ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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朝が来た、1日が始まった

 少年は布団の中で目を覚ますと、二三度(まぶた)をぱちぱちとさせる。重くなった瞼を開けて目から光を取り入れる。少年の目には、大量の光が差し込んできた。

 

 

「あれ? もう朝……?」

 

 

 少年は、若干重く感じる体を起こし、周りを確認するように首を左右に振る。そこには、見なれた光景が広がっていた。

 

 

「ここは、僕の部屋か」

 

 

 少年は、片手を額に当て昨日のことを想起しようと記憶をめぐり始める。どうしてこうなっているのだろうか。どうして部屋で目覚めているのか。あの時、何があったのだろうか、思い出してみる。

 

 

「弾幕ごっこをやった後、疲れてそのまま眠ちゃったんだっけ……?」

 

 

 少年の記憶は、藍と弾幕ごっこをやった後からすっぽりと無くなっていた。

 それもそのはずで、少年は弾幕ごっこの練習を終えた後、疲れ切ってそのまま寝てしまったのだから。記憶なんてあるわけがなかった。

 

 

「……明るいな」

 

 

 先程も説明したが、部屋の中にはすでに外からの明かりが差し込んでいる。

 お日様は、もう起きなければならない時間だと目に痛いぐらいに知らせてくれていた。

 

 

「考えている場合じゃない、早く居間に行かないと」

 

 

 少年は、今の自分が置かれている状況を理解すると、一度背伸びをしてから布団を抜け出した。

 

 

「寒い」

 

 

 布団の外はまだ少し肌寒い。

 少年は、軽く肌をさする。外から差し込んでくる光の量は随分と多く感じるのに、気温はまだまだ低いままである。日が昇ってから時間が余り経っていないようで、空気が温かくなっていないようだった。

 少年は、着替えることなく、布団をたたむことなく自分の部屋を出て居間へと向かった。

 

 

「今何時だろう?」

 

 

 普段通りであれば、少年の体内時計はしっかりとしているため、起きる時間が大きくずれることはない。普段通りの生活を送っていれば、同じような時間に起きるはずである。

 少年の朝は早く、いつもであれば午前六時には起床が完了していることがほとんどである。

 しかし、昨日のことを思えば、普段通りに起きることができているのか分からなかった。昨日はあいにく普段通りの生活とは言い難い。眠りに入る過程がいかんせん特殊な状況だったため、寝坊したのではないかと少年の内心は穏やかではなかった。

 

 

(昨日は特殊だったからなぁ……7時を回ってなければいいけど。どうだろうか、いつも通りに起きることができているのなら、藍が朝ごはんの準備をしているはず……)

 

 

 少年は、少しばかり寝ぼけた頭のまま廊下を歩き、居間の扉を開けて中へと入った。

 少年の視界が居間全体へと広がる。少年の瞳には、ある人物の姿が映り込んだ。

 それは―――毎日のように見かけている人物、藍の姿である。

 藍は、朝食の準備を行っている最中のようだった。

 

 

(藍が料理をしているってことは、寝坊したわけじゃなさそうだね)

 

 

 少年は、藍が朝食の準備を行っている姿を確認し、わずかにざわついていた心を落ち着けた。藍が朝食の準備をしているということは、いつも通りの時間に起きることができきているのだろう。大きな誤差は無いようである。

 藍は、早起きの少年よりも基本的に早い時間に起きている。

 少年は、藍が起きるよりも早い時間に起きたことがないので知らないが、きっと5時半ごろに起きているのだろうと思っていた。

 

 

「藍、おはよう」

 

 

 藍の顔が少年の声が届いたと同時にはっと上がる。藍は、視界に少年の姿を入れると微笑みながら挨拶を返した。

 

 

「おはよう、和友」

 

 

 少年は、いつものように藍と挨拶を交わして視線を合わせる。二人の視線は、互いの存在を確かめるように相手の瞳の奥を貫いた。

 少年は、暫く視線を合わせると満足したように後ろを振り向き、次にやるべきいつもの動作に移る。

 朝起きた後、挨拶を交わした後にしていること―――それは顔を洗いに行くことである。

 

 

「顔を洗いに行ってくるよ」

 

「和友、タオルを持っていけよ」

 

 

 少年が顔を洗うために外へと足を向けると、藍は外へと歩き出そうとする少年を引きとめるように声をかけた。

 藍は、少年に渡すためにあらかじめ用意してあったタオルを右手で掴み、少年へと放り投げる。藍が放り投げたタオルは、空気抵抗を受けながら不規則に少年のもとへと飛来した。

 少年は、体を泳がせながらもタオルをキャッチする。

 

 

「おおっと!」

 

「よく取れたな」

 

 

 藍は、少年の一生懸命な動きに笑みを浮かべていた。

 少年は、藍の言葉からタオルを取らせる気がなかったのかと勘ぐる。

 

 

「こんなの余裕だよ。というか……よく取れたなって、取らせる気なかったの?」

 

「いや、和友ならばもちろん取れると思っていたぞ。私は、最初から和友を信じていたさ」

 

「藍、顔がにやけているよ?」

 

「これは、もともとだ」

 

 

 少年は、藍の昨日のことを引きずっていない様子に少しだけ安堵した。そして、藍が分かる程度に微笑み返し、藍に向けてお礼の言葉をかけた。

 

 

「ふふっ、タオルありがとうね」

 

 

 少年は、藍からタオルを受け取って外へと向かって行った。

 藍は、少年の姿が視界から無くなるまで少年を見つめ続ける。次第に少年の姿が見えなくなっていく。

 藍は、少年の姿を完全に見送ると一人残された居間で疑問を口にした。

 

 

「なぜ、和友は毎回居間を経由して顔を洗いに行くのだろうか? タオルなど、寝る前に準備しておけばいい話だと思うのだが……」

 

 

 少年の朝起きた後の行動パターンは、おおよそ決まっている。少年の朝の行動は単純なものであり、藍と挨拶を交わしてから外へと顔を洗いに行くというものである。

 少年が最初に居間へと向かうのは、タオルを取りに行く以外にこれといった理由は見当たらない。通り道にするには少し遠回りになり、効率的ではない。しいて寄る意味があるとすれば、すでに起きている藍と顔合わせて挨拶を交わすぐらいしかないだろう。

 しかし、少年は決まって居間を訪れてから顔を洗いに行くという順番で行動している。

 藍は、そこまで考えると嬉しそうに顔を緩め、勝手な想像をしながらぶつぶつと独り言を並べた。

 

 

「ふふっ、最初に私のもとに来てくれるのは、私としてもやぶさかではないが……」

 

 

 少年が最初に居間へと来るのは、もしかしたら少年がマヨヒガで生活を始めて一番初めにタオルを忘れたことを心のどこかで気にしているからかもしれない。ワンテンポ置くことでタオルの存在を思い出すきっかけを作ろうとしているのだろうか。それとも、別の理由が存在するのか。

 それは―――少年にしか分からないことである。

 そして、藍が勝手な妄想をして笑みを浮かべているとき―――少年は、マヨヒガの家を出て外へと足を進めていた。マヨヒガの外には、相変わらず青々とした緑が生い茂っている。もう、見慣れてしまった自然の壮大な光景が少年を迎えている。

 少年は、太陽から降り注ぐ光を感じながら足を前に進めていた。

 

 

「小川までは、だいたい百メートルぐらいあるよね。近いような遠いような、微妙な距離」

 

 

 少年は、毎朝顔を洗うために川まで歩いていた。そして、その道中いつも同じ疑問を頭の中に浮かべていた。

 

 

「どうして外で顔を洗うんだろう? 体を動かして目を覚まさせるためとか、何か理由でもあるのかな?」

 

 

 少年は、毎朝行っている習慣に対する疑問を口にした。家の中に水が流れているのに、どうして顔を洗う時に外に出る必要があるのか分からなかった。

 しかし、少年はそんな疑問を抱えながらもこの二年間ずっと外へと歩いて顔を洗っている。冬の時期を除けばという限定つきではあるが、間違いなく少年の習慣の一部となっていた。

 

 

「なんでなんだろう?」

 

 

 少年はいつも同じ疑問を抱えているが、実のところ疑問の答えは非常に簡単なものである。

 結局のところ少年は―――川まで歩く過程が好きなのである。川まで歩いて顔を洗うことが好きなのである。

 人間は、好きでもないことを長続きさせることができるほど―――習慣にまで昇華させることができるほど慣れに強くない。興味がないことが続かないのは、習慣にした時に刺激が足りな過ぎて、他に目を移りするためである。

 そういう意味では、小川まで顔を洗いに行っているのは、少年に自覚はないかもしれないが、外へと顔を洗いに行くという行為が少年にとって刺激があり、好きなことだからに違いなかった。

 

 

「毎日のように考えているけど、やっぱり答えは出ないんだよね」

 

 

 毎日考えているにもかかわらず少年の疑問が解消されないのは、単純に考えている時間が少ないから、少年が他人に答えを求めないからである。

 少年がもしも、マヨヒガに戻った後も疑問を抱えたままだったら答えはいずれ出ただろう。藍や紫に聞くことがあれば一瞬で回答が示されるだろう。

 答えが出ないのは、それを引きずって歩いていないから。引きずりたくないと考えているから。少年が答えを出したくないと思っているから以外の何物でもなかった。

 

 

「さてと……」

 

 

 少年は、疑問を抱えながらも軽快に足を進めて目的地へとたどり着いた。

 目の前には、どこから流れているのか分からない水の流れがある。ここが、いつも顔を洗っている小川である。

 少年は、タオルを肩へとかけると膝を折り、体勢を低くして水の流れに手を伸ばす。

 少年の両手は流れ行く水の中に入りこんだ。水は少年の手にぶつかり、小さく流れを変える。されど、少年の手によって変わるのは小さな動きだけで大きな流れは変わらず下流へと流れていく。

 少年は、両手にぶつかる水の冷たさを感じとって思わず顔をしかめた。

 

 

「冷たっ」

 

 

 少年には、温かいと冷たいを判別する境界線が存在する。温かいと感じるか、冷たいと感じるか、そこには明確な基準があった。

 目の前を流れている水は、少年の中の判断によると冷たいと判断されるようである。

 

 

「もっと温かくならないかな」

 

 

 少年は、水の冷たさに顔をしかめたまま両手で水をすくい、顔を洗う。水はとても冷たく、少年の意識を覚ますには十分な刺激となった。

 そんな動作を複数回繰り返す。すくっては顔にかける。少年の顔には、大量の水滴が付き、前髪には僅かに水が滴った。

 顔を洗い終えた少年は、藍からもらったタオルで顔に付着した水滴をふき取る。

 

 

「はぁ……」

 

 

 目をしっかりと開ける。視界には、光あふれる世界が広がっている。

 少年は、光から逃げるように瞳を閉じて、心に刻み込むように毎日呟いている言葉を発した。

 

 

「ああ、今日も一日頑張らないと……最後の最後まで、負けるわけにはいかないもんね」

 

 

 少年は、ゆっくりと瞼を開けて来た道を遡る。行きより少しだけ重くなった足取りで。確かに大地を踏みしめて。目を大きく開けて。前を向いていた。

 少年は、マヨヒガの玄関から入って廊下を歩き、居間へと戻る。

 居間には、起きた時と変わらず朝食を作っている藍の姿があった。変わっていることは、料理が少しだけ完成していることだけで、それ以外は変化が無い。

 少年は、藍のもとへ歩き、タオルを置くと二度目のお礼を告げた。

 

 

「タオル、ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 

 少年はその場で振り返り、迷うことなく一直線に縁側へと向かう。

 藍は、遠くへ向かう少年の後ろ姿に視線を送ると、すぐさま少年の行動を先読みした。

 いつものことだ―――。

 少年は縁側で腰を下ろし、軽く見上げるように顔を上げ、日の昇りかけている空へと意識を向ける。外からは、眩しいほどの光が降り注いでいた。

 

 

「はぁ~。うん、今日もいい天気だ」

 

 

 今日もいい天気になりそうである。

 少年は、植物が光合成をするように日の当たる面積が大きくなるように体を大きく広げ、肺にいっぱいの新鮮な空気を吸いこむ。新しい空気が、体の中をきれいにしてくれる。心に一陣の風が吹いていく。

 そっと目を閉じ、瞼を透過してくる光を感じ取る。瞼を閉じても、少しだけ明るさを感じる。瞼一枚分の壁など関係がないというように、光は真っ直ぐに降り注いでいた。

 

 そんな静かな居間には、ゆったりとした朝を満喫している少年の様子をじっと眺めている存在がいた。

 決して動かない視線が、まっすぐに少年を射抜いている。

 少年を見つめている存在―――もちろんそれは少年を除いて唯一起きている藍である。

 藍は、不安そうに言葉を口に出した。

 

 

「和友は、今なら大丈夫だろうか……?」

 

 

 少年は、いつもと変わらない様子である。毎日こなしているルーティンワークを行っている。昨日の弾幕ごっこの疲れを全く見せていない。いつも通り―――その言葉がよく似合っている光景だ。

 だったら、大丈夫なはず。

 でも―――。

 

 

「昨日あれだけ疲れていたのだ。今頼むのはまずいのかもしれないな……」

 

 

 藍は、もぞもぞと服の中にしまい込んでいた物を取り出し、そっと見つめた。

 

 

「でも、私は和友にして欲しい……和友にやってもらいたい」

 

 

 藍は、懐から取りだしたものを片手で握り、少年から隠すように後ろに回す。藍が握っているそれは、別に見られて困るものではないのだが、藍にとっては隠しておきたい気持ちが強かった。

 

 

「和友ならば、きっと大丈夫だよな」

 

 

 藍は、一人で勝手に納得すると足を動かし、忍び足になりながら少年のもとへと進む。何かを背中に隠した状態で、足音を一切立てずに空を見上げている少年の隣にごく自然に潜り込んだ。

 藍の音をたてないように静かにゆったりと動いている動作は、傍から見れば、とても優雅に見えただろう。慣れた動きは、洗練されたものを感じさせた。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の様子を横目に伺いながら隣に腰下ろして座り込む。隣といっても少年の両手は太陽の光を効率的に浴びるために左右に伸びているので、少年と藍の間には若干の距離があった。

 藍は、チラチラと少年に視線を送る。全く動こうとしない少年は、ただ佇んでいるだけで、動きを見せない。

 藍は、気付かない少年に対して、もどかしそうに僅かに声を漏らした。

 

 

「えっと、そ、その……」

 

 

 少年の隣に座った藍は、若干恥ずかしそうに視線を泳がせる。少年は、藍の声が聞こえなかったようで特に気付く様子も見せなかった。

 

 

「その、だな……」

 

 

 藍は、視線を泳がせながらも空に顔を向けている少年に意識を向ける。少年は、空に吸い寄せられるように顔を動かさない。今の少年には、藍の微かな声など聞こえていないようだった。

 藍は、ここまで全く動きを見せない少年に居てもたってもいられず、しびれを切らした。

 

 

「か、かずとも……?」

 

 

 藍は、少年に隠すようにして背中に張り付けていた右腕をゆっくりと正面に出す。そして、少年に差し出すように、ゆっくりと前まで持ってきた。

 藍が右手で背中の後ろに隠すようにして握っていたのは―――毛づくろい用のブラシだった。

 藍は、ここで大胆な行動に出る。取り出したブラシを少年の右手に握らせたのである。

 

 

「お、お願いしますっ……」

 

 

 藍は、自身の両手で少年の手を包み込むようにして少年の右手にブラシを握らせた。

 手と手が優しく触れる。血液の通っている肉体の一部が重なり合う。

 藍は、自分の手が少年の手に触れた瞬間に、あることに気付いた。

 

 

「冷たいな……」

 

 

 少年の右手は、外の水に触れていたためか僅かに冷えていた。

 藍は、少年の手を温めるように暫くの間優しく包み込む。

 

 

「今温めてやるからな」

 

 

 藍の少年の手の温め方は、肌と肌とを合わせるというよりも、空気から感染するような温め方だった。藍の両手から長く緩い温かな温度が少年の右手に伝わっていく。日の光とは違った温かさが指先から掌へ伝達された。

 藍は、少年の手の温度がある程度まで温まるのを感じると安心した表情を見せる。

 

 

「よし、これで大丈夫だな」

 

 

 藍は、伸ばした両手を静かにゆっくりと離す。少年の手には、藍の手と同じ温度とブラシが残されていた。

 その光景を見た瞬間―――藍は少年が自分の想いを受け取ってくれたのだと悟った。

 日の光をできるだけ広い面積で受けようと思うのならば、手は開いているべきだ。事実、ブラシを握らせていない少年の左手は開かれている。それに、完全に力が抜けている場合、ブラシはもれなく重力に従って右手から零れ落ちることになる。

 それなのに、ブラシは支えを得てその場を維持している。ブラシが右手から落ちないということは、少年がブラシを受け取ってくれたということ以外になかった。

 藍は、少年が自分の意志でブラシを握ってくれているのだと―――少年が自身の意図をくみ取ってくれたと解釈し、期待に胸を膨らませた。

 だが、少年は静かに何も言わずに太陽の光を浴び続けていた。ブラシを握っているという点以外、何も変わらなかった。

 藍は、反応を示さない少年の様子を見て不安を抱える。

 

 

「あ、あの、かずとも?」

 

 

 藍は、少年に対してこの先の言葉を口にしたくなかった。

 毛づくろいをして欲しいなんて、言いたくなかった。口に出すのが躊躇われた。恥ずかしかった。大のつく妖怪が、まだ15歳にもなっていない少年に何かを頼むということが恥ずかしいことこの上なかった。

 それでも藍は、してほしい気持ちには勝てないようで、顔を赤くして恥ずかしさに耐えながらも、自身の欲の赴くままに少年に向けて口を開いた。

 

 

「今日も、たっ、頼む」

 

 

 藍は、見栄や体裁、自尊心よりも少年に毛づくろいをしてもらうことを選択した。

 少年は、藍の言葉についに反応したのか、目を開けて大きく深呼吸をする。

 

 

「すぅ~~はぁ~~~」

 

 

 少年は、一度だけの深呼吸を終えると優しそうな顔を藍へと向けた。

 藍は、恥ずかしさに顔を赤くしたまま吸いこまれるように少年の顔を直視する。

 少年は、一言もしゃべらない。飲み込んでいる光を吐き出さないようにするように一切口を開かず、優しく微笑んでいる。藍は、少年の引き込まれるような視線に目を逸らすことができなくなった。

 少年の両手が膝へと下ろされる。

 

 

 ―――ポンポン―――

 

 少年は、目線を藍へと向けた状態で自身の膝をポンポンと二度叩いた。

 

 

「ああ! 今日もよろしく頼むぞ!」

 

 

 藍は、少年のサインに満面の笑顔を浮かべると喜びの声を上げ、嬉しそうに少年に対して背を向ける。藍の後ろから生えている9本の尻尾が少年に対して平行に差し込まれた。

 藍の尻尾はとても大きいため、9本全てが少年の膝の上に収まることはない。せいぜい二本が限界である。

 藍は、すぐさま毛づくろいをしてもらう体勢を整え始めた。

 

 

「~~~~」

 

 

 藍は、鼻歌を歌いながら尻尾を少年から離すようにできるだけ縁側の外へと向ける。藍の尻尾は少年の目の前でゆらゆらとうごめき、ふらふらと移動していく。

 少年は、いつもと変わらない藍の尻尾の動きに苦笑した。

 

 

「ふふっ……」

 

 

 藍の心は、期待と緊張で暴れている。藍の尻尾は、心の動きを表すようにわらわらと動いていた。

 藍の尻尾はある規則性をもって動いている。ゆらゆらと無秩序のように見えて、それとなく動きに特徴がある。まるで、一本一本が個別の性格を持っていて、独自に動いているように見えた。

 ただ、毛づくろいの邪魔にならないようにと動いているはずの藍の尻尾は、すぐ傍にいる少年に当たらないのかというと、そんなことはなく、少年の体に引き寄せられるように近づき接触する。そして、少年の体に接触すると、尻尾はビクッと驚くように離れる。藍の九本の尻尾はそれぞれが意志を持っているように動き回り、少年にぶつかる、離れる、近づくを繰り返していた。

 少年からは、藍の尻尾が待ち遠しそうに、今か今かと順番を待っているように見えた。

 

 

「そうだなぁ、どれからにしようか」

 

 

 少年は、一本の尻尾に狙いをつける。

 

 

「まずは、これからにしようかな。特に順番に意味があるわけじゃないもんね。どうせ、全部やるんだから」

 

 

 少年は、藍から生えている9本の尻尾のうちの一本を両方の掌の甲で誘導して膝の上に移動させる。

 藍は、少年の行動に嬉しそうに言葉を投げかけた。

 

 

「和友は優しい人間だな。私の尻尾を決して手で掴もうとはしない」

 

「だって、掴んだらびっくりするでしょ? 別に僕じゃなくても、誰だって掴んだりしないよ」

 

「ふふっ、そういうことを当然のことのように言える和友だから、優しいと言っているのだ」

 

 

 少年は、決して藍の尻尾を手で掴むようなことをしなかった。初めて毛づくろいをした時から、さもそれが当然だというように行動した。

 しかし、藍の尻尾を毛づくろいする際に手で掴もうとしないというのは、意外に難しいことである。

 

 

「普通であれば手で掴む。何も気にせず、一番楽な方法を取るだろう。だが、和友は最初から違った」

 

 

 手で掴んだ方が楽なのだから―――普通であれば掌を使ってしまうだろう。それを拒否して手の甲で触れることなど、相手に気を遣わなければ絶対にできないことである。

 

 

「私は、そんな和友だからこそ毛づくろいを任せているのだからな。いつも、期待している」

 

「うん! 藍の期待に沿えるよう頑張るからね!」

 

「ああ」

 

 

 藍は、嬉しそうに呟くと少年に選ばれなかった尻尾をゆったり動かしていく。どうも自分の尾の9本の内、どの尻尾が少年に触られているのか分かるようで、少年の触った尻尾以外を毛づくろいの邪魔にならないように拡散させた。

 少年は、藍の尻尾の動きを見て思わず笑う。

 

 

「ふふっ、藍の尻尾は一本一本意志を持っているみたいに見えるね」

 

「分かっていると思うが、尻尾に意志はないからな」

 

 

 藍は、尻尾に意志はないと言う。それにしては気持ち悪いぐらいにバタバタと揺れている。

 少年は、藍の言葉を聞いて意地の悪い笑みを浮かべた。

 

 

「分かっているよ。動かしているのは、あくまでも‘藍の意志’だもんね」

 

「そう言われるとなんだか変な感じがするな……」

 

「気にしちゃ駄目だよ。特に深い意味なんてないからね。それに、間違っていることを言っているわけじゃないでしょ?」

 

「それは、そうなのだが……」

 

 

 藍は、納得できないようで頭をわずかに傾ける。

 少年はそんな藍の様子を気に留めることなく、楽しそうに声を漏らしながら膝に乗った尻尾の毛を掌で一度だけ均す。そして、ブラシの握った手を藍の尻尾に向けて下ろした。

 ブラシが尻尾に程よく沈む。

 藍は、少年が尻尾をブラシで擦る度に気持ち良さそうに目を細めた。

 

 

「どう? 気持ちいい?」

 

「ああ、やっぱり誰かにしてもらえるというのはいいものだな」

 

 

 現在の少年と藍の位置取りは、藍にとって非常にありがたいものだった。もし正面を向き合っていたらと思うと、気恥ずかしさに耐えられなかっただろう。

 

 

「和友は、優しく丁寧にしてくれるから後でやり直す必要も無くて助かるし……それに、とても心地いい」

 

「そう言ってもらえると、毛づくろいをしている側としては嬉しいね。毛づくろい、上手くできているようで安心したよ」

 

 

 藍は、少年の言葉に少年が初めて毛づくろいをした時のことを思い返した。藍の尻尾の毛づくろいは、少年の朝の日課になっている。

 毛づくろいをするきっかけは、些細な少年の一言だった。少年が毛づくろいを一度やってみたいと言ったのが始まりで、その時から続いている日課となっていた。

 

 

「やり始めたころに比べたら格段に上手くなっているぞ」

 

「そっか」

 

 

 少年は、藍に褒められて少しだけ嬉しそうに「そっか」とだけ呟く。

 藍は、少年の動きがわずかに変わるのを感じ取った。少年の動きが、心の喜びを表すようにほんのり速くなっている。

 

 

「ふふっ」

 

 

 藍は、口元を手で押さえて少年にばれないように笑う。そして、笑いを押し殺すようにすぐに飲み込んだ。

 少年の今の反応は、藍が初めて少年に会った時とは大違いの反応である。藍が最初に少年と話した時は、真面目で律儀で、どこか天然で……そんな印象を持った。

 でも、今では最初の印象は、原形を留めていないほど様変わりをしている。

 世話好きで―――頼まれると断れない優しさがあって。

 責任感の塊で―――やらなきゃいけないことをやらないと気が済まない性格で。

 頑固で―――反論されても自分の意志を曲げなくて。

 気持ちが強くて―――何かをしようとする勢いばかりが強くて。

 負けず嫌いで―――自分自身に負けることを何より嫌っている。

 

 

「本当に、年月が過ぎるのは早いな」

 

 

 藍は、毎日少年と日々を過ごしていく度に、少年の印象を変えていった。藍には、もはや少年と会ったころの印象はほとんど残っていない。残っているのは、どこか天然が入っているような気がするという部分だけである。後の部分は、綺麗に別のもので上書きされ、綺麗に、鮮やかに彩られ、藍の中に確かに座っていた。

 

 

「僕からしてみれば、結構長かったと思うんだけど」

 

「和友は人間だからな。妖怪である私にとっては、一瞬のような短さだったよ。あっという間、特にここ最近は時間が経つのが早いように感じる」

 

 

 藍は、そっと顔を上げた。

 空からは、まぶしく感じるほどの光が降り注いでいる。

 藍は、光に導かれるように過去を思い返した。

 あれは―――紫様の料理が始まった次の日からだろうか。少年が朝に毛づくろいをしていた藍に対して放った言葉が事の始まりだった。

 

 

「思えば、和友に毛づくろいをしてもらうようになって、もう2年近くになるのか……」

 

「そうだね……幻想郷に来て、2年経った」

 

 

 少年も藍の言葉で過去を思い出す。幻想郷へ来てからのことを思い返す。ここ二年の出来事を振り返り、どこか物憂げに呟いた。

 

 

「僕には、幻想郷に来て良かったのか、来るべきじゃなかったのか、未だに分からない。みんなと会えたことは確かに良かったけど……」

 

 

 少年の心の中には、未だ幻想郷へ来たことを後悔する気持ちが存在している。幻想郷に来なければ良かったという気持ちと、幻想郷に来てはならなかったという気持ち、外の世界に帰りたいという気持ち、様々な気持ちが混在していた。

 藍は、少年の言葉を聞いて心の中に沸き立つ罪悪感から視線を下げる。少年の言葉の中からは、複雑な感情が渦巻いていることが感じられた。

 

 

(和友は、外の世界に帰りたいのだろう……)

 

 

 藍は、少年が外の世界に戻りたいと思っていると考えていた。そしてその考えは杞憂でも間違いでもなく、事実なのだと心の奥底で理解していた。

 外の世界で生きてきた少年がそう思うのは、当然の帰着である。外の世界に両親の遺体があり、死んでいた場所があり、生きてきた歴史がある。そこに帰りたいという帰巣本能は、生き物ならば誰もが持っているものである。

 特に、こうして戻ることが厳しい状況に立たされる、習慣が全く違う環境に追い込まれた時―――その思いは爆発するように燃え広がる。それが分からない藍ではなかった。

 だが、少年にかける言葉が見つけられず、何ひとつ言葉が口から出てこなかった。

 

 

「…………」

 

 

 外の世界に帰りたい―――まぎれもなくその言葉は藍にとっての劇薬である。

 少年に向けて言いたい言葉はたくさんある。慰めてやりたい気持ちはしっかりと存在する。外の世界に返してあげたいという気持ちも、少年の望むとおりにしてあげたいという気持ちも、藍の中に確実にある。

 しかし、藍は、心のどこかにある言葉を声に出すことができなかった。

 

 

「和友は……」

 

「なに?」

 

「…………」

 

 

 口に出せないのは、それができないからではない。少年に対して外の世界に戻って欲しくないという気持ちが藍の中で強かったからである。

 藍は、少年に幻想郷に居続けて欲しいと思っている。それこそ、死ぬまで幻想郷にいてくれれば、とすら思っている。

 もしも、少年が外の世界に戻ってしまえば、幻想郷を出ることができない藍に少年と会う術はなくなるのだから。

 かといって、少年に幻想郷に留まってほしいと言えるだろうか。きっと、そんなことは言えない。言ったら少年が困ることが目に見えているから。迷惑をかけてしまうから。

 だから―――外の世界に戻ってもいいと口にできないのだ。

 だから―――幻想郷に居続けてほしいと口にできないのだ。

 藍は、少年に特別な感情を抱いている。心には、さまざまな感情が息づいている。守らなければならないという保護欲もあれば、家族としての家族愛もある、その他にも複雑な思いが混在していた。

 藍は、心にある黒い気持ちを必死に抑え、顔を僅かに歪めながら噛みしめるようにして口を閉ざした。

 

 

「なんでもない……」

 

「そっか」

 

 

 思っていても口にしてはならないことはある。

 藍は、少年の重荷になるようなことを―――決して口にしたくなかった。

 

 

(どうして私は何も言えないのだ。私には、ここにいて欲しいと甘えることも、帰ってもいいと和友の背中を押すこともできない。なんて中途半端……)

 

 

 藍は、出てこようとする想いを必死に飲み込む。

 藍の表情は、非常に苦しそうだった。

 少年からは、位置的に藍の表情を見ることができない。少年は、藍の様子を気にすることなく、慣れた手つきで藍の毛づくろいを進めていった。

 

 

「ん~」

 

 

 少年は、一通り綺麗にブラッシングをすると、根元の方から細かく無駄なく毛づくろいを行う。少年が尻尾の根元の部分の毛づくろいをすると、くすぐったそうに尻尾がもぞもぞと動いた。

 藍は、尻尾の敏感な部分を触られて声を漏らした。

 

 

「ううっ……」

 

 

 藍の尻尾が嫌がるように少年の膝からどんどん浮き上がる。

 藍にとって尻尾の根元部分は、デリケートな部分なのだろう。ざわつく尻尾に同期するように藍の体に力が入り、肩が上がった。

 

 

「いつも思うが、根元はくすぐったいな。自分でやっている時はそうでもないのだが」

 

「ん~」

 

 

 少年は、藍の言葉に対して何も言わない。いつものことだと、何一つ気にする様子もなく、楽しそうに尻尾の毛づくろいを進めていく。

 藍は、少年が尻尾の付け根の部分を梳いている間、ずっともぞもぞとして、打ち震えていた。

 

 

「さーさっと。すーっと」

 

 

 少年の毛づくろいには、僅かなやり残しさえも残さない、というような意志が感じられる。

 少年は、藍の毛づくろいに対して決して手を抜かない。気分が悪いときも、体調が優れないときも、決して手を抜くことはしなかった。

 手は抜かない―――それはどの場面でも適応される少年の信条である。そんな手を抜かない少年だからこそ、藍は自分の体の一部である尻尾の毛づくろいを任せたのだろう。

 少年の藍の尻尾の毛づくろいは、着実に終わりに向かって突き進む。

 そして、少年の動きと対照的に、藍の心は停滞したまま止まっていた。


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