浮かべるとフランへと近づき、言葉を口にした。

 

 

「そういえば自己紹介がまだだったね。初めまして―――僕は笹原和友という変わった人間だよ」

 

「初めまして。私は、フランドール・スカーレット。どこにでもいる普通の吸血鬼よ」

 

 

 フランは、視線を合わせてしっかりとお互いの存在を示す。お互いの名を交換し、お互いの存在を認知した。少年の名前を心の中に入れ込んだ。

 

 

「ずっと立ってお話しするのもあれだし、座ってお話をしましょう?」

 

 

 少年はフランの提案を飲み込み、一度だけ頷いた。

 フランは、少年の反応に満足するように一度頷くとベッドへと向かって腰を下ろす。

 フランがベッドに座ったということは、自分はどこに座ればいいのだろうか。周りを見渡し、自分の座る場所を探す。座る場所と言えるところは、ベッドとは離れたところにある机に備え付けられている椅子だけである。

 少年は、その椅子に座ればいいのかなと椅子に向けて歩き出した。

 

 

「えっと、僕は……あれに座ればいいのかな?」

 

「そっちじゃないわ、こっちに座って」

 

 

 想像通りに動かない少年に向けてフランから即座に口が挟み込まれた。フランの右手が自分の座っているベッドの隣をポンポンと叩いている。

 ―――そこに座るのか。少年は、フランの行動に自分がどこに座ればいいのか理解するとベッドへと足を進めて腰を下ろした。

 少年が座った瞬間、僅かにベッドが沈む。随分と軟らかいベッドだった。

 とても懐かしい感覚である。外の世界ではベッドだったが、マヨヒガでは布団で過ごしている少年にとってベッドの感覚は懐かしさを感じさせる。

 少年は、僅かにフランの方向へと体を向けるとフランへと声をかけた。

 

 

「フランドールは」

 

「フランでいいわ。名前長いし、呼びにくいでしょ?」

 

「じゃあ、フランって呼ばせてもらうよ」

 

「そうして」

 

 

 フランドール―――フランは少年の言葉を遮り、自分のことを略称で呼ぶように言った。少年はすぐさまノートを取り出し、フランの名前を書き込み、フランに間違っていないか確認する。

 

 

「これで合ってる?」

 

「こんなもの確認しなくても分かるでしょ? そのままよ」

 

「そっか、ありがとう」

 

 

 少年は、フランの言葉を聞いて満足するようにノートを閉じる。

 

 

「お兄さんは」

 

「ごめん、その呼び方はやめてくれないかな」

 

 

 今度は少年の方がフランの言葉を遮り、口を挟み込んだ。

 どうしてダメなのだろう。お兄さんという呼び方は拒否したくなるほど嫌な呼び方だろうか。今までこんなやり取りをしてこなかったフランには、少年が拒否する理由が分からなかった。

 ただ、例え人間とのコミュニケーションが得意だったとしても言わなくても分かることはなかっただろう。少年には少年の事情がある。嫌悪感のような感情論からではなく、事務的な理由が存在する。

 フランは、少年のことをお兄さんと呼ぶことに対して拒否の姿勢を示す少年に疑問を投げかけた。

 

 

「どうして? お兄さんと呼ばれるのは嫌なのかしら?」

 

「嫌というより、その呼び方だと誰のことを呼んでいるのか分からないからね」

 

「2人きりだから分かるでしょ? ここには、私とお兄さんの2人しかいないじゃない」

 

「そうなんだけどさ」

 

 

 フランには、意味が分からなかった。

 ここには二人しか生き物がいないのだから誰に言っているのかなんて一目瞭然のはずである。誰かが自分以外のことを指す言葉を告げれば、それはそのまま相手のことを指していることになるはずである。それなのに、分からなくなるってどういうことなのか。

 

 

「それは、そうなんだけど……」

 

 

 フランの言う通り、分からなくなるってことはない。こと二人しかいない状況では、さすがに分からないということはなかった。

 しかし、それはあくまでも二人の状況だからだ。二人以上になれば分からなくなる。もちろん今だけの関係だったら、これからも会うことのない関係だったらそれでもいいのだが―――少年はこの出会いを今日だけのものにするつもりは全くなかった。ノートに記したことから、これからも何かしら接点があるものだと思っていた。

 今はいいかもしれない。

 だけど、未来を考えたら名前で呼ぶべきである。

 

 

「これは、みんなにもお願いしていることなんだけど……」

 

 

 少年は、自分に対する呼び方に関してこれまでずっと周りの人間に対してお願いしている内容を口にした。

 

 

「僕は、名前で呼ばれないと自分のことを呼んでいるのか判断がつかなくてさ。お前も君も貴方も人間も、もちろんお兄さんも、顔を見ながら言われているから自分のことだって理解できるだけで、人がいるところで後ろから呼び止められたら反応しないから」

 

 

 少年は、抱えている境界を曖昧にする能力上、名前で呼ばれないと反応することができない。直接的に言えば、3人称で呼ばれた場合に誰のことを呼んでいるのかを識別できないのである。

 お前も、君も、お兄さんも、誰のことを指している言葉なのか理解できない。顔を見ながら話されているから自分のことなのだろうと予測できるだけであって、呼びかけに使う場合には役割を成さない言葉になってしまう。

 だから、他の妖怪や人間から呼ばれるときは、おおよそ笹原や和友といった名前を呼んでもらうようにしていた。

 ちなみに、少年から最初に名前を呼ぶように強制されたのは橙である。

 

 

「変なの」

 

「そう、変なんだよね」

 

 

 少年はフランの変なのという言葉を拒否することなく、真っ直ぐに受け取った。

 フランは、自分のことを変だと認める少年に怪訝そうな様子で尋ねた。

 

 

「……認めちゃうの? 自分が変なんだって」

 

「うん。だって事実だから。僕は、周りから見たら十分に変なんだよ」

 

 

 今までもさんざん言われてきたことだ。今までもさんざんおかしいと思っていたことだ。フランから言われて思ったのは、やっぱり妖怪や吸血鬼から見ても変に見えるのかと、納得する感情があっただけである。

 

 

「…………」

 

 

 未知の者に出会って、フランの頭の中は混乱する。

 分からない。

 分からない。

 変だという言葉は、相手を拒否する言葉だ。

 理解できないという言葉とイコールの関係だ。

 理解できないということは、拒否される、否定されているのと同じだ。

 それなのに、なんでそんなに平然と言えるのだろうか。

 それなのに、どうしてそんなに当たり前のように言えるのだろうか。

 フランは、何も感じていないように話す少年に不思議そうに尋ねた。

 

 

「……嫌じゃないの? 周りと違っておかしいんだって言われるの……」

 

「それはもちろん嫌だよ」

 

 

 以外にも嫌だという気持ちは同じようだった。

 おかしいと言われていることに対し、嫌だと感じている。

 自分と同じような気持ちを持っている。

 同じ感覚を持っている。

 そんな少年に親近感を覚えた。

 同族のような親しみを覚えた。

 

 

「私は、おかしいって言われるのが怖いの。心が悲鳴を上げるの。痛い、痛いって、ここが叫んでいるの」

 

 

 そっと胸に手を当ててみる。

 そこには忘れられない記憶が刻まれている。

 深い深い傷が隠れるように残されている。

 

 

「普通じゃないって、おかしいって言われることの恐怖は、誰よりもよく知っているわ」

 

 

 フランは、よく知っている。

 普通じゃないと言われることの恐怖感を

 周りと違うということを言われることの疎外感を

 おかしいと言われることの圧迫感を

 それは―――心の中を抉り取る言葉の槍である。

 お前はおかしいという言葉が心を殴りつけ、普通じゃないという言葉が心を削り、何も言い出せない不満と怒りだけが身に溜まっていく。

 うるさい。黙れ。それが私にとっての普通なのに、それをおかしいなんて言わないで。そういう気持ちがどんどん心の底に溜まっていく。

 

 

「僕も良く知っているよ」

 

 

 外の世界において人に合わせ、境界線を引くことを覚えた少年はおかしいと言われることはなくなった。

 それでも、常に一歩下がって周りを見つめるような環境から、孤独感から逃れられたことはなかった。フランと少年の違いがあるとすれば、自分を殺して別の自分を作ったか、自分を守って自分を保持しているかの違いだけである。

 

 

「僕は、周りと違うことで周りを乱している自分が、周りと同じじゃない自分が嫌いだった。いつだって疎外感はあったし、孤独はいつだって襲ってきた。朝も昼も夜も、いつもいつも変わらずにあった」

 

 

 フランは、自分と同じように嫌だと感じている少年に安心を得る。

 しかし、少年の言葉はフランの安心を打ち消すように次へと繋がった。

 

 

「でも、同時に安心もしたかなぁ」

 

「安心?」

 

 

 安心という言葉は、フランの眼中にない言葉だった。

 これまで普通と違うと言われて安心したことなんて一度もない。安心なんてほど遠い感情がいつも心の中に湧き上がって、どうしようもなくなることが多かった。

 どうしてそう思ったのか。不思議でたまらなかった。

 そして、疑問を口にしようとしたところで―――少年からその答えを告げられた。

 

 

「だって、みんな自分みたいなやつだと思うと気持ちが悪いでしょ? 僕は、みんな僕みたいじゃなくて本当に良かったと思うよ」

 

「……それは、うん……そうかもしれない」

 

 

 フランの視線が下に落ちる。

 少年の言っていることは、もっともらしく聞こえた。周りがみな自分のような生き物という想像を脳内に描いてみる。みんな、自分と同じ。違いなんてなくて、みんな自分みたいな生き物。

 ―――どう考えても気持ちが悪い。上手くいっているところが何一つ想像できない。秩序もなく、お互いに歯車の噛み合わないさまは見ていられなかった。

 フランは、自分がおかしいという自覚がある。気が狂っていると言われる理由も分かっている。それが他の人間にとっての普通だったら世の中が回らないことも、何となく理解できた。

 

 

「そんなこと、考えたこともなかった」

 

 

 新しい考えがすとんと胸の中に落ちていく。

 心が渇きから解放され、潤いを得ている。

 少年と出会って僅かな時間しか経っていない。

 まだ、少ししか話をしていない。

 それなのに、もうすでに随分と話したような気がする。

 

 

 それでも、何かが足りない気がする。

 心が何かを求めている。

 フランは、自分の世界がゆっくりと広がっていくのを感じていた。

 


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