ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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心配と本音、抑圧する想い

 少年は、暫くの間雑談を交わしていると突然料理を口に運ぶ手を止めた。

 藍は、唐突に手の動きを止めた少年を見て、少年の目の前にあるどんぶりを覗きこむ。少年のどんぶりの中にはご飯がまだ残っている。どうやら、ご飯を食べ終えたために手が止まったわけではないようである。

 なぜ、動きが止まったのだろうか。いつもだったらおいしそうに勢いよく食べるのに、今日に限ってなぜ動きが鈍いのか。

 藍は、少年が食事の手を止めた理由が体調不良によるものではないかと憶測した。気分が優れないから、食欲がないのだろう。思えば、永遠亭から早く帰ってきた理由も体調不良によるものかもしれない。そんな想像の飛躍が、藍の心に負荷をかけ始めた。

 

 

「どうしたのだ? まだ半分ほどしか食べていないようだが、どこか具合でも悪いのか?」

 

「別に具合が悪いわけじゃないよ」

 

 

 少年は、心配する藍に対して淡泊に応える。そして、少し下を向きながら、言いづらそうに口を開いた。

 

 

「ちょっと話しておきたいことがあってさ」

 

「大事な話なのか?」

 

「いや、そんな大したことではないんだけど……」

 

 

 少年は、深読みする藍が分かるように首を横に振り、はっきりと意思表示した。

 

 

「「…………」」

 

 

 少年と藍とのやり取りに、紫と橙の視線が集中する。

 また、何かが起こるのか。

 何かが起こる―――そんな雰囲気が藍と少年の周りに停滞しているのが感じられた。

 

 

「今日はご飯を食べたら人里に行こうと思っているんだけど、行ってもいいかな?」

 

「これから人里に行くのか?」

 

 

 少年は、昼ご飯を食べたら人里に行くことを考えていた。人里のある人物に会って、して欲しいことがあった。

 

 

「うん、これを食べ終わったら行こうと思っている。大丈夫かな?」

 

 

 普通であれば、「人里に行ってもいいかな」なんて許可を取るような言い方をする必要はない。それこそ、藍と一緒に人里に行こうと考えているわけではないのだから。外に出ることを禁止されている立場ではないのだから。藍の許可を取る必要は本来ないはずである。

 しかし、少年は藍に告げなければならなかった。告げなかった場合の結果を想像すると、告げなければならないと思っていた。

 藍は、少年の申し出を聞いて疑問を抱えると、少年の瞳を探るように見つめ、まくし立てるように疑問を羅列した。

 

 

「今日は買い物の日でもないのに? どうして?」

 

 

 少年が人里へ出かけるのは、決まって買い物をする日である。今日は、買出しに行く日ではないため、少年が人里に行く理由は特にはないはずだった。

 

 

「遊びに行くのか? それとも暇だからということなのか?」

 

 

 人里へ出かける目的が買い物だけというわけではない。ちょっとした暇ができたために遊びに出かけたり、外に出かけるという名目で人里に行ったりすることは確かにある。

 ならばどうして―――疑問に思ったのか。

 それは、半年前のあの日以来少年から人里に行きたいという言葉を聞いたことが無かったからである。

 

 

「どうして急に人里に行こうとを考えたのだ?」

 

 

 あの日以来―――少年は暇だから人里に行こうと、外に出たいから人里に行こうと自分から言うことをしてこなかった。

 理由は藍自身にあるのだが、それを藍は知らない。

 紫は、知っている。

 少年の気遣いを知らない藍は、少年が人里に行こうとしていることを非常に珍しく思っていた。

 

 

「和友、人里に行く理由を聞かせてくれないか?」

 

「別に何でもいいじゃない。和友は、もう子供じゃないのよ」

 

「藍様、私もそう思います。そこまで心配しなくても、和友はちゃんと帰ってきますよ?」

 

「もしもということがあります。紫様は、途中で何かあったら責任が取れるのですか? 和友は一人しかいないのですよ。半年前にあんなことがあったのです。いつ倒れてしまうか分かりません。それに、私は‘人里に行く理由’を聞いているだけです」

 

 

 紫は視線を落とし、藍の悪い癖が出たと頭を抱えた。橙も紫と同様に行き過ぎた藍の問いかけに、何とも言えない表情を浮かべていた。

 人里に行く理由を聞いているだけと言っても、内実は行く理由を知ったら自分も一緒に行くとか、自分が代わりに行くと言うだけだろう。

 心配性という病気をこじらせている藍は、少年のことを極度に心配している。橙に対する溺愛もそうであるが、少年に対するものは溺愛というレベルをとうに超えて薬物依存のレベルまで来ている。

 少年は、まくしたてるような藍の疑問に対して特に不快な顔をすることもなく、答えを口にした。

 

 

「筆の点検だけでもしてもらおうかなと思ってさ」

 

 

 少年は、筆の手入れをするために人里に行きたかった。

 少年の右腕ともなっている筆は、少年によって過酷な労働を強いられている。本当ならば、車の点検のように毎年のように見てもらうのがよいのだろうが、今のところ一度も筆一本の店主である山本さんに点検をしてもらったことはなかった。

 

 

「大分無理をさせているし、一生使えるものを作ってもらったとはいえ、壊れてしまうかもしれないと思うと不安なんだ」

 

 

 筆を作ってもらってからすでに1年と11カ月である。2年の月日が経つまで後一月というところまできている。

 店主の作った筆は、一生使える筆を作ると言っただけあり、少年が酷使を続けていても未だに機能をなしているが、酷使していることに違いはなく、劣化していることにも違いはなかった。

 

 永久に残るものなどこの世には無い。

 物質には、時間という絶対の制約が存在する。

 

 これを克服しようものなら、今を生きていない何かになる。

 人間で言えば、爪が伸びることもなく、筋肉が成長することもなく、細胞が分裂することもない状態のことだ。それは、ホルマリン漬けの標本にも劣るなにかである。

 永久に変わらない物質があるとすれば、それに価値はないだろう。形も変えられない、材料を合わせることもできない、組み合わせることができないのでは、何にも使えない、何にも応用が利かない物質である。

 生き物は、絶えず変化し続けて生きている。物質は、未来に自分という存在を運び出している。今という時間を未来に持っていくことで、新しい自分を作っている。

 少年は、一生使える筆だという店主の言葉を疑うわけではなかったが、一度見せる必要があると考えていた。今の状態を知ることは、今後に直接的な影響をもたらすはずである。

 もしも、壊れそうになっている、今後使っていけばもたないと言われれば、新しいものを買う必要がある。

 少年は、今の筆の状況を知っておきたかった。

 

 

「壊れ始めているんだったら手入れをしてもらわなきゃいけないし、使えないのなら新しいものを作ってもらわなきゃいけないでしょ?」

 

「ならば私も行こう。もしかしたら危険な目に会うかもしれないからな」

 

 

 人里で少年が危険な目にあう確率など0に等しい値である。道中を含めて5%あるかないかというところだろう。

 藍は、それでも0でない限り、少年を心配し、守ろうとする。むしろ0であったとしても守ろうとする。不安が体を動かすから。心配が震えとなって表に出るから。

 藍は、続けざまにぼそぼそと声を小さくして呟いた。

 

 

「それに、変なやつが和友の周りに寄りつかないようにしなければならないし……」

 

「心配しなくても一人で大丈夫だよ。人里に行って僕に害を与えてくる人物なんて基本的にいないし、変なやつもいないからね。いつも二人で行っている時は大丈夫だったでしょ?」

 

「私は、そういう意味で言っているわけではないのだが……」

 

 

 藍は、自分の気持ちが少年に伝わっていないことに歯痒さを感じていた。

 藍は、少年が一人で人里に行くことによって危険な目に会うのではないかと考え、そのことを危惧しているわけではない。藍の本心はもっと別の所にあった。

 ここで本心をそのまま吐き出し、行かないで欲しいと言えればいいのだが、言うだけの勇気がどうしても足りない。

 藍の心は、理性と感情のはざまで揺れ動ていた。

 

 

(私がこれほど惹かれるのだ、他の人間や妖怪が惹かれないなんてことも無いだろう。人里に一人で行けば、きっと一人ぐらいひっかけてくる)

 

 

 藍は、誰かが少年を連れて去ってしまう可能性があることを危惧しているのであり、誰かを惹き連れてしまうのではないかということを心配していだ。

 

 

(和友には、それだけの魅力がある)

 

 

 藍は、少年に惹かれている自覚があった。好きなのかと問われても、愛しているのかと問われても、その言葉を否定できないぐらいには惹かれている自覚があった。

 いつだって、そういう言葉を肯定してしまうほどに少年をいつも見つめている。視線はいつだって少年追って生活をしている。心は寄り添うように少年に寄りかかっている。

 

 

(和友と一緒にいると安心する、心が落ち着く。和友と一緒にいると楽しいし、和友の優しい笑顔に惹きつけられる。それはきっと和友自身が持つ気質なのだろう)

 

 

 藍は、冷静に少年に惹かれている自分の存在を自覚していた。

 

 

(まだ14歳の少年だというのに……でも、年齢など関係ない。きっと、何歳であっても、和友だからこそ私は、こんなにも惹きつけられているのだから)

 

 

 大人びた雰囲気を持っているからだろうか。

 なんでも許してくれるように懐が広いからだろうか。

 少年といると酷く安心できる自分が少年の隣いた。

 

 

(私は、和友のことが……好きだ)

 

 

 藍が少年に惹かれている理由は、いたって単純だった。

 少年と一緒にいると何よりも落ち着く、安心するのである。どれだけ辛くても、どれだけ苦しくても、少年と一緒にいるだけで安心できる。心配事も、不安も何もなくなる。

 ただ、自然と笑顔になる。少年が笑う、そんな普通のことで自分が笑顔になっている。ただ、それだけの理由で笑顔になれた。どうでもいい毎日が明るさを帯びた。そんな大したこともないような理由が少しだけ好きだった。理由をくれた少年の存在がもっと好きだった。

 

 

(顔も別に悪くないし、気配りもできる。なにより、優しい……意識しないという方が無理な話だろう)

 

 

 藍は、これまで少年と積み立ててきた思い出を思い返す。

 

 

(和友と一緒に料理をした……)

 

 

 少年と一緒に料理を作った時は、笑いながら料理を作った。一つの完成品を作るために、お互いに意志疎通を図り、完成品を作成した。

 

 

(時折触れ合う手にドギマギしだしたのはいつからだろうか。思えば、和友を意識しだしたのはその時だったのかもしれないな)

 

 

 藍は、少年との思い出を一つ一つ思い返す。

 

 

(和友は、いつだって疲れている私を気遣ってくれた……和友の優しさは、これまで欲しくて欲しくてたまらない優しさだった)

 

 

 紫の手足となって、働いて、働くだけの生活から脱却させてくれたのは、少年である。

 ねぎらいの言葉もなく、褒められることもなく、報酬が与えられるわけでもない関係を変えてくれたのは、少年である。

 疲れているのを察してマッサージをしてくれるのも

 毛づくろいのお願いを聞いてくれるのも

 眠る時に優しく頭を撫でてくれるのも

 ―――全てに少年の優しさを感じた。

 

 

(悪意のかけらもない、下心など全くない、善意100%の優しさが、温かかった……)

 

 

 藍は、少年から貰える優しさが、側にいてくれることが何よりも嬉しかった。

 

 

(能力の練習も一緒にやった。霊力の練習だって一緒にやった。季節に合った食べ物も一緒に食べた。掃除だって、料理だって、一緒に。一緒に家族として過ごした。一緒に時間を、季節を過ごしてきた……)

 

 

 夏の暑い日のなか、汗を流しながら一緒に能力の練習や霊力の練習をしたこと。

 紅葉の著しい秋に、落ち葉を拾い集めて一緒に焼き芋を作ったこと。

 豪雪の寒い冬に、手を温め合ったこと。

 春の満開の桜の下、お花見で少年と杯を交わしたこと。

 

 

(そのどれもが、大事な思い出になっている)

 

 

 少年と一緒に過ごした時間の全てが―――心の温まる思い出になった。

 

 

(きっと、和友の方から好きだと言われれば私はそれに応えるだろう。そして今以上に甘える、絶対に甘えてしまう)

 

 

 藍は、少年と付き合う想像をして顔を赤くしてしまう事も少なからずあった。少年の傍に寄り添い、少年のために何かをする。少年から与えられる優しさに甘える。奉仕する側と奉仕される側が反転し、交互になっている公平な関係性に満足する自分がいた。紫がいるにもかかわらず、そんな想像をしてしまうことも多々あった。

 だが、そんな想像をするたびに少年から告白の言葉が告げられることはないと悟った。

 

 

(だが、おそらく和友から私に気持ちを伝えてくることはない。あれ程までに相手に借りを残しておくことを嫌っている和友が、仮に誰かを好きになったからといって告白するとは到底思えない)

 

 

 少年が誰かに対して告白することがないと言える理由は、これまでの少年の言動から分かる。少年の目標はあくまで周りに迷惑をかけないことで、外の世界に戻ることである。

 それを考えれば、幻想郷の世界で恋人を作るような行為はおそらくしない。作ってしまったところで悲しませるだけなのに、作るわけがないのである。

 藍は、毎回のように陥る思考回路の中で、いつもと同じ仮説を立てる。少年から無理ならば、自分から言えばいいのではないかという考えである。

 

 

(でも、和友が私に告白してくる可能性が0だとしても、私が和友に好きだと言うこともできたはず……)

 

 

 藍から少年のことを好きだと言った場合、返事はどう返って来るだろうか。

 きっと悪い結果にはなるまい。優しい少年のことだから、受け止めてくれるかもしれない。

 これまでの2年間は、嘘じゃないといえるだけの重さを持っている。質量を持って心の中に降り積もっている。

 きっと答えてくれる。

 絶対に応えてくれる。

 ―――だけど、それでいいのだろうか。

 それをしたら変わってしまうのではないだろうか。

 藍は、告白することで起こる変化を思うと自分の想いを少年に伝えることができなかった。

 

 

(しかし、この想いを伝えてしまえば、マヨヒガは今の状態ではいられなくなる……)

 

 

 藍は、今のマヨヒガの空気を壊したくなかった。そのため、自分の気持ちを少年へと伝える決心がつかなかった。

 例え少年が藍の気持ちを受け入れてくれたとしても、今あるマヨヒガでの暮らしは変わってしまうだろう。

 藍は、今のマヨヒガでの生活も大好きだったから。だから、少年であれば自身の気持ちを受け入れてくれると信じつつも言い出すことができなかった。

 

 

(私は今のマヨヒガでの生活が好き。今あるこの温かさも、和友と同じぐらい好きなのだ……紫様がいて、橙がいて、和友がいて、私がいる。私は、今の生活を失いたくない)

 

 

 紫から何と言われるか分からないというのもあるが、紫と橙の見る目が変わるのは、当然で。二人がくっつけば、二人が除け者のような扱いを受けてしまうことも想定内で。それが藍にとって気がかりだった。

 それに、仮にマヨヒガでの生活が変わらないとしても、藍自身がより少年から離れられなくなることは分かり切っていることである。自分のものになったという独占欲が、周りを排除しようとしてしまうかもしれない。

 

 

(受け入れてくれなくても、受け入れてくれたとしても……きっと枷が外れて、和友を求めてしまう……)

 

 

 受け入れられれば―――恋人のように甘え。

 受け入れられなければ―――ストーカーのように付きまとうようなことになる。

 結局のところ藍と少年の関係は、外面が変わっただけで何も変わらない。

 そのうえ、二人には別の大きな問題もあった。

 

 

(問題は何もマヨヒガの雰囲気だけではない。和友と私では種族が違うから、共に生きていられる期間は限られてしまう)

 

 

 藍は、少年と一緒に暮らし続ける場合の障害を考えた。

 

 

(私は妖怪で、和友は人間だ。そこには超える事の出来ない圧倒的な壁がある)

 

 

 少年は人間で、藍は妖怪である。人間と妖怪では、寿命が違いすぎるため、いずれ別れがやってくる。

 いずれと言わずとも―――近いうちに別れが来てしまう。

 はたしてその時に自分は耐えられるのか。

 少年の死を受け入れることができるだろうか。

 藍には、少年を失った時に壊れないと言える自信がなかった。

 

 

(私は、和友と死に別れる瞬間―――耐えることができるだろうか。悲しみをこらえることができるだろうか。苦しみを乗り越えることができるだろうか。和友の死を―――受け入れることができるだろうか)

 

 

 藍は、頭の中に少年が死ぬ瞬間を想像する。その瞬間―――心が軋む音を上げた。

 

 

(いや、きっと私には耐えられない。半年前の病気の時ですらあれだったのだから、耐えられるという方が間違っているのだ)

 

 

 少年が死んでしまう。

 私を置いて死んでしまう。

 助けることも叶わず、共に居ることもできず、先に逝ってしまう。

 そんな想像をするだけで思わず涙が流れそうになる。

 鼻の奥がつんとして嗚咽がこぼれそうになる。

 感情が涙を流し始める。

 

 

(嫌だ、絶対に嫌……和友にはずっとそばで生きていて欲しいっ……)

 

 

 だったらどうするのか。

 少年の死を受け入れられないのなら、どうするのか。

 そう考えた瞬間―――してはならない想像をしてしまった。

 藍は、死ぬ間際に少年を無理やりにでも妖怪にしてしまうという可能性を想像した。

 

 

(和友を私の式にできれば、ずっと一緒にいられるのだろうか……式神にしてしまえば、私の妖力の影響を全面に受けて寿命も延びるはずだ。そうすれば、私と共に生きていけるだろうか。私の式にしてしまえば、私の傍にずっといてくれるだろうか)

 

 

 少年を自分の式にする。これまで少年と共に暮らしてきて考えた選択肢の一つである。藍の式に成りさえすれば、藍の力が少年に流れ込むことになり飛躍的に寿命も力も伸びることになるだろう。

 これは、あたかもお互いにとって良さそうな選択のように思える。お互いがお互いに得する、WIN-WINの関係のように思える。

 

 

(だが、和友はそれを許しはしないだろう)

 

 

 ただ―――それをしてしまえば、少年のことを人間と呼んでもいいのかと言われると何とも言えなくなる。

 妖力の供給を受けて長生きする人間など―――人間じゃない。少なくとも少年が思う人間の範疇には入らない。

 藍は、そこが最大の問題だと考えていた。

 

 

(和友の半年前の答えが変わっているとは思えない。和友は、簡単に言葉を曲げたりはしない)

 

 

 少年は、人間を辞めることを極端に嫌っている。半年前の少年は、人間を辞めるぐらいだったら死んでやると言わんばかりの様子だった。

 藍は、きっと少年の決まりごとの中に人間のままでいるという趣旨の決まりがあるのだろうと考えていた。

 

 

(はぁ、本当に悩ましい奴だよ。最初にやってきた時は、背もまだ私よりも大分小さくて意識するほどでもなかったのに……もう私と同じぐらいの背丈になってしまって、人間の成長には本当に驚かされるな)

 

 

 藍は、少年が自分と初めて人里へと買い物に出かけたときに玄関先で少年のことを抱きしめた。その時の少年の背丈は、藍の正面にすっぽりとはまるぐらいで顎がちょうど少年の頭の上に乗るぐらいだった。それがもう、藍と同じぐらいの背丈になっている。

 少年は、2年前と比べて大きくなった。思春期を迎えて、もうそろそろ青年と呼ばれるころである。精神とつり合いがとれていなくて少しだけ違和感があった大人びた雰囲気が様になり始めている。

 藍は、大人びていく少年を見て不安だった。もしも少年に好きな人ができてしまっていたら、そう考えると心がざわついた。

 

 

(和友にもし、すでに好きな人がいたらどうしよう……)

 

 

 少年に好きな人ができた場合―――藍の居場所はなくなってしまう。好きな人と結ばれてしまったら。そんなことになったら。

 ―――私はどうすれば。

 

 

(その時、私はどうすればいいのだろう……)

 

 

 少年に好きな人ができたら、マヨヒガを出てってしまうかもしれない。仮にマヨヒガから恋人に会うような生活を送るにしても、藍と頻繁に会うという事は難しくなるだろう。恋人から反感を買う形になりかねないし、少年にも迷惑がかかる。

 それに、これはなにも少年が好きな人ができた場合だけの話ではない。少年を好きになってしまう人が出ても同様に発生する問題なのである。

 

 

(仮に、和友に好きな人がいなくても、和友を好きな人がいる可能性が無いとは言い切れない。というよりも絶対にいるはずだ。私が惹かれている人物なのだから……)

 

 

 少年は、誰かから好かれている。

 藍には、断言できるだけの確信があった。自身がこれほどに好いているのだから、他の誰かもきっと心を寄せている人物がいることは容易に想像できた。

 

 

(和友には不思議な魅力がある。それが何なのか分からないが、心を惹きつけられる何かがある)

 

 

 少年には間違いなく誰かを、何かを惹きつけるような力がある。それが何なのか、そういう性質を持っているのか分からなかったが、間違いなく何かがあると思えるだけの自覚があった。

 少年でなければ、いくら2年間過ごしてきたといっても、大変なことを乗り越えてきたといっても、ここまで大切な存在になることはなかっただろう。

 

 

(これほど心を動かされたのは、今にも昔にも和友しかいない。この苦しみも、哀しみも、喜びも、何もかも和友がくれたものだ)

 

 

 藍は、この2年の間に様々な葛藤を乗り越えている。普段なら絶対に思わないようなことも、これまでしたようなことのない緊張も、安心感も、全て感じてきた。

 沢山の経験を経たからこそ―――少年は、藍だけではなく‘他の誰か’にも影響を与え、‘他の誰か’を惹いているということが想像できた。

 

 

(こう思っているのは、私だけではないはず。和友は、相手によって対応を変えないのだから。誰にだって同じ影響を与えていると考えるのが普通だろう)

 

 

 少年は誰にでも優しくて、自分自身に厳しく、真面目だ。そんな少年に惹かれる人物がいないとは思えなかった。

 きっと告白されることもあるだろう。自分が告白しようかと迷ったように、迷っている人物もいるに違いないと思っていた。

 

 

(心の優しい和友は、好意を寄せられてそれを告げられて断ることができるだろうか……)

 

 

 藍は、告白されたときに少年が本当に断り切れるのか判断できなかった。少年を一人で人里に行かせてしまえば、遮るものは誰もいなくなる。

 それでは、少年まで言葉が一直線に通ってしまう。

 そうなってしまえば―――どうなる?

 どうにでもなってしまうかもしれない。

 藍は、やはり少年を一人で人里に向かわせるわけにはいかないという結論に至り、異を唱えた。

 

 

(やはり、和友を一人で人里に行かせるわけにはいかない。誰かに取られるのだけは避けなければ……)

 

 

 藍は、少年と一緒に人里へ行くと声を発しようと口を開きかける。

 しかし―――藍の行動を遮る者がいた。

 

 

「藍、和友についていくのは止しなさい」

 

「えっ……」

 

「貴方にはやるべきことがあるでしょう。忘れてしまったのかしら?」

 

 

 藍は、紫の問いかけに今日やらなければならないことが何なのか思考する。頭の中にあるはずの予定を引っ張り出そうとする。

 しかし、頭の中は少年のことでいっぱいで何も出てこなかった。

 何かあっただろうか。

 少年を放置してまでやらなければならないことなど、あっただろうか。

 藍は、何一つ出てこないことに頭を悩ませた。

 

 

「…………」

 

 

 橙は場の雰囲気が変わるのを感じ取り、口を閉ざす。

 悪い流れだ。こういった時は何も言わない方がいい。橙は、これまでの経験からよく分かっていた。

 紫は、答えの出てこない藍を見てため息をつき、しょうがないわねと言うように告げる。

 

 

「今日は、博麗大結界の検査をお願いしたはずよ。それをサボろうと言うのかしら?」

 

 

 藍には、博麗大結界を検査する役割が与えられていた。

 博麗大結界は、外の世界と幻想郷を別つ境界線を作り出している結界の一つであり、幻想郷の生命線となる結界である。効果としては、外の常識を中の非常識に、内の常識を外の非常識に変換する結界となっている。

 本来、博麗大結界は博麗の巫女が管理をしているものである。

 しかし、どうにも今回の博麗の巫女は、能力に問題は全くないのだが、何分やる気に欠けていた。そのため、以前から点検を行ってきた藍が検査を行い、ちゃんと管理をしているのかを確認することになっていた。

 

 

「確かに、頼まれていましたね……」

 

 

 藍は、はっとした様子で表情を曇らせる。確かに、自分がやらなければならない仕事である。

 しかし、それはいつだってできること。少年の人里への護衛の方が、今日しかできないことである。

 藍は、何とか押し通そうと紫へと言葉を口にした。

 

 

「ですが、それはいつでもできることではないでしょうか? 和友と一緒に人里に行った後でも十分こなすことができます」

 

「何を言っているの? 私には、藍が何を言っているのかさっぱり分からないわ。自分の役割を放棄しようっていうのかしら? いつでもできるのなら―――今やりなさい。私は、今やってほしいから頼んだのよ」

 

 

 紫はそこまで言うと、視線を少年へと向ける。

 

 

「和友は一人で行ってきなさい。藍の面倒は私が見ておくから」

 

「どうしても駄目ですか?」

 

「どうしても駄目よ」

 

 

 紫は、動揺する藍に向けてさらなる一撃を叩きこむ。

 紫からやってきた言葉は―――藍の予想の斜め上を行く信じられないものだった。

 

 

「貴方は、自身に与えられた仕事を放棄してまで和友に甘えているつもりなの? 少なくとも和友に毛づくろいをさせているのを見逃しているのだから、これぐらいは我慢しなさい」

 

「ええっ!? 紫様は、毛づくろいのことを知っていらしたのですか!?」

 

 

 藍は、紫の言葉に驚愕の声を上げた。

 朝の毛づくろいは、少年と自身だけの秘密だったはずである。

 藍は慌てて少年の顔を見つめる。毛づくろいをしていることを知っているのは、それを受けている藍とそれをしている少年だけのはずである。藍から漏れていないとすれば少年から漏れたと考えるのが普通だった。

 藍は、少年に疑いの目を向けた。

 

 

「か、かずともか……?」

 

「ううん、僕じゃないよ?」

 

 

 少年は、静かにフルフルと顔を左右に振る。

 藍は、少年から毛づくろいをしている事実が少年から漏れたわけではないと瞬時に理解した。少年は口が軽い人間ではない。話してはならないことと話してもいいことをちゃんと分かっている人間である。

 ならば―――紫自らが藍の行動を見ていたということになるのだろうか。

 藍は、恥ずかしいところを見られたという羞恥心と、紫のいいつけを破って毛づくろいをしてもらっていたという事実に罪悪感を覚えた。

 紫は、顔色を勢いよく変える藍へ最後の一撃となる一言を述べる。

 

 

「注意した次の日にまたやっているのですもの、注意する気なんてなくなっちゃうわ」

 

「誠に申し訳ありませんっ!」

 

 

 藍は、その場で勢いよく頭を下げて謝罪した。紫の言葉をそのまま鵜呑みにするのならば―――毛づくろいを注意された次の日に目撃していたということである。

 藍は、甘い予想をしていた自分の考えを呪う、完全に藍の誤算である。

 最初の一回目は、寝てしまったことによる発覚だったため、朝早くから毛づくろいを行い、眠ってしまうことさえ避ければ遅く起きてくる紫にはばれることはないだろうと油断していた。

 

 

(どうして紫様はいいつけを破った私を放っておいたのだろうか? 注意する気が無くなったって、いつもの紫様ならさらに激昂して怒られるはずなのに……)

 

 

 藍は、混乱していた。紫が毛づくろいをしてもらっているという事実を知っていることに驚きを覚えたのはもちろんのこと、毛づくろいをし続けている事実を知ってなお放置していることにも驚愕した。

 朝の少年との一時である毛づくろいは―――見逃されていたのである、知らなかったわけではなく‘見逃されていた’。

 藍は、紫が毛づくろいの行為を見逃している理由が何も思い当たらなかった。紫が見て見ぬフリをしている理由など、なにかあるのだろうか。

 藍が頭を悩ませている最中―――紫の矛先は、少年へも向けられた。

 

 

「貴方もよ、和友。藍を甘やかすのはやめなさいと言ったでしょう?」

 

「でも、藍の毛づくろいに関してはこれまでもずっとやってきたことなんだよ? あの一件があった後からやり始めたことは何一つないんだし……これぐらいは……」

 

 

 紫の視線が少年の言葉が並ぶにつれて鋭くなる。少年は、紫の視線が鋭くなるたびに声を小さくさせ、委縮した。

 何を言っても認めない、紫の瞳はそう言っている。そこがダメなのだと叱責している。永琳と同じように、少年の優しさに揺れずにはっきりと告げている。

 紫は、少年に向けて棘のある言葉を投げつけた。

 

 

「和友、私の言っていること、間違っているかしら?」

 

「……ごめんなさい。すみませんでした……」

 

 

 少年は、立ちあがり頭を深く下げて謝罪をした。どこか不服のようであるが、それを全て飲み込んで我慢をしているようだった。

 少年は謝らなくてはならない。藍に対して甘やかすのは止めたほうがいいと言われたものの、藍の要求に流されてしまったのは他でもない少年の責任なのだから。色々言いたいことがあっても少年の責任は消えることはない。

 藍は、自分のせいで少年が紫に怒られていると感じ、酷く申し訳なさそうに少年に言った。

 

 

「ごめんな、私のせいだ」

 

「いや、僕のせいでもあるから謝らなくてもいいよ。僕も、藍と同じように藍に甘えていたんだよね。なんでも許してくれる、庇ってくれる藍に甘えていた。だから……怒られて当然なんだよ」

 

 

 事実を知ってしまっている今―――藍の責任は小さく、少年の責任は重大である。

 少年が、楽な気持ちにさせるから。

 少年が、許してしまうから。

 だから――少年は、自らの非を認めた。

 

 

「和友、私は別に甘えてもらってもかま」

 

「藍」

 

「いや、なんでもない。忘れてくれ……」

 

 

 紫は、発言しようとする藍の言葉を遮るように名前を呼んだ。

 藍は、紫の呼びかけにびくりと反応し、必死に口をかみしめる。

 少年は、少し悲しそうな顔で藍に向けて笑顔を作る。

 紫は、二人のやり取りに大きく溜息を吐いた。

 

 

「はぁ、なんで藍は隠せていると思ったのかしら……時々藍がよく分からなくなるわね」

 

 

 藍と少年は、紫の言葉に何も言い出せなかった。

 紫は、反論の一つも言わない二人に向けて話を終わらせる一言を告げる。

 

 

「とにかく、和友は一人で人里へ行くのよ。そして、毛づくろいもほどほどにするように、分かった?」

 

「は、はいっ! 分かりました!」

 

 

 藍は、紫の言葉を聞いて勢いよく顔を上げて元気良く返事をした。ほどほど、その言葉は決して完全に止めなさいという言葉ではない。つまりは、ほどほどであるならば毛づくろいを容認すると言っているのである。

 

 

「その代わり、しっかりやるのよ」

 

「はい!!」

 

 

 これが―――紫の藍の扱いが非常にうまいところである。紫は、2年前よりもはるかに藍の扱いが上手くなっている。

 紫は、怒るばかりではなく譲歩をしている。

 譲歩をする―――それが自我の強くなった藍の心を傷つけずに自身の存在を優位に立たせ、言う事を聞かせる方法の一つだった。紫の譲歩のおかげで藍の従者としての生活は心の負担が少ないものになっている。

 少年は、藍への気遣いが感じられる紫の対応を見て笑顔を作った。

 

 

「紫、ありがとうね」

 

「何の事だか分からないわ。お礼の言われるようなことなんて何もしていないもの」

 

「そっか、じゃあ僕からの一方的にお礼だ。ありがとう、紫」

 

 

 紫は、今度は無言のまま少年の言葉を受け入れるばかりで、視線を逸らして我関せずを貫く姿勢を崩さない。もうこの件について話すことは何もないと言った様子である。

 少年は、紫の態度に満足すると3人に向けて人里に行くことを再び宣言した。

 

 

「じゃあ、食べ終わったら早速人里に行くね」

 

 

 もう―――少年の言葉に異論を挟むものは誰もいない。

 少年は、食事をとり、後片付けを終えると、いつも使っている筆を持って人里へと‘一人で’向かう。

 向かう先は、少年の手に持っている筆の作り手である筆一本の店主のもとである。

 

 

「さぁ、今日はどんなことが起こるんだろう」

 

 

 ―――新しいものが待っている。そんな期待感が少年の心の中で渦巻いていた。

 


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