ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

8 / 138
大きな変化を得た。
大きな流れに乗った。
流れに身を任せることで得る物もあるだろう。
流れに身を任せることで失う物もあるだろう。
きっと、得る物と失う物の大きさは―――等価。


新たな登場人物、塗り替えられた印象

 二人は、靴を脱いで玄関から家の中に入った。

 家の中に入った二人は、目的地に向けて歩き始める。少年は、辺りをきょろきょろと見渡しながら女性に寄り添い、足を前に進めていた。

 

 

「随分と広い家だね」

 

「そうかしら? このぐらいの広さはざらにあると思うけど」

 

「'俺にとって'は、とても広く感じるよ」

 

 

 女性は少年の言葉にそうかしらと疑問を投げかけるが、家の中は少年の印象から判断すればとても広かった。家の中の全貌を把握していないため、実際に広いのかどうかは分からないが、少なくとも少年は学校に来ているような気分になっていた。

 もちろん少年の通っていた学校と比べるとこの家はさほど大きくない。俗に言われる豪邸と言われるレベルの大きさと言えるだろう。

 しかし、少年には学校以外に比較対象となるものがなかった。

 少年の家は一般の家と比較しても小さいため、比較してしまえば大きいという評価にしかならないし、かといって大きい建物といえば学校以外に知らず、大きな建物に入るということを故意にしてこなかったというのもあって、比べられるものが自分の家以外になかったのである。

 

 

「余りうろちょろしないで、後ろについてきなさい」

 

「はーい」

 

 

 女性は、周辺をうろちょろする少年が気になるのか、後ろについてくるように命令した。

 少年は、女性の命令に従って女性の後ろに移動し、きょろきょろと周りを見渡しながら女性に言われるがままに女性の後ろにくっついて歩く。少年の視界は、女性の背中で大きく占められた。二人の足音は完全に同期し、廊下には1つの足音が鳴り響いていた。

 今は、女性が少年に張り付いていた昨日とは違う。今度は少年が女性にくっつく番である。

 少年と女性の姿は似ていないが、その様子はまるで親子のように見える光景だった。

 

 

「へぇーこうなっているんだ」

 

 

 純和風の家―――それが少年から見たこの家に対する評価である。庭があって、池があって、部屋には畳、ふすまがある、どこをとっても和風の家だった。

 

 女性は迷うこともなく、足を止めることもなく廊下を歩き、目的地へとたどり着く。そして、部屋にたどり着くと同時に、二人が作り出していた床を踏みならす音がパタッと消えた。

 

 

「ここで話をしましょう」

 

「了解です」

 

 

 女性は、ふすまを開けて中に入る。少年は、開け放たれたふすまの奥から動く女性の姿を見つめつつ部屋の中を視認した。

 部屋は居間として使われている場所のようで、面積は広く、動き回れるだけの余裕があり、調理場も付属していた。

 女性は、部屋の中心にある炬燵に向かって歩みを進める。少年は、その場で立ち止まったまま、動いている女性の姿を目で追う。

 女性は膝を折り炬燵に足だけを入れて座り込んだ。

 

 

「えっ……?」

 

 

 少年の口から思わず言葉が出た。

 少年の足は、余りにも異質な光景に完全に止まって動かなくなった。少年は、もともと女性が移動した位置に向かうつもりの心持でおり、女性が止まり次第そこに向かうつもりだった。

 しかし、少年の足は完全に止まってしまい、気持ちが女性についていけなくなった。

 

 

「…………」

 

 

 女性の様子があまりに環境に合っていないのである。明らかに不自然だということを脳が信号として送り出している。

 少年は、視界から送られてくる情報に茫然としてしまっていた。

 

 少年は、最初に女性の姿を見た時から思っていた。ここまで一言も言わなかったが、女性の服は少年が今まで見てきたなかでも特に派手である、今まで生きてきた人生の中で一番といっても過言ではないぐらいに派手だった。

 そんな女性が―――炬燵に足を入れて座っている。少年はその光景を見て、雰囲気に合っていないと素直に思っていた。

 

 

「どうして固まっているの?」

 

 

 女性は、立ち止まる少年を見て疑問を抱えていた。

 少年は、相変わらずどこか遠い目をしながらふすまの前で佇んでいる。

 

 

「早く座りなさい」

 

「…………」

 

 

 女性は呆然と立ち尽くす少年の様子を不思議に思い話しかけたが、少年は違和感しかない光景に足を止めたままだった。

 確かに炬燵という場所で話をすれば、落ち着くのかもしれない、リラックスした状態で話ができるのかもしれない。

 けれども、それ以上に女性が炬燵で休んでいる光景が気持ち悪かった。季節が夏ということがあり、季節外れも合わさって気持ち悪さはより顕著になっている。

 少年は、心に積っている違和感の塊を吐き出すように女性に大量の質問を投げかけた。

 

 

「ねぇ……炬燵で話をするの? もっと別の場所なかったの? しかも、今は夏だよ。なんで炬燵があるの?」

 

「面倒な子ね……」

 

 

 女性は、少年の乱立する質問に面倒くさそうな顔になった。

 少年の質問は、女性にとって本当にどうでもいい内容だった。話をするのに場所など関係なく、休める場所であればどこでもいいのだ。場所によって話す内容が変わるわけではないのだから。

 

 

「文句を言わないの。ここでは、炬燵はずっと出しっぱなしなのよ。ほら、早く座る!」

 

「はーい……」

 

「最初からそうしていればいいのよ」

 

 

 女性は、少年の質問に答える気は全くなく、一言でバッサリと切り捨てる。

 少年は、女性の態度から、いくら話したところで質問の答えが得られないと思った。答えが得られないのであれば、問い詰めても時間の無駄になる。少年は、横暴な女性の態度に呆れながらも、女性の言葉に従った。

 少年は、回答を得ることを諦めて間延びした返事を女性に返し、首をかしげながらゆっくりと炬燵の側に歩いて近づく。

 女性は、少年の動きに満足した様子だった。

 

 

「そこに座りなさい」

 

「はい」

 

 

 少年はちょうど女性の正面に正座する。炬燵は正方形であるので、女性と少年はちょうど対面するように座っている形になった。

 少年と女性が座っている炬燵の大きさは足を畳んでいても深く突っ込めばすぐにぶつかってしまうレベルの大きさで、少年と女性の距離はある程度近いものになっていた。

 

 

(どうして炬燵で話し合いをするんだろう? もっといい場所があると思うんだけど)

 

 

 少年は、相変わらず炬燵で話をすることに頭を悩ませる―――心の中に残っている疑問を解消できず、頭をフル回転させていた。結局のところ、なぜ炬燵で話し合うのかは分からないのである。少年は、炬燵に座ってからも回答を得ようと試行錯誤していた。

 しかし―――暫くの間考えると、そんなのはどっちでもいいのかと曖昧な気持ちになった。

 

 

「でも、何処で話をしても話の内容は変わらないし、別にどっちでもいいのかな?」

 

「そうそう、場所なんて気にしなくていいの。どこで話しても内容は変わらないわ」

 

 

 炬燵で話し合おうが、テーブルで話し合おうが、畳の上で正座しながら話し合おうが結局のところ話す内容は変わらないのだ。

 少年は、疑問を振り払うと居間へとやってきたもともとの目的を思い出した。

 

 

「あっ、今から能力の練習方法について教えてもらうんだっけ……よし!」

 

 

 少年は、そう言った直後、一気に真面目な表情になる。女性から見た少年は、先ほどとはまるで別人のような態度に見えた。

 

 

「では、先生よろしくお願いします」

 

「先生って。ふふっ、そんなに畏まらなくてもいいわよ」

 

 

 少年は、真面目な顔をして、声を張りつめて、頭を下げて言い放った。

 女性は、少年の急激な態度の変化に思わず含み笑いをする。少年の態度はあまりにも急激に変わりすぎて、境界を跨ぐように別の領域になっていた。

 実際のところ少年が畏まる必要など一つもない。女性からすれば、少年はただ真面目に自分の言葉に耳を傾ける姿勢さえ保っていれば、何でもよかった。

 

 

「気にしないでください。目上の人に物事を教えてもらうときは、こういう気持ちでいるって決めているので。癖みたいなものだと思ってくれていいです」

 

「ふーん」

 

 

 女性は、少年の切り替えの早さに感嘆し、一言呟いた。

 少年は、少しばかり変わった人間のようで、態度を改める気が全くないようである。女性が何と言っても少年の表情は固くなった状態のまま保持されていた。

 

 

(これも、能力が一枚かんでいるのかしら?)

 

 

 女性は、少年の言葉の意味を思考する。

 少年の言葉は、これまでも素直に理解できないことがあった。

 少年の言葉には、違和感を覚える内容が稀に含まれている。少年から感じられる異質な雰囲気―――違和感を覚える原因には、きっと能力が一枚噛んでいて少年のこれまでが関わっている、女性はそう思っていた。

 

 

(人格や雰囲気が変わるほどの変化を癖と表現するのはどうなのかしら? 普通じゃありえないわよね)

 

 

 女性は、今感じている違和感を見逃さないように少年の言葉をしっかりと吟味する。

 はたして、少年が言うような癖があるのだろうか。

 

 

(この子は、話す相手によって話し方を大きく変えている。警察官と話す時も口調が変化していた)

 

 

 少年は、どうやら相手によって口調を変えているようだ。

 今、女性に対して話している口調としては、相手を先生と呼び、敬語を使うというもの―――先程までは、一人称が俺であり何処か刺々しい印象をもっていた。時々子供っぽさが出るところは見受けられたが、おおよそはそんなものである。

 現在の少年の様子は、そんなとげとげしい印象から一瞬にして様変わりしている。

 

 

「こういうときは、敬語になるのね」

 

 

 女性は、少年の切り替えがどの程度のものなのか確かめようと、別人のように切り替わった少年を茶化すように、少年の額を閉じた扇子の先で突く。ニタニタと笑らいながら少年の額をコンコンと扉を叩くように突いた。

 

 

「つたない敬語ですけど、よろしくお願いします」

 

「良い心がけだと思うわよ」

 

 

 少年は、額を叩いている扇子を手ではたくこともせず、女性からの茶化しにも動じなかった。

 女性は、全く動じる気配のない少年にかすかに笑うと、扇子で少年の額を突くのを止める。扇子で突いていた少年の額は、少し赤くなっていた。

 額を赤くしている少年は何事もなかったかのようにじっとしており、赤くなった額をさすることなく、女性を見つめている。

 

 

「それじゃあ、これからよろしくね」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

「素直でよろしい」

 

 

 女性は、少年のことを特に気にする様子も無く、話を進めようとする。

 少年は、話を進めようとする女性に向けて静かに頭を下げて礼を示した。

 

 

「話を進める前に私の助手を呼ばせてもらうわ。あなたの教育係はその助手に任せるから」

 

「え?」

 

 

 少年は、予想しない女性の言葉に一瞬思考が停止した。

 女性は体をひねりふすまを少し開ける。開けられた空間は、ほんの僅かで人が通ることができない程度である。

 女性は、僅かに空いた隙間に口を近づけると大きく息を吸い、大声を発した。

 

 

「藍ー!! 来なさーいっ!!」

 

 

 女性は、廊下中に響き渡るような声で助手とやらを呼ぶ。ふすままで結構な距離があるのにもかかわらず、足を出すことなく寝そべりながら声を発していた。部屋が広いため、辛うじて足の先が残っているような状態である。

 

 

「普通に炬燵から出てふすままで行けばいいと思うのですが」

 

「あ?」

 

 

 そこまで炬燵から足を出すのが嫌なのであろうか。

 ちなみに言うが炬燵の中は別に暖かくない。そもそも季節は夏である。少年は、このまま中学校に通っていればもうすぐ夏休みを迎えるところだった。

 少年は、不自然な体勢になって後ろ姿しか見えない女性の姿に疑問を投げかける。

 

 

「そんなに炬燵から出たくないのですか?」

 

「うるさいっ。黙っていなさい」

 

「先生って結構横暴ですよね」

 

「何か言った?」

 

「いえ、なんでもありません」

 

 

 女性は、少年の質問に体の向きを整え、少年と向かい合った。

 少年から見た女性は、若干怒っているように見えた。

 

 女性は、少年があまりにも思い通りに動かないことに苛立ちを覚えていた。

 今まで女性が相手にしてきた人物は、いつだってその多くの者が自分に従ってきた。それは、力によってなのか、権力によってなのか分からないが、相手の多くが下手に出たり、分かりやすく反抗してきたりしたものである。

 だが、少年はその大多数とは大きく違っている。物怖じもしなければ無礼なことも言う、だがそこに悪意を感じない。無垢な子供と喋っているような気持ちになり、まぁ仕方ないかという気持ちになるのである。

 それは、女性が扱ったことのない年齢というのもあったり、性別が違ったりで上手く気持ちを制御できていないということもあるのかもしれないが、思っていた以上に自由な少年の在り方に、思い通りにいかないことにイライラを隠せなかった。

 

 

「ん……」

 

「じー」

 

 

 少年は、怒った様子を隠さない女性に対して無表情で静かに目を閉じる。女性は、不機嫌な顔を隠すこともなくただただ少年を見つめていた。

 少年は、怒っている女性に何も応じることはなく、目をつむったまま、静かに場が動くのを待っている。

 女性は、少年を見つめてはいるものの、話しかけることはしなかった。

 話しかけなかったのは、少年からの反応を待っているからなのか、単に圧力をかけるためなのか、それは分からない。ここで確かなことは、女性は先程呼んだ藍という人物を待っているということだけである。

 

 

(助手かぁ……ということは、僕の能力に付き合ってくれるのはこの人じゃないんだ)

 

 

 少年は、閉じた瞳のまま先程女性が言っていた言葉を思い返した。炬燵を出ようとしない女性の行動もそうであったが、女性が先程発した言葉も十分疑問に値する内容である。

 少年は、女性がたった今廊下に向けて声を発するまで、目の前にいる女性が能力の練習に付き合ってくれると思っていた。話の流れからも、誰だって目の前の女性が手伝ってくれると思うだろう。

 しかし、女性の言動から考えると、どうも目の前の女性が能力の練習に付き合ってくれるというわけではないようである。

 少年は、思考がある程度の結論に至るとゆっくりと瞼を開いた。

 

 

「藍というのは、先生の助手の方ですか? その人が俺の練習に付き合ってくれるということなんですかね?」

 

「おおむねその認識で合っているわ」

 

 

 女性は少年の質問に端的に答えると、声を発している途中で少年がなぜそんな質問をしてきているのか気付いた。

 

 

「私だけであなたの能力の練習を全部見るなんて、どう考えても無理なのよ。時間的な問題でね。それに、助手じゃなくて正確には‘式’だけどね」

 

「‘しき’……?」

 

 

 女性の言葉によると少年の練習に付き合ってくれるのは、助手である藍という人物らしい。そして、目の前にいる女性が少年の能力の制御の練習に付き合えないのは、時間的な問題だということのようである。

 だが、少年には女性の口にした言葉の中で理解できなかった言葉があり、首をかしげて頭を悩ませた。

 少年は、心の中で自分に問いかけ、漢字変換すらままならない‘しき’という単語に思考を止める。

 

 

(この人に聞けばきっと分かるんだろうけど……)

 

 

 少年の探している答えは、すぐ目の前に存在する。思考の答えは、確実に目の前の女性が保持している。

 けれども、少年が女性に声をかけることはなかった。

 

 

(これからの話に関係があることか分からないし、また怒らせるかもしれない。やめておこう……)

 

 

 少年は、先程女性から黙れと言われたことを気にしていた。どこまで話していいものか、これからのことに関係があるのか少年には分からないため、口にすることが躊躇われたのである。

 そして、話し出さない少年と同様に女性が悩んでいる少年に話しかけることもなかった。

 女性が説明しなかったのはごく簡単な理由で、ただ、少年が悩んでいるように見えなかったからだった。少年が頭を悩ませているといっても少年の真面目な顔は揺るがなかったから、悩んでいることに女性が気付いていなかっただけだった。

 

 

(……誰か、来てる)

 

 

 少年が疑問を告げることを悩んでいる間に、廊下の方から足音が近づいてくる。少年の目の前にいる女性に呼ばれた藍という人物がこの部屋に近づいてきていた。

 床を踏む音がふすまの近くまで来ている、音が大きくなる。そして、あるところで音が跡形もなく消え、先程女性が廊下に向かって声を発するためにちょっとだけ開いていたふすまが一気に開け放たれた。

 

 

「どうかいたしましたか、紫様」

 

「やっときたわね。昨日話していた件についてよ」

 

 

 少年は、この部屋にやってきた女性の言葉を聞いて初めて、目の前にいる意味不明な女性の名前が紫という名前であることを知ることになった。

 少年と対面している目の前の女性―――紫は、持っている扇子で少年を指し、来訪した藍という人物に少年の存在を見せつける。

 少年は、開け放たれたふすまの方へとそっと目を向けた。藍という人物が紫の指し示す扇子の先を見つめると少年と藍の視線が交錯した。

 

 

「この子が昨日話していた子になるわ。藍、この子をよろしくお願いね」

 

 

 女性が扇子で指し示している少年の顔は相変わらずの真面目な顔のままで、その視界の中には藍という人物が確実に捉えられていた。

 ふすまの奥にいたのは、大きな尻尾を複数生やした、またしても見たことのない服装をしている女性であった。尻尾はゆらゆらと揺らめいていて、見た目よりもひどく大きく見える。

 炬燵で相対している女性が言うには、どうやらこの人が藍という人物で、少年の能力の練習の手伝いをしてくれる人らしい。

 少年はその場で立ち上がり、これからお世話になる藍に対して頭を下げた。

 

 

「よろしくお願いします」

 

「はい、よろしくお願いされました」

 

 

 藍は、少年の行動に少し驚いた表情を作ったが、それを見られまいと慌てて顔を引き締めて少年に答えると、紫へと視線を向けた。

 

 

「紫様、昨日話していた内容とはずいぶん違いますね。礼儀正しい子ではないですか」

 

 

 藍は、ある程度紫から少年についての話を聞いており、少年の存在がどのような存在なのか勝手に想像していた。ただ、藍のした想像の中の少年と現実の少年は大きく違っているようだった。

 

 

(どんな話をされていたんだろう……まぁ、そんなことはどうでもいいや)

 

 

 少年は、自分の印象が悪く伝わっていることを気にすることはなかった。ずっと頭を下げて礼の形を取り、頭を下げたまま何も言わず、動こうとしない。

 紫は、黙ったままの少年に向かって扇子の先を向ける。

 

 

「この子は猫を被っているだけよ。それともこの場合は、猫を作っているっていうのかしら?」

 

 

 そう、少年が真面目な雰囲気を作り出したのは、つい先ほどのことである。猫を被っているといわれても仕方がないだろう。状況に合わせて即座に作ったといわれても仕方がなかった。

 

 

「正確には、連れてきている、っていうのが正しいかもしれないですね。いや、探してきているの方が近いかもしれないです」

 

「一体どういうことだ?」

 

「あなたがそういうのならそうなのかもしれないわね」

 

「紫様は分かっておられるのですか? 私には、何のことを話しておられるのかさっぱり分からないのですが……」

 

 

 少年は、紫の言葉を僅かに訂正した。

 藍は、二人のやり取りによく分からないといった表情になった。

 少年は、紫の言葉をわざわざ訂正したわけなのだが、そこに訂正をいれるぐらいならば、先ほどの紫から藍に流されていた情報について突っ込むのが普通に思われる。藍には、なぜ少年が猫を被るということの方を訂正したのか分からなかった。

 藍が分からなかったのはそれだけではない。少年がわざわざ紫の言葉を訂正したのはいいが、訂正している内容が意味不明だったことも藍を混乱させる一つの原因となっていた。

 紫は、少年のことについて何となく分かっているらしく、少年の言葉を否定することも問い正すこともしようとしない。

 藍は、少年と紫のやり取りを見ていて何のことだか全く分かっていない様子で、ふすまの奥でずっと立ったまま佇んでいる。藍の頭の上には、クエスチョンマークが出ているのが見えた。

 しかし、藍の悩みなど、会話の内容などどっちでもいいことなのである。表現が違うだけで、内容が変わるだけで、重要度は変わらずどうでもいい話には違いがない。

 少年流に言うならば、どっちでもいいということになるのだろう。疑問に答えはなく、分かったところで納得するかしない、そんな―――どっちでもいいこと。

 少年は下げていた頭を上げ、伸ばしていた膝を曲げて再び炬燵のそばに正座した。

 

 

「一体、どういうことなのですか?」

 

「いずれ分かるわ」

 

「いずれ分かるものなのかな? 絶対に分からないと思うんだけど」

 

「私に分かったのだから藍にだって分かるわよ」

 

「紫様がそう言うのならばそうなのでしょうけど……」

 

「今の藍が分からなくても大丈夫よ。分からないのが当然だもの。今は気にしないで」

 

 

 藍は置いてきぼりをくらっている状況を打開するために疑問を投げかけたが、紫は確信めいたようなはっきりとした言葉で藍にもいずれ分かるようになるとだけ告げた。

 少年は、嫌にはっきりと断言する紫の言葉がどこから来ているものなのか気になったが、そこまで藍という人物を信頼しているのだろうと自分の中で答えを当てはめ勝手に納得した。

 藍は、二人の会話についていけなかったが、いずれ分かるという紫の言葉を信じて、その場で質問することはしなかった。

 紫がそっと藍の表情を見ると、未だに状況を飲み込めていないといった顔をしていた。

 

 

「とりあえず、藍も来たことだし、話を進めましょうか」

 

 

 紫は、話についてきていない藍の様子を見て話題を変える、誰にでも分かる、誰にでもできる、最初にやっておかなければならない事をしようとした。

 

 

「まずは自己紹介から始めましょう。あなたは私のことを名前すら知らないほどに何も知らない。私は、あなたのことをほとんど知らない。お互いを知る所から始めましょう」

 

 

 紫は、言葉を発しながら右手の指で右手前方を指さした。

 藍と少年は、指の向けられた方向に目をやる。そこは、正方形の炬燵の入り口の一つである。

 紫は、一人だけ立っている藍が気になっていた。

 これから始めるのは、自己紹介という互いを知るための行動である。今から行われる自己紹介は、誰が上でも誰が下でもない、対等の視線で向かい合う必要がある。これから長い間、生活を共にする仲間として、家族として始める第一歩である。

 

 

「藍は、そこに座りなさい」

 

「分かりました」

 

 

 藍は、紫に座るように促されると返事をして指定された場所である紫の右前に座り、ちょうど少年の左前に座るような形になった。

 少年の正面には紫がいる。そして、少年の左前には藍がいる状態である。

 

 

「じゃあまずは……私から話しましょうか」

 

 

 紫は、藍が座ったところで目線を配り、喋りはじめる。

 ここから、3人による自己紹介が始まった。

 




新しい環境に置かれた時
新しい雰囲気に取り込まれた時
勘違いしてはいけないことがある。
それは―――自分は何も変わっていないということだ

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。