子供は、自分が周りの人間と違うということを認識し始めていた。そして両親も同時に、自分の子供が周りの人間と違うということを理解し始めていた。
お互いがお互いに曖昧な認識をしていたそんななか境界線を引いたのは子供の言葉だった。均衡を崩したのは、一言の素朴な、素直な言葉だった。
「僕は、みんなと違うの?」
その言葉は、何気なく放たれたものだっただろう。ふと見た雲の形に、あれは何雲なのだろうと言うように、ぽっと出てきた言葉だったことだろう。
そんなふんわりした言葉が、両親に境界線を引かせた。曖昧に浮かんでいた雲を引き裂いた。
子供が似ているものの区別ができないと判明したのは、些細なきっかけからだった。それは、いつものように父親が働きに出て、子供が小学校へ行き、母親が家で家事をしていた普段通りの平日のことである。
子供は、授業を終えて学校から家に帰った。そして母親と一緒に料理を始めた。
母親と子供が料理を一緒に作るのは、毎日の日課だった。決して義務的ではなく、楽しんでやっている日課の一つだった。母親の楽しみの一つでもあり、子供の楽しみでもある料理という共同作業。他にもいろいろ一緒にすることはあったが、何か新しいものができる、何かの役に立っているという感じが強い料理は、特に楽しそうだった。
母親と子供は、楽しく話をしながら父親の帰りを待った。
父親は、晩御飯が完成して暫くの時間が経ったところで帰ってきた。
母親と子供は、二人そろって玄関で父親を出迎える。
「「おかえりなさい!」」
「ただいま。和友、今日もいい子にしてたか!」
「あったりまえでしょ!」
父親は、嬉しそうに挨拶を交わすと家へと入る。そして、自室に入った直後に、そそくさと着替えを終え、リビングへ入った。
そこには、すでに子供と母親が座っている。父親は、後を追いかけるように二人がいる食卓テーブルへと腰を下ろした。
「「「いただきます」」」
テーブルに座った3人は、それぞれに目を配ると合掌し、晩御飯を頬張った。
3人で笑顔を浮かべながら晩御飯を食べていた。
そんな普段の1日だった。
そんな―――普段通りの晩御飯だった。
しかし、いつもの団らんの空気は唐突に変化する。
それは、ある一つの質問からだった。
「和友は、学校で特に仲のいい子はいるか?」
何のことはない、何処の家庭においてもよくされる質問の一つだろう。自分の子供が誰と仲良くて、どんな相手と友達になっていて、どんな遊びが好きなのか。小学生になれば彼氏彼女といった恋人関係を作る者もいるという現代において、仲がいい友達は誰がいるのかという質問は酷くありきたりで、一般的にみられる質問である。
「……?」
子供は、両親からの質問に対してきょとんとしていた。そして、すぐに表情を歪ませると一生懸命に頭を抱えて考え込みだした。
「うーん……」
両親は、悩んでいる子供の様子を不思議そうに見つめる。
仲のいい友達を答えられないなんていうことは、普通はありえない。
両親は、きっと誰の名前を挙げればいいのかで悩んでいるのだろう、待っていれば答えられるはずだと気楽な気持ちで子供からの回答を待っていた。
しかし、子供はいくら経っても両親からの問いに答えられなかった。
「どうした?」
「和ちゃん、大丈夫?」
両親は、唸っている子供に疑惑の視線を向ける。
子供は、両親の視線に耐えきれずに泣き出してしまった。
両親は、泣きだしてしまった子供の反応に困惑した。
両親には―――子供が泣いている理由が分からなかった。
両親が子供に聞いたことは、友達の名前である。テストの話や成績の話ではない。話すのが後ろめたくなる理由は、友達がいないという場合を除いて特にないはずである。
両親には、子供が泣くような理由が全く見当たらなかった。
この時点で、子供の心の大きさは市街地ぐらいには大きくなっていた。区別するには努力を必要とするレベルである。
今まで識別するための努力なく生活できていたのは徐々に心が大きくなっていったからで、人間の環境適応能力が―――少年の適応能力がぬきんでて高かったからどうにか対応できていたと考えられた。
だが、そんなごまかしがきいていたのもここまでである。
市街地ほどに大きくなった心の中で、境界線がどんどん無くなっていく心の中で、物事が判別できるわけがなかった。友達の区別なんてできるわけがなかった。
もちろん、本人に自覚はない。自覚症状など感じる間もなく、感じる余裕もなく、緩やかに推移している。
当然、心の大きさを調べる術などない。医者が分からなくても当然である。子供は自分の心が大きくなっていることを自覚できておらず、親も子供の心が大きくなっているなど理解していなかった。
両親は、泣きじゃくる子供の様子に何のことだか分からず、泣いている理由を問いかける。
「どうしたの? 何か辛いことでもあったの? どうして泣いているの? 和ちゃん、私に理由を話してくれないかな?」
子供は、泣いている理由を一向に口にしなかった。
正確には、口にできなかったのだが―――誰と遊んで、仲が良いのか分からなかったのだが。両親にはそんなことを知る由もなかった。
「どうしてだろうか。分かるか?」
「分からないわ。こんなこと初めてだもの」
両親は、何度聞いても理由を話してくれない子供に理由を尋ねることを諦めた。
答えてくれない内容をいくら待っても、時間の無駄になるだけである。無理矢理聞いて答えられる質問でもない。答えられない何かがあるから答えないのだ。いくら問いかけたところで押し問答になるだけだと悟った。
「大丈夫よ、大丈夫、大丈夫。誰も責めたりしない。誰も怒ったりしないから。だから、泣き止んで。和ちゃんが悲しくなると、私たちも悲しくなるから、ね?」
子供は、暫く泣くと瞳から流していた涙を止める。そして、泣き疲れてしまったようで眠り始めた。
両親の目の前には、瞳を閉じて静かに寝息を立てている子供がいる。
両親は、先程の子供の様子を見て言いようのない気持ち悪さに襲われた。脳裏に嫌な想像が膨らんでいくのを止められなかった。
「学校で何かあったのかもしれないな。もしかしたら……」
「ええ、何かあったのよ。でも、ちょっとあの様子じゃ和ちゃん自身に聞くのは無理そうよね……」
両親は、お互いの顔を見合わせる。
父親と母親の顔には、不安の色がにじんでいた。
「担任の先生に連絡を取ってみよう。何も知らないかもしれないが、少なくとも和友と仲のいい子がいるかどうかは分かるはずだ」
両親は、不安を抱えきれずに子供の通っている小学校へと連絡を入れることを検討した。
もしかしたら、担任の先生ならば和友が答えられない理由を持ち合わせているかもしれないという淡い期待をもって。
「和友に限って虐められているなんてことはないよな? 和友が誰かに何かされるなんて考えられない」
「怪我をして帰ってきたことなんてほとんどないから、無いとは思うのだけど……」
両親の頭の中には、子供が質問に答えられなかった原因がいくつか思い浮かんでいた。
仲の良い友達の名前が言えない理由は、かなり限られている。
真っ先に挙げられる理由としては、仲のいい友達がいないからという理由である。つまり、自身の子供が学校で苛められているのではないかという想像である。それならば、友達がいないということになるのだから、親に向かって言えないのもしょうがないことだと思えた。
だが、そんなそぶりは一切見せてこなかった。虐められている痕跡一つ感じられなかった。何より苛めを受ける理由が考えられなかった。
両親は、一抹の不安を抱えながら電話のボタンを押す。電話口からは、呼び出しのコールが鳴り始める。静かな空間に小さな呼び出し音が鳴っていた。
「すでに帰ってしまっているかもしれないな」
父親は、壁にかかっている時計に視線を向ける。
すでに時計の針は7時を回っている。小学校の先生たちは、すでに帰ってしまっているかもしれない。例えいたとしても、今から話し合うというのも迷惑なことなのかもしれない。
だが、両親には明日まで待てるような心の余裕がなかった。今知らないと、今分かっておかないと、不安でいっぱいになって眠れることができそうになかった。
「あ、笹原と申します。息子がお世話になっております」
コールの数が二桁になろうというとこで、両親は学校に残っていた先生と連絡を取ることができた。
電話口には、子供の担任の先生がいる。どうやらまだ学校にいたようだ。
両親は電話で話しているのにもかかわらず頭を下げて、今から子供のことで話ができないかと懇願する。
電話先の先生は、何事かあったのだろうとすぐに察し、両親の慌てるような声色を落ち着け、優しい声で肯定の旨を伝えた。
両親は、先生からの許しを得て再び電話の前で頭を下げた。
「許可はとった。今から行くぞ」
「分かったわ。和ちゃん、少しの間待っていてね」
両親は、そっと子供の頭をなでると慌てて子供の通う小学校へと向かった。
「こんな時間に申し訳ありません」
両親は誰もいなくなった教室に案内され、小学校の担任の先生から話を聞いた。
しかし、担任の先生と話をした結果としては、子供が仲の良い友達の名前を口にできなかった理由は分からなかった。
小学校の担任の先生からは、とてもいい子ですという旨の話しか聞くことができず、子供に特に問題があるという話は聞けなかったのである。
両親は、胸に残っている疑問を飲み込む。そして、不安要素を作り出した一つの問いを担任の先生に向けて吐きだした。
「和友と仲の良い子は、誰がいますか?」
両親は、学校に出向いた際に担任の先生に向けて、和友と仲の良い子供は誰ですか、という問いを投げかけた。
担任の先生は、迷うことなく具体的なクラスメイトの名前を並べ出す。両親は、子ども口からではなく、担任の先生から自身の子供と仲の良い友達の名前を知ることとなった。
しかしながら―――名前が並ぶは並ぶ。名前がどんどんと連なり、10人を余裕で超えていく。途中まで言ったところで両親が止めなければ、クラスメイト全員の名前を出したのではないかと思ってしまうほどだった。
なんでも、仲の悪い人間などいないと。誰とでも仲良くなれるいい子ですと。
耳触りのいいような錯覚を覚える言葉が整列してこちらを向いていた。
「そうですか……」
両親は、疑問が解消されない気持ち悪さを保持したまま、自分の子供が苛められていないことにひとまず安心し、家へと帰宅した。
両親が家に帰ると、泣き疲れて寝ていた子供はすでに起きており、一人で空を眺めていた。空には星が少しだけ光っているのが確認できる。
子供は、昔から空を見上げるのが好きだった。
「仲のいい子は、いっぱいいたんだな」
「さっき担任の先生に話を聞いてきたんだけど驚いちゃった。沢山お友達がいるのね」
両親は、先ほど小学校で聞いてきた話を子供に投げかける。先生から伝えられた友達の名前を並べて、だれだれと仲が良かったんだね、何で答えなかったの? と尋ねた。
「……………」
子供は、晩御飯を食べている時と同様に困った表情を浮かべて口を紡いだ。決して両親の告げた名前を反復することもなく、肯定することもなく、ただただ泣きそうな顔をしていた。
「仲のいい子は、柴田君かな? それとも、上本さんかな?」
両親は、聞こえなかったのか、それとも理解ができなかったのかと質問の言葉を変えて再び問いかけた。
友達の名前は両親がすでに告げているため、子供はもはや両親の言葉に頷くだけでよかった。頷くだけで好転するような状況だった。
しかし、子供は両親が言い変えて言葉の意味を伝えても、その友達が誰のことだか分かっていないようで両親の問いに答えることはなかった。
「「「……………」」」
両親と子供の間に、重い沈黙が停滞した。
子供は、両親との間に生まれた重い空気に耐えきれなくなり、答えられなかった理由を―――友達の名前が分からないという真実を告げた。
「友達の名前が分からない……」
両親は、子供の解答に言葉を失い―――口を閉ざした。
―――和友の成長記録抜粋―――
1996年9月16日 和友 7歳
和友がおかしいです。寝ている時に痙攣を起こすことは相変わらず変わっていませんが、和友は私達に不思議なことを言ってきました。和友は私達に、友達の名前が分からないと言ってきたのです。
和友は、私達と見えている世界が違うようで、空の色は何? と聞けば、首をかしげる。オレンジジュースを持ちだし、これは何? と聞くと飲み物と答えます。
私達は、和友から欲しい答えが聞けませんでした。和友は飲み物と答えるだけで、決してオレンジジュースと答えることはありません。
和友は、物事の区別ができないようです。特に似通ったもの、性質の似た物に関して判別ができていないようです。さらにいえば、概念的なあやふやなものも判断ができませんでした。
飲み物というくくりはできても、それがどんな飲み物かの区別がつかない。空の色に関しても、移り変わりをみせるものであるためか、区別がつかないようです。
そのうえ和友は、人の識別も一切できませんでした。大人か子供か、大きいか小さいかなどの情報は理解しているにもかかわらず、その人が誰なのかが分からないのです。
親である私達のことは認識できているのに、学校の担任の先生も区別できているのに、友達や他人に当たるような複数の人間が当てはまるような人物に関しては区別ができませんでした。
私達はある日、友達と遊んできたという和友に聞きました。
和友から欲しい答えが得られないことを知りながら尋ねました。
事実と向き合うためには、和友がこれからを生きていくためには、和友のことを知る必要があったのです。
「ねぇ、和ちゃん。今日は誰と遊んだの?」
「友達と遊んだよ!」
和友は、私の質問に元気よく答えました。
和友の解答から楽しく遊んだことが伺えます。和友の返答に思わず微笑ましくなって、問い詰める気持ちが揺らぎそうでした。
ですが、私達が知りたいのは楽しかったことではありません。私達は、続けて和友に問いかけました。
「それは、加藤さんのところの子? それとも、佐々木さんのところの子?」
和友の表情は、先程の元気満々な様子と打って変わり、一気に暗くなりました。
私達は、退きたくなる気持ちを抑えて和友から答えが出るまで待ち続けました。
暫くすると和友は、決心がついたようである答えを口にします。
それは―――私達が望んでいないもの、そして私達が予測したものでした。
「分かんない……」
和友は、私達の質問に誰と遊んだのか分からないと言いました。
私達は、和友からの回答ではっきりと自覚しました。和友は人間の区別ができていない。友達と遊んでいることは分かっていても、それが誰なのか分からないのです。遊んでいる相手が誰なのか分かっていないのです。
和友には、友達だというくくりでしかその子が見えていなかったのです。
両親は、子供の物覚えが悪い原因を見つけるために奔走した。
しかし、原因をいくら探しても、考えても一向に分かることはなかった。どの専門機関に見せても原因は不明、手がかりは一つもなかった。
両親は、最終的に子供の異常の原因を探ることを諦めた。諦めるまでにはすさまじいほどの試行錯誤があったが、それらは何一つ効果を示さなかったため、諦めるしかなかった。
「別の方法を探そう。原因を見つけて取り除くのではなく、受け入れて乗り越える方法を探そう」
両親は、きっぱりと切り替えの出来る人間で考えを完全に切り替えていた。
どんな検査をしても見つからないのならば、諦めて別の方向からアプローチを掛けなければならない。そんな機転が効く人間だった。
この両親の方向転換は、異常をもたらしている能力に対抗する対策を練り上げる結果となった。
それが善かったのか、悪かったのか。
それとも、どっちでも変わらなかったのか。
それは、未だに分からない。
善いか悪いかなど―――誰にも分からない。
それを決めるのは、両親でも少年でもない。
―――世界の方である。
両親は、子供が元気に生きていてくれるのならばと、この子が生きていてくれるのならどんな形でもいいと、子供を見守ることを決めた。しっかりと見守って生きることを決めた。
「神様、和友を救ってください。私たちの宝物を壊さないでください。私たちはどうなってもいい。和友さえ、和友さえ、生きていけるのなら。だから、お願いいたします。私達の命でも何でも捧げます。どうか、和友を幸せにしてあげてください」
「神様、どうか、和ちゃんを助けてあげてください。私達はどうなってもいいから。和ちゃんを助けてあげてください」
両親は、神に祈ることしかできなかった。
何者か分からない者に縋ることしかできなかった。
そんなことしかできない自分たちが―――何よりも悔しかった。