心配するのは、いつだって自分の周りの人間のことだけ。
途中で、付き人としてパチュリーも参加する。
少年の印象はーーー変わった人間。
いつだって、そんなものだった。
図書館を過ぎたあたりで階段を降り、外の光が全く入らない地下へと足を踏み入れる。
地下といっても、地上と景観が変わる様子は全くない。真っ赤な背景はいまだ継続の状態である。
暫く歩き続けると正面に大きな扉があるのが確認できた。
きっとここだろう。ここが目的地だ。
他に見える扉はない。行く手を阻むようにある扉で行き止まりである―――ここでなかったら道を間違えたことになる。1本道で歩いて来たこの道が間違っていたことになる。戻ったとしても選ぶ選択肢はないというのに、間違っていたことになる。そんなわけがないだろう。ここが正解で、たどり着くべき未来だ。
視界に入ったその扉の奥にフランドール・スカーレットという人物がいる。
少年は、ゆったりとした動作で振り返り、パチュリーと咲夜に問いかけた。
「私が会うべき人がいるのは、ここで合っていますか?」
「「…………」」
「そうですか」
パチュリーと咲夜は静かに頷き、少年の問いかけに肯定の意を示した。
少年の視線が再び正面の扉に向けられる。少年は扉の前まで足を進め、軽く手を握った。
―――トントントン―――
扉を3度叩く。無断でいきなり部屋の中へと入るようなことは決してしない。これはマナーである。少年は、自分がされて嫌なことは極力しないというか絶対にしない。
嫌なことというのがほとんどない少年でも、ある程度の拒否したい領域がある。特に書き記す作業を行っているときに無断で入られるのは、驚きと嫌悪感に包まれることになる。見た相手側にとっても、見られてしまった自分側にとっても、両方にとって喜ばしくない結果が表れてしまう。
フランドールにとってもそんな行動があるのかもしれない。そう考えると無断で入ることはできなかった
「…………」
暫くの間扉の前で立ち止まり、茫然とする。
しかし、いくら待っても扉の奥からのノックに対する反応はなかった。何も反応が返ってこない。もしかして部屋の中にいないのではないだろうか。本当にこの中に会わなければならない人物がいるのだろうか。
少年は、不思議そうに二人に問いかけた。
「私が会うことになっているフランっていう相手は、確かにここにいるんですよね?」
「ええ、そうよ。ここにいらっしゃるわ」
咲夜は、確かにフランという人物がここにいると言う。咲夜が敬語を使うあたり、相手の位が高いことは何となく想像できた。
「……反応がないな」
暫く待ったが、ノックに対する反応が全くないため部屋の中に入ることが叶わない。まさか、勝手に入るというわけにもいかないだろう。少なくとも、勝手に入ってもいいという許可が得られなければ失礼に当たる。というよりもはや無礼である。
このまま―――待つか。
美鈴が起きるまで待っていた時のように。あのときのように待ってみるか。
そう思ったが、脳内にある人の言葉が木霊した。
「変わろうとするのなら動きなさい。変化を待っていても何も変わらないわよ。貴方の問題は時間が解決してくれない」
―――その通りだ。変化を求めるのならば自ら動かなければ。この件も、時間が解決してくれるわけでもないのだから。
「勝手に入っても大丈夫ですか?」
「勝手に入ればいいわよ。そもそも、ここに入るときにノックをする人間なんて初めて見たわ」
パチュリーは、薄く笑いながら言う。
部屋に入るときにノックをしないのか。ここにといっているあたり、‘ここだけ’が特殊な扱いを受けているのか。
フランという人物の扱いに少しばかり戸惑う。一体全体どんな扱いをされているのだろうか。
そんなことはどっちでもいいことだ―――心の奥底から凄まじい勢いで湧き上がる疑問を無理矢理飲み込む。今やるべきことは分からない想いを打ち消すことではない。目の前の扉を開くことである。
「では、入らせてもらいますね」
少年は、一言断ってから目の前の扉を開く。
扉は大きな音を立てて開かれた。少年の視界が開けて部屋の全貌が明らかになる。
開けた扉の先はとても薄暗い。気持ちまで落ち込みそうな淀んだ空間で、全体として暗い印象を受ける部屋だった。
しかしながら―――そんな淀んだ雰囲気の部屋の中と外とで変わらない部分が一つだけあった。
「ここも真っ赤か……」
ここまで来るともはや称賛したくなる。したくなる気持ちもあったが―――紅魔館の赤に敷き詰められた構造にうんざりした。
紅魔館において赤色以外の色が見られるのは図書館を除いてないのかもしれない。
そんなことを考えながら部屋全体に目を配る。
部屋の中央には大きなベッドがあり、人形がそこらかしこに転がっている。中身の綿が飛び出しているのもいくつかある。散らかっている様相から見る限り、部屋の清掃はあまり頻繁には行われていないようである。
「あれは……」
視線を感じる。少年は、薄暗い部屋の中からの視線に気づいた。薄暗い中で光り輝く視線が少年に降り注いでいる。
ベッドに腰掛けている相手―――フランドールの真っ赤な瞳は興味深げに少年を映していた。
少年は後ろにいる咲夜に問いかける。
「あの子が?」
「そうです」
少年は、咲夜の答えで視線を向けられている相手がフランドールであることを認識した。
随分と雰囲気が暗い。閉じこもった部屋の空気のせいだろうか。向けられている視線にも力を感じない。ぼんやりと見つめているような、曖昧なものを見つめているような―――そんな瞳だった。
顔立ちはさっき会ったお嬢様と呼ばれていた人物とそっくりだったが、血縁関係を悟ることができる要素を暗い雰囲気が粉々に粉砕している。環境が違うせいなのか。それとも、血縁関係がないのか。少年には分からなかった。
暫く視線を送っていると、視線のもととなっている相手はゆっくりと立ち上がる。そして、ゆったりと少年の方へ近づきながら口を開いた。
「貴方は、だあれ?」
「私は、笹原和友という人間です。今日は貴方に会うように言われてここまで来ました。よろしくお願いします」
「ふふふっ、人間ってこんな感じなのね。飲み物の形でしか見たことないから初めて見たわ」
フランは歪な笑みを浮かべながら少年にさらに近づき、不敵に笑った。
先程から思ってはいたが、やっぱり今まで会ったことのないタイプだ。何を想っているのか、何を怖がっているのか、何があったのかさっぱり分からない。きっと自分には分からないような想いをしてきているのだろう。きっと今まで見たこともないようなことを体験してきたのだろう。
新しい者だ―――少年は、フランという人物に新しさを感じていた。
フランドール・スカーレットは、少年の後ろに控えているパチュリーと咲夜に歪な表情を張り付けたまま問いかけた。
「咲夜もパチュリーも、新しいおもちゃを連れて来てくれたの?」
おもちゃという単語を聞いて少年の目が細まる。
おもちゃ―――それは玩具のことだろう。曲がりなりにも人間に向けて使う言葉ではない。
咲夜とパチュリーは、フランの言葉に厳しめの顔を作った。
「妹様、違います。この方はお嬢様が招いたお客様です」
「あいつのお客様……?」
フランは、咲夜の言葉に怪訝そうに呟きながら少年の全身を見渡す。
その瞬間、パチュリーの手元にある本がそっと開いた。
これが、パチュリーの臨戦態勢なのだろうか。本から何か飛び出してくるのかもしれない。そんなことを平常時であれば平然と考える少年だったが、悠長に考えている余裕は残念ながらなかった。
どうしたらいいのだろうか。見渡してくるフランドールに対してどうしていいのか分からず、立ち尽くす。
フランドールは、少年を見渡した後に機嫌が悪いことを全員に示した。
「ねぇ、咲夜もパチュリーも出て行ってくれないかしら?」
フランの纏っている雰囲気は、誰から見ても不機嫌だった。機嫌が悪くなっている原因は、先ほどの言葉に含まれている“あいつ”が元となっているということは誰の目から見ても明らかである。
しかし、不快になっている理由が分かったところで少年にできることは何もない。
あいつ―――それは代名詞だ、固有名詞じゃない。少年に理解できるように話すには、少年の理解できる言葉で話さなければならない。
咲夜とパチュリーにはあいつというのが誰のことなのか分かっているようだったが、少年にはあいつが誰なのかも、どうして機嫌が悪くなっているのかも分からなかった。
咲夜は、出て行けというフランに向かってはっきりと無理だということを伝える。
「外に出て行くことはできません」
「どうして? 私、何もしないよ?」
「それでもです」
フランは、表情を歪めたまま何もしないと言う。何もしないから安心して出て行って欲しいと言う。
確かに、フランが少年を傷つけないというのならば特に咲夜とパチュリーが控えている必要はない。少年の身を守るためにここにいる二人は、目的が果たされるというのならば存在価値がなくなるからだ。
しかし、咲夜はここでフランの要望を受け入れることができなかった。部屋から出られない確固たる理由があった。
「妹様が何をおっしゃたとしても、私たちはここにいます」
フランと少年を二人きりにしてしまったらどうなるか分からないからだ。
つまり―――信用がないのだ。
ここで二人が部屋から出て行ってしまえば、少年に危害を加えられそうになった場合に止めることができるストッパーが存在しなくなる。二人きりにして少年に危害が及べば、レミリアに対しても八雲紫に対してもどんな顔を向ければいいのか分からなくなる。
フランは、全く引く様子の無い咲夜へと問いかける。
「どうしてなの? 私に信用がないからなの? 私が危険だからなの?」
「…………」
フランの問いかけに咲夜の口が詰まる。
部屋を出て行くことができなかったのは―――フランの言葉を信じれば心配無用とのことなのだが、フランの言葉を信用できなかったからで違いない。部屋を出た場合、これまでのフランの行動から咲夜の脳裏に最悪の結果が予期される。これまでのフランのイメージが咲夜の脚をその場に留めていた。
理由はある。出て行けない理由は口にされた言葉で間違っていない。
けれども、それを直接フランへと告げる度胸が咲夜にはなかった。それがきっかけでフランドールが力を開放してしまったらという想像が頭から離れない。ここでフランドールに暴れられられたら最悪の状況が起こりうるかもしれないという恐怖が咲夜の口を縛っていた。
「妹様、それはですね……」
「そうよ、貴方に信用がないから。貴方に任せるとこの人間を殺してしまう可能性があるからよ」
(パチュリー様! 妹様は何をするか分からないのにそんなにはっきりと言ったら……)
咲夜は、驚きを含んだ表情を浮かべてパチュリーを見つめた。
パチュリーは、こんなことをはっきりと言う人物だっただろうか。
これまでは、暴れるフランに対してのらりくらりとあしらって抑え込んできたはずである。特に怒るわけでもなく、ただ作業を行うようにフランを抑え込んできたはずである。レミリアに頼まれているからという理由で、読書を邪魔されるのが嫌だからという理由で、仕方がないからという理由で抑え込んできたはずである。
それほどこの出会いが大事なのだろうか。咲夜は、パチュリーの対応に事の重大性を感じ取った。
(パチュリー様は、危機感を覚えていらっしゃるのかしら?)
「っ……」
フランは、余りにはっきりと理由を述べるパチュリーに歯ぎしりをする。こうまではっきりと信用がないと言われてしまうと誰でも気分の良いものではないだろう。
(うーん、どうしたものだろう)
少年は、3人のやり取りを静かに眺めていた。
少年にできることは何もない。会えとだけ言われた少年は、何かを求められていたわけでも、何かを期待されていたわけでもないのだから。少年の視界は俯瞰するように場の状況を映していた。
そんな中、フランから今にも殴り掛かりそうな雰囲気を醸し出され、大声で叫ぶ声が空間を支配する。
「出てって! この部屋から出て行ってよ!!」
「貴方がなんて言ってもここから出て行くことはできないわ。ここで笹原が死んでしまったら、いろいろと問題があるのよ」
「だから殺さないって! 私を信じてよ!!」
フランは、手を大きく振り下ろして体全体で拒否の気持ちを表現する。少年を殺さないということを信じて欲しいと必死に訴える。
しかし、フランの気持ちはパチュリーには届かない。パチュリーは何と言われても引くつもりなど微塵もなかった。ただただ、困った表情を浮かべているだけだった。
困った顔―――そう、その表現が正しい。苛立ちを感じている様子は無い。怒りを感じる要素は何もない。困った、そう表現するのが最も正確な顔だった。
なんだというのだろうか。どうしてこうなっているのだろうか。
分からない、分からない。
なぜ、こんなことを話しているのだろうか。
なぜ、こんなことを言われているのだろうか。
なぜ、退くに引けない感情に囚われているのだろうか。
パチュリーは、内心で戸惑いを隠せていなかった。
少年は、終わりのなさそうな言い争いを見てそっと咲夜に耳打ちする。
(ねぇ、この二人はいつもこんな感じなの?)
(いいえ、そんなことはないわ……こんなパチュリー様、初めて見たもの)
咲夜は、余りに平常と違う二人の様子にただ呆然と立ち尽くす。
少年は二人のやり取りを、遠くを見つめるような様子で視界に収める。
目の前で起きている出来事に二人とも介入できなかった。
そんな均衡状態のような緊迫した雰囲気の中、パチュリーはフランに向けて火に油を注ぐような言葉をぶっかけた。
「フランの言っていることは何も信じられないわ。どこに信用できる要素があるの? レミィだって心配だから私たち二人をこの人間に付けたのよ? 私たちが出て行ったら何の意味もないじゃない」
「それ以上言ったら殺すわよ!」
フランの瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。心の中に溜めに溜め込んだ感情の起伏の最終的な最高値が口から吐き出される。感情の行き着いた終着点の殺すという物騒な言葉を口に出した。
それは―――フランにとって現実的な案で、幻想でも妄想でも何でもない。フランの殺すという言葉には、これまで行ってきた所業を考えればそれだけの真実味があった。
フランの殺すという物言いにパチュリーの顔が呆れたものに変わる。
「はぁ、やっぱり八雲の遣いである笹原を会わせるべきじゃなかったのよ」
パチュリーは、踵を返して部屋の外へと体を向ける。これ以上ここにいても得られるものは何も言わないばかりに、一方的な終わりを告げた。
「戻りましょう。これ以上ここにいる理由はないわ。一応お目通りはしたのだし、もういいでしょう」
「パチュリー様……」
パチュリーは、完全に少年とフランを会わせることを放棄しようとしていた。もともと会わせること自体に余り賛成でなかった身としては、これで十分だと思っていた。
会わせたことには、会わせたのである。目でお互いの存在を確認した。
「笹原、出ましょう」
咲夜は、複雑な表情を浮かべながらパチュリーに付き従おうと考えた。何よりも自らの心を支配する恐怖と不安に従おうとしていた。こうなってしまっては早めに部屋の中から出た方が良い。このままフランの部屋にいれば命の危険がある。
だが、そんな流れに少年だけが逆らった。
「ねぇ、二人とも出てってくれるかな? 僕も、1対1で話がしたい」
「「「え?」」」
―――少年以外の人物からの声が綺麗に重なった。
咲夜とパチュリーは、少年の拒否の言葉に対して驚愕と動揺を含めて。
フランは、少年の賛成の言葉に対して驚愕と動揺を含めて。
咲夜とパチュリーの表情が一気に険しくなる。
「笹原、何を言っているの?」
「……冗談を言うのは止めなさい。死んでも知らないわよ?」
「僕は死なないよ」
少年は、二人の問いかけに自然な笑みを浮かべる。心配している様子を見せず、不安を感じている様子を見せず、フランへと笑いかけて問いかけた。
「だって僕を殺さないんでしょう?」
フランは、唐突な少年の質問にきょとんとした表情を作るとすぐさま動揺を隠せないまま首を縦に振った。
「う、うん……」
「ほら、大丈夫だって」
呆気に取られている二人は、余りに淡泊な少年の言葉に文句を言おうと口を開きかける。大丈夫な補償など何もないと。どうしてフランを信用するのかと。喉まで出かかっている言葉を吐き出そうとする。
しかし、二人の喉まで出かかっている言葉は少年の勢いに飲まれた。
「僕は君を信用するよ。だから、二人とも出て行ってくれないかな。もしもの時は助けを呼ぶから扉の外で待っていて欲しい」
(なんで……?)
フランは、信じられない物を見るかのような目で少年のことを見つめていた。
信用する―――初めて言われた言葉だった。
心が何とも言い難い感情に支配されていた。
どうしてという疑心と信じてもらえた嬉しさが混在して困惑する。
少年は、そこまで喋るとさすがに周りから注がれている視線に耐えきれなくなったのか、途端に勢いをなくして申し訳なさそうに言った。
「それでいいかな?」
「ふざけないで、ダメに決まっているわ」
「うーん……じゃあどうすればいいの?」
「どうしたって駄目よ」
「…………どうにかならないかな?」
「どうにもならないわ。信用ならないもの。あなたもフランと同じで信用がないのよ」
パチュリーは、少年の願いをばっさりと一刀両断する。
少年は困った顔になり首をかしげて何とかならないかなと言葉を続けるが、どうしたってパチュリーに一閃されてしまい意見が通らない。
どうすれば分かってもらえるのだろうか。
やはり、信用がないと通してはくれないのだろう。
だとしたら今から積み上げればいいのか。
残念ながらそんな時間はない。
少年はますます険しい表情になり、うなりを上げた。
「……どうにも難しいな。今すぐにでも仲良くなれませんか?」
「ふざけないで! 今の状況で何を言っているの!?」
「ふふふっ」
フランは、少年とパチュリーのやり取りにくすくすと笑う。余りに突拍子もないことを言っている少年と常識的なことを話しているパチュリーとで余りに噛み合っていない様子は、フランの心を燻ぶった。
(妹様……?)
咲夜は、フランの一度も見せたことのない無垢な笑顔に動揺する。
思えば、フランの笑顔を見たのはいつ以来だろうか。もしかしたら一度も見たことがないのではないだろうか。
咲夜は、心の中に不思議な感情が芽生えるのを感じていた。
作者にとってのフランのイメージで書いています。
あんまり、イメージと合わない人もいるかもしれませんね。