大きな流れに乗った。
流れに身を任せることで得る物もあるだろう。
流れに身を任せることで失う物もあるだろう。
きっと、得る物と失う物の大きさは―――等価。
病院の中にいびつな黒い空間が生まれた。真っ黒で、漆黒で、暗黒で先が全く見通せない世界がこちら側を覗いている。
女性は、迷うことなく黒く染まった空間に向かって近づき、黒の中へと入っていく。幻想郷への扉を開けて、その扉の内側へと入りこんでいく。
少年は女性に腕を掴まれたまま引っ張られ、少年の腕は半分近くまで闇の中に入り込んだ。
「何、ここ……」
女性が開いた幻想郷へ渡る黒い空間のことを扉と表現するのは、正しい表現なのかどうか分からない。表現としては空間の亀裂という言い方の方が正しいように思えるが、その時の少年には、目の前の光景を上手く表現できる言葉が見つからなかった。
「真っ暗だ……」
二人の体は完全に暗黒空間の中に入った。
病室と繋がっていた扉は閉じられて、世界に光が無くなっていく。
暗黒世界には名前の通り光がなく、少年の目には二つを除いてものが映らなかった。
女性は、少年を掴んでいる個所を右腕から右手へと移し、しっかりと少年の右手を握る。少年の右手は力の抜けた状態で、女性から一方的に握られている形になっていた。
「向こうにも扉がある」
少年は視線を動かし、進行方向を見つめる。視線の先には、近づいてくる扉の存在があった。もしも、扉がなければ進んでいるかどうかさえ分からなかっただろう。
「入ってきた扉も……なくなったわけじゃないみたいだね」
少年は前方を確認すると、続けてこの世界に入って来た方向である後方へと視線を動かした。
暗黒空間へと入ってきた扉は、閉じているものの確かに存在していた。
「どうなっているんだろう……体は浮いているし、真っ暗で何もない、何にもない、誰もいない」
少年には、女性の姿と出口らしき扉、今入ってきた病室からの入口だけが見えている状態である。
少年と女性は、ふわふわと浮かびながら進んでいく。
目の前に広がる暗黒空間は少年の理解の到底及ばない謎の空間である。真っ暗なこの世界には重力がなく、かといって浮力がかかっているような感じは全くしない。あくまでも力が全くかかっていない状態という様相である。
「いいなぁ、こんな場所があるんだ」
少年は、そんな真っ暗な世界でどこか安心したような表情を浮かべながら呟いた。
この時呟いた少年の声が女性に届いているかどうかは分からない。この暗黒空間が音を伝えるのかどうかについては、まるっきり分からないのである。息ができることから空気はあるようだが、音が波として空気中を伝わるのかは分からなかった。
とりあえず、少年の言葉が聞こえていたか聞こえていないかに関わらず、女性は微動だにしなかった。
少年の言葉は会話にはならず、独り言となって零れ落ち、ただただ重力に従うように落下した。
「あ、新しい扉が」
二人だけがいる真っ暗闇の中にもう一つの閉じられていた扉が開き、光のない世界に光が差し込んでくる。扉の開き方が大きくなるにつれて零れてくる光の量は大きくなった。
「あの扉を越えれば、幻想郷に着くのかな?」
新たに出現した扉が真っ暗な世界からの出口であるということは誰の目から見ても明らかで、少年は扉の先が目的地である幻想郷へと繋がっていると一瞬で理解した。
少年の目に出口からの光がこれでもかと言わんばかりに入りこんでくる―――少年を迎え入れるように光が差し込んでいる。
しかし、少年は前方に出現した光の差し込んでいる出口を見るわけでもなく、逃げるようにして後ろを振り向いた。
「…………」
少年の後ろには、あったはずのものが無くなっていた。少年の後ろあったはずの、先ほどまであったはずの病室から入ってきた扉は、もうそこにはなくなっていた。
「きっと、もう、戻れないんだろうな……」
少年は、扉が無くなったことを確認すると悲しそうに呟き、前を向いた。
もう、戻ることはできない。もう、元の生活に戻ることは叶わない。もう、引き返すことはできないと、心の中でできるだけの踏ん切りをつける。帰れたとしても、能力の制御ができるようになってから、世界を変えるほどの力を制御できるようになってからだと心に言い聞かせた。
「帰りたいな……」
制御できるようになるまでどのぐらいの時間がかかることだろうか。能力の制御にどれほどの時間がかかるのか想像もつかない。
少年は、不安を抱えながら女性の後ろ姿を見つめた。
女性は、迷うことなく目の前の扉の方へ飛んでいる。少年の手を引いて、決して後ろを振り向かずに前を向いて進んでいる。
「手を引いてもらうのは、いつ以来だろう……」
少年は、女性の後ろ姿にどこか懐かしさを感じながら昔に母親から手を引かれたことを思い出した。
生きていく上で少年を導く役割を担っていたのは、大抵母親の方だった。
父親は、導くというよりも支える、立ち方を教えるという方が多かったような気がする。それはあくまでも少年の主観であるが、おそらく客観的に見てもそうだったことだろう。
「母さん……」
少年は記憶の中の母親に挨拶を交わし、寂しそうに下を向く。少年の声は、本当に小さな嘆きだった。
少年は、無意識のうちにほんの少しだけ握られている右手に力を入れた、分かるか分からない程度の僅かな力を込めた。
「……っ!」
その瞬間、返って来る力に―――はっと顔を上げた。
少年は、掌から伝わる力を感じながら女性の後ろ姿を酷く驚いた表情で見つめる。
女性は、少年が僅かに入れた力を感じ取って少年の手を握り返した。離さないといわないばかりに、一人じゃないと伝えるように、不安を取り除くように、しっかりと握りしめ返した。
「ありがとう……」
少年は、はにかむような笑顔を作り、瞳に涙を溜めながらお礼を告げ、女性の握っている手をしっかりと握り返す。握り返した手からは、しっかりとした熱が伝わってきた。
両者の掌は、しっかりと握られ離れる様子はない。
女性は、少年の手を握ったまま光の差し込んでくる扉に向かって少年の手を引きながら進んでいく。
少年は、ただただ女性に連れられる。無抵抗のまま人形のように従う。先ほどまで必死に抗っていた少年は、もはや抵抗をすることはないようで、とてもおとなしかった。
二人は、扉をくぐり光の世界へ入りこんでいった。
「眩しいっ……」
少年の目に、扉というフィルターのかかった光ではなく、太陽からの直接的な光が入ってくる。
少年は、いきなりの光の量に目を細めて手をかざし、扉を出てすぐのところで顔を少し上げて足を止めた。
「……ちゃんと、地面がある」
少年の足の下には確かに地面があり、体を引っ張る重力が存在していた。どうやら完全に暗黒空間から脱出できたようである。
少年は、明るい世界の中で手を握っている女性の姿を捉える。女性は、少年の隣で物思いにふけるように動かず、空を見上げてたたずんでいた。
少年は、動かない女性を無視して視線を前へ向けた。
「おっきい家……あんなの初めて見た」
少年の視界の先には、大きな一軒家が映った。少年の見た限り、和風の家である。二階なんて勿論なく平屋で、昔の日本を思わせるような建物だった。
「なにこれ……」
見たことのない風景に心が躍る。好奇心を刺激されて目を輝かせる。
少年は、見たこともない風景と景観に居てもたってもいられなくなり握っていた女性の手を振り払う。そして、通ってきた扉から少しばかり前に走りだした。
「すごい、すごい!」
少年は、感嘆の声を上げながらくるくると回り、周辺を見渡す。少年の表情は、まるで新しい物をみつけた子供のようだった。
女性は、動き出した少年の方へ視線を向け、年相応の表情を見せる少年を微笑ましそうに見つめていた。
「すごい! 初めて見るものばっかりだ!」
少年の目には、現代では見ることのできない、テレビでよく取り上げられるような自然の風景が映し出されている。
「こんなところもあるんだ。テレビで言っていることも間違いばかりじゃないみたいだね」
少年のいる場所からは、いろんなものを見ることができた。周りの景色は、ほとんどが緑に埋め尽くされ、空の青さが一層際立っている。
ここは、標高何メートルの場所だろうか、丘の上にあるのか山の上にあるのか少年には分からなかったが、分からないことが余計に少年の心をくすぐった。
「ここが幻想郷なの? なんだか思っていたよりも普通だね。もっとなんかこう……幻想の生き物がうじゃうじゃしていて、真っ暗闇の中の暗黒世界なんだと思っていたよ」
(どうやら悪い印象を持ったわけじゃなさそうね、良かったわ)
少年は女性に向けて笑顔を作り、若干気持ちを高揚させたまま女性に声をかけた。感情の高鳴りを隠そうともせず、女性へと楽しさを全開に見せつけている。
女性は、楽しそうな少年につられるように嬉しそうな表情を浮かべた。少年が思ったよりも幻想郷に悪いイメージを持たなかったことに少しだけ安堵し、同時に喜びを感じていた。あれほど来たがらなかった少年が幻想郷を見て喜んでいる、そのことに嬉しい気持ちがないわけじゃなかった。
女性は、止めている足を動かして前方にいる少年の側まで歩き、優しい顔のまま少年の言葉に対して反論する。
「ふざけないの。そんな場所だったら、能力の練習なんてできないじゃない」
「まぁ、確かにそうだね。それこそ俺がさっきまでいた世界で練習した方が、よっぽど安全に練習ができるもんね」
女性の言うとおりである。もしも少年の言うような場所であったならば、練習ができる環境とはいえない。少年は、酷く納得したようで女性の言葉に対して大きく頷いた。
初めて幻想郷へとやってきた少年にとって'幻想郷'というのは、まさしく未開の地というイメージそのものだった。
具体的には、人の手が全く入っていない森林、獣道しかない山、建築物のないまっさらな土地、緑と青と赤がうまく混ざり合った目に優しい色だけが広がっているイメージである。
実際のところは、アスファルトではないが道路はあるし、建物もあるが、そんなことを少年は知っていなかった。
「貴方がそう思うのも仕方無いのかもしれないわね。幻想郷なんて言葉、初めて聞いたでしょう?」
「うん、初めて聞いたよ。ちなみにどう書くの?」
「幻惑のげんに、想像のそう、桃源郷のきょうで、幻想郷よ」
「げんわくのげん? とうげんきょうのきょう?」
「後で勉強しなさい」
女性は、幻想郷という単語を初めて聞く少年がその言葉から摩訶不思議空間を思い浮かべてしまうのは仕方のないことだと思った。
少年の過ごしている現代では、幻想郷という単語がそもそも存在しない。幻想郷という名前からしか世界を想像することができないのだ。その想像した結果が、少年の言っている想像になったということだろう。それは、仕方がないとしか言いようがなかった。
それに、暗黒世界という言葉を使っていることから、どうやら幻想郷という名前だけでなく、女性が作り出した暗黒空間が少年に少なからず変なイメージを与えてしまったようだった。
「それに何を勘違いしているのか分からないけど、ここはあなたのいた世界と全然変わらないわよ。別世界に行っているわけじゃないの」
「えっ、そうだったの?」
女性は少年の言葉に耳を傾けながら少年が大きな誤解をしていることを感じ取っていた。少年の言い方では、まるで世界が複数あるように聞こえるのである。
そして、案の定、少年は女性の言葉に驚いた。
少年は、てっきり世界が丸ごと変わっていると思っていた。見たこともない景色、見たこともない暗黒空間を通ってきたことによって別の世界に飛び込んでいたような認識でいた。
「それは意外だったな、別の世界がもう一つあるのだと思っていたよ。俺のいた世界とは別に、幻想郷っていう名前の世界があるものだと思ってた」
前にも説明したが、少年はこれまで生きてきて幻想郷という地名を聞いたことがない。
それに、女性が作り出した暗黒空間についても見たことがなかった。
未知の二つの要因によって想像が飛躍しており、暗黒空間を通ることで世界を渡り、幻想郷に辿りついているのだと勝手な想像を膨らませていた。
「世界は広いといえども、そんなに沢山あったりしないわ。世界は複数あるわけじゃないのよ」
「なるほど、そういうものなんだ。さっきまでいた俺の世界とは違う世界になったわけじゃないってことか、なるほど」
「分かったのならいいわ」
少年は、女性の言葉に二度、なるほどと言った。
一度目は、女性が言った言葉に対しての返事である。
二度目は、少年自身が言葉を言い換えて再び言うことによって、自己理解をしたということを伝える表現である。
二度のなるほどという言葉は、女性が発した言葉の内容をしっかりと理解したのだという少年からの証明だった。
女性は、少年が自分の言葉を理解したものと解釈する。
ただし、現実問題として本当に少年が女性の言ったことを理解しているのかは判断できない。少年が分かっているのかどうかを判断するためには、今一度問題を投げかける必要がある。
けれども、女性は再度尋ねるようなそんな面倒なことはしなかった。
とりあえず少年は、世界の成り立ちについて理解しているかどうかは抜きにしても納得はしたということ、それだけで十分だった。世界は複数存在しないという事実だけ知っていれば、それだけでいいのだ。
いま大事なのは―――もっと別の所なのだから。
「どう、幻想郷は気に入ったかしら?」
女性は、今一番気になっていること―――幻想郷を気に入ってくれているのかについて少年に尋ねた。
今最も重要なことは、少年が幻想郷という場所を好きになってくれるのかというところにある。これから生活を送る上で、自分の住んでいる場所を好きになることはとても大事なことである。
(幻想郷を好きになってくれるかは、今後に大きく影響する……そうじゃないとこの子が辛いわ)
特に少年の場合は、外の世界へ戻れる保証がないのだ。最悪幻想郷で骨を埋めることになる。幻想郷を好きになれないということは、息苦しい生活を送り続けなければならないということと同義になるのだから。
だが―――そんなことはあくまでも建前上である。女性は、もっと自分よりの部分で少年の返答を気にしていた。
(ふふふっ、そんなことはあくまで建前。私はただ、私の作った幻想郷を好きになってほしいだけよね)
女性は、少年が息苦しい思いをすることなどあんまり心配していなかった。あくまで少年のためではなく自分のために、少年に幻想郷という世界を好いていて欲しいと心から思っていた。
「まだ来たばかりだから何とも言えないよ」
「まぁ、すぐには答えられないわよね」
女性は、少年の端的な答えに少しがっかりした。先程の楽しそうにしている少年の様子から察するに幻想郷に対して良い言葉が返ってくると期待していたため、その落差も相まって、落胆する幅は大きかった。
「ただ、ものがうじゃうじゃしてなくていいね。建物が乱立してよく分からなくなっているよりは、よっぽどいいよ」
「そう……」
女性は、求めている答えが返ってこないことに残念そうに呟いた。
少年は、表情を僅かに暗くする女性に対して悪いことをしたかなと不思議そうに少し首をかしげる。
「俺、あんたに何か悪いことしたかな?」
少年は暫くの間女性の顔を覗き込む。
少年は、どうして女性がそんな顔をしているのか読みとれなかった。
もしも、悪いことを言っている自覚があるのならなぜそんな顔をするのか分かっただろうが、少年は別段特におかしなこと言っているつもりでも、悪いことを言っているわけでもない。少年には、女性の気持ちを把握できるだけの繋がりもなかったため、想像もできなかった。
「なんでもないわよ」
「そっか、それなら良かった」
女性は少年に心配されていると気付いて表情を戻すと、少年は安心した様子で言った。
「さっそくなんだけど、練習の方法を聞いてもいいかな。こういうのは早いうちにやった方がいいと思うんだ」
少年は、幻想郷の話から事の本題へと話を向かわせる。
もともと幻想郷に来たくなかった少年には、能力を制御するための練習をするという幻想郷に来た目的がある。明確な目的―――能力の制御をするという目的があるのである。
「早く能力の制御ができるようになって、早く帰らないといけないからね」
少年は、能力を制御するという目的を果たさなければ幻想郷から決して出ることはできないと理解していた。
それは、幻想郷に来ることになった経緯から容易に想像できる。間違っても途中で投げ出すことはできない。そんなことをしてしまえば、それこそ人生が終わってしまうかもしれない。誘拐されて幻想郷へと来ている今の状況が少年にそう思わせていた。
少年は、できるだけ早くに能力の制御を可能とし、外の世界に帰りたいと思っていた、帰らなければならないと思っていた。
「どれだけの時間がかかるのか分からないっていうのもそうだし、なにより俺は気持ちのエンジンをかけるのに時間がかかるからさ。早めに能力の練習を始めたいんだ」
「随分とやる気ね。目標に向かっていく姿勢としては悪くないわ」
少年は、やらなきゃいけないことは先に先に回すタイプである。食べ物の話に置き換えれば、嫌いなものは先に食べるタイプということになるだろうか。
実のところ、少年が嫌いなものを先に食べるのかどうかは分からない、実際そんなことはどうでもいいことである。
ここで大事なのは女性が少年のやる気を感じたという点である。やらなければならないことについてはやろうという気持ちが痛いほど伝わってきた。例え、不本意であったとしても、やらなければならないことに対して文句も言わない姿勢は立派なものに見えた。
「でも、焦らないの。焦っても能力が早く扱えるようになるわけじゃないわ。ゆっくりじっくり確実によ」
「ん……」
女性は、やる気を出そうとしている少年の頭の上に掌をポンと乗せ、視線を少年から外し、家へと向ける。
「とりあえず家の中に入りましょう」
少年は、女性の視線の動きに合わせて和風な家へと意識を向けた。女性が言葉にしたことによって、今の視界に入っている平屋で大きな家が女性の家なのだと把握した。
女性は、少年の頭の上に手を乗せたまま話し続ける。
「話しておかなきゃいけないことがたくさんあるから、そっちの方を先に済ませるわ。練習の方法についてもその時に一緒に話すから」
「了解」
少年は、女性の提案に了承の言葉を送ると、頭の上に在る女性の手の感触に自分の手を伸ばし、そのまま女性の手の上にさらに自分の両手をそっと重ねた。
女性は、手を重ねにきた少年の意図が分からず、不可解な顔になる。
「どうしたの?」
「なんか、懐かしいなぁって。頭の上に誰かの手が乗っているのって、なんだか安心する」
(うっ、こんな子供に心を揺さぶられるなんて……私、子供好きだったかしら?)
少年は、酷く穏やかな顔で満たされた顔をしていた。女性の心臓は、少年の子供のような表情に少しだけ強く鼓動する。
女性は、少年に心を動かされてしまったことを恥ずかしく感じ、顔をわずかに赤く染めた。
普段そうそうに動かない心が大きく揺さぶられている。それも、歓喜や悲しみとは異なり―――羞恥の類の動揺である。
女性は、湧き上がる恥ずかしさという感情に内心驚きを隠せなかった。長年生きてきてこうまで恥ずかしさや動揺を掻き立てるような状況になったことがあっただろうか、自分自身にこうも簡単に揺さぶられるものがあると思っていなかった。
保護欲というのだろうか、母性の一部というのだろうか、そういった普段揺さぶられないものが、自分の中でくすぐられている。
女性は、不可解な感覚にドギマギしていた。
「そういうものなのかしら? 思っていたよりも子供っぽいのね」
「言わないでよ。気にしているんだから」
女性は、自分の心が揺さぶられていることを少年に悟られないように、ごく自然に言葉を交わす。
少年は、重ねている手を動かすことなく、視線だけを女性へと向けて女性の指摘に頬を膨らませた。
女性は、昨日見なかった子供っぽい少年の反応に思わずくすくすと笑う。少年も膨らませていた頬を戻し、女性の笑いにつられて少しだけ笑った。
「でも、随分と温かい手をしているよね。うん、やっぱり心地いいよ」
「ふ、ふざけていないでさっさと行くわよ!」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「恥ずかしがってない! 黙ってついてきなさい!」
「どう見ても恥ずかしがっているじゃないか。ああもう、そんなに急がないでよ」
「うるさい! その口を閉じなさい!」
女性は、幻想郷ではあまりいないタイプの少年からの素直な気持ちに恥ずかしくなり、少年に重ねられている手を慌てて振りほどく。
少年の手は弾き飛ばされて力なく落下した。
「ふふっ……」
少年は、慌てふためく女性に苦笑する。いくら心地よいからと言って逃げて行く女性の手を掴むことはしなかった。
「はぁ……」
少年は、ある程度の時間前を行く女性を見つめるとほっと一息つき、女性の言葉に反論一つせず、先程の子供っぽい表情を消して真面目な顔を作り一言、言った。
「分かりました」
少年の言葉は、今までの流れを断ち切るような雰囲気を持っていた。
新しい環境に置かれた時
新しい雰囲気に取り込まれた時
勘違いしてはいけないことがある。
それは―――自分は何も変わっていないということだ