正面約十数メートルと長い部屋の奥に―――その人物は座っていた。紅魔館の人間がお嬢様と呼ぶ人物が、真っ赤な椅子に座って圧倒的な存在感をもってそこにいた。
(あれがお嬢様、ね。そして、その隣には咲夜さんがいるのか)
お嬢様と呼ばれている人物の傍には、先ほどまで試合の審判をしていた咲夜が控えている。
少年がそこまで状況を確認すると、通ってきた扉がゆっくりと閉められた。
扉が閉まる音に反応して後ろを振り向いてみる。そこには、がっちりと閉まっている扉だけがあった。退路を断つように出入り口を塞がれた。
(門番さんは入ってこないんだね)
少年とお嬢様―――レミリアとの会話には、美鈴は入ってこないようである。
美鈴が会話に参加しないのは必要ないからという理由以外に無いだろう。会話を聞いていようと聞いていまいと、何かができるわけではないからだろう。
話の結論は―――少年の正面にいる少女が決める。何の話だろうと、誰の話だとしても、少女が決めるのだ。話の結論に美鈴が口を挟みこめるような場所は全くない。だから―――いても仕方がない。それはきっと―――咲夜も同じだろう。
扱いが違うのは、側近かどうかという部分があるからに違いない。
そこまで考えたところで扉に向けていた視線を正面へと戻す。視界の中には、不敵な笑みを浮かべる少女と眠っているかのように目をつむって傍で控えているメイドがいた。
「よく来たわね、人間」
(この子は随分と上から物を言ってくるな。人間よりもはるかに強い妖怪にはよくある傾向だけど……)
レミリアの物言いには、人間に対して酷く差別的な印象を受けた。
確かに、妖怪というのは総じて人間に対して高圧的に出る者が多い。それは、能力的に妖怪の方が優れているからだ。身体能力においても、単純な特殊能力においても、人間にないものを妖怪は持っている。
(人間を捕食する立場だとよくあることなんだろうな)
妖怪と人間では、関係性に特殊な部分が見られる。
妖怪や化け物と呼ばれるような者たちは、人間の何かを捕食して生きている。人間から奪い生きている彼らは、人間からすれば捕食している動物や植物に対する感情と似通ったものを持っているのだろう。
人間から見た牛、豚、鳥、魚、その他もろもろと同じような目で見ているのだろう。
だとすれば、高圧的な態度をとってしまっても、見下しているような態度をとっていても仕方がないように思えた。
藍からも妖怪の人間に対する想いというか、印象を知らされている。人間に対して高圧的な妖怪が多いと―――教えられている。
妖怪の人間への感情を知っている少年は、圧倒的な存在感を放つレミリアに対して物怖じ一つせず、事務的な言葉を並べた。
「初めまして、笹原和友と言います。今日はスペルカードルールの説明に参りました」
「そんなことは知っているわ」
少年の作業的な言葉に不機嫌になったのか、レミリアの表情が僅かに曇る。対して少年は特に表情を変えることなく、レミリアに視線を集めたまま動かなかった。
「貴方も理解しているでしょう? それは建前の話よ」
「…………」
レミリアの質問には返答しない。「理解しているでしょう?」その言葉が本気で放たれていたとしたら答えるべき言葉は一つだけである。
それは、「理解していない」という言葉だけだった。
(目的については最初から疑わしかったけど―――こうまではっきり言われるとそれはそれでなんだかすっきりするね)
少年は、スペルカードルールの説明をするという目的を懐疑的に思ってはいたが、大真面目にスペルカードルールの説明をするために紅魔館へとやってきた。
何度でも言おう―――少年の紅魔館へ来た目的はスペルカードルールの説明だ。今後問題を起こした際にはスペルカードルールを適応して戦闘を行うということを知らせる警告である。それ以外にはない。
(だとしたら僕は何のために紅魔館に来たのだろう?)
レミリアが口にした建前の話だという言葉が本当ならば、少年は最初から嵌められていたということになる。紫の紅魔館へ行って欲しいと、スペルカードルールの説明をしてほしいという言葉は、最初から嘘に塗り固められていたということになる。
(何のために呼ばれたのだろう?)
建前の話ということは、本質的な部分は別にあるということだ。紫が考えたのか、目の前にいるレミリアが考えたのかそれは分からないが、目的は別の所にあるということだ。
だとすれば、本来の目的は何なのだろう。
自分が紅魔館へと来なければならなくなった理由は何だろうか。
自分ができることは何なのだろうか。
(紫は、僕に何をしてほしいんだろう?)
紅魔館へと行かせた紫の意図が何なのかを考える。
何のために自分が選ばれたのか。
何のために紅魔館に来たのか。
何のために―――ここにいるのか。
そんな少年の思考回路を遮るようにレミリアの言葉が入り込んだ。
「今回は、紫が大事にしているという人間が見たかったから都合をつけただけ」
「あ、そうですか」
思考を堂々巡りする疑問に対する答えは、目の前の少女から与えられた。どうやら紅魔館に来た目的―――紅魔館から呼ばれた目的は、自身の物珍しさからというもののようである。
確かに人里でも注目を浴びているし、何よりも八雲紫の所にいる人間で傍にいつも八雲藍が控えているというのは、相当な注目を集める要因となっている。
結果として紅魔館の人物に目をつけられたということなのだろう。
「それならば私からのスペルカードの説明は要らないということですね」
少年は、声色に何一つ色を乗せずに無表情のまま言葉を口にする。
紅魔館へと来た目的が無くなった今、少年が紅魔館に留まる理由は一切ない。無駄足ではなかったが、特に得る物もなかった。知り合いが増えただけ。変わったものがあっただけいい時間を過ごせたと言えるだろう。
今日という一日には満足した。
後は帰って、藍の相手をして、紫の相手をして眠るだけだ。
咲夜は、無表情で怒っているようにも見える少年に謝罪の言葉を述べた。
「特に用事もなかったのにもかかわらず、お呼びたてて申し訳ありません」
「咲夜、謝る必要はないわ。目的なんてあってないようなものだもの」
謝る咲夜に対して即座にレミリアから静止がかけられる。その顔には不敵な笑みが浮かび、瞳は少年を射抜くように見つめていた。
「この人間はどのみちここ―――紅魔館に来ることになっていた。来る理由なんて所詮後付け、どうでもいいことよ」
「来る理由がなかったということは、私の用事はないということですね。少し疲れてしまったので帰ります」
踵を返し、部屋を出ようと後ろ向きに歩き出す。先程閉まってしまった扉を開けてマヨヒガへと帰るために足を出口へと向かわせる。
スペルカードの説明責任が無くなった少年が、怪我を負っている少年が、マヨヒガが現在の家である少年が、これ以上紅魔館にいる理由は―――何一つない。
レミリアは、帰ろうとする少年に慌てて椅子から立ち上がると叫び声をあげた。
「帰すわけがないでしょ!」
「私にまだ何か用があるのですか?」
少年の外へと向かっていた脚は、レミリアの叫び声を聞いて止まる。そして、少年の体がくるりとその場で反転した。
まだ、何かあるのだろうか。少年が紅魔館でやらなければならないことはもう何もない。
レミリアは、少年があまりにもそっけない対応を取ることにしびれを切らし、単刀直入に告げた。
「人間、私の下に来なさい」
「君の下に?」
「そうよ。あんな胡散臭い奴よりはよっぽどましでしょう? 私の下につくというのなら、紫のところよりもいい待遇で迎えるわ」
何を言っているのだろうか。
何を知っているのだろうか。
僕は君のことを何も知らないというのに。
名前すら知らないというのに。
君が僕の何を知って、紫の何を知っているのだろう。
どうしてなにも知らないのに―――紫をけなすような言葉を平然と口にできるのだろう。
紫に対する敵対心があるのか。対抗心があるのか。
自尊心の強さからきているものなのかは分からない。
(知らないから何とでも言えるってことか。知らないから、何も分かっていないから―――そんな簡単に言葉を口にできる)
紫よりも良い待遇で迎える。
今の待遇を知って言っているのだろうか。
きっと知らないのだろう。
知らないから口にできるのだろう。
知っていたら―――口が裂けても言わないはずだ。
「貴方は、何が欲しいのかしら?」
レミリアは、とにもかくにも少年を紅魔館へと引き入れたかった。美鈴との勝負を見たときから心を動かされ、手に入れると決めていた。
あの輝きが。
あの美しさが。
自分に足りない部分のような気がして。
ないものを持っている少年を紅魔館に入れることで補完できると。
あわよくば自分も持つことができるのではないかと。
そんな思惑から―――手にいれようとしていた。
少年は、勧誘をしてくるレミリアに対して明確に断る意思を示す。
「私は、貴方の下へは下れないよ」
「……どうして?」
レミリアは、はっきりと答える少年に目を見張った。
少年が紅魔館へと下ることに何の問題があるというのだろうか。少年を惹きつけるものが自分にはなくて八雲紫にはあるというのだろうか。
少年は、八雲の連れ子というだけあって本当の両親はすでにいないはずだ。いたとしても、幻想郷の人間ではないことは容易に想像ができる。両親がいるからという理由が断っている理由になっているとは考えにくい。
ならば、少年が八雲紫の下に留まっている理由は特にないはずである。
あるとすれば、借りがあるからというもの―――その程度のものでしかないだろう。借りであるならば、別段紅魔館にいても返せるはずだ。さらに言えば、少年に代わりに少しばかり借りを返すこともやぶさかではなかった。
「八雲紫に借りがあるから? それとも弱みでも握られているとか? だとしたら私が何とかしてあげるわよ。紅魔館へと下るのならば、そのぐらいは肩代わりしてあげる」
「そうは言うけれども、私の代わりに肩代わりできるとも思えません。それに、仮に肩代わりできたとしても、私が紅魔館へと入ることはないでしょう」
どうして、こうもすんなり提案を断るのだろうか。
それほどに八雲紫の場所の居心地がいいというのだろうか。
レミリアは、自らの提案を即座に断った少年に対して疑問をぶつけた。
「そんなにあいつの所が良いというの?」
「そうじゃない」
少年の首が横に振られる。
少年がレミリアの下につくことをよしとしない理由は、はっきりしていた。
「ここには、私が必要としているものがない」
断る理由―――紅魔館に少年の思い描く未来を達成するための断片が見つからないから。
少年の希望を実現するための要因が見当たらないから。
喧嘩を売っていると思われるかもしれないけど。
これだけは分かってもらわなければならない。
少年は、自らが想っていることを口に出した。
「私は、人を見る目はある方だと思う」
少年から見たレミリアは、確かに凄まじい存在感を放っている。きっとその感覚に違うことなく素晴らしい能力を持っていることだろう。
「君はとても優秀な能力を持っている。それは見ただけでなんとなく分かる」
それは―――藍のような圧倒的な身体的運動能力なのかもしれない。
それは―――紫のように世界に影響を与えるような特別な特殊能力なのかもしれない。
それは―――永琳のように無限ともいうべき知識の連なりなのかもしれない。
けれども、そんなものは少年にとって何の意味も持たないことである。
息を吹きかければ飛んで行ってしまうような、そんなどうでもいいもの。
―――どっちでもいいものの一つである。
「僕には決して届かないような凄い力を持っているって、感じ取れる」
少年は、長い間あるものを探していた。病気を患ってから半年間、ずっと探し続けてきた。
少年の探しものは―――未だに見つかっていない。
本当に存在するものなのかも分からない。
この世界には存在しないものなのかもしれない。
それでも、探さなければいけないものなのだ。
必ず見つけなければならないものなのだ。
望んでいる未来のために必要なピースの一つなのだから。
それを持っている人を―――今も探している。
「だけど、君はきっと最後の最後まで立っていないから。君じゃ、探しものは見つけられない。僕の探しものになることもできない。君の誘いを断っている理由は、それだけです」
「……言ってくれるわね」
レミリアの眉がピクリと動く。
少年の言動は、紫の方が少年の希望に沿っている人物だというふうに聞こえた。まるでレミリアが紫よりも劣っていると告げられているように聞こえた。少年のお眼鏡に適っていないと言われているように感じた。
「私が紫よりも劣っているというの?」
「劣っている?」
少年は、レミリアの疑問を繰り返した。
それは余りにも筋違いな疑問だろう。
先程も述べたように、少年の探しものは未だに見つかっていない。
紫は、可能性の一つというだけであって少年の求めるものではない。
そもそも、劣っているという感覚が間違っているのだ。
「何を勘違いしているのか分からないけど、君が劣っているなんて一言も言っていないよ。君と紫とは違うって言っているんだ」
少年の求めているものは、能力の高さによって一概に決まるものではない。
例えば、呼吸を意識的にできるか、無意識で行っているか程度の違いでしかない。できたところで何かの役に立つわけでも、能力として目を見張るような何かには決してなりえないものなのだ。
「君と紫の違いを言えば―――紫は、僕のことを縛ることができる。僕を自らかけた鎖から離すこともできる」
紫にあってレミリアに無いものは、少年の行動を制御できるだけの強固な鎖である。
紫と少年の目標地点は一致している。目標地点にたどり着くために抱えている意志の大きさはお互いに変わらない。もしも少年が横道に逸れるようなことがあれば、少年を引き戻しにかかるだろう。少年が道を逸れずに走っている間は、後ろで見守ってくれるだろう。
そんな紫と違っているのだ。目の前の少女には少年の意志を捻じ曲げ、通るべき道を指さ示すことのできる先動力と先見性が足りない。
目の前の少女は、自分と同じ未来を想定することができない。自分と―――紫と同じ未来を想定できない。
少年は、レミリアに向けてはっきりと断言した。
「君じゃ、僕は縛れないって言っているんだよ」
「私の鎖は絶対に貴方を逃がしはしないわ。私は、欲しいと思ったものは必ず手に入れて見せる」
挑発するような少年の物言いに苛立ちを隠せず、レミリアの声が大きくなる。
何が少年にそうさせているのか。
何が少年にそうまでさせるのか。
きっと、私にとって碌でもないもののせいだ。
そのせいで―――こんなに苛立っているのだ。
レミリアは、高圧的な表情で見下すように自らの力を僅かに開放する。そして、相手を委縮させるような力を放ちながら口を開いた。
「そう―――運命が決めているのよ」
―――運命という言葉を聞いて少年の表情が悲しみに染まる。
運命―――未来に必ず起こることを指し示すもの。
だとすれば、すでに大きな運命の鎖に繋がれている。決して断ち切れない太い鎖によって引きずられている形になっている。
鎖に繋がれた先へと向かう進路は、ちょっとやそっとのものでは曲がらない。少なくとも目の前の少女が繋ぐ鎖では、微動だにしないだろう。
少女が繋ぐような鎖では、進路変更さえもできやしない。
変えられるものなら変えてみろ。
そうなれば―――願ったり叶ったりだ。
「運命なんて緩い鎖で僕を繋ごうとしても無駄だよ。そんなものすぐに断ち切れる。僕の縛られている鎖よりも大きい物、縛るならもっと丈夫な鎖が必要だ」
少年の表情が真剣なものに変わる。
「それこそ、地球を縛るぐらいの大きな大きなものがね」
「だったら試してみる? 私の鎖がどれほど強固なのか」
「縛れるものならね。僕を縛ることができるほどに強固な鎖なら、僕は君の下に下るよ。僕の夢を現実に呼び出すためのきっかけになる」
「人間の癖によく言うわね」
売り言葉に買い言葉を返すように言葉が飛び交う。
レミリアは、少年の言葉に不敵に笑った。
少年は、レミリアの下へと下るにしても、相手を利用するという立場を変えるつもりはないと明確な表現をしていた。
妥協なんてしない。目的を達成するためにできることは全てやろう。死ぬまで後1年と半年と言われているこのごに及んで、目的のために言葉を選んでいる余裕はなかった。仮にここで紅魔館に下るとしても、目的のために使わせてもらうという意思を変えるつもりはなかった。
「さすがに紫が目を付けただけはあるということかしら」
余りに人間離れしている。
力を見せつけても少しもひるまない。
まっすぐな瞳。
曲がらない意志。
そのどれもが先程放っていた輝かしさを覗かせる。
さすがに妖怪の賢者に連れてこられた人間というだけあり、肝が据わっている。
美鈴と闘っていた時からうすうすと感じ取れた部分だ。
相手側の力が強くても諦めない姿勢は、嫌というほど見させてもらった。
しかし、圧倒的な恐怖を前にしても、相手が殺す気で向かってくる場合においても、同じことを口にできるのだろうか。命の保証がない中、戦う姿勢を保てるのだろうか。
レミリアは、少年の変わらない態度にある考えを思いついた。
「試してみるか……」
レミリアの顔がそっと隣に控えている咲夜へと向けられる。そして、その口からは普段ならば絶対にしない思考回路の帰着が告げられた。
「咲夜、こいつをフランの所に連れて行きなさい。あの子に会った後でもその減らず口が叩けるか、試してみるわ」
咲夜の目が信じられないものを見るかのような瞳に変わった。
レミリアは、戸惑う咲夜に早く行きなさいと目線で答える。
どうやら何の冗談でもなく、本気でおっしゃっているようだ。
咲夜は、レミリアにだけ聞こえるように小声で問いかけた。
「何を考えていらっしゃるのですか? 妹様に会わせるなんて、下手をしてしまえば死んでしまいます」
少年を妹様という人物に会わせることには多大な不安要素がある。
咲夜の知っている妹様は、情緒不安定で何が起こるか分からないという人物である。結果としていつも帰着するのは破壊という結果だけなのだが、そこに少年を通す意味が分からなかった。
―――少年を壊すつもりなのだろうか。
少年の態度が悪く、苛立っているせいだろうか。
咲夜は、レミリアが少年の態度に苛立ちを覚えて妹様のところへと送ろうとしているのではないかと考えた。食料の一部、死んでもいい人間という判断を下したのならば、ありえる可能性だ。
いや―――八雲の一員である少年にそれはあり得ない。
これは、八雲紫への挑戦なのだろうか。
なんにせよ、止めなくてはならない。
従者として、明らかに間違っている道を歩もうとしている主を止めなければならない。
咲夜は、レミリアを止めるべき言葉を口にした。
「もしも、先ほどの笹原の言葉でお怒りになられているのでしたら……」
「そうじゃないわ。確かに生意気なところもあるけど、私はそこまで短絡的じゃない。それこそフランじゃあるまいし……」
レミリアは、怪訝そうな表情で返答を待つ咲夜に自身の気持ちを伝えた。
「死にそうになったら無理矢理にでも止めなさい。さすがに殺す気まではないわ。パチェにも話を通して連れて行きなさい。そして、もしもの時は手伝ってもらいなさい。そこまですればさすがに大丈夫でしょう」
「……分かりました」
レミリアは、別の人物を加えることで保険の厚みを厚くする。
パチェ―――また知らない人が出てきた。だけど、パチェという人物は相当に信頼の厚い人なのだろう。その人物が出た途端に咲夜から感じられた感情の起伏が小さくなった。
少年は、二人の様子を茫然と眺めている。
咲夜は少年の下へと近づき、一言声をかけた。
「笹原さん、付いてきてください」
「分かりました」
拒否権などないだろう。あれば最初からここまで来ていない。断って帰ることができるのならば、とっくに帰ることができている。
こういう時ばかりは自分の力の無さに悲しくなった。
力が弱いから、我を押し通すことができないのだと無力さを呪った。
だけど―――それでこそだ。
これが普通だ。
意見がかみ合わず、議論になって押し合いになる。
ぶつかってぶつかって、どちらかが壊れるか。
それとも、間を取るような折衷案が出てくるか。
そんな普通のことが起こっている。
そして、今は自分が力で負けているから従っている。
そんななんてことはない―――普通のことが起こっている。
起こることのなくなった少年の周りで―――普通の出来事が起こっている。
それだけで―――提案を受けてもいい気がした。
そんなどうでもいいようなことが気持ちを前に向かせていた。
「案内、よろしくお願いいたします」
少年は、咲夜の後ろ付き従うように歩き出す。扉から部屋の外に出る際に一度レミリアに頭を下げて、新たな目的地へと移動して行った。
少年の後姿はもう部屋からは見えない。
「あの人間がフランに会えば、何かが変わる……そんな気がするのよ」
レミリアの口からボソッと呟かれた。
そっと目を閉じながら。
僅かに先にある未来を想像しながら。
その時が来るのを―――椅子に座して待った。
咲夜と少年の二人の足音が真っ赤な廊下に響き渡る。
目的地はどこなのだろうか。会ってほしい人物がいるようだったが、その相手を少年は知らない。現状、ただついてきてくださいと言われたから、ついて行っているだけである。
黙ったまま廊下を突き進む。そして、数十メートル進んだあたりだろうか、咲夜から少年に向けて疑問が口にされた。
「どうしてお嬢様からの誘いを断ったの?」
「言った通りだよ。あの子では‘最後の場所に立てない’それだけ」
きっぱりと理由を述べる。
思うがままの、そのままの理由を口にした。
「どういうこと? 意味が分かるように言ってもらえないかしら?」
「分からないってことは僕のことを知らないってことなんだよ。それだけで断る理由になる」
咲夜には、少年の言葉の意図が読み取れなかった。
最後の場所に立てないというのはどういうことなのだろうか。
妖怪の賢者は、最後の場所というのを知っているのだろうか。
お嬢様がついてこられないところ、そんな場所―――あるのだろうか。
少年はそれが分からなかったら、前提条件を満たしていないというように言っている。
確かに会って数時間の自分達には、理解できないことなのかもしれない。
これ以上追及しても何も話してもらえないだろう。
咲夜はこれとは別にもう一つ、心に中に湧き上がっている疑問を口にした。
「断るにしても、なんでお嬢様に向かって挑発するような言い方をしたのよ? 妖怪の賢者をけなされて怒っているの?」
「怒ってなんていないよ。僕はそんなことで怒ったりしない」
レミリアの言葉で怒りを感じたところは何もなかった。
例え、それが藍に向けられていたとしても。
親に向けられていたとしても。
―――怒ることはなかっただろう。
なぜならば、ものの価値が人によって違うのは当然のことだからである。
人によって価値など様々だし、ものの見方は無数に存在する。
少年にとって価値があるものがレミリアにとって価値のあるものとは限らない。
同じ人間じゃないのだから―――違って当然なのである。
「僕にとっての紫とあの子から見た紫で見え方が違うのは当然なんだから。僕とあの子は違う生き物なのだから―――違って見えて当たり前なんだ」
少年にとっての紫。レミリアにとっての紫。
―――違いがあるのは当然だ。
少年にとっての藍。紫にとっての藍。
―――違いがあるのは当然だ。
人によって違っている。
それが普通で、それが当然だろう。
「妖怪に向かって人間を食べるなんておかしいって、言うかい?」
「……言わないわ」
「その考えはおかしいって言われてどう思う?」
「口にしている言葉と同じで頭がおかしい人もいるものね―――そう思うわ」
妖怪に近しい人間ならば、人間を食べるのはおかしいとは口にできないだろう。
外の人間ならば、大部分が人間を食べるのはおかしいと口にするのだろう。
僕は―――どっちも間違っていないと思う。
どっちも、それを口にしている人からすれば正しいことなのだろうと思う。
イスラム教徒の人間に、豚肉を食べるのはおかしいと言うのだろうか。
鯨を食べている人間に、それを食べるのはおかしいと言うのだろうか。
そんなもの、見る人によって違うはずだ。
おかしいと判断しているのは、判断している人の価値観によるもの。
その人の感覚からしたらおかしいと思われている。
だから、その人はそれを守っている。
だから、その人はそれを破っている。
―――それだけのことではないのだろうか。
「そう、それだけでしょ? 分かってもらおうなんて別に思わない。自分と相手の見えている世界は違っているんだから。その人は、そういう考えなんだなで終わりなんだ」
偶にはき違えている人がいる―――私達は皆同じ人間だと言う人がいる。
僕には、この言葉が何を言っているのか理解できなかった。
そんなわけがない。
同じ人間のわけがない。
僕が区別してきた人間はみな別人だった。
みんな一人一人、別の人間だった。
「あの子にとって紫はそういう存在だった。それでいいじゃないか―――それがいいんじゃないか」
全く同じだったら気持ちが悪いとなぜ思わないのだろうか。
好きなものも同じ。
嫌いなものも同じ。
やりたいことも同じ。
考えていることも同じ。
まるで―――同じ人間が二人いるみたいだ。
そんな人がいたら―――その二人を区別しているのは何なのだろうか。
それはもう同じ人間ではないのだろうか。
自分の隣にそんな人がいたら―――気持ち悪いとは思わないのだろうか。
「それに、理解しようとしていない相手に理解させる力なんて僕にはない。分からない人には分からなくていい。自分が大切に思っているだけでいいんだ。他人にとやかく言われても、自分が分かっていればそれでいいんだよ」
大事にしているものが貶されても、自分が大切に思っているのならそれでいいだろう。
自分がそう思っている―――それだけで十分じゃないか。
それ以上の何かが必要なのだろうか。
野球が好きだったとして、友達がサッカーの方が面白いと言った。
その子は、野球よりサッカーが好きなんだな。
それだけのことだろう?
これが面白いと思った。
友達にはそれが面白くなかった。
―――そっか、友達にとっては面白くなかったんだ。
それだけのことだろう?
何も相手には求めない。
自分を押し付けない。
相手は相手。
自分は自分だ。
―――それに、対象が紫ということに限って言えば特別である。
「貴方もあの子も、きっと心の中では分かっているはずだから」
咲夜は少年の言葉にハッとした。
‘分かっている’その言葉に心が無意識に頷いた。
何も分かっていないのに。
頭では何も理解していないのに。
納得する自分が確かに心の中にいた。
少年は、表情の変わった咲夜を見て優しそうな笑みを浮かべる。
「だから―――僕は何も言わないだけだよ」
そんな少年の表情からは、何も読み取れなかった。