少年は、文から手渡された新聞を綺麗に折れないようにゆっくりとカバンの中にしまいこむ。文は、少年の動きに合わせてカバンを見つめた。
少年が持っているカバンは筆とノートを入れるための物であるためそれほど大きくはなく、新聞を入れるとポッこりと膨らんだ。
「若干窮屈になっちゃったかな? もともとノートと筆しか入れる予定のなかったカバンだし、しょうがないのかな」
少年の手が質量を蓄えて膨らんだカバンをポンポンと二度叩く。これ以上入れるのは、おそらく無理だという事がカバンから伝わってくる。
ただ、これからの少年に今後の予定は存在しない。少年は筆の点検を目的に人里へと来ている。これ以上の心配は無用である。
「でも、別にこれから買い物行くわけじゃないから大丈夫だよね」
「買い物に来たわけではないということは、笹原さんは何をしに人里に来られたのですか?」
文は、少年が「一人で」人里に来た理由が酷く気になった。
少年は、いつだって八雲の式神と共にいた。文が人里で少年を見かけたときには、いつだって隣に八雲藍がいた。それに、人里に来た目的のそのほとんどが買い物をするためである。
そんな少年が―――買い物以外の理由を抱えて一人で人里へ来ている。
「いつもでしたら八雲の式神と一緒に来ているのに……今日は特別な理由でもあったのでしょうか?」
もしも、ここで理由がはっきりと分かれば、少年が確実に個人で人里へやって来る機会が分かる。
人里へ一人で来る理由。それを知ることはつまり、少年と話をする機会を安定して得られるということである。理由が分かれば、狙って人里に来ることも難しくない。
文は、そんな画策をして少年の言葉に耳をそばだてた。
「今日は、いつも使っている筆記用具の新調だね。僕も文と同じで書くことが結構多いから」
「笹原さんも何か書いてらっしゃるのですかっ!?」
文は、少年の予想外の言葉に声を大にし、興味津々な様子で体を乗り出すようにして少年に迫る。
少年は、文が勘違いしていることにすぐ気付いた。
文は、自分が何か読み物を書いていると勘違いしている。自分と同じような趣味を持っていると勘違いしている。同じ趣味というか、趣向を持っていると勘違いをしている。
少年が書いているというのは、誰かに何かを伝えるためのものではない。少年の書いているそれは自分のための、自分のためだけのものである。あくまで識別や区別をするための書き記す作業のみで、物書きというのには程遠い。
文は、そんな少年の事情をつゆほども知らずに書いている物を見させてほしいと懇願した。
「もしよろしければ、拝見したいのですが!」
少年は、気持ちを高揚させている文が想像しているような物書きではないということを苦笑交じりに伝えた。
「ふふっ、僕は物書きじゃないよ」
「あやや、そうなのですか?」
文は、興奮していた表情を一転させてきょとんとする。そして、若干の残念さをにじませるように詰めた距離を離した。
少年は、勢いのなくなった文にそっと呟くように話題を広げる。
「でも、書きやすいペンとかあったら紹介してもらいたいかな」
「そ、それだったらですね……」
文は、すぐさま少年の提示した次の話題へと飛びつき、僅かに頬を上気させながら自分が使っているペンを勧め始めた。
「私の使っているペンとか、どうでしょうか!?」
少年が物書きではないという事実を知って落胆する様子は一瞬のうちに消え去っている。先ほどの話題など露程にも残っていないように次々と言葉を少年に投げかける。
「‘私の使っている’ペンはですね」
文は、少し興奮しながら自慢するように自分の使っているペンを賞賛する。ペンの質もさることながら、自分が使っていることをやたらと強調して話をした。
だが、ペンを使うのに‘誰が使っているか’は重要なポイントではない。ペンに求められるのは、誰でも使える汎用性である。そういった意味では、文の勧め方は間違っていると言えた。
そんなことは文も知っていて。
知っていて―――強調していた。
「紙の上を非常に滑りやすくて、筆感もいいですし、インクが漏れたりもしません。なにせ、‘私が’選んだペンですからね!」
「そんなに勢いよく話さなくても大丈夫だよ。ゆっくり話してくれていいから」
「あわわ、申し訳ありません。こんなにいきなり捲し立ててもよく分かりませんよね……」
文は、少年の困った顔を見て、興奮してしまい勢いに任せている状況を自重した。
物を勧めている相手が話しについてこられないのでは、文字通り話にならない。記者として会話を成り立たせるのは本分のはずなのに。
どうして、こうなるのか。
どうして―――それは分からなかった。知らなかった。
「あははは、何やっているのでしょうか、私ったら……」
少年は、独りでにころころと表情を変える文に複雑な表情を浮かべていた。
どうすればいいのだろうか。こういう場合は、どうしたらいいのだろうか。頭の中にぐるぐると疑問が回っていく。
人間関係に正解はないのにあるものとして考えてしまう。全てを放棄できればそんなことを考えなくてもいいのに。煩わしいと思ってしまえばそれで終わりなのに。純粋な少年はいつだって答えに悩んでいた。
「百聞は一見に如かずです」
文は、少年の言葉にもぞもぞと何かを探し始める。実際に使っているペンを見せた方が分かりやすいだろうと腰の方へと手を伸ばした。
ペンは常に取り出せる環境、すぐに気になったことを書くことのできる状態にしている。
文は普段から腰にさしてるペンを取り出し、少年に提示した。
「実際にお見せした方が分かりやすいですよね。これが私の使っているペンです」
「へぇ、なんか凄そう。これって高級品だったりしない?」
「ふふん、凄そうでしょう? これ、見つけるのに結構苦労したのですよ」
ペンは文の背中に生えている羽と同じ漆黒で、ところどころに刺繍の入った万年筆である。
どこで買ったのだろうか。幻想郷には古風なものが残っているが、万年筆を見かけたことはない。少なくとも、これまで人里へ買い物に来た時に見かけたということはなかった。一応、人里の商店街で売られている物は一通りノートに記載してある。記憶にないということは、人里の商店には存在しないはずである。
文の話に少しばかり興味をそそられて少年の体が前のめりになる。
文は、提示したペンを片手に持ち、意気揚々と少年に語り始めた。
「これは、ある古道具屋にあった代物でして……」
「こちら、粒餡の饅頭と緑茶になります」
文が少年にペンについて自慢しようとした―――ちょうどその時である。タイミングが悪く、注文していた食べ物と飲み物が少年の元へと運ばれてきた。
文は、少年との話を遮って登場した店員に視線を向ける。
店員は、向けられる鋭い視線に耐えきれず、文に疑問を投げかけた。
「……何かありましたでしょうか?」
「いえ、なんでもないわ」
「そうですか」
文は、鋭い視線を保ったまま店員に答えを返した。
店員は、文の視線を気にすることなく、いつも通りのしぐさでいつも通りの動きをする。少年の注文した商品を持ってきて、テーブルの上に置く。
これで―――店員としての仕事は終わりである。
少年は、商品を持ってきてくれた店員にお礼を告げた。
「ありがとう」
「では、ごゆっくりどうぞ」
店員は、一度少年に向かって頭を下げると、体を反転して店の中に戻ろうとする。
それを見た少年は、店の中へと戻ろうとする店員を引きとめるように声をかけた。
「もう一杯だけ緑茶を貰えますか? 彼女の分を一杯だけ」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
「わ、私の分なんて別にいいですよっ!!」
文は、少年からの予想外の申し入れに驚き、店員に向けていた顔を勢いよく少年に向けると両手を正面でぶんぶんと振った。
借りを作るといってしまうと大分大げさに聞こえるが、普段会うことのできない少年に何か借りができている状態というのは、借りを借り続けることになりかねない。それは、文にとって気分の良いものではなかった。
「気なんて遣わなくても大丈夫です! もともと飲み物を頂くつもりでお話を持ち掛けたわけでもありませんし!」
それだけかといえば、それだけではない。それだけだったらここまでの動揺はしないだろう。
本当のことを言えば―――唐突な少年の親切心に動揺してしまったからである。借りを作るなんて些細なもの。動揺して、思わず断ってしまったという理由が80%以上を占めていた。気を遣われると思っていなかった。そもそも、会えるとも思っていなかった。その心の準備のなさが、文の心に動揺を生み出していた。
「遠慮なんてしなくていいよ。緑茶ぐらい呑みなって」
少年が文に飲み物を飲むように促しているのには、二つの理由があった。少年は理由の一つを挙げて押し切り始める。
「文はいつも元気よく喋っていてくれている、楽しそうに喋ってくれる」
文は、いつだって楽しそうに話をしている。感情を表に出し、誰から見ても感情が読み取れる。少年は、喜んでいると分かる文のむき出しの心が好きだった。
少年は、文に緑茶を飲ませるために「本当を8割」と「嘘を2割」こめて方便を口にした。
「僕は、そんな文から元気を分けてもらっているけど、文の喉が潰れちゃうんじゃないかって心配になるんだからね」
「あぅ……私から元気をですか……」
「うん、僕はいつも文から元気をもらっている。頑張るための気持ちを受け取っているよ」
文の顔が恥ずかしさで赤く染まる。
初めて知った。そんなところで役に立っていたなんて。
文は、少年の言葉を聞いて自分の元気が少年に良い影響を与えられていることを初めて知った。
「笹原さんは、卑怯ですよ……」
「卑怯か……そうかもね。でも、僕の気持ちに嘘はないから。これが、そのままの気持ちだから」
文は、顔を赤く染めたまま少年の表情を見つめる。恥ずかしさに包まれた状態の心で見つめる少年の表情には、嘘は見当たらなかった。
少年は、文の蔑むような言葉に笑顔で応えている。
少年がここまではっきりと恥ずかしがらずに自分の気持ちを伝えられるのはどうしてだろうか。幻想郷にいる人物は、意外と少年のようにはっきりと気持ちを伝えられない。
それは、頑固な人間が多いから?
それは、芯が通っている人が多いから?
それは、誰かに頼らなくても生きてけるから?
それは、言わなくても伝わっていると思うから?
それは、弱さに繋がるから?
それは、いつかは言えると思っているから?
文は、少年の素直さに目を背けたくなった。
(本当に笹原さんは卑怯な人です……人を持ち上げるのが大層うまい癖に、それがお世辞ではないと分かってしまう……)
文は、心を必死に落ち着ける。文の心は恥ずかしさと同時に、少年に元気を与えられていること―――役に立っているということに嬉しさや喜びを感じていた。
(それにしても……元気を貰っているのは、私だけではなかったのですね)
文は、少年と話しているときに楽しさや充実感や安心感を得ている。
しかし、様々なものを貰っている自分が何を少年に与えられているのかと考えると、楽しさというもの以外に何も思い当らなかった。
ただ―――それもあくまで文の主観の話である。少年がそう思わせている可能性、演技している可能性は潰しきれない。
きっと、楽しんでくれている。同じ気持ちで会話をしてくれている。そんな―――楽しそうにしているというのはあくまで文の主観である。少年は、確かに自分の話を楽しそうに聞いているが、本当なのかどうかは分からない。
そう考えると、これまでの会話が嘘だったのではないか。これまで楽しく話していたのは、ただの作り笑いだったのではないだろうかと思わずにはいられなかった。
今日、こうして出会うまで。
今日、こうして話すまで。
それが気掛かりで、気持ちの悪さを抱えてきた。
(それだけ聞ければもう十分な気がします。私からも何かを与えられるという事実を知ることができただけでも、笹原さんと今日話した意味は十二分にありました)
文は、今日少年と会えて本当に良かったと思った。ずっと残っていた、心のつっかえが取れた。
(笹原さんは、いつも楽しそうに話を聞いてくれていますが……本当のところは、どう思っているのか分かりませんでしたから。私の新聞の内容が面白くて笑顔を浮かべているのか、私との会話を楽しんでくれているのか、それが分かっただけでもう十分です)
文は、あくまで新聞の方を褒めているのだろうと勘違いしていた。そう思わないといたたまれない気持ちになったから。もしかしたらなんて思うことが心に負担をかけるから。そう思うことにしていた。
それが―――自分自身に言ってくれていたのだと確信に変わる、そんな少年からの一言だった。
「だから、これはこれまでのお礼だよ。素直に僕の気持ちを受け取ってほしい」
「そんなこと言われたら、断れないじゃないですか」
文は、気持ちを抑えきれずに声にわずかな喜びを乗せて満面の笑みを少年にぶつけた。
「では、一杯だけ、頂きますね」
「うん、ぜひとも飲んでよ。店員さんお願いしますね」
少年は、文が自分の行為を受け入れてくれたことに笑顔を浮かべる。そして、先ほど声をかけて足を止めさせた店員にお願いを申し込んだ。
店員は、どこかほほ笑みながら深く頭を下げた。
「畏まりました。すぐにお持ちします」
店員は、少年の注文に答えようと店に戻ろうとする。
しかし、その途中で文の隣に来ると動かしていた足をピタッと止めた。
何か用でもあるのだろうか。文は、隣で止まった店員を怪訝そうに見つめる。
「どうしました?」
「いえ、ちょっと気になったことがあったもので」
店員は、顔を文の耳元に近付けてぼそぼそと喋りはじめる。少年には、聞こえない程度に何かを文へと一方的に告げた。
文の顔は、店員がワンフレーズほど呟くとみるみる赤くなる。そして、店員がすべてを言い終わると勢いよく突っかかった。
「ふっ、ふざけないでください!! それ以上その口を開くと怒りますよ!!」
「おー怖い。俺は仕事に戻りますよー」
「あいつ!!」
文は、店員に向かって似つかわしくないほど大声を出した。
店員は、顔をゆでダコのようにした文の隣をするりと通り抜け、何事も無かったかのように少年のオーダーに答えようと緑茶を汲みに向かった。
文は、逃げて行く店員に向かって敵意をむき出しにして今にも襲いかかりそうになっている。文と店員とのやり取りからは、2人がすでにお互いを知っている顔見知りであることが伺えた。
「あれ? ここの店員と知り合いだったの?」
「は、はい……」
文は、少年の問いかけに店員に向けていた意識を少年へと戻した。
文の表情は、まだ若干動揺が隠せていないようで依然として赤い。目線は下を向き、左右に泳いでいる。
「以前、一度だけここの取材をしたのですが、その時に少しばかりインタビューをした方なのです。その時に知り合いまして……」
文は、過去にこの茶屋でインタビューをしたことがあると言う。先程の店員とのやり取りから察するに、文がインタビューした際に対応をしたのが先程の店員で、その時に知り合ったということなのだろう。
文は、少年の顔をチラチラと見ては恥ずかしそうに下を向く。どうも、店員の言葉が文の心を引っ張っているようである。
「あの、私とあの店員は、別にそんな大した関係じゃありませんから……」
「ちなみに今、なんて言われたの?」
少年は、文に尋ねても答えてくれるとは思わなかったが、駄目もとで文に聞いてみることにした。
「随分と慌てていたけど、何か恥ずかしくなるようなことを言われたんだよね?」
「い、言えませんっ! 笹原さんにだけは絶対に言えません!!」
文は、慌てた様子で少年に無理だと言った。
少年は、内心でやっぱり話してくれないよねと思いながらも、必死な文の様子に少しだけ笑う。
「ふふふ、そんなに大きな声で言わなくても無理やり聞いたりしないよ」
「…………」
少年は、文にそれ以上追及することなく引き下がると目の前に運ばれた蒸し饅頭を頬張り始めた。まるで、時が戻ってもともとそんな話などなかったといわんばかりに。視線も最初に見たときと同じように人通りを向き、遠くへと伸びている。
気にされていない。
二人の会話なのに。相手の方に注意を持って行っていない。
文は不審そうに少年を見つめた。
少年は、文の視線を流すようにして文の後ろに流れる人の動きを見つめている。文の視線を気にすることなく目の前にある蒸し饅頭を頬張っている。まるで、ハムスターがヒマワリの種を食べているように朗らかな表情でむしゃむしゃと食べ続けていた。
「もぐもぐ」
「…………」
少しの沈黙が少年と文との間に流れた。
静寂が二人の空間を包み込むのは、今までにないことであった。好奇心が強く、気になることを何でも話す少年と、探究心と好奇心の塊である射命丸文が話し出すと会話が止まらなくなる。沈黙が訪れそうになる前に、どちらかが口を開いて静けさを打ち消す。
それが―――二人の会話の形であった。
だが、それはどうも今日までのことらしい。半年の間に変わってしまったということなのだろうか。
(おかしいですね……笹原さんの雰囲気が前と違っているせいでしょうか、話を切り出しにくいように感じます)
文は、ただただ少年を見つめ続ける。
少年は、沈黙を打ち消そうとはせず、饅頭をひたすらに頬張り続ける。もぐもぐと美味しそうに食べている―――とても美味しそうである。
(それにしても、随分とおいしそうですね……)
文は、少年が美味しそうに饅頭を食べる様子を見ていると唐突に同じものを食べたいという衝動に襲われた。
いや、何を考えているのか。
そんなことを考えている場合でもないだろう。
文は、思わず食べたいという衝動に駆られる心を押さえつける。
(いやいや、ここで食い意地を張ってどうするのですか!)
「すみません。彼の食べている饅頭と同じものを食べたいのですが」
店にいる客から少年に影響を受けた声が上がる。少年の姿を見て食べたいと言う衝動に駆られているのは、何も文に限った話ではなかったようである。店にいた周りの人間も少年の食べる様子に感化されて、饅頭を頼んでいる姿が現れ始めた。
文は、少年の影響力の大きさに納得と驚きの感情を覚えた。
(……何かおかしいですね)
遠くを見つめている少年の様子からは、違和感が立ち込めている。何かがおかしい、あったのはそんな曖昧な違和感である。
文は半年前とは違い、少年が何かを抱えていることに気付き始めた。
会話が続かないのは、それを気にしているからか。何かがつっかえて、次の言葉がすんなり出てこないのか。
文は、少しだけ
「先程の話ですが……あっさりと引き下がるのですね。笹原さんに関係があることなのかもしれないのに」
文は、少年が会話を打ち切って話題を出そうとしない様子を気にしていた。打ち切る理由はない、それに打ち切ったところで何も話を持ち掛けてこないことも、いつもならあり得ないことだった。
(いつもならこんなことにはならないはずです。久しぶりだからでしょうか? 昔の会話していた時の感覚が思い出せないからなのでしょうか?)
文は、少年から感じる違和感の原因を掴めないでいた。
少年は、視線を文に集中させると饅頭を食べる手を止めた。
「文だって同じでしょう? 文だって、自分に関係のあることだとしても相手から無理矢理聞いたりしないはずだよ」
「わ、私もですか? 私はそんなこと……」
文は、少年の言葉を否定しようとした。
文自身の性格から考えれば、自分に関係のあることかもしれないのに会話を止めて引き下がったり聞かずにいたりすることはない。相手の迷惑よりも自分の好奇心を満たす方が大事で、相手の気持ちを考えて引き下がることはしない。
文は、続けざまに自分の性格について語りだそうと空気を呼吸器官に流し込み始めた。
しかし―――それを遮るように少年が口を開いた。
「文は、さっき会話を打ち切ってくれたじゃないか」
少年は、文が声を発する前に文が自分と同じだと言った理由を告げた。
「僕も文と同じように、相手が話したくないことを無理やり喋らせるようなことはしないよ」
「…………」
「聞いて欲しいのなら聞いてあげるけど、文のそれは、僕には言えないことなんでしょう? だったら僕は聞かない」
「……貴方は昔からそうでしたね」
文は、出そうと喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
少年は、文が本当に聞かれたくないことに関しては自ら引き下がってくれると知っている。自ら自重し、相手を思いやる心を持っていることを知っている。
文は、半年以上前に話していた少年の姿を明確に思い出しつつあった。少年は、相手の話したくないことを言わせるようなことは決してない。相手が勝手に話してくる分には聞くのだが、それを聞いてどうこうするような人間ではなかった。
しかも、それでなお―――会話を続けることができる。だらだらと引き延ばすわけでもなく、楽しく会話を継続できる。
文は、少年との会話で感じていた自分の違和感が気のせいだと思い始めた。
「笹原さんは、最初に会った時と何も変わっていません」
少年と過去に会った人物は、揃って変わっていないと口にする。変わっていない。変わらないと言う。文も同じように、少年が変わっていないと宣告した。
そんなものは―――大体気のせいである。文だって、半年前と比べれば明らかに変わっている点がいくつかある。それは、少年にだっていえることだ。変わらないものなどない。変わっていないと思うのは、過去のそれをはっきりと理解していないからだ。昔の記憶が上書きされて、今に被るから、変わっていないと思い込むだけである。
少年は、無言のまま文の言葉を飲み込むようにして、両手で大事に包み込むように湯呑を持ち、お茶を一杯飲むと口を開いた。
「文も最初に会った時と何も変わっていないよ」
「そうでしょうか。そうだったら嬉しいですね」
文は、少年の言葉に少しだけ嬉しそうな表情を浮かべると少年に対する所見を述べた。
「今のは少しばかり露骨でしたが……貴方は、相手の心境を察するのが非常に上手いように思います」
少年は、いつだって相手の気持ちを先読みしたような言葉を口にする。相手の嫌がることを言わず、いつだって気分のいいまま会話が終了する。
後味が悪いまま終わった試しなどあっただろうか。少年との会話は、いつだっていつも変わらずにそんなものだった。
「触れて欲しくないことには触れず、相手の気持ちをくみ取って会話をしてくれる。まるで相手の心が見えているのではないかと錯覚するほどです」
「それはまさしく錯覚だね。僕は心が見えているわけじゃない」
少年は、文の褒めるような言葉に恥ずかしがることも無く受け答えをする。事実少年は、相手の思っていることや感じていることを判断することが得意である。
だから、いつも相手の気持ちを先んじて言葉を伝えている。それが全てというわけではないが、相手に喋りやすい状況を作り出している原因の一つには違いなかった。
「分かっていますよ。本当に心が見えていたのならば気持ち悪さがにじみ出てしまいますからね」
妖怪の中には、心を読める妖怪が存在するが、少年とはまるで雰囲気が違う。
妖怪は、精神に支えられて生きている生き物である。そのため、心を読まれるということはそのまま弱点や弱み―――命を握られていることと同義になる。心を読まれるというのは、妖怪にとって恐怖心と嫌悪感を誘起させるのである。
しかし―――少年のそれは、気持ち悪さがみじんもなく、ただ理解されているという温かさだけを感じるものだった。どこか守られているような、大きなものに支えられているような錯覚に陥るのである。
文は、少年と話しているときに感じる想いをそのまま口にした。
「貴方の場合は、何といいますか……安心するというのでしょうか、酷く心地よいのですよ。思わずいらないことを喋ってしまうぐらいには、とても気持ちがいい。ずっと話していたくなります」
「ずっと、かぁ……」
(わ、私はなんてことを)
文は、少年が口ずさんだ言葉を聞いて羞恥心に襲われた。こんな大通りに面した所で、取り方を間違えたらプロポーズに聞こえなくもない言葉を喋ってしまっている。
なにを言ってしまっているのだ。顔が赤くなっているのが分かる。血が上って、体が熱くなっている。
(こ、こんなこと言うつもりじゃ……)
文は、少年と話しているといつも余計な所まで話してしまうことが多かった。少年と話していると本音というのだろうか、心の奥底に置いておいたものを簡単に取り出してしまう、気持ちがそのまま口から出てしまう。
文は、決して口が固い性格をしているわけではないが、簡単に自身の気持ちを漏らしてしまうほど軽い口をしていない。気を付けているのに、出してはならないこともあるのに、それなのに―――出てきてしまう。
(普段ならこんなこと絶対にないのに。どうして、笹原さんの前だとこんなに口が軽くなってしまうのでしょうか?)
少年以外と話している時では決して取り出さない気持ちを吐きだしてしまう。それに、言いたいことが言えなくなることも多かった。
(どうして相手が笹原さんだと、ぐいぐいと聞き出せないのでしょう?)
取材であれば、ガンガンに相手の喋りたくないことでも聞いてしまう自分が、少年が言い辛そうにしているとすぐに引き下がってしまう。嫌われることを心の奥底で怖がっているからなのか、取材という探究心や好奇心の気持ちよりも少年の気持ちの方が大事だからなのか。そんな小難しいことではなく、単純な心の問題なのか。
(どうしてこんなに、胸が高鳴るのでしょうか……)
それは―――文自身にも分かっていなかった。