ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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甘える、心配する

 少年は、尻尾の根元部分の毛づくろいを終えて手を止めた。

 

 

「うん、完璧だね」

 

「ふぅ、やっと終わったか……」

 

 

 藍の尻尾は、しおしおと力なく少年の膝の上に着地する。尻尾が上がるのと同時に上がっていた藍の肩は、尻尾の動きに合わせてどんどんと下降した。

 

 

「力入りすぎだよ。もっと力抜いてリラックスして」

 

「そうは言うが、くすぐったいものはくすぐったいのだ。我慢などできん」

 

 

 藍は、少年が尻尾の付け根を毛づくろいするのを嫌がるようなそぶりをするが、なんだかんだで少年の行動を止めようとはしない。それはまさしく、藍が心から嫌がっているわけではないということを示しているようだった。

 

 

「でも、根元もやってほしいんだよね? 前もなんだかんだ言って、結局全部やったしさ」

 

「ああ、根元の部分は、その……なんというのか、癖になる感覚があるというか」

 

「癖になる感覚?」

 

「ああっ、もう! いつもどうしてそういうところは察しが悪いのだ!」

 

「そんなこと言われても……僕は別に心が読めるわけじゃないんだよ? あくまで、藍の気持ちは藍にしか分からないんだからね」

 

 

 藍は、少年の言葉に押し黙ると、僅かに頬を上気させて口を開く。

 

 

「……気持ちがいい」

 

「なにかな?」

 

「根元部分も気持ちがいいから、気にせずにやってくれと言っている!」

 

「ふふっ、了解だよ。次の尻尾に移るね」

 

 

 少年は、藍の反応に少し苦笑しながら次の尻尾に手を伸ばす。同様に手の甲を使って次の尻尾を自身の膝へと動かした。

 藍は、くすぐったさで捻じ曲がっていた背中を真っ直ぐに伸ばし、同じ体勢を作って待ち構える。

 藍の尻尾には、どうやら先程の影響がまだ残っているようで、少年の膝の上にまな板のようにビンッと乗っていた。

 

 

「さぁ、次々行くよ」

 

 

 少年は、膝の上に二本目の尻尾を乗せると右手に握っているブラシをあてがう。

 藍は、少年が別の尻尾の毛づくろいを始めると一気に顔を緩め、温泉に入った時のような力の抜ける声を出して息を吹き出した。

 

 

「はぁ~~」

 

 

 藍の尻尾は一気に緊張状態が解け、力無く少年の膝に横たわる。

 尻尾に力が無くなったのを感じた少年は、はっとした様子で一度手を止めた。

 どうしてとまるのか、続きは?

 早くしてくれ。

 藍は、毛の止まった少年に催促するように声を発した。

 

 

「どうした? まだ終わっていないぞ?」

 

「藍……」

 

 

 少年は、危機迫った様子で目の前にある現実に対して今後起こるだろう未来を予測していた。

 今の状況は過去にも見たことがある。現状況に既視感を覚える。少年の頭には、過去に紫から注意されたことが頭をよぎっていた。

 

 

「絶対に寝ちゃダメだからね。そんなことしたらまた紫に怒られるから」

 

「ああ、分かっているさ」

 

 

 藍は、少年に告げられて困った表情を浮かべた。

 紫に叱られたことは、藍にとっても苦い記憶だった。

 藍が紫に怒られたのは他でもない、最初に興味本位で少年が毛づくろいをした時のことである。

 藍は、少年に毛づくろいをしてもらっている間、あまりに気持ち良くなってしまい眠ってしまったことがあった。

 

 

「和友の毛づくろいで気持ちよくなって寝てしまったときは、後で紫様にこっぴどく怒られたからな……」

 

 

 少年は、毛づくろいをしている最中に気持ち良さそうに寝てしまった藍を起こさなかった。

 寝てしまった藍は、その後も起きることはなく、時間は―――昼を回った。

 紫は、12時を回るころに起床してきた。紫が最初に向かうのは、藍の存在する居間である。

 紫は、縁側で無防備な状態で寝ている藍を見つけ、これでもかというぐらいに叱りつけたのである。

 

 

「他人に毛づくろいをしてもらうことがあれほど気持ちいいとは思ってもみなかったのだ。なにせ、誰にも任せたことがなかったからな。気付いたら寝てしまうほどに、気を休める結果になるなんて予想もしていなかった」

 

 

 普段自分で毛づくろいをしていた藍にとって、誰かにやってもらう感覚というのは新鮮なものだった。

 

 

(それにしても、どうして私は和友に毛づくろいをさせたのだろうか? 紫様にすらやらせたことがないというのに……)

 

 

 藍は、自身の尻尾の毛づくろいを誰かにさせたことはなかった。人間の中で生活していた時は当たり前だが、他の誰に対しても毛づくろいをさせたことはなかった。

 藍は、思い返してみると誰にもさせなかった毛づくろいをどうして少年に対して許したのか分からなかった。主である紫ですら触らせなかった尻尾の手入れを、なぜだか少年には任せてもいいと思ってしまった。

 結論として気持ちがよかったし、毛並みも綺麗に整えられているから問題はないのだが、どうして任せてもいいと思ってしまったのか、理由が分からなかった。

 

 

(いや、考えても仕方がないか。きっと和友がせがんだから任せた。そして、問題がなかったから続けさせている。ただ、それだけのことではないか)

 

 

 藍は、頭の中に巡る思考を止めた。昔のことを考えても仕方がない。任せていて、問題が起こっていないという事実が存在するのだから―――気持ちよかったといういい結果が出ているのだから受け入れればいいのである。

 

 

「まぁ、和友にやってもらっていたから眠ってしまうほど気持ちよかったのかもしれないな」

 

 

 藍にとって尻尾の毛づくろいというのは、人間でいうマッサージをするようなもの、耳掃除をするようなものである。

 こういったものは、自分自身でやるときと他の人にやってもらう時で酷く違う気持ちになることが多い。藍が毛づくろいをしてもらっていて眠くなったり心地よくなったりしたのは、人にマッサージしてもらっていると眠くなってしまうのと同じようなものであり、人に耳かきをしてもらうと酷く心地よい気分になるのと同じようなものである。

 藍は、心地よい感触に酔いしれていた。こういったことは、信頼のおける相手や精度のある相手に対してだけしか任されられない作業ではあるのだが、少年の場合は―――考えるのは止そう。

 少年は、藍の褒めるような台詞に笑いながら答える。

 

 

「はははっ、おだてても何も出ないからね」

 

「何も要らないよ。私は、ただこの生活が続けばそれだけで十分だ。それで私の世界は、十全なのだよ」

 

 

 藍は、朗らかな時間を過ごしている中で、先程話していた寝てしまって紫から怒られたときに不思議な感覚になったことを振り返った。紫の怒り方には、普段とは違うものがあるように思えたのである。

 

 

「和友、先ほどの話なのだが……」

 

「何? 紫が怒った時の話のことかな?」

 

「そうだ。その話だ」

 

 

 藍は、当時心に湧いた疑問を今になって口にした。

 

 

「私には、分からないのだ。紫様があれほど怒られた理由が……」

 

 

 藍は、寝ていたことに対して紫が酷く怒った理由が分からなかった。紫の怒り方は、普段の怒り方と質が違っていた。いつもの怒り方よりも、重かった。

 だからこそ、これほどに記憶の底に刻まれている。今思い出しても鮮明に思い出せるだけの新しさがある。

 

 

「確かに、寝てしまって仕事が(おろそ)かになったことは怒るに値する理由だろう。しかし、紫様の様子を見ているとそれだけではないような気がしてならないのだ」

 

 

 紫の怒り方は、どう見ても仕事を置き去りにして寝ていることに対して怒っているようには思えなかった。仕事をさぼったことで怒られたことは、これまでだって何度かある。他に気を取られていたり、邪魔が入ってい遂行できなかったりと、たびたび怒られる機会はあった。

 あれは、その怒り方とは違う。藍には、紫があれほど怒る理由に心当たりが全くなかった。

 

 

「紫様は、なぜあれほど怒られたのか……」

 

 

 藍が分からなかったことは、もうひとつある。

 紫が怒っている理由を告げなかったことである。正確には、怒っている理由は告げられたのだが、あれ程怒った理由を話してくれなかった。

 いつもより激しく怒っている理由がなんなのか分からなかったこと、それを紫が告げなかったこと、この二つが藍の頭の中で引っかかっていた。

 藍は、自分なりに考えた紫が怒った理由を少年に伝える。

 

 

「もしや、私が和友を独占しすぎているせいかとも思ったのだが……」

 

 

 最終的に藍は、唯一考えられた可能性として少年の独占を提示した。

 紫の独占欲が強いのはいつものことである。自分が目をつけている物に対して誰かが触るようなことを基本的に許さない。悪影響を与える可能性があるのならば、なおさらその傾向は酷くなる。

 藍は、紫が怒った理由が独占欲から来るものではないかと予測していた。

 しかし、少年は藍の意見を聞いた瞬間に藍の提示する可能性をバッサリと切り捨てた。

 

 

「紫に限ってそんなことは無いと思うよ」

 

「どうして言い切れる?」

 

「紫の仕事を僕がやっているわけではないから、藍が僕を独占していることに問題があったわけじゃないはずなんだ。紫は、藍に僕を独占されても特に困るわけじゃないからね」

 

 

 少年の反論は、紫の仕事を少年がやっているわけではないのだから、少年が藍に拘束されたところで何一つ問題は起きないという至極当然のものだった。

 少年は、さらに追加で持論の補強を図る。

 

 

「それに、もしも藍の言う通りだったら普段から紫に怒られることになるでしょ? 僕、大体藍と一緒にいるからね」

 

「むむむ……」

 

 

 藍は、少年の意見を聞いて唸った。確かに、少年を独占していると言えるような現在の状況に対して紫がそれほど怒っていない様子を見ると、藍の意見は間違っているように思われる。

 

 

「でも、藍はもうちょっと僕から離れた方がいいかもしれないね。昔ほどべったりではなくなったっていっても、それでもまだまだ紫に怒られることも多いしさ」

 

「そんなことを言わないでくれ。私は、これでも随分と我慢をしているのだ……これ以上は、気持ちが持たない」

 

「以前までは、お風呂にまで付いてきたもんね」

 

「あれは、体を洗ってあげようと思ってだな」

 

「親切から言ってくれるのは嬉しいけど、一人でできるから」

 

 

 少年は、会話をつづけながら尻尾の毛をすくうブラシを動かし続ける。あくまでも途中で藍の尻尾の毛づくろいを止めることはしない。まるで、現代における床屋のような雰囲気である。作業をしながらコミュニケーションを図っていた。

 

 

「僕が頼りないのがいけないのかな? だから藍が心配するんだよね?」

 

「私は、例え和友が強かろうと、紫様より優秀になろうとも、扱いを変えることはないと思うぞ。私にとっては、和友はずっと和友のままなのだからな」

 

「僕は、僕か。それもそうだね。僕が変わってしまうわけじゃないもんね」

 

 

 藍は、そこまで話すと逸れてしまった話を軌道修正し、不思議そうに少年に答えを求めた。

 

 

「それはそうと……和友は、紫様がどうしてあれほど怒ったのか分かるか?」

 

「藍は、本当に分からないの?」

 

「ああ、私には分からない」

 

 

 少年は、頭のいい藍が回答を出せないことを不思議に思った。

 藍の頭の良さは、今までにずっと見てきている。そんな頭のいい藍が、自分の考えている程度の考えが浮かばないとは思えなかった。

 しかし、少年から見た藍は本当に分からないようで頭を悩ませていた。

 

 

「紫様は、確かに怒っている理由を教えてはくれたのだが……私は、それだけではないような気がするのだ。あれ程怒られる理由が何かあるはずだ」

 

「ちなみに、紫は何て言っていたの?」

 

 

 藍は、ゆっくりと空を見上げ、思い出すように間をおいて言葉を口にした。

 

 

「おおよそになるが、和友にそれ以上甘えるのは止めなさい、私の式としての威厳はどうしたの? という感じだな」

 

「んー」

 

 

 藍は、それとなく紫のモノマネを取り入れて喋った。藍の紫のモノマネはそこそこのクオリティだった。それこそ、紫を知っている人ならば少しの感動というか、反応がおかしくなりぐらいの精度である。

 ただ、少年は何一つモノマネに対するコメントはしなかった。似ているか似てないかで言えば、似ているのかもしれない。

 だが、少年の感覚的には違っていた。

 違うもの扱いだった。

 ただ、それだけのこと。

 そんなどっちでもいいことである。

 

 

「甘えるのは止めなさい……ね」

 

 

 少年は、紫が何を思ってその言葉を口にしたのか思考する。藍の言葉を信じるのであれば、紫が藍に怒った理由は、少年に甘えていたからである。

 紫は、どうして甘えてはいけないのかについては、一切理由を告げていない。どうしてそれほど怒ったのかも告げていない。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、何やら悩んでいるようで沈黙を作り出す。

 藍の言葉からは、藍が本当に紫の怒っている理由を分かっていないことが理解できる。同時に、紫がその理由を告げていないことも把握できた。

 

 

(多分、理由は……)

 

 

 理由は、なんとなく分かる。心当たりは確かにあった。

 ただ、紫が藍に告げていないならばその内容を安易に話してはいけないのではないかと思った。

 

 

「へぇ……紫は話さなかったんだね。なら、僕が話すわけにはいかないか……」

 

「それは、私には言えないことなのか? 私には言えないから紫様も話してくださらなかったということなのか?」

 

 

 藍は、少年の何か知っているような雰囲気が気になり、少年に向けて切実に訴えた。そして―――「言えないことなのか?」という言葉を言った瞬間に、不意に恐怖に襲い掛かかられた。

 脳内に半年前の出来事がフラッシュバックしてくる。

 言えないこと。

 知らないこと。

 隠されている。

 知らぬ間に―――大事なものが失われる。そんな恐怖にさいなまれた。

 藍は、体の震えを抑えるように自身の腕を強く掴む。

 

 

「和友、以前のような隠しごとだけは止めてくれよ。私は二度とあんな想いをしたくはないのだ……」

 

 

 少年から何かを隠されているということは、それだけで藍を不安にさせた。

 それほどに―――藍にとって昔の出来事は影響が大きく、深い傷跡を残している。それこそ、心が壊れるぐらいの影響はあった。

 少年は静かに首を左右に振り、藍を安心させるように言葉を選ぶ。藍が不安に思わないようにはっきりと断言した。

 

 

「藍に重荷になるようなことを隠しているわけじゃないよ。ただ、紫は藍のことが心配なだけ。紫は、半年前のことがあったから不安なんだよ。全部壊れてしまうのがさ……」

 

 

 事実―――紫は、藍に関して不安を抱えている。昨日の弾幕ごっこでも、心配そうに見つめていた。

 

 

「紫は、強いようで強くないから。僕と同じで隠すのが上手いから。僕と違って、諦められる人だから。だから、藍がいなきゃいけないと思うんだ。藍が紫を支えてあげなきゃいけないと思うんだ」

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて考え込む。そして、空気が固まった今、少年は頭を使っている藍に向けて思考を停止させる爆撃を放った。

 

 

「藍は、昔に比べてずいぶんと甘えん坊になったからね」

 

「あ、甘えん坊っ!?」

 

 

 藍は、少年の言葉に顔を一気に赤らめた。

 藍にとって甘えん坊という言葉は、長年生きてきて一度も言われたことも無い言葉だった。

 甘えん坊とは、「人になれ親しんでわがままな子供」「あまったれ」という言葉である。藍の顔が羞恥心で真っ赤に染まる。さすがの藍も甘えん坊と言われるのは恥ずかしいようだった。

 藍にとって救いだったのは、顔が赤くなっているのを少年に見られていないことである。藍は少年に対して背中を向けている状況のため、少年からは藍の表情を確認することができない。藍にとって、少年に見られていないのが唯一の救いとなっていた。

 藍は、少年の甘えん坊という言葉に慌てて反論の言葉を口に出そうと試みる。

 

 

「か、和友っ!! 甘えん坊はさすがに言いすぎではないか!?」

 

 

 藍は、沸き立つ恥ずかしさを象徴するように尻尾を慌ただしく動かす。少年の目の前では、九本の尻尾が縦横無尽に動き回っていた。

 少年は、動き回る尻尾を抑えるように軽く掌で尻尾を膝へと押し込み、取り乱す藍を落ち着かせる。

 

 

「ほら、尻尾をそんなにもぞもぞと動かさないでよ。毛づくろいできないでしょ?」

 

「す、すまないっ。取り乱したな」

 

 

 藍は、少年の言葉で自分が取り乱していることに気付き、すぐさま謝罪の言葉を告げた。

 確かにここで取り乱しても何一ついいことは無い。弁明は慌ててしても効果は薄い。むしろ、勘違いをさせる原因になりかねなかった。

 藍は、落ち着きを取り戻すと周りを気にするように首を回して周囲を伺う。どうやら誰もいないようである。

 藍は、この場に紫がいないことを心から良かったと思った。紫がいたら場合、今みたいに心を落ち着かせる余裕などなかったに違いなかったからである。

 

 

「はぁ……」

 

 

 藍は、紫が居たならば間違いなくそうなっただろうと予測していた。紫がいれば、弄られることは必須の状況である。

 藍はそっと心を落ち着けると、少年の言い方に口を出した。

 

 

「でも、甘えん坊はさすがに……」

 

「言いすぎだった?」

 

 

 少年は、文句を言う藍に対して優しそうな表情を作る。藍からは、もちろん見えてはいないのだが、声色から優しい雰囲気を感じ取ることができた。

 少年の雰囲気には、‘色’がついている。優しければ温かな暖色系の色が、落ち込んでいれば寒色系の色がついている。雰囲気は周りに感染し、広がる。

 少年は、親が子供に教える時のような、語りかけるような雰囲気で藍に言った。

 

 

「僕は、藍を甘えさせていると思うよ。それこそ、やりすぎといわれるぐらいには甘えさせているって自覚している」

 

 

 藍は、少年の悟らせるような言葉にこれまでの生活を思い返した。そして同時に、少年の言葉が間違っていないことを理解した。

 藍が思い返した過去には―――いつも少年がいる。プライベートなお風呂や厠といった部分を抜きにすれば、ほとんどの時間を共有している。以前は、お風呂にまで付いていっていた。厠の傍まで付いていっていた。

 極めつけは、藍が行っていた家事を少年が担っていることである。これでは、甘えていると言われても仕方がなかった。

 藍は、思い当たる節のある言葉に声を詰まらせた。

 

 

「言いすぎ、ではないかもしれないな……」

 

「でしょ?」

 

「確かに私は、和友に甘えている部分がある……」

 

 

 料理に始まり、買出しに続き、掃除に広がり、毛づくろいまで少年がやることになっている現状が存在する。少年がなんでもやろうとするため、藍の仕事は減り、少年の仕事は増えている。

 藍は、何でもやろうとする少年にどこか甘えている部分があることを否定できなかった。今やってもらっている毛づくろいなど最たるものである。

 少年にやらせているものの大半は、自分でやれば全て済む話なのだ。掃除や洗濯は、少年の分も含んでいるということも考えれば少年がやってもおかしくはないが、少なくとも毛づくろいに関しては少年が関わるべき内容ではない。

 

 

「だが、どうしても一人でやると、どこか物足りない気持ちになってな……」

 

 

 藍は、昔に比べて欲に忠実になった。欲に左右される妖怪の原点に近づいていると言ってもいい。

 藍は、少年に頼り過ぎていると言われても、自分の気持ちを止めることができなかった。自分一人で何かをやると、どこか物足りない気持ちを覚える。何か、心が満たされないような、大きな空間が空いたような感覚に陥る。

 藍の中では、二年前に来た少年の存在が居て当たり前のような存在になっていた。少年に何かをやってもらう、少年と一緒に何かをやるというのが普通となっていた。

 少年は、満更でもなさそうに、藍の言葉にどこか嬉しそうに、どこか困ったような表情を浮かべる。

 

 

「まぁ言われている身としては、頼られているようで嬉しいものがあるけどね。でも、藍も紫の言っている気持ちが分かるでしょ? 紫は、藍のその状態に不安を感じているんだよ」

 

 

 紫の不安材料は、命令や指示に反して藍が個人プレイに走っている現実にあると告げた。

 藍は、紫に怒られたあの日以降も少年に自身の尻尾の毛づくろいをさせている。紫が朝早く起きてこないことをいいことに、紫に見られないように朝早くから毛づくろいをさせている。

 藍は紫に怒られても、結局止めることができずに少年に頼んでいるのだ。

 

 

「思い当たる節は、いっぱいあると思うよ?」

 

「…………」

 

 

 藍は、自身の欲に勝てなくなっている。紫の命令よりも、自身の欲の方に重きが置かれ始めている。

 少年は、紫が怒っているのはそんな寄りかかっているような状態に不安を感じているからだと説明した。

 紫が本当にそう思っているのかは分からない。少年の言っていることは、あくまで少年の意見である。

 しかし、藍の中では少年の言葉が紫の怒った理由の答えとして刻みこまれることになった。

 少年の言葉に対して何一つ、反論や別の意見が出せない。反論のできない言葉は―――事実と等価である。異論がなければ、意見は無条件に通る。事実は事実でしかない。少年の言葉には、虚実は一切交じっていなかった。

 

 

「紫様が私に不安を……」

 

 

 藍は―――真っ先に紫に心配をかけてはいけないと思った。続いて、目的を達成するためにはどうすればいいのかを思考した。

 答えは、いとも簡単に出てくる。少年に対して距離を取ればいいのである。強く依存している現在の状況を打開すればいいのである。

 藍は、頭の中に出てきた答えを受け入れようと飲み込もうとする。

 だが、飲み込もうとした言葉は、喉の奥には通らなかった。

 藍は、すぐ後ろにいる少年の存在を感じながら困った表情を作った。

 

 

「でも……」

 

 

 藍は、紫の不安を理解していても、どうすればいいのか分かっていても、答えを飲み込む直前で紫の想いを鵜呑みにすることを躊躇した。

 少年と距離を取るということを受け入れることができない。それを心が許さない。藍の想いは紫の意志よりも強くなり、一個としての想いが強くなっている。そして、そんな自分の考えている思考そのものが紫の不安とする部分であることを理解していない。

 少年は、悩み唸る藍に大丈夫と声をかけた。

 

 

「大丈夫、分かっているよ。紫には言わない。誰に言われても急には止められないもんね」

 

 

 毛づくろいに関することは、本当であれば、紫に話さなければならないことである。紫から咎められていることだけあって、告げる必要があることである。

 しかし、少年は今の状況がいいことではないことを知りながらも、紫に黙っておくことを決めた。

 理由は―――一つしかない。

 藍にとって辛いだろうから―――たったそれだけだった。

 

 

「それに……」

 

「それに?」

 

 

 藍は、この時ばかりは少年の先の言葉が気になり、体をねじり少年の方に顔を向けて声をかけた。

 

 

「今、紫に言ったら間違いなく僕も怒られるからね。僕は、紫に黙っておくことに対してあんまり気乗りしないけど……藍が嬉しそうにしているならいいや」

 

 

 本当は、自身が怒られることなんて気にしていない。紫に怒られるからなんていうのは、藍の気持ちを軽くするための少年の方便である。紫に告げない理由として付け加えたのは、藍のためという理由だけだと藍が気にするからだった。

 少年は、ごまかすように笑顔を作る。藍も少年の笑顔に合わせてぎこちなくほほ笑んだ。

 

 

「私も、できるだけ今の状態を変えられるよう努力するからな……」

 

「うん」

 

 

 少年は、藍の言葉を信じて静かに頷く。何も変わらないことを悟りながらも、藍の言葉を信じて変わることを望む。

 藍は、静かに少年に対して背を向ける。少年の期待に背くように少年から後ろを向いた。

 少年は、何事もなかったように藍の尻尾の毛づくろいを再開する。

 藍の尻尾は、事の初めよりも元気がなくなり、動かなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 毛づくろいは、暫くして終わりを迎える。

 少年は、ブラシを床に置いて尻尾を掌で優しく撫でる。すると、ふわふわとした毛が風になびくように揺れ動いた。

 

 ―――ポンポン―――

 

 少年は、尻尾の上を掌で二回だけポンポンと軽く叩いた。これは、毛づくろいが終わりましたという少年からのいつものサインである。

 藍は、少年から送られる合図にすぐさま気付いた。

 

 

「あっ……」

 

 

 藍は、無意識に物欲しそうな声を出す。藍の毛づくろいされていた最後の尻尾は、少年の膝から暫くの間動く気配を見せなかった。

 

 

「…………」

 

 

 少年は―――ここで藍を甘えさせたりはしない。これで毛づくろいをしてしまえば、藍の少年に対する状況が悪化する。甘えさせすぎている―――先程の言葉である。少年は、暫くの間藍の方から尻尾をどかすのを待った。

 しかし、一向に藍の尻尾は少年に膝から動かなかった。いくら待てども時が止まったように、力尽きたように動こうとしなかった。

 

 ―――ポンポン―――

 

 少年は、動かない藍に言い聞かせるようにもう一度終わりの合図を示す。もう一度、尻尾を優しく二度叩き、終わりましたの信号を送った。

 藍の尻尾は、少年の合図に僅かに動いて少年の膝からずり落ちるように床へと横たわる。まるで駄々をこねるように転がり落ちた。

 

 

「藍、終わったよ?」

 

「あ、ああ……」

 

 

 藍は、どこか元気のない返事を返し、尻尾をどかした。

 少年は、動き出した藍に少しだけ安堵の表情を見せる。今度は少年の信号をちゃんと受信できたようである。

 藍は、尻尾を少年の膝から離すと軽く後ろを向き、少年のいる方向へと体を向けた。藍の視線の先には、にっこりと微笑む少年の顔がある。

 藍は、どこか寂しそうにお礼の言葉を口にした。

 

 

「ありがとう、和友」

 

「はい、どういたしまして」

 

 

 少年は、縁側に座ったまま再び空を見渡す体勢に入る。先程やっていた光合成ではまだ足りなかったようで、光合成を再び行い始めたのである。

 少年が光を浴びている理由はごく普通の理由で、別に光合成をすることでエネルギーを蓄えるということをしているわけではない。

 少年は植物ではなく動物である。そんなことできやしない。光を浴びている理由は、朝に太陽からの光を十分に浴びておくことで体が完全に起きるということらしい。本当かどうかは、実のところ分からない。

 藍は、光合成の体勢に入った少年に向けて、物想いにふけるように、余韻に浸るように声をかけた。

 

 

「か、かずとも……」

 

 

 藍は黙ったまま暫くの間少年を見つめていた。

 しかし、いくら視線を送ったところで少年が藍へと意識を向けることはない。少年は、叶えられない想いを聞きたくはなかった。

 藍は、いくら視線を送っても少年に反応が無いことを確認すると少年に対して何かを求めるのを諦め、視線を少し下げながら立ち上がった。

 

 

「和友……私は、朝食の準備をしてくるからな」

 

 

 藍は、動かない少年とは対称的にキッチンの方へと移動する。少しだけ重くなった足取りで区切りのいいところで終えていた朝食作りの作業に戻っていった。

 

 

 

 

 少年は、藍が傍から居なくなって数分間日光浴をすると満足したようで立ち上がる。そして、その場で背伸びをした。

 

 

「ん~、充電完了」

 

 

 少年は、満足げな表情のまま後ろを振り返る。少年の視界には、料理をテーブルの上に並べている藍の姿が映った。

 少年は、ゆったりと歩きながらテーブルに備え付けられている椅子に座ると、朝食を作ってくれた藍に向けてお礼の言葉を告げた。

 

 

「お疲れ様、いつもありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 

 藍は、ちょっと暗くなった表情を明るくし、心をこめて言葉を返した。

 少年は、藍の運んできた料理を綺麗に配置する。

 藍は、自身が作った料理を全て運び終えると少年の座っている反対側に座った。

 

 

「それじゃあ、食べるか?」

 

「そうだね、食べよっか」

 

 

 少年と藍は、目を合わせ、両手を正面で合わせると声を一つにする。

 

 

「「いただきます」」

 

 

 少年と藍は、いつも一緒に朝食を食べていた。朝食の時間は、紫と橙がまだ起きていないため、椅子に座っているのはいつも藍と少年の二人だけである。

 少年と藍は、目の前にある料理を頬張り、箸を進める。

 少年は、食事の最中、即座に話題を提示した。

 

 

「相変わらず、紫と橙は朝食の時間に起きられないみたいだね」

 

「紫様と橙に早起きをしろというのは、さすがに酷なものだろう……」

 

 

 紫と橙は、いつも眠たそうにしながら短針が12時を回り始める頃に起きてくることが多い。何かしら用事が無い限り、早起きすることは無く、それこそ―――起こしに行かなければ体を起こすことはなかった。

 紫と橙は、用事があっても起きてこないことが多かったりする。二人は、それほどに睡眠というものが大好きなのである。そんな二人だからこそ、朝食は藍と少年の二人だけで取ることがほとんどであった。

 しかし、藍は二人だけの食事といっても不思議と寂しさは感じなかった。むしろ、少年と二人で食べる食事が一つの楽しみとなっている節があった。4人でワイワイと食べたいという気持ちもあれば、少年と1対1で食事をしたいという想いも抱えている。

 寂しさを感じないのは、昼食時と異なり少年との距離が近いからかもしれない。少年と話をする余裕があるからかもしれない。誰にも咎められることなく、誰にも止められることなく、好きなことを話し、好きなことをすることができる。

 藍は、少年と二人での朝食を楽しんでいた。

 

 

「私はこうして和友と二人で食べる食事というのも悪くないと思っているぞ」

 

「僕も藍との食事が好きだよ。藍の料理は相変わらず美味しいし、ゆったりしているこの雰囲気が僕は好きだから」

 

「そ、そうかっ……それなら良かった」

 

 

 藍は、動揺を隠すことができずに、言葉に詰まりながらなんとか声を出した。少年も自分との食事を好いてくれていると思うと、嬉しさがこみ上げてきた。さらには、少年の言葉を聞いているとまるで自分のことを好いてくれているのではないかと想像してしまい、顔が赤くなった。

 

 二人は、楽しそうに会話をしながら朝食を口に運ぶ。二人の間で飛び交う会話の内容は日常会話が多く、今日何をするのか、昨日何があったのか、大体はそんな話である。お互いのことをおおよそ知っている二人にとって個人的な話をすることはほとんどなかった。

 

 

「うん、藍の料理はいつも美味しいね。僕も頑張らないと」

 

「和友の料理は、もうちょっとアクセントがあればおいしくなると思うのだが……こんなのとかどうだろう?」

 

 

 藍の作った料理は、時間の経過とともに二人の口の中へと次々と放り込まれていった。

 

 

「もうすぐ食べ終わるな」

 

「そうだね」

 

 

 藍は、食事が終盤に差し掛かると声のトーンを分からないぐらい少し下げる。それも、いつものことだった。

 別れ際―――藍はいつも暗くなる。

 少年は、藍の微妙な変化を感じ取っていた。

 藍は、気持ちを若干落としながら毎日口にしている言葉を告げる。

 

 

「今日も朝食を食べたら行くのだな」

 

 

 少年は、朝食を食べた後に行く場所がある―――行かなければならない場所があった。

 藍は、正直なことを言えば、少年にマヨヒガから出ていって欲しくはなかった。それは、少年の行く場所もそうであるが、少年が行く目的も藍にとって大した重要性を持たなかったからである。

 藍にとっては、少年の安全性が脅かされることの方が重要性が大きい。怪我をして帰って来るのではないかという心配に心をすり減らす方が苦しかった。

 もしも、妖怪に襲われたら。

 もしも、事件や事故に巻き込まれたら。

 藍は、そっちの方が心配だった。

 少年は、心配そうに見つめる藍の目をしっかりとした瞳で見つめ、はっきりと言った。

 

 

「もちろんだよ。やらせてもらっている仕事を放り投げるわけにはいかないからね。無断欠勤なんて僕自身が許さないから」

 

「そうか……気をつけて行ってくるのだぞ」

 

 

 藍は、少年から返ってくる答えを知っていた。毎日のように告げている言葉に返って来る言葉は、いつだって同じである。

 少年は、必死に堪えるような表情の藍に優しくほほ笑んだ。

 

 

 

 二人は、朝食を食べ終わる。

 少年と藍は、視線を合わせると手を正面で合わせ、声を一つにした。

 

 

「「ごちそうさまでした」」

 

 

 少年と藍は、声を発した直後に同時に立ち上がる。そして、食器洗いをするために食卓に並んでいる空っぽの食器を持って流し台へと足を進めた。

 二人は流し台に辿り着くと、水を流して食器洗いを始める。いつもと同じように、二人で皿洗いを行う。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、食器洗いをしている時だけは無口になることが多かった。黙り込み、下を向いて淡々と食器洗いを黙々とこなす。そして、少年もできるだけ藍に声をかけることはしなかった。少年には藍が何を考えているのか分からなかったが、それを自分が聞いてもいいことではないように思えて仕方がなかった。

 それは、藍の頭の中を巡っている考えの中に、自分の存在が含まれているとなんとなしに分かっていたからである。

 

 

「「…………」」

 

 

 少年と藍は基本を沈黙で保ち、必要最低限の会話だけで食器洗いを終えた。

 二人は、食器洗いを終えると玄関へ移動する。

 藍は、移動の途中も視線を下げたまま、口を開くことはない。

 少年は、黙り込む藍へと声をかけた。

 

 

「じゃあ、そろそろ行くね」

 

 

 少年は、自身に課せられた務めを果たすために永遠亭へと向かおうとする。時間には問題はない。今から永遠亭に向かえば、丁度いい時間になる。

 少年は、玄関で靴を履く。藍は、玄関まで少年の見送りをするために少年と一緒に玄関に来ていた。

 少年は、藍へと振りかえって笑顔で別れを告げた。

 

 

「いってきます。今日も午後には帰ってくるからね。遅くなるようならちゃんと連絡入れるから」

 

「……いってらっしゃい、しっかり務めを果たしてこい」

 

 

 藍は、覚悟を決めたような顔で自分ができる限りの笑顔で少年を送り出す。藍の声のトーンは、もとの位置まで戻っていた。

 

 

「いってきます!」

 

 

 少年は、再び「行ってきます」の言葉を藍へと送ると玄関を出てゆっくりと飛び立つ。藍の視線の先には、小さな少年の後ろ姿が映っていた。

 

 

「無事に、帰ってくるのだぞ……」

 

 

 藍の言葉は、少年には届かない。

 少年は、振り向くことなく飛んでいく。

 少年の体は、どんどん小さくなり見えなくなる。

 

 藍の心には、大きな不安が渦巻いていた。


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