眼前に迫ってくる弾幕の嵐は相変わらず止むことを知らない。光り輝く星の光のような流れが、雪崩のように迫ってくる。
だが、焦りは何もない。
心はいつも通りの安全運転だ。
余裕のある気持ちが視界の景色を鮮明に映し出している。
見たことのある景色が―――平常と変わらないことを訴えている。
「弾幕ごっこで最も大事なことは、弾幕の軌道予測だ」
弾幕ごっこのやり方は紫から学んでいる。スペルカードルールでの戦い方の基礎をみっちりと教わっている。
少年は、圧迫するように迫りくる弾幕を躱しながら紫の言葉を思い出した。
「弾幕を避けるときに一番大事なのは、弾の軌道予測。予測が正確でかつ早ければ、全てを避けることなんて簡単よ」
避ける際に考えることは、実に単純だ。難しく考える必要はない。
物事を分解して考えれば分かる。
例えば、歩くという動作はどう成り立っているだろうか。どうやって歩いているのだろうか。説明をしていこう。
まず立っている状態――――両足が地面に対して力を放っている。重力に対して反対側への力、それで体重が支えられている。重力に対して同じ力を返して、平衡を保っている。それが立っているということだ。
立つ―――そこから前に体重移動を行う。足の裏で蹴ってもいい、前のめりになってもいい。とにかく重心を中心の背骨から前へと移動する。重心を前へと運ぶ。
そして、運んだ重心を追いかけるように足を前に出す。足の筋肉を引っ張って足を持ち上げ、前に移動する。移動した足を地面につけることで支えを地面に対して打ち立てる。
こうすれば体重の重心は、再び体の中心地点にくる。
今度は、出した足の反対側の足を前に送ればいい。これを交互に繰り返すことで人間は歩くという行為を成し遂げている。
このようにして歩くという行為を分解したように―――弾幕ごっこでも行動の一つ一つを分解して理解すればいい。
そうすれば、弾幕ごっこを理解することに繋がる。
「流れには必ず向きが存在する。空間を区切るの。四角い正方形で、メッシュを切るのよ」
紫は、いつも自分が行っている弾幕処理の方法を少年へと伝えた。
「細かく切った四角形の中へと入って来る場所、出てくる場所、出てくるまでにかかった時間が分かれば、一つ一つの弾の情報が全て得られるわ」
「……どういうこと?」
「難しくて分からないかしら? 単純に言うと弾幕一個一個に対して情報を得るのよ。それができれば、どれが危険なのか一瞬で察知できるわ」
意味が分からない。それが少年が第一に思ったことである。
紫は自分がしている弾幕の避け方を当たり前のように話しているが、意味の分からない言葉だらけで頭がついていかない。この説明で分かったら中学生ではないだろう。分かるのはきっとその道の人だけだ。紫の言葉は、まるで扱っている言語が違うのではないかと思うほど全く頭の中に入ってこなかった。
「そうね……ノートに放物線を描いてみなさい」
ノートを取り出し、言われるままに放物線を描いた。ノートの中心を分断するような境界線が白紙の上に描かれている。
「ざっくばらんにメッシュを切ってみなさい」
「メッシュって?」
「網の目のことだけど、逐一説明するのは面倒ね。とりあえず、正方形の箱でいいわ。方眼紙を書くみたいに上下左右に直線を引いてみなさい」
「はい」
放物線を分断するように上下の線が引かれる。
ここから何をするのだろうか。どうすれば、先程の言葉が理解できるのだろうか。放物線と網の目がかかれたノートを見ていても一向に分かる気配がない。
「放物線を描くようにボールが飛んでいるとすると―――ボールは一つ一つの正方形の中を入って出ているわよね」
「うん。正方形の箱に入って出ていっているよ」
「この時の正方形に入る角度と出て行くときの角度、そして出るまでにかかる時間が分かれば弾の軌道は全て予測できるわ」
難しいことを言っているように感じるかもしれないが、実のところ紫の言っていることは非常に単純である。弾幕の全ての軌道が分かれば、弾幕を避けることは容易だと言っているのである。
空間に方眼紙をあてがうように四角の線を当てはめる。その一つ一つの四角形―――箱にどうやって入って、どうやって出て行くのかが分かれば、対象物が描いている角度が割り出せる。そして、箱を出るまでの時間が分かれば対象物の速度が計算できる。一個ずつそうした情報を仕入れていけば、弾幕一つ一つの情報が手に入る。
しかし、紫の言っていることを実現するためには、コンピュータ並の処理速度が必要になる。それもメッシュを細かくすればするほど難しくなる。特に遠近感に頼っている前方方向は、人間の脳ではなかなか苦しい。動き回ることから角度が変わってしまうため、常に気を張らなければならないという難点もある。
つまり、この方法は考えなければならないことが多すぎるのである。少年の現在の頭で設置できる箱は4つほどが限界で、弾幕は正面を処理するだけで精いっぱいだった。
「それは難しいんじゃないかな? 僕の脳味噌じゃついていけないよ」
「もちろん弾幕の全てを考えなさいなんて言わないわ。自分の所へ迫って来ているものだけでいい。横道に逸れているものまで目をかける必要はないもの。慣れれば視野が広がってできるようになるわ。人間は、環境に適応する生き物なのだから」
紫は、優しい顔で諭すように少年に教えた。教えられる自分の知識を伝えた。
少年は、弾幕発生の源泉である美鈴に視線を向けながら内心驚いていた。
「本当にできるようになるなんて思ってなかった……」
少年は、紫の言葉をある程度実現していた。さすがに弾の数が増えれば増えるほど難しくなるが、ある程度の数であれば速度や角度の算出が可能となっている。
そうでもしなければ、藍とあれほど打ち合えてはいない。即座に落とされていたはずだ。
咲夜が心配したのが嘘のようである。少年は、余裕のある雰囲気で弾幕を躱している。
「空を飛んでもいないのに避けるのが上手いわね。人間だからって心配しすぎだったかしら」
咲夜は、少年の危なげない避け方に感嘆し、気を使う必要はなかったと今更ながらに思っていた。
少年は、足に霊力をまとわせて地上を走る。
「やっぱり経験の差は大きいな。藍と比べれば、はるかに余裕がある」
「貴方が言っていたことはあながち間違いじゃないようですね! 私は弾幕ごっこが得意ではありませんが、これほどに差があるとは思っていませんでしたよ!」
美鈴は、自分の放った弾幕が一向に当たらないことを気にする様子もなく、嬉しそうに叫ぶ。
少年に美鈴の気持ちを窺い知ることはできない。ただただ、視界に美鈴の嬉しそうな顔が映っているのが確認できるだけである。
走れ、走れ、そう言い聞かせるように足に霊力を纏わせて黙々と地上を走り続ける。空に常に美鈴の姿が捉えながら足を動かし続ける。
「今はそうかもしれないけど。今に限って言えばそうなのかもしれないけど」
美鈴の弾幕は、地上を走る少年に向けて張り続けられている。お世辞にも厚いとは言えない。紫や藍と弾幕ごっこをしている少年からしてみれば、避けることには苦労しない弾幕である。
しかし、美鈴と自分との間に大きな差があるようには思えなかった。
今は、少年の方に一方的に軍配が上がっている形になっているが、同じ努力を踏んでしまえば、美鈴に対して互角に立ち向かうことはできないだろう。そんなことは火を見るよりも明らかである。努力で誤魔化して、時間で補って、ようやくこの程度の差である。
それが―――悔しくてたまらない。自分の努力など、なんてことはないと、そうやって平気で踏み越えられると、努力を踏みにじられているようで気分が悪い。
少年は、悲しそうな顔で弾幕を躱しながら美鈴に向けて声を発した。
「すぐに埋まるような差だよ。同じだけの練習をされたら一瞬で抜かれてしまう。みんなとっても早いから、僕はいつも必死だ……!」
「謙遜しなくてもいいですよ! 今は貴方の方が強い、それだけが今の全てです。今戦っているのは今の私なのですから!」
美鈴は、嬉しそうに3枚目のスペルカードを宣言する。
「スペルカード宣言、彩符「彩雨」」
3枚目のスペルカードが宣言された。スペルカードから放たれる力が空間を支配する。
少年は、光量の多さに僅かに目を細める。光が収縮していく様子が見て取れる。あれが弾けて弾幕となるのだ。視界が開けると虹色に彩られた弾幕の雨が空から降り注ぐのが見えた。
そっと空を見上げ、鮮やかな色に包まれた空間を見つめる。
やっぱりそうだ。
みんな走るのが早すぎる。
上手くなるのが早すぎる。
飛ぶのが下手な僕はいつだって、先行しなきゃいけない。
そうでもしないと―――同じゴールにたどり着けない。
「謙遜なんかじゃないんだよね。僕がみんなについていけるのは最初だけ、最初のころだけ……置いて行かれないようにフライングしていた最初だけなんだよ……」
小さな声で呟いた言葉は、心の中の心境を正確に吐露していた。
少年は、自分の無力さを知っている。紫や藍と同じスピードで走れないことを知っている。一緒に走れないどころか―――永久に努力しても追い付けないことを知っている。
「みんな早すぎるんだよ。どうやったらそんな速度で進んでいけるのか教えて欲しいほどだ!」
少年から見れば、美鈴も届かない場所にいる一人である。現に、美鈴に対して弾幕を張っていないのは余裕があるからではなく、少ない霊力を温存するためである。
藍との戦いの時は練習だったため霊力を使っただけだ。今回の場合はあの時とは異なっている。
スペルカードルールが適応された弾幕ごっこは、スペルカードを全て使わせ、被弾しないことが勝利条件になる。別にスペルカードを一向に使わなくても、通常弾幕を張らなくても勝とうと思えば勝てるルールなのである。
それに、少年の目的は別の所にある。ここで霊力を使って、消耗して、疲れて、それで終わってもいいわけではない。目的は戦うことではなく、スペルカードルールについての説明なのだから。
決して美鈴が弱いから余裕があるわけではない。
舐めてかかっているわけでもない。
これが、少年のできる最大。
これが―――少年の限界なのだ。
「僕は、みんなと同じ場所に立っていたいんだ。最後のその時に、みんなと勝負できるだけの何かが欲しい。戦えるだけの何かが欲しい」
周りの人々に追いつけないかららこそ。
同じ土台に立つことが立つことができないからこそ。
―――努力を積み重ねている。
手が届かないことなど知っている。
どれだけ頑張っても追い付けないことは分かっている。
どれだけ努力しても追い抜かれることは知っている。
―――それでも努力を重ねている。
「だから頑張っているんだ。だから努力しているんだ。皆と一緒に飛んでいたいから。最後の最後に一緒に飛んでいたいから!」
みんなのいる場所は、絶対にたどり着けない場所。
同じところには登れない。
同じ高さまで上がれない。
皆ばかりが先に行く。
自分だけが置いていかれる。
力がないから一緒に走ることができない。
だけど、一緒に走りたかった。
同じところを。
同じ速度で。
―――共に走りたかった。
「僕だけ置いていかれるものか。絶対に負けない。努力することだけは止めない。みんなが心配しないぐらいの、みんなの足を引っ張らないぐらいの力が―――僕には要るんだから!」
少年の努力を重ねているのは、そんな理由から。
―――少年以外誰も知らないことである。
美鈴のスペルカードである彩雨の弾幕の抜け道を探す。そして、弾幕の抜け目を見つけた。
「見つけた」
落ちてくる弾幕に対して、隙間を縫うようにステップする。もう少し弾幕が濃ければ、避けるのは難しかったかもしれないと、無駄な想像しながら最後まで避けきることに全力を注ぐ。
次第に弾幕の光が弱くなる。光の強度が低下していく。少年は、最後まで美鈴の弾幕を躱し切った。弾幕の雨が止んだ時、視界の奥には笑顔の美鈴の姿があった。
「完敗です。見事でした」
「ありがとうございました。とても綺麗な弾幕でした」
少年と美鈴は言葉を交わし、スポーツの試合の後のように清々しい顔でお互いの健闘を讃えた。
美鈴は、空中から地上に降りて少年のもとへと向かう。咲夜も終戦を告げるために少年のもとへと向かう。
レミリアの表情は、笑顔で集まる3人を見て面白くなさそうな色に染まった。
「これじゃ何も面白くないわね」
「結果なんて分かり切っていたことよ。弾幕ごっこをするのなら、もう少し練習してからするべきだったわね。今の状態では天と地がひっくり返らない限り和友には勝てないわ」
「そうよねぇ……」
紫の言葉に言い返す言葉はなかった。
紫の言葉は誇張でも過大評価でもない。先程の美鈴と少年の弾幕ごっこの試合を見ていれば、美鈴の勝つ確率なんて1割にも満たないことは誰の目から見ても明らかだった。そのぐらい美鈴と少年の試合の内容に差が存在した。
少年は一つの弾幕も張ることなく回避を行っており、危ない場面はほぼなかったと言っていい。圧倒的な結果である。
レミリアは、顔を紫に向けて提案を持ち掛けた。
「……ねぇ、賭けをしない? 味気なさすぎて、ちょっとしたスパイスが欲しいわ」
「どうしようかしら?」
紫の様子を見る限り、賭けの提案に対して嫌がる様子はみられていない。どうやらこのまま押し切れそうである。
さて―――何を賭けようか。
賭けの対象はすでに決まっている。レミリアの中に確固たる形で存在している。
レミリアは表情を変えて紫に賭けの内容を提示した。
「そうね、お酒でも賭けましょうか。私は、紅魔館で最も美味なワインを賭けましょう」
「いいわ。このまま様子を見ていても暇だし、私も秘蔵の日本酒を賭けましょう」
紫は、安直にレミリアの賭けに乗った。レミリアの顔に紫が賭けを受けたことに対する笑みが浮かぶ。レミリアのそれは―――嫌な予感のする悪だくみをしているような笑みだった。
紫は、レミリアの顔にわずかに表情を曇らせる。レミリアが表情を変えた原因は間違いなく賭けの対象にある。紫にはそんな確信があった。
「何について賭けるの?」
「美鈴と貴方の隠し子、どっちが勝つのか」
紫は、レミリアの言葉に表情をしかめた。少年と美鈴の弾幕ごっこは、今しがた終わったばかりである。どっちが勝つのか、という言葉は再び勝負をするということを示す言葉―――別の勝負をするという言葉だ。
何を言いたいのかは分かっている。
何をさせたいのかも分かっている。
紫は、レミリアの考えが分かっていながらも問いかけた。
「それは、どういう意味で言っているのかしら?」
「分かっているでしょ、もちろんこういうことよ!」
レミリアは、窓の外に顔を向けて大きな口を開ける。そして、お腹に力を入れて肺から大きな空気を吐き出し―――集まる3人に向けて叫んだ。
「美鈴! 八雲の使者と闘いなさい!!」
「えっ、今程戦いましたよー?」
美鈴は、きょとんとし顔でレミリアに向かって叫び返す。何とも気が抜けたような声がレミリアのもとへと届いた。
レミリアは、美鈴の応答に不機嫌な顔をする。‘何も分かっていない’と察しが悪いことに気分が悪くなった。
「はぁ、最初からこうなるとは思っていたけれども……やっぱり断ればよかったかしら……」
紫の口から大きなため息が吐き出される。
予想通りの展開である。レミリアの性格はおおよそ分かっている。最初に紅魔館が幻想郷に現れたとき―――最初にレミリアと話をした時からレミリアの性格はおおよそ把握していた。
レミリアは、面白いものが好きで面白くないものが嫌い。単調なものが嫌いで、起伏があるものが好き。思考はわずかに子供寄りで、理性よりも本能や感情に従い行動する―――純粋な吸血鬼である。
そんな彼女が、あんなもので満足するはずがなかったのだ。もっと面白くて、もっとエキサイトできそうな、そんな何かを見たいと思うのは普通の流れだった。
レミリアは不機嫌な様子を隠すことなく、美鈴へと叫んだ。
「そうじゃないわ! そんなお遊びじゃなく、本当の勝負をしなさいと言っているのよ!」
「本当の勝負ですか? 止めておいた方が良いように思います……」
「私の言うことが聞けないの?」
「……笹原さんが勝負を受けるということでしたら受けましょう。ですが、本人が拒否した場合には強制できませんよ」
「お嬢様!? 笹原はただの人間なのですよ!? 妖怪と戦おうなんて無理です!」
咲夜は、レミリアの言葉に動揺した。
レミリアの言っていることは、美鈴と少年が素手で殴り合えと言っているのと等価である。人間である少年と妖怪である美鈴を戦わせようとしているのだ。
美鈴の実力は知っている。美鈴の力量を考えれば、少年には万に一つも勝てる要素はないだろう。
「笹原では死んでしまうかもしれせん!」
まだ―――勝つ、負けるだけの話ならばまだいい。美鈴の一撃は、少年の体を軽々と粉々にできるだけの力がある。
勝負してしまえば、五体満足で帰ることはできないだろう。どこかが壊れてしまう。先程の動きを見ていても、あれ以上を感じられない少年に美鈴と闘って無事でいられる要素は何もなかった。
「笹原はお客様です。それも、妖怪の賢者の使者です! 待たせてしまっただけでなく、怪我までさせたとなれば私たちの立場が怪しくなります!」
咲夜は、少年が怪我を負うことに対して2つの意味で心配事を抱えていた。
客人である少年を待たせたあげく、勝負をする流れになってしまっていること。
怪我をさせてしまって妖怪の賢者である八雲紫に対してどう説明をすればいいのか分からないということ。
以上の2つである。
咲夜は知らないが、咲夜の危惧している八雲紫に関する心配は無用の産物である。八雲紫は、たった今レミリアの部屋にいる。もちろんそのことは、咲夜、美鈴、少年、誰も知らない。
動揺した様子の咲夜にレミリアからの冷たい視線が送られる。
「咲夜は黙っていなさい。これは貴方が決めることではないわ。私が聞いているのは、そこの人間よ」
レミリアの視線が咲夜から少年へと向けられる。
少年は、レミリアが美鈴と闘うことを叫ばれた時からずっと表情を変えていない。
何を考えているのだろうか。
何を感じているのだろうか。
今の空気を何も思っていないのだろうか。
少年以外の人物からは読み取れなかった。
少年は、平常心でレミリアの問いに答えた。
「構いませんよ」
「正気!? その応えの意味を分かって言っているの!?」
咲夜は、レミリアの要望に応じるような少年の答えに声を荒げた。
少年がレミリアの提案を受け入れるということは、少年に自己責任が発生することになる。怪我をしても提案を受けた方が悪い。喧嘩を買った人間が悪いというように、少年が同意することで少年に対して容赦する必要性、八雲紫の影響力が小さくなる。
それは、手加減という枷を外す言葉だ。例え、少年がどれほどの怪我を負おうが、それは自己責任で丸め込められる可能性が生まれることを示唆しているのだ。
咲夜は、死んでしまう可能性まで出てきた少年の身を案じた。
「怪我だけじゃすまないかもしれないわ。それこそ、最悪―――死んでしまうかもしれない……」
「大丈夫だよ。僕は勝負を受ける」
「ほら、本人がこう言っているのだから別にいいじゃない」
レミリアは、少年の物言いに頬を綻ばせる。
少年は、落ち着いた様子で勝負を受けるという選択をした。少年が受けて立つというのならば、勝負は成立する。対戦相手である美鈴が断ればあるいはというところであるが、残念なことに美鈴はレミリアの命令に逆らえない。
「そう……私は止めたわよ」
咲夜は、黙り込む。少年が容認してしまえば、咲夜が何を言っても無駄である。レミリアをたしなめられるだけの技量もなければ、権力もない。
レミリアをトップに据える紅魔館のメンバーの中でレミリアの動きを止めるには、完璧な理(利)があるか、納得させるだけの何かを持ってくるしかない。現状況では残念ながらそういったものは保持していなかった。
「ただ、ルールは設定するわ。このまま無条件でやっても一方的になるのは誰の目から見ても明らかだもの。結果の分かっている勝負ほど面白くないものはないわ」
さぁ、美鈴と少年の対決のルールを設定しよう。
これから美鈴と少年が行うのは、拳と拳の殴り合いである。
現状では、美鈴と少年には実力に大きな溝があり、能力値に大きな差があるため、ルール無しの何でも有りで試合を行った場合の結果は分かり切ってしまう。ここにいる誰もが勝敗を考えても同じ結果になるだろう。
それでは先ほどの弾幕ごっこと全く同様で、面白味が欠けてしまう。そもそも賭けを行っている手前、同じ価値のものが賭けられていると考えると2人の勝敗の確率をできるだけ五分五分にするルールが必要である。
「人間の勝利条件は、美鈴に有効打を1発でも与えられたらでいいわ。何を使ってもいい、霊力弾でも、武器でも、何でも使っていいわ」
少年の勝利条件は単純明快である。有効と思われる打撃を一発入れればいい。あとは何を使っても、何をしても構わないというものである。
「美鈴の勝利条件は、相手に負けを認めさせること、あるいは戦闘続行不能にさせることよ。気は使ってはいけないわ。美鈴ならば、身体能力だけでも十分すぎるほどにやれるでしょう」
美鈴の勝利条件は、少年の負けを認めさせることである。
美鈴には気の使用を不可としている。対して少年は霊力を使うことができるため、ある程度のアドバンテージを作ることができた。
八雲紫のレミリアに向けられていた視線が一気に険しくなる。レミリアは、後ろからやって来る威圧感に背筋が凍るのを感じた。
「分かっているわよね、吸血鬼」
「も、もちろんだけど、殺しては駄目よ」
レミリアの声は若干震えていた。レミリアしか見えていない少年と美鈴と咲夜は、レミリアの様子の変化に疑問を抱える。
「お嬢様?」
咲夜は、疑問の声を漏らすものの何か行動に出ることはなかった。何かできることもなかった。
「これは、フェアな賭けじゃないわね」
紫は、レミリアの試合条件の設定にぼそりと呟く。
美鈴に気の使用を禁止させても、これでもなお美鈴と少年の間にある溝は埋まらない。本当に両者の実力差を埋めようというのならば、足は使わない、その場から動かないなどの縛りがさらに必要になる。
「これはどういうことなのかしら、吸血鬼」
これは勝率5割の賭けではない。勝った時の商品に格差がないのに5割じゃないというのはフェアではない。
「フェアじゃないね―――それでも受けたことに変わりはないわ」
「そうは言うけれど、これでは不公平よ」
これから行われる試合は、本来ならば勝率を五分五分にするべき試合だが、レミリアは条件設定として五割に持っていく努力をしていない。その理由はいたって単純で、賭けに負けたくないからである。
レミリアは、指定した条件下での試合の勝敗を美鈴8少年2ぐらいで予測していた。
レミリアの表情に挑発するような笑みが浮かぶ。
「今更逃げようというのかしら?」
「別に逃げたりなんかしないわ。ただ、余り気分のいいものではないということだけ」
レミリアは、紫の言葉に気を良くする。紫は不利と分かっていながらも勝負を受けるつもりのようだ。
美鈴と少年は、レミリアの提示した条件に静かに頷き、受け入れる姿勢を示した。
「「分かりました」」
レミリアは、二人の返事にうんうんと二度首を縦に振り、振り返る。そして、部屋の中にいる八雲紫へと話しかけようとした。
レミリアと紫の2人で行う賭け事の形式として、賭けが被ってはならない。賭けがかぶってしまえば勝負は成り立たない。もちろん八雲紫の解答はどちらであるか明白であるが、はっきりとさせておく必要があるだろう。
賭け事には、後で何も言い訳できないような言質が絶対に必要だ。
終わった後に私はどちらとも選択していないなど言われても困る。賭け事は賭けるものがあるだけあって、負けた言い訳を垂れる人間がいる。そんなことがあれば、興覚めしてしまうだけだ。八雲紫に限ってそんなことはありえないが、念のためである。
「さぁ、貴方はどっちに賭けるかしら、八雲紫」
「もちろん―――和友が勝つ方に賭けるわ」
「賭けは成立ね」
八雲紫の答えは、当然のように少年に賭けるという選択だった。レミリアはもちろんのことながら美鈴の勝ちに賭けるため、賭けはここに成立する。
レミリアは、嬉しそうな表情で賭けの成立を告げ、移動を開始した。
「テラスに移動するわ。こんな狭いところで見るのは窮屈すぎるもの。妖怪の賢者、賭けの見物に行くわよ」
八雲紫はレミリアの言葉に応じず、その場から動かなかった。
レミリアは、動かない紫を見て不思議に思い、問いかける。
「どうしたのよ?」
「これは賭けにはならないわよ。そのルールじゃ、和友は絶対に負けるはずがないもの」
「そんな自信どこから湧いて出てくるのかしら? 美鈴は、こと格闘戦なら負けないわ。せいぜいあなたの大事な従者がぼこぼこにならないように祈っていることね」
紫の表情は、レミリアの挑発するような言葉を受けても変わることはなかった。
レミリアは、無表情のまま見つめてくる紫に悪寒が走るのを感じたが、気のせいだと無視するように移動を開始する。
八雲紫は、レミリアが部屋を出ていくのを確認して小さくぼやいた。
「何も分かっていないのね。分かっていないことは幸せなのかしら。それとも、やっぱり……」
あの子が分かっていなければ、幸せだったのだろうか。
あの子が知らないままだったら、幸せになったのだろうか。
それとも、やっぱり―――不幸でしかなかったのかしら?
疑問に対する答えは、どこにもなかった。