少年は口を紡ぎ、一切言葉を発しなかった。紫も少年と同様に口を固く閉ざしている。紫の部屋の中は静寂が支配しており、何も音が入る気配がなかった。
逃げ場を完全に失った少年は動きを見せない。紫の髪を梳いていた両手は完全に動かなくなって、その場でただ呆然としている。
紫から向けられた―――どうするのかという問いに対して、何かできることはあるのだろうか。
少年は、紫に問われる前から随分と考えを巡らせてきた。結果として分かったことは、捨てるという行為においてのみ効果を発揮するという現実である。今までのことを無かったことにするという―――捨てる行為しか選ぶ余地がないという現実である。
どうにもならないのだ。選択肢は一つしかなく、唯一ある選択肢を選ぶしかない。未来を見た少年の瞳には、光が宿っていなかった。
紫は、希望も何もない少年にかける言葉が見つからなかった。余裕を取り繕った表情で疑問をぶつけたのはいいものの、少年が答えを一向に返さないことで、少年自身も自分と同じで状況を打開する術を持たず、どうにもならないところにいるのだと悟った。
「っ……」
何もできない自分に苛立ち、静かに唇を噛む。
確かに少年の前に立っている紫は、他の人と違って少年を導くことができる。少年の手を引いて未来に進むことができる。
しかし―――少年には選べるだけの選択肢が無い。そもそも、進むべき道の中に選ぶことのできるものがない。
「さぁ、和友。いくわよ」
少年の手を掴み、進むべき方角へと目を向ける。
連れていかなければ―――迷ってしまった子供に正しい未来を指し示すのだ。指し示せる人間が僅かしかいないのなら、導くことのできる人間が案内をしなければ。そうでなくては道を失ってしまう。歩くのを止めてしまう。自分がやらなければ、他でもない自分がやらなければならない。家族である自分が―――。
紫は、そんな使命感を持って少年の手を引いて進もうと前を向く。そして、前を向いた瞬間、目を見開いて立ち止まった。
「……なんで」
紫の視界には真っすぐ伸びた‘一本のライン’があった。それ以外には何も見当たらない。ただただまっすぐに伸びた一本道が続いているだけだった。
未来に至る可能性―――選択肢は一つしかない。これ以外に無いというようにはっきりと提示されている。
「なんで、進むことのできる道が一本しかないのよ……」
紫は、力無く両腕をだらんとぶら下げると一本道の上で佇んだ。
紫が少年の手を引いて進むことのできるラインは一本しか引かれていない。他に分岐点は存在せず、ただひたすらに真っ直ぐ伸びている一本の線だけが、存在感を放ってそこにある。
真っすぐ伸びた先は、真っ暗で何も見えない。線路の先には希望なんて何もなく、目を凝らしたところで光は全く見えてこなかった。
紫は、そのラインを進まなくても、ゴール地点に何があるのか無意識のうちに理解した。最終地点には、半年前と同じような終わりが待っているのだと、嫌がおうにも分かってしまった。
紫の瞳が未来を閉ざすように、未来を見つめるのを拒むかのように閉じられる。
「すぅ……はぁ……」
飲まれては駄目だ。
一度大きく呼吸をする。
そして、ゆっくりと閉じた瞳を開く。
目の前には、先程と何も変わらない一本の線が伸びている。
「進むべき道がないのならば、作ればいい話よ。目の前の光景は、和友が一つの道しか見えていないからこその景色。和友を説得できれば、道を作ることができるはずよ……」
紫は、強い覚悟を持って遠くを見つめる。
未来へ至るラインが一本しかないのならば、何かしらラインを作ればいい。可能性が一つではないのだと、新しい道を提示してあげればいい。
未来に進むべき道が一つしかないのは、それしかないと少年が思っているからだ。その未来以外に選ぶ余地がないと考えているからだ。
だったら、それ以外を見させるだけの理由を与えられればいい。
―――単純な答えではある。
だが、それが難しい。少年の意志を捻じ曲げるということの難しさは、この2年間で痛いほど分かっていた。
「けれども、和友がそう簡単に気持ちを曲げるはずもない。曲げられる理由も、根拠もない」
少年は、間違いなくその一本を進みたがっている。どれだけ選びたくなくても、それを選ぶべきだと思っている。
少年の意志はその一本に集約している。少年がその道しか見えていないからこそ、未来への過程が一つしか見えないのだ。その道を進むと決めたからこそ、その道しか見えていないのだ。
何があるだろうか。何か、この道以外を選ぶことのできる選択を提示できるだろうか。
探せば見つかる―――なんて夢みたいなことが起こるはずもない。紫は、少年の意志を曲げることができる、逸らす事が出来る材料を見つけることができなかった。
―――見つけられるはずがなかった。
この道を進むことが正しいのだと―――紫自身が思っているから。
「なにより……この道が正しいことは誰の目から見ても明らか。誰もが幸せで、誰もが救われて、誰もが許される、そんな未来に繋がっている。唯一和友を除いて……」
この道を辿れば、きっと元通りになることだろう。あの頃に戻ることになるだろう。
この道を選ばずに放置した先のことを考えれば、この道を進む方がずっと幸せに違いない。悲しみに暮れる未来よりは幸せな日々が送れるだろう。
しかし、そこに少年はいない。少年はそれで救われない。助からない。ハッピーエンドにはならない。
バットエンドだと思っているのは紫だけで、少年は満足するのかもしれないが、紫はそれをハッピーエンドとは認めたくなかった。
紫は、一度行き詰っている思考を停止し、左右に目を配る。何とかして新たな道を示すことができないかと目配せする。
「何かないのかしら。和友も助かってみんなも救われるような選択肢が」
紫は、少年を助けることを最後まで諦めるつもりなど微塵もなかった。それこそ、失うその瞬間まで諦めるつもりはなかった。
失う覚悟をすることと諦めることは似ているようで違っている。紫は、少年を失う覚悟を持ちつつも、最後の最後まで諦めないと心に誓っていた。
「ねぇ、和友」
「何かな?」
「昔話をしましょう。貴方の昔話を聞かせて欲しいの」
きっと、少年を救うことができる可能性は過去の中にある。今から未来を変える手段は過去の経験の中にあるはずだ。
紫は、少年の未来に光を灯すための可能性の欠片を少年の過去に求めた。
ただ、それも淡い希望である。少年の過去を聞いたとしても、少年の助かる可能性は万に一つでさえ無いだろう。
しかし、少年の過去に少年が助かる可能性が一欠けらも無くても、少年がこれまで何を思って生きてきたのか、何を考えていたのかは分かる。知ることができる。境界を曖昧にする能力という呪いのような力を授かって産まれてきた少年が、何を思って生きてきたのかを知ることができる。
(和友の過去の話を聞いても……和友を救う手立ては何も出てこないかもしれない。けれども、和友が何を感じてこれまで生きてきたのかは分かる。能力をもって産まれて、何を想って、何を求めているのか、それを理解することはできる)
少年は、産まれてきたことを後悔してはいないのだろうか。生きていることを辛いと思ってはいないのだろうか。死にたいと思っているのではないだろうか。
少年は、そう思ってもおかしくないものを背負っている。
普通の人間ならば耐えられないだろう。周りに迷惑をかけている、周りに影響を及ぼしている、周りよりも劣っているという状況に我慢できないだろう。
能力があるからなんて言い訳を知らず、人間としての性能が劣っているとしか思えない状況で周りについて行くために努力し続ける。それは、まさしく心を削っていく作業である。
希望がなく未来を進める人間はそうはいない。少しの希望も、少しの望みもない、ただ維持しているだけ。摩耗し、擦り減っていくのを必死に耐えて維持しているだけ。
そんなもの長く続くわけがない。そのうち具体的な何かがない希望に縋ることも止めてしまう。
そして、その心の動きは、社会性の強い人間ほど強くなる。
(責任の重さに耐えきれずに死んでしまう人間は多い。周りを不幸にしていることを分かってなお生き続けられるほど人間は強くない。だけど、和友は生きてきた。能力を打ち消すために努力し、良かれと思った方向へと歩みを進めてきた)
少年の普段の様子からは、そんな暗い部分は微塵も感じられない。いつも元気で、いつも笑顔で、頑張ることを止めない。心が苦しんでいるのに、そんなもの微塵も感じさせない表情で今を楽しんでいるように見える。
なぜだろうか、どうしてだろうか。
何が少年にそうさせてきたのか。
何が少年を支えているのか。
(和友は、幻想郷に来て何を背負って、何を求めて、何を想っているのかしら)
紫は、少年が産まれてからこれまで生きていく中で感じたこと、思ったこと、幻想郷で自分たちと過ごしている時の心の内が知りたかった。幻想郷で何を想って生活していたのか、何を想って生きてきたのか熟知しておきたかった。
少年は、紫の唐突なお願いに戸惑う。
「急にどうしたの?」
「私は、ここまで一緒に生活してきてやっと貴方が何を考えて生きてきたのか理解できたわ。それでも、私の中の想像が本当なのか確信が持てない。和友の曖昧さが私を不安にさせるの。私が思っているだけかもしれない。私は、貴方が消えてしまう前に、貴方の本当の声が聞きたいの」
少年の気持ちを知ることでより強い覚悟ができるような気がしたから。
少年の想いを知ることで、気持ちに踏ん切りをつけることができるような気がしたから。
紫は、今にも消え入りそうな声で少年に呟いた。
「そうすることで、きっと気持ちの整理がつくから。それが分かれば……私は、貴方を失う本当の覚悟を持つことができると思うから」
少年は、どこか悲しそうな瞳で紫を見つめる。紫の瞳は、少年の視線から逃げることなく見つめ返していた。
少年は、暫く視線を交わすと一度だけ頷く。強い意志を瞳に宿し、重い空気を振り払って笑顔を浮かべる。
どうして笑顔を浮かべることができるのだろうか。
どうしてそこまでして強くあろうとするのか。
少年の本心は―――やっぱり分からなかった。
「貴方は、どうして……」
「僕には結局この生き方しかできないんだ。今更、どうにもならないよ。泣くことも、悲しむことも、何もかも……全部を受け入れることしかできない」
紫は、笑顔を作る少年の強さに思わず抱きしめたい気持ちに駆られた。まるで弱弱しい生き物が必死に虚勢を張っているように見える。本当なら泣きたいはずなのに、本当ならば悲しみたいはずなのに、決して自身の弱さを見せようとしない。
「今までの生き方に対して後悔も何もないし、間違っていると思ったこともない。唯一間違っていたのは、僕みたいなやつが産まれたことだけだよ」
少年は、笑顔のまま本心のような虚偽のような言い訳じみた言葉を並べた。
紫は、そんな少年を見つめながらひたすらに動き出そうとする体を抑える。衝動のままに少年を抱きしめることは絶対にしたくなかった。
言ってもらわなければ―――分からない。
口に出さなければ―――伝わらない。
私たちの心は離れているのだから、飛ばさなきゃ拾えないの。
「それでも良かったという点があるとするなら、この能力をもって産まれたのが僕で、僕の両親が僕に対して愛情を注いでくれたことかな」
正面から少年を見ている紫には分かった。
少年は必死に虚勢を張っている。猛烈な吹雪の中でひざを伸ばして立っている。苦しそうにもがいている少年の顔が見える。
「それは本心で言っているのかしら?」
「本心だよ。嘘のような僕の本当の気持ち。自分の心を守るための自己犠牲の気持ちだよ」
少年は、一人ぼっちで泣いている。涙を流しながらも周りの人間から寄りかかられながらも真っすぐに立っている。泣きながらしっかりと両足で立って前を見ている。視線を落とすことなく、目的地をひたすらに見つめている、覚悟のある表情で前を向いている。
周りにいる人間は寄り添うようにそこにいるだけで何もしようとしない、何も見ようとしない。
紫は、必死に耐えている少年を見て助けてあげたいという感情を必死にこらえた。自分は同情してはいけない。和友の気持ちを穢してはいけない。同情してどうなる―――最も嫌いな同情がさらに少年を追い込む結果になるだけだ。
「自分を守るための自己犠牲……貴方の心は、他人のためにあることで支えられているのね」
「……ありがとう。僕は、幻想郷でもいい人に巡り合えた。こうやって僕の本当の気持ちを察してくれる人がいるだけで幸せ者だ」
少年は、しっかりと前に立ってくれる紫の姿勢がものすごく嬉しかった。それだけで、これからを生きていける力を貰ったような気がした。
「僕が産まれた時からの話を一つずつ話そう。両親のとっていた成長記録を読んでみて僕が想像した部分も結構あるから、ところどころ間違っているかもしれないけどね」
「他ならぬ貴方に向けて書かれたものよ。間違いなんてあるわけ無いわ」
少年は、断言するように告げる紫に対して本当に敵わないなと静かに目を閉じる。そして、思い返すようにして口を開いた。
最初は―――僕の産まれた時からの話だね。勿論だけど、僕には産まれて間もない時の記憶なんて無いから両親の成長記録を読んだ内容から想像した話になるからね。
「さっきも言ったけど、それで構わないわ。貴方の世界から見た景色を教えて」
分かったよ。じゃあ、最初から説明するね。
ある同い年の夫婦にある一人の男の子が産まれた。その男の子は、望まれて産まれた。望まれて産まれていない子供がいるのかと言われれば、どうなのか僕には分からないけど、少なくとも望まれて産まれたことを僕は知っている。
「そうね、望まれて産まれてきていないのならとっくに貴方は死んでいるわ」
違いないね。
今こうして生きている事実があるからこそ―――断言できる。僕は、両親に望まれてこの世界に産まれてきたんだって。
この記録を見て初めて知ったんだけど、母親は妊娠するまでにすごい時間がかかったみたい。
「不妊体質だったということかしら?」
そうみたいだね。母親は、もともと妊娠しにくい体質だったようだよ。
父親は別にそのことを責めることは無かったけど、母親は子供ができないことを非常に重く思っていたみたい。
やっぱり愛の証として子供が欲しかったということなのかな?
「母親は、不安だったのでしょうね。もしかして愛想をつかされるのではないかって。きっと夫を繋ぎとめておく鎖が、強い絆となるものが、形のあるものが欲しかったのでしょう」
そういうものなのかな?
僕には分からないけど。
「そういうものなのよ。和友にはきっと、一生分からないわ」
どうして?
「和友は勝手に築いて、勝手に崩れて、勝手に終わっているもの。自分からどうこうしようとしていない。繋がりたいと思って繋がった繋がりなんてないでしょう?」
確かにそうだね。僕の周りはいつだってそうだった。勝手に作られて、勝手に無くなっていて、勝手に終わっていた。
「特別な誰かができれば、きっと母親の気持ちが分かると思うわよ。もしかしたら女性特有の感情かもしれないから確証を持って話すことはできないけれどね」
分かるときが来るといいけど。
そんな大事な何かが、繋げておきたい誰かができると―――どうなっちゃうんだろう?
ううん……今話そうとしていることと関係がないね。話を戻すよ。
二人はずっと、何とか子供を授かりたいと不妊治療を行ってきた。
母親は、不妊治療の効果もあって結婚してから10年経って初めて子供を身ごもった。その子供が僕だ。
僕じゃなかったらと思わずにはいられないけど、それは僕だった。もちろん、産まれてきたことを後悔しているわけじゃない。優しい両親の下で産まれてきて僕は幸せだったし、産まれてきたことに対して後悔も何もない。
ただ―――産まれなかったら良かったのにとも思う。
ただ―――両親には、生きていて欲しかったなと今でも思う。
「和友……」
僕じゃなければ死ぬことはなかった。産まれてくる子供が自分でなければ、能力を持っていなければ、という可能性があったのかもしれないと考えると産まれなかった方が良かったと思う。
「そうね、きっと和友じゃなかったら両親が死ぬことはなかったわ」
僕は、そうやってはっきり言ってくれる紫が好きだよ。
慰めも同情もいらない。現実問題として、両親が死んでしまっている事実は変わらない。
だけど、だからって何もなくなってしまうわけじゃない。死んでしまって何もかも失ってしまうわけじゃない。持っているもの全てを捨てていいわけじゃない。悲しむことが許されていなくても、後悔だけは胸にいっぱいある。
「後悔しても現実は変わらないわ」
僕が後悔できなかったら、何が残ると思う?
僕の心に両親の何が残ると思う?
後悔をしなかったら―――どんな思いが残ると思うの?
「…………」
そう、何も残りはしないさ。
まっさらで綺麗に平らにされた大地が残るだけ。
標識も、立て札もなく、綺麗なまっさらな記憶の消去が起こるだけ。
僕は―――それが嫌だから。
だから、後悔するんだよ。
悔いはある―――ただ、それでよかったんだ。
そうでもしなきゃ、僕が産まれたことを喜んでくれた両親に悪いだろう?
死んだことに対して、後悔もなにもなく、何にも悲しまれない存在があっていいの?
僕が両親のことを全て忘れてしまったら、誰が両親のことを覚えていてくれるの?
僕は、これ以上僕の両親を消させやしないよ。
僕が殺した強盗殺人犯と同じように、記憶にとどめて保持し続ける。
守り続けることが僕にとっての両親に対する恩返しだから。
自分自身を許すことができる、唯一の手段だから。
「和友、両親のことについては……」
謝らないでよ。
そんなものいらない。
それこそ、貰ってもどうしようもない。
さっきの紫の言葉じゃないけど、謝られても現実は変わらない。
それに―――貰うとしても、それは紫からじゃないだろう?
だから、いらないよ。
僕は受け取らない。
「そうね……」
話を続けるね。
両親は、子供を授かったことに歓喜した。やっと不妊治療の努力が実ったのだと喜びを体いっぱいに表現した。
僕を身ごもったのは、35歳を迎える時だ。もう後がないと分かっていたのだろうね。最後の最後で両親の願いは叶った形になった。
子供を身ごもった年の12月のクリスマスの冬に―――僕は産まれた。
両親は、持ち合わせている愛情の全てを子供に対して注ぎ込み始めた。
子供は、好奇心が旺盛でよく喋る子でなんでも質問をして、なんでも楽しそうに笑顔を振りまいた。感情をまきちらしていた。
両親は、そんな元気な自身の子供に全てを入れ込むように満たしていった。
少年は、淡々と両親の取っていた成長記録を読んで補間した内容をつらつらと並べる。どこか確信めいたように。どこか納得するように。どこか後悔しているような声色で語り続ける。
紫は、少年の言葉に相槌を打ちながら、時折言葉を挟み込みながら会話を展開していく。
紫はすでに両親の書いていた少年の成長記録を読んでいる。前知識のなさが導入を拒むことは無い。少年の言っていることはすんなりと頭の中に入ってきた。
「貴方は、産まれた時と今とで何も変わらないのね」
成長記録をもとに話す少年の話を聞いていると、昔の少年と今の少年が何も変わっていないことに気付く。昔から好奇心旺盛でよく喋る性格は変わっていない。それについては少年にも自覚があるようで、少年は紫の言葉にそっと頷いた。
「そうだね、何も変わっていない。両親は、僕にありったけの愛情を注いでくれた。僕は、‘それだけ’は忘れないよ」
「和友……」
紫は、少年の口から語られた言葉の重みに口が動かなくなった。唯一口から出てきたのは、慰めの言葉でもなく、少年の名前だけだった。
―――和友の成長記録抜粋―――
1988年12月24日 和友が誕生 和友0歳
私達に念願の子供が産まれました。これまで不妊治療をしてきてやっと産まれた子供です。子供には、和友という名前を付けました。誰とでも和気あいあい、仲良くなって友達をたくさん作って欲しいという願いを込めた名前です。
どうか神様、私達のちょっとした我儘をお聞きください。私達の幸せの一部をこの子に与えてやってください。
1990年4月8日 和友 1歳
和ちゃんは何の問題もなく、元気にすくすくと育っています。好奇心が旺盛で、何でも触ってどこにでも行こうとする、そんな行動力を持っています。急に視界からいなくなると、私はとても不安になります。
私達家族の家は、どうやら和ちゃんには小さく窮屈なようです。私達は決して裕福ではないので、和ちゃんのために家を広くしてあげたいけども、それはできません。和ちゃんはこれから多くの事を知って、こんな小さい家の中の世界だけじゃなくて、広い世界で生きていって欲しいと思います。
パパには、いろんなところに連れて行ってもらおうね。その時は、私もいろんなことをお願いしちゃおうと思います。
「おちゃめな人だったのね」
「元気溌剌な人だったよ。笑顔を絶やさずに無理にでも元気を出して、周りを明るくする人だった」
「まるで貴方みたいね」
「僕と母親はほど遠いよ。性質があまりにも違いすぎる」
そうかしら? きっとその心は母親が作ったと思うわよ。紫は、心の中でそう呟いた。
眩しいほどに明るい笑顔。無理にでも元気を出す性質。そして、何より何事にも負けずに受け入れる強さを持っている。それは、完全に母親から受け継いだものだろう。
いいんだ、分かっている。
もう、十分すぎるほどに理解できる時間はあった。
さぁ、話の続きをしよう。
ここからは、少しだけ記憶があるからそれも交えて話をするよ。
これまで何の問題もなく育ったわけなんだけど、問題が起きたんだ。小学校に入ったころに一つばかり問題が起きた。寝ている時に痙攣をおこして跳ね上がることがあったんだ。
僕は、その時の記憶が全くなかったから、親からどうしたのと聞かれても上手く答えられなかった。記憶がないんだから、答えようにもできるはずがなかった。両親から見れば、僕はきょとんとしていて何のことか分かっていない様子だったみたいだね。
寝ている時に唐突に痙攣し、跳ね上がるなんてことは普通ではない。両親は、絶対何か病気なのだと確信めいたものを感じて病院を訪れた。
けれども、寝ているときに起こる唐突な痙攣の症状の原因は分からなかった。両親は原因も分からず、様子を見るという医者の言葉を飲み込んで家へと帰宅した。
もともとこれは、僕に根付いていた能力の覚醒の序章みたいなものだから、医者にどうこうできる話じゃなかったんだよね。
両親は、その後も病院を何度か訪ねた。不安だったんだろうね。どうしても原因を知りたかったみたい。
けれども、一向に原因は判明しなかった。ただ、その後も何度か痙攣をおこしたけど、その症状が僕の健康状態に大きな影響を及ぼしているということは無かったから様子見という言葉を貫き、不安をぬぐうことなく僕を見守ることを決めた。
紫は、少年の話から2年前に話した内容を思い出した。
寝ている時に痙攣するという話は、少年から一度聞いたことがある。それは、少年が病院にいた時に話した内容である。記憶違いでなければ、夢の中で転落死を遂げた際の衝撃で現実の体が跳ねるというものだったはずだ。
「この話は、貴方が強盗殺人犯に左手を刺されて病院に入院していた時にした話ね」
「さすが、よく覚えているね。跳ねていたのは決まって転落死の時だけなんだ。地面とぶつかってドーンってね」
少年は一度だけ頷き、昔を思い出すように語り続ける。
「心が大きくなり始めたのは、大体この頃からなんだろうね。知識を得て、夢の中で死んで、目覚めるということを延々と繰り返した。きっとそれに伴って、心が大きくなっていったんだろう」
心が大きくなったのは、夢の中で死んでいることが原因だ。
夢の中で死ぬということは―――生まれ変わるということ。生と死が曖昧な夢の中だからこそできる芸当である。本来変わらないはずの心の大きさは、夢の中で死に生まれ変わるという経過を経て、一回りも二回りも大きくなった。
まるで―――蛇が脱皮するように。皮をはいで新しい皮膚を纏って、大きく成長していく。
「物事を区別できなくなったのもこのぐらいからなの?」
「物事を覚えられなくなったのも、このあたりからだね。人の顔とか、飲み物の種類とか、空の色とか色々分からなくなった」
紫は、少年の心の中を思い浮かべて想起する。
死んで生き返って生まれ変わる。
新しいものが入るたびに、死んで生き返る。
崩壊と生誕を繰り返す、無限ループのような終わりのない現象を。
「繰り返し、繰り返す、終わらない螺旋現象。秩序を保つために境界を引いて、標識を打ち立て制御する。そして、また繰り返す……」
そこからさらに、今まで認識していたものの境界線を引き裂くようなイメージを頭の中に作り出す。きっと―――その世界こそが少年の見ている世界である。
紫は、脳内に少年の見えている世界を作りだした瞬間、目の前がぐにゃぐにゃとねじ曲がるような底抜け沼に嵌っているような感覚に陥った。
こんなところで生きているのか。
紫には、未だに少年がこうして普通に生きていることが信じられなかった。優しい性格を維持したまま、外の世界で普通の人間に混じって生活してきた事実が信じられなかった。
少年は、思考を停止させている紫に向けて言った。
「ただ、人の顔とか空の色だとか、そういうもともと区別されていたものって心の中に何となく置いてあったものだから、世界が広くなってどこにあるのか分からなくなっただけかもしれないけどね」
紫は、少年の声で思考の沼から抜け出ると、首を振って停滞した考えを振り払う。
こんなところで頭を悩ませてはいけない。少年が本当に辛かったのは小学生、中学生という普通の人間に囲まれて生活してきた時間なのである。
―――周りと違う状況で
―――周りと違う環境で
―――周りと違う世界を見ている。
それを他の人間と共有することのできない少年
決して分かり合えず
決して理解することは叶わない。
少年にとっての鬼門は、社会に溶け込むという絶対不可避な人間としての営みにあるのだから。
紫は、覚悟を持って少年の話に耳を傾けていた。
―――和友の成長記録抜粋―――
1994年12月22日 和友 6歳
和ちゃんは、あれからすくすくと体も大きくなり、小学生になりました。和ちゃんは、もう小学生になったのですね。そろそろ和ちゃんと呼ぶのは不味いでしょうか……これからは和友と呼ぼうと思います。慣れるまで口に出すのは難しいかもしれないけど、成長記録の中では慣れるために和友と書くことにします。
和友は、変わらず元気に過ごしています。けれども、和友の様子が他の子供と明らかに違うところがありました。和友は、寝ている時にいきなり痙攣を起こし、跳ねあがることがあるのです。
私達は、和友を連れて病院に行きました。だけど、和友を病院に連れて行っても異常は見当たらない、原因は分からないと言われてしまいました。
不安でたまりません。あれは、絶対に何かおかしいと私達には分かります。
和ちゃんは、悪い事なんてしていないのに、ただ明るく生きているだけなのに。どうか……悪い病気ではありませんように。