紫の頭の中には、ある可能性が浮かんでいた。
いくら親だからと言っても、子供にそれほどの異常があれば、嫌悪感を抱かずにはいられないだろう。人ならざる者という認識を取り外すことは難しく、疎遠になりがちになる。子供のことを見離す親もいるはずである。
しかし、両親は少年のことを見捨てなかった。それどころか、嫌がるそぶりも気持ち悪がることもなく、大切に育ててきた。
紫は、そんな両親の対応から少年の両親が少年に惹かれていたのではないかと推測した。
心の大きさが心を惹く力になる。惹きつける事象の原因である万有引力の大きさは、区別ができなくなっている頃から強くなっているはずである。少年に最も近い場所にいて心を寄せていた両親が万有引力の影響を受けていないわけが無いと思った。
「…………」
ただ―――この考えを少年に告げてもいいのだろうか。
それは、少年にとって唯一の味方だと思われていた両親が少年の万有引力に惹かれているために優しかったのではないかという事実を示唆する。
両親の優しさは少年が作り出したもので、都合のいいものであると言っているのと同じだ。それを知ってしまえば傷つくかもしれない。心を支えている想いを穢してしまうかもしれない。
言うべきか。言わざるべきか。
紫の考えは事実に限りなく近いだろう。そう考えるのが納得できる一番の近道のように思う。他に理由があるのならば、教えて欲しいほどだ。
紫の重い口から言葉が漏れた。
「……貴方は、これを言ったら傷つくかもしれない」
「別にいいよ。僕は何を言われても気にしないから」
少年は、気にしないと言う。自分の言っていることに嘘が混じっていることに自覚なく、唯一怒るかもしれない言葉が存在することを知らずに―――そんな簡単に言う。
「和友がそう言うのなら言わせてもらうわ」
―――話そう。少年はこんなことで逃げたりはしないし、傷つくこともない。あくまでも少年は他人に振り回される側ではなく、他人を振り回す側である。
だったら、心配するのはむしろ自分の方だ。少年の選択による二次被害の方を警戒するべきである。
今しなければならないことは、事実をありのままに受け止め、現実から逃げないように立ち向かうこと。正しいと思う道を突き進むことである。
紫は、ほんの一瞬の間思考し、口を開いた。
「貴方の両親は間違いなく貴方に依存していたと思うわよ。最も貴方の近くで、最も貴方を特別視していた人間だから」
「そうだね。紫の言う通りだと思うよ。両親は僕の一番近くにいた人間で、一番の味方だったんだから。逃れる術はなかっただろうね」
少年は、紫の無慈悲な言葉をぶつけられても特に変わった様子を見せなかった。紫から言われるまでもなく、両親の心が自分に惹かれていることを理解しているようだった。
両親が自分の心に惹かれていることを誰よりも早くに理解していたのは、他でもない少年である。両親が自分の心に惹かれていることに気付いたのは、永琳から万有引力の話しを持ちだされた時だ。能力によって起こっている現象を理解した際に、最初に親が心を惹かれているのだと想像した。
少年は、悲しむ様子もなく淡々と答えた。
「僕の両親は、僕が悩みを打ち明けたあの時にはすでに僕の大きくなった心に吸い寄せられて依存していたんだろうね。仮に心が惹かれているって分かっていても僕から逃げようなんて思わなかっただろうけどさ」
―――そうだと思いたい。
心が惹かれる原因がなくても、両親であったならば逃げなかったと思いたい。
一緒に苦しんでくれた両親を信じたい。
「だって、一緒に頑張ったんだ。いつも、どんなときも、逃げ出さずに僕と一緒にいてくれた。どれだけ苦しくても心は一緒にいた。迷った時も―――探してくれた」
一緒に生きてきた思い出は嘘じゃない。
どれも本物で。
どれも真実で。
―――虚偽ではない。
嘘で塗り固められた中にも確かに見える本物があったから両親のことを信じられた。
少年の顔は、紫の予測と反して笑顔だった。
「両親は、僕を見つけてくれたんだ。いつだって隣に来て、僕の手を引いてくれた。僕を支えてくれた。気持ちが嘘だったとしても、嘘によって塗り固められた偽物でも、偽りしかない想いだとしても、それだけは本当だから」
少年は、例え両親が万有引力で心を惹かれていたから優しかったのだとしても、別に構わないと考えていた。
だって―――それで幸せだったから。
きっと両親もそれで幸せだったから。
お互いがお互いに依存して、お互いを支えていた状況を考えれば、別に後悔することも悲しむことも何もなかった。
幸せの形は千差万別だ。誰がどう思うかは、その人が決めること。
だから、少年がそれを幸せと呼べば幸せなのだろう。両親については死んでしまった今となっては分からないが、両親も幸せだったことだろう。
幸せと決めつけるのは、いつだって本人だけの特権である。
本人が幸せと言っている。
それを否定する権利など誰も持ち合わせていない。
「両親は僕の心を支えてくれた。こんな大きな心を包んでくれた。心の中で迷っている僕を見つけてくれた。手を握ってくれた」
少年とって両親の存在は、とても特殊な存在だった。
今でいう椛のような一方的な寄りかかりとは違う。
紫や永琳のような能力を把握して距離感を保っているのとも違う。
少年と両親は、一方的な寄りかかりではい。少年は両親を必要としていたし、両親は少年を必要としていた。
「迷子になっている僕を見つけてくれたのは、今も昔も両親だけだよ」
―――幻想郷で最も両親と少年の関係に近いのは誰だろうか。少年は、今の生活の中で自分を支えてくれる存在が誰なのか、誰が両親の代わりをしてくれたのか、思考を巡らせた。
その答えは―――すぐに見つかった。
考えるまでもなかった。
「両親の立場に最も近いのは、藍だったのかな……藍には、本当にお世話になったよ。勿論紫もだけどね」
藍は、少年の両親に非常に似ている。心配性なところも、少年が書き記す行為を行っている間、我慢して待っていてくれるところも。
両親を失ったことで少年の心に開いた穴も藍が少し埋めてくれた。だからこそ、少年も藍のことを頼りにしていたし、心を傾けていた。
お互いに重心を傾けている状況は―――少年と両親の構図に非常に似通っている。現在の状況でははっきりと断言することはできないが、‘半年前は’間違いなく藍だったといえるだろう。
紫の思考は、少年の言葉から一気に少年の心の真意に接近する。
(今の和友の心を支えているものは……何もないのね)
誰一人少年の支えに成れていない。今の少年を支えているものは何もない―――いや、2年前から少年を支えているものなど何もなかった。
少年は、両親を失って唯一とも言えた心の支えを失っている。
支えが失われただけならば、何とかなったかもしれない。心にひびが入っただけで穴が開いていなければ、持ち直すことは比較的容易にできただろう。
けれども、現実にはそこからさらなる追撃があったために心の中にぽっかりと穴が開いてしまった。心にできた穴が埋められずに病気になってしまった。
少年の体は、心に引っ張られるように悪化の一途を辿っている。誰かが支えにならなければならない。支えてあげなければ、もう崩れ落ちるところまで来てしまっている。
後―――2年。残り2年である。
しかし、紫は支えになることはできない。少年と距離を取って正面から様子を窺っている立場では手が届かない。永琳も同様で、少年の支えに成っているわけではなく、見つめている状況である。
(私では支えになることはできないわ。距離を取ってしまっている私は、手を差し伸べることができない……今、和友の支えになれるのは、藍ぐらいかしら)
支えになることができるのは、少年の近くにいる人物―――藍、椛、文といった人物だけである。
しかし、彼女たちは寄りかかっているだけだ。支えようという意思がない。
少年の支えに成るためには、満たすべきいくつかの条件がある。
一つ目に、少年のすぐ隣、または真後ろを歩くことができる人物であること。
これは別に万有引力によって心の距離が近くなっており、少年に対して依存していなければならないということを意味しているわけではない。あくまで少年の近くにいられるかという問題である。万有引力があろうがなかろうが、少年の近くにいることができる人物でなければならない。
紫と永琳は、この条件に引っかかっている。心が極端に惹かれるのを嫌っているため、常に少年を正面に構えて距離を測りながらある一定の距離を取っているため支えになることは叶わない。
当然である―――正面にいる者は、前にしか進まない少年の支えにならない。支えるには、近くにいなければならない。手が届く位置にいなければならない。少年の心の近くにいなければ、触れられなければ、支えられない。少年を後押しするような、共に進んで行けるような、隣か後ろにいる人物でなければならない。
かといって―――椛や文、そして今の藍が少年の支えに成るかと言われればそれは否である。
(藍は、いつだって和友と一緒にいた。だからといって支えに成れるとは限らない……藍は、和友の気持ちを探し出すことができていない。余りにも感情が先走りすぎて、近すぎて、和友の気持ちを見ようとしていない)
二つ目の条件として、少年を探し出すことができる人物―――少年の本心を探し出せる人物でなければならない。広大な心を持っている少年の気持ちをしっかり見つけ、迷子になっている少年に手を差し伸べることができる人物でなければならない。
藍と文と椛は、この条件に引っかかっている。
どうして少年の心を見つけられないのだろうか。
近くにいれば、見えるはずなのだ。
そこにあるのに、どうして気付かないのだろうか?
紫は、少年の心の動きが見えている。本心が何を語ろうとしているのか分かる。少年の心の影響を受けつつも、その力に流されずに見ることができている。
何が違いを作り出しているのだろうか。藍と文と椛は、少年の心の側に寄り添っている形になっている。側にいるという条件はクリアしている。
ああ、そういうこと。
そういうことなのね。
―――灯台下暗し。
紫は、それこそが少年の心を見つけられなくなっている原因なのだと悟った。
(近すぎるから……近すぎるがために和友の気持ちが見えていない。こうして和友が悩んでいることも藍はきっと知らないわ)
少年の本心を見つけることができていないのは、距離が近すぎるからだ。地球の地上にいる限り、地球の大きさを測ることなどできやしない。
近すぎて見えていないのだ。目の前に広がる部分しか、目に見える部分しか分からないのだ。彼女たちが見ているのは、少年の大きな心のほんの一部だけなのである。それでは、少年の本心を見つけることは到底できない。
(一度でも、一度だけでも和友を見つけることができたら……和友の存在が消えることはない。あの子の存在はそれほどに大きい。一度見つけてしまえば、絶対に見失わないわ)
あの広大な世界で少年と対峙し、一度でも少年の顔を正面から見ることができれば、少年の本心と相対することができれば、捕捉することは比較的容易になる。感覚的に、どこに少年の本心があるのか分かるようになるだろう。少年が心の中の違和感をすぐに探せるように、少年の心の中の違和感を探し出せるようになる。
逆に言えば―――一度も少年の顔を見ていない者は、少年の本心まで辿り着くことは難しいということである。
少年は、一人語りをするようにして呟いた。
「正直なところ、周りの人間が僕の心に吸い寄せられているのは、小学校に通っていたころから薄々気付いていたよ」
少年に依存しているのは、両親だけではなくクラスメイトも同様だった。少年の能力は相手を選ぶような能力ではない。無差別な台風のようなもの。国境は存在せず、境界は存在しない。逃れる術は何一つなかった。
「それは小さな違和感みたいなものだったけど、あの時に自覚するべきだった。僕に寄りかかっている節は、今思えばいくらでもあったんだから」
クラスメイトが少年に惹かれていたと判断できる要素は全部で3つある。
「僕があれほど物覚えというか、区別ができなかったのに……周りは僕に対して酷く優しかった。苛められることも、おかしいと言われることも、人が離れることもなかった」
一つ目は、少年が物覚えの非常に悪い人間で、人の名前を覚えるのにも苦労するような人物だったのに、少年の周りから人が離れるということが無かったことである。
名前すら呼べない相手に対して友達でいられるほど、小学生で人間ができている人物はあまりいない。気持ち悪がられる、あるいは疎遠になる、苛めの対象になるということが起こっても不思議じゃない条件が揃っていた。
それなのに―――少年はそうはならなかった。そうなるそぶりも、そういうきっかけも何もなかった。不自然なほど周りは少年に同調していた。
「学級委員が決まるときも、誰一人として反対意見は出なかった。僕にまとめあげる能力が無くても、周りからの信頼は冗談みたいに厚かった」
二つ目に、クラス委員を決めるクラス内での話し合いにおいて満場一致で決まったことである。
少年は、1学期が始まる際にクラスの委員長に選ばれた。新学期が始まった時、推薦で、満場一致で、何一つ立候補も出ずに、何一つのいざこざもなく選ばれた。
「僕が意見を言えば、それが通った。誰も文句も言わず賛成に回る。僕がやるといえばやるし、僕がやらないといえば止める方法へ動いた」
三つ目に、話し合いの場において少年が意見を言うと、それがまかり通るということが多発したことである。
誰も文句を言わず、誰も意見を言わない。笹原君がそういうのならそうしましょう、という流れになる。まるで、最初から決まっていたかのように誰も手を挙げる者はいない。ただただ一直線に進む。障害物が何一つない道を真っ直ぐ進む。30人を超える人間がいるのに、何にも衝突せずに結論へとたどり着く。
「本当に……あり得なかった」
気持ち悪いぐらいに挙がった賛成の手。
必要以上に集まる投票の数。
文句の一つも出ない空間。
みんな別人なのに。
みんな心を持っているはずなのに。
ここにはまるで僕しかいないみたいだった。
僕だけしかいない世界だった。
「気持ち悪いんだよ。目の前に当然のように現れる極端な結果が。そんな奴がいるわけがないじゃないか。誰とでも上手くやれる、誰とでも仲良くなれる。そんな気持ちの悪い奴がいるわけがなかったんだ」
少年は、ある時を境に自分がおかしいのだと自覚した。何か、してはならないことをしているような気になった。そういうことをしてはいけないのだと、子供心ながらに悟った。
「だから、自分から意見を言うのはできるだけ控えた。何も言わず傍観するようになった」
だからこそ、クラスの中でもそこまで積極的に意見を言う立場ではなく、傍観するような立場を取っていた。成績表でも書かれていたように、一歩下がるようになった。
「僕は、両親から良い事と悪い事の区別をさせられていたから、自分が区別できる、みんなが間違えた方向に動こうとした時だけ意見を口にした」
周りの存在は、少年の存在に依存している。周りが自動的についてくるような状況において、少年が間違えた方向に進むことは許されない。
「僕が間違えればみんな間違えることになる。僕は、より一層決まりごとに対して気を遣うようになった。適当なことは口にできない。多くの決まり事を覚えるために努力した」
周りの人間は少年という船に乗っていて、少年が進行方向を決めているような状況である。それこそ、少年が間違った行動を取ればみんなも不幸に巻き込まれることになる。下手をすれば、全員が死んでしまうかもしれない。少年は、細心の注意を払って学校で生活していた。
善悪の基準に関しては、両親が少年に対して善悪を上手く植え付けたことが功を奏した形になっていた。両親とともに立てた旗を目印に、無限に広がる大海原を上手く先導して進んでいった。社会のルールを刻みこまれた少年は、間違っていると思った時だけ宣言をしてみんなを先導したのである。
「先生は、何か手伝ってくれなかったのかしら?」
「僕に依存していたのは、クラスメイトだけじゃない。先生も同じだよ。成績表でも悪い事は書かれなかった。先生も、結構僕に任せっきりだったしね……」
少年に依存していたのは、何もクラスメイトだけではない。担任の先生も少年に依存する部分があり、成績表はいつだってべた褒めだった。
成績表に書いてあった言葉「ぼんやりしているところがありますが周りとの協調性に優れており、一歩引いて周りを見ることに長けています。元気もよく意見も迷うことなく言うので、委員長としてしっかりやっている」これは、その時の状況を的確に表している言葉である。どこにも虚偽記載はされていない。べた褒めしたいからしていたのではなく、親に気を使って書いたわけでもない、そのままの学校での少年の姿である。
周りとの協調性に優れているように見えるのは、クラスメイトが少年に惹かれているから協調性があるように見えているだけ。一歩引いて周りを見ているのは、少年が周りに対して距離を取るようになったからだ。
「僕は、周りの人に影響を与える。何も黙っていれば全てが済むわけじゃないんだ。心の揺れは、静かにしていても傍にいる人間に伝わる。僕は、できるだけ心を偽ってでも元気を作り出す必要があった」
少年の元気が良かったのにも大きな理由がある。少年の心の揺れが周りの心に伝染することが多かったからである。
側にいる人間は―――他人の心は、触れている少年の心の振動に敏感に反応する。少年が揺れ動けば、周りの皆も揺れ動くことになる。
「僕が不安そうな顔をすれば、みんなが不安になる。僕が辛そうにしていれば、みんなも辛そうにする。だったら、僕は嫌でも笑顔を作らないといけないと思った。みんなの気持ちを絶対に大事にできない僕だから、みんなの気持ちを大切にしようと思った」
本当ならば―――周りに悪い影響を与えないように心の距離を取らなければならなかったことだろう。みんなの気持ちを大事に思うのならば、不干渉を貫かなければならなかったことだろう。
しかし、それに気付いた時にはもはやできないところまできてしまっていた。離れれば付いてくる。離れれば不安になる。それでは、離れることが正しいのかも怪しかった。判断ができなかった。何が正しく間違っているのか、境界線を引くことができなかった。周りの気持ちを大事にしたいと思う少年の気持ちは、すでに不可能に近い何かになっていた。
だからこそ、できるだけ笑顔でいてもらうための笑顔を、明るさを押しつけるように生活をしていた。周りの気持ちを巻き込んで生きている少年は、周りの気持ちを守らなければならなかった。
「まるで、操っているみたいだ。親切にされても、好意を伝えられても―――それが僕が押し付けたもののようで気持ち悪かった」
少年は、溜めこんでいたものを吐きだすようにして次々と言葉を口にする。
「だって、悪意のあるものが僕の周りには何一つなかったんだ。唯一あったのは嫉妬だけだったかな。僕に最初に告白してきた子の嫉妬だけだった」
少年が最初に告白されたのは、内向的な少女だった。
少女が少年を好きになったきっかけは些細なものである。普段あまり喋ることの少なかった子だったが、授業の時に少年と喋る機会があった。
―――それだけである。
―――少女にとっては、それだけで十分だった。
「笹原君のことが好きなの……私と付き合ってくれませんか?」
「……別にいいよ」
少年は、勇気を振り絞った少女に悲しませないようにと了承の言葉を言う。よく分からないまま、付き合うことがどういうことなのか知らずに、何となしに少女の気持ちを受け取ってしまった。
しかし―――それが間違いだったのだ。恋人というものを知らなかった少年は、これまで通りにいつも通りに友達として接していた。クラスメイトの一員として接していた。
それが少女には気にくわなかったようで、少年に何度も特別視して欲しいと言葉を送ってきた。
「これじゃ告白しなかった時と何も変わっていない! どうして? どうしてなの? 私をちゃんと見てよ!」
そんなことを言われても、分からないよ。
僕に何をしろっていうの?
少女の言葉は、少年には伝わらない。まるで、使っている言語が違うのではないかというぐらいに伝わらない。
区別のできない少年にとって、目の前にいる少女とクラスメイトの少女は同一人物でしかないのだ。
何も変わらないのは当然だ。
何も変わっていないものを、どう変えるというのだろうか。
少年は、少女からのお願いを聞いた時、どうしていいのか分からなかった。
「どうして告白した私とみんなとの扱いが一緒なの……? 私、どうすればいいのか分かんないよ……」
「僕には、無理だよ……」
「なんでっ!? どうして無理なの!? 私には、和友君の言っていることがさっぱり分からないよ!」
少女は、自分と同じ扱いを受けているクラスメイトの女子に対して嫉妬していた。
付き合うということは、関係性が変わるということだ。どこの誰とも分からない女の子に話す内容と、告白を受けた少女に対する内容が変わるということ。気持ちのかけ方に差別が起こるということ。
少女は、嫉妬していた。少年の少女に対する受け答えと、クラスメイトに対する受け答えが変わらないことに。特別な存在に成ったはずなのに、周りと変わらないという現実に。
少女は、少年に特別視をするように何度も懇願する。なんのために勇気を出したのか分からないというように頭を垂れて願う。
少年は、無理だと言ってよく分からない少女に対する態度を変えなかった。
その少年の態度を見て―――裏切られたような気持ちだったのだろう。ここから幸せな日々が始まると思っていた落差もあったのかもしれない。想いを受け取ってもらったと思っていたものが、無視されていたような気がして苛立ったからかもしれない。
いや―――そうじゃない。
少女は、絶望したのだ。
何も変わらないことに。
捨てられたと、弄ばれたのだと、自分の好意はどうでもいいのだと、裏切られた気持ちになったのだ。
「あの子が死んだのは、きっと僕のせいなんだろうな」
結果として―――少女は死んだ。告白を受けたことが―――全ての発端である。少年には分からなかったが、何かの言葉が少女の琴線に触れた。
きっと様子のおかしい少女に対して少年が距離を取ろうという旨の言葉を送ったのだろう。
「お願い。私を捨てないで……」
少女は、少年に対して唐突に捨てないで欲しいと懇願し出した。
自らの命を対価に。
脅迫という手段を取った。
屋上の金網の外で。
―――命をぶら下げた。
「私、私……和友君に見捨てられたら……」
少年は、突然態度の変わった少女に戸惑い、その手を振り払った。
今まで考えたこともなかった。区別なんてしてこなかった。
区別のできない曖昧な少年は、少女を放り投げてしまった。
「転落死だった……学校の屋上から見せつけるように死体を残して死んだ」
少女は、苦しそうな顔で死んでいた。痛みに耐えきれなかったのか、即死できなかったのか分からないが、瞳には涙の跡が残っていて、涙はいまだに頬に張り付いたままだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……本当は僕が真っ先に死ななきゃいけないのに、秩序を守るために、普通を守るために僕が死ななきゃいけないのに、僕は決まりごとがあるから死ねない。死にたくても死ぬことはできない」
自分は、きっと生きていてはならないのだ。周りを巻き込んで殺してしまうような人間はいない方がいい。そう思って仕方がなかった。生きるのが辛いとも感じていた。
「僕は逃げられないんだ。何処に行っても苦痛は僕の前にいる。何をしても、何を変えようとしても―――何も変わらなかった」
運命からは逃れられない。そう言われているようだった。苦痛は常に付いて回ってきた。どこに行っても、何をしても、あいつらは目の前にいた。
常に覚える作業がつきまとう、自身の気持ちを閉じ込める必要がある。好奇心旺盛な少年は、気持ちを抑え込むのに必死だった。そして、そんな気持ちの抑圧に加えて心の拡大を繰り返した。
「縛られすぎている僕には、何もかもが無理だった……そして、そんな僕が何よりも嫌いだった」
少年の存在の善悪の区別をしてみる。両親が与えた標識が、立て札が少年の天秤となっている。
両親の作った天秤は少年のことを悪と判断していた。少女が死んでしまっているという結論は、少年に大きな重荷を背負わせた。
「僕は、僕が嫌いだ。そして、そんな僕に全てを任せる人間が怖い。どうにかなってしまいそうで、傷つけてしまいそうで怖いんだ」
少年には好き嫌いは無い。
しかし、そんな少年にも唯一嫌いなものがある。他人に意見を任せる人間と、任せるように仕組んでいる自分自身―――両親の教えてくれた秩序に反している自分である。悪いことをして死刑になる人がいるというのなら、自分はなぜ裁かれないのだろうかと思わずにはいられなかった。
「僕は、生きているべきじゃない。生きているだけで周りに迷惑をかける奴は死んだ方が良い。僕なんかが産まれくるべきじゃなかったんだ」
少年にとって一番切り捨てたいものは、自分自身である。願わくば、死んでしまいたいと思っているほどだった。
だけど、自身を傷つけるという行動を取ることはできなかった。それを嫌がる人間がすぐそばに、少年を支えながら存在していたから。
「そう両親に告げた時、初めて泣きながら怒られたっけな……」
両親は、少年から死にたいという気持ちを告げられた時、初めて泣きながら少年を叱った。
「僕はその時、僕の一番嫌いなものを知ったんだ。この世の中で、人生の中で一番嫌いなものを知ったんだよ」
少年は、その時から思っているだけで決して口に出すことをしなくなった。
両親に泣いて怒られたとき―――両親に泣かれるのが一番嫌だったのだと理解した。
「僕がこうして生きてこられたのは、両親がいたから。両親がいたから僕の命は繋ぎとめられていたんだって、失った今ならよく分かる」
少年が幻想郷で生きてこられたのは、間違いなく両親との約束があったから。
たったそれだけが―――少年の命を繋いでいた。
「僕を支えているのは、両親を失った今だって―――両親しかいないんだって。両親の代わりなんていないんだって。僕の心の穴は絶対に埋められないんだって」
失った穴を埋められるものなどいるものか。
代わりなんているものか。
―――いてたまるものか。
僕にとっての両親はあの二人だけだ。
藍と紫は新しい両親の形であって、代わりでもなければ模造品でもない。
みんな違っているから。
みんな同じ形じゃないから。
だからこそ、いいのだ。
みんな違って、みんないい。
僕の心に空いた穴も、両親がいた証。
なくちゃならないもの。
僕が覚えていなきゃいけないもの。
それが、僕を産んでくれた。
それが、僕を育ててくれた。
両親にできる―――たった一つのこと。
少年の過去については、このぐらいです。
本当なら、これまで張った伏線を全部回収しようと後3話分ぐらいあったのですけど、これ入れると話長くなるので切ります。
きっと原作入ってから回収していくのか、無かったことにするのかどっちかになるでしょう。