メイド服の女性は、少年の自己紹介を聞いて自分がまだ名乗っていないことに気付いた。
「そういえば、私たち自己紹介をしていなかったわね」
紅魔館の人間は、少年に対しての知識をある程度持っている。
八雲の隠し子、独特の雰囲気を持つ子供、八雲紫に神隠しにあった外来人、様々な話を色々なところでよく耳にしている。そんな偶に耳にする噂を知っているからこそ少年が紅魔館へと呼ばれている。
そしてもちろん私たちのことも当然のように知っているだろう。メイド服の女性は、少年が紅魔館についての前知識を持っていると勝手に思っていた。
自分たち(紅魔館)のこともある程度噂にはなっている。むしろ、少年のことよりも情報を仕入れるのはよっぽど容易なはずである。紅魔館に来ることになった以上、知識をつけることは当然やっているはずだし、自分達(紅魔館)のこともある程度知っていると思っていた。
「私達のことはある程度知っているとは思いますが、直接こうやって話すのは初めてですし、打ち解ける意味も込めて自己紹介をしましょう」
(申し訳ないけど何も知らないんだよね……僕が知っているのは、危険だから近づいちゃいけないっていう藍の言葉だけだ)
少年はそんな女性の予想と反して紅魔館のことを何も知らなかった。紅魔館についての情報なんて、危険な場所だから近づいてはいけないという情報しかない。それ以外の情報は何一つとして持っていなかった。
普通ならばこんなことになることはない。訪れる前にあらかじめ相手側の情報を教えられるものだ。少なくとも、向かうように言った紫からは伝えられているはずだった。
だが、誰も少年に紅魔館についての情報を伝えなかった。忘れていたわけではなく、故意に教えられていなかった。
(紫のことだ、きっと僕に気を遣ったんだろうね。昨日急に言われても僕には何もできなかっただろうし)
紅魔館に行くことを伝えたのは昨日のことである。仮に紫が教えていたとしても、覚えるために書き記す作業を行わなければならない、覚えるために尋常じゃない時間を必要とする少年には大きな負担となる。
紫は、少年を気遣いそのままの状態で行かせることにしたのである。
メイド服の女性は、そんな事情から少年が紅魔館の情報を全くといっていいほど知らないことを露程も知らない。ある程度の知識は持っているだろうと考えながら、無知な少年に対して少年がしたものと同じような自己紹介を行った。
「私は、この紅魔館でメイド長をしている
メイド服の女性の名前は、十六夜咲夜という名前のようである。
少年は、頭の中で女性の名前を数度反復させる。ここで聞き流してしまえば頭の中から記憶が流れ出てしまう。
記憶は流動的で、せき止めなければ一気に流れて行ってしまう。
忘れないようにしなければ。
覚えておかなければ。
強く頭の中で念じるように必死に頭の中に女性の名前を留めた。
「今、何歳?」
「今、十四歳です。今年十五になります」
「ほら、やっぱり同い年じゃない」
少年の言葉にすぐさま合の手が入れられる。
少年の年齢は現在14歳である。中学1年生の時に紫に連れ去られてから、2年の月日が経過している。
咲夜は、同い年の少年に気を許したのか、気さくに話しかけた。
「だったら固いのは抜きにしましょう? 同い年の相手に遠慮するというのもなんですし……お互い誰かにつき従っている立場、気を遣わない相手を見つけることも必要でしょう?」
「咲夜さんと同じように、私もそうしていただけると助かります。門番をやっていると紅魔館以外の方としゃべる機会なんて殆どありませんから。愚痴でも聞いていただけるとありがたいです」
咲夜は、もっともらしいことを口にする。そして、咲夜の言葉を隣で耳にしていた中華風の服を着た女性も咲夜の意見を肯定した。
(幻想郷の人間はみんな、横の繋がりが薄いのかな?)
二人の言動からは、幻想郷の人々の繋がりの薄さが感じ取れた。
幻想郷で横の繋がりを作ることは難しいことなのだろうか。
友達を作ることは難易度が高いことなのだろうか。
外の世界では考えもしなかったことである。
―――そもそも知り合いを作る方法って何だろうか。
そう考えたとき―――幻想郷では知り合いというものが非常に作りにくくなっている構造をしていることが理解できた。
(幻想郷だと難しいんだね……余りにも縁が無さ過ぎる。妖怪という者の存在が人と人とを疎遠に、人と人が会うためのきっかけを遮断している。それも、どこかの勢力に属しているのならなおさらだ。妖怪との繋がりが深いほど、縁は細く薄くなる)
人と人が繋がるには接点が必要なのだ。
交わるための合流地点が必要なのである。
(幻想郷はどこまでも閉鎖空間だ。外に手が伸びることを嫌っている雰囲気がある。幻想郷の成り立ちを考えれば仕方ないのかもしれないけど)
外の世界ならば学校なり、部活なり、社会に出たところで周りとの繋がりが生まれる。自動的にラインがクロスする。
幻想郷の人里に住んでいるのならば、それこそ隣の家の人間に話しかければいいだけの話である。それで知り合いになれる。友達になれる。
しかし、幻想郷で勢力に属している場合は別である。
幻想郷における勢力は一か所に固まっている。僻地に追いやられているように外部にひっそりと集まっている。外に伸びているラインがほとんどなく、横に繋がるためのパイプがとても細い。隣に住んでいるような人間はいないし、周りに人が住む場所は存在しない。仮にあったとしても、どうしても勢力としての体裁があり、仕事の繋がりのような利害関係で結ばれるような間柄で終わってしまう。
自身の勢力のことを第一に見据え、勢力のトップに付き従う。こんなことでは横の繋がりを作ることなど不可能である。
(それも妖怪がいるからってことなんだろうね。人の恐怖の対象である妖怪が、人の繋がりを寸断している)
ましてや妖怪と関わりのある人の場合にはさらに難易度が跳ね上がることになる。妖怪が絡んだ瞬間―――人は恐怖する。それは繋がりを阻害する十分な原因になる。
妖怪の存在は、人同士の横の繋がりを得ることを邪魔する。妖怪は恐怖の対象であるから、人同士の繋がりを構築できないのである。
妖怪が人里を歩けば視線が集まる。妖怪という単語に危機感を覚えるような人間と、どうやったら妖怪の勢力の人間が話し合いをすることができるだろう。仮に会話ができたとしてもそれは、脅迫の類になってしまうはずである。
(藍だって紫だって、例外じゃないもんね。幻想郷はあくまでも妖怪のための楽園なんだし、おかしくないといえばおかしくないけど、なんだか―――寂しい気がする)
考えてみれば、紫や藍も横の繋がりがあるようには思えなかった。
(……ああ、そういうことか。だからこうなってしまったのか。だからここまで依存が酷くなってしまったのか)
少年は、幻想郷における横の繋がりの薄さがあるからこそ、自分への依存がより深くなったのではないかと思った。他にないから、少年にだけあるから、そんな特別な部分が依存の対象になっているのではないかと思った。
そして、それはきっと間違っていない。少年みたいな人間が山ほどいたら、能力を抜きにして少年のような存在がいっぱいいたとしたらこんなことにはなっていないはずだ。代わりがいてくれたはずだ。特別感が薄れたはずだ。
(止めよう、代わりがいればなんて―――そんな考えは捨てよう。仮定することもできやしない)
―――そんな思考はするだけ無駄、無意味である。
代わりなんて誰にもできないのだから。
誰だって、誰にも成れないのだから。
(誰にも僕の代わりはできない。それは誰だって同じだ。代わりなんて誰もいない。この世の中には誰の代わりもいないのだから)
二人は、複雑な表情を浮かべて黙っている少年に尋ねた。
「どうかされましたか? もしかして具合でも悪いのですか?」
「いえ……そういうわけではありません。ちょっと考え事をしていました」
少年は、朗らかな表情を浮かべて誤魔化した。
さて―――どうすべきだろうか。
心の中には表情とは異なり、複雑な感情が渦巻いている。それは、二人の意見を受け入れるべきか否か―――どちらの方が良いのだろうかということについてのことである。
何も気にすることなく好意を受け取れたらいいのだが、考慮しなければならない要素がある。二人が親しく話しかけているのは、能力の影響によってなのかもしれないのだ。
少年の未来を考えれば、ここは絶対に断らなければならない場面である。断って、適度な距離を保つ必要がある場面である。
しかし、断ることで相手の心象を悪くしてしまうかもしれない。これから話をしに行く前にぎくしゃくした関係を作るのもどうなのだろうか。話が円滑に進まなくなってしまうのではないだろうか。
どうすればいいのか。
少年はそう考えて――――目の前の目的を達成するために二人の提案に乗った。
「お二人がそういうのならば、そうさせてもらいます」
すぐさま持ち歩いているノートを取り出す。すぐにでもノートに二人の名前を書き記さなければならない。もう一度名前を尋ねて名前をノートに記さなければ。
少年の記憶はそう長くはもたない。特に人の名前は区別することが難しい。覚えるためには書き記す作業を行う必要がある。
少年は忘れないために、覚えるために二人に名前をノートに書いて欲しいと頭を下げてお願いした。
「すみませんが、もう一度だけ名前を教えてください。漢字と一緒に覚えるので、できれば書いていただけると助かります」
「笹原は随分と律儀な性格をしているのね」
咲夜は、少年のお願いを聞き、少しばかり呆れた顔をする。
少年の性格は幻想郷ではめったにいないタイプである。真面目で、奇妙なぐらい優しく、律儀な性格をしている。未だかつて名前を間違えたくないからという理由で名前を書いて欲しいなど、言われたことがあっただろうか。
そう言っている少年には、そんなことを言わなければならないような何かがあったのだろうか。何か過去に失敗でもしたのだろうか。それとも、何らかの理由から名前を大事にしているのだろうか。
そうでもなければ、この真面目さはありえないだろう。いつか聞かせてもらえるだろうか。
咲夜は、少年を物珍しそうな目で見ながら少年の要請に応えた。
「いいわ、貸しなさい。書いてあげるから」
「よろしくお願いします」
少年は了承の言葉を聞いて、ノートと筆を差し出す。
ノートと筆が少年から咲夜へと渡る。
筆は今すぐに書き出せるように墨が付いたままだった。
「あっ……」
―――間違えた。何も考えずに墨のついている筆を渡してしまった。
誰にも聞かれないほどの小さな声が少年の口から漏れた。
筆という媒体は、ものを書く物で間違ってはいないのだが、上手く扱える人はそう多くない。書いている途中で墨がかすれてしまったり、墨が跳ねてしまったりして不快な思いをする可能性がある。
少年は、こういうときのために普段から二つの書くための道具を所持している。
それが筆とペンである。
筆は主に少年が耐久戦をする際に使うものである。暇な時間をつぶす時、マヨヒガで物事を覚える際に使用される。
ペンは、筆とは対照的にふとした時にメモ書きをするために使っていた。
ここで渡すべきなのは筆ではなく、ペンだ。
今からでも間に合うだろうか。少年は、服が墨で汚れる可能性のある筆を咲夜に渡したことを反省していた。
「あの、服が汚れるかもしれませんし、ペンで書きますか?」
「心配する必要はないわ。筆を扱うのはそこまで苦手なわけじゃないから」
咲夜は、筆を手に取ったまま手にフィットする位置を探す。
手に持った筆はいやに手になじむ。安っぽい筆だったらこうはいかないだろう。
筆というのは、人を選ぶのである。人ではなく、道具の方が人を選ぶのである。使えない人には使えない。使える人のみ使うことができる。
筆は、鉛筆やペンではない。あれらは誰もが使うことができるようにできているが、筆はそれらとは一線を駕している。
特に―――少年の筆からは持ち主を選んでいるような特殊な雰囲気が感じ取れた。よほどの人物が作った筆なのだろう。
咲夜は、湧き上がった称賛をそのまま口に出した。
「素晴らしい筆ね。私が持つにはちょっと大きいけど、いい筆であることは私でも分かるわ」
「はい、それについては同意します。ほんとに良い筆ですよね」
少年は、咲夜の言葉に嬉しそうに反応する。店主にも後で伝えておこう。きっと喜んでくれるはずだ。
咲夜は、筆を握りながら僅かに考え込んだ。こんな筆、普通だったら手に入れられない。きっと入手元は八雲紫だろう。
ふと、今握っているのがそんな大層な筆なのかもしれないと想像すると―――指先に緊張が走った。
指先がゆるりと震える。迷ってはいけない。迷いは鮮明に筆先に伝わる。筆とは心を表す表現器である。
迷いを断ち切れ。流れるように書くのだ。
咲夜は、心を制するとさらさらと流れるように自分の名前をノートの上に書き記す。真っ白なノートの中に黒い文字が浮かんでいく。
咲夜は、最後まで名前を書き終えると少年へとノートを見せた。
「これでいいかしら?」
「はい、ありがとうございます」
少年は、綺麗に書かれた文字を見て満足げに言葉を返し、ノートと筆を返して貰おうと手を出しかけた。
しかし、ノートは少年に差し出されることはなく、新しいページに移行される。咲夜の書いた名前は真っ白なページに隠されて見えなくなった。
どうしたのだろうか。
まだ書き忘れがあるのか。
名前は書いてあるのだから大丈夫なはずだけど。
少年は、咲夜の行動を不思議そうに眺め、どうしたのかと声をかけようと口を開こうとした。その瞬間―――声が割って入ってきた。
「咲夜さん。次、私が書きますので貸してください」
「分かっているわよ」
―――慌てて伸ばそうとしていた手を引く。
(あ、そっか。もう一人も教えてもらわないといけなかったんだ)
そうだ、もう一人教えてもらわなければならない名前がある。考え事をしていて、もう一人の女性のことを忘れていた。
ノートは、咲夜の隣にいる女性へと手渡された。
「ではではさっそく!!」
中華風の服を着た女性は、咲夜からノートを受け取ると楽しそうに、にこにこした笑顔でノートの上で筆を走らせる。勢いよく進む筆からは、墨が僅かに飛んだ。
「ちょっと! 墨を飛ばさないでよ! 服についたらどうするの!?」
「す、すみません……気を付けます」
墨の代わりに咲夜からの叱責が飛ぶ。
中華風の服を着た女性は、勢いを一気に減速させて名前をノートに記しながら少年に忠告した。
「私の名前はですね、ちょっと特殊な読み方をするので間違えないようにしてくださいね」
「笹原、分からなくなったら中国か門番って呼べばいいわ」
咲夜は、冗談を言うように少年へ提言した。
紅魔館では、基本的に中華風の服を着た女性のことを中国、あるいは門番と呼ぶことが通例だった。誰なのか特定できるのであれば名前の呼び方などどうでもいい。特に紅魔館においては中国や門番という名前の方が定着しており、名前で呼んでいる人の方が少なかった。
中華風の服を着た女性は、笑顔を一気に泣きそうな顔に変えて切実な様子で訴える。
「そんな! 嫌ですよ! 折角名前を覚えてもらうチャンスなんですから」
「じゃあ、もしも忘れてしまった時はそのように呼ばせて頂きます。基本はちゃんと名前読みするので安心してください、中国さん」
少年は、女性の切実な様子に誠意を込めて応えた。
女性は、少年の物言いに裏切られたような気持ちになったのか、げっそりとした顔で落ち込む。
咲夜は少年の回答に思わず吹き出しそうになり、手を口元に当てて笑いを堪えた。
「ふふふっ」
「笹原さん、酷いです……」
少年は、二人の反応に分からずきょとんとする。
どうして笑っているのだろうか。
どうして落ち込んでいるのだろうか。
中華風の服を着た女性が落ち込んでいる理由も咲夜が笑っている理由も少年には分からなかった。
「えっ? 私、何かまずい事をしましたか?」
「笹原は本当に不思議な人間ね。貴方みたいな人、見たことがないわ」
「そうですね。私も見たことがありません」
紅魔館の二人は、少年の表情を見て苦笑した。
少年は相変わらず不思議そうな顔をしている。本当に状況を分かっていないのだろう。
少年の行動を見ていれば、わざと中国と呼んでいるわけではないと分かる。
けれども、話の流れからいえば明らかにこれからも中国と呼ぶと言っているように聞こえるのだ。空気を読むことができる人ならば、冗談で場の流れに乗ってそう言ったのだろうと思うだろう。
だが、そういったものが少年からは一切感じられない。それなのに邪気も歪さも感じない。そこに疑問もなく、狙いもなく、ただ純粋に言っているのが分かる。
針金をぐにゃぐにゃに曲げて真っ直ぐに伸ばして、それを真っ直ぐだと言い張るような歪な気持ち悪さがない。何か変わっている。気持ち悪い方向じゃなく、綺麗な色をしている、汚しちゃいけないものに見える。
何故そう見えるのか理由は分からない。
少年の気質がそう思わせるのだ。
女性は、中国と呼んだ少年に悪気はないようだし、これから覚えてもらえばいいだけの話だと前向きに考えることにした。
「何度も言いますが……私の名前、ちゃんと覚えてくださいよ」
「大丈夫です、覚えるのには自信がありますから」
「私の名前はですね。ほん、め……」
「来るのが遅いわ」
女性が少年に自分の本当の名前を告げようとしたが、それは第三者の登場により行動を遮られることとなった。
横やりが入れられたわけではない。後ろから突き飛ばされたわけでもない。
横でもなく、後ろでもなく、前からでもなく―――上方から声が降り注いできたのである。
「何を遊んでいるのかしら?」
一斉に3人の視線が声のする方向へと向かう。軽く上を見上げ、声のやってきた場所を目で捉える。
視界の中には、窓から傘を出して外へと顔を出している少女が映った。室内にもかかわらず傘をさしている光景は異様だ。スペースが狭く、傘を差している事も相まって息苦しく感じられる。本当に窮屈そうである。
窓から見下ろす少女は他の二人の女性に目を向けることなく、明らかに少年を真っ直ぐに見つめていた。どこか薄ら笑うような顔で―――面白いものを見つけたような瞳で少年を射抜いていた。
「僕を見ている……?」
少女と視線を交わされた。
特に何か思うこともなかった。
特に何か感じることもなかった。
出会いなんてそんなものだ。
運命を感じるなんてそんな気持ちは全くなかった。
瞳に映る少女の口角が軽く上がる。
「余りに遅いから咲夜を迎えによこしたものの、中にも入らずずっと喋り続けて……もう待ちくたびれたわ」
「お嬢様、申し訳ありません。すぐに向かいます」
「申し訳ありません。今からお連れいたします」
咲夜は、館の中から覗いている少女に向けて慌てて頭を下げる。その行動に追いつくように中国と呼ばれている女性も同様に頭を下げた。
少年が呼ばれてから随分と時間が経過している。少年が紅魔館を訪れてから立ち話をしている時間をトータルすれば、すでに4時間近くの時間を浪費している。相手側の主が、少年が来ないことを気にしていてもおかしくはなかった。
少年は、視線をそらさずに主であろう少女を見つめていた。
「あの子が、ここの主か……」
きっと紅魔館でスペルカードルールについて話さなければならない相手はあの子だろう。あの子のために自分は呼ばれたのだろう。
館から覗く少女は視線を逸らさない。少年も同様に少女を見たまま動く様子はない。
少女は、暫くの間視線を交わすと不機嫌な心中を吐露した。
「謝って済むと思ったら大間違いよ。私を待たせた罪は重いわ」
「それは、私に言っているのですか?」
「あなた以外に無いでしょう? 他に誰に言っているというの?」
咲夜ともう一人の女性は、少女の物言いに露骨に表情を曇らせる。
責任の矛先が少年に向いている。
これはまずいことになった。
これからさらにまずいことになる。
少年と少女のやり取りには争いの予感しかなかった。
そしてその予想通り―――少年は余りに横暴な少女の言葉に反論した。
「そうですか、だったら言わせてもらいます。私も随分と待たされています……遅れているのは私の責任ではありませんよ」
少年の雰囲気が一変している。
咲夜と中国は、少年の纏っている雰囲気に言葉が出てこなくなった。少年の表情は硬く、非常に真面目な顔をしている。先程までの優しい雰囲気は息を潜めて欠片も感じられない。まるでそんなもの無かったかのようだ。
さすがは、八雲紫の遣いとして紅魔館に呼ばれているだけはある。
さすがは、八雲紫に外の世界から攫われてきただけはある。
二人は、改めて少年が八雲紫の従者なのだと認識した。
だが、少年の責めるような言葉は風に流されることになる。少女の表情には、挑発するような笑みが浮かんでいるだけだった。
「そんなもの私には関係ないわ。遅くなったのは事実で、
「ルールとモラルは必要ですよ。勝手に家に入るのは、私のモラルに反します」
ルールとモラルは、少年にとって重要視されるものである。
無断で家に入るなど、少年のルールが許さない。無断で家に入るということを容認できない。
あの強盗殺人犯のように―――人の家に勝手に入ることは許されない、自分自身が許しはしない。それは―――少年の中のルールがそれを許さないからだ。
そして、当然ながら揺すっても話しかけても起きない女性に対して暴力を振るったり、無理矢理に起こしたりすることもできなかった。
少女は、少年の反論に薄く笑う。
「そうかしら? 貴方はずっとそうやって逃げているだけよ。越えられない壁に立ち向かおうとしていないだけ」
「どういうことですか?」
「ルールとモラルを破らなければ前に進めないときもあるということよ」
引かない少年と、揺らがない気持ちを持つ少女の間で言葉が激突する。
少女は、幻想郷でめったに見れないものを見つけた喜びを隠しながら少年と同様に持論を展開した。
「破る際にはもちろんリスクがあるけど、それを打破できるのであれば些細な問題よ。今回の場合はそうだったでしょう? 入っても客人扱いをされている貴方は、危害を加えられる対象ではなかったわ」
「けれど……」
反論を口にしたかった。
言い返したくなる気持ちが強かった。
だけど―――必死に気持ちを抑えて口を閉ざした。
少女の言い分はもっともなことだ。確かに、少年が紅魔館へと黙って入ったところで大した危害は加えられないだろう。紅魔館は、悪即斬を実行している勢力ではないのだから。
しかし、そんなもの少年は知らないし、それは少年が黙って紅魔館へ入っていい理由にはならない。何一つ物を取っていかない=家に黙って入ってもいいということには決してならないのだ。
(君はそういうのかもしれないけど、僕には僕のルールがある。君の尺度で僕を測らないで欲しいって……そう言いたいけど。納得してもらえないんだろうな)
少女の言い分にはとても納得できないが、自分の言い分を押し通して少女に自分の考えを理解してもらうことはとても難しいことである。
自分の意見は自分の良心に従ったもので、相手の理論は時間を無駄にしないという利益を第一に考えたものである。
(僕たちの意見はどちらも間違っていない)
お互いが間違っていないだけに意見がまとまることはない。世の中でうまくまとまらないのは、こういったどちらも間違っていない場合である。
(このまま話をしても一向に意見が交わることは無いだろう。こういう場合は、受け流すのが一番かな。そうでもしないと話が一向に進まないもんね)
現状で最も簡単なのは少女の意見を受け入れることだろう。それが嘘であっても、受け入れるふりだけであっても、話を進ませなくてはならない。
議論を重ねても―――きっとお互いの価値観は交わらないから。ちょっと話をした今だけでも通じ合えない部分を感じ取れるから。話を前に進ませるために取れる選択肢は、受け入れるふりをすること―――それ以外に存在しなかった。
少年は、少女の言葉に反論せず、頭を下げて謝罪をした。
「融通が効かなくてすみませんでした」
「随分と素直に引き下がるのね。もっと何か言いたそうな顔をしていたじゃない。言ってくれても良かったのよ?」
「いえ、融通が利かなかったのは事実ですから。申し訳ありませんでした」
「「はぁ……」」
咲夜と中国と呼ばれている女性はお互いに顔を見合わせ、不安を取り除くように大きく息を吐き出した。
少年がこのまま少女に噛み付いていた場合、どうなるか分からなかった。酷く場が混乱するのは間違いないだろう。もしかしたら、ちょっとした争いが起こっていたかもしれない。
そうなったら八雲との全面戦争になりかねない。
それだけは絶対に避けなければ。
今の状況は、そういう意味では場を落ち着けることのできる好機である。
しかし、場は簡単に収束したりしない。
少年が退けば―――少女は前に出る。
少女は、笑みを深めて発言した。
「謝っても許さないわ」
少年は、少女の言葉に困った表情を浮かべた。
許さない? 誰が? 何を?
だったら誰に何をどうすれば許してくれるのだろうか。
「お嬢様」
「咲夜は黙っていなさい。私はそこの人間と話をしているの」
中華風の服を着た女性と咲夜が顔をしかめる。主の悪い癖が出ている。こうなったらどうしたって止まらない。止められた試しがない。
少女の立場は、紅魔館の主というだけあって非常に高い。咲夜も中国と呼ばれている女性も、主の意見に進言することができなかった。この場には、少女を止められるものなど誰もいなかった。
少年は、困った表情のまま少女に疑問を投げかけた。
「どうすれば、機嫌を直していただけますでしょうか?」
「そうねぇ……」
少女は、考え込むように頭を傾ける。
中華風の服を着た女性と咲夜は、少女の様子に嫌な予感を覚えた。こういった予感がするときは碌なことがなかった。
(僕の今の立場だと、要望を受け入れるしかない)
少年の立場は、少女の意見を鵜呑みにしたため悪くなっている。少年の責任で話し合いが遅れている、時間を無駄にしているという事実が出来上がってしまっている。責任が少年に押し付けられた形となってしまったのだ。
(さっき、相手の意見を受け入れたのは間違えだったかな……?)
本当ならば、責任の在りどころは紅魔館にあったというのに。
迎える側なのに準備を怠っていた紅魔館側に問題があるというのに。
少年が少女の意見を受け入れたことが仇となっている。
責任を押し付けられた以上―――下手に出るしかない。
(なるようにしかならないね。僕の選んだ回答に自信を持って前に進むしか僕にできることは無いんだから)
ここで冷静さを失ってはいけない。毅然とした態度で、胸を張って少女と相対する。弱さを見せればつけ入れられる。理不尽な要求が来るかもしれない。
少女は、しばらく考え込むと視線を下げて少年を値踏みするように見つめる。そして、僅かに口角を上げて口を開いた。
「貴方はスペルカードルールを推し進めるために話し合いをしに来たのでしょう?」
「そうです。私はスペルカードルールの説明に来ました。それは、私を呼んだ貴方もご存知でしょう?」
「もちろん知っているわ。他でもない私が呼んだんだもの」
少女は、もちろん少年の来た目的を知っている。知っているうえで少年に尋ねていた。
少女は、笑みを浮かべたまま少年に向けて言葉を投げつける。
「そうね……貴方には実演してもらいましょう。この国には、百聞は一見に如かずということわざもあるようだしね」
女性二人は、少女の言葉に固まった。
少女が言いたいことが理解できなかった―――わけではない。その先の言葉を瞬時に理解できてしまったから固まっていた。
ここから開催されるのは、戦いだ。
固まる二人を無視するように言葉は降り注いでくる。
落ちてくると分かっていた言葉の雨が3人へと打ち付けられた。
「美鈴、その人間と戦いなさい。弾幕ごっことやらで戦って見せなさい」
「わ、私ですか?」
美鈴と呼ばれた女性は、少女からの唐突な指名に驚いた。内心では分かり切っていたことではあったが、実際に言葉に出して表現されると驚いてしまうものである。
当然であるが、今日初めて客として呼ばれた少年と闘うことになるなど露程も想像していなかった。ついさっき少女の言葉が告げられる前に予見するまでは。
咲夜は、少女の言葉を信じられず、耳を疑う。
館から顔を覗かせている少女は、中国と呼ばれている女性―――美鈴と少年を勝負させようというのである。
咲夜は、動揺を隠せないまま少女に言った。
「ほ、本気ですかお嬢様?」
「本気も本気よ。つまらない冗談は嫌いだわ」
少女は、従者である咲夜の問いにはっきりと答えた。
これは―――ダメなやつだ。
どうにもできないやつだ。
こうなったら最後―――全てを押し付けてくる。
こちらが受け取るまで押し付けてくる。
「今のお嬢様に何を言っても無駄ね……」
「そうですね、お嬢様は意見を変えないでしょう……」
従者の進言を聞かないのはいつものことである。
主は、主の時間で動いている。主の感覚で動いている。そこに他人の意志は介在しない。あるのは、自分という究極的な個だけである。
少女は、従者二人の意志を押さえつけると少年に対して高圧的に告げた。
「さぁ、貴方はどうなの? 八雲紫の使者」
「全然構いませんよ。やるのならとっととやりましょう」
「あら? 思ったよりもやる気なのね」
少年の顔は真剣で、冗談を言っているようには見えない。女性二人は、少女の提案に応じると思っていなかった反動もあって驚きの表情を隠せなかった。
二人は、驚いてばかりだ。こんなことになるなんて思ってもみなかった二人は感情を置いていかれそうになっていた。
飲み込まれてはならない。勢いに任せて流れに乗ってはならない。冷静にならなければ、正常な判断はできない。一度―――断ち切らなければ。それこそ時間を止めるような感覚で仕切り直さなければ。
咲夜は少年の肩を叩き、少女に向いている意識を無理やり自分へと向けた。
「笹原、止めておくべきだわ。お嬢様は私が説得するから止めておきなさい」
「いいよ、気遣いはいらないから」
今から行われる勝負は、酷く一方的なものになる。美鈴と呼ばれた女性の実力を良く知っている咲夜は、普通の人間である少年では到底叶わないと知っている。ボロボロになってしまうと分かっていた。
美鈴と呼ばれた女性が手加減をすればいいのかもしれないが、紅魔館の主である少女がそれを許さないだろう。少年のバックボーンに八雲紫がいるとしても、少年が頷いてしまえば意味をなさない。何をされても、受け入れた少年の自業自得になる。
「笹原! 私は貴方のことを心配して言っているのよ!?」
「私なら大丈夫だから」
少年は、静かに首を横に振る。咲夜の提案に対して明確な拒否の姿勢を示した。
咲夜は少年の身を案じ、必死に説得しようとする。
「何を言って……」
「あの子なんだよね? みんながお嬢様って呼んでいるのは」
「……そうよ」
少年は視線を咲夜から少女へと戻す。少女の瞳は、相変わらず少年の瞳を貫くように見つめている。
少年は、視線を少女に固定しながら語り掛けるように言った。
「あの子は絶対に言ったことを曲げないよ。あの目はよく知っている。あの目の人は、それこそ実力行使で止めなきゃ止まらない」
少年は、少女と同じような目をしている人間と今までに何度か会ったことがあった。同じ目をしている人は、例外なくはっきりした意志と揺らがない心を持っていた。あの目をしている人間の意志を曲げるには、単純明快な物事の有意の差と説得力が必要となる。
現状では、少女の言動を曲げるだけの反論も弁明も思いつかない。先程少女の主張を受け入れてしまっている少年の主張が余りに影響力が小さすぎて説得力に欠けるのだ。
―――打つ手なしである。
「それはそうかもしれないけど、まだやらなければならないと決まったわけではないでしょう?」
「一番よく分かってるのは従者である二人の方でしょ? もう遅いんだよ。こうなったらやるしかない」
何もできないのは―――咲夜も同じだった。少年に返す言葉がなかった。
少年の言葉は事実であり、勝負を受けるという以外の選択肢は存在しないだろう。主の意見を曲げることができる方法があるのであれば、教えてほしいほどである。
「これから話し合わなきゃいけない相手に対して武力行使に出るのはどうかと思うし、これでいいんだと思うよ。スペルカードルールの実演なんて、やってどうなるんだって話ではあるけどね」
少年は、すでに少女のことを知っているように話す。
咲夜は、そんな少年のことを不思議に思った。
自分たちの名前を少年が知らなかったことは、先程の名前を教えて欲しいという流れから把握している。名前も知らないのであれは、おそらく紅魔館について何も知らないのだろう。少なくとも、八雲紫から何も教わっていないことは明白である。
それなのに、こうもはっきりと少女のことについて断言されると昔から知っていたのではないかと変な想像をしてしまう。
そんなわけはない。
自分がいる間であれば、そんなことなかったはずなのだ。
どこでそんな接点が。
何処に共通点があるのか。
咲夜は、少年に疑問を投げかけた。
「お嬢様のことをよく知ってらっしゃるようですね。八雲紫から話を聞いたのですか?」
「見れば大抵の事は分かる。声の通り方、迷いのない言葉、目つき、意識の伝わり方で大体分かるよ。私、人を見る目だけはあるから」
少年は、人と話すだけである程度の相手の性格を読み取ることができた。それは、目から、仕草から、言動から、行動から、少年の境界線で判断されている。
少年は、人の名前を区別する際に名前だけを覚えているわけではない。人というのは名前だけで区別できるほど簡単なものではない。
ある人の名前が佐藤だとして、佐藤を佐藤たらしめるのは名前ではないのだ。顔、体、などの見た目である第一印象から、癖、仕草、言動、性格などの内部の印象まで全てが佐藤という人間を作っている。
そんな区別するための努力が少年の目を肥やしている。
見れば分かるというのは―――冗談でも何でもない。能力でも何でもない。
経験に裏付けられた―――少年の境界線引きである。
迷う要素は何もない。
戸惑うことも何もない。
自分がやらなければならないことは単純明快だ。
美鈴と呼ばれた女性に向けて、真剣な顔で勝負を申し込めばいいのだ。
受け入れる姿勢を示せばいいのだ。
「だから―――勝負です。弾幕ごっこで勝負しましょう。紅魔館の方々は、スペルカードルールでの対戦は初めてでしょう? 私は、初心者に負けるつもりは無いですから」
少年の言葉は自信に溢れていた。
まるで言葉が生きているみたいに躍動していた。
美鈴と呼ばれた女性は、ぞくぞくするような興奮を覚えた。少年の顔は勝負師のそれである。はっきりとした意志と立ち向かう覚悟、勝つ自信を抱えて勝負を挑んできている。
美鈴は、少年の勝負の申し入れを受けて立った。
「凄い自信ですね。では、見せてもらいましょう。この勝負、受けて立ちます!」
「うふふ」
少女は、白熱する二人の様子を見降ろしながら面白いものを見るように笑う。
機は―――熟した。
戦いは始まる。
始まるべくして開始される。
少女は、戦いの合図を出すように咲夜へと言った。
「咲夜、合図を出しなさい」
「では、スペルカード3枚で試合を行います」
咲夜は黙って少女の指示に従い、少年に申し訳なさそうな顔を見せて宣言を行う。
少年と美鈴は4メートルほどの距離をとる。臨戦態勢の構えである。
少年は、口上として美鈴を挑発すような言葉を投げかけた。
「僕は1枚も使うつもり無いけどね。弾幕ごっこは、一朝一夕で上手くなるようなそんな遊びではないことを知っておくべきだよ」
「とんだビックマウスですね。全てはこの勝負で分かることです!!」
お互いの意識を高めあう。お互いに視線を交わし、相手を見つめる。
今必要な情報は一人分だけだ。
視界に収まるのは一人だけでいい。
相手となっている人物だけでいい。
それだけで十分で―――それだけが全てだ。
「…………」
咲夜は二人に目配せし、間を測る。
数秒が経っただろうか、咲夜は息を吸い込み―――声を吐き出した。
「始め!!」
戦いの火ぶたは―――今切られた。
3人称での解説はもう大体できていると思うので、1人称で書いてみたいなぁと思う今日この頃。少年の過去とか、能力についてとかいろいろ書きましたし、大丈夫だと思っています。
完全に3人称を削ると分かりにくくなることもあると思うので、複合的に書いてみようと思っています。
当初は、原作に入ったら1人称いってみようと思っていましたが、次々回ぐらいから準備運動的に書いていきます。