ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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始まりの終わり、終わりの始まり

 少年は、妖怪の山で椛と会った後、人里で筆を受け取った。

 新しくなってしまった筆ではあったが、自然と手になじむようだった。そこはさすが筆を作り続けてきた職人ということなのだろう。まさに職人芸である。

 少年は、筆を受け取って少しばかり試し書きをした後、他に寄り道することも無く、真っ直ぐに帰宅した。

 マヨヒガでは、きっと藍が心配している。少年は、心残りになっていた藍のもとへと一刻も早く帰るためにできる限りの速度でマヨヒガへと帰った。

 

 

「ただいま」

 

 

 少年がマヨヒガの玄関を開けてただいまと一声発すると、足音が玄関へと近づいてくるのが聞こえてきた。

 いつもの通りである。いつ帰って来ても、何をしてきて帰ってこようとも、そこは変わることはない。そこに何一つ疑う余地はない。少年は、間違いなく藍が近付いてきていると予測した。

 少年は、廊下の先―――音が響いてくる方向へと視線を向ける。廊下の奥からは、少年の予想通りに藍が駆け付けてくるのが見えた。

 藍は、必死の形相で走りながら少年の名を叫ぶ。

 

 

「和友!! 無事かっ!? どこも怪我とかしていないよな?」

 

 

 藍は誰よりも速く少年を出迎えると、全身を見渡して怪我が無いことを確認し始める。少年の後ろにもぐるりと回り、背中に怪我を負っていないことを調べていく。

 これは本来はなかった動作である。いつもなら後ろ姿まで確認されることはないが、少年の外出が予定外のものでよほど心配だったのだろう。調べる動作が一つ増えていた。

 もしかしたら、昔から調べられていたのかもしれない。もしかしたら、廊下を歩いているときにでも確かめられていたのかもしれない。だけど、玄関先で調べられたのは初めてのことだった。

 藍は、少年の体を一通り調べると、少年が怪我を負っていないことに大きく息を吐き、安堵の表情を浮かべた。

 

 

「はぁ……良かった、怪我はしていないみたいだな」

 

「心配してくれてありがとう。でも、僕のことなら大丈夫だよ」

 

「だが、和友は人間だ。それについこの間まで病気だっただろう。大したことがなくても、知らず知らずに大きな負担になっているかもしれないではないか」

 

 

 

 普通の人間ならば―――ましてや年頃の少年ならば、藍のように過度に心配されるとうっとうしい気持ちが出てもおかしくはない。極度の心配性は行動を制限する。自由を求め出し、自我が強くなる少年の年齢からすれば面倒の一言を放り投げても何ら違和感はない状況だった。

 しかし、少年は決して心配する藍の行動を止めたり注意したりはしなかった。ここまで心配する藍を決して邪険に扱ったりしなかった。

 少年が藍の行動を止めることがなかったのは、少年が藍をいくら止めても怪我を負っているのか確認するのを止めないことを知っていたというのももちろんある。止めてと言ったところで何も変わらないのは目に見えているからという理由もある。

 ただ、止めない最たる理由は藍がこうなってしまった原因がどこにあるのか分かっていたからである。きっとそれは自分の責任だと、藍が心配する原因が他でもない自分自身の責任なのだと理解していたからだった。

 少年は、もはや形式化されたようなやり取りを何度も繰り返し、いつもと同じように藍を落ち着けようとした。

 

 

「僕は、なんともないからね。だからそんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 

「私は和友に何かあったら心配で……」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いてもそわそわと落ち着かない様子だった。まだ心のざわめきが収まらないようで伏し目がちに想いを訴えている。いつもと違う形での外出だったからだろうか、不安の溜まり方が違うようだ。

 

 

「またいきなり倒れてしまうことだってあるかもしれないだろう? あの時のように何の前触れもなく、唐突に……」

 

「今度は大丈夫だから。僕なら、もう大丈夫だからね」

 

 

 少年は、藍の変わらない様子に複雑な笑みを作る。しょうがないなという想いと、自分の責任でこうなってしまっているという罪悪感が心の中で渦巻いていた。

 藍は、心のざわつきが消えない気持ち悪さ抱えながら僅かに下を向く。やりすぎだという自覚はある。うっとおしくなるほどに構ってしまっていることも理解している。

 しかし、少年に何かがあったらと思うと気が気ではなかった。胸のざわつきが収まらず、心臓が激しく鼓動する。不安と恐怖が今にも襲い掛かって来る。自分の気持ちが抑えられない。やりすぎということをどこかで自覚しながらも少年を心配する気持ちを抑え込むことができなかった。

 少年は、表情を暗くする藍に向けて優しく表情をほころばせ、藍の名前を呼んだ。

 

 

「藍」

 

「和友、私は……」

 

 

 藍は、名前を呼ばれたことで視線を上げ、少年の瞳に引き込まれるように少年の目を見つめる。少年も視線を逸らさずにじっと藍を見定める。

 少年の瞳の中には、藍の姿が映っていた。

 藍は、少年の瞳に映る自分の存在を見ながら黙ったままその場で立ち尽くした。酷い顔をしている。なんて顔をしているんだ。そう思っても表情を変えられそうにない。表情筋は固まりきって歪んでしまっている。

 少年は、藍が自分へと意識を集中するのを把握すると会話に少しの間を持たせ、口を開いた。

 

 

「ただいま」

 

「……おかえり、和友」

 

 

 少年の一言が藍の心の中にすとんと落ちていく。藍の心の中からざわめきが消える。心の中の不安や怖れが一気に消滅する。そして、それを埋めるように温かい気持ちが湧きあがってきた。

 藍は落ち着きを取り戻し、自然な笑顔で少年を迎える。

 少年は一度頷いて玄関を上がると、藍と共に歩き出した。

 

 

「人里はどうだった?」

 

「そうだなぁ、相変わらずって感じだったかな。いつも通りの人里だったよ。一人で行っても二人で行っても人里自体は変わらないから」

 

「和友はいつも通りとは言うが、帰って来るのがずいぶんと遅くはないか? 何かあったのではないかと心配していたのだが……」

 

「病気になってからは行く機会があんまりなかったし、半年間分の話をしていたら遅れちゃって。それに筆の状態もあまり良くなかったから代わりにって、これができるまで待っていたんだよ」

 

 

 少年は、居間へと歩きながら今日の出来事を当たり障りの無いように話し、筆一本の店主に代わりに作ってもらった筆を手渡した。

 

 

「これは、新しい筆か?」

 

「そう、前のやつはもうガタがきているから駄目だって……また新しいのを作ってくれるってさ」

 

「そうなのか、店主も大変だな。次はもっといいものを作らなければならないと躍起になっていただろう?」

 

「うん。やる気でいっぱいだったよ」

 

 

 勿論のことながら、射命丸文と出会ったこと、妖怪の山へと出かけたこと、犬走椛と話したこと、そこで話した会話の内容は決して口には出さなかった。口に出してしまえば、藍に余計な心配をさせることになるし、ことの真実(病気のこと)を話す必要が出てくる。

 少年は、できるだけ話が逸れないように注意をし、少しだけ足早で居間へと向かう。

 その途中―――第三者の介入が発生した。

 

 

「和友~~おかえり~」

 

「橙、ただいま」

 

 

 正面からにこにこと尻尾を振りながら楽しそうに走ってきた橙は、少年を先導するように少年の前を歩き始める。少年の掌に、さらに小さな掌が重なった。

 橙は、特に急いでいる理由もないのに少年の手を引き、歩く速度を上げるよう促してくる。

 少年は、都合がいいと橙に合わせるようにさらに歩く速度を上げた。

 

 

「今日はどうだったの? 何か面白いものあった?」

 

「面白いものって……そうだな、茶屋の饅頭が美味かったかな」

 

「え~それだけなの?」

 

「それだけって。人里に行っただけなのに、そんな面白いことばかり起こらないよ」

 

「ふーん、面白くないなぁ」

 

「だったら今度は一緒に行こうか? 橙は、橙の面白いことを探した方がいいと思うよ。その方がきっと楽しいことが見つかるはずさ」

 

「え!? 連れて行ってくれるの!?」

 

 

 少年は、橙に対しても同様に妖怪の山でのことを話すことはなく、楽しかったことだけを話した。決して心に溜めこんだものを吐き出したりはしない。これを話してもいい相手は決まっている。少年の心の中に明確に区別されている。藍と橙には話せないことだった。

 

 

 橙は、少年の手を引いたまま左に曲がり、居間へと入る。少年は橙に引っ張られながら居間に入った。藍は、二人の様子を優しく見つめながら最後に居間へと足を踏み入れた。

 居間には、紫が一人でたたずんでいた。

 少年は、座って待っていた紫と視線を交わし、少しだけほほ笑む。紫は、笑みを浮かべる少年を受け入れるようにほほ笑み返し、少年の表情を見て何かを悟ったように優しい声で言葉を送った。

 

 

「おかえり、和友」

 

「ただいま、紫」

 

 

 少年がマヨヒガに帰ってきてからは、いつも通りの時間の流れだった。いつものように食事をして会話をし、時間を流す。ご飯を食べてお風呂に入る。

 

 そして―――夜がやってきた。

 

 空には綺麗な星空が見える―――そんな静かな夜だった。

 幻想郷は、外の世界と違って星がよく見える。空が澄んでいるからだろうか。見上げて数えれば、両手では数えきれないほどに光り輝いているのが確認できる。

 少年は、縁側で空に輝く星の光を見上げていた。

 

 

「そろそろ寝ましょうか」

 

 

 マヨヒガに住む4人は、紫の鶴の一声でそれぞれに動き出す。

 もう、眠る時間である。居間からは誰もいなくなり、各自が部屋の方へと移動する。

 4人は、次の日を迎えるために眠りに入ろうと、各自おやすみなさいの挨拶を交わした。

 

 

「「「「おやすみなさい」」」」

 

 

 挨拶を交わした4人は、それぞれに寝る準備に入る。

 進むべきは当たり前であるが自分の部屋である。紫は紫の部屋へ。藍は藍の部屋へ。橙は橙の部屋へ。

 そして―――少年は自分の部屋にはいなかった。

 

 

「おやすみ、今日もいい日だったね」

 

 

 現在、少年は全く明かりがない暗くなった部屋で座っている。響いている音は、少年の口から発せられる声がほとんどを占めている。辛うじてあるのは、外で虫たちが鳴いている音がいやに遠くに聞こえるだけである。

 少年には寝る前にしなければならないことがあった。皆が寝静まった夜に、誰も邪魔が入らなくなったその時に、しなければならないことがあった。少年がするべき、責任があった。

 それは少年にしかできないことで。

 少年がやらなければならないことだった。

 

 

「また明日、笑っていられるような日になるといいね」

 

「そうだな……明日も、その次も、ずっとずっと笑って過ごせるといいな」

 

 

 少年は‘藍の部屋’にいた。少年がやらなければならない夜の日課というのは、寝るときに藍の傍にいることである。

 藍はすでに布団に入って眠る態勢をとっている。

 少年は布団に横になっている藍の隣にちょこんと座っていた。

 

 

「大丈夫だよ。きっといい日になるから」

 

「…………」

 

 

 少年は、右手をちょっとばかり伸ばして顔だけ出している藍の頭を軽く撫でた。

 藍は、少年の撫でる手に気持ち良さそうにする。

 少年の優しい瞳が藍を見つめる。藍は、少年の視線を感じながら心を落ち着かせていった。

 暫くすると、撫でていた手が引っ込められて膝の上に置かれる。藍は、少年の手が離れるのを感じると目を閉じて眠る工程に入った。

 藍の視界は暗闇で閉ざされる。見えるのは瞼の裏だけ。もう視覚から何かを得ることはできない。視覚情報が遮断され、脳が休みに入る。

 目を閉じて―――数分が経った頃だろうか。

 藍は、寝苦しそうに体を回転させて少年がいるはずの方向を向いた。

 

 

「……和友、そこにいるよな?」

 

「僕はここにいるよ」

 

 

 うなされているのだろうか。悪夢でも見ているのだろうか。そもそも、眠ることができていないのだろうか。

 きっと、後者だろう。

 不安が、恐怖が、心を震わせている。

 目を覚ましたら変わっているかもしれない。

 無くなってしまうかもしれない。

 そんな恐怖が心を蝕んでいる。

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

 その震えを止めるのは―――いつだって少年だ。

 少年は布団の中に手を入れ、藍の手を探し出す。藍の手は、何かを求めるようにそっと少年の手を掴んだ。

 少年は藍の手を優しく握り返す。そして、語り掛けるように言葉を口にした。

 

 

「僕は……どこにも行ったりしないから」

 

 

 少年は藍の手を包み込むように、決して離さないというように両手で握る。

 与えられた温もりは、何よりも藍の心を安心させた。

 

 

「だから、藍は安心して眠って。明日も会えるから……僕は、ずっとここにいるからね」

 

「和友、ありがとう。おやすみなさい……」

 

「おやすみなさい」

 

 

 藍は少年の言葉に安心したようで、全身の力が抜けていく。手が重力に従って落ちてようとする。

 少年は、藍の手が落ちないように支えた。

 藍は、さすがに眠りについたようで一定の周期で呼吸を始める。

 少年は、もはや一人では寝られなくなってしまった藍を今にも崩れそうな笑顔で見つめていた。

 

 

(僕のせいで、ごめんね……)

 

 

 藍が夜に寝られない理由は、非常に簡単なものである。

 藍は―――不安なのだ。自分が寝ている間に少年が消えてしまうような気がして、夜眠るのが怖いのである。

 

 

(藍が変わってしまったのは、僕が病気になったあの日から……あの日から何もかもがおかしくなった)

 

 

 藍は、少年が病気を患った時からおかしくなった。少年を失いそうになったことで狼狽し、狂気に満ちた。

 自分を許せなくて。

 自分を許したくなくて。

 罪に押しつぶされて。

 あって当たり前だと思っていた。

 あるのが普通だと思っていた。

 そんな大切なものを失って。

 ―――息ができなくなった。

 

 ああ、太陽はどこにあっただろうか。

 生活の中にいつだってあった太陽はどこにいったのだろうか。

 心を照らしていた存在は、どうしてこんな弱弱しくなってしまったのだろうか。

 陽だまりは、暖かさは、何処にあったのだろうか。

 毎日昇ると思っていた太陽は、もはや沈んだまま顔を見せようとしない。

 

 理由は分かっている。

 沈めた自分がここにいる。

 元凶がここにいる。

 償いは、許しは、どこにあるのだろうか。

 どうすればいいのだろうか。

 どうすれば元に戻るのだろうか。

 そう思えば思うほど心に大きな穴が空いた。

 喪失感が心の中を支配した。

 

 

(藍の心の揺れ幅は、限界を迎えつつある)

 

 

 藍は、自分の半身を失うような圧倒的な心の振幅に耐えられなかった。それを抑えきれなかった。

 

 

(夜も眠れない、目を離していられない、怖くてたまらないんだろう。心配でしょうがないのだろう。心がざわついてしょうがないのだろう)

 

 

 藍は少年が病気を発症してから、正確には病気が発覚してから恐怖にさいなまれるようになった。寝ようと布団に入り、眠ろうと目を瞑ると恐怖で意識が冴えてしまう。目を閉じてしまえば、少年を失ってしまうのではないかという恐ろしさに頭がどうにかなりそうだった。

 そうなった当初は、少年の部屋にまでやってきていた。

 少年のことをずっと朝まで見ていた。

 眠っている少年の顔をずっと見ていた。

 深夜1時を回っても。

 太陽が昇って来る朝5時になっても。

 ―――ずっと見つめていた。

 見つめていなければ、存在を視認していなければ、存在に触れていなければ、そこから無くなってしまう気がしたから。

 藍は、眠ることを止めてしまった。睡眠を放棄した藍の身体は徐々に弱っていき、ふらふらになっていく。

 少年は、見ていられなかった。自分の責任でそうなっていると感じずにはいられなかった。

 その日から藍と少年は一緒に寝るようになった。

 そうすれば、藍が眠ることができたから。安心して眠ってくれたから。そして、最近になってようやく近くにいるだけで眠ることができるようになってきていた。

 しかし、今後症状が好転していくかは分からない。このままの調子で変わらないのかもしれない。もしかたら悪化するのかもしれない。

 なんにせよ―――後二年である。

 後二年で、全てが終わってしまう。

 時間が足りない。

 

 

(これ以上は、余りにも辛すぎる……)

 

 

 藍は、完全に追い込まれている。袋小路のさらに先へと追い詰められている。感情の出る場所もなく、拡大していく感情だけが大きさをもって心を圧迫している。少年の病気の原因を自分が作ってしまったこともあって完全に収まりきらないところにきている。

 

 

(僕にできることは何もないのかな……)

 

 

 再度、自分が藍に対してできることを考えてみる。

 藍の気持ちが揺れているのは少年が原因なのだから。少年をどうにかすれば結果が変わるはず。

 そんなことは―――分かっている。それがどうしようもできないから困っているのだ。少年は、何もできていない自分を悲観した。

 だが、藍がかろうじて気持ちを保っていられたのは、他でもない少年のおかげである。少年がもしも死んでしまっていたらもっと酷いことになっていただろう。少年がもしも藍を拒んでいたらもっと酷いことになっていただろう。

 少年は藍を受け入れた。いつものように、大きな心で受け止めた。病気を発症した際に藍を傍においた。永遠亭に居座ることを咎めなかった。それが、藍の精神を守っていた。

 藍は、少年の傍に常にいることで精神を保っている。確かに生きている少年の存在が藍の精神を繋ぎとめていた。

 

 

(あの時みたいに、何もできないのかな。何か藍のためにできないのかな)

 

 

 少年は、病気だったころを思い返した。病室に誰も入れなくなる前にした会話―――終わり際の言葉を脳内で再生した。

 藍は、弱り切っている少年に懇願するように、縋りつくように言っていた。

 

 

「和友、死なないでくれっ」

 

「藍には感謝しているよ」

 

 

 少年は、震える声を響かせて想いを口にする。

 最後の最後、話を切るために終わり際の言葉を吐き出した。

 

 

「藍のおかげで、幻想郷での生活が楽しかったよ。藍がいつも傍にいてくれたから自然体でいられたよ」

 

 

 少年の幻想郷での生活は、藍に支えられていたといっても過言ではない。能力の練習はもちろん、買い物から、料理から、家事から、生活に関わることはほぼ藍と一緒に行動している。いつも、どんなときも―――藍は優しい瞳で見守ってくれた。

 

 

「紫についても同じことが言えるけど、やっぱり藍と一緒に行動することが多かったから、藍が僕を見守っていてくれたから。藍が、約束を守っていてくれたから……」

 

 

 いつも守ってくれたのは、藍で。

 いつも支えてくれたのは、藍で。

 両親を失って支えを失った少年は、藍の愛情に包まれていた。

 

 

「僕は、藍から沢山のものを貰ったよ。もう十分なほど貰った……返しきれないぐらいのものを、抱えきれないぐらいのものを貰った」

 

 

 少年の手から次々と荷物が手放されていく。少年の心からは涙という名の湖が思い出を浸すように張っている。

 これまでの生活も。

 続くと思っていた幸せな日々も。

 ハッピーエンドも。

 それも―――もう終わり。

 

 

「藍は悪くない。何も悪くないんだ。だから……僕のことをそんなに重く考えなくてもいいんだよ?」

 

「そんなことを言わないでくれ。私は和友に生きていて欲しい……和友にずっとそばにいて欲しいっ……」

 

「ありがとう。そう言われるだけで、僕はもう、満足だよ」

 

 

 少年は、藍の崩れゆく精神を埋め合わせた。

 病室で少年に謝る藍に対して嫌な顔一つせずに会話をし、ただひたすらにお礼を述べた。

 後悔を一片たりとも見せず、落ち着いた表情で対応した。

 辛さも、恐れも、何もかもを飲み込み―――藍の気持ちをくみ上げた。

 

 

「藍、僕と約束して欲しい」

 

「約束するっ……何でもするから。だから……!」

 

「ありがとう。じゃあ、お願いだ。僕のことを覚えていて欲しい。そして、悲しまないでほしい。僕は、覚えていて欲しいだけなんだ。悲しみも苦しみもいらない。僕は、そこで生きていたい」

 

 

 藍は少年の最後を共にしたことで―――最後まで一緒にいたことで落ち着いて眠れる程度には安定した精神状態になった。ちょうど、失った心を少年の優しさで埋め合わせをしているような状態である。

 仮に少年が死んでしまっていたら致命傷になっていたことは間違いないだろう。偶々生きていたから少年が藍の喪失感を埋められているだけである。安定したというには程遠い。やはり空いた穴を埋められているのは少年の存在で変わりないのだから。そんなものは仮初の安定である。独り立ちはできない。

 そして、現状―――少年が埋め合わせたものが取りだせなくなってしまっている。抜けそうになると喪失感に襲われて少年を求めてしまっている。

 

 

(あの時……僕が優しくしすぎたから? 僕が自分の気持ちを素直に伝えたから?)

 

 

 少年は、藍への対処を間違ったのではないかと考える。別のやり方があったのではないかと想像する。

 だが、他の方法など―――今更探しても、過去に取った行動を後悔しても、何も変わらない。過去はどれだけ変えたいと願っても変えられない。

 少年の目の前で眠っている藍は、確かにそこにあるのである。変えることができるのは今からしかない。あの時のように―――半年前の自分のように―――誰かのために、藍のために今から変えなければならない。

 半年前の少年は、病室で泣き疲れて眠りについた藍の頭を撫でながら小さく呟いた。

 

 

「僕はこんなところで死ねない。このままじゃ、藍ごと連れて逝きかねない……」

 

 

 少年は、藍のために生きなければならないと意志を固めていた。

 藍を支えたのが少年ならば、そんな藍に命を繋ぎとめられていたのが他ならぬ少年である。自分が死ぬことで負の方向へと走りそうな藍が、生きなければならないと、そう思わせた。少年の生き抜くという気持ちは、決まり事もそうではあるが、藍に対する気持ちにも支えられていた。

 死んでもいいと思っていた少年は、藍に対する気持ちがあったからこそ、半年後の今も眠っている藍の隣に座っている。

 

 

「心配かけてごめんね。僕がもっと何かできればよかったんだけど……僕にできることなんて言葉に想いを乗せることぐらいしかできないから」

 

 

 少年は、藍が寝静まるまで側で手を握っていた。

 どこにもいかないよ。

 僕は、ここにいるよ。

 そう語り掛けるように手を握る。

 その言葉が永遠に続かないことを少年は知っている。

 知っていてなお、その手を緩めることはない。

 まるでその事実を拒否するように―――藍の手を固く握っていた。

 

 

「藍、ありがとう。本当にありがとう」

 

 

 少年は、藍が完全に眠りにつくまでずっと傍にいた。

 ただただ、傍らで藍を見守っていた。

 

 

「僕の体を助けてくれたのは紫だったかもしれないけど……僕の心を生きる方に向けてくれたのは藍だった」

 

 

 少年の肉体を救ったのは―――外の世界から幻想郷に連れてきた紫である。

 少年の精神を救ったのは―――生きる気持ちを支えてくれた藍である。

 少年は、ゆっくりと力の抜けた藍の手から自分の手を離し、静かに呟いた。

 

 

「僕は……藍に必要とされているんだって分かってちょっとだけ嬉しかったよ。僕が一方的に藍に頼っていたと思っていたけど、藍も僕を必要としてくれているんだって……嬉しかったんだ」

 

 

 少年は、藍の手を握っていた手でもう一度藍の頭を優しく撫でた。藍の髪の毛が僅かに力を受けて項垂れる。

 藍は、少年の行動を受け入れるようにすやすやと気持ち良さそうに寝息を立てている。

 少年は、安らかな眠りについている藍に小さくほほ笑んだ。

 

 

「ははっ、何を言っていいか分からないや。藍とは色々あったから何から話せばいいんだろうね……」

 

 

 少年は、これまで藍と様々な言葉を交わしてきた。外の世界の人間に対して一切話さなかった話、一切見せなかった感情を見せびらかしてきた。両親以外に知られないようにしていたことも、たくさん話した。

 

 

「幻想郷は、本当に僕にとって居心地のいい場所だったよ。知っていてもらえる、分かってもらえることがこんなに嬉しいことだなんて思わなかった」

 

 

 幻想郷では、我慢する必要がなかった。普段口に出さない言葉を外に出すことができた。

 外の世界であれば、分からないということを口にすることがはばかれた。それが分からなければならないことなのか、知っていなければならないことなのか分からなかったから。それが言っていいことなのか、話していいことなのか分からなかったから。

 普通でなければならない少年は、できるだけ周りの人間と同じように生活しなければならなかった。

 

 

「思ったことを素直に口にしてもいい。区別ができないことを口に出してもいい環境は僕の心を救ってくれた」

 

 

 大きな好奇心を持っているにもかかわらず我慢していた少年は、幻想郷に来て年相応の少年に変わった。思ったことを口にして、考えたことを表現する、そんな当たり前のことが許されて生き生きと生活していた。

 

 

「それもこれも藍が一緒にいてくれたから。僕のことを守ってくれる、見守ってくれる、分かってくれている藍がいたから。だから、僕は今ここにいる」

 

 

 藍は、少年の面倒をよく見ていた。少年の親の代わりとして見守っていてくれていた。幻想郷での少年を支えてくれていた。

 少年は、これまで過ごしてきた日々を思い返す。何気ない日常を思い浮かべる。

 思い出された記憶の中には、楽しかった思い出がたくさんあった。

 

 

「一緒に料理をしたことも、一緒に買い物に行ったことも、一緒に能力の練習をしたことも、一緒に紫を茶化したのも、みんな楽しかった」

 

 

 少年が思い返した楽しかった思い出の中には―――いつも藍がいた。一緒に笑う藍の姿があった。少年が楽しそうにしている時、傍にはいつも藍がいた。

 少年と藍は、朝起きてから、毛づくろい、料理、買い物、掃除、洗濯、能力の練習……何をしている時も一緒だった。

 

 

「藍と一緒だから楽しかった……でも、それも終わりだ。全部全部、まっさらになる」

 

 

 それも―――終わらせる必要がある。終わらせなければならないところにきている。終わってしまうところまできている。

 少年は、今日の妖怪の山の一件で決断が迫られているのだと察していた。

 少年の頬に2つの筋ができる。流そうとも思っていなかった涙が頬を伝った。

 

 

「ははっ、涙なんて……僕も涙もろくなったなぁ」

 

 

 少年は流れ出るものを止めることなく、真っ直ぐに目を開いて藍の顔を見つめる。

 どうして僕は泣いているのだろう。

 どうして涙が止まらないのだろう。

 きっと、その理由は目の前にある。

 少年は握り拳を作り、唇をかみしめた。

 

 

「これまで誰にも言わなかった言葉を藍へと送るよ。最後の最後、これからもきっと言わない言葉を」

 

 

 ―――決断の時である。

 なんでこうも悲しいのか。

 そんなものは、分かり切っていることだ。

 近くにいるのに、遠くなっている。

 側にいるのに、孤独になっている気がする。

 お互いが傷つくことを知っているから。

 近づくことでお互いの心を傷つけるから。

 だから、決断しなきゃならない。

 悲しませないために、泣かないために、最後に伝えなければならない。

 その悲しませないようにという想いが、藍を悲しませると知っていながらも。

 この想いは、伝えなきゃいけない。

 後戻りできなくなってからでは遅いのだ。

 後になって気付いても遅いのだ。

 そのころには伝えられなくなっているかもしれないのだから。

 今伝えなかったらいつ伝えるというのだろうか。

 少年は、震える口を開けて生涯口にすることのない言葉を藍へと告げた。

 

 

「友達としてなのか、家族としてなのか、恋人としてなのか、僕には判断がつかないけれど……僕は、藍のこと大好きだったよ」

 

 

 藍は、寝てしまっていて少年の言葉に反応しなかった。

 逃げていく、自分が逃げていく。

 だから追いかけなきゃ。

 追いかけて、本当の自分を捕まえなきゃいけない。

 少年は、全てを打ち明けると満足そうに微笑み、静かに立ちあがった。

 

 

「おやすみ、明日もいい日になるといいね」

 

 

 少年は、一言言葉を残した後、音をたてないようにして歩き、ふすまを開けた。

 もう後戻りはできない。

 少年は決心しようとしていた。これから先の未来の形を。これからの形を。

 少年は静かにふすまを閉めると、微笑みを消して悲しそうに唇を震わせる。

 

 

「ああ、早くしないと。全てが崩れる前に、なんとかしないと……このままじゃ……」

 

 

 このままじゃ全てが終わってしまう。

 なし崩しに全てが終わってしまう。

 

 

「もう少しだけ……もう少しだけ……」

 

 

 そう言ったら涙が出てきた。

 少年の頬に2度目の涙が伝った。

 これが、本当の気持ち。

 これが、本心から思っている言葉。

 この生活が続けばいいのに。

 この生活がもっとよりよくなって、幸せに暮らせればいいのに。

 

 少年が行わなければならないことは、過去に対する清算である。これまで積み立ててきたものの破壊、重ねてきたものの放棄である。それは酷く苦しいこと、これまでの全てを失う行為である。

 やりたくない。したくない。失いたくない。放棄したくない。捨てたくない。

 それでも―――それをしなければならない理由は確かに存在していた。

 

 

「けど、結局僕が覚悟しなきゃいけないことだよね。捨てきれないのは僕が弱いからだ……藍が悪いんじゃない、みんなが悪いわけじゃない」

 

 

 この件に誰一人悪者はいない。

 ただ―――巡り合わせが悪かっただけだ。誰かがこうしたから、誰かが何かをしたから状況が悪くなったわけではない。

 あえて言うならば―――少年がいなければ何も起こらなかったという意味では、少年の責任と言えるかもしれない。少年が台風の目になっている以上、少年を止めれば巻き込む嵐は終わりを迎える。

 だからこそ少年は、覚悟を決めようとしていた。責任を果たすために、ある行動に出ることを決意しようとしていた。

 

 

「僕が全部を手放す意志を固めないといけない……僕の最後は僕が決める。全部返して、全部まっさらな状態で終わりを迎えるために、できることは全部やろう」

 

 

 少年は、流れ出る涙を手の甲で拭きとる。

 それでも、瞳はすぐに潤んで涙が流れそうだった。




次の話から、設定の本題に入っていきます。

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