ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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能力を打ち消すための書き記す作業を支えていた感情。
それは―――闘争心という生物が備えている根源ともいうべき欲求からくるもの。
少年は、終われない。
終わるまで、諦めない。
少年は、強い心を持って美鈴に挑む。


空から落ちてくる火、点火する大地

 攻撃は先手必勝だ。先手を取れれば流れは自然とこっちにやって来る。

 待っていても状況は好転しない。むしろ悪くなることだろう。特に実力に開きがある場合は特に、試合が酷くなりがちだ。

 僕と相手の間にどれほどの実力の差があるのかは分からないけど……おそらく、とてつもないほどの差があることだろうけど……どちらが上かという意味でははっきりとしている。

 相手は―――僕よりもはるかに強い。僕は経験則から自分より弱い人間が少ないことを知っている。先程の弾幕勝負の時の美鈴は、上手く動けていないのは単に弾幕ごっこに慣れていないだけだってはっきり分かるような動きをしていた。

 動きだけなら僕よりも早かった。相手の方が動きが速く、飛ぶことを容易に行っている。身体能力で負けていて弾幕ごっこで勝てたのは、経験値の差があったからに過ぎない。

 そんな格上の相手に対して守りに入っては勝てるものも勝てない。少なくとも―――待っているよりはましだ。

 待っていたら相手の攻めを処理できない自分が負ける。受けに入ったら終わってしまう。何もできずに、捌くこともできずに、押し切られて、何もできずに終わってしまう。

 勝利条件は、有効打を1発入れること。

 自分の勝利条件を考えれば、前に出なければ勝ちを取ることのできない条件になっている。有効打は後ろに下がりながら、守りながら入れられるものじゃない。

 勝利条件を満たすためには―――前に出なければ。

 立ち止まっているだけじゃ、守っているだけじゃ―――勝てない!

 前に出ろ!

 

 

「先手必勝!」

 

 

 美鈴のいる場所まで一直線上に走り抜ける。霊力を必要箇所に纏わせて迷うことなく美鈴へと前進する。

 美鈴は、こちらの動きに合わせてゆっくりと受けの構えに入った。

 

 

(あ、これは……)

 

 

 おそろしく綺麗な構えである。素人の僕から見ても、はっきり分かるほどに自然な流れだった。

 

 

(あれは完全に強者の人間だよね。まるで、藍みたいな構えだ)

 

 

 美鈴の構えに至るまでの動きを見ていると―――藍の姿が思い出される。

 武術の基礎は、護身用として藍から教わっていた。美鈴の動きは酷く藍の構えと似ている。ゆったりとした動作からの構えの構築は、藍が見せてくれたものとよく似ていた。

 

 

(太極拳……内家拳だったっけ? 忘れちゃった……)

 

 

 中国拳法は大きく2つに分かれる。それは、内家拳と外家拳である。

 内家拳は、内に力が込められているもの。

 外家拳は、外に力が込められているもの。

 例えて言えば、太極拳は内家拳に該当し、練習風景ではゆったりとした動きで一つ一つの動作を確かめるように練習を行う。

 逆に少林寺拳法などは外家拳にあたり、見た目からも分かるような力強い動きをしている。

 ゆったりと動く世界の中で、脳内に藍の言葉が木霊した。

 

 

「内家拳は、全身の運動量を全て相手に伝えるための武術だ」

 

 

 少年は、藍から太極拳を‘少しだけ’教わっていた。少しだけというだけあり、学んでからまだ1週間にも満たない程度である。

 というのも、スペルカードルールが定着すれば護身術というか格闘術を学ぶ意義がなくなるためである。

 少年は、僅かにしか残っていない記憶をめぐり、定着させた知識を思い出す。

 確か藍は、なんて言っていただろうか。

 ―――こう言っていたはずだ。

 

 

「体の動きは、さまざまな筋肉や関節が連動して動いている。それを一つずつ意識するんだ。拳を振り切る動作でも、腰の回転から、背筋、肩、腕、肘、手首、手へと力が伝わっている。全部のエネルギーを無駄なく伝えること―――これが内家拳の全てと言っていいだろう」

 

 

 力は全身を流れている。その全身の力を余すことなく、先端に伝えていく。美鈴の動きからは全身の力が前へ前へと移動しているのが確認できる。余りに綺麗に流れる力の流れは相手の力量を如実に示していた。

 美鈴の動きは、太極拳を極めている雰囲気を強く感じさせる。きっと長年太極拳の修行を行ってきたのだろう。少しかじったからこそ、それが余計に目だって見えた。

 しかし、ここで引くことはできない。前に出なければ目標地点へはたどり着けない。恐れるな。実力差があるからって、たどり着けないからって、諦める理由にはならないだろう。

 

 

(思いっきり振り抜く! 僕の全部をぶつけてやる!)

 

 

 右手をテイクバックする。

 肩の関節から、腰の回転、腕の筋肉を同じ方向に力を込めていく。

 おもいっきり放り込むんだ。

 気負うな、遠慮など何もいらない。

 全力で押し切れ。

 相手の顔面に目がけて拳を振り切る。

 最短距離を結び、目的地まで真っ直ぐに伸ばせ。

 腰の回転から、肩、腕、掌へと持ちうる力の全てを注ぎ込め。

 

 

「はあ!」

 

 

 パシン―――乾いた音が空間に響き渡る。

 振りかぶった腕が、美鈴の顔面から逸れて弾かれる。

 流れるように力の向き―――ベクトルの方向が逸れる。

 それと同時に、距離の縮まった僕の瞳に相手からの鋭い視線が映りこんだ。

 

 

「思ったよりも鋭いですね」

 

「っ……」

 

 

 美鈴が呟いたその瞬間―――鈍い音が体の中から沸き起こった。

 

 何が起こった。

 どこをやられた。

 目で捉えることすらできないような速度で衝撃が体の中に伝搬する。

 歯を食いしばれ。

 ここで堪えなきゃ、終わってしまう。

 痛みの元はどこだ。

 痛みが湧き上がる源泉に目を向ける。

 すると視界に、お腹に美鈴の手のひらが添えられているのが映った。

 

 

「でもそれだけです。なんてことはありません、‘子供にしては’ってだけですね」

 

 

 腰を落とした美鈴から放たれた掌底は、全身に溜め込んだ力を綺麗に伝搬していた。

 お腹の中に力が伝わっていく。

 お腹の中が空っぽになったようだ。

 肺の中にあった空気が一気に抜けていく。

 空間が押しつぶされて居場所を失った空気が逃げ出そうとする。

 まるでサンドイッチを押しつぶしているみたいに具が外へと逃げようとする。

 

 

(出て行くな! 空気が無くなったら力が抜けるっ!!)

 

 

 何とか空気を逃がさないようにお腹に力を入れる。

 けれども、そんな努力も虚しく吐き気と共に口から空気が出て行こうとするのを止められなかった。

 

 

「ごほっ! ごほっ!」

 

 

 口から大量の空気が吐き出され、全身の力が一気に抜けていく。

 

 

 

(全く見えなかった。反応すらできなかった。息苦しい、空気が欲しい。空気が欲しいっ……!)

 

「妖怪と人間には、圧倒的な身体能力の差があります」

 

 

 休んでいる猶予は、存在しなかった。

 美鈴は、九の字に折れ曲がった少年から一歩距離を取るように左足を下げると、下げた足を宙に浮かせる。軸足となっている右足の位置は僅かにさえ動かない。

 追撃がくる。

 躱さなければと脳が命令を体に伝達する。

 だが、肝心の体から力が抜けてしまって動こうとしない。

 迫りくる凶器に恐怖がにじみ出す。

 

 

(くるっ!!)

 

 

 慌てて目を閉じ、衝撃に備えるために強く歯を噛み締める。

 ぶつかる覚悟ができていれば、耐えられる。予想外の一撃が最もダメージを受けることになる。無防備で受けちゃいけない。本能的にそう思った。

 

 

(………っ!!)

 

 

 そう思った瞬間―――顔面側部に鈍い痛みが襲いかかった。頬が砕けそうな、歯が全て折れてしまうような痛みが痛覚信号として体の中を駆け巡る。

 痛覚がほとんど麻痺しているにもかかわらず、その痛みを深く受け取った。

 

 ―――痛いなぁ。

 

 地面が熱を持って温かく感じる。もう寝てしまいたいような気持ちが僅かに顔を覗かせてくる。

 

 美鈴の軸のぶれない駒は、綺麗に回って少年のほほを貫くように一閃した。

 少年は、美鈴の振り切られた足から受けた運動量を消費するように地べたに滑り込み、うつ伏せに横たわっていた。

 

 

(口の中が切れたな、血の味がするや。鉄の味がする)

 

 

 そっと目を開けて対戦相手である美鈴に視線を向ける。

 美鈴の目は、まるで見下すような瞳をしていた。

 

 ああ、強いなぁ。

 どうやったら勝てるんだろう。

 どうやれば、一発当てられるだろう。

 何とかなるはずなんだ。

 何もないなんてこと、無いんだから。

 必死に痛みに抗うように全身に力を入れて立ち上がろうと試みる。

 その途中で美鈴から心を折るような強い言葉が振り下ろされた。

 

 

「とっとと諦めてください。貴方に勝機はありません」

 

(でも―――まだ身体を動かすだけの力は体の中に残っている)

 

 

 そうは言うけれど、まだ終わっていない。

 僕は、まだ立てる。

 体は言うことを聞いてくれる。

 前を向けという声に心が反応している。

 心の命じるままにうつ伏せになった体をゆっくりと起こす。

 体が思ったよりも動かない。美鈴から受けた打撃によるダメージが想像よりもはるかに大きいみたいである。

 

 

「そんな立つのもやっとの状態で私に勝てるわけがないでしょう」

 

 

 美鈴の言葉が深く重くのしかかってくる。

 圧倒的な実力の差があることを示している。

 だけど―――僕は諦めるということをするつもりはなかった。

 

 

(身体はまだ動く。勝機がない? 勝てるわけがない? それは嘘だよ。勝機ならいくらでもある。作り出せる)

 

 

 結果が決まっている勝負なんてあるものか。

 未来は決まっていないから。だから―――頑張っているんだ。

 勝負はまだ終わっていない。勝負の勝敗の条件は少年が諦めるか、または少年が戦えなくなるか、少年が美鈴に対して有効打を与えるというものである。

 まだ、そのいずれも満たされていない。

 まだ負けていない。まだ終わっていない。諦めない意思を示すように両足で美鈴に相対するように立つ。勝負が始まる前と同じような位置で構える。

 前に進んでいれば、どっかで何かが見えてくる。

 何も見えてこないなら、見えて来るまで行くまでだ。

 そう思った瞬間―――自然と口角が上がった。

 

 

(さぁ、笑顔を作ろう)

 

 

 僕の心はまだ終わっていない。

 まだ勝つことを諦めていない。

 だったら戦う姿勢を崩してはならない。

 一度折れてしまったら。

 一度でも穴が空いてしまったら

 心は、たちまち萎んでしまう。

 

 

(僕はよく知っているよ)

 

 

 心が折れそうになって、挫折して、負けたくなる気持ちをよく知っている。

 あんなもの考えちゃいけないんだ。

 痛みも、苦しみも、辛さも、全部一緒に連れて行けばいい。

 行く先に終わりがあるんだって。

 勝負の勝ちが見えるだって。

 そう思えば―――耐えていられる。

 背負っていける。

 

 

「僕が諦めるまでが勝負でしょ? まだ終わっていないよ」

 

「随分といこじな方ですね。死んでしまいますよ?」

 

「そしたら、僕の勝ちだよ?」

 

 

 僕の言葉に美鈴の表情が露骨に曇った。きっと面倒だって思っているのだろう。諦めない姿勢に苛立ちを感じているのかもしれない。

 だけど―――それが僕だから。

 諦めて欲しいなら、美鈴が諦めてくれないと。

 美鈴は、諦めない僕の姿勢に仕方ないというような表情でゆったりとした構えを取る。勝負が始まった時と同じ、全く同じ構えを作り出す。

 さぁ、ここから再開だ。

 

 

「いいでしょう、満足するまでやってあげます。どうなっても知りませんからね」

 

 

 どうなってもいい。どうせ―――どうにもなりはしないのだから。

 僕のできることをやるだけ。僕のやりたいことをやるだけだ。

 前に進むために一歩を踏み出す。

 何度でも、何度でも前に進む。

 きっとそこに僕の欲しい未来がある。

 勝ちたいという想いは、全てを凌駕する。

 

 

(さぁ、階段を登ろうか……)

 

 

 いつもやっている書き記す作業の時と同じ感覚だ。目の前に階段があり、それをゆっくり一歩ずつ登るイメージ。辛さを抱えて、増大する重さを背負って前に進むイメージを明確にする。

 付き合ってもらうよ。最後の最後まで、僕が登り切るまで。

 決意表明をするように美鈴へと心の内にある意志を伝える。

 

 

「僕はまだ登れる、足を前に出せる。出せなくなるまで……お付き合いよろしくお願いします」

 

「…………」

 

「いいです、返事はいりません」

 

 

 美鈴は、僕の言葉に口を閉ざしたまま何も言わない。

 いいさ、返事なんか求めていない。押し付けるだけだ。これは、僕の独りよがりの感情なのだから。誰かに同意を求めても仕方がない。

 一言吐き捨てて、全てを捨て去るように危険地帯へと飛び込む。

 腕に力を入れて、脚に力を入れて前へと進む。

 同様の結果が待つ未来へと飛び込む。

 美鈴のテリトリーへと入り込む。

 怖くないといったら嘘になる。

 だけど、このまま諦めるほうがもっと嫌だ。

 それこそ心が痛みで死んでしまう。

 視界には美鈴だけが映っている。

 美鈴は目を見開き、真剣な瞳で少年を受け止めた。

 

 

「っっ……」

 

 

 幾度となく―――鈍い音が響き渡る。

 そのたびに少年の体は地面を転がった。

 

 

(諦めてたまるか!)

 

 

 何度でも。

 何度でも。

 終わるまで。

 できるまでやるんだ。

 

 

(負けない、まだ負けていない!)

 

 

 衣服に赤黒いものが付着していく。

 土と血が混ざった、独特の色が染み込んでいく。

 それでも止まらない。止められない。

 

 

(まだ動く。まだ届く。まだ伸ばせる。まだ前進できる!)

 

 

 まだ、挑める。

 挑めるうちに諦めるものか。

 なぜ、逃げていく明日に手を伸ばさない。

 なぜ、逃げていく目標に手を伸ばさない。

 明日はいつだって逃げていくんだ。

 毎日手を伸ばして、伸ばして届かなくて、だからさらに伸ばすんだ。

 誰かから言われたからじゃない。

 誰かに命令されたからじゃない。

 狙うべき目標が決まっているのに。

 その尻尾が見えているのに。

 見逃す道理なんてないだろう。

 その尻尾を見てみぬふりをするのか。

 そうやって心に嘘をつくのか。

 そんなのまっぴらだ。

 それが例え、誰かを傷つけることになったとしても。

 そうやって誰かを傷けることになることが恐ろしくても。

 それでも前に進みたいと心が言うから―――前に進むんだ。

 傷つくことから逃げるな。

 傷つけることから逃げるな。

 逃げていたら何も変わらない。

 何も変わっていないのに。

 何が変えられるものか。

 そんなもので―――目標にたどり着けるものか。

 

 勢いよく感情が溢れ出てくる。

 感情から産まれるエネルギーが爆発的に増加していくのが感じ取れる。

 ボロボロの体を何度でも立ち上げる。辛い顔一つせずに真面目な顔で前へと進む。血を流しながら、血反吐を吐きながらも笑顔を浮かべて馬鹿の一つ覚えのようにひたすらに繰り返す。

 

 

「ははっ……さぁ、まだまだこれからだよ。これから! これからだ!」

 

 

 激痛に耐えるように歯を食いしばる少年の姿勢は、見ている人間にも伝搬していった。

 咲夜は、少年と美鈴の対決を見ている途中で少年の狂気の沙汰に耐えきれず、勝負を中断しようと叫び出す。

 

 

「もう止めてください!! これ以上することにどんな意味があると言うの!?」

 

「止めるな!! 僕はまだ諦めてもいないし、戦えなくなっているわけでもない!! これで終わりなんて僕が許さない!!」

 

 

 咲夜は、少年の剣幕に押し黙った。

 これで終わり? 

 これで諦めて終われって? 

 そんな馬鹿な話があってたまるものか。

 自分が負けていないって思っている間は―――いつだって勝っている途中だ。

 今だって勝っている途中なんだ。

 先程までの優しい雰囲気を持った少年はもうどこにもいなかった。

 

 

「意味なんて……意味なんていらない。そんなものあってもなくても一緒さ……」

 

 

 少年の衣服は、土まみれで血も付着して汚くなっている。体中にも見えない打撃痕がある。

 

 

「これ以上やれば、後遺症が残るかもしれませんよ?」

 

「そんなものどうでもいい」

 

「…………」

 

 

 美鈴は、痛々しそうに少年を見つめている。これ以上試合を続けるのは少年の今後も考えればよくない。これ以上続けてしまえば、何かしら後遺症が残ることも考えられる。

 しかし、少年が諦めない限り戦いが終わらないのも事実である。ここで美鈴が勝負を降りることもできないわけではないのだが、それは紅魔館の主のレミリアが許しはしないだろう。

 この試合を止めることは、誰の手にもできない状態だった。

 

 

 そのころレミリアは、テラスからつまらなそうに少年と美鈴の戦いを見つめていた。余りに一方的過ぎる展開に面白味が感じられなかった。興味が失われつつあった。終いには、ついに戦いの様子を見ることも止め、心の内を吐き出した。

 

 

「霊力を使うことは縛っていないのだから少しぐらいいい勝負になるんじゃないかと思ったけど、期待外れだわ。賭けには勝ったけど、これじゃ面白さ半減よ」

 

「…………」

 

 

 紫は、レミリアの煽るような台詞を聞いても黙ったまま遠くを見つめるような視線を少年に送っていた。紫の表情は、最初にテラスへと来た時から何も変化していない。

 レミリアは、変化を見せない紫に対して疑問を投げかける。

 

 

「賭けに負けてダンマリなのかしら? それともあの子がボロボロになるのを見てられない?」

 

「もうすぐ来るわ」

 

 

 紫は、レミリアの問いを無視して端的に言った。

 もうすぐ来る? 何が? 増援がか? レミリアは、紫の言っている言葉の意味が変わらず再度問いかけた。

 

 

「え? 何が?」

 

「もうすぐ灯が光を放ち始める。真っ赤な炎が燃え上がるわ……」

 

 

 紫の意味深な言葉を聞いてレミリアの視線が再び少年へと戻る。視線の先には、碌に体を動かせなくなってうつ伏せになっている少年と、苦しそうに表情を歪ませた美鈴が立っていた。

 美鈴は、少年の努力という名の耐久レースに心を削られ始めていた。何度倒しても這い上がってくる。無駄に痛みに耐性があるのか、痛みでうずくまる様子もない。意識もなかなか飛ばない。

 美鈴は、永久に続きそうな拷問の様相を呈する試合に辛そうな表情で少年へと叫んだ。

 

 

「もう、十分でしょう!? 貴方はよくやりましたっ! それでいいじゃないですか!」

 

「十分よくやった? それでいい?」

 

 

 霞みはじめている視界の中に、表情を歪めて叫んでいる美鈴が映る。

 なんて顔をしているのだろうか。

 追い詰められているのは自分の方なのに、どうして相手があんな顔をしているのだろうか。

 体を必死に起こし、立ち上がろうと全身に力を入れる。

 手に力が入る―――まだ手が動く。

 足に力が入る―――まだ足が動く。

 視界が生きている世界を映し出している。

 頭の中が気持ち悪いぐらいにはっきりしている。

 

 

(ああ、きっついなぁ。あの時よりはマシだけど……結構きつい。体が重いし、流石に痛みも残ってきた。けれど、心は生きている。勝負に生きている)

 

 

 勝負はまだ終わっていない。審判役を務めている咲夜もまだ終わりの言葉を告げていない。おそらく僕が完全に意識を失うまで、勝負の終わりを告げることはないだろう。さっきの言動がよほど効いているようだった。

 僕は、笑みを絶やすことなく美鈴へと告げた。

 

 

「ははっ、何を言っているの? 何も終わっちゃいないよ。まだ、行ける。まだ、前に進める! 僕の体はまだ動く!!」

 

「ふざけないでください!! もう終わりですよ!!」

 

 

 美鈴は、少年の駄々をこねるような物言いに表情を怒りの色に染めた。

 少年は、すでにぼろぼろの状態でとてもじゃないが、美鈴と闘える状況ではない。もともと存在する少年と美鈴の力の差を考えれば、少年の置かれている状況は絶望的である。

 そんなことは分かっている。だけど、それでも心は諦めようとしなかった。

 

 

「ふざけてなんかいないよ。ふざけているのは、あんたの方だ!」

 

 

 美鈴の言葉が心を震わせる。

 僕は、何もふざけていない。

 僕はいたって真面目だ。

 ふざけているのはお前の方だろう?

 勝負のルールを忘れているのかな?

 僕が戦闘不能、あるいは負けを認めるまで、負けになることはないという勝ち負けのルールを忘れてしまったのだろうか。

 だから言った。

 期待に応えられないって。

 何も聞いていなかったのか。

 

 

「だから言ったじゃないか、君の期待には応えられないって」

 

「諦めてくださいよ!! こんなことをしても辛いだけです! 何の意味もないじゃないですかっ!?」

 

「それだよ! 諦めろ。お前のしていることには意味がない。意味がないだって。意味がないから止めろってよ!」

 

 

 美鈴が辛そうにしながらも告げている言葉には疑問がいっぱいだ。

 美鈴の諦めろという言葉は、今までも何度か聞いた言葉である。意味がないという言葉も、さんざん自問自答してきた言葉だ。

 諦める選択肢はいつだってあった。意味がないという問いは、いつだって心の中で反復していた。

 それでも僕はこれまでやってきたんだ。そういう言葉を飲み込んでやってきたんだ。

 僕は、諦めろという言葉が酷く嫌いで、意味がないという言葉を聞くたびに心の中にわだかまりを抱えた。

 

 

「どうしてみんな同じようなことを口にするの? 諦めて何が生まれるんだよ。答えてみろよ。諦めることで何が変わるんだ? 現実を見ろよ、何も変わらない未来がすぐに見えてくる。僕には、その方が耐えられないね!」

 

 

 諦めるということは、そこで終わりにするということである。最後まで行き着く前に、自分でレールを断ち切る行為である。

 そうなって他に逃げられるのならまだいい。横道に逸れて生きられるのならば、そうするという選択肢だってあるだろう。

 けれども、僕にはそれがないのだ。諦めて選べる選択肢がない。横に道はなく、前にしか道がない。諦めれば廃棄される。社会から排除されることになる。

 現実はそういうものだ。何も変わらなかったら生き残れない。環境に適応した者だけが生き残る。それが苦手な僕が、逃げていい道理も道を諦めていい道理もない。

 みんな、前を走っているのに。諦めたらもっと差が開く。置いていかれることになる。

 それだけは――嫌だ。

 

 

「諦めたらみんなに追いつけない。諦めてしまったら、みんなから置いていかれる」

 

 

 少年は、これまで何度も諦めた方がいいと言われたことがあった。勉強もしかり、スポーツもしかり、自分よりも賢い人間、自分よりも上手な人間は必ず存在する。

 少年は、いつだって能力という不利な条件の中で努力を続けてきた。努力をしなければ人並みに何もできない少年は、人並みになるためではなく、「1番になるために」努力してきたのである。

 

 

「努力して、頑張って、やっとここまで付いてこれたんだ……」

 

 

 普通になるために―――努力をしてきた。

 容易に見える普通じゃない未来を回避するために―――努力をしてきた。

 

 

「どいつもこいつも意味がないとか適当なこと言いやがって。なんだよ、意味がそんなに大事なのか……意味がなくちゃいけないのか……意味が何を与えてくれるっていうんだ」

 

 

 意味がないことなど知っている。

 頑張る必要がないことも知っている。

 無駄だと思われていることも知っている。

 だけど―――そんなことが何になるというのか。

 意味がないだけならまだいい。

 だけど、あいつらはいつだって。

 

 

「あいつらはいつも奪っていくばかりだ!」

 

 

 意味がないということは別の何かを持っていく。無いだけで済めばいいのだが、他のもの―――特に気持ちをかっさらっていく。

 実のところ、少年はお前のしていることには意味がないなんて今まで言われたことがない。周りを巻き込んで従わせてきた少年に対して意味のないことをするな等、言う者は誰もいなかった。そもそも、少年が識別するために努力していることを知っている者がいないのに、意味がないなんて侮辱を言える者などいないのだ。

 ならばなぜ、こうまで少年が激情するのかといえば―――意味がないという言葉を誰よりも自分が言っていたからだった。意味がないという言葉は、心の中から自然発生した言葉だった。

 そしてその言葉が心の中に湧き出るたびに―――色んなものを奪われそうになった。

 

 

「あいつらは、大事なものをそぎ落としに来るだけのモンスターだ! 意味なんて――そんなもののためにこの気持ちを捨てなきゃならないのか? 僕は捨てないぞ! そんなものに、この気持ちを奪わせるつもりはない!!」

 

 

 少年は、決して諦める姿勢を見せない。少年に諦めてもらうためには、少年の意志を支えている部分をへし折る必要がある。これ以上続けたら本当に死んでしまうかもしれない。心の柱を急いで突き崩さなければ。

 美鈴は、目をぎらぎらと光らせる少年に問いかけた。

 

 

「貴方の何が体を動かすのですか? どうしてそこまで戦おうとするのですか?」

 

「そんなの、決まっているよ」

 

 

 努力する理由―――そんなものは、決まっている。

 勝負事をする際に固める意志など決まっている。

 それは―――。

 

 

「勝ちたいからさ」

 

「は?」

 

 

 美鈴は、僕の言葉に茫然とした。勝ちたいという普通すぎる理由に、思わず言葉を失っているようだった。

 だったら他に何があるというのか。

 僕が、誰かを人質にされていて負けると死んでしまうからという理由でもあげればよかったというのだろうか。

 それぐらいの理由ならば、納得したというのだろうか。

 

 

「それ以外の理由なんて何もない―――勝ちたいからこうして戦っているんだよ」

 

 

 何を想って何を成そうとするのか。

 誰かを助けたいという想い。

 誰かを殺したいという想い。

 そこにどんな違いがあるだろうか。

 行動にどれほどの違いがあるだろうか。

 大きさが変わらなければ、行動に差異などでやしない。

 何を想っても、何が理由であったとしても。

 行動の結果は同じになる。

 中でも勝ちたいという想いは何よりも純粋だ。

 とって変わったりしない。

 曲がったりしない。

 

 美鈴は、少年が諦めることはないと悟った。勝敗が明確に決まっているような今の状況を前にして、勝ちたいという想いの消えない少年の気持ちをへし折る方法は何もない。

 現に少年は、あれだけ打ち込まれても不敵な笑みを浮かべて悠然と立っている。

 

 

「勝負の鉄則だよ。勝ちたいと思うこと、それが絶対条件だ。僕は父さんから教わった。努力を積み重ねて勝利を得るんだって」

 

 

 勝ちたい、勝ちたい。

 僕にあるのはそれだけ。

 それだけで十分だった。

 父さんが教えてくれた呪いに対する唯一の対抗手段は、勝ちたいという競争心に火をつけること、負けないという強い意志を持つこと。

 僕は、父さんからそれを教わった。

 誰が負けるつもりで戦うんだ。

 勝つんだよ、勝つために戦うんだ。

 諦めれば、楽になるだろう。

 諦めれば、辛くないだろう。

 けれど―――それでどうなる?

 どうにもなりはしない。

 置いていかれる未来が、置き去りにされる自分が、すぐそこに想像できる。

 それじゃあ僕の心は救われない。何も変わらない。

 僕の見たい景色は、もっと先にあるんだ。

 歩いて、歩いて、もっと―――先

 越えて、超えて、燃える。

 全部が解き放たれて、焼かれて燃えて全部がまっさらになる。

 そんな瞬間を―――感じていたいんだ。

 

 

「さぁ、勝負の続きをしようじゃないか。僕の気持ちはやっと上り調子だよ」

 

 

 空から火種がまっさかさまに落ちる。落ちて、落ちて、心の表面と接触しようと重力に従う。

 

 

「燃えろ燃えろ、真っ赤に燃えるんだ。全てを飲み込むような赤さを、何も残らないほどの熱さを」

 

 

 探し出せ、いつも取り出しているだろ?

 書き記す時だって、病気の時だって嫌というほど探してきたじゃないか、見つけてきたじゃないか。

 さぁ、火種を見つけるんだ。

 空から落ちてくる、空から降って来る光を探すんだ。

 勝負に賭ける熱さと狂気を見つけ出す。

 見つけられなきゃ―――耐えられない。

 書き記す行為も、病気に対する対抗も、みんなについて行くだけの努力など―――できはしない。

 さぁ―――見つけ出せ!!

 熱い、近い、近いぞ! 

 光が落ちていく、真っ赤な灯が地球表面へと着地する。

 

 

「みーつけた」

 

 

 ―――Ignition(イグニッション(点火))―――

 

 地球表面が真っ赤に燃える。世界が真っ赤に染まる。

 真っ赤に染まった空と真っ赤になった大地の中で。

 ―――少年は次の一歩を踏み込んだ。

 

 

「さぁ、和友が目を覚ましたわ」

 

「さぁ、最初の一段目だ」

 

 

 少年は、燃えた地球の上で階段を登り始める。




少年は、みんなについて行くので必死です。
勉強でも、スポーツでも、区別できないことは、致命傷になります。
努力という名の狂気で抑え込んでいる少年は、並々ならぬ努力をしてきたのでしょう。諦めたら先がなくなるという恐怖を抱え込んで努力をしてきたのでしょう。狂気の沙汰ともいえる、闘争心を糧に、心を燃やしてきました。
少年は、ある時から意味を考えるのを止めました。これは、必然だったのでしょう。意味の所在なんて―――考えたら潰れてしまうと分かっていたから。

さて、次の階段に足をかけましょうか。

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