ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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引き合う力、惹かれ合う力

「私達と貴方が出会ってから2年……色々なことがあったわ。悲しいこと、苦しいこと。それ以上に楽しいこともいっぱいあった」

 

 

 紫は、思い返すようにこれまでのことを振り返る。

 紫の生活は、少年が来る前と来た後とで大きく変わっている。

 早起きができるようになった。

 料理ができるようになった。

 よく笑うようになった。

 紫だけではなく藍も大きく変わった。

 そんな紫と藍の変化は、間違いなく少年がもたらしたものである。

 紫は、責めるように少年に告げた。

 

 

「私達はこの2年で大きな変化を遂げたわ。和友、貴方の責任よ。全部貴方が起こした変化よ」

 

「それについては悪いと思っているよ。だから、全部が終わるときには綺麗に終われるように努力する。僕の影響が無かったころの元通りに……」

 

「元通りにする必要はないわ」

 

 

 少年の言葉を遮るように紫の言葉が割って入った。

 昔よりも今が良い。今の環境の方が昔に比べて楽しい。それが作られたものであったとしても、自然にできたものでなくとも―――今の方がいい。

 

 

「和友が来てから良いことも沢山あった。早起きができるようになったし、料理もできるようになった。何より、毎日が楽しかったわ」

 

 

 少年が幻想郷に来なければ、今のマヨヒガでの生活はあり得ない。変化を与えたのは間違いなく少年である。少年の存在がマヨヒガでの紫の生活に多大な影響を及ぼしている。

 

 

「それは私に限った話じゃない。藍も大きく変わったわ」

 

 

 そう、藍だって同じである。

 

 

「藍は昔よりも壁を作らず話せるようになった。私と言い合いもできるようになった。それだけでも、ものすごい変化よ」

 

 

 今のマヨヒガでの生活を続けていくためには少年の存在が欠かせない。言い過ぎでも何でもなく、少年がいなくては成り立たない生活になっている。

 

 

「貴方が全てを変えたのよ。今のこのマヨヒガでの生活は和友が作ったの。だから―――今の生活を維持するには和友の存在は必要不可欠。ただ、あくまでもそれは私たちの独りよがりの気持ち……和友が嫌だと言うのならもちろんその意見を尊重するわ」

 

 

 少年の存在が今のマヨヒガに必要だとしても、どれほど必要だとしても、少年にマヨヒガにいて欲しいと無理強いしてまで頼むことではない。なぜならば、今の生活を手放したくないという紫や藍の気持ちの中に少年の意志が入っていないのだから。

 問題は、少年自身がどうしたいのか、どうすべきだと考えているのかだ。

 決めるのは本人である少年である。少年の意志をないがしろにしてはならない。

 少年が必要だから。今の生活を続けていくために必要だから。

 変化したものを壊したくないから―――そう思っていた。

 だけど、紫は言葉を口にしている途中で自分の中の素直な気持ちに気付いた。

 

 

「いいえ、違うわね……」

 

 

 本当に和友に言いたいのは

 元通りにして欲しくない理由は

 今の生活に必要だから? 

 藍が変わった原因だから? 

 これまでの生活を変えてくれた功労者だから? 

 ―――違うでしょう。

 そんな面倒な理由なんて後付けもいいところ。

 私の気持ちはもっと素直に叫んでいた。

 

 

「何を言ったところでそれは取り繕ったものでしかないわ」

 

 

 そんな小難しい理由ではないはずだ。

 もっと単純な想い。

 もっと簡単な、誰もが持っている気持ち。

 紫は、少し儚げな笑顔を作った。

 

 

「一番重要なのは、今の生活が楽しいからこのままがいいということだけ。私は、和友と一緒にこのままマヨヒガで生活したい。今のこの生活が大切だから和友と一緒にいたい。家族として一緒にいたい」

 

 

 紫は、大切なものを―――愛しいものを口にするように優しい声で言った。

 

 

「たったそれだけ―――そんな簡単な想いがあるからよ。そんな普通に想うような、どうでもいいような大切があるから―――手放したくないの、抱きしめていたいのよ」

 

「僕が何も悪い影響を与えていないと言えば嘘になる。それでも、そうやって言ってくれると救われるような気分だよ」

 

 

 少年は、紫の言葉に嬉しそうに笑みを浮かべる。

 変化―――変わること。

 それに善いも悪いもない。善いものもあれば、悪いものもある。当然、少年が紫や藍に対して悪い影響を一切与えていないというわけではないだろう。

 藍は心配性の程度が酷くなり、少年に依存している。精神的な異常を抱えることになった。

 紫に対しても藍程とは言わないまでも、影響がないとは言えないはずである。それは紫も知るところのはずだ。

 だけど、紫は自らが受けている影響、藍が受けている影響を考慮しても、少年がマヨヒガに来てくれて善かったと言ってくれている。それは、少年にとって何よりも嬉しい言葉だった。

 紫は、少しばかり悪戯心を見せるような表情で少年に問いかけた。

 

 

「和友は嫌なのでしょう? 自分が引き起こした善い結果を全て無かったことに変えてしまうことが。全部が全部、何もかもなくなってしまうことが。特に貴方の場合はずっと我慢してきた。ずっと耐えてきた。それなのに、人生が終わるときに自分の存在を消すようなことをしなければならないような状況に陥っている」

 

 

 紫は、人間ならば誰もが思うはずである、自分の生きていた証を、自分が起こした変化を無かったことにはしたくないという想い―――それを人間である少年が考えていないわけがないと思った。特に少年の場合は、その傾向が顕著になるはずだと思っていた。

 少年は、これまで自分を殺してきたような人生を送っている。自らの存在を隠し続けながら人生を送ってきている。そんな少年に死ぬ時まで何も残すな、何も見せるなというのは酷だろう。

 紫は、少年の気持ちの核心に迫る言葉を口にする。

 

 

「和友は、最後の最後まで生きてきた証を何一つ残せないことが怖いのでしょう?」

 

「紫……」

 

 

 どうしてこんなことになってしまったのかしら。

 どうして和友はこんなにも可哀想なのかしら。

 私がこんなことを言ったら和友は怒るでしょうね。

 そんなことないって、強がってしまうでしょうね。

 だから、心の中だけで言わせてもらうわ。

 きっとそれも伝わってしまうでしょうけど。

 相手の心に機敏な和友は、察してしまうのでしょうけど。

 それでも、和友が言わないから私が言うの。

 貴方が何もかもを抱えてしまっているから。

 苦しいくせに吐き出そうとしないから。

 私が重さに押しつぶされそうな貴方の手を取ってあげるの。

 

 和友が背負っている荷物を代わりに背負ってあげるなんて口が裂けても言わないわ。

 それは和友の抱えるべきもの。

 和友が抱えるって決めたものだもの。

 私がやるべきことは、手を引いてあげること。

 苦しんでいる貴方のために、言ってあげること。

 抑え込んでいる貴方の代わりに―――伝えること。

 

 和友は―――可哀想な子よ。

 文字通り必死の努力をしてきたのに。

 いつだって皆を大切にしてきたのに。

 誰よりも生きるのに一生懸命なのに。

 誰よりも忘れられることを恐れているのに。

 死ぬ時まで何も残らないなんて。

 生きていた証が何もないなんて。

 何も残ることがないなんて。

 誰も―――覚えていてくれないなんて。

 そんなの不公平でしょう。

 和友は、いつだって覚えてくれたのに。

 あんなに努力をして、書いて、覚えてくれていたのに。

 私達が覚えていてあげないなんて不公平でしょう。

 それは和友に対する裏切りよ。

 

 ねぇ―――そうでしょう?

 貴方の心を教えて。

 貴方の素直な気持ちを伝えて。

 和友の本当の想いを見せて。

 私は、和友の正面でいつまでも待っているわ。

 その歪んだ口が言葉を吐き出すのを、いつまでだって待っているから。

 泣いている和友の前で、ずっと待っているから。

 

 紫は、振り向いて少年の目を見つめる。

 少年の瞳は酷く潤んで、今にも涙が零れそうだった。少年は必死に言葉を吐き出そうと声を漏らすが、口からは何も出てこようとしない。まだ怖がっているのだろうか。言ってしまうことが許されることなのか不安なのだろうか。

 口元を震わせている少年の目の前で、紫は相対している。決して目を逸らさず、真正面から少年を受け入れる体勢を取っている。

 

 

「間違った感情ではないわ。死ぬ前に何かを残したいという気持ちは、本能ともいうべき根源にある感情よ」

 

 

 紫は、何も言い出さない少年に容赦なく現実を突き付ける。逃げることの出来ない少年に向かうべき道を指し示す。真剣な表情で少年に未来を提示した。

 

 

「ただ、貴方が死んだ時に皆が前を向けるようにだけはしなければならないわ。皆を引きずるようなことだけはあってはならない」

 

 

 少年が引き起こすだろう問題は、幻想郷に大きなダメージを残す可能性を秘めている。精神に重きが置かれている妖怪に与える少年の影響力は、凄まじいものがある。

 少年が死んだときにどんなことが起こるのか想像したくもない。暴動が起きるのか、追って死ぬ者が出てくるのか、精神が崩壊するのか、考えられる幅が広すぎて、起こりうる可能性が大きすぎて、想像さえもしたくなかった。

 だからこそ―――覚悟しなければならない。紫のように踏ん切りをつけることができるだけの距離を保たなければならないのである。

 

 

「私は、貴方が死んだときに折り合いをつける心の余裕ができているから大丈夫よ。距離を見誤ったりしないし、適度な距離を保っていられるわ」

 

 

 覚悟を決めている者ならば、辛くとも耐えられる。少年が死んだ時のダメージを最小限に落とすことができる。

 一番ダメージを食らうのは、前触れもなく少年が死んだ場合である。死んだことが頭の中に残らず、まだどこかで生きているのではないかと思ってしまうパターンが一番辛い。

 死んだ者は永久に戻ってこない。いくら願っても叶わない願いである。だから覚悟しなければならない。覚悟をすることで受ける精神的なダメージを最小限に抑えなければならない。そんな未来の方向に進まなければならなかった。

 

 

 

「けれども、藍は完全に貴方を手放せなくなっている。貴方の精神に完全に寄りかかってしまっている。今の状態で貴方を失ってしまえば、どうなるか分からないわ」

 

 

 藍は、一度少年を失いそうになった反動もあって、幻想郷内で最も依存している人物である。

 今少年を失ってしまえば、どうなってしまうか分からない。少年が埋めている部分が剥がれ落ちて廃人になるのか、それとも少年と共に死んでしまうのか、少なくとも良い方向に行かないのは確かだった。

 

 

「妖怪が人間にここまで依存するなんて、普通じゃありえないから想定もしていなかったわ」

 

「そうなんだよね」

 

 

 普通ならば、妖怪が人間に対してここまで依存することはない。それは、人間と妖怪では寿命が大きく違うため、どうしても深く入りこめないからである。

 失ってしまうと分かっているから深追いできなくなる。悲しむことが分かっているから、別れが来ることを知っているから付き合いが浅くなる。妖怪は、仲が深くなることが無いように―――そんなことが無いように制御されている。本能がそれを許さない。自己防衛本能がそうしているはずだった。

 しかし、現実に藍は少年に依存している。それこそ、べったりというほどに少年にくっついている。

 藍がここまで少年に依存してしまったのには大きな理由がある。

 少年が藍に対して優しかったからとか。

 藍と少年の波長が合っていたからとか。

 藍がこれまで少年のようなタイプと接してこなかったからとか。

 そんな単純なものではない理由があった。

 少年は、藍が極度に少年に依存する原因となっている要因を口にする。

 

 

「僕の境界を曖昧にする能力に限った話だったら練習して制御できるようになれば何とかなったんだけど……これまでに広がってしまった心の大きさばっかりはどうしようもないよ。質量を持った心は小さくなったりしない」

 

「私も貴方の心の中に入った時に気付くべきだったわ……あの時に気付いていれば、もうちょっと何かできたと思うのだけど……」

 

「例えあの時に気付いていたとしても何も変わらなかったと思うよ。何かをしたところで、少しばかり状況の変化が緩やかになっただけだ。僕が走るのを止めない以上、こうなることは避けられなかったと思う」

 

 

 少年は、紫の後悔するような言葉に首を横に振った。

 例え紫が気付いていたとしても、最終到達地点はきっと変わらない。マラソンに決まったゴールがあるように、歩く先に目的地がある様に、最終地点は何も変わらない。ゴールに辿り着くまでの手段が違うだけだ。車で行くか、走って行くか、歩いて行くかだけ、到達する速度しか変わらない。

 少年は、手段が何であれ進み続けているのだから、膝を折ることなくひたすらに前に進んでいるのだから、いずれ必ず終着地点に辿り着く。絶対に辿り着くことになる。

 

 

「僕も、八意先生から聞かされて驚いたよ。でも、しっくりきた。ああ、やっぱり原因があったんだなって安心した。僕のこれまでは、きっと間違っていなかったんだなと思えて少しだけ安心したよ。この生き方をしていなかったら、もっと後悔することになったに違いなかったから」

 

 

 永遠亭にて八意永琳に異常の原因を示唆された時は、酷く安心した。原因不明というわけでもなく、空気のように存在する知覚できない要因が判明し、驚きと同時に安堵した。

 これまでの外の世界での生き方は間違っていなかったのだ。そして、幻想郷に来てからの生活が間違いだったのだ。少年は悟った。そして同時に、自分の幻想郷での在り方が―――藍の今の状態に帰結していたのだと理解した。

 

 

「けれど、幻想郷のみんなには悪いことをしたね。妖怪と人間は違うっていろんな人から聞いたけど、やっぱり人間と妖怪に違いなんてなかったんだって気付くまでに随分と時間がかかった」

 

 

 藍は言った―――妖怪と人間は違うと。

 少年の中では妖怪と人間は一緒のものだったが、何も変わらない同じものだったが、その時の藍の「妖怪と人間は違う」という言葉を鵜呑みにした。鵜呑みにして、人間と妖怪を同じくくりではなく、違うものと認識してきた。

 だが―――どうやらその認識は間違っていたようだ。

 やっぱり、一緒だったのだ。

 妖怪だから大丈夫なんてない。

 妖怪は人間と違うから大丈夫なんて嘘だ。

 やはり妖怪も人間と変わらないのだ。

 そんなことを半年前にようやく遅れて理解した。

 永琳が出した答えでやっとのこと把握した。

 

 

「八意先生にもうちょっと早く会えていればよかった」

 

「私も話を聞かされた時は驚いたわ。まさか、貴方の心に万有引力があるなんて思いもしなかったもの」

 

 

 紫は、少年の心の中に万有引力があると言う。

 八意永琳は、他者に起こる依存の原因が万有引力によるものだということにいち早く気付いた。少年と出会い、藍と紫の様子を見て、少年の話を聞いて、そして自分自身の心の動きを感じて導き出した。

 紫は、少年の心の中に侵入した時のことを思い返す。

 

 

「でも、言われてみれば思い当たる節はいくつかあったわ。心の中という精神世界に本来あるはずのない重力があった時点で気付くべきだったのよ。私達の心が、貴方の心に引っ張られているってことをね」

 

 

 紫の言うように、少年の心の中では重力が働いていた。地球上にいるような重力が感じられた。

 心の中というのは精神世界である。一般的な精神世界は、質量が小さいため浮くことができる。ふわふわ浮いている、心の中はいつだって無重力に近い状態だ。何にも縛られていない。行きたいところがあれば、そこまで飛ぶことができる。ワープだってできる。

 精神世界とは思考が全てを左右する、思い込みが全てを凌駕する世界である。無重力の宇宙を漂っているようなもの。飛べると思えば、飛べる世界だ。

 しかし、少年の心の中は飛ぶどころか能力さえも使えない世界だった。

 飛べないだけならまだ少年のルールに従っているためだといえる。能力が使えないのも同様だ。

 だが、精神世界に重力があるのは飛べないことや能力が使用できないのとはわけが違う。

 人の心の大きさは約1部屋分である。個人差はあるもののそんなものだ。この部屋の中にいる人間にかかる重さというのは、万有引力の法則にのっとってざっと計算すると数グラムあるかというところである。

 このように精神世界には本来重さがほとんどない。質量が小さすぎて万有引力が働かない。当然、地球のような重力が働くわけがないのである。

 想像しにくい人はこう考えればいい。外に出てビルに引き寄せられる力を考えれば、ほとんどないことが理解できるはずである。

 だが、現実に少年の心の中には重力があった。重力があるというのは、そこに引っ張っている力が働いているためだと―――八意永琳は読んだ。

 

 

「八意先生が説明してくれたけど、万有引力って質量を持つ者同士が引き合う力のことなんだよね」

 

「そうよ」

 

 

 紫は、一言で少年の言葉を肯定すると万有引力についての説明を始めた。

 

 

「万有引力の力は、両方の物質に同じ大きさでかかる引き合う力のことよ。距離の二乗に反比例して力の大きさが変わるから、近づけば近づくほど引き合う力は大きくなる。ちょうど磁石のS極とN極を近づけたときと同じような力ね」

 

 

 万有引力というのは、質量を持つもの同士が引き合う力のことである。地球が太陽の周りをまわっているのは、この万有引力の力によるものである。もちろん地球を旋回している月も同じだ。

 同じような力で言えば、磁力による力がある。小学生の時に棒磁石を鉄にくっつけたことがなかっただろうか。あるいは、棒磁石同士をくっつける機会はなかっただろうか。磁力も距離の二乗に反比例して強くなる。くっついた瞬間に最も強い力が働く。万有引力も磁力と同じ性質を持った力である。

 

 

「庭にあったリンゴの木からリンゴが一つ落ちた。そんなものを見てよく気付いたと称賛するわ。地球とリンゴの間に万有引力の法則が成り立っているなんて普通思わないもの」

 

 

 万有引力の逸話として有名な話がある。ニュートンがリンゴが落ちるのを見て重力の存在を感覚的に理解したという有名な話があるのは、みんなが知っていることだろう。

 

 

「空にはきっと人を惹きつけるものがあったのね。色が変わり、星が動き、光輝く空には、見る人の望みがあったのでしょう。長きにわたる天体観測から人類が導き出した方程式、それが―――万有引力の法則」

 

 

 天体観測による天体の動きをデータ化して、その動きに引力が働いていることを理解する。万有引力の法則の成り立ちには、途方もないほどの先人の積み立てたデータが大いに関係している。星を見上げる人がいなければ、万有引力は発見されなかったはずである。

 

 

「そして、万有引力で大事なのは相互に力が働いているということ。庭に植えてあったリンゴの木から落ちたリンゴだって、地球を引っ張っているということ」

 

 

 そして万有引力発見の話で肝となるところは―――リンゴが一方的に地球に引き付けられているように見えるという点である。実際には両者ともに引っ張られている力なのだが、同じ力で引っ張られているのだが―――リンゴだけが動いているように見えるという事実がこの話の大事なところだ。

 

 

「私達は木にぶら下がっているリンゴで、和友は地球。地球ほどの大きさを持つ貴方の精神にとってはあるかないか分からない程度の力でしょうけど、リンゴから見ればものすごい力で引きつけられることになるわ。それこそ、元の居場所であったリンゴの木から落ちるみたいにね」

 

「実際に僕が地球に立っていて、地球に引っ張られる力は相当なものがあるけど、地球が僕に引っ張られることは無いもんね」

 

「冗談抜きで……私達と和友は、人間と地球の関係よね」

 

 

 万有引力の力は相互に働く力であるため、リンゴに地球も引き寄せられているわけなのだが、その力の相対値には遥かな開きが存在する。絶対値は一緒だが、感じる力の程度に明確な差がある。綱引きで車を動かすのと、人を動かすのでどちらが動きやすいかという話と同じだ。

 地球は外部のものに引き寄せられて動くことはほとんどないと言っていい。それこそ、太陽系の惑星クラスの大きさが必要になる。地球が太陽を中心に回っているのは、太陽が地球に比べて遥かに大きく重いために万有引力で振り回されているからだ。

 つまり、地球を動かすにはそれと同等かそれ以上のものを持ってくる必要がある。

 少年の心の大きさは、おおよそ地球ほどの大きさがある。地球クラスの心を持っている少年の心を動かす、引きずられないように振り回すにはそれ以上の大きさを持たなければならない。

 そんなもの―――精神世界上にありはしない。

 少年の心とそれ以外の心の関係は、まさしく地球と人間のような関係だった。

 

 

「人の心は普通、一部屋分ほどの大きさ。そんな小さな隕石が宇宙を漂っている」

 

 

 精神は、宇宙を浮いている星のようなものである。大きさは人それぞれで、平均すると8畳の部屋ぐらいの大きさだ。一部屋分である。質量にして1トン(=1000 kg)あるかどうかというところだろう。

 小さな部屋である星は、宇宙空間を自由に飛び回っている。ふわふわと飛んでいる。

 

 

「小さな隕石(精神)は、宇宙空間を漂っている別の隕石(精神)と万有引力の力を受けて相互作用している。引き合い、受け合い、ある速度をもって宇宙を漂っている」

 

 

 精神という名の星には、質量があるため必ず万有引力が働く。

 

 

「距離が近くなるほど強くなる引き合う力は、最終的に隕石同士を接触させる。一度傾いた力は、外部からの影響を受けない限り止まらない」

 

 

 宇宙空間を漂っている精神は、質量の持った他の精神とほどほどに引き合い、軌道を変えて進んで行く。距離が近くなれば、近くなるほどに引き合う力は大きくなる。

 分かりにくい人は、磁石で考えればいい。磁力も万有引力と同じ距離の二乗の関数で支配されている。

 一度心を近づけることを知ってしまえば、心を預けることの心地好さを知ってしまえば、気持ちが一気に近づいていくのと同じである。

 外の人間が静止をかけない限り、近づく速度は変わらない。外部からの別の力が働かなければ、決して逃れることはできない。

 

 

「懐の大きい人間が好かれるとはよく言ったものよね。それは精神的に引っ張られているだけなのに。まぁそれも良さの一つなのでしょうけど」

 

 

 万有引力の力―――引かれ合う力は、質量が大きければ大きいほどに強くなる。

 精神は、心が広い人に人が集まるというように、心の大きな人物に向かって引かれる。最終的に最も安定する相手を探し、'惹かれ合い'、接触して部屋の一部を共有したり、偶に他の力に引っ張られて離れることがあったりする。それが精神の在るべき世界である。

 そして、ここで問題になるのは―――少年の心の大きさだ。

 

 

「貴方のは大きすぎたのよ。能力を外に出さないようにと努力してきただけなのに、その結果がこれでは……どうしようもないわ」

 

 

 先程も言ったように少年の心は地球ほどに大きい。

 地球の質量はおおよそ6×1000000000000000000000000 kgである。先程の8畳間(1000 kg)と比較すればその大きさの度合いがよく分かるだろう。

 少年の周りの人間の心は、ほぼ例外なく少年の心と引き合って少年の心に寄り添うように接触する。人間が地球の上に立っているように着地する。これが、周りの人間が少年に心を寄せる原因で、周りの人間が少年に惹かれる原因だった。

 しかし、惹かれるだけの精神だったならば、まだ良かったかもしれない。精神は接触し、衝突が起こると非弾性衝突が起こるため、弾かれるのである。

 ボールが地面とぶつかった時を想像すれば分かりやすい。ボールは速度を持って地面と接触した際、反発を起こし、跳ね返って来る。精神でも同じことが起こる。精神同士の相性で反発の具合は変化する。

 

 

「衝突した隕石同士は非弾性衝突が起こるのだけど、精神は硬質なものと軟質なものがあるから、反発するかどうかはその精神次第なのよね。相性みたいなものよ」

 

 

 しかし、少年の精神の性質は―――。

 

 

「貴方のは思いっきり軟性よね。吸着するように、スポンジのようにくっつくような軟性。クッションのような性質を持っている。最近はそうでもないみたいだけど」

 

 

 少年の心に初めて入った時は、少年が二人のことを警戒していたこともあり、仮面をかぶっていたこともあり、精神が比較的硬質なものだったが、それも最初だけだ。

 幻想郷で暮らしている間は、誰でも受け入れるような軟らかい心を持っていた。軟らかい心が相手を受け止める要因になっていた。誰にでも軟らかい精神で接していたことが誰彼構わず引き寄せる原因になっていた。

 

 

「一度貴方の心と接触した精神は、生半可な力では宇宙空間へと脱出できないわ」

 

 

 精神がくっついた状態から再び飛び立つためには、相当な労力が必要となる。他の精神からの力を受けてもなかなか離れることができなくなる。

 距離が近い方が強くなる力で、引き離さなければならない相手は地球クラスの精神の大きさである。人間が宇宙空間に飛び立つのにどれほどのエネルギーと労力が必要になるのかを考えればよく分かるだろう。

 

 

「再び宇宙空間に飛び出すためには―――少なくとも第一宇宙速度に至る必要がある。けれど、宇宙に出るために必要なエネルギーを何処から供給できるのかが問題なのよ」

 

 

 第一宇宙速度は、衛星軌道をとるために必要な速度のことである。ちょうど、地球にとっての月みたいなものだ。今現在その状態にあるのが紫である。

 紫は、少年の周りを衛星が飛ぶように飛行している。決して近づかず、一定の距離を保っている。

 そこからさらに、影響を受けないレベル―――宇宙空間に飛び出るためには第二宇宙速度が必要なる。

 第二宇宙速度は、宇宙空間へと飛び出すために必要な速度なのだが、少年の影響力を小さくするには最低でも第一宇宙速度を得るためのエネルギーが必要である。

 そんなもの手に入れられるはずがない―――紫は冗談交じりに笑顔を作った。

 

 

「そんな膨大なエネルギー……どこから得るっていうのかしらね?」

 

 

 一度不時着したら飛び立つためのエネルギーを得られず、二度と飛び立てない―――少年に依存し離れることができなくなる原因である。今の少年と周りの状態は、まさしくその状態であった。

 

 

「結局、みんな和友に寄りかかるようになってしまった。それは、寄りかかって安定していてとても楽な状態だからよ。力がかかって動かない状態の方が精神にとっては居心地がいいから……」

 

 

 紫は、声のトーンを落としながらスキマの奥からピンポン玉ぐらいの大きさのボールを一つ取り出す。そして、妖力でピンポン玉が落ちない程度の穴を開けた板を作り出した。

 

 

「ボールが精神だとすると、平らな板の上でちょっとした外乱で動いてしまうよりも、風なんかでフラフラする状態よりもちょうどいい穴に入って動かない方が、気持ちが楽なのよね」

 

 

 紫は、板の上にボールを置き転がす。

 ボールはころころと転がり、穴にすっぽりとはまった。

 

 

「それが―――安定した状態だから。精神も自然界と同じように、最終的には最も安定な状態に行き着く」

 

 

 自然界は、もっとも安定な方向に進んで行く。決して不安定な状態を善しとはしない。熱い空気と冷たい空気を同じ部屋に作れば、必ず熱平衡状態になるために空気は移動を始める。そして―――最終的には両者の間の温度を取るはずである。

 

 

「特に和友から大きな影響を受けているのは、自然そのものである妖精よね。妖精は、自分で考えてどうこうするということができないから自然と貴方の方に寄りかかってくる」

 

 

 安定状態に移るという事象を最も顕著に表していたのは、妖精の存在だろう。

 妖精は、自然の権化である。妖精には、紫のような妖怪や少年のような人間と違い、自我がほとんど無い。紫や少年のように自我がある場合、故意に近づかないように努力すれば必要以上に引きつけられずに済む。自制をかければ何とか操縦ができる。

 だから少年は外の世界で心の距離を常に3歩以上離れるように努力していたし、紫は少年の心に極力近づかないような努力をしていた。

 しかし、妖精はそんなわけにはいかない。妖精には、自意識を操縦できるだけの自我が無いのだから。

 妖精が少年に寄ってくる理由は、少年の心に惹きつけられることが原因である。自然界が平衡状態を作るように、抵抗することなく勢いよくくっつき、少年と世界の一部を共有するのだ。

 

 

「そして、貴方に触れて自我を形成する。貴方の世界の一部を共有して世界を広げる。言葉を覚えて意志を示す」

 

 

 心に何も持っていない妖精が少年の部屋に入り込む。持ち物を共有する。それによって少年とよく似た自我を形成した。

 

 

「だからこそ―――妖精は藍に立ち向かった」

 

 

 それが藍と共に人里に行った時に起こった妖精の急変の原因である。

 少年は、紫の言葉に一度だけ頷き、理解を示すと同時に自分が後二年で死んでしまうことについて口にした。

 

 

「でも、僕はこの先長くない。紫、急によりどころが消えると……」

 

「落ちるしかないわね」

 

 

 紫は、少年の言葉に追随するように妖力で作った板を消し去る。

 板の上に乗っていたボールは、重力に従って畳の上に落ちた。

 

 

「寄りかかっている力に比例して無くなった時の衝撃は大きくなるわ」

 

「…………」

 

 

 少年は、何も言うことができずに黙りこくる。自分が死んだ時のことを想像すると自然と口が重くなった。

 少年の死は、腰かけ椅子の腰かけがいきなり壊れるようなものなのである。預けられている体重に比例して、その衝撃が大きくなることは容易に想像できる。今受けている力に比例して、ダメージが大きくなることは考えなくても分かった。

 

 

「さぁ、和友。貴方はどうするのかしら?」

 

 

 少年の進むべき道は示されている。

 向かわなければならない方角は目に見えている。

 しかし、足は目的を失ったように動こうとはしなかった。

 向かうべき未来が見えているのに心は動こうとしなかった。

 

 

 提示された道には―――肝心の歩き方が示されていなかった。




万有引力の法則の逸話は、非常に好きな話の一つです。
本当のことなのかどうかは分かりかねますが―――それもまた味のある話だと思います。

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