ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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8か月ぶりの再会、交錯する想い

 少年と文は、暗い雰囲気を若干引きずりながらも、妖怪の山の境界線に触れるまでもうそろそろというところまで辿り着いた。

 

 

「そろそろ降りようか?」

 

「そうですね、そうしましょうか」

 

 

 少年は高度を下げて地上に降り、山道に足を付ける。文も少年の後ろ姿の軌跡をたどるようにして地上に降り立った。

 ここまで数十分というところである。文が全速力を出せば、数秒。文が少年を抱えていけば、数十秒というところだろう。

 少年は、妖怪の山の山頂に一度目を向けた後、真下にある土の地面に視線を落とした。

 

 

「ここだね。ここからが妖怪の山だ」

 

 

 少年は、右のつま先で地面を軽くこすり、真横にスライドさせた。

 地面には、真っ直ぐな一本の線が刻まれる。境界線のない妖怪の山に境界線が引かれる。この線を越えた先からが―――妖怪の山である。

 文は、少年の行動に少し驚いた。迷いなく引かれたそれには、確信めいた少年の自信が伺える。

 妖怪の山の境界線など、誰も設けていないのに。誰かがそこを妖怪の山と定義したわけでもないのに。この線がここから先を妖怪の山と定めている。

 妖怪の山には、もちろんのことながらそうであるという境界線はない。誰もが個別に、ここら辺から妖怪の山だろうとざっくばらんに思っているだけである。

 それなのに、それを区切っている線には魔力というか、力があるのか、そこからが妖怪の山なのだと定義しているように感じられた。

 そこからが―――妖怪の山。きっとそうだ、そう思わせる何かがそこにあって、そこがそうだと思わされた。それは、少年の圧倒的な積み重ねと重みがあるからだろうか。理由は分からないが、長年妖怪の山で生活している文はそう思った。

 

 

「正解です。そこからが妖怪の山になります。本当にきっちりと覚えたのですね」

 

「僕は、やると決めたことに対して手を抜くなんてしないから」

 

「貴方はそういう人でしたね……」

 

 

 少年は、やると決めたことに対して手を抜くようなことはしない。考えてもみれば、境界線を引くという行為をするために外へと出かけた少年が、中途半端な境界線を引くわけがないのである。

 少年は、地面に向けていた視線を上げて妖怪の山の中腹である5合目あたりに目を向けた。

 

 

(あそこから椛がやって来る)

 

 

 自分が見ている妖怪の山の五合目から椛がやってくる。絶対に今も見ている。今か今かと待ち望んでいる。

 少年は、再び下を向いて先程引いた境界線を右手の人差指で指さした。

 

 

「多分椛は、このラインを一歩踏み出した瞬間に飛んでくるよ。椛の瞳はすでに僕の姿を捉えているだろうし、すぐにやってくるはずだ」

 

 

 椛は、この線に支配されている。この境界線が、椛の行動を制限する力を放っている。

 それはさながら―――檻である。いうなれば、動物園の檻のようなものである。踏み入れれば、動物は襲い掛かって来る。

 

 

「椛も大変だよね、立場上規則を破ることができないから僕がここを踏み越えないと、こっちにやって来られないんだよ」

 

「椛には、妖怪の山へ侵入する者に対する監視の任がありますから」

 

 

 椛は、妖怪の山の規則を破り、少年の所まで飛んで行けるほど肝の据わっている妖怪ではない。少年が妖怪の山の境界線を越えるまでは、決して体を動かさず、動きたくなる衝動を抑え込んでいる。椛が踏みとどまっていられるのは、自分に課せられている決まり事があるから以外の何物でもない。

 文は、凛とした声で少年に告げた。

 

 

「天狗は、ルールを破る者を許しはしません。秩序と権力が社会を作っている、それが天狗社会です」

 

 

 椛は、文の言葉通り妖怪の山で侵入者の監視を行っている。監視の任務は、秩序と権力が社会構造を作っている妖怪の山において軽々しく放棄できない責任のあるものである。

 任務を放棄するということは、天狗社会において酷く重い重罪となる。天狗社会に属している者には各々に役割があり、その役割を全うすることで社会を形成しているのだから、役割をなさない者は切り捨てられることになりかねないのだ。

 

 

「椛のような下位の存在である哨戒天狗が規律を守らなければ、一瞬で切り捨てられるかもしれません。前例が余り無いので、断言はできかねますが」

 

 

 現に、追放された妖怪は存在する。その多くが妖怪の山というテリトリーから見放され、暴走して死んでしまう。あるいは、妖怪の山へと戻してくれと懇願し、立場が悪いまま過ごすことになる。

 そんなリスクを背負うぐらいなら、面倒であっても、煩わしくとも、規則を守った方が良い。そのリスクが―――妖怪の山の秩序を守らせている。

 特に下っ端である哨戒天狗の椛が命令を無視するようなことをしてしまえば、天狗社会では生きていくことはできなくなる。文の言葉からは、そんな印象を受けた。

 

 

「私の役割は、そんな白狼天狗の監視を抜けてきた侵入者を追い返すことです。酷く稀に今後についての話し合いに参加することはありますが、まぁ滅多にあることではありませんね」

 

(天狗社会は、外の世界の社会構造と似ているのかな?)

 

 

 少年は、この時初めて天狗社会についての説明を受けた。天狗社会の情報は、椛からは一度も教えて貰っていなかった情報である。

 少年は、文から聞いた天狗社会の構造が外の世界によく似ていると思った。天狗社会というのは、外の世界と似通った社会を形成しており、権力のピラミッド構造を成している。

 だが、少年が天狗社会と外の世界の構造が似ていると思ったのは、最初だけだった。

 

 

(でも、やっぱり違うか。僕は、外の世界の仕組みの方がずっと好きだな)

 

 

 少年は、両者がよく似ていると思ったけれども、それは気のせいなのだとすぐに判断した。

 

 

(努力がみじんも認められない世界なんて、僕には耐えられない)

 

 

 少年は、椛を見ていてずっと感じていた想いがあった。努力しても、何も認めてもらえない。誰かに褒められることがなく、逆にそれを馬鹿にされる。

 真面目にやっている人間をけなすような社会―――今まで侵入されたことがなかったからという過去の流れから責任感を持って仕事をしている相手を馬鹿にするような世界のどこが、外の世界と似ているというのか。

 

 何を言っているんだ。外の世界だって同じだろうと言う人もいるかもしれない。確かに、少年が知らないだけでそんなところも外の世界にはあるだろう。少年が知らないだけで、たくさんあることだろう。「なんであいつあんなに頑張ってんだ? 馬鹿じゃないのか」そんな言葉が飛び交うことだってあるだろう。

 しかし、それだけではないことは確かなはずである。努力している人を認めてくれる、認めてくれる誰かはきっといる、どこかにきっとある。

 だが―――妖怪の山はそこしかないのだ。妖怪の山というコミュニティは、妖怪の山で完結している。

 逃げ場はなく、閉じている。

 いくら訴えても、何も変わらない。

 何も変わろうとしない。

 外を見ようとしない。

 見えていないふりをする。

 隣の芝生は青く見える―――見えなきゃ、そんなものはなくなる。そう言わんばかりである。

 妖怪の山は、妖怪の山の外を知らなさすぎるのだ。

 それが、少年の中で天狗社会と外の世界との差を生みだしている要因だった。

 

 

「なんにせよ、妖怪でこれほどの秩序を保っている集団は、他にはありません。私達は知性と理性をもって生きているのです」

 

(知性と理性……ね。天狗社会は、それほど効果的に機能しているようには思えないんだけど……)

 

 

 少年は、自慢するように誇らしげに天狗社会のことを話す文の姿を見つめる。

 一応文は、白狼天狗の監視を振りきって山を登り始めた侵入者を防ぐのが自分の役割だと言っているが、少年には何とも想像し難かった。自由奔放な文を見ていると、どうしても天狗社会が上手く機能しているとは思えなかったのである。

 少年から見た文の印象というのは、元気の塊、自由気ままというものである。その性格から文の場合は、例え白狼天狗の監視を通り抜けて山を登る者がいたとしても、その侵入者に天狗に対する完全な敵意が無ければ、侵入者の相手をしないということが容易に想像できた。

 

 

(文は、自分が言っていることがどれほど矛盾でいっぱいなのか分かっているのかな? それが悪いってわけじゃないけど、言っていることとやっていることが違うのは、説得力がないからね)

 

 

 それほどに天狗社会での秩序が大事であるならば、文はこうやって妖怪の山を出て取材や新聞を書いてはいないだろう。文の言動からは、意識の低さがにじみ出ている。

 でも、それが悪いというわけではない。それが、いけないというわけではない。

 別に遊べばいい。別に外に出ればいい。守ることが全てではない、待っていることが全部じゃない。だから、文のように飛び回ることだって問題でも何でもないし、そういうものだというものでしかない。

 ただ、言っている言葉に重みを感じないのは、きっと後悔をしていないからだ。経験をしていないからだ。行動が言動と一致していないからだ。

 

 

(言った方が良いのかな……いや、言わないでおこう。言っても何も変わりはしない。混乱させるだけになる……だからなんだという話になってしまうかもしれないし……)

 

 

 少年は、文の言葉に矛盾が介在していることにとやかく言うことはなかった。例え、嘘のように思われても、それが偽りのものでも。

 それでも少年は、文が言う天狗社会の説明の言葉を信じることにした。

 

 

(妖怪の山を守るのは、みんなの共通認識なんだよね。そうなんだよね。椛は、そう信じるって言ったんだから。僕も信じることにしよう)

 

 

 少年は、文の言う妖怪の山の秩序を守るという気持ちを汲み取った。反発せずに受け取れた理由は間違いなく、いつも頑張っている椛の姿を見たからだとここで言っておく。

 少年は、文からの話を一通り聞くと会話の中身を断ち切る。

 

 

「そろそろ行くよ? いいよね?」

 

「はい、いつでもどうぞ」

 

 

 少年は、一言掛け声を発すると、一歩ばかり妖怪の山へ変わるラインを踏み切った。

 文は、少年が境界線を越えるのを確認すると、前のめりになりながら視線を妖怪の山へと向ける。

 

 

「どれどれ?」

 

 

 文は、少年のような人間ではなく妖怪である。妖怪である文は、人間の少年では確認できないような遠い距離を見渡すことができる。間違いなく、少年よりも早くに椛の姿を確認することができるだろう。

 文は、哨戒天狗―――椛がいるであろう妖怪の山の中心付近を見つめた。

 

 

「哨戒天狗がいつもいるのは、あの辺りですかね」

 

 

 文の視界には、はっきりとは捉えられないものの、人らしきものが勢いよく山を下っているのが映った。

 

 

「おお、速い速い。椛もあんなに速く飛べたのですね」

 

「この距離でもう見えるんだ。文も目がいいんだね」

 

 

 少年は、どこかでした藍とのやりとりを再び交わした。このやりとりは、人里に買い物に来た時にした会話である。

 少年の目には、何一つ椛と認識できるものは映っていない。視界の中には、普段と変わらない妖怪の山がそびえているだけである。

 

 

「椛ほどじゃありませんよ。でも、和友さんに見えないのは仕方がないです。人間なのですから」

 

「人間だから、か……僕には妖怪も人間も同じように見えるよ」

 

 

 少年は、少し寂しそうな表情のまま山を見つめていた。

 暫くすると、少年の目にも椛の姿を捉えることができるぐらいに、椛の姿が近づいてきているのが見え始める。ものすごい勢いで遠くの方から飛んでくる人影が見えた。

 人影はどんどん大きくなり、姿形がはっきりとしてくる。近づいてくる人物は表情を明るくし、満面の笑みを浮かべて尻尾を振って飛んできているようだった。

 息を切らしながら。

 赤いマフラーをたなびかせながら。

 大きな剣を持った真っ白な存在が飛んできた。

 

 

「はぁ、はぁ……」

 

 

 少年の前にたどり着いた人物は急ブレーキをかけて停止し、満面の笑みで少年を見つめた。

 その人物こそ―――犬走椛である。

 椛は、少年の目の前で止まると息を整えるように大きく息を吸い、少年と挨拶を交わした。

 

 

「和友さんお久しぶりです」

 

「久しぶりだね、椛。半年ぶりぐらいかな」

 

「は、はいっ。半年ぶりです。もうちょっと正確に言うと8か月ぶりですけどね」

 

 

 少年は、半年前と‘少しだけ変わった少女’に向かって半年前と何も変わらない対応をした。‘何も変わっていない少年’は、何も変わっていないことを示すように正面を向いて相対した。

 椛は、少年の全身を見渡し、半年前よりも大きくなった少年の姿を視認する。体の大きさ自体は少しばかり変わったものの、相も変わらずの雰囲気を発している。椛の中の少年は、今の少年と完全に重なった。

 椛は、身長以外に何も変わっていない様子の少年に嬉しそうに声をかけた。

 

 

「お元気そうで安心しました。しばらく妖怪の山へ来てくださらなかったので心配しましたよ」

 

「ごめんね。この半年、ちょっと色々あってさ」

 

「そうだったのですか。でしたら、これからは……」

 

 

 椛は、息を整えながら胸を撫でおろして少年と会話を進める。

 妖怪の山にどうして来なくなったのかという半年に渡る疑問の回答は、色々あったという酷く曖昧なものだった。

 けれども、それも今日までの話なのだろう。たった今、少年は椛の目の前にいる。妖怪の山へと来ることができなかった理由が取り除かれたからここに来たのだろう。

 来ることができない理由が無くなったのならば、これからは妖怪の山へと来てもらえる。椛は、来ることができなかった理由が消え去った今ならば、妖怪の山へと来てくれるものと期待していた。

 しかし、少年は椛の期待を裏切るように妖怪の山に訪れなくなった理由を告げた。

 

 

「ただ……妖怪の山の立地はもう分かったから、妖怪の山に来る理由が無くなったんだよね」

 

 

 昔、少年が妖怪の山を訪れていた理由は、妖怪の山の境界線を探るためである。境界線を引くために妖怪の山に来ていた少年は、妖怪の山の境界線が分かってしまえば妖怪の山へ来る理由が無くなってしまう。

 それは、少年に会いたいという想いを抱えている椛にとって死刑宣告に近かった。

 

 

「それに、本来妖怪の山は僕みたいな余所者が入っちゃいけない場所だし、積極的に来ようとする場所じゃないでしょ?」

 

 

 妖怪の山は、本来人間が立ち入ってはならない場所である。人間の立ち入りが基本的に禁止されている場所に少年が入りこむ理由もない。

 さらには、少年の病気が表面化した時期が上手く妖怪の山の境界線を覚えた時期と重なったのも原因の一つとなっていた。

 

 

(あの頃が一番辛かった時期だったしなぁ……)

 

 

 とてもじゃないが、体を動かして外に出るなんてことをできる状況ではなかった。永遠亭からも出られないような、病室から出ることができないような人間が、どうして妖怪の山に行けるだろうか。行きたくても行ける状況になかった少年は、妖怪の山へと行ける道理がなかった。

 椛は、妖怪の山へと来る理由が無いという少年に向かって、少しだけ恥ずかしそうにしながら自らの想いを打ち明ける。

 

 

「私に会うという理由で妖怪の山へ来ていただけないのですか? 私が一番に和友さんを見つけますから。和友さんを危険な目に合わせるなんて絶対にしませんから」

 

(私には恥ずかしすぎて、あんなことを口にできませんね)

 

 

 少年の隣にいた文は、椛の言葉に思わず恥ずかしくなった。少年のことを下の名前で呼んでいることからも、親しい間柄であることは予測できていたが、椛がこれほど真っすぐに少年に向かって好意を示すような言葉を使うなんて予想外だった。

 文には、椛が言うようなことは恥ずかしくて口にできない。見栄や自尊心が邪魔をするのだ。

 誰かに好意を伝えるということは、心の奥底にある感情を打ち明けるということ。それは、自分自身を明かすということ。それをするには、その人になら心を晒してもいいと、相手の侵入を許すことが必要になる。

 文にはそんなことはできない。未だに恥ずかしさや見栄が勝っている文には、絶対にできない芸当である。

 けれども、椛は少年に会いたいのだと愚直なまでに述べている。文の心は、その椛の行動にざわついた。

 自分ができないことをやっている。

 どうして自分にはできないのか。

 そういった思いが心を揺さぶっている。

 文は、自身の心に沸き立つ恥ずかしさをごまかすように、椛に対して茶々を入れ始めた。

 

 

「うわぁ、愛の告白ですか?」

 

「……文は、なんでここにいるのよ」

 

「ふふん」

 

 

 椛は、少年の隣にいた文の存在が目に入っていなかったようで露骨に嫌な表情を浮かべると同時に声のトーンを落とした。

 椛は、明らかに文を無視しようとしている。椛の立っている位置や、少年のいる場所まで飛んでやってきた軌跡を考えると、文が見えていないということはありえない。まさか、少年だけを収める視界を保持しているわけではないだろう。椛の行動は、完全に文を置き去りにしていた。

 文は、椛を挑発するように少年の腕を抱きしめる。目の前にいる椛に見せつけるようにして、頭を少年へと寄りかけながら言葉を並べ出した。

 

 

「それはもちろんデートですよ。これから協力プレイのもと、妖怪の山へと登山に向かう途中です」

 

 

 少年は、腕を取られても特に動かなかった。少年の視線は、文に向かうことなく、椛に注がれている。

 文は、少年が動かないのを不思議がることもなく、椛を挑発するために自身のできる最大の虚勢を張る。いつもしているように顔に仮面をつけ、少年の腕にしがみついてしまっている恥ずかしさと少年の傍に寄っている嬉しさを押し殺すように平常心を装っていた。

 ここで恥ずかしがってしまったら虚偽が露見する。文は、いつもの仮面をかぶることで、椛に対する挑発を上手くやれているつもりだった。

 だが、そんな文の思惑とは裏腹に、椛は一切動揺することなく、文の言葉を嘘であると切り捨てた。

 

 

「見え見えの嘘はつくだけ無駄よ。そんな薄っぺらの嘘で騙せるのは文の数少ない購読者だけだと知っておくのね」

 

「ど、どうして嘘だと分かるのですかっ?」

 

 

 文は、張り付けていた仮面を一瞬ではぎ取られ、動揺を隠せない表情で声を荒げた。

 文が離れるのと同時に少年の腕が自由になる。少年は、目の前で繰り広げられている争いを見て遠い目をしていた。

 

 ―――なんだこれは。

 なんで、どうして。

 どうしてこうなるの。

 僕は、こんなことのために来たわけじゃない。

 少年の中に、疑問がぐるぐると血流にまぎれて回転する。

 そんな少年のことを知る由もない椛は、さらに場を荒らす。「頭が悪いのね」と言わないばかりに文を見下すようにして言葉を放った。

 

 

「言わなきゃ分からないの?」

 

(はぁ、やっぱり来なきゃよかったかな……少なくとも、文を連れてくるべきじゃなかったか)

 

 

 二人の間の空気は、今にも喧嘩が起こりそうな雰囲気に変わっていく。じわじわと黒いものが空間に停滞していく。

 少年は、二人の様子を見て小さく息を吐き出すと椛の所に来てしまったことに少しばかりの後悔をした。

 

 

「何を言い争っているのか分からないけどさ。時間が限られていることだけは言っておくからね。僕は、1時間もしたら人里に筆を受け取りに行って家に帰らなきゃならないんだよ」

 

 

 少年は、二人の間に割り込むようにして話を入れ込んだ。ちなみに、先ほども言っていたが少年に時間が無いというわけではない。話すぐらいの余裕なら普通にある。

 店主は、時間にうるさい人間ではないのだから筆を取りに行くのが遅れても大した問題にはならないだろう。例え、受け取るのが明日になったとしても特に怒られたりなどしないはずである。

 つまり―――今日一日は、フリーと言える日である。

 文は、道中で言っていた言葉と違う少年に問いかけた。

 

 

「え、でも、さっきは時間に余裕があるって」

 

「どうでもいい言い争いを聞くぐらいなら帰るよ。僕には、時間を無駄につぶしている余裕はないんだから」

 

 

 文は少年が若干怒っているのを感じ取り、ひきつった顔をした。

 普段ならば、そんなことにはならなかっただろう。ここが人里ならば、そんなことにはならかったはずである。

 妖怪の山で、椛と一緒に、そんな場であったから。だから、少年には喧嘩しているのを黙ってみているだけの心の余裕がなかった。

 本当ならば椛に会いに行くことも乗り気ではなかった。会わない方が良いとさえ思っていた。

 その通りだったかもしれない。今日会ってしまったのは、失敗だったかもしれない。少年は、そんな後悔が―――ちょっとした気持ち悪さが心の中に住んでいるのを感じ取っていた。

 

 

「あんまり時間をかけすぎると、きっと……僕を心配して連れ戻しにやって来る」

 

 

 少年は、店主から3時間という待ち時間を告げられた時、マヨヒガに一度帰ろうか悩んだ。

 藍がきっと心配している。

 帰ろうか悩む理由は―――それだけで十分だった。

 

 

(藍は、椛みたいに我慢してちゃんと待っていられるかな……藍なら、大丈夫だよね……?)

 

 

 普段少年が出かけるときには、藍がついてきている。いつでも少年の傍にいた心配性な藍は、きっといてもたってもいられない気持ちで、不安を抱えながらマヨヒガで待っていることだろう。

 少年は、今一番構ってあげなければならない相手が、マヨヒガで自分の帰りを待っているのではないかと考えると気が気ではなかった。

 

 

(藍のことを考えると、やっぱり心配になっちゃうんだよね)

 

「そうでしたか、和友さんに時間がないのなら話を進めます。折角の時間を無駄にするわけにはいきませんからね」

 

 

 椛は、無駄な時間を過ごしたくないという少年の意見に便乗する。そして、文を横目に見るとはっきりと告げた。

 

 

「文のことなんてどうでもいいのです」

 

「一応、私の方が椛よりも立場が上なのですが……」

 

 

 文は、椛から向けられる明らかな敵意に声を小さくして文句を垂れた。

 椛が文に対してのみ喧嘩腰になることは、天狗全体が知っていることであり、特に気にされていなかった。文が椛に対する態度や扱いがあまりに他の白狼天狗と違うため、椛が怒っても敵意を向けたとしても仕方がないと黙認されていたのである。

 椛は、少年の言葉に急かされるように文の言葉を無視し、少年の目を射ぬくように見つめる。少年は、真剣なまなざしで見つめる椛に視線を集めた。

 

 

「和友さんに、聞きたいことがあります」

 

 

 椛は、少年に聞きたいことがあった。そして、伝えたい想いがあった。

 椛は、話の流れを最終的に言いたいことに持っていこうと最初の話題に切りこむ。

 

 

「和友さんが妖怪に山に来なくなったのは、妖怪の山の立地が完全に把握できたからというものでよろしいのですか?」

 

「それで概ね合っているよ」

 

 

 少年は、妖怪の山へと来なくなった理由を目的が無くなったからということだと言う。

 妖怪の山は、人間にとって目的が無ければ来るような場所ではないため、少年の言っていることは何もおかしくはない。

 椛は、次なる言葉を吐き出そうとそっと息を吸った。

 その瞬間――少年から行動の割り込みがあった。

 

 

「椛は、知らない間にまた敬語に戻ったんだね」

 

「あっ……」

 

 

 少年は、これまで話していて半年前の椛と今の椛の違いに気付いた。

 椛は、最初に少年と出会ったとき、敬語ではなかった。もともと椛は、侵入者に対して尊大なイメージと近寄りがたいイメージを与えるために、厳かな口調をしていた。

 しかし、口調がうつるという話をしたと思うが、間違いなく椛は少年の口調がうつっていた時期があったのである。その時は、少年と椛は―――気軽に話せる友達感覚で話していた。

 椛は、そっと口元に手を当てながら言った。

 

 

「余りに久々だったからでしょうか、話し方を忘れてしまったみたいです」

 

「いや、良い傾向だと思うよ」

 

 

 少年は、心から椛の変化を喜ぶ。

 椛は、良い傾向という少年の言葉に儚い期待をした。

 印象は悪くない。椛は、自らの想いを遂げる可能性の上昇を感じ取ると、少年に迫るように近づき、問いかけた。

 

 

「和友さんは、敬語の私の方がお好きですか?」

 

「椛、結構ガッツリ攻めますね。肉食系女子ですか?」

 

 

 文は、椛の一言に黙っていられず言葉を挟み込んだ。

 二人の会話。

 これは、二人のための会話。

 空気をそのまま呑み込めば、文はこのまま黙っているか、この場から去るかの二択を選ばなければいけない場面だっただろう。逃げたくなる場面だっただろう。

 だが、それを許すほど、文の心は文に対して優しくなかった。文の心はここで引けとは命じなかった。逃げるなと豪語していた。

 しかし文のそんな捨て身の言葉も、場に留まらずに通り過ぎる。椛は、文の言葉を完全に無視していた。少年も同様に文の言葉を無視していた。

 

 

(文には悪いけど、これは僕と椛の問題だから)

 

 

 少年は、この時点で椛が自分に何を伝えようとしているのか察していた。

 

 

「僕は、口調に関してはどっちでもいいかな。喋り方はあんまり気にしない方だからね」

 

「そうでしたら、このままでいさせてもらいますね」

 

 

 久しぶりの少年との会話で、心の内が打ち震える。やっぱりこれが必要だったのだと体が訴えかけている。椛は、顔に笑みが浮かぶのを止められなかった。

 少年は、嬉しそうに話をしてくれる椛を見ながら口調以外変わっていない椛に対してかつて伝えた想いを再び伝えた。

 

 

「椛は、相変わらず妖怪の山で侵入者に対する見張りをやっているみたいだね。本当に立派だと思うよ」

 

 

 少年は、嘘でもなく本当に椛のことを立派だと思っていた。

 

 

(椛は、僕によく似ている)

 

 

 決まり事を破ることの出来ない少年と、天狗社会での役割を放棄することができない椛は―――よく似ている。

 

 その社会で生きていくために努力していたことも。

 努力が相手には認められないところも。

 認められなくても、自分にとっては意味があると思っていたことも。

 きっといつか、認められる時が来ると信じていたことも。

 

 少年は、椛に対して少しだけ同族のような感覚を覚えていた。

 椛は、少年に褒められたことで気恥かしそうにお礼を述べる。

 

 

「あ、ありがとうございます。でも、これが私の仕事ですから……やっていて当然なのですよ」

 

「当然のことを当然のように守れる、それが椛の凄いところだと思うよ」

 

 

 自分の役割を全うする。決まり事を守ろうとする。ルールに、規則にのっとる。

 少年は、それがどれほどに難しいことなのかよく分かっていた。決まりごとに縛られ、本人の意志とは違うことをする。やりたくないことを―――強制する。それは、心の拷問ともいうべき、悪夢のような時間である。

 少年は、素直に椛のことを称賛した。自分の決まり事よりも、椛の妖怪の山の監視の方が守ることが難しい。少なくとも少年は妖怪の山の監視の方が、難易度が高いと思っていた。

 

 

「特に、椛のやっている妖怪の山という監視の仕事は、当然のようにやることが難しいことだ。みんなのために―――そう思って心を曲げられる椛は、本当にすごいと思うよ」

 

 

 少年の決まり事を守るというルールは―――自分自身を守るもの。

 椛の妖怪の山の秩序を守るという掟は―――妖怪の山を守るもの。

 両者は似ているようで、その実似て非なる物である。妖怪の山を守ること、それは椛自身を守ることには一概に繋がらない。なぜならば、それは椛だけが頑張っていれば済む問題ではないからである。

 少年の敵は自分しかいない。外から攻撃を加えられることはなく、自分が怠けないように自制すればいいだけの話である。

 だが、椛の場合は違う。

 椛の敵は、味方にいるのだ。

 

 

「怠けていてもばれないし、大きな損害の出る仕事じゃない。さっき聞いたけど、哨戒天狗が突破されても、文みたいな上位の天狗が出てくるということなんでしょ?」

 

「はい、そうですね。私たちが突破された場合、上位の天狗が対処にあたります」

 

 

 椛の行っている任務は、妖怪の山に対して大きな影響を与えない。

 椛が仮に侵入者を見逃しても、影響はそれほど出ないだろう。文が言っていたように哨戒天狗が突破されても、上位の天狗たちが防衛に入る。椛のしている妖怪の山の監視は、あった方が良いという程度でしかない。それをずっと真面目に妖怪の山の秩序を守るために頑張っている。

 

 

「だったらなおさらだ。哨戒天狗の仕事は、普通の人間なら適度にサボってしまうと思うよ。椛は、真面目にいつも妖怪の山を見張っているし、凄いと思う」

 

「これまでずっと妖怪の山の監視をやってきましたが、こうやって褒めてくださったのは、今も昔も和友さんだけです」

 

 

 椛は、少年の言葉に照れくさそうに頬をかきながら嬉しそうにする。

 なんでなんだろう? どうしてこうなのだろうか?

 

 

(どうしてみんな褒めてあげないんだろう……みんな僕よりもすごいことをやっているのに、どうして褒めてあげる人が誰もいないの?)

 

 

 少年は、不思議に思っていた。幻想郷の人間は、褒められ慣れていない人間が多すぎる。

 みんな、初めて褒められたとか、そう言ってくれるのは貴方だけですとか、嬉しそうに答える。

 褒められることがないのは、出来て当然と思われているのか。

 それとも、褒められるほどのことでもないと思われているのか。

 藍が褒められないのは、前者だろうか。

 椛が褒められないのは、後者だろうか。

 少年には、分からなかった。

 

 ただ―――少しだけ寂しいなと、そう思った。

 


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