ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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周りの人間、区別のできない自分

 結論を言うと、神への祈りは―――届かなかった。

 

 届いていたかもしれないが、神に叶えられる願いではなかった。両親の神への祈りは空しく響いただけだった。

 届かないだけなら良かった。

 無視されていただけなら良かった。

 現実には、嫌がらせをするように少年が内包している識別の問題は悪化の一途をたどり始めた。現状維持ではなく、悪化をし始めた。

 

 少年の状態が良くならないのは当然である。少年の心は拡張を止めることはないのだから。広がる心を抑え込めない限り、症状が良くなることは決してない。

 

 少年の物覚えは、小学校に入って1~2年経過したあたりで極端に悪くなった。もともと物覚えが悪い方ではなかったため、酷くなっているのが誰の目から見ても明らかだった。

 物覚えが悪くなった理由は明確である。

 小学校は、新しいこと、新しい知識、新しい人間関係を形成する場所だからである。人間関係の縮図とも呼ばれる学校は、少年の心の世界を広げるために大きな役割を成した。

 少年の心の大きさは―――小学校という環境に触発されるように一気に拡大した。

 小学校は、識別ができないという問題を抱えている少年にとって酷な環境である。大勢の人が一緒にいる場所で、多くの人間関係が作られ、常識の多くを学び、生きていくために必要な最低限の知識を蓄える場所。様々な一般常識や言語、数字などを覚える場所。

 小学校に上がった少年の歴史は、まさしく地獄ともいうべき苦悩の日々である。

 

 小学校に入った少年には、区別しなければ分からない内容が山ほどあった。人の名前はもちろんのこと、数字、漢字においても区別しなければならなかった。

 一番楽だったのは数字である。一番難しかったのは人の名前である。そして、一番苦しかったのは漢字だった。

 数字を覚える場合と漢字を覚える場合において、覚えやすさに違いが出たのには分かりやすい理由がある。

 数字の場合は、覚えるべき数が少ないのもあるが、似ているものというのが基本的に少なく、読み方も少ないという特徴があったからである。

 だが、漢字の場合は数字と同じようにはいかない。漢字は数が多い上に似ているものが多く、読み方が同じものがある。毎日見る漢字であればある程度の識別ができたが、毎日見る漢字以外の似たものについては区別がつかなかった。

 少年が最も苦労したのは、倫理的な区別を除けば漢字だったと言えるだろう。

 

 少年は、自身の心の拡大に伴って内包する異常性を大きくしていく。

 少年の内包している異常性は、簡単な方法で確認することができる。

 単純に―――少年に向けて質問を投げかければいいのである。

 少年に対して質問を投げかけると、内包している異常性は露骨に姿を現す。空の色を聞けば、答えられない。飲み物の名前を聞いても答えられない。

 両親にとっては、この上ないほどの驚愕の事実だった。少年には、自分たちの見えていない世界が見えている。そして、見えていなければならない世界が見えていないのである。

 

 

 少年は、時の流れに沿って年齢を重ねる。年齢を重ね、理性がしっかりしていくごとに自分のことを理解していった。

 少年は、自らの識別能力が周りの人間と比べて低いことを理性がしっかりするまで些細なことだと気にも留めていなかった。小学三年生まで自分が単に物覚えが悪いだけだと思っていた。

 何せ―――覚えようとすれば覚えられたのだ。それが、特に問題がないことだと錯覚する原因となっていた。

 しかし、理性がはっきりとしだした小学三年生あたりから自分が普通とずれていると感じ出した。自分が孕んでいる異常性を把握し始めた。

 周りを見渡してみると、距離が遠い、手が届かないような、空に手を伸ばしているような感覚に陥る。

 それは、周りの人間との人間関係について考え、距離を測りだしたあたりから感じた違和感だった。

 周りの人間と自分の間には、とても大きな境界線が引かれている。見えてもいないのに、見えない何かが線を引っ張っている。渡ることができない境界線が見せつけるように存在している。

 少年は、周りの人間との間に大きな境界線が存在しているような気がしていた。

 

 

(あれ……なにか、違う……)

 

 

 違和感でいっぱいだった。

 一度違和感を覚えてしまえば、考えずにはいられない。

 常に変化し続ける人間関係と、変化する知識が嫌でも思わせてくる。

 成長する度に周りから置き去りにされているような意識が強くなる。

 少年がその中でも特に置いて行かれている感覚に陥ったのは、クラスで飛び交っている言葉だった。

 

 そう―――人間に対する呼び方だった。

 

 人が人の名前を呼び、異なる呼び方によって相手を指し示す。名字、名前、作られたニックネーム、君、貴方、お前等の3人称で呼ばれ、それに対して的確に反応する。

 それが―――何よりの驚きだった。

 

 

(どうして人の区別がつくんだろう? どうして僕は、みんなが……みんなでしかないんだろう……?)

 

 

 周りの人間は、少年と異なり人の区別が付いている。周りの人間は、同じ友達という括りでも、それぞれを別々の存在として扱っている。違う名前で、違う存在として認識している。

 少年は、周りの人間が間違えずに呼び合っていることに関して驚きを感じていた。自分の名前が間違えられずに呼ばれていることにも驚きを覚えた。

 クラスメイトの中には、ニックネームを付けられている人間もいる。ニックネームを付けられている人間は、本名でもないのにニックネームで呼ばれてもしっかりと反応している。

 少年にそんな汎用性は存在しない。

 実例がある―――少年には一度ニックネームを付けられた過去がある。

 しかし、付けられたニックネームで呼ばれた際に自分のことであるという理解ができなかった。ニックネームで呼ばれた際に何一つ反応ができなかった。

 

 

「どうしたの?」

 

 

 少年の友人は、反応しない少年を不思議に思い、質問を投げかけてきた。

 少年は、思わず答えに詰まった。何も言うことができなかった。自分のことを指している言葉であると判別ができなかったのだと、自分のことであるとは思わなかったのだと言うこともできず、固まってしまった。

 少年には、新しく着けられたニックネームが自分のことを指していることが分からないのだ。ニックネームに反応するなど、人間の区別がついていない少年には到底できない芸当である。

 

 

(友達は友達、先生は先生でしかないのに……何が違うんだろう?)

 

 

 少年は、個別の人間の区別がつかなかった。もちろんではあるが、全く区別がつかないというわけではない。識別が難しいというだけで完全に識別できないというわけではない。完全に識別できなくなってしまえば、それこそ生きていくことすら困難になる。

 具体的に述べると、大きい括りでならば何とかなる。人間で言うならば、性別や大きさが違うということならば分からなくもなかった。大きい人か小さい人か、男性なのか女性なのか、それは見れば分かることである。

 だが―――少年ができるのはそれだけ、たったそれだけだ。

 

 

(みんな個別に名前で呼び合っているけど、どうして間違えずに言えるんだろう? あんなに似ているのに、どうして?)

 

 

 どうしてなのだろうか。

 なんでみんなは別の名前で呼び合っているのだろうか。

 なぜ、それができるのだろうか。

 なぜ、呼ばれているのが自分のことだと分かるのだろうか。

 名前が違っているのに。

 違いなんて何も無いように見えるのに。

 同じようにしか見えないのに。

 友達は友達で。

 クラスメイトはクラスメイト。

 僕は僕で。

 先生は先生だろう。

 少年は、別の物のように扱っている周りの人間が不思議でしょうがなかった。

 

 同じような体格をしている人間など山ほどいる。

 同じような性格をしている人間など山ほどいる。

 似たような声を持っている人、似たような特徴を持った人間は数多く存在する。

 どうして違いがほとんどないのに区別できるのか。

 

 結論を言えば―――能力によって少年の判別できる範囲が狭くなりすぎているのである。

 身長で言えば、10cm以上違わなければ全部同じように見えているだろうし、声の高さや足の速さといったところまで、前後左右の幅が広くなりぼんやりとしている。

 

 もしかしたら、少年の目を通してみると

 すべからく人の顔は同じ顔で

 すべからく人の声は同じもので

 すべからく人の性格は同じなのかもしれない。

 

 少年は、体の大きさを評価することができても、それが誰なのかという識別をすることができなかった。

 

 それは―――普通とは違う。

 それは―――周りとは違う。

 それこそが―――特異性で、異常性。

 

 少年は、本能によって‘群れという名の群集の集団’から除け者にされることを恐怖した。社会から追放されるということを恐れた。

 

 

「どうしたらいいのだろう? 僕は、どうしていけばいいのだろう? 呼ばれたことに反応できないなんて、誰が誰なのか分からないなんて―――おかしいよね」

 

 

 どうしてニックネームで呼ばれて反応できなかったのか。

 素直に答えれば、分からなかったからだ。自分のことを指しているなんて判らなかったから。君が友達でしかないように、君から呼ばれた名前も僕の名前と違っていたから―――なんて答えられるわけがなかった。

 だって、みんなできていることなのだ。

 だって、普通ならばできることなのだ。

 なんでできないの?

 なんで分からないの?

 そんなこと―――僕が聞きたいよ。

 少年は、群れから追い出されるという恐怖を越えてまで素直な気持ちを吐き出すことができなかった。

 他の人間がいない場合ならば伝わらないこともない。他に誰もいないのだから、呼びかける言葉は自分に向けられたものだと消去法的に導き出すことができる。

 しかし、人が複数人いるなかで、君、貴方、お前、という三人称は少年に伝わらない。ニックネームも判断がつかない。それは、あくまで別の物質に与えられている名前であり、自分ではない他の固有名詞なのだと脳が判断してしまう。

 

 

「僕のことは、名前で呼んでください。名字でも、名前でもどっちでもいいけど、そのどちらかで呼んでください。お願いします」

 

 

 少年は、その時の事もあって周りの人間に対して名前で呼んでくださいと心からお願いしていた。

 もしも分からないなんてことがばれれば、普通の人間じゃないと判断される要因の一つになることは間違いない。あらかじめ言っておけば、無理に別の呼び方をする者もいないし、仮に反応しなくても、最初に言っていたのだから嫌がっているのだと分かってもらえる。

 

 

「もしも違う名前で呼んだら反応しないかもしれませんから」

 

 

 だからこそ―――幻想郷の住人達は基本的に少年のことを名前で呼んでいる。誰一人として、1対1という状況以外で少年のことを別の呼び名で呼ぶものはいない。

 確かに初対面の相手だったり、親しい間柄の相手が別の呼び方をしてきた者も少なからずいた。例を挙げると、橙は最初少年に対して特殊な呼び方をしていた。だが、少年にとって判断がつかないからと断ったという経緯があった。

 

 

「その呼び方はやめて。呼ばれても分からないから」

 

 

 少年は、自身の持っている疑問がどこか特殊で持ってはいけない疑問のような気がしてならなかった。だから、親に人の区別がつかないことを言うことは無かったし、思うことそのものも避けようとしていた。

 けれども―――我慢はいつかできなくなる。積もるだけ積もった雪は、重さを増して屋根を突き破る。

 少年が人間の区別ができないことをはっきりと告げたのは―――自分の口で分からないことを明確に述べたのは―――自分の口からはっきりと言ったのは、小学4年生を迎える時である。

 

 

「クラスメイトの名前が覚えられないんだ。どうしてみんな、名前で呼び合えるの?」

 

「和友、どういうことだ?」

 

 

 両親は、ついにこの時が来てしまったかと思った。少年が小学生になったばかりの時に感じていた予感が的中するこの瞬間が来たのだ。仲の良い友達が誰か分からないと、答えられなかった子供の様子からいつかこうなることは分かっていたが―――それが今来たのかと身構えた。

 分かっていたのに心が勢いよくざわつき出す。覚悟していたはずなのにその先の言葉を聞きたくないと思う。

 それはきっと、覚悟なんてできていなかったからだろう。

 覚悟などしたくなかったからだろう。

 そう、思いたくなかったからだろう。

 結局―――そうではないことを望んでいたのだ。

 そうであることを―――ひた隠しにしていただけだった。

 

 

「あんなに似ているのに、友達は友達なんじゃないの? それ以外の何なの? みんな同じような顔で同じような声で同じようなことを言っているのに、みんなはどうして区別ができるの?」

 

 

 耳に入った言葉を疑いたかった。

 疑いたかったけど―――それが現実だった。

 困った顔で。

 苦しそうな顔で。

 歪んでしまった和友の顔は、何物でもない本物だった。

 

 

「僕には分からないよ。何が違うのか、何がおかしいのか……」

 

 

 人の区別がつかない。

 これまで区別ができないということは多々あったが、人間においても同様のことが起こっている。人間社会で生きていく上でこの問題は致命的である。

 横の繋がりや縦の繋がりによって支えられている人間の社会の存在は、区別なくしては成り立たない。いくら薄々気づいていたとはいえ、少年の口から出た言葉は―――動揺するなというには余りあるほどの異常性を含んでいた。

 

 

「お母さん、僕がおかしいのかな……? 僕が、やっぱりおかしいんだよね。そう、みんなができているのにできていない僕がおかしいんだよね……」

 

「「…………」」

 

 

 気持ちが一気にざわついていく。全てをつぎ込むように育ててきた、愛されるべき我が子にこれ以上ないほどの異常が見受けられている。

 少年には、'同じようなもの'は、全部同じに見えている。声が低ければ、低い人間はみな同じ声をしている。ある程度の違いなど、誤差だと言わんばかりに修正がかけられる。

 

 

「僕は……どうして。どうして周りと違うんだろう……」

 

 

 少年は、不安そうな顔で両親を見つめていた。

 母親は居ても経ってもいられず少年を強く抱きしめ、大丈夫だと言い続ける。

 

 

「大丈夫だから、大丈夫だから。大丈夫だからね」

 

「お母さん……うん……」

 

 

 少年は、母親が言葉を重ねる度に落ち着きを見せて笑顔を作った。

 

 

「僕はどうしたらいいの? 僕はどこにいて、どこに向かって歩けばいいの?」

 

 

 少年は、どうしようもなく迷子だった。先の見えない不安から周りから浮いているような浮遊感を覚えていた。

 今自分がどこに立っているのか分からない。

 どこに進めばいいのか分からない。

 希望はなく、光は見えない。

 未来に進むために一番必要な、明日を受け入れるための小さな希望がない。

 何かを見つけなければならない。

 そうでなくては、進めなくなる。

 方向が分からなくては、進む先が見えなくては、怖くて進めなくなる。

 迷子のまま、そこで終わってしまう。

 少年は、心が大きくなって自分の位置が把握できなくなったという意味でも、自分が進むべき道が見えないという意味でも、二重の意味で迷子だった。

 少年は、迷子になった時の経験を心の中で打ち明けている。

 

 

「さっきのは母親の受け売りなんだよ。俺が迷子になった時に母親が俺を探してくれて、さっきみたいに抱きしめてくれたんだ」

 

 

 そう、路頭に迷った時に抱きしめてくれたことを藍へと告げている。迷子の自分を見つけてくれたと口にしている。

 迷子になりやすい少年は、いつだって家族によって支えられていた。

 

 

「あなたはここにいるんだって。どこにもいったりしない。あなたは、ここにいるんだって。教えてくれたんだ。俺を見つけてくれたんだ」

 

 

 少年が言った迷子という言葉は、道が分からなくなったという意味ではなく、区別ができなくなったということを示すものなのだったのだろう。

 

 

「神様に祈っている余裕はない。両手を合わせて待っているだけの生活はもう終わりだ。病院に行くぞ。今度こそ、原因を突き止めるんだ」

 

 

 両親は、少年の口から心のうちに存在する不安を聞いたことで再度病院を訪れることを決めた。

 神様に祈るだけでは願いは叶わない。これはただ、神様にお願いしているだけだ。お願いしていることに努力しているだけだ。そんなものに力が貸し与えられるわけがない。

 努力とは―――必死な姿とは、それを見ている誰かを突き動かすのだ。

 その姿が、何者かに影響を与えるのだ。

 それを見た誰かが―――誰かのためになるのならばと声を上げる者が動くから助かる人間がいるのだ。

 神に頼っているだけの何かに、手を貸してくれる者などいない。

 そして、神は少年を助けない。

 神では、少年を助けられない。

 助けられるのは、少年を受け入れられる人間だけだ。

 手詰まりではあるが、行き止まりかもしれないが、進むしかない。

 時間は待ってくれない。少年の症状はむしろ悪くなっている。

 どうにかして、何とかしなければならなかった。

 

 

「先生、和友が苦しんでいるのです。原因は分かりませんか?」

 

 

 両親は、疑問と不安を抱えて病院を訪れた。

 しかし、少年が似たものを区別できない原因は分からなかった。体の隅々、頭の中、いたるところを検査しても、何をしてもはっきりとした解答は得られなかった。

 

 

「和友の症状を何とかしないと。キャベツとレタスの区別は別にできなくても構わない。だが、人間の区別ができないのは、社会で生きていく上で致命的だ」

 

「やれることを全部やってみましょう。諦めたら何も変わらないわ。何かあるはずよ」

 

 

 考えた。必死に考えた。出てこない頭でも、悩みに悩んで答えを追った。

 少年にはどうにかして、区別ができるようになってもらわなければならない。両親はとりあえずのとっかかりとして、普通ならばやらない、覚えるための勉強を少年に強要させた。

 覚えることができないのならば、識別することができないのならば、できるようになるまで努力するしかない。足りない部分は努力で補うという簡潔で単純な作業をすることで何とかならないだろうかと、努力を促した。

 そうしようとしたのは、他に何も思いつかなかったからという理由である。何とも言えない消去法だ。

 しかしながら、それしかないのだ。それこそ信じるしかない。それがもっとも効果的な方法であると信じるしかなかった。

 

 両親は、少年に書くことを強要した。

 区別するために書くことは、本来であればする必要のないこと。特に人間の区別をする際に覚える努力が必要など聞いたこともない。普通であれば努力せずとも意図してできるはずの能力である。

 少年は、本来であればする必要のないことを決行した。両親が言うのならきっとそうなんだ、誰もがきっとこうやって覚えて話しているだけなんだ、そう思いこみ努力を始めた。

 

 

「みんな、そうやって努力をして区別をしているんだね。だからみんな間違えずに区別ができるんだね」

 

 

 そんなことは―――嘘であると重々承知で。

 嘘と分かっていながらも―――騙されることを選んだ。

 クラスメイトのみんなも、きっと区別するためにやっていることだと思い込んだ。思い込むしかなかった。そうでもないと覚えるための努力などできなかった。

 

 少年は、クラスメイトの写真を持ってきて、覚えるべきただ一人だけを見つめる。そして、脳裏に焼き付けるようにして姿かたちを脳内に映し出し、紙の上にペンを走らせた。

 ただただ無心で覚えるためだけの努力を行った。

 その人が他の人と違う所を必死に探した。

 他と異なる部分に目を凝らした。

 特別な特徴を探した。

 

 

「分かった」

 

 

 覚えるための努力の結果、人間の区別ができるようになった。

 これが、後に藍と紫の名前を覚える時に行った、書き記すという行為の最初である。

 この時―――曖昧なものを区別する方法が確立した。

 

 

「これはどうだ、和友」

 

 

 勿論だが、他にも色々試してみた。書き記すという方法以外にも色々なことを試した。やれることは片端から全部試した。記憶術から、呼吸法、気持ちの持ち方から何でもやってみた。

 

 

「無理みたい。いくらやっても覚えられないよ」

 

「やっぱり書き続けるという方法しかないのか。他だと余りにも効率が落ちる……」

 

 

 結論として書き続けるという作業が最も効率が良かったため、区別するために行うことは書き記す行為に固定された。

 区別する方法は、ただひたすらに書き続けることである。思い返しながら、ただひたすらに書き続ける。何をやっているのか分からなくなるほどに書き続ける。情報を脳内に叩き込むのだ。

 幸か不幸か、書き記す行為が少年の能力である境界を曖昧にする能力を内側に封じ込める役割を担った。記憶するという努力が能力を打ち消す方向に効果が発揮された。境界を曖昧にするという能力と反対の区別をするというワクチンを入れ込むことによって抑え込んだ。

 それが―――相互的に能力を強める結果になったとしても、この時までは良かったのである。

 

 

「和友、頑張って!」

 

「和友! 最後まで諦めるなよ!」

 

「うん、頑張る……」

 

 

 両親には、必死に頑張っている子供の姿を見ていることしかできなかった。

 できることといえば、応援することだけ。苦しそうにずっと書き続ける少年を応援し、見守り続けることしかできなかった。

 これは、少年がやらなければ意味のないこと。他の誰かが代わりになることはできないことである。

 

 

「どうして和友だけが、こんな辛い目に合わなければならないのだろうか……」

 

「もう、やめましょう。和友の欠点は私たちが補えばいいじゃない。これ以上、見ていられないわ……」

 

 

 両親は、少年が苦しんでいる姿を見つめるだけという行為に慣れるまで何度も泣いた。擦り減っていく子供の姿を見ていられず、何度も止めようと考えた。

 しかし、少年は両親がそう思う度に両親の手を振り払うように口を開いた。

 

 

「僕が頑張れば、このままの生活を送ることが出来るんだよね?」

 

「「…………」」

 

 

 両親は子供の言葉に硬直した。

 子供は今の状況を分かっている。このまま進んでしまえば、取り返しのつかないことになることを分かっている。普通じゃないと、異常であると、社会から追い出されて生きていけなくなることを本能的に理解していた。

 母親は、少年の問いかけに唇を震わせながら答えた。それが子供をさらに追い込む結果になるとしても、生きてくための選択肢のない子供のために背中を押した。

 

 

「そうよ。頑張ればこれからもずっと普通に生きていけるわ」

 

「僕は、頑張るよ。これからのために頑張るよ。僕だけじゃない、周りのみんなが僕のことを間違えずに名前で呼んでくれるのに、僕だけ区別できずに名前を呼べないっていうのは不公平だと思うから……」

 

 

 父親は、子供の意志の強さに驚きを隠せなかった。確かに小さいころからしつけをちゃんとやってきた。簡単には諦めない心。他人のために頑張ること。努力することの大切さを教えてきた。

 しかし、それだけでは少年の精神力の強さは説明ができない。少年の精神的な強さは、心の拡大と共に強くなっていた。

 少年は、固い決意を持った瞳で両親の瞳を貫く。

 

 

「僕は必死に努力するよ。だからね……お母さん、お父さん……」

 

 

 両親は、少年からの言葉に固唾をのんだ。

 

 

「お母さんとお父さんも、頑張ってね」

 

 

 両親は、少年からの言葉に目を丸くしてお互いに顔を見合わせる。

 少年は、あろうことか両親が自分の行動を止めたいという気持ちと闘っているということも感じとっていた。

 戻ることができない。

 ならば、進むしかない。

 進んで進んで、見えない景色の中を進んで、何かを掴むしかない。

 

 両親は、少年の言葉で理解した。

 少年は、何処にだって行ける。

 どこまでだって走って行ける。

 両親が心配しなくても、どんなに辛くても、乗り越えることができる。

 私たちが頑張って、子供と同じように頑張って努力して擦り減ったとしても。

 それでも、信じて待っていよう。

 子供が頑張ってと言っているのだ。

 頑張らない親など、親なものか。

 信じて待ってほしいと言われれば、いくらでも待とう。

 いくらでも、いつまでも、死ぬまでも。

 父親と母親は、少年の意志に引きずられるようにして見守る意志を固めた。

 

 

「……ぁあ! 頑張るからな! 父さん達も頑張るから! ずっと待っていてやるからな。和友も、最後の最後まで諦めるなよ!!」

 

「和友、待っているからね」

 

「うん、ありがとう。僕は絶対に最後まで投げださないよ」

 

 

 両親は、少年の部屋から出て行き、階段を下りてリビングと入る。そして、流れるように食卓テーブルの椅子へと腰を下ろした。

 両親は、泣きながら心を強く持つようにして言葉を吐き出す。強がりのような、弱い心を子供に聞かせないようにと必死に堪えた想いを口にした。

 

 

「和友は、絶対に負けないっ! 和友ならきっと打ち勝てる! 和友が諦めるまで、私達が諦めちゃいけないんだ!」

 

「そうよね、私達がしっかりと最後の最後になるまで和友を支えましょう!」

 

 

 両親は、両手を握りしめて和友の作業が終わるのを待ち続けた。少年が笑顔で部屋から出てくるのを待ち続けた。

 少年は書き記し、区別する行為で毎日を送り、両親はそれを待ち続けるという行為で毎日を費やした。

 両親は、少年の苦しむ姿を見て心をすり減らしながらも少しだけ安心していた。努力をすれば補える。時間をかければ区別ができる。1日1個ずつ覚えていけば、なんとか処理ができる。それは、どうにもできない中で唯一と言っていいほどの救いだった。

 結局和友がクラスの全員の判別ができるようになるのに約1カ月かかった。漢字や他のことも含めれば、3年近くの時間を費やした。

 少年の精神は随分と擦り減って、肥大化された心だけが残った。

 それでも―――両親から与えられる温かさが、少年の気持ちを穏やかにさせていた。

 

 

 

 だが、区別する方法には大きな課題があった。

 

 少年の区別するための方法―――書き記すという方法には問題があったのである。

 確かに個別の認識ならばこの方法で用いることで、時間をかけて努力をすることで、覚えることができる。

 しかし、書き記すという方法で覚えきれなかったものが多々存在した。

 

 その代表が―――倫理的な問題である。

 

 倫理問題とは、世の中のルールである。法律的概念である。善悪の判断である。

 正解はなく―――状況に合わせた判断が必要になる。条件は無数にあり、境界線はその場に応じて引くことになる。

 倫理的な部分は、人間として生きて行くのに一番大切なことである。社会に生きている者が倫理を逸脱していることはあり得ない。逸脱している者はいつだって淘汰され、追放される。社会の秩序は、いつだってそうやって維持されている。

 人間社会で生きていくためには、善悪の区別がつけられなければならないのだ。

 だが、少年は基本的に自分のやっていることが正しいことなのか、間違っていることなのか区別がついていない。危ないことをしそうになった際に少年に向けて注意すると、言われたその場では理解を示しても次の日には分からなくなっている。物事から意識を外してしまうと途端に忘れてしまうのだ。それでは、同じ過ちを繰り返すことになる。

 今のところは問題になっていないが―――今後もずっと問題にならないという保証はどこにもない。判断がつかなくなり、正しいことなのか悪いことなのか分からなくなる可能性は捨てきれなかった。

 

 善悪は、年齢を重ねるごとに複雑になる。

 嘘をつくことは悪いことだと教わって育っても、年齢を重ねると嘘というものが必要なものなのだと理解できる。善い嘘と悪い嘘、人を守る優しい嘘と人を傷つける悪い嘘が存在していることが理解できる。

 両親は、時間の経過と共に善悪の判断ができなくなるという状況に陥ることを酷く恐れていた。

 子供がこれから普通の子として周りに受け入れられて生きていくためには、この異常をどうにか抑える。または、ごまかし続けて生きていくしかない。このままだと自分たちの子供は異常者、障害者として扱われることになる。自分達はまだいい―――子供には絶対に窮屈な思いをさせたくなかった。

 人の名前を区別できないぐらいならば、なんとかなるだろう。分からないことに対してしったかぶりをしてごまかして生きている人間なんて山ほどいる。

 しかし、道徳や倫理はどうしようもない。道徳や倫理は常識と呼ばれる曖昧なものによって支えられている。感性や自己基準によって考慮され、常識とされ、倫理となる。

 仮に、刃物を人に向けてはいけないという基準を設けたとしよう。これが針になった場合はどうなるだろうか。一般の人ならば刃物が人を傷つけることがあるから人に向けることを禁止している=針も人を傷つけるかもしれないから人に向けてはならないと応用を効かせて判断することができる。

 しかし、その考え方が少年にはできない。刃物という範疇に針が含まれていない少年は平然と人に向けるだろう。仮に少年が人を傷つけてはならないと分かっていたとしても、人間ではなく動物ならいいのかと判断してしまうことだろう。

 そういうことではないのだ。

 そういうことではないのだが―――間違ってもない。

 だから区別することが難しい。

 そんな曖昧なものなのに、これが最も人間社会で重要視される。

 

 少年の問題は、周りの普通の人間に対して隠しきれないほどに大きすぎた。

 

 異常者だ、精神障害者だと罵る声が脳内を木霊する。

 世間の目が、住民の目が、子供を貫く。

 それも仕方のないことである。善悪の区別がつかない人間ほど怖いものはない。近隣の住民は、もしかして殺されるのではないかと不安を抱えて生活しなければならなくなる。

 和友の親でなかったら―――和友のことを怖がっていたに違いない。

 そんな確証もあった。

 少年にとって、これから生きていく世界はひどく生き辛いものになる。

 何をしても、何をやっても、何を考えても、疑惑と恐怖の目にさらされることになる。

 何かをしようとするたび止められ、何かをしたいと思うたびに怖がられ、動きを始めれば拒否の姿勢を示されることだろう。

 両親は、子供の未来を想うといたたまれない気持ちになった。和友には広い世界の中で自由に生きていて欲しい。生き続けて欲しいと心から想っていた。

 

 少年が未来を生きていく場合に障害となる問題は、倫理的な部分が多くを占めている。

 勉強なんて出来なくてもいい。

 運動なんて出来なくてもいい。

 最低限人が社会で生きていくために必要最低限のものがあればいい。

 生きていてさえくれれば。

 元気に楽しそうに生きていてくれさえすれば。

 

 倫理的なものというのは―――俗にいう決まり事というものである。

 両親は、手初めに約束を破っては駄目、人を傷つけては駄目といった社会のルールを子供に対して一つずつ確認していった。

 すると、様々なことに気付いた。

 子供は、以外にもしっかりとした基準を持っていた。両親がこれまで教え続けてきた人として守るべきルールや決まりは、少年の心の中に深く根付いていたのである。それは、少年の心の大きさがそれほど大きくなかった時に大事なこととして自分が心の中に刻んだからに他ならなかった。

 しかし、心が本格的に広がり出した小学校から学び始めたような、最近学び始めたようなことに関しては認識ができていなかった。刻み込むほど時間をかけておらず、脳内に浅く残るような曖昧なものでは区別ができない。

 心が大きくなりだした小学生以降に区別をするためには、大きく見えやすい印を心に打ち立てる、心に刻みつけるような力強い傷跡を残す必要があった。

 

 両親は、子供への問答で露見した問題となりそうな残りの部分を埋める作業に入る。

 空白がないように。

 余りが無いように。

 例外が存在しないように。

 書き記す方法で覚えさせる。

 

 ただ―――1つずつ覚えさせるには、圧倒的に時間が足りなかった。

 

 倫理観を先程の区別する方法を使って識別をした場合、時間がかかり過ぎる。小学校の卒業までに到底間に合わない。

 書き記して一つずつ区別するという方法は、境界線を引くという行為であり、覚えるという行為であり、識別する行為である。

 だが、倫理的な問題は数学のように解が一定値に決まっているものではない。正確で明瞭な区別の境界線がなく、常に例外がつきまとい意見が分かれ、こういう場合は善くてこういう場合は駄目ということが起こる曖昧なもの。ある状況下において決まった行動を常に取れるわけではないのである。

 そのため少年は―――全ての可能性を頭に叩きこむしかなかった。そんなことをすれば間に合わないのは当たり前である。倫理的な問題全てを網羅しているような猶予はどこにも無かった。

 少年は、何も倫理的なものだけを覚えればいいということでもないのだ。少年が覚えなければならないことは他にも人や色、飲み物、食べ物にいたるまで無数にあるのである。

 一つずつ覚えていたのでは、少年が大人になっても覚える作業は終わらない。時間をかければかけるほど、社会への適応が遅くなる。こんなところで時間をかけて一度劣等生の名札を、異常者の名札をつけられてしまえば、それを払しょくすることは難しくなる。

 少年の覚える効率を上げることは、必要不可欠なことだった。

 

 両親は―――書き記す作業の他に覚える方法がないのかと探し始めた。

 そして、ある時感情の起伏とともに物事を覚えると覚えやすいという話を耳にした。それが本当なのか嘘なのかは分からない。

 けれども、両親にとってそれが嘘かどうかは関係がなかった。選ぶことのできる選択肢などないのだから、できることを精いっぱいやっていくしかない。

 両親は、子供を笑わせる、喜ばせるといったことをしながら決まり事を覚えさせ始めた。この方法を取り始めた当初、少年の物覚えの効率は飛躍的に高まった。感情の起伏によって得られる刺激が脳を活性化させ、イメージを固定しやすくなり、記憶の中に深く刻まれたのである。

 区別するという作業は、守りの形から一気に攻勢へと転じ、小学校を卒業するまでには全て終わるのではないかというところまで早くなった。

 だが、感情の起伏にはどうしても慣れが付きまとう。環境に適応することが得意と言われている人間という種族において、自動的な環境への適応は避けられない。同じことを何度もやっていたのでは面白味も無くなり、感情の起伏が小さくなる。少年の覚える効率は、起伏が小さくなるのと同時に著しく悪くなっていった。

 悪くなったから諦める―――そんな選択肢こそ両親にはない。当たり前である。諦めるということは少年の未来を諦めるということに他ならないのだから。

 両親は、感情の起伏で覚えるというやり方を実践している際に考えていた最後の手段を取った。最も簡単である‘痛みを与える’という方法を取ったのである。

 これが両親にとって一番の苦しみになることになった。

 

 

「僕は頑張るから。だから……」

 

「分かった。私達も最後の最後まで付き合うからね。本当の最後まで……」

 

 

 ―――壮絶だった。見ていることが苦しかった。

 目を背けたくなるような現実だった。

 子供は痛みに耐え、絶叫を堪えて血を流した。

 歯を食いしばり、涙を流して、嗚咽を堪えて書き続けた。

 それでも、助けてとは口にしない。

 その強さが、その弱さが、両親の心を蝕んだ。

 

 

「っ……」

 

 

 両親は、子供の姿を見守ることしかできなかった。他にできることは邪魔をしないようにすること、神様に祈ること、終わった後に精いっぱい褒めてやることだけである。

 両親は、苦しんでいる子供を前にしながらも無力な自分に我慢しなければならなかった。子供が頑張っているのだからと、自分のために頑張っているのだからと頑張らなくてはならなかった。

 両親は、心が絶叫をまき散らしながらも子供に刃物を突き刺し続ける。無意識のうちに子供を傷つける行為を止めようと伸びる手をお互いの手を握ることで我慢した。

 

 

「いくぞ」

 

「うん」

 

 

 子どもと同じように―――我慢しなければ。

 痛みに―――耐えるのだ。

 一緒に。一緒に、心は寄り添っている。

 子供の痛みは、親の痛み。

 和友の苦しみは、私たちの苦しみ。

 両親は、心に突き刺さる痛みを我慢し続けていた。

 

 

(ありがとう。一人だったらとっくに投げ出していた。僕は、お母さんやお父さんが頑張ってくれているから頑張れる、我慢できる)

 

 

 一人じゃない。孤独感が薄れていく。理不尽な想いが消えていく。

 少年は、痛みを負うという方法で倫理や道徳といったものを覚えていった。

 そして、その中で少年が抱える異常性が目に見える形で見つかった。両親が少年を刃物で傷つけた時、少年の異常が目に見える形で露見した。自分の子供は普通ではないということがはっきりとわかる出来事が起こった。

 

 

「これは……どういうことだ?」

 

 

 物覚えが悪いだけなら、脳の障害である可能性が考えられる。もしかしたら、遺伝上の問題があるのかもしれないと考えることができる。

 しかし、両親の目の前には異常を示す状況が広がっている。両親の視界には、子供に与えた傷がものすごい勢いで治っていく光景が見せつけるように存在していた。

 

 

「傷が治っている?」

 

 

 痛みに打ちひしがれ、その場で眠るように突っ伏した少年の左手に刻まれた傷が治っていく。普通ならばあり得ない。治るまでに一週間はかかるだろう。もしかしたら跡が消えないかもしれない。それほどの傷である。

 時間がまき戻るみたいに―――跡形もなく治っていく。

 両親には、少年が負った怪我が速く治る理由が分からなかった。覚えられないことと何か関係があるのか、それともまた別の要因があるのか、何も分からなかった。

 しかし、そんなことは両親にとってどうでもよかった。

 異常だとしても、普通じゃなくても、そんなものは関係ない。

 そんなものは、どっちでもよかった。

 そんなものよりも大事なものがあった。

 

 

「和ちゃんが異常な子供だったとしても、他の子供と違ったとしても……この子は私のお腹から産まれた子、私達の子供よ。異常なんて関係ないわ。そんなものどっちでもいい。和ちゃんは私達の子供なのだから」

 

「ああ、和友は私達が立派に育てよう。社会で生きていけるように、これからを過ごしてもらうために、私達が見守っていこう」

 

 

 両親は、子供が持っている明らかな異常性を知っても、自分の子供に対して出来る限りの愛情を注いだ。

 少年は、両親の愛情を全身に受けてすくすくと元気に育った。道徳や倫理のような曖昧なことを決まり事として、生きて行くためのルールを自分の中に記し、社会の中で―――人間の中で生きてきた。

 

 決まり事の概要としては基本的に周りの人と同じように普通に生きるというものになる。普通の中には様々なものが含まれており、他にも、自殺しない、殺されない、なにがあっても生き抜くといったものも含まれている。

 

 少年は、未来を生きていくためのルールを心の中に植え付けて生活を送ってきた。

 両親に支えられて―――寄りかかられて、寄りかかって生きていた。

 


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