文は、椛の仕事を褒める少年に唖然としていた。
(妖怪の山の監視の仕事を褒める人間なんて、初めて見ました……)
妖怪の山の見張りというのは、それほどにスポットライトを浴びない役割であり、注目を浴びない役割である。誰からも称賛されず、誰からも注目されない、そんな仕事である。
「妖怪の山における監視なんてあってないようなもの、それが妖怪の山に住む妖怪の認識ですからね」
「監視をしている者としては非常に悔しい所ですが、文の言う通りです……」
椛は、文の無慈悲な言葉に悔しそうに口を紡いだ。
妖怪の山の監視には、意味がない。
やっても、やらなくても、意味がない。
だから、注目もされなければ評価もされない。
それが、妖怪の山に住んでいる天狗社会にいる者の認識である。
もちろん天狗社会の一員である椛にも、妖怪の山の監視という仕事には意味がないという自覚があった。
自分のやっている仕事は―――全く意味のないものだ。自分のしている仕事は―――他人から見た場合に全く意味が無いと思われている仕事だ。
「常識が少しでもある人間であれば、妖怪の山に近づこうなんて考えません。妖怪に関しても同様です。天狗に喧嘩を売ろうという者は、ほとんどいません」
そうである―――妖怪の山の監視など正直なところ必要がない。
妖怪の山に侵入してはならないことは、常識を踏まえている者なら全ての者が知っている。常識を持っている者ならば、ほぼ全ての人間が妖怪の山を登ろうとはしないだろう。10にも満たない子供だって理解していることである。
「誰も登ろうとしない妖怪の山を見張るなんて、不毛なことだと言われても仕方のないことなのです」
椛の言うように、妖怪の山に登って来る人間は少ない。
だが、少ないというだけで全ての人間が登ってこないというわけではなかった。妖怪の山に登ってこようとする者は僅かながらに存在する。だから監視をする、追い返すという意味では確かに役に立つ瞬間はあった。
しかし、妖怪の山に故意に登って来る人間や妖怪には、ある共通点が存在し、それによって白狼天狗の仕事は無意味と化していた。
「それに、縄張り意識を持った所で……監視をした所で、妖怪の山へ入ってくる者は入ってくるのです。妖怪の山は、入ろうとしなければ入れない場所ですから」
「そして、総じて妖怪の山へ入ろうとする侵入者は、見張りをしている白狼天狗よりも力を持っている者が多い」
文は、椛の言葉にさらに上乗せするように、暗に妖怪の山の監視の仕事を貶した。
妖怪の山に登ってはならないと知っていてもなお妖怪の山を登ろうとしてくる者は、総じて監視役である白狼天狗よりも力のある者であることが多い。
そんなことは―――当たり前の事である。妖怪の山に登って来る人間や妖怪は―――哨戒天狗がいることを分かって登って来るのだ。そこに白狼天狗がいることを知っていてなお登って来るのだ。そんな相手が白狼天狗より強くないなんてことはない。哨戒天狗がいくら注意をしたところで、脅したところで、武力によって押し通されるだけだ。
文は、椛の心に深く突き刺さるような言葉の槍を放り投げた。
「これではやる意味がない、価値がないと言われても仕方がありません」
「そういうことです……所詮、私たちのやっていることなんてそんなものなのです」
椛は、悲しそうな表情で笑っていた。
「私たち白狼天狗は、ちょっとばかりの抑止になっている程度、あってもなくても変わらないような石ころの一つ、転んだらラッキー程度の障害物なのです……」
白狼天狗がいることで役に立っていることと言えば、そこにいるという存在感を与えることで、妖怪の山を登ろうとする妖怪や人間の数を制限できることであろう。
しかし、それは意味があることには繋がらない。結局侵入者を取り逃しても、見つけても、何も変わらないのだから。白狼天狗の仕事の成果が何かの変化を与えることはないのだから。いてもいなくてもいい存在―――意味のない存在であることに変わりはなかった。
「だから、真面目に監視をしている仲間なんてほとんどいません……」
白狼天狗の見張りに対する認識は酷く低い。真剣にしなければならないという認識を持っている天狗は、椛を除けばいないと言っても過言ではないだろう。
妖怪の山に侵入しないような抑止力に必要なことは、あくまでそこにいて監視をしているという事実だけである。見張りをしているから、危ないから、だから近づいてはいけないという中身のない虚実を真実にするためのものである。
だから、見張りの途中に遊びだす者や誰かに押しつけて帰ってしまう者などざらにいた。
そんな中で、椛は妖怪の山の見張りをしてきていた。
真面目に仕事をしてきた。
誰よりも真剣に役割をこなした。
ただ―――それに対する見返りなんて何もなかった。
仕事を放棄する者がほとんどでも何もおかしくなかった。むしろ、真面目にやっている自分がおかしいのだと思っていた。
「真面目にやったところで取り立ててもらえるものじゃない。やって当たり前といわれ、やらなくても罰せられることはない。取り逃しても、上が勝手に処理をする」
真面目に妖怪の山の見張りをした所で上の階級に上がれるわけではないのだ。
文は産まれてからずっと鴉天狗で、椛は産まれてからずっと白狼天狗である。いくら成果を出しても、いくら与えられている仕事を頑張っても何も変わらない。それ(立場)は、これからも変わらないだろう。
「こんなことにやる気を出せという方が無理な話なのです」
(やっぱり、外の世界とは違う……)
少年が外の世界と似ていないと思ったのはそこが原因だった。努力が評価されない。真面目にやっていても何一つ理解されない。権力構造があるくせに、上に登れない。そこが天狗社会を外の世界と違うと思った部分であった。
椛は酷く悲しそうな顔で笑う。今にも崩れそうな顔で笑う。
「私もみんなと同じようにサボれたらなんて思うこともありましたが……いくらそうしようと思っても、私には無理でした」
「椛、周りを気にする必要はないよ。椛は椛が正しいと思うことを、椛自身が決めていることをすればいい。それが正解で、間違いなんかじゃない」
少年は、椛が抱えている気持ちが痛いほど理解できた。同じく誰からも評価されないことしてきた身として、他人から馬鹿にされるようなことを黙々とこなしてきた過去を持っているからこそ、椛の気持ちが嫌でも分かってしまった。
「正しいことは、正しいことをやろうと思わなければできないんだ。椛のそれは正しいと思っているからしているんだよね? だったらその自分を信じて。僕も、椛の正しさを信じるから」
正しいことは、正しいと思った人間にしかできない。
知らない間に誰かに迷惑をかけていたとか、傷つけていたということはあるが、知らない間に誰かを助けていたとか、知らない間に良いことをしていたなんてことは、基本的には起こりえない。正しいことは、正しいことをしようとして初めてできることなのである。
椛は、正しいことをしようとしている。周りから間違っていると言われても、おかしいと言われても、正しいことをしようとしているのならば、正しいことをするべきである。
「椛には前にも言ったと思うけど、外から見ての意味なんてあっても無くても変わらないし、価値があっても無くても変わらないと思うよ」
少年は、自分がやっている行動の他人から見た価値などどうでもいいと思っていた。自分のした行動による結果に対して他人がどう言っているとか、他人からどう思われているかとか、他人からの評価とか、他人からの価値とか、そういうものはどうでもいいと思っていた。
「やっていることに対して意味や価値を求めようとしているのは……ただ、その方が楽だからでしょ? 意味があるから頑張ろうという気になるだけだよ。たったそれだけのものでしかないんだ」
少年は、他人から見た自分の行動の価値を気にしたらダメだと思っていた。
気にしても価値が生まれるわけではない。気にしても気が落ち込むだけでしかない。やると決めたことに対しては、自らの意志が介在するだけでいい。そこに他人の意見は必要ない。
意味がない。価値がない。
その言葉にどれほど意味があるだろうか。
その言葉にどれほどの価値があるだろうか。
自分がある行動をした時に、それが他人から見て意味のないことのように思えても、自分の中に意味があれば十分ではないのか。
例えば、毎日のように家の前で挨拶を交わしている人物がいるとする。その人は、毎日朝6時半から家の前を通る人に対して挨拶をしていた。
その行動にどんな意味があるだろうか。
その行動にどんな価値があるだろうか。
そんなことをしてどうなるという人間もいるだろう。
誰かが得をするわけでもない。
鬱陶しいと思う人間の方が多いかもしれない。
だが、その行動に本人が意味を感じていればそれでいいのである。その人が朝に挨拶をして、やったという気持ちになれば、それで十分ではないだろうか。
行動の理由なんて些細なもので、その些細な気持ち、そうしようと思う気持ちにこそ価値がある。少年は、そう思っていた。
「行動に価値は無くても、行動に対する姿勢や意志に価値が存在することもある。そもそも、自分がそうしたいと思うことそれ自体に価値があるはずだ。それが和友さんの言い分でしたね」
「どういうことなんですか?」
「分かりませんか? 文は思ったよりも頭が回らないのですね。鳥だから仕方ないのですか」
「喧嘩売っていますよね?」
文はこめかみに血管を浮きただせ、今にも殴り掛かりそうな顔で椛を見つめる。椛は、文から迫りくるプレッシャーに対して額に若干の冷や汗をかきながらも、余裕そうな表情を貫いていた。
少年は、再び喧嘩腰になる二人を止めるように、文に例を挙げて説明し始める。
「例えば、文の文々。新聞を挙げてみようか。文の新聞には、どういう意味があってどういう価値があるの?」
「誰のものよりも速く届くという希少価値があります。私は、誰よりも速く情報を集めることができますから、誰よりも速く情報を届けることができます」
文は、少年の質問に対して一瞬きょとんとするも、自身が最速であるということを、最速である価値を自慢げに話した。自分から見た文々。新聞と他の新聞との違い、自らの新聞の優れていることを口にした。
文の話しているそれは、つまるところ他者との比較で自分が優れているところである。自分が周りよりも優れていると‘思っている’ことを話しているだけで、決して他人からここがいいねと言われた部分ではない。
少年は、文の勢いを寸断するように問いかけた。
「でも、それは文にとっての価値だよね? 早く届けているという自己満足だけ。妖怪や人間から言えば、そんなものには価値がないと思うよ」
「え?」
「幻想郷の妖怪や住人にとっては、即座に届く新聞なんて別にいらないんだ。誰よりも早く届く新聞なんて必要ない。幻想郷の住人が情報を急いで集める理由は無いからね」
文は、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
少年は、文の書いている文々。新聞の価値を外の視点から批判する。外部から見て椛が妖怪の山を見張る価値が無いというのならば、文の文々。新聞が誰よりも速いということにも価値なんて無い。
価値を決めるのは相手である。外部から見た価値というのは、あくまでも外部がつけるものである。成績表も、報酬も、外部から与えられるものである。
椛のやっていることに価値がないという文の言葉は、そういうことなのである。椛の仕事に対して外部にいる自分が評価している内容になる。
つまりは―――自分のやっている‘誰よりも速く届けるという付加価値がついた新聞’に対しても同じことがいえてしまう。文の新聞を読んでいる購読者が早さを求めていなければ、意味がないと言っているに等しくなる。
「文自身から見てなら価値があるよ。少なくとも自分がやっていることに満足できているんだから」
ある人が100mを10秒で走れるからといって、それを凄いと称賛することはあれ、そこに価値があると思う人はごく少数なはずである。
速く走れることによって得をする人は少ないのだから。同じように文の新聞は、早いなと言われることはあっても、そこに価値があるとは思われてはいない。周りから見れば、そんなものには意味がない。購読者からすれば、そこに価値があると思って購読しているわけではないはずである。
そもそも、相手と自分の価値観が違うのに、同じ価値を持とうとするのが間違いなのだ。
少年は、喧嘩腰ではなく、優しく語り掛けるように文に話しかけた。
「でもそれは、外から見ればたいしたものじゃない。それは、椛のしている仕事と同じだよ。椛は、外から見て価値があるから妖怪の山の監視をやっているわけじゃないんだから」
「……そうかもしれませんね。速く届けられることで羨ましがられる事なんて殆どありませんし」
文は、少年の言っていることがどういうことなのか何となく理解できた。内心では、少年の言葉に苛立ちながらも、少年の言葉が自分が椛に対して言っていた言葉と変わらないと思うと怒る気にもなれなかった。
文が新聞を書いているのは、まさしく自己満足である。自分の文章を他人が読んでくれることが嬉しくて、それで何か感じてくれていることが嬉しいからやっていることである。別に相手からしてみれば、文の新聞である必要はなく、面白ければすぐに届くような機能は特段必要ではない。そこに価値を求めているわけではなかった。
「早く届けて欲しいなんて思っている読者は、全くと言っていいほどいませんから……」
文は、言葉の勢いをなくし、申し訳なさそうに椛を見つめる。
今、自らの新聞を貶さたような気がして苛立っている、僅かに傷ついている。きっとそれは、先程椛に言った言葉も同じように椛の心を傷つけたことだろう。
意味がないと言った言葉が、椛の心をどれだけ傷つけているのだろうか。文は、現在進行形で罪悪感に襲われていた。
椛は、文の気持ちを知ってか知らずか、自分の任務に対しての気持ちを語り出した。
「私の仕事は、別に価値があると思われなくてもいいです。意味がないと言われてもいいです。私自身がそれでいいと思っているから、ずっとやってこられました。私自身が自分の仕事に価値があると思っているから、やってこられました」
椛も文と同じである。
やっていることに対して自己満足している。
それをしている自分が好きなのだ。
それをすることが好きなのである。
それを全うしていない自分が、自分ではないと言い切れるぐらいには、自らの一部になっている。長年やってきたことが椛の中での支えになっている。
椛は、そっと正面にいる少年を見つめ、恥ずかしそうに顔を赤くしながら言った。
「それに……私が頑張っていることを誰かが知っていてくれているから、この仕事をこれからも続けようと思いました」
「周りの人から見たら意味がないとか価値がないとか、そういうことが大事じゃないんだよ」
少年は、結果ばかりを気にしても、周りから見た価値や評価を気にしてもしょうがないのだと分かっていた。他人からの評価は、自分の価値と絶対に一致するものではないし、それが本当の価値になるかは分からない。
「むしろ、価値があるのは仕事に対する姿勢の方だと僕は思うけどね。誰にでも分かるし、伝わる。一生懸命さは必ず見ている人に伝わるものだから」
少年は、これまで区別をするために努力を重ねてきた。藍や紫の名前を覚えた時のように、常人では耐えられない努力をしてきた。
しかし―――それは他人から言えば価値が無いと思われる行動である。覚えるためにそんなことまでするだろうか。そこまでする価値はないだろう。そんなことを思われていることは分かっていることである。
(僕のやってきた書き記す作業だって、他人から見たらひどく意味のない行動になる。物ひとつ、名前ひとつ覚えるだけで、何をしているんだと鼻で笑われる程度の話……)
少年は、周りからバカにされるようなことをしていると重々承知で―――それでもいいと思っていた。
(けれども、僕の行動は見えていなかったけど、理解してもらえる内容ではなかったけど、行動の結果を除いた過程だけならば、他人から認められた)
少年の書き記す努力の効果は、別の面で現れることが多かった。
少年が区別を行った次の日、指を真っ赤にして学校に行った日のことである。
少年の指を見た友達は、どうしたのと気にするように聞いて来た。
少年は、勉強をしていたらこうなったのだとオブラートに包んで伝えた。
「笹原がそこまで頑張っているんだったら、俺たちも頑張らないとな」
少年の友達は、少年の姿を見て感化され、勉強をするようになったということがあった。
こういうように本人が成した結果よりも、その姿勢の方が相手にえてして影響力を与えるものなのである。行動にいくら意味がなくても、行動の結果が褒められたものではなくても、伝わる相手にはいいように伝わる。
少年は、これまで椛と文から受けた影響について思い出すようにして目を閉じた。
「僕は、椛が一生懸命に仕事に従事しているのを知って、負けないように頑張ろうという気になったし、文の元気に元気づけられることもある」
「「…………」」
「僕は、行動の結果よりも、そっちの方に価値があると思う。特に椛と僕の場合はね。勿論、それが全てではないけれど」
文と椛は、黙ったまま少年の言葉を聞き入れていた。
しかし、少年が言うように簡単にいくものばかりではない。姿勢から相手に影響を与えるのはやはり難しいものがある。
「相手に影響を与える必要はない。相手から価値を与えられる必要はない。一番大事なのは、もっと別の所だ」
結局、自分の行動が他人に影響を与えなければならないと考えること自体が、行動の難易度を上げているのだ。必ず成果が出る行動なんてないのに、必ず大きな結果が出る行動などないのに。それが、自らに大きなハードルを課している。
結局一番大事なのは、自分自身で価値があると信じることである。
「結局―――本人が自分で価値があると思っていることが大事なんだと思う。だから文は、そのままでいいと思うよ。新聞を最速で届けることに、意味を、価値をちゃんと見い出している。それこそが‘変わらない’価値になる」
文は、しっかりと少年からの言葉を聞いていた。
「文が情報を誰よりも早く届けたいと、速く飛べるようになりたいと努力している姿勢を見ていたらまた印象が変わったかもしれないね」
少年は、昔の文を見ていたらまたイメージが変わっていたかもしれないと言った。
文が速く飛べるという結果しか知らない少年には、そこまで至るまでの過程が全く見えてこない。努力も、悔しさも、喜びも、知らなければ何も見えてこない。
「文だって速く飛ぶために、色々頑張ったんだよね。センスや才能だけで幻想郷最速は無理だと思うから」
「ええ、空を飛ぶのが好きで、誰よりも速く飛べるようになりたくて練習をしました。楽しくて、楽しくて、止められませんでした。空が大好きで見える景色が好きで……」
文は、少年の言葉で少し昔を思い出して、心がどこか暖かくなるのを感じていた。
遥かに遠くまで広がる空と境界線を作る地平線の彼方へと飛ぶ。誰よりも早く、地の果てにたどり着きたい。誰よりも速い風を感じていたい。そんな甘酸っぱい青春のひと時。そんな時もあった。
「まぁ、新聞を書き出したのは最速になってからなので、後付けになっちゃいますけどね」
少年は、文の笑顔をみて少しだけ安堵すると、時間が無くなってきていること、椛が少しばかり蚊帳の外になっていることに気付いた。
もともと妖怪の山に来た理由は、椛と話すためである。文と話すために来たわけではない。
大事なのは―――ここからである。
「っと、小難しい話はこのぐらいにして……」
少年は、話を終わらせるために話題をそらし、本題へと入ろうと、最初に話すつもりできた椛へと顔を向ける。
少年の視界には少しだけ疎外感を持ち、何とも言えない表情を浮かべている椛の顔があった。
少年は、椛との会話を再開するために椛を注視する。その時、椛の服装が目に付いた。椛の首元にはマフラーが巻かれている。そして、腰には大剣だけではなく和傘も刺されていた。
少年は、椛が身に着けているマフラーと和傘に見覚えがあった。
「椛、もう夏が来るのにまだ僕の作ったマフラーを巻いていたんだね。雨が降っているわけでもないのに、僕があげた和傘も持ってきて……」
椛が身につけているマフラーも和傘も、少年があげた物である。
少年は、二つの贈り物を見て椛にプレゼントをした時のことを思い出した。
(椛の妖怪の山の監視の仕事は、天候も、気温も、関係ない。寒い時も、暑い時も、雨の日も、雪の日も、嵐の日も、見張り続ける必要がある)
椛が妖怪の山の見張りは、交代制とはいえ休みもなく、昼夜もない。それは暑かろうが、寒かろうが、晴れていようが、雨が降っていようが関係無い。天気に左右されず、気温に左右されず、日付に左右されない仕事である。
(椛と僕は、逃れられない決まりごとに縛られている……)
少年は、椛の頑張る姿に自分を重ねていた。椛と少年には、自分の身よりも、決まり事の方が大事だという共通点がある。
少年は、椛を何かしらの形で応援したかった。同じく努力する者として、ささやかながら支えてあげようと思った。
(椛には頑張っていて欲しい。何か椛にとって役に立つもの……何かないかな? 何かしら役に立てれば……)
少年は、椛に対して贈り物をしようと決めた。そこで選んだのが、人里で教えてもらった和傘だった。初めて人里に行ったときに、藍に教えてもらった和傘を送ることに決めた。
(お金はこれまで溜めてきた分で買おう。余計な分のお金については、僕が持っていても仕方のないものだしね)
さすがにマヨヒガの傘を渡すわけにはいかなかったので、まだ働いていなかった少年は渡されるお小遣いをためて和傘を買い、雨の日に使って欲しいと椛に送った。
「こんなもの、私なんかが受け取っていいの!?」
椛は、嬉しさと同時に複雑な感情を抱えた。それは、自分自身にそれをもらうだけの価値がないと思っていたからだった。
白狼天狗という身分、下っ端の見張り番。それはまさしく、張り込んでいる警察に贈り物をするようなものである。
誰かから何かを貰ったのは何十年ぶりだろうか。横の繋がりで誰かが何かを与えることが基本的にない妖怪の山では、種族の違う河童から意味の分からない物を渡される程度しか物を貰う機会がない。ましてや、人間から貰う機会はなかった。
間違いなく初めてだった。妖怪の山で初めての経験だった。
「貰ってよ。僕は、椛だからこれを渡しに来たんだよ」
「ありがとうっ!! 大事に使わせてもらうわ!」
椛は、少年から渡された傘を嬉しそうに目を輝かせて受け取った。その日以降、雨の日も晴れの日も椛の背中には大剣と一緒に傘が刺さっており、たびたび開いてはニヤニヤしている様子が見られたという。
少年は和傘だけではなく、気温が低くなってきて間もなく冬の到来が予期された頃に、寒いだろうからと椛にマフラーも送っていた。
「あったかい……ありがとう」
椛は、傘の時とは異なり、拒否することなく少年の行為を受け取った。そんなことが―――少年と椛の中で続いている。
椛は、そっとマフラーに手をかけ優しく撫でるように動かす。そして、どこか懐かしそうに頬を僅かに赤く染めた。
「これは、大事な思い出ですから。季節が夏でも、天気が晴れでも関係ありませんよ」
「そっか、大事にしていてくれているんだね。渡した僕も嬉しいよ」
二人の間の空気は、随分と柔らかくなった。
少年にとって椛という存在は、他の妖怪や人間に比べれば特別な存在だった。特別視していることは、少年が相手に対してプレゼントをしたということから察することができる。
少年が誰かに対して物をあげたことなど、両親に対してと紫と藍に対してしかないのだから、その特別性が見て取れるだろう。椛の位置は、少年の中において比較的高いところにあった。
「これは好印象ですよ、椛」
「文はいちいちうるさいですね……」
文が二人の空気にまたしても茶々を入れ始めると、椛は邪魔をするように入ってくる文の存在を邪険に扱った。
少年は、ある程度の価値観を共有したにもかかわらず、変わらない二人の関係性に思わず苦笑する。
椛は、文を軽くあしらうと笑顔を浮かべて少年に疑問を投げかけた。
「和友さんはこの8カ月の間、いつも通りだったんですか?」
「半年前にちょっとだけあったけど、それ以外はいつも通りだったよ。特に何も変わったことは無かったかな」
この時、椛と質問と少年の答えは噛み合っていなかった。椛が少年に、普通とは変わった出来事がありましたか? という質問を投げかければ、少年は病気になっていたことを告げただろう。
しかし、少年には椛の質問がいつも通り変わっていないのか? という質問に聞こえた。
少年は幻想郷に来てから何も変わっていないのだから。変わっていないのかと問われたら、変わっていないと返す。
2人の会話は、噛み合うことなく次へと推移した。
「あ、あの、和友さん……」
「何かな?」
椛は、恥ずかしそうにモジモジと両手をこする。口はパクパクと動き、なかなか言葉を口にしようとはしない。
少年は、少し遠くを見つめるような瞳で椛を射抜くように見つめる。
椛の目に決意の色が浮かぶ。椛は少年に対して思いの丈を、自身の想いを全て告げようと決心して口を開いた。
「和友さん!」
「はい」
少年は、できるだけ柔らかい雰囲気で椛を見つめ、安心させるように呼びかけられたことに対してゆっくりと返答した。
椛は、激しく動く心臓を必死に抑え込むようにマフラーを強く握る。
手には暑くもないのに汗がにじみ出す。
体が震えているのが分かる。
それでも、それでも、それでもと心が前を向いている。
椛は、瞳を少年の視線から外すことなく、しっかりと立っていた。
「……和友さんに、お伝えしたいことがありますっ!」
―――その言葉は、全ての境界線を乗り越える前兆だった。
もう少しで、少年の設定が明かされます。それまでに、小説の直しも全話終わらせたいですね。