ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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紅魔館へ行った、ただひたすらに待った

 これは、紫と少年が話をした次の日のことである。

 少年は―――紅魔館にやってきていた。紫からあるお願いをされて、紅魔館まで足を伸ばしていた。

 

 

「ちょっと紅魔館に行ってもらいたいのだけどいいかしら?」

 

 

 紫の口から唐突にできてきた紅魔館という単語。

 少年は、紅魔館という名前を知っていた。紅魔館というのは、幻想郷を巡り地理を覚えた際に記憶した名前の一つである。

 紅魔館―――それは悪魔の住む館。藍からは危険な場所だと教わっている場所である。

 

 

「うーん」

 

 

 紅魔館に行くことに関しては一つだけ懸念すべき材料がある。

 それは安全面の確保の難しさ――ではなかった。

 少年には永遠亭での仕事がある。朝から行って欲しいということであれば、永遠亭での仕事を休まなければならなくなる。

 仕事とは義務である。やらなければならないことである。それを差し置いておいそれと紅魔館を訪れるわけにはいかない。

 少年は、紅魔館という危険地帯に行くことよりも、永遠亭での仕事を休まなければならないことを気にしていた。

 

 

「午前中は永遠亭で仕事をしなきゃいけないから無理だけど……午後からなら大丈夫だよ。藍にはまた心配かけることになるけどね」

 

「午後からで十分よ。別に貴方の仕事の邪魔をしようとは思っていないわ。時間もそれほどかからないと思うし、先方には貴方が行くことを伝えてあるから心配せずに行ってきなさい」

 

 

 少年は、先方に伝えてあるという紫の言葉が気になった。

 紅魔館にすでに話を通しているということは、紫が話したのでは目的が果たせなかったことを意味する。紫が話をした時には、目的が達成できなかったということを揶揄している。

 紫では駄目で、僕でなければならない理由―――そんなものあるだろうか。

 

 

「……向こうにはもう僕が行くことを伝えてあるんだね。ちなみに僕は、紅魔館で何をすればいいのかな?」

 

 

 どうして僕が行かなきゃならないのだろう。

 僕が行く意味はあるのかな。

 何か特別な理由でもあるのかな。

 当たり前であるが少年には紅魔館に立ち寄るような用事もなければ、知り合いがいるわけでもない。知り合いだから呼ばれているという線は絶無である。

 そんな少年の疑問に紫が答えた。

 

 

「今度から揉め事があった場合にはスペルカードルールを適応する、それについての話し合いよ」

 

 

 紫が言うには、今後から問題が発生すればスペルカードルールを用いて決着をつけるようにするから、それを知らせてきてほしいとのことだった。

 つまり、少年が紅魔館に行く目的はスペルカードルールを広めるための宣伝、あるいは布教ということだろう。

 目的を知った少年は、なおのこと紅魔館に行った際に紫が話せば良かったのではないかと思った。

 

 

「それって僕が行かなきゃいけないの? 僕が行くって話をつける時に一緒に話せばよかったんじゃないかな」

 

「そんなもの知らないわよ。どこで和友のことを聞きつけたのか知らないけど、向こうが貴方を指名しているのだから拒否権なんてないの。文句を言わずに行ってきなさい。これは、もう決まっていることなのよ」

 

 

 紫の回答は、少年の質問の回答になっていなかった。

 ただ、こういう場合は何を聞いても話をしてくれないどころか、機嫌が悪くなることがほとんどである。それを知っている少年は、黙って紫の命令に従うことに決めた。

 

 ―――それが昨日の出来事である。

 

 

 

 

 そして現在。

 少年は紫のお願いを了承し―――紅魔館へと向かっている途中だった。

 紅魔館までは、まだ少しばかりの距離がある。目視で遠くに見えるような状態である。

 少年は森の中で高度を落とし、地面を歩いていた。

 

 

「紅魔館って、いつ頃建てられたんだっけ? 僕が幻想郷の地理を覚える頃にはあったんだよね。一度も入った事は無いけど」

 

 

 紅魔館に入ることは、藍から止められている。危険だからという理由で止められている。

 つまり少年は、現在進行形で藍の命令に反している。現状を考えれば立ち止まらなければならないし、離れなければならない。入るなんてもっての他だろう。

 だが、藍からの命令も紫からの命令があればどうしようもない。命令系統の最上位が紫であるため、藍の意見が通用する道理はなかった。

 

 

「藍、心配しているだろうなぁ。でも、紫の命令じゃ仕方ないよね。納得できないかもしれないけど、飲み込んでもらう他ないかな」

 

 

 少年は藍の想いを無視し、ゆっくりと赤い建物に向かう。

 森には道なんてない。けもの道が僅かにある程度である。先程から草木が接触して歩きにくい。自然と歩幅が狭くなり、足並みが遅くなる。

 それでも、飛ぶよりは数段ましである。

 

 

「本当なら飛んで行けたら良かったんだけど、妖精を連れていくわけにもいかないよね。向こうが呼んだのはあくまでも僕だけだし、連れてこられても迷惑だろう」

 

 

 当初は飛んで紅魔館の正面まで行こうと思ったのだが、紅魔館へと飛行している途中でその考えを捨てた。

 少年の周りには、妖精たちが無条件に集まってくる。空を飛ぶことが苦手な少年が空中を相当数飛んでいる妖精を躱し切ることは非常に難しく、くっ付いてくる妖精を引き連れかねないのだ。妖精を連れてこられても紅魔館側としては迷惑な話だろう。

 それに、空を飛ぶよりも地上を走る方が速い。妖精に付きまとわれない速度で走ることができる。いくらけもの道だとしても、草木が邪魔しようとも飛ぶよりははるかに速かった。

 

 

「さぁ、もうすぐだ」

 

 

 少年は、妖精を引き剥がしながら紅魔館へと歩いて近づいていた。

 次第に少年の視界の中に真っ赤な建物が姿を現す。少年は、真っ赤な紅魔館を見て冗談を言うように呟いた。

 

 

「はぁ~相変わらず真っ赤だなぁ、目に悪いよ。緑とかにすればいいのに……」

 

 

 真っ赤なのは、紅魔館の人間の趣味だろうか。

 真っ赤にすると気持ちが悪くなるのではと、誰も言わなかったのだろうか。

 暮らしている家を真っ赤にしようなんて、常人には全く分からない感覚である。

 それはきっと普通ではない考えだ。

 少なくとも少年には理解できないものである。

 

 

「絶対普通じゃないよね。色彩感覚に限って言えば、僕以上に普通じゃない。真っ赤にしたら気持ちが悪い。もっと優しい色で塗り潰した方がいい―――例えば緑とか」

 

 

 少年の指摘もまたどこかずれている。常人と外れている。少年も常人と少し違った感性を持っているため、そんな指摘になってしまったのかもしれない。赤が緑になったところで目に優しいだけで、奇抜であることに変わりはなかった。

 

 

「こうしてよく見ると日本で建てられる建物ではないなぁ。世界中のどこにもこんな建物は無いと思うけど……あ、でも変なのを作る人は少なからずいるから、もしかしたらあるかもしれないね」

 

 

 森を抜け、正面から木が消えて建物だけが姿を現してくると、ますます建物の赤さが際立ってくる。視界のほとんどが真っ赤に染まる。

 少年は、真っ赤な光景にどこか圧迫感を覚えた。

 

 さて、ここからどうしようか。

 目的地には着いたが、これからどうしなければならなかっただろうか。

 何を頼まれていたのだろうか。

 薄くなりつつある記憶を掘り返してみる。

 そっと思い返してみる―――紅魔館を見据えて、やってきた目的を思い返した。

 

 

「紫は、紅魔館の人達には話をしてあるって言っていたけど、だったらなんで僕が行くことになっているんだろう? 普通にスペルカードルールの説明をすればいいのかな……僕から聞くより紫から聞いた方が絶対にいいのに」

 

 

 少年は、なぜ‘自分’が紅魔館にやってきているのか分かっていなかった。

 紅魔館の人達に自分が来るという話が通してあるというのであれば、話した時に一緒にスペルカードルールについての話をしてしまえばよかったのである。そうすれば、後から少年が紅魔館へ行くことはなかった。

 

 

「藍でも、博麗の巫女でも、僕以外に説明できる人はいっぱいいたはずなんだけどな」

 

 

 そもそもスペルカードルールの布教、普及のための説明は本来、紫自身がすべきことだ。あるいは博麗の巫女、あるいは藍がすべきことなのである。力の無い少年がやるべきことではないのは確かだった。

 

 

「だけど、お願いを受けたのは僕自身だもんね、僕にやれることを精いっぱいやろう」

 

 

 結局承諾して、目の前まで来てしまっている以上、やることをやるしかない。

 それが例え、紫がやらなくてはならないことでも。

 それが例え、藍がやらなくてはならないことでも。

 それが例え、博麗の巫女がやらなくてはならないことでも。

 誰がやっても一緒なら―――自分がやってもいいじゃないか。

 どっちでもいいじゃないか。

 

 

「結局のところ誰が行ってもいいんだから。紫が行っても僕が行ってもどっちでもいいんだよね」

 

 

 少年はそっと視線を持ち上げる。視線の先では4メートルはあろうかという大きな門と真っ赤な建物が少年を迎えていた。

 

 

「やっぱり大きいな」

 

 

 紅魔館には、入り口である門が存在する。柵が敷かれて門を開けなければ入れない作りになっている。飛んでいけば通ることは可能ではあるが、それはやってはいけないことだろう。門を飛んで超えてしまうなど無粋である。それでは門の意味がないのだから。

 

 

「どうやって内側に入るんだろう。話が通っているのなら―――門は通してくれるんだよね?」

 

 

 紫の話が本当ならば―――誰かが出迎えてくるはずだ。少年は、持ち上げていた視線を下ろし、付近に誰かいないか目を配った。

 門の傍には、一人の女性が壁に背中を預けて立っていた。服装はどこか中華風で、異国の人のような印象を受ける。

 

 

「誰だろう? 僕の知らない人だ」

 

 

 初めて見る人だ。もしかしたら以前に幻想郷の地理を勉強していた時に会っているのかもしれないが、少年にその記憶はない。きっと話しかけていないのだろう。名前を教えてもらって書き記す作業を行っていれば、覚えているはずだった。

 初対面のはずだ――――少年は決めつけた。

 

 

「でも、門の前にいるってことは紅魔館の人だよね。紅魔館の人以外であんなところにいる理由なんてないだろうし」

 

 

 門の前に立っているということは紅魔館の住人で間違いないだろう。この人が少年を出迎える人なのだろうか。だったらこの人から許可を貰えば中に入れるはずだ。

 少年はそう思い、そっと女性に近づいて話しかけた。

 

 

「すみません、紅魔館の方ですか? 私、笹原和友と言います。八雲紫の方から何か聞いていませんか?」

 

 

 少年は、不慣れな敬語を使って女性に話しかけた。

 しかし、少年の声には一向に返事が返ってこない。女性の反応は一切なく、顔を上げることも、目を開けることもなかった。

 少年は、反応のない女性を不審に思い、顔を覗き込むように顔を近づける。すると、一定の間隔で呼吸しているのが聞こえた。静かな寝息が漏れているのが耳に入る。どうやら眠ってしまっているようである。

 

 

「うーん、寝ているのか」

 

 

 こういう場合―――どうするのが正解なのだろうか。

 女性の顔を覗き込むのを止めて門の奥にある紅魔館へと目を向けてみる。

 目的地は、門ではなく奥にある紅魔館である。少年の目的を遂げるためには、門を超えて紅魔館に入る必要がある。

 少年は、目の前で寝ている女性と紅魔館を交互に見つめると困った表情を浮かべた。

 

 

「どうしよう、勝手に紅魔館に入るわけにもいかないよね。この人、間違いなく紅魔館の関係者だし、素通りしちゃ駄目だよね、きっと……」

 

 

 この場合は―――待つべきだろう。

 少年は自らの中で正解を作り出した。

 自分が正しいと思うことをしようと思った。

 

 

「しょうがない。起きるまで待つかな」

 

 

 門の手前でゆっくりと背伸びをする。空に手を伸ばし、背中を伸ばす。

 長丁場になりそうだ。

 いい、待つのには慣れている。

 我慢比べは、最も得意とするところである。

 少年は、門の前に立っている女性と同じように壁を背もたれにして空を見上げた。

 空は明るく、雲の動きが早い。

 天気は下り坂になりそうである。

 

 

「雨、降るかなぁ。降るんだったら夜にして欲しいな。それまでにはきっと……」

 

 

 女性を見つめ、起きてくることを願う。そして、その場で空を見上げたまま時間を止めた。ひたすらに食い入るように空を見上げて続けた。

 外の世界を想いながら。

 家族のことを想いながら。

 ―――時間を流した。

 

 

 ―――3時間後―――

 

 

 空を見上げたまま3時間の時を過ごした。

 雨雲ができ始めているが、雨は降ってはいない。どうやら雨が降り始めるのは夜になりそうである。待っている間に降って来るということはなさそうだ。

 門の前に立っている女性が起きたのは、ちょうどそんな頃合いだった。少年が寝ている女性をいい加減起こそうかどうかで迷っていた時だった。

 そんなとき、場に―――変化が起こった。

 

 

「呼んだはずの客人が来るのが遅いと思えば、こういうことだったのね」

 

 

 少年は、声の飛んできた方向に視線を向かわせた。

 声は、門の奥にある紅魔館の方向から飛んできている。門の奥からは人が一人歩いて門へと向かってきているのが確認できた。銀髪にメイド服を着た女性である。

 メイド服の女性は、綺麗な歩き方で真っ直ぐに門へと向かってくる。紅魔館側の人間も待っていたのだろうか。少年が来ることは伝えられているから、余りの遅さに様子を見に来たのかもしれない。なんにせよ、これ以上待たされることはなさそうである。

 少年は、少しばかりの安堵をしながら新たに現れた女性に向けて声を飛ばした。

 

 

「紅魔館の人ですよね? 門が通れなくて……開けてもらえませんか?」

 

「申し訳ありません。随分と待たせてしまったようですね」

 

 

 女性によって門が内側から開けられる。門は大きな音を立てて開いた。

 メイド服の女性と少年の視線は、改めて交わされた。

 

 

「うちの門番がこうなっていることを予測しておくべきだったわ……」

 

 

 

 メイド服の女性は申し訳なさそうに頭を下げる。

 少年は、頭を下げる女性に笑顔を作って答えた。

 

 

「大丈夫ですよ。雨も降っていませんでしたし……でも、少し安心しました。私が来ることは伝えられていたのですね」

 

「ええ、お嬢様からお聞きしています」

 

 

 メイド服の女性は、少年のことを知っているようだった。

 紅魔館には、紫の言った通り少年が来ることが伝えられているようである。門の前で待っていた人が寝ていることからもしかして来訪することが伝えられていないのではないかと不安を持っていたが、今の対応を見て安心した。

 メイド服の女性は、暫くすると頭を上げる。

 少年は、顔を上げたメイド服の女性と目線を合わせると中華風の服を着た女性を指さして言った。

 

 

「それに、やっぱりこの人も紅魔館の住人だったんですね。だったら無断で入らなくてよかったです」

 

「え?」

 

 

 メイド服の女性は、少年の言葉を聞いて物珍しそうな顔をする。少年は幻想郷にはいないタイプである。女性は幻想郷で初めて少年のような人物と会った。

 招かれたのにもかかわらず、眠っている門番のことを気にかけ、起きるまで待っている。幻想郷の住人であれば、決してしない行動ばかりだ。外の人間でもあり得ないかもしれない。

 メイド服の女性は、そんな見たことのない少年に向けて忠告する。優しさから気遣うように進言した。

 

 

「随分とお人よしなのですね。そんな性格では幻想郷を生きていけませんわよ。もっと自分本位にならなければ全てを持っていかれてしまいます」

 

「生きていけない、それだったら私は今も生きているから大丈夫ですよ。これまでこれで生きてきましたから、それを変えるつもりはありません。それに―――私には生きることよりも大事なことがありますから」

 

 

 少年は、女性の忠告に軽く笑った。この性格で生きていくことができないのならば、すでに死んでしまっている。少年の性格は昔から何も変わっていないのだから。外の世界にいたときから、小学生だった時から何も変わっていないのだから。

 生きるということはそれほど大事な要素ではないのだ。少年には、生きることよりも大事なことがたくさんある。大事なものがたくさんある。

 生きることよりも大事なこと―――決まりを守ることがそれに該当する。生きることが大事なのではない―――普通に生きることが大事なのだ。それが決まり事で、それが守るべき自分の中の秩序なのである。

 

 

「見かけによらずはっきりと物事を言うのですね」

 

 

 メイド服の女性は、少年のはっきりとした意志に驚いた。

 少年の第一印象は誰が見ても優しいだけの弱弱しい男の子というイメージだろう。外から見た少年の印象などその程度のものだ。決して大きくはない身体、柔らかな雰囲気。そこから得られるのは、か弱い動物という印象だけである。

 現実には、とても大きくて揺るがない心を持っている少年ではあるが、初対面で得られる情報は主に第一印象だけである。イメージと違っても仕方がなかった。

 女性は、自分の中の少年のイメージを突き崩し、修正して少年を相手する。

 

 

「さすがは八雲の、というところでしょうか」

 

「そこは関係がないですよ。私は、昔からずっとこうだったので」

 

「それはそれで驚きですわ。その年齢で生きるよりも大切なことがあるなんてはっきり言える人を初めて見ました。過去に相当な経験があったのでしょう」

 

 

 女性は、わずかに微笑み少年の生きるよりも大切なものがあるという言葉に同意した。

 

 

「確かに貴方の言う通りだと思います。生きることより大切なものは確かにあります。私も持ち合わせておりますから」

 

 

 メイド服の女性には、少年と同じように生きることよりも大事なことがあった。紅魔館の主を守るという、宿命にも似た絶対的な意思があった。何を犠牲にしても、自分の全てを捧げても、命を失うとしても守り通すという覚悟がある。

 それこそが命よりも大事なもの。それがなければ自分は自分ではないだろう。それは自分を作り出している最も大事な部分―――自分が自分であるための必要な要素である。

 少年は、そこまで話を聞くと門の前で眠っている女性を起こさずに本題に入ろうとした。

 

 

「そちらの女性はどうしましょうか? 起こして連れていくのもあれですし……先にスペルカードルールについての話し合いをしても構いませんが」

 

 

 あれ程にすやすやと寝ている人間を起こすのは悪い気がする。別に寝ているこの人がスペルカードルールを説明するときに必要なわけではないだろう。スペルカードルールについての説明は、紅魔館の主に対してすればいい話である。寝ている人間を起こして、無理矢理に聞かせるほどのものではない。

 ここで置いていったとしても後から聞くことになるだろう。この人には別の紅魔館の人間から話してくれればいい。今聞くのか、後で聞くのか、違いはその程度のものである。だから、別に起こしてまで連れていく必要はないように思えた。

 しかし、メイド服の女性は少年の提案を丁寧に断った。寝ている女性を起こすと明言した。

 

 

「いいえ、ここで起こしますわ。この子も大事な紅魔館の一員ですから」

 

 

 少年は、お任せしますというように何も口を出さずに黙っている。起こすかどうかを決めるのは少年ではない。決めるのは自分ではない誰かだ。

 メイド服の女性は寝ている女性の下へと歩き、頭の上に手をのせる。そして、頭をぐらぐらと揺らしながら話しかけた。

 

 

「中国、起きなさい。お客様がお見えになっているわよ」

 

 

 女性の手の動きに合わせて中華風の服を着た女性の頭が揺れ、髪の毛がバタバタと跳ねる。

 

 

(中国って名前なのか……不思議な名前。固有名詞が被っているなんて区別するのが難しそうだなぁ……)

 

 

 中国というのは、寝ている女性の名前なのだろうか。

 中国って、中華人民共和国のことだろうか。

 幻想郷に中国はないはずなんだけど。

 中華料理はあっても、中国という単語を聞く機会はないはずなんだけど。

 どうしてそんな名前なのだろう。

 

 名前を付けるには、ちょっと微妙な名前である。

 誰が名前を付けたのだろうか。

 

 小学生の時、自分の名前の由来を調べてきなさいという課題が出たことがある。名前を付けるからには付けられる名前には意味がある。それを知っておくことは、与えてくれた愛情を知る上でとても大事なことなのだ―――というところから出た課題なのだろう。

 だとしたら、中国と呼ばれているこの女性にも何かしら与えられた思惑というか、想いがあったはずだ。

 それならば中国って、どういう理由からつけるのだろうか。

 少年は、メイド服の女性と中華風の服の女性がやり取りをしているのを見ながら、そんなどうでもいいことを考えていた。

 

 

「腹が立つぐらいに起きないわね」

 

 

 暫くの間頭を揺すり続けながら声をかけたが、寝ている女性が起きる様子は微塵もなかった。ただただ手に合わせて頭が揺らめいていているだけである。

 メイド服の女性は起きない女性に対し、根気よく話しかける。

 

 

「中国、お嬢様がお怒りになられているわよ!」

 

 

 お嬢様というのは、きっと紅魔館の主のことだろう。それか主の娘なのだろう。お嬢様という単語は身分の高さを連想させる。

 そんな新しい単語が出てくるたびに少年が考え込むのと同時に、メイド服の女性も全く反応を示さず眠っている女性に疑問を抱えこんでいた。

 

 

「おかしいわね。いつもはこれで起きるのだけれど……」

 

「そうなのですか?」

 

「ええ……不思議だわ。何かあったのかしら。中国に限って夜更かししていたとかお酒を飲み過ぎたとか聞いたことないのだけど」

 

 

 メイド服の女性は手を女性の頭から離し、不思議そうな表情を浮かべる。いつもであればお嬢様の名前を告げれば起きるはず、と言わんばかりの様子だった。

 実際そうなのだろう。だから戸惑っているのだ。メイド服の女性は真剣な表情で悩み、大きく息を吐くと少年に顔を向けた。

 

 

「ちょっとお見苦しいとこをお見せすることになるかもしれませんが、よろしいでしょうか?」

 

「私は別にかまいませんよ」

 

 

 少年は優しい表情で一度だけ頷いた。目の前で何が起こるか予測がつかないが、様子を見ていようと決めた。

 メイド服の女性は少年の快い反応に笑顔で頷くと、再び眠っている女性へと視線を集中させる。

 

 

「中国、最後の警告よ。これで起きなければ、お仕置きするわ」

 

 

 メイド服の女性の口から最終手段である「お仕置き」という言葉が使われた。9割以上諦めを含みながら一抹の期待をもって最終警告がなされた。

 そしてやはりと言うべきか、眠っている女性が反応することはなかった。

 こうなれば已む無しである。メイド服のスカートの中から一本のナイフが素早く取り出される。女性がすばやく取り出したナイフは、太陽の光を反射して怪しく光っていた。

 

 

「え、まさか……」

 

「そのまさかです」

 

 

 嫌な予感がした。明確な未来が目に見えた。

 ナイフは、寝ている女性に尖った先を突きつける形で静止している。そこから想像される未来は誰が想像しても同じはずである。

 現実は、少年の脳内映像に一気に接近する。ナイフの先が寝ている女性目がけて振り下ろされる。

 ナイフは、サクッという擬音が似合うように女性の額に向けて吸い込まれるようにして突き刺さった。

 酷く気持ちが悪い光景だった。思わず顔が歪んだ。

 これは大丈夫なのだろうか。自分は見てはならないものを見ているような気がする。無防備の人間を攻撃している。まるで寝ている人間の顔面を思いっきり蹴飛ばすような行為である。

 心の中で叫んでいる。悪いことだと言っている。

 少年は、さすがに黙っていることができず、声を漏らした。

 

 

「うわぁ、大丈夫なんですよね?」

 

「平気よ、見た目じゃ分からないかもしれないけど、この子は妖怪だから」

 

 

 少年の問いに対する答えは、非常に淡泊な答えだった。

 妖怪だから平気とはいうものの、ナイフを刺された女性の額からはつらつらと血が流れ出ている。思わず見ている方が痛く感じてしまう光景である。

 ナイフが刺さっている深さは約1 cmぐらいだろうか。確かに手加減されているようである。勢いよくやっていれば、もっと深くまで突き刺さっているはずだ。

 そして、そんな異常ともいえる状況の中で―――もっと不可思議な現象が起きていた。眠っている女性はそれでも起きるそぶりを見せなかったのである。

 少年は、額にナイフが刺さってもなお反応しない女性を驚きの瞳で見つめる。もしかしてすでに死んでいるのでは、そんな予想が頭の中を循環し始めた。

 

 

「まさか、これでも起きないのですか?」

 

「いつもだったらとっくに起きているのですが、ここまで無視されるとさすがに苛立ってきましたわ。さて、どこまでやれば貴方は起きるのかしら?」

 

 

 メイド服の女性は、ナイフを刺しても起きようとしない女性に対し、怒りを感じ始めていた。ここまで労力をかけているのにもかかわらず、起きないことに苛立ちを覚えていたのである。

 徐々にナイフを握っている手に力が入れられる。刺さっているナイフが頭の中に押し込まれていく。ナイフの刃がどんどん女性の頭の中に入り込んでいく。1cmから2cm, 3cmと進んでいく。

 眠っている女性は、次第にめり込んでいくナイフに冷や汗をかき始め、ある所で目をぱっちりと開けた。

 

 

「……い、痛ったいっ! 痛い、痛い、痛いっ!!」

 

「やっと起きたわね」

 

 

 メイド服の女性は、ナイフを握っていた手を放して痛みで震える女性から一歩離れた。

 中華風の服を着た女性は、体を激しく動かしながら痛みを叫ぶ。そして、痛みの源である額に刺さったナイフの柄を握ると勢いよく引き抜いた。

 額からは、先ほどよりも激しい勢いで血が流れ出る。額からつらつらと顔を伝って顎からぽたぽたと垂れている。地面には、女性の血で染みができていた。

 

 

「何が起きたのですか!? 戦争が、戦いが始まったのですか!?」

 

 

 起きた女性は状況が呑み込めず、左右に首を振り状況を確認する。

 けれども、そんなことをしたところで見えてくるのはいつもの慣れ親しんでいる風景だけである。そして、中華風の服を着た女性の目の前には、いつも見慣れているメイド服の女性が存在していた。

 中華風の服を着た女性は、顔見知りである女性にきょとんとした表情で問いかけた。

 

 

「あ、咲夜さん、どうかしましたか?」

 

「中国、寝ぼけている場合じゃないわ。貴方……お客様を待たせて何をしているの? 今日はお客様がいらっしゃるから、案内するようにお願いしてあったでしょう?」

 

 

 メイド服の女性は、呆れた表情を浮かべていた。

 中国と呼ばれている女性は、メイド服の女性を咲夜さんと呼称した。咲夜―――それがメイド服の女性の名前のようである。

 

 

「…………」

 

 

 中国と呼ばれている女性は、徐々に顔を青くしながら慌てて空を見上げ、太陽の位置を確認した。

 日の傾きから今の時間をおおよそ推測することができる。だいたい、午後4~5時といったところだろう。

 中華風の服を着た女性は、太陽の位置からおおよその時間を把握すると視線を下した。視線を下した先には、これまで生きていて見たことのない少年がいた。

 

 

「こんにちは」

 

「こんにちは」

 

 

 少年は、苦笑しながら女性に向けて随分と遅くなってしまった挨拶を交わす。それを見た女性は、お客様というのが少年のことであり、自分が長らく眠っていたせいで待たせてしまっていたことに気付いた。

 

 

「え、ええっ!! なんで!? 起きる心持ちはしっかりしておいたのにっ!」

 

「はぁ……寝るつもりではいたのね」

 

 

 メイド服の女性は、眠っていた女性の物言いに頭を抱えたくなった。

 中華風の服を着た女性は、頭を抱えるメイド服の女性を横切って少年の目の前に来ると大きく頭を下げた。

 

 

「申し訳ありません! ど、どのぐらい待っていたのでしょうか?」

 

「うっ……3時間ぐらいでしょうか、おそらくそのぐらいだと思います」

 

 

 額から血を流したまま迫ってくる女性は、思った以上に恐ろしかった。ホラーである。悲壮な表情も相まって恐怖感が増している。少年は思わずのけぞりそうになるのを押さえつけてなんとか落ち着きをもって答えた。

 メイド服の女性は、3時間と言った少年の言葉に驚いた。いくら少年がお人好しであっても3時間もの時間をただひたすらに待っていたことに驚きを隠せなかった。

 3時間、3時間である。これがレストランであれば潰れてしまっていることだろう。信用も何もない。ただ、貴重な時間をつぶしてしまっただけ。それも、体を休められる場所ではなく、外で待たせてしまっている。

 メイド服の女性は、確認のために再度問いかけた。

 

 

「3時間も外で待っていらしたのですか?」

 

「はい……」

 

 

 メイド服の女性は、動揺していた。

 どうすればいいのだろうか。

 どうすれば挽回できるだろうか。

 こちら側の失態でお客様に迷惑をかけている。

 3時間も外で待たせていたなどお嬢様になんて言えばいいのだろうか。

 何とかして許してもらわなければ。

 メイド服の女性は、すぐさま頭を下げて謝罪の言葉を述べた。

 

 

「申し訳ありません! 3時間も外で待たせてしまって……私からも謝罪します。私にできることならば何でもしますから、どうかお許しください」

 

「はい、謝罪は受け取ります。でも、あんまり気にしなくていいですよ。別に急用というわけでもありませんし、他に用事が入っているわけでもありませんから」

 

 

 少年は謝罪を受け取り、謝る二人に対して気にしなくてもいいと言った。

 メイド服の女性は少年の言葉に胸をなでおろし、顔を上げる。中華風の服を着た女性もメイド服の女性と同じように、安心した表情を見せた。

 二人にとっては、呼びつけた相手を待たせていたという事実がそれほどに重い事柄なのだろう。外の世界の企業と同じようにお客様を待たせていた事実が信用や体裁に関わるのかもしれない。それか、お嬢様と呼ばれている人物から何か責任を取らされることがあるのかもしれない。

 なんにせよ、少年のあずかり知らぬところで何かあるのは間違いななかった。

 

 

「それにしてもどうしてでしょうか。どうして起きることができなかったのでしょう?」

 

 

 中華風の服を着た女性は少年の待っていた時間を聞き、不思議に思っていた。お客様がいらっしゃるということを知っていて、起きるという気持ちをもって眠りについたにも関わらず、全くもって起きることができなかったことを懐疑的に思っていた。

 

 

「3時間も待っていてくださったのですよね……話しかけたり、呼びかけたりはしましたか?」

 

「最初来た時に何度か話しかけました。けれども、話しかけても起きなかったので起きるまで待っていようと思いまして、こうなった次第です」

 

「かなり熟睡している様子だったわよ。私が話しかけても眠っていたし……」

 

 

 少年は事実を淡々と述べる。そして、少年の言葉にさらにメイド服の女性からの捕捉が入った。

 中華風の服を着た女性は、メイド服の女性の一言で完全に自分に非があることを認めざるおえない立場に立った。まだ何もしていないと言うのならば、起きることができないのも仕方がないとも言えなくはなかったが、話しかけても眠っていたのでは反論の余地はない。

 だが、その事実が本当であるならば、話しかけられても眠ってしまうほどに深い眠りについていたということになる。

 中華風の服を着た女性は、そんなことがこれまであっただろうかと疑惑を感じながらも、再び少年に向けて頭を下げて謝った。何をされても仕方がないと覚悟をもって頭を下げた。

 

 

「申し訳ありません!」

 

 

 約束をすっぽかすことに対しては、大なり小なり罰が加えられる。それは外の世界であっても幻想郷であっても変わらないことだ。この場合は、紅魔館の主が罰を与えることになるだろう。

 それに、待たせてしまった相手も悪い。少年は八雲家の人間である。少年を待たせたという事実は八雲紫に届くことだろう。それはつまり幻想郷における紅魔館の立場が悪くなるということ、印象が悪くなるということに他ならなかった。

 自分の寝坊が紅魔館の印象を悪くする。自分の責任で誰かの印象が悪くなる。自分の責任で誰かの立場が悪くなる。これほどに罪悪感を抱えることはない。これほど気持ちが悪くなることはなかった。

 中華風の服を着た女性は、精いっぱいの謝罪の気持ちを込めて言った。

 

 

「本当にすみませんっ! 私にできることなら何でもします! ですから……」

 

「はい、今度からは気を付けてくださいね」

 

 

 中華風の服を着た女性は、あまりに予想外な少年の言葉に唖然とした様子で顔を上げた。

 今度から気を付けてください? 

 それだけ? 

 お咎めは? 

 罰は?

 女性は、きょとんとした表情で再び問いかけた。

 

 

「えっと……もう一度言ってくれますか?」

 

「次からは気を付けてくださいね」

 

 

 少年は、間髪入れずに茫然とする女性に告げた。優しい笑顔で何事もなかったかのように言った。

 中華風の服を着た女性は、待たせたことに対して罰もお咎めもないということに唖然と立ち尽くす。こんなに簡単に収まってもいいのかと自分の気持ちだけが置き去りにされた気分だった。

 メイド服の女性は、茫然と立ち尽くす女性の肩に手を乗せる。中華風の服を着た女性は乗せられた手に視線を向けた。視線に入る女性の顔は、酷く面白いものを見ているような顔だった。

 

 

「この方はこういう方のようよ。良かったわね、優しい客人で」

 

「……はい。なんだか悪いことをしてしまったという気持ちはぬぐえませんが、よかったです」

 

 

 少年は、二人の話が一通り終わるのを見届けると一歩だけ後ろに下がり二人の女性から距離をとる。そして、立ち並ぶ二人の女性の前で元気よく口を開いた。

 

 

「ここでこれ以上時間を潰すのもなんですし、話を進めましょう。雨が降り出す前には帰りたいので」

 

 

 二人の女性の視線は、声を発している少年へと集約する。

 少年は、臆することもなく、堂々と二人へと告げた。

 

 

「八雲紫の方から前もって説明があったと思いますが―――私、笹原和友と言います。今日は、スペルカードルールについてお話に来ました」

 

 

 少年は、紅魔館に来て初めて自分の名前を口にした。




やっと紅魔館へ行けましたね。ここでの話が終われば、原作に突入します。先の話を書くよりも、昔の文章を直すことの方が気になって本末転倒になってしまっていますね。更新は、気長に待ってください。

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