知りたいことがあれば質問すればいい。
「私の名前は、
「妖怪……幻想郷の管理人……」
意味不明な女性の名前は、八雲紫とのことである。
八雲紫は、自慢げに誇らしげに自分のことを少年に紹介した。
少年は、少し前まで話していた内容を思い出す。幻想郷というのは、世界そのものの名前だったはずである。その幻想郷という場所の管理人ということは、世界を統べる人物と言っても大きく違わないだろう。
それに、妖怪というのはあの妖怪だろうか、少年はとんでもない人についてきてしまったと思った。
妖怪に連れてこられたなんて正気の沙汰ではない、到底少年の中の普通の範囲に収まる内容ではなかった。
しかし、そんな後悔はすでに遅い、もう少年は妖怪に連れ去られてしまっている。この事実は今更になって翻ることはないため、後悔などするだけ無駄な状況になっていた。
「次は藍、自己紹介しなさい」
「私の名前は、
紫の自己紹介に続いて、先程紫に呼ばれてやってきた人物が自己紹介を始める。尻尾の生えた女性は、八雲藍というとのことである。
九尾といえば、結構名の知れた存在である。それこそ漫画でも良く出てくるぐらいにはメジャーな存在だ。九尾という名前については、少年も勿論聞いたことがあった。
「…………」
少年は、二人の自己紹介の言葉を頭の中で咀嚼し、目の前の二人がどういう存在なのか理解しようと努める。
ただ、少年は二人からの話を聞いていて一つばかり分からないことがあったため、思考が前に進まなかった。自己紹介以前に、分からないことができていたのである。その疑問が―――少年の思考の流れを遮っていた。
少年が少しだけ手を上げて質問をする体勢に入ると、紫と藍は手を挙げた少年に注目した。
「あの、すみません。私の自己紹介をする前に聞いておきたいのですが、‘式’って何なのですか?」
「式というのはだな、使役されている者を指す言葉だ。つまり、私は紫様の従者という立ち位置になる」
少年の質問には、最初に式という言葉を使った紫ではなく、自己紹介で式という言葉を用いた藍が答えた。
「分かるか?」
「従者ですか。なるほど、分かりました。ありがとうございます」
藍が少年の疑問に答えると同時に理解しているかの確認をとると、少年は藍の問いかけに笑顔を作り、理解したという旨の言葉を送った。
少年は、藍の説明によって従者という言葉の意味を理解できたわけではなかったが、それが部下という意味に近いのだろうなと勝手に解釈していた。まだ中学生になったばかりの人間が従者なんて言葉を聞く機会がないため、言葉の響きや二人の様子から想像して、部下という理解をしていた。
ここで少年には、再び質問をするという選択肢があった。答えが曖昧なのが嫌なのならば、単純にもう一度質問すればいいだけの話である。
しかし、少年はそれをしようとはしなかった。従者という言葉の意味を聞き返しても、特に意味にある会話ができるわけでもなく、時間が無駄になってしまうことだろうと分かっていたからである。
少なくとも少年の目の前にいる二人の女性は、自分よりも遥かに上の立場の人間である。分からない言葉をいちいち聞いていたのでは話が進まない。少年は、後で聞けばいい、後で覚えればいいとそんなふうに考えていた。
幸いにも、少年の従者に対する想像は的中している。二人の関係性は、上司と部下で大きな差はなかった。
少年が式という言葉に対して想像した内容が合っていると理解するのは、もっと後の話である。
藍は、分かりやすい少年の返事に安心した表情を作った。
「紫様、やっぱりいい子じゃないですか。昨日おっしゃっていたようなとんでもない子ではなく、普通にいい子だと思いますよ」
「そういわれると照れますね。これから、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼むぞ」
少年は、褒められて少しだけ声を高くした。
藍は、紫の話から想像した少年と目の前にいる少年があまりにも違うため、気持ちを軽くする。これから共に生活していく身として、比較的容易に日々を送ることができると楽観視した。
「藍は、知らないからそんなことが言えるのよ……」
紫は、少年と藍の二人のやり取りを見てぼそぼそと呟いた。紫の声は誰にも拾われることはなく流れていった。
「では、最後に私が」
二人の自己紹介が終わる。
少年は、二人に向けて交互に視線を向けた。紫と藍は、少年の視線に答えるように少年の顔を見つめる。
少年は、今度は自分が自己紹介をする番だと口を開いた。
「私の名前は、
「へぇ、貴方はちゃんと今の状況を理解しているのね」
少年の自己紹介は、実に普通の自己紹介だった。他の二人と違って、それほど驚くような情報は何一つとしてない。
しかし、紫は少年の自己紹介にわずかに目を細め、感嘆とした言葉を述べた。
少年は、先程までは中学1年生をしていたと言った。それは、少年が中学生という枠には収まらなくなったということを、少年自身が理解していることを示す言葉である。
紫は、少年の理解能力の高さに驚いた。
「藍は、知っているかしら?」
「何をでしょうか?」
紫は、少年の普通の自己紹介の後、藍に向かって視線を向ける。藍は、どうしましたかと不思議そうな顔で紫を見つめ返した。
紫は、意地の悪そうな表情で藍に言葉を吐き出す。
「中学1年生っていうのは、初等教育を終えた者が中等教育に移って、1年目の者を指す言葉よ」
「言われなくても知っています」
「ふふふっ、怒らないの」
「怒っていません」
紫の言葉は、どこか皮肉のように聞こえた。少年には、少なくとも馬鹿にしているように聞こえた。少年が感じたように、言われている藍も同様に馬鹿にされているように感じたらしく、紫の挑発的な言葉を聞いて声に力を込めた。
紫は、藍の露骨な反応に口元を隠して笑う。
藍は、明らかに不機嫌な表情を作っており、藍が紫に対して返す言葉には、棘がついていた。
「フンッ」
(僕のせいなのかな……)
藍は、機嫌を損ねてしまって紫から視線をそらしている。もはや、紫と視線を合わせようともしなかった。
少年は、不機嫌になってしまっている藍に自分が何かまずいことをしたのだろうかと不安を抱いた。紫と藍の日常的なやり取りを知らない少年は、目の間の光景が普段からあるものなのか、自分がいるから今の状況が生まれているのか判断がつかない。
少年は、心の中に住む不安を取り除くために藍に対して質問を投げかけた。
「怒っているのですか?」
「怒っていません!」
藍は、少年の質問に肩を震わせ、湧きあがる怒りを堪えられず、少年からもそっぽを向いてしまう。
少年は、自分の質問が怒っている藍にさらに油を注ぐことになるとはいざ知らず、ごく普通に不思議そうな顔をして藍に問いかけてしまった。
少年に悪気など全くなかったが、藍にとってはこれもまた紫の言葉と同じようにおちょくっているようにしか聞こえない。
藍は、完全に機嫌を損ねてしまっていた。
「ふふふっ、本当に面白い子ね。狙ってやっているとしたら相当な策士よ」
「狙ってなんてやっていないよ」
「ふふ、そうね。貴方は天然だもの」
「よく言われるんだけど、その天然ってどういうことなの?」
「天然っていうのはね、狙ってもいないのに面白い現象を作り出す者に与えられる称号よ」
「そんな意味で使われていたんだ……」
少年は、不機嫌そうな表情で唸る。紫は、思わぬ二人のやり取りに笑みを浮かべた。少年は新たな事実を知って驚いているし、藍の様子は誰の目から見ても意地を張っているようにしか見えない。
紫は、意地を張っている藍の様子を楽しんでいた。思った通りと言わんばかりに、笑顔を作り、藍を見つめている。
紫は、一通り藍の様子を伺うと満足した様子で視線を藍から炬燵の中央へと視線を移し、何事もなかったかのように話を戻そうと場を収めはじめた。
「ふざけるのは、ここまでにしましょう。本題の方を進めていくわ」
「ふざけていたんですか?」
「紫様、ふざけるのは止めてください」
藍は、紫の言葉で自分がおもちゃにされていたのだと気付き、紫に向かって疑問を投げかけた少年に追随し、紫の行動を咎めた。
「…………」
紫は、藍の物言いに無表情な顔を作る。紫の表情からは得も言われぬような威圧感が放たれていた。
紫は、無表情のまま少年と少年に乗っかるようにして文句を言った藍にはっきりと告げる。
「話を戻すのは止めてくれないかしら? 時間は戻らないのよ」
「「…………」」
藍は、静かに膝の上で手を握り締め、紫の言葉に沸き立つ思いをぐっとこらえた。
少年は、特に怒るような様子も見せず、それもそっかと納得して頷く。
藍と少年の紫の言葉の受け取り方には、大きな隔たりがあった。
藍は、紫の返しが横暴に思えて仕方がなかった。
紫は一種の圧力を二人に対して加えてきている。それはまさしく、都合が悪いから話を戻したくないと言っているようなもので、蒸し返されたら面倒だからと言っているようなものである。
藍は、圧倒的な上の立場から物を押し付けるような物言いをしている紫に怒りを覚えていた。
紫は無表情のまま二人を見つめ、少年と藍は口を閉ざしまたまま黙りこくる。二人は、紫の言っていることが正論なだけに何も言い返せなかった。
確かにここで話を戻しても、話は一向に前に進まなくなるだろう。ああ言えばこう言う、こう返せばああ返ってくる。きっとここにいる少年と藍では、紫に対して口で勝つことはできない。例え反論の言葉を返したとしても、少年や藍が紫に対してどうこう言ったとしても、実がない言葉が返ってくるだけに決まっている。
藍は、こういった場合において紫と口げんかを始めても勝てる見込みがないことを知っていた。これまでの経験から分かっていた。
藍は、そっと怒りに握りしめた拳を解いた。
「もういいです。話を進めましょう」
藍は、紫に対して文句を言うことをすぐさま諦め、その心のまま諦めの言葉を口にした。少年はそもそも紫を咎める気は全くなかったので、言い争いになる状況ではなくなった。
「笹原もそれでいいか?」
「私は、一向に構いませんけど……というか構ってすらいないのだけど……」
藍は、少年に対して許可を求める言い方で尋ねた。藍は、少年も何かしら紫に文句を言おうとしていると勘違いしていた。先程少年が言った、ふざけているのですかという質問が藍にそう思わせていた。
少年は、心当たりがないと藍の言葉に不思議そうな顔をする。そうである、少年は別に紫がふざけていることに対して咎めようとしていたわけではない。
一度停止した話は、少年が藍の言葉に頷いたことで前に進み出す。藍が諦めたことによって前に進み出す―――はずだった。紫が口を開き、本題に入っていくと思われた。誰もがそう思っていた―――
―――紫以外は。
「じゃあまず、話をする前に、はい」
「……なんですかこれ?」
紫は、三人の中央である炬燵の中心にして右手を開いて差し出した。
少年と藍は、思いがけない紫の動作にきょとんとした顔になる。
藍は、呆然とした表情を怪訝そうなものに変えて差し出された紫の右手を見る。
紫の手には、何も乗っていない。ただ右手が差し出されただけのようである。
少年は、何もすることもなく、真面目な顔をして紫の顔を見つめている。真面目な話があるのだろうと身構えて紫からの反応を待っていた。
「紫様は、いつも言葉が足りません。これだけじゃ何も分かりませんよ? これは、一体何なのですか?」
手を差し出した紫に対する藍の疑問は、もっともなことだった。いきなり手を前に出されても意味が分からないだろう。
藍と紫の間には、手を出したらどうするかなんて決まりごとがあるわけではない。藍には、紫が何をしようとして手を差し出しているのか読み取れなかった。
「何を言っているのですか? これは手ですよ」
「ふふふっ」
「知っているよ。笹原も失礼な人だな」
藍は、ここで予想外の返答を少年から貰うことになった。藍は、少年の対応にバカにされていると感じ、再び機嫌を悪くする。
紫は、少年の回答に思わず含み笑いをした。
当たり前であるが、藍の求めている答えはそういうことではない。藍は、手を出して何がしたいのですか、そういう意味で紫に対して質問したつもりだろう。
しかし、少年は藍の質問に対して別の受け取り方をしたようである。藍の質問を―――差し出されているものが何なのですかという質問としてとらえたのである。
少年は、大真面目に藍の質問に対して答えた。紫が差し出しているものが手であることは、誰もが分かることである。少年の答えはそれこそ、外国人に日本語を教える時のようなもの言いであった。
「藍、怒っちゃだめよ。こうやって手を出したら、手を重ねる。分かった?」
「……変なことはしないでくださいよ」
紫が機嫌の悪くなった藍をなだめるために声をかけると、藍は機嫌を悪くしたまま紫の言葉に従い、よく分からないが紫様が言うのならば、としぶしぶ手を重ねた。
紫の右手に藍の右手が乗る。
「ほら、貴方も手を乗せなさい」
「いや、全然意味が分からないよ。能力の練習についての話をするんじゃないの?」
紫は、藍の手が自分の手に重なるのを確認すると少年へと視線を向けて、同じことをするように催促したが、少年は藍とは異なり紫の言葉に対して微動だにしなかった。
少年は、不可解なものを見て理解ができていなかった。何のために手を重ねるのか、何をしようとして手を重ねるのかが分からなかった。
少年は紫の行動に酷く警戒している。妖怪という未知の不確定な存在がアクションを起こしている。それだけでも警戒するだけの要素は十分にあった。
「これがこれからの話に何の関係があるの? 手を重ねなきゃいけない理由を教えてもらえるかな」
「笹原……」
少年は、紫に向けて手を重ねる理由を問う。
藍は、そんな紫の行動に用心するように身構える少年を見つめた。
藍には、少年の行動が酷く正しいように見えた。幻想郷で紫と長らく一緒に生活している藍は、紫が手を差し出したのを見て自身の手を紫の手に重ねることがどれほど危ないことなのか知っている。紫という人物がどういう人物なのか知っている幻想郷の住人であれば、紫が手を出してきたときに手を重ねるような妖怪や人間など決していないだろうと容易に想像できた。
「疑問もいろいろあると思うが、ここは黙って手を重ねておけ。でないと、話が一向に進まないぞ」
「ふざけないでよ。そんな理由で納得できるはずないでしょ?」
藍の場合は、紫と上下関係があるため、命令されれば従うしかないだけの話である。そこにどんな理由があろうとなかろうと関係がない。
当たり前であるが、藍も手を重ねる理由などもちろん理解できていなかった。藍の場合はとりあえず紫に従っておこうと思っているだけである。
残念ながら―――少年にはそんな殊勝な心掛けは存在しない。少年は、真面目な顔のまま紫の瞳を射抜くように見つめていた。
紫は、言うことを聞かない少年に手を伸ばした。
「あーもう、面倒くさいわね。黙って手を出しなさい!」
「あっ、ちょっと!!」
少年は、紫の行動に驚愕の声を上げた。
紫は、炬燵の中心まで伸ばしてあった右手を―――すでに藍の手が乗った自分の右手をさらに伸ばして少年の右手を掴む。そして、再びその右手を炬燵の中心にまで持っていった。
紫は、もともとの場所である藍の右手が出された炬燵の中心に持っていき、藍の右手の上に重ねた。
紫が少年の手を握ったまま藍の手に重ねることで―――3人の手が重なった。
尋ねることで疑問は解消されるかもしれない
けれども知った答えが真実かどうかは分からない。
結局は、納得したかどうかでしかないのである。