ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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変わらないもの、変えられたもの

 少年は、永遠亭からマヨヒガへと飛行しながら自分の今を評価し、落ち込んでいた。

 自分は、幻想郷に来てからも―――外の世界にいたころと何も変わってない。環境が様変わりしているのにもかかわらず、周りを取り巻く人間関係も別物になっているにもかかわらず、周囲の人間だけが変わっていき、自分だけが変わっていないことを再認識し、気分を落としていた。

 

 

「結局僕はどこまで行っても、どこに行っても、何も変わっていないな。昔から何一つ変わっていない。変わることができていない」

 

 

 本来であれば、変わっていなくてはならないのだ。今の少年を取り巻く環境が変わるには、少年が変わるという道以外に無いのだから。そんなことは、少年にだって分かっている、痛いほど理解している。

 でも、それができないのである。

 

 

「はぁ……くそっ、ダメだ。こんな顔、みんなに見せられない」

 

 

 少年は、流した涙を気取られないようにしっかりとふき取りマヨヒガへと帰った。泣いているところなど見られてしまっては、マヨヒガで待っている藍や紫、橙から何を言われるか分からない。

 それに、例え泣いている理由を聞かれても、少年自身がそれに答えることができないのだから、涙など見せられなかった。

 

 

「さぁ、気持ちを切り替えよう。僕は、僕のままで、今日は良い日だったと言えるように笑顔を作っていこう」

 

 

 少年は、強くある必要がある、強がる必要があった。

 見られて困るから。

 弱さが弱さを引き寄せるから。

 不幸が不幸を呼ぶから。

 だから、笑顔を充満させて、不安を取り払って、仮面を張り付けるようにしながらも、本当の自分を作り出す。

 これでいつも通り、いつも通りの日常が進み始めるはずである。

 少年は、何一つ変わらない言葉でいつも通り元気に声を発する。いつもと何も変わらない笑顔でマヨヒガに帰った。

 

 

「ただいま、今日はちょっとだけ早く終わったよ」

 

「おかえり、和友」

 

 

 藍は、誰よりも早く玄関へと駆けつけて少年を迎え、挨拶を交わした。いつも通りの光景である。

 藍は挨拶を返した直後、少年に対して相変わらずの過保護っぷりを発揮する。全身を見渡し、怪我をしている個所を探す。表情や雰囲気から少年が辛い思いをしていないかを確認し始めた。

 

 

「どこも怪我はしていないか? 大丈夫だったか?」

 

「大丈夫だよ、心配しなくても何もなかったからね」

 

 

 どうやら、藍のチェックは通ることができたようである。特に気付かれることなく、止められることなく、玄関を上がることに成功した。

 少年は、マヨヒガの中へと入ると藍と少しばかりの談笑をしながら廊下を歩き、マヨヒガの中へと入っていった。

 少年と藍は、足を同じ速度で動かし、同調させるように前へと進んでいく。そして、居間へと入ると中にいる二人の存在を視認した。

 

 

「今日は、二人とも起きているんだね」

 

「紫様も橙も、今日はちょっとだけ起きるのが早かったな。別に何かあるわけではないのだが、珍しいこともあるものだとさっきまで喋っていたところだよ」

 

 

 藍の言葉を鵜呑みにするのならば、橙と紫の二人は普段よりも若干早い起床をしているとのことだった。

 何があったのだろうか。特に今日は何かがある日ではない。少年は、珍しいこともあるものだと二人に視線を集中させる。

 見たところ橙と紫は、縁側でのんびりとした様子で時間を過ごしているところのようである。

 

 

「二人ともおはよう」

 

「おはよう、今日は早かったのね」

 

「おはよう~」

 

 

 少年は、立った状態で縁側に座りながら話をしている二人と挨拶を交わした。

 紫は、いつもよりも早くに帰ってきた少年を少し不思議そうに見つめており、橙の方はまだ起きたばかりのようで声がしっかりと定まっていなかった。

 

 

「今日は仕事も少なかったし、早く上がらせてもらったんだよ」

 

「そうだったの。それは良かったわね」

 

 

 紫は、当然のように嘘をつく少年を疑うこともなく、少年の言葉を受け入れる。納得しているのか、嘘と見破られているのかは紫の表情からは判断できなかった。

 ただ、少年は紫が何も言ってこないことに安堵した。問い詰められてしまえば、紫の訊問から逃れる術はない。一瞬にして藍までもが少年を問い詰める側に回ることだろう。紫に問い詰められてしまったら立つ瀬がないのである。

 少年は、問い詰められる前に即座に会話を切り返し、話題を転換する。

 

 

「今日は、二人とも少しだけ起きるのが早かったんだね。橙は見た感じ、まだ起きたばっかりみたいだけど……紫も、もしかしてさっき起きたばかり?」

 

「私は、橙よりは先に起きていたわよ」

 

「へぇ、そうなんだ」

 

 

 少年は、自信満々に言う紫の言葉をそうなんだ、と一人納得するように一言呟く。

 二人の会話を聞いていた橙は、紫の顔を見て訝しげな表情を浮かべていた。

 

 

「私と紫様の起きた時間、あまり変わらないような気がしますけど……顔洗ったときにすれ違ったじゃないですか」

 

「そうなの?」

 

 

 少年は、橙の話に疑問符を浮かべる。

 橙は、顔を洗った際に紫とすれ違ったと言っている。橙の言葉を信じるのならば、橙と紫の起きている時間には大きな差はないことになる。

 だが、先程の紫は、確信をもって橙よりも早く起きていると言っていたはずである。

 

 

「さっきの紫の話から聞くと―――2人の言葉には、随分と差があるように聞こえるんだけど」

 

 

 少年は、そっと紫に視線を向ける。紫は、なにやら表情を曇らせて少年を睨んでいた。

 少年は、紫の視線をものともせずに一つの疑問を橙へと投げかける。

 

 

「みんな、顔を洗う時って外の小川でしているんだよね?」

 

「そうだよ。あの冷たい小川でするの」

 

「やっぱりそうだよね」

 

 

 少年は、橙の言葉を聞いてますます疑問に思った。

 橙と紫の間には―――認識の違いがある。朝起きてから顔を洗わない人間がいるのであれば分からないが、ことマヨヒガの妖怪(紫、藍、橙)や人間(少年)は、朝起きたときに顔を洗いにいく行動をとることが習慣になっている。起きてから顔を洗うという行動は、マヨヒガでは恒例の流れなのだ。

 さらにいえば、顔を洗いに行く場所は、決まって外の小川である。

 

 

「ねぇ……」

 

「…………」

 

 

 少年がゆっくりと紫へと顔を向けると、紫は気まずそうな顔で少年から視線を逸らした。

 少年は、都合が悪いようなそぶりをする紫に向けて声をかける。

 

 

「紫……もしかして、見栄を張っているの?」

 

「あ、あの時は、二度目の洗顔だったのよ! そう、2回目だったから!」

 

 

 紫は、誤魔化すように言葉を取り繕った。

 2回目の洗顔だったからという言い訳は、余りにも苦しい。それだったら、まだ起きてから考え事をしている間に時間が過ぎてしまい、顔を洗うタイミングが遅れたと話した方がよっぽどそれっぽく聞こえるだろう。

 ただ、今のポーカーフェイスもないもない状態では、言い訳にもならなかっただろう。心の動揺で表情が崩れていて完全に取り繕えていないことが致命傷になっている。誰から見ても、どう見ても、取り繕っているのが分かってしまう様子だった。

 

 

「ふふっ、紫、別に橙より早く起きてなきゃいけないっていう決まりがあるわけじゃないんだから意地を張らなくてもいいよ」

 

「意地なんて張っていないわよ!」

 

「じゃあ、見栄を張っているんだよ」

 

 

 少年は、紫の子供じみた言い訳に思わず笑った。

 紫は、橙より後に起きていると思われるのが余程嫌なようである。

 マヨヒガには、別に早く起きなければならないという決まり事があるわけではないので、起きる時間は自由である。特に紫や橙の場合は、朝にやらなければならないことがないだけに縛りがない。

 少年は、特にごまかす必要もないのにどうしてこれほどまでに紫が言い訳を重ねるのか分からなかった。仮に言い訳を並べる必要性が何なのか考えれば、それは―――きっと自分が原因なのだと感じながら次の言葉を口にした。

 

 

「昔までの紫だったら間違いなく橙よりも起きるのが遅かったじゃない。今更気にするほどのことでもないんじゃないかな」

 

 

 今の紫の起床時間は、昔に比べるとはるかに早くなっている。昔は、夕方から起きてくることもざらで一日中起きてこないこともあったと藍から知らされていた。

 それを変えてしまったのは、まぎれもなく外部からの外乱を与えている少年の存在である。少年という存在がマヨヒガに加わらなければ、紫の起床時間は歪まずにそのままだったことだろう。そのままの変わらない生活があったはずなのだ。

 変化が無いことが良いのか悪いのかは別にして、紫に対して変化を起こし、感情に起伏を与えていたのは、間違いなく少年の責任だった。

 橙は、余りに怠惰な生活を送っていた昔の紫の生活を知り、幻滅してしまったようで紫に辛辣な言葉を吐き出した。

 

 

「えー、紫様ってそんなにぐーたらしていたのですか? 私、ちょっとだけ見損ないました」

 

「違うわよっ! 私はぐーたらなんかしていないわ!! 橙よりも先に起きていたのは本当の事なのよ!!」

 

(きっと、紫の言っていることは半分が本当で半分が嘘だね。昔はグータラしていた紫だけど、今日に限ってはきっと橙より早く起きていたのだろう。紫は、嘘がばれれば開き直るタイプだし)

 

 

 紫は、意味のない嘘でムキになる性格ではない。意味のないことなら、だったら何? というように開き直るタイプである。

 これだけ馬鹿にするような橙の言葉を聞いて、失った尊厳を挽回しようとムキになって反論しているのを見れば、きっと事実なのだろうということぐらい一緒に生活していれば分かった。

 

 

(ただ、過去のことについては何も間違っていないからなぁ……これ以上苛めるのは何だし、ここは紫の顔を立てようかな)

 

 

 おそらく紫が橙に対して本当に分かって欲しいことは、過去にぐーたらした生活を送っていないということである。ぐーたらしていた生活が知られることを最も恐れている。年がら年中眠っていたなんて恥ずかしくて橙には話せないのだろう。

 しかし―――紫の話のもう半分は嘘でできている。紫は、分かってもらおうと真剣に言っているが、事実が半分見えていない時点で逆効果にしかならない。嘘が覆いかぶさって事実を嘘に見せてしまっている。

 

 

「分かっているって、紫の方が橙よりも先に起きていたんでしょ? 僕はちゃんと分かっているから」

 

 

 少年は紫を窘めるように場を収めようと適当に言葉を選んだつもりだったが、紫は少年の投げやりな言動ににらみつけるように視線を送り、すぐさま問いかけてきた。

 

 

「和友、絶対に分かっていないわよね?」

 

「分かっているよ? 2年も一緒にいたんだから、紫の事は大体分かっているさ」

 

「へぇ、言ってみなさいよ。貴方の理解している私を」

 

 

 紫は、自分のことを分かっていると言う少年に対して挑発的に、冗談半分で自身のことについて話せと告げた。

 

 

(どうせ、私のこと聞いたところで誰でも同じことを言うわ。橙だって、藍だって、和友だって、同じことを言う……)

 

 

 どうせ、胡散臭いとか誰もが言うようなことを言うのだろう。先ほどの話の流れからマイナスイメージになるようなことが飛んでくるだろう。

 こういった紫の印象はいつだって、プラスの印象にのみ聞こえる言葉が出てくることはない。なぜならば、正体不明、よく分からないものとしての紫の強さが、好印象を打ち消しているからである。

 

 

(よく分からないとか、掴みどころがないとか、胡散臭いとか、そんなのばかり……)

 

 

 そんな想像が紫の頭の中を支配する。紫は、どうせうやむやの言葉が出てくると想像して少年の言葉を待った。

 少年は、過去を思い返すようにゆっくりと目を閉じて、語りかけるような口調でしゃべり始めた。

 

 

「紫はいつも胡散臭くて、掴みどころがないように見える」

 

(所詮和友もそんなものよね……他の人間と何も変わらないわ。私に対する印象なんて、人間も、妖怪も、藍でさえも同じことを言うでしょう)

 

 

 紫は、少年の言葉にやっぱりと余裕の表情を作った。誰も自分のことなど分かっていないのだと、人から見たイメージがそのまま張り付いているだけなのだと、余裕の中に悲しみを抱えながら少年の言葉を耳にしていた。

 しかし―――紫は、次の言葉で顔を真っ赤にした。

 

 

「けれど、本当は誰よりも心が純粋で、みんなを大事にしている。幻想郷を心から愛している。過去も、未来も、とっても大事にしている、大切にしている、優しい人」

 

「…………」

 

「優しい紫は、僕だって助けてくれた。どうしようもない僕を、救ってくれた。紫が助けてくれたから僕は、ここに足をつけて歩いていられるんだ」

 

 

 少年は優しい口調で、優しい表情で紫に対する想いを口にし、これまで紫に対して抱いていた気持ちを吐き出した。

 

 

「僕は、誰よりも優しい紫が好きだよ。優しくて、強くて、厳しくて、見守ってくれる紫の気持ちが―――僕の心を温めてくれる。僕の心を見ていてくれている紫の優しさが、好きだ」

 

 

 紫の顔色が少年の言葉の数だけ赤くなっていく。紫の肩は少年の言葉にわなわなと震えていた。

 少年は、恥ずかしさと嬉しさで満たされている紫に追い打ちをかけるように次なる言葉を吐き出そうとする。

 

 

「紫は、いつだって」 

 

「や、やめなさいっ!! それ以上言わないで!」

 

 

 紫は、少年の予想外の言葉の羅列に黙って聞いていられなかった。少年が次の言葉を出そうとするところで勢いよく立ち上がり、顔を真っ赤にして叫びながら少年の口を塞いだ。

 少年は、急に押さえつけられて不安定になり、必死に倒れないように体を支える。紫の体勢は、少年の口を抑えるとともに体重をかけている形になっている。

 少年の体はと紫の体はほぼ密着している状態のため、少年は紫の体も支えるような形で踏ん張っていた。

 

 

「わ、はかぁったから、ははして、手をはなして」

 

「嫌よっ! 手を離したらさっきの続きを言うつもりでしょう!?」

 

「ふぁべらないから!」

 

「いやよ!」

 

 

 少年は紫に口を塞がれてもがもがとする。

 少年の言葉は紫の心には届かないようで、紫の少年の口元を抑える手に入っている力は緩まることはなかった。

 

 

「しゃべるな! もう何も言わないで!」

 

 

 紫は、少年に手を離して欲しいと言われてもなお、顔を真っ赤したまま少年の口を塞ぎ続ける。少年がいくら振りほどこうとしても、手をどけることは決してなく、恥ずかしさが消えるまでは、ずっとしゃべらせないつもりらしかった。

 橙は、じゃれ合っている二人を見て大きい声を発した。

 

 

「あ、あのっ!!」

 

 

 少年と紫は橙の唐突な大きな声に動きを止めて橙へと視線を集める。

 橙は、二人の視線が集まると同時に次に続く言葉を勢いよく並べた。きらきらと目を輝かせて好奇心を働かせ、自分の知らない紫の過去の話を知りたいと告げた。

 

 

「紫様の昔の話をもっと聞きたいです! 私がいなかった時、どんなことがあったのか、これまでのこととか、色々聞きたいです!」

 

「「…………」」

 

 

 橙鋸刃で先程までの空気が全て吹き飛ぶ。

 少年と紫は、橙の言葉にしばらく呆然と目を見合わせていた。

 橙が固まる二人をしばらく見つめると、止まっていた時間が動き出す。

 紫は、少年の口元に当てていた手をどけて橙のもとへと近づき、口を開いた。

 

 

「……そうね、ちょっと話そうかしら? 2年前のあの日から何があったのかについて、ね」

 

「はーっ! はぁ、はぁ、やっと離してくれたよっ……」

 

 

 少年は、紫の手が口から離されたことで大きく息を吸う。余りに強く押さえつけられていたため呼吸ができておらず、死にそうだった。

 

 

「これまでの話かぁ、そんな大したことはなかったと思うけどな」

 

「そう思っているのは貴方だけよ」 

 

 

 紫は、半目になりながら少年の意見に否定的な意見を述べた。

 ここ2年の話は、紫からすればかなり濃い時間だった。これまでの数千年が薄れるぐらいには、濃い月日を過ごしてきたと自負している。

 それはきっと紫だけではなく、藍もそうであり、他の少年と関わり合いを持っている人間や妖怪もきっと、同じことを思っているはずだ。

 橙は、事の始まりから聞こうと出会いの場面から問いかけた。

 

 

「最初の出会いはどのような感じだったのですか?」

 

「最初にこの子と会ったのはね……」

 

 

 紫は、橙に対して少年との関わり合いを持った時期のこと、昔あったことを話し始めた。

 紫の隣にいる当の本人は、紫の言葉に視点の違う意見を交えながら、最初から―――本当に少年と紫が会った時からの話をした。少年が学校に行く登校中に出会って紫の事を無視したこと、少年の家族が死んでしまったこと、全てを話した。

 紫や少年だけでなく、その場にいなかった橙も加えて3人が、それぞれ想い想いの言葉を口にしながら話をする。

 

 そんな楽しそうな雰囲気につられたのだろうか、3人が話している途中で仲間外れにされている気分になったのか―――そこに新たな参加者が途中から加わった。

 

 

「私も、参加してよろしいですか?」

 

 

 話の途中から3人ではなく、4人での過去語りが始まった。

 橙は、楽しそうに少年にまつわる話を聞き、紫と藍は大変だった思い出、楽しかった思い出を次々に口にする。

 少年は、時々言葉を投げ入れるだけで、目の前に広がる風景を基本的に見守っていた。

 そして、話はついに―――半年前の話に差し掛かろうとする。最初から順番に話していけば、どうしてもこの話になってしまうのは致し方がないことである。少年は今も生きているのだから、時系列順に話をするとこの時期の話は避けて通れなかった。

 この時期は、少年が最も大変だった時期、最も忙しかった時期、最も辛かった時期である。

 紫は、少しばかり雰囲気を暗くして半年前の話を始めた。

 

 

「ここまでの話は、ここから始まる苦労のおまけみたいなものよ。一番大変だったのはここからの2ヶ月間になるわ。丁度橙が生まれるあたりの時期ね」

 

「私、あんまり覚えていないのですよ。ただの化け猫だった時期の記憶が曖昧で……」

 

「覚えていないのも仕方ないのかもしれないわね……あの頃の貴方は色々と特殊だったから」

 

 

 橙は、化け猫だったころの記憶が曖昧だった。

 橙は、化け猫から藍の式になり式神となった存在である。化け猫だった時の記憶は、余り引継がれていないようで曖昧になっている。きっと頭の中にはしっかりと記憶されているのだろうが、うっすらともやがかかったように記憶を引き出すことができず、思い出すことができなかった。

 

 

「そうね、何処から話したら分かりやすいかしら?」

 

 

 少年は、そっと紫と藍を視界に入れた。

 紫はこれまでの話の勢いのまま、次の事柄について口を開こうとしている。藍も、紫が口にしようとするそれを黙って聞こうとしている。

 少年は、今の藍や橙が聞いている状況が非常に危ういと感じ、紫が丁度半年前の話を始める直前で唐突に口を開いた。

 

 

「あっ、そういえば橙。今日は僕たちの料理当番じゃなかったっけ?」

 

「えっ、あわわわ、もうこんな時間!! もっと早く言ってよ!」

 

 

 橙は、少年の言葉で我に返ったように慌てて今の時間を確認すると、声を荒げながら少年に向けて文句を飛ばした。

 お昼ご飯の時間は、大体ではあるが決まっており、おおよそ12時頃である。時間はもうすぐ12時になろうというところだった。どうやら昔話をしている間にお昼がやってきてしまったようである。

 

 

「そんなこと言われても、橙だって忘れていたじゃないか」

 

「ぐむむ……」

 

「……ほらほら、喧嘩なんてしている場合ではないわよ。早く作りなさい。話はまた今度時間がとれたときにしましょう」

 

「和友、時間がないよ! 急いで!」

 

「分かっているよ。これは本当に急がないと間に合いそうもないね」

 

 

 今の時間を考えれば、マヨヒガで食事を取る時間までに昼ごはんを作るのは厳しいものがある。

 橙は、できる限り時間を無駄にしないように慌ててキッチンの方に向かう。少年も橙に追随してキッチンの方へと向かおうとするが、その途中で紫から少年にだけ聞こえる声で話しかけられた。

 

 

「ごめんなさい、口を滑らせるところだったわ」

 

「いいさ、別に。結果オーライだよ」

 

 

 少年は、紫の言葉に素早く答えて笑顔を作ると急いでキッチンへと向かった。

 藍と紫は、二人の様子に小さく笑みを作り、テーブルまで移動を始める。そして、急いで調理を始めようとしている二人に向けて注意喚起した。

 

 

「二人とも時間が無いからって手を抜いてはいけないぞ」

 

「橙、和友、私達の食べる料理に手を抜いたら承知しないわよ」

 

「言われなくても、手は抜かないよ!」

 

「和友、言い合っている場合じゃないよ! 時間がないんだから!」

 

「それこそ分かっているって!」

 

 

 紫と藍は、挑発するような笑みを浮かべながら余裕を持った表情で焦る少年と橙の様子を遠くから見学する。

 橙と少年は、たった今気づいた料理当番という事実に対してすぐに対処ができるほど経験があるわけではない。紫と藍はどうなのか知らないが、橙と少年の二人の料理というのは、大体行き当たりばったりでその時の気分によって作ることの方が多いため、だいたい当日の料理を作る前に何を作ろうかと話し合って決めていた。

 それが今日に関しては話し合う時間もほとんどない。当然のように、橙は作る料理も決めていなかったようで慌ただしくレシピから作れそうなものを選び少年に伝える。

 少年は、橙から告げられた内容を聞いて表情を曇らせた。

 

 

「えっ、これをそのまま作るの?」

 

「悩んでいる時間なんてないよ! 遅れて怒られる方がよっぽど怖いんだからね!!」

 

 

 時計に一度目を向けると、目に映ったのは制限時間が残り30分を切っている事実だった。

 少年は、怪訝そうな表情のまま急かされるように橙の意見を受け入れ、目標を見定めて急いで動き始めた。

 結果からいえば―――料理が料理だけあって調理時間は20分程度しかかからなかった。初めて作ったとはいえ、料理当番によって実力をつけてきた橙は迷うこと無く調理をしていたし、少年も隣でサポートに徹していた。

 しかし、余裕が無かったために作っているのはこの一品だけで、付属で作ることができたのは切られた生野菜のサラダだけである。最低でも汁物を作ろうとしていたが、何を作ればいいのか判断するだけの余裕も無く、考えているうちにお互いに作るのを完全に忘れてしまったという失態を犯してしまっていた。

 橙は、数々の問題点を理解しながらも、それをごまかすように出来上がった料理に対して堂々と言った。

 

 

「できましたっ!! これぞ渾身の一作です!!」

 

「ただの親子丼なんだけどね……」

 

 

 二人が作っていたのは、なんの脚色もない親子丼である。他に何も手を加えられていない、オリジナルのままの親子丼だった。

 時間があればアレンジを加えるような工夫ができたかもしれないが、二人にはその肝心の時間が無かったし、それだけの技量もなかった。

 橙と少年は、テーブルの上にどんぶりを運ぶ。

 4人は、料理がテーブルの上に乗るといつも通りご飯を食べる態勢に入る。全員が椅子に座り、手を合わせて―――声を一色に染めた。

 

 

「「「「いただきます」」」」

 

 

 全員が開幕と同時に一口目を口に入れた。

 

 

 ―――カタ―――

 

 食べ始めて最初に行動を起こしたのは、紫だった。

 一口だけ親子丼を口にした紫が一度箸を置く。紫のその行動は、いつもの批評の時間を告げる合図である。

 少年と橙は、紫の一連の動きを見て慌てて箸をおいて両手を膝の上に置く。二人は、紫からの批評の言葉を受け入れる体勢を作った。

 

 

「批評は、甘んじてお受けします」

 

「うぅっ……どうか、怒られませんように……」

 

「批評を述べるわ」

 

 

 少年は、静かに目をつむり覚悟を固める。橙は、震えるような気持ちで恐怖している。二人は、おびえるように小さく固まり、神妙な面持ちで紫の言葉を待っていた。

 紫は、厳かな雰囲気で二人に対して料理の感想を述べる。

 

 

「可もなく、不可もなく、普通ね。スタンダードな親子丼だわ。この料理に何か言えるとしたら’これは親子丼’ということだけね」

 

 

 紫からの二人の料理への評価は、普通という何の変哲もないものだった。時間があまりにも少なかったのに、そこそこの評価に留まっているのは、時間が足りなかったことを考慮されてのものなのか、それとも二人の料理に対する技量が上がっていたためなのか、紫の好みに合致していたためなのか、二人には分からなかった。

 少年は、思ったよりも甘い評価を受けて頭をかしげたが、暫く思考すると紫がどうして普通という評価を下したのか何となしに察しがついた。

 少年は、橙の方へと顔を向けて耳元に口を寄せると小声で話しかける。

 

 

「橙、やっぱり親子丼を選んだのは失敗だったんじゃない? この料理で味に優劣を付けるのは難しいよ。材料は決まっているんだし、親子丼を美味しくする方法なんて何も思いつかないしさ」

 

 

 親子丼というチョイスは、料理のうまさを競っている状況において非常に難しい選択である。アレンジしてももともとの味がそこまで劇的に変わるわけでもなく、元の状態の方がおいしいと言われることも多くない料理であるため、アレンジが非常にしづらいのである。

 だからこそ、普通という評価が下されたのだと思われた。親子丼という選択肢は、あくまでも及第点しか出ないのである。

 二人は、紫が意外に甘いもの好きで、藍が意外に辛いもの好きであることを知っていても、両方に合わせる調理の方法を知らない。親子丼という選択肢は、明らかに選択ミスだった。

 

 

「簡単だったからってレシピ本から選んだのが失敗だったかな」

 

「あ、やっぱり簡単だから選んだんだ……」

 

 

 少年は橙の小声の返答を聞いて、やっぱりそうだったのかと落胆した。

 しかし、橙が言うように真面目に何を作るかを悩んでいる時間が無かったのも事実で、アレンジを加えるだけのアイデアが浮かばなかったのも事実である。

 紫は、橙の言葉が聞こえていたようでしっかりやりなさいと言葉を送った。

 

 

「こんなことではまだまだ私には届かないわよ。精進しなさい」

 

「そうだぞ、橙。紫様に届かないようでは、私の料理には永遠に届かないぞ」

 

 

 藍は、紫の言葉に追随するように言葉を投げかけた。紫に対して喧嘩を吹っ掛けるように、紫のことを口上に挙げて言った。

 藍の言葉は、あくまで紫の料理よりも自分の料理の方がはるかに美味しいと自慢しているように聞こえる。

 紫は、藍の言葉にすぐさま反応し、眉毛をぴくっと持ち上げた。

 

 

「藍、口を挟まないでくれるかしら?」

 

「紫様の方こそ、私より料理が下手なのに自慢げに話さないで下さい」

 

 

 藍は、勝ち誇った表情で紫に対峙している。

 こと料理に関しては、藍は紫に対して引くということはなかった。他に、紫に対して勝っていることが少なかったこともあるのかもしれないが、料理については紫に刃向うほどの意志を持っていた。

 

 

「料理だけは、料理だけは、紫様に負けたくありません」

 

「実際、藍の方が料理上手いよね?」

 

「紫様の料理の方が下手です」

 

「うぐっ……その言葉、覚えておきなさいよ」

 

 

 少年と橙は、喧嘩腰の二人を見て声を揃えた。

 藍の方が紫よりも遥かに練度の高い料理を作る。それは、間違いでも何でもない。紫と藍では経験値が違うのだ。紫が料理をし始めたのは2年前からであり、それまでずっと料理を作ってきた藍が紫に負けている要素は一つを除いて何一つなかった。

 その一つというのは、ちょっとだけ遊びが足りないところぐらいだろう。

 藍は、基本に忠実に美味しいものを作るのは上手いけども、冒険というものができないため、新しい味が生まれる、新しい料理が生まれるということが基本的に無いのである。

 対して紫の少しばかりの遊び心は、偶に新たな発見や味覚を生み出す。そこが唯一紫が藍に対して優っている部分だった。

 その紫の新しさを生み出す部分に目をつむりさえすれば、完全に藍の料理が紫の料理を凌駕していた。

 そして、対抗意識を張っている紫も藍の料理の方がおいしいことを理解している。自分より料理を作るのが上手いと自覚しているからこそ―――上に立ちたいと望んでいた。

 

 

「今は負けているかもしれないけど、私はいずれ藍の料理を超えてみせるわ」

 

「そういうのは、一度でも私の料理を超えてから言ってください」

 

 

 藍は、昔に比べて本当に紫に対して気軽にものを言うようになった。個が生きて、輪になっている。誰もが繋がって、誰もが認めている世界がここには存在していた。

 

 

「ははっ、美味しいものが食べられるようになる。僕は、それだけで嬉しいかな」

 

「ふふふっ、そうだよね」

 

 

 少年と橙は料理を口へと運びながら、より料理がおいしくなると笑う。

 4人での食事はまだ始まったばかりである。

 


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