少年は、流れ出る涙を拭いて藍の部屋を出ると次の目的地へと足を進めていた。
少年には、藍を寝かせた後にもまだやることがあった。
藍の部屋の次は―――紫の部屋である。
「次は、紫の所か……」
少年は、ノックをすることも声をかけることもなく、紫の部屋のふすまを開ける。少年の視界は、部屋の中を見渡すように広がった。
部屋の中央で紫が背を向けているのが確認できる。
紫は、少年がやってくるのを静かに待っていたようだった。
(やっぱり、待っていたんだね)
少年は、無言のまま反応を見せない紫の後ろに座り、紫の側に置いてある櫛を手に取るといつも行っている動作に移った。
(風に流すように、自然に任せるように、力を入れずに梳かす)
左手で紫の髪をすくいとり、髪を梳く。
紫の髪を梳くのは、少年の日課の一つである。
どこか既視感を覚えている人もいるかもしれないが、これは藍の毛づくろいと同じような行為に当たる。そして、藍の毛づくろいが始まった時と大体同時期に始まった日課ともいうべき習慣の一つだった。
(紫の髪を梳かしだしたのは藍の毛づくろいが始まってからだから……もう、やり始めて1年半になるのかな)
少年の手は、すでに慣れた手つきで迷うことを知らない。
なぜこんなことが始まったのか。もともとこんなことを始めた理由は、些細な紫の一言からだった。
「毛づくろいをしてもらうというのは、眠ってしまうほどに気持ちのいいものなのかしら?」
「どうなんだろうね。それは藍にしか分からないよ。僕はあくまでしている側であって、されている側じゃないからね。藍に聞けば分かるんじゃないかな?」
藍が寝てしまうなんて―――それほどに気持ちがいいものなのだろうか。紫は、湧きだした疑問を解消したかった。
ただ、紫には尻尾のようなものはない。だったら髪の毛でも梳かしてもらおうかと、少年に髪を梳くようにお願いした。それが事の始まりである。
少年は、先程藍の部屋で暗くなった気持ちを微塵も出さず、紫の髪を梳かしながら楽しそうに声を上げた。
「そういえばさ、毎日こうやって梳いていて不思議に思ったことなんだけど、紫の髪って伸び続けているの? 毎日やっているけどあんまり変わっていない気がしてさ」
少年は、気持ちのスイッチを完全に切り替えていた。
ONからOFFに、正から負に。少年は、楽しそうに紫の髪の毛について疑問を口にする。
紫の髪の毛は、少年の知るところ―――2年前から何も変わっていない。長さも質感も、何も変わっていなかった。
「髪を切った覚えは全くないから……髪の長さは生まれた時から変わってないと思うわ」
「へぇ、そうなんだ。だったら髪を切ったらどうなるの? また伸びてくるのかな? それとも切れたままなのかな?」
「多分だけど、もともとの長さまで伸びるだけだと思うわよ。切れたことなんて無いから分からないけどね」
紫の話によると、紫の髪の毛は形状記憶されているということのようである。
妖怪の髪の毛は、ある一定の長さになるように固定されていると考えてもいいのだろうか。それとも、あくまで紫だけなのだろうか。
形状記憶されていると考えると、ふと不思議に思う。それは、別に手入れをしなくても、何も変わらないのではないだろうかという疑問である。
少年は、そんな疑問を抱えながら紫の髪の毛を一本一本綺麗に梳いていく。もともとする必要もないように綺麗に流れる髪の毛を、優しく撫でるようにして整えていく。
少年は、結局沸き立つ疑問を抑えきれず、口に出した。
「それなら僕が髪を梳いている理由って特にない気がするね。手当てしてもしなくてもあんまり変わらないみたいだし」
「私の気持ちがいいからいいのよ」
「……ふふっ、藍に今の状況を見せたら冗談じゃ済まないよね。藍、怒っちゃうよ?」
藍は、今日の朝に毛づくろいについて紫から釘を刺されている。
しかし―――注意をした当の紫は、藍と同じように少年に髪を梳いてもらっている。藍と紫の状況にそこまでの大差はないだろう。藍に注意をしておきながら、自分は大丈夫だというのは一体どういうことだろうか。これでは藍に対して何も言えないのではないだろうか。
少年は、笑いをこらえながら藍の気持ちを代弁した。
「どうして私ばかり怒るのですか、紫様も和友に甘えているじゃないですかっ! ってね」
「和友が藍に口外しなければ、ばれることではないわ」
紫は全く悪びれる様子も無く、少しだけ口角を上げて言った。
紫は、藍に気付かれていないという絶対の自信があった。疑われる立場になく、現場を目撃することでしか紫の失態を確認することができない状況において、紫の優位性は変わらない。
そもそも紫の部屋に藍がやって来ることがほとんどないのだ。紫を呼ばなければならない状況が限りなく少ないというのもそうであるし、尋ねたところで紫が眠っていることが多いということもそうである。もちろん、部屋に来たところでいないということも訪れない理由の一つになっている。あまり動きを見せず、神出鬼没な動きを取っていた紫が部屋の中に閉じこもっていると考える方に無理があるのだ。訪れる機会は、全くないといっても過言ではなかった。
もしも、万が一藍が紫の部屋に来たとしても、それこそ境界操作で部屋の中を見えなくすることだってできる。藍が紫の行為を知覚できる日は、限りなく遠いといえた。
「藍は全くと言っていいほどこの部屋には来ないし……藍は、こういったことに疎いから」
紫は、そこまで言うと不敵な笑みを浮かべた。
「それに、朝の毛づくろいを見逃してあげているのだからお相子でしょう。私が藍に気を遣う必要なんて皆無よ」
「まぁ、そうだよね。納得はしなさそうだけど……」
紫の意見は、もっともなものである。
紫はあくまで藍に対して注意を行っただけで、今後一切止めろと言ったわけではない。藍の毛づくろいを認めている以上、紫の髪の手入れも止めろと言われる筋合いはなかった。
少年はそこまで喋ると途端に静かになり、口を固く閉ざす。
藍の毛づくろいに関しても―――自分の責任であるところが大きい。今日の妖怪の山での一件だけではなく、変化が起きているところはいたるところにあった。
(妖怪の山の件だけじゃない。藍がそうなってしまったのも、僕が原因の一因になっている)
少年は、今日の出来事について思いつめていた。妖怪の山での一件で、覚悟を決める必要があると感じていた。
もう―――幻想郷に来たばかりの時のような生活に戻ることはできない。全てをまっさらにでもしない限り、全てを無かったことにでもしない限り、元には戻らない。
なんとかしなきゃ、決断しなきゃ。
甘さが抜けていかない少年は、苦悩していた。
紫は、口を閉ざし黙った少年に対して優しく話しかける。
「和友は、少し考え過ぎなとこがあるわよね。もう少し自分本位になってもいいんじゃないかしら?」
フォローのつもりで言ったのだろう。
気を遣ったのつもりだったのだろう。
しかし、紫は言葉を口にした後、すぐに自分の言葉を訂正した。
「……と言っても、今の貴方には無理よね。貴方はきっと何を言っても何も変わらないわ」
「僕は、変われないね。僕は昔のように、知らなかった時のようにはなれない。きっとどう頑張っても変われないと思う……」
少年が変わらないということは、不変の定理であるような錯覚を覚えるほどに強固な決まり事のようであった。
少年は、一度自分の中で決めたことに対して曲げるようなことは絶対にしない。
少なくとも紫は、たった一度だけ曲げたあの時を除いて少年が意志を曲げるところを見たことが無かった。藍が少年に対して生きてほしいと言ったあの言葉以外は何一つ知らなかった。
「僕は、昔と同じように周りに悪い影響を与えないように生きていくしかないと思うから」
少年の言葉には、言葉の内容とは裏腹に暗さを感じない。いつもだったら感じる少年の感情の起伏が微塵も感じられなかった。
今日―――何かがあった。
紫は、感情が見て取れない少年の様子から悟った。今日何らかの現象に会って、心をきつく縛っているのだと思った。
「和友は、全部自分の責任だと思っているのでしょう?」
紫は、少年が一通りの意味でしかとれないように、少年がごまかさないように、真っすぐに質問を付きつける。少年が逃れることのできないように正面からぶつかりにかかった。
「これまで起こってきたことも、これから起こるであろうことも、みんな自分の責任だと思っているのでしょう?」
「事実、僕が全ての原因だ……僕が台風の中心点なんだから」
「…………」
紫は、少年の言葉を聞いて空気が固まった、世界が止まったような錯覚に陥った。
少年は、ここにきて今まで我慢してきた全てを吐きだそうとしている。今まではなんだかんだで口を閉ざしていた内容を、今までは一度たりとも話さなかった本音を、全て吐き出そうとしている。
ここが分岐点になる。
紫は、少年の意志を肌で感じ取っていた。
「僕みたいなどうしようもないやつが周りの大切な人間を駄目にしていると思うと罪悪感で押し潰されそうになる」
紫には、後ろにいる少年の顔を見ることはできない。
だが、心なしか少年が泣いているような気がした。
少年の声は、心の震えが大きくなるのに合わせるように振幅を増大させていく。
「両親が僕に死ぬなという決まり事を作らなければ、僕はとっくに死んでしまっている……約束がなければ、僕の人生は小学校で終わっていた……」
少年は鎖で雁字搦めの状態だった。決まり事という鎖によって指一本動かせる状況ではない。手も足も何一つ動かせない。
なのに、心臓は鼓動している。脳は、電気信号を巡らせている。
少年は―――生きることを‘義務’づけられていた。
「ただひたすらに我慢して、耐えて、生きている。他人が平然とできていることができなくて、思ったことを口に出せなくて……」
少年は、膝を折ることも許されず、ひたすら前に直進している。
動けない体で未来へと進んでいる。
それが、決まりだからという理由で。
それが、生きるために与えられたルールだからという理由で。
しかし、その少年を縛っている決まり事のおかげで、未来を、日常を、世界を生きていくことができているのも事実だ。少年の崩れる体を支えているのもまた決まり事なのである。
「でも、だからこそ僕は今を生きている」
「貴方は相手の気持ちを考えすぎよ。それが自分の首を絞めている結果に繋がっている」
きっと、少年が苦しんでいる原因は周りの人間にある―――紫はそう思っていた。
少年の意志は酷く強い。それはもはや歪に感じるほどに、不自然に思えるほどに強固である。
それほどまでに意志の強い少年が書き記す行為を辛いと思っているということはないだろう。これまでだってずっとやってきたのだ。仮に辛いと思っているにしても、自分自身のための書き記す行為が死にたくなるほどの―――最も辛いことではないと考えられた。
「普段貴方がしている書き記す行為は、貴方を苦しめる直接的な要因にはなっていないわよね。書き記す行為はあくまで貴方自身のためのものだから」
だったら考えられるのは、一つしかない。
自分自身が傷つけているのではなく、周りに集まって来る人間たちが少年を苦しめているのだ。
少年は、周りの人のために自分を傷つけているのである。
「貴方は、周りの人間に対して自分を犠牲にしすぎている。それが貴方自身を苦しめ、周りに余計な影響を与えているのでしょう?」
少年は、周りのために自分を犠牲にできる人間である。これまでの少年の言動や行動を思い出せば、そう思うのは当然だった。
そんな自己犠牲をもいとわない性格だからこそ、誰かのために自分を犠牲にできる人間だからこそ―――少年の近くに人が集まってくる。それが少年を苦しめている原因になっている。
「貴方が本当に悪い人ならば、きっと近づいてくることさえなかったでしょうに……」
少年が悪い人間であれば、少年の周りに人が集まることはなかった。そして―――少年を助けてあげようと、周りが働きかけることもなかった。
「貴方に救われた人間が多いから、貴方と一緒にいるのが好きな人間が多いから、周りの人間は貴方が困っていると貴方がどれだけ嫌がっても助けようとする。どうしようもない貴方のことを大事にしようと思ってしまう」
紫は、少年が苦しんでいる理由が少年の周りにいる人間が無意識のうちに少年を助けようとしてしまうことにあると思っていた。
具体的には、自分に危険や困難が迫った時、自分の事を周りの誰かが庇うということがもっとも嫌なのだと考えていた。
「それが、貴方を一番苦しめている原因よね」
「確かに僕は、自分が引き起こしている状況が気持ち悪くて仕方がないよ」
少年は、自分が起こしている状況を見ているのが苦痛だった。
自分の起こしている事の大きさに耐えられなかった。自分の周りが余りにも歪で、気持ちが悪くて、吐き気を覚えた。それこそ、死んでしまいたいぐらいには気持ち悪さが心を支配していた。
それは、まぎれもない事実である。
しかし―――少年を本当に苦しめているのは、そこではなかった。
「でも、一番かと言われると違うかな」
「違うの?」
少年は、別に周りの人間が自分を助けることについてどうこう思っているわけではない。
それは、多少なりと思うところはあるが、それは自分がどうにかすればどうにかなる問題である。困難に陥っていることを悟られなければいいだけ、危険に冒されていることを周りの人間に知られなければいいだけだ。
分からなければ、助けるも何もない。自分の努力次第で何とでもなる。
少年が苦しんでいるのは、そんなどうにでもなることではなく、どうにもならないことだった。
「紫、僕が一番嫌なのは、僕に向かい合ってくれる人がいないことだよ」
「向かい合ってくれる人がいない……?」
「僕に向かい合ってくれる人は誰もいない。みんな僕の隣にくる。僕の後ろにくる。みんな僕の顔を見てくれない。僕の気持ちと向かい合ってくれない。寄り添うようにくっ付いてくるだけだ」
紫の髪を梳いていた少年の手が止まる。
少年の気持ちに真っ向からぶつかってきてくれる人は誰もいなかった。誰もが少年の隣に並ぶ、後ろに退く。意見が飛び交うことは決してない。思いが交錯することは決してなく、心が交わることは絶対にありえない。
なぜならば、気持ちの交わしようがないのである。横にいる人間に対して何を言うというのか、交わすだけの理由も、交わすだけの意見も存在しない。意見を言っても、意志を告げても何の意味もない。
だって、同じものしか見えていないから。同じ方向しか見えていないから。同じ景色しか見えていないから。違う方向を見ようとしていないから。
少年が方向性を示せば、皆がそちらを向く。回れ右と号令がかかれば、皆が同じ方向転換を行う。これでは、全てが一方通行で終わってしまう。1人相撲で終わってしまう。
少年は―――それが酷く辛かった。
「そんなのは気持ちが悪いんだよ。誰からも好かれる人間なんて気持ち悪いでしょ? だって、誰かからも好かれる人間なんていうのは存在しないはずなんだよ」
皆が隣に来た。
歩く方向と同じ方向に向いていた。
いや―――その方向に向かせてしまった。
少年は、何をしても周りから好かれるような状況が気持ち悪くて仕方が無かった。少年が起こす行動に対して批判を言う人間が誰もいない状況に吐き気を覚えた。
いつだって。
どんなときだって。
障害なく意見がまかり通った。
「人間には好き嫌いがあるんだから、心があるんだから、ありえないんだよ」
余りにもすんなりと素通りされる。あたかも無視されているのではないかと思えるぐらいには、意見が一直線で実を結んでいく。
本来―――こんなことはあり得ない。
1対1ならばともかく十人十色という言葉があるように、人によって価値観が違うため、意見の衝突は避けられない。休み時間に何をするかという問いに対して、全員がサッカーを選ぶことなど本来ありえないのである。
「いくら大きなことを成し遂げても、大きな変化をもたらしても、それを望まない人がどこかにはいるはずなんだ」
少年が大きなことを成し遂げた優秀な人物であったとしても、どこかの国の大統領であっても、NOと言う人間はどこかにはいるはずである。満場一致はあり得ない。正論には反発が、そうでないならば正論が飛んでくる。
しかし―――少年がYESと言えば、YESになる。少年がNOと言えば、NOになる。
「でも、僕の周りには僕の味方しかいなくなる。それが気持ち悪いんだよ。全部偽物で、僕が作った都合のいいものに見えてしまう」
少年は、外の世界では嘘を塗りかためて生活していた。
能力についても、異常性についても、何一つ他人に向けて話せていない。知らなかったというのもあるが、異常だと思われるようなことを一切話すことなく生活を送ってきた。知られないように常にある程度の距離感を保ち、1歩どころか3歩ほど周りの人間から離れて生活してきた。
「みんなは、僕の本当の気持ちに気付いていない。気付こうともしていない」
周りの人間は、少年の本当の気持ちを察することが出来ず、勘違いをしているだけだ。嘘を張り付けた少年の側面と裏面を見ているだけ、正面から少年の心を見ようとしていない。
そして―――知らない間にまばらに立っていた人間たちは、少年の隣や後ろに来ている。
「僕がみんなに対して気付かせようとしていないからと言えば、それまでなんだけどね」
少年の周囲にいる人間は、少年の辛そうな顔を見ない。
見ないというか、見えない。
だから―――無意識に嘘をつくことが上手くなった。
だから―――周りの人間に対して明るく振舞うことを止めなかった。
「気付かせてしまえば空気が澱む。楽しそうに振る舞えば空気が弾む。だから僕は、嘘でも楽しそうにしなきゃならなかった。そして、それを誰にも知られちゃいけなかった」
自分が落ち込めば、沈んでいる様子を見せれば、それが感染するように周りの空気は悪くなる。どんよりと空気が淀んでしまう。
少年の立ち振る舞いや後ろ姿は、寄り添っている人物に影響を与えるのである。
少年は、嘘をついてでも明るく振舞う必要があった。
しかし、そんな少年の嘘を看破する者が現れたのである。
「でも、幻想郷にはいたんだよね。気付かれるまで1年近くかかったけど……それでも早い方だ」
幻想郷には少年と顔を合わせてくれる人物が、少年と目を合わせてくれる人物がいた。1年という時間はかかったが、これまで両親以外に誰もいなかったことを考えれば十分な早さだった。
「気付いたのは、転換期だったからだろうね。被っていると分かったのは、それまでの自由を縛って仮面を被ろうとしている僕を見たからだ。その時初めて境界線が引かれた。無理をしているって、辛いって判断されてしまった」
幻想郷で少年が仮面をかけていた期間は、実のところ短い。苦しめられていた原因が分かって周りが妖怪や普通でない人が多かったことから、素の自分というのを出すまでに時間がかからなかった。
「本当に嬉しかったなぁ。僕の両親だけじゃなくて僕の前に立ってくれる人が、僕をしっかりと叱ってくれる人が―――僕と向かい合って引っ張ってくれる人がいたんだって」
少年が仮面をつけていた期間は、幻想郷に来て1日目の時、そして病気になってから暫くしてからである。
2日目以降の少年が年相応に楽しそうにしていたのは、演技でもなく本心から来ているもの。
幻想郷初日と病気にかかった後を除けば―――ほぼ平常心で何も隠さずに暮らしていたといっても過言ではなかった。
「最初に気付いたのは、八意先生。そして、続いて紫が気付いてくれた」
だからこそ、仮面を外した少年本来の姿から仮面をつける移行期間にいた八意永琳が変化に気付いたのは、いわば必然と言える。永琳が少年の本心に気付くのを皮切りに、紫も少年の表情を見つめ始めたというのが事の流れだ。
「それが僕にはとても嬉しかった。親がもう一度できたような気持ちになったよ。気持ちが随分と楽になった。分かってくれる人がいるんだって、理解してくれる人がいるんだって」
少年の正面に立って泣きそうになっている少年の顔を直視して見てくれたのは二人だけだった。
少年に手を差し出してくれたのは、少年の手を引いてくれたのは―――二人だけだった。
「僕の未来を支えてくれる。僕を望んだ未来へ引っ張って行ってくれる。僕を理解してくれる人が出てきたんだって―――嬉しかった」
その導き手の先が―――終わりであったとしても。
終わり―――それで良かった。
それで十分だった。
何よりも―――それが良かった。
少年の未来は―――そこで決まったのだ。
「例え行く先が―――何も残らない無だとしても」
そうなった時に―――何も残らなかったとしても。
そうなることを―――何よりも望んだ。