ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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少年への依存、これからへの不安

 紫は、藍が悲しみに暮れていた時、マヨヒガで唇を噛みしめ自分の無力さを呪っていた。一人きりで少年のことを考えていると、どうしても何もできないことに対する怒りが心の中を支配してしまっていた。

 

 

「っ……なんとかならないかしらね」

 

 

 少年を失うことに不安になっているのは藍だけではない。紫も同様である。

 紫は、少年が幻想郷へと来たことによって得られた生活の変化をとても愛おしく思っていた。

 

 

「できるものならば、ここで和友を失いたくないわ……あの子が私たちにもたらしたものは余りにも大きい」

 

 

 家族を一人失いそうになっている―――まんまそのままの感情が紫の心を圧迫している。

 紫は、藍と同様に少年をどうすれば助けることができるのか頭を悩ませていた。

 

 

「私はこの温かい生活を失いたくない。それに、昔のような殺伐していたあのころに戻れるとは思えない。なにより……昔の私に戻りたくないわ。私は、今の私が好き……」

 

 

 慣れない早起きも少しだけできるようになった。

 料理も少しだけできるようになった。

 人にものを教えるのが少しだけ上手くなった。

 少年は、長年の間変わらなかった自分の生活に変化をもたらしている。

 紫は、成長する自分、変わっていく自分に少しだけ好感を持っていた。

 

 

「藍もいて、和友もいて、私がいる。この生活がとても居心地がいい。みんなそれぞれが成長して、変わって、笑顔を浮かべている今の生活が好き……」

 

 

 マヨヒガでの3人での生活は、楽しくて居心地が良かった。さらには、毎日成長する少年の姿を見て心が温かくなるのを感じていた。

 

 

「今、和友を失ってしまえば、全てが崩れてしまうわ。いつも通りの日常も、藍の心も……私の、気持ちも……」

 

 

 少年を失ってしまえば、今まで変わってきたものが全て崩れ去ることになるだろう。少年が来る前に戻るだけじゃなく、以前の形すらも原型を留めないほどに崩壊するだろう。

 紫は、変化を失うことを、今の生活を捨てることを到底許容できなかった。

 

 

「和友はいつも私たちの中心にいた。私たちは、和友を中心に回っていた」

 

 

 今のマヨヒガでの生活を動かしているのは、間違いなく少年である。

 藍も紫も、少年と関わっていない時間の方がはるかに短い。寝ている時間を除き、プライベートな時間を省けば、ほとんど少年と一緒の時間を過ごしている。

 少年と共に―――時を過ごしている。笑顔を浮かべて、楽しそうに、幸福感に包まれて、家族をしている。

 

 

「あの子の傍は、心地良過ぎる……全てに守られているような安心感と温かさが充満している」

 

 

 皆が少年の傍にいたがる理由は、単純に少年の傍が居心地良いからだ。少年の明るさと健気さが、藍と紫の二人の心を温かくするからである。

 少年の笑顔は、他人に伝染する。嬉しそうな顔を見ているだけで笑顔になる。

 そんな少年だからこそ―――藍と紫は少年を失いたくないと思っていた。

 

 

「でも、私に何ができる? 私の能力ではもはや、和友の現状は変えられない。ならばどうすればいいの?」

 

 

 助けたい。救いたい。そう思っていくら頭を悩ませても、少年が苦しんでいる理由が分かっていても、何一つ対処ができないというのが現実である。

 紫は、自分の不甲斐なさに、妖怪の賢者と言われている自分が何一つできない状況に、必死に堪えていた。

 

 

「考えるのよ、八雲紫。きっとまだ何か手段はあるはずだわ」

 

 

 例え―――少年のもたらしているものが嘘偽りの温かさであったとしても。偽物の温かさであっても。作られた事象だとしても。藍と紫の心に少年が安らぎを与えたという事実は揺るがない。

 例え、そこにどんな理由があろうと―――紫の気持ちは変わらなかった。

 

 

「和友は、絶対に助けてみせるわ!」

 

 

 紫は、一人きりで少年を助けるための決意をする。これまで諦めてきた気持ちを捨てて、心の中に大きな目標を打ち立てた。

 

 結論を言えば、紫が奮闘して少年を助けたというのが事の終わりになった。見栄を切り捨て、立場を投げ捨て、自尊心を投げ出し、少年のために頭を下げたことで終わりを迎えた。それが良かったのか悪かったのかは分からない。良かったかどうかなんてこれから決めることである。これから私たちが良かったとできるかにかかっているのだ。

 ただ、その時に出た結果として―――今の少年が目の前にいる。

 ただ、それだけの結果が残った。

 

 ―――回想終了―――

 

 

 

 

 紫は、悲しそうな表情で崩れ落ちそうになっている藍を見つめる。紫の視線の先には、今にも泣き崩れそうな藍の姿があった。

 

 

「私達は変わらなければならないわ。これから生きていくためには、変わらなければならないの。藍、貴方にだって分かっているはずよ」

 

 

 藍が崩れそうになっている中、紫は不安に押しつぶされないように足に力を入れて力強く目線を上げていた。

 

 

「和友は、いずれ死んでしまうわ……」

 

 

 崩れている藍と立っている紫の違いは―――少年を失う覚悟があるかどうかである。

 紫は、過去の経験を経て少年を失うことを覚悟していた。半年前に少年と話をして、少年が死んでしまうということを受け入れていた。

 

 

「私達がいくら嘆いても、生きていて欲しいと願っても、人間である和友は必ず死んでしまう……」

 

 

 紫は、よく知っている。人間という生き物は、蓬莱人とかいう人外を除いて必ず死ぬのである。

 少年の場合は、それがちょっとだけ早いだけだ。仮に人間の中で長生きだとしても、妖怪のような長寿命と比べてしまえば誤差のようなものである。

 

 

「藍は、和友を失う覚悟をしなければならない」

 

 

 紫は、生き物が死んでしまうのは自然の摂理だから仕方がないのだと、そう思えるだけの覚悟を持っていた。

 半年前の当時は、持っていなかった。だからこそ当時は藍と同様に悩み苦しみ、少年を助けるために奮闘した。

 少年が病気を患った当時から覚悟を持てていれば、少年を助けることはなかったかもしれない。それぐらいに、少年の終わり方は自然の理に沿っていたというか、それが本来のあるべき形のように感じられた。

 現実には、それを無理やり捻じ曲げて助けてしまっているが、今となってそう思う。

 自然は、時間の経過と共に最も安定する形を取り戻す。いくら外部から熱を入れて部屋の温度を変えようとも、入熱が無くなればいずれ外の温度と近似する。少年の病気も同じである。

 必ず―――元の形に戻る。本来あるべき形になる。

 そう、同じ病気を発症するのである。

 

 

「あの子の病気は、まだ治っていないのだから」

 

 

 紫は、藍と違って少年の病気が完全に治っていないことを知っていた。少年の抱えている症状の原因を埋めることができていないことを理解していた。

 

 

「いくら苦しんでいる要因を取り除いたからといって再び同じことが起こらないと断言することはできないわ。むしろ、和友の病気の原因を埋めることができていないのだから、再発すると考えるのが普通よ」

 

 

 病気は、原因を取り除かなければ何度でも再発する。

 少年の病気は、痛みのもとを取り除いた状態であって、痛みを作り出す病原菌を取り除いた状態ではなかった。いうなれば、状態の初期化を行っただけだった。

 例えると、風邪を引いている状態の時に、咳や鼻水、頭痛を止めることができたが、熱が下がっていないようなものだ。熱が下がることが無ければ、止まったはずの咳や鼻水、頭痛は必ずぶり返す。

 それならば、状態の初期化を行い続ければ生きていけるのではないかという意見が出てくるかもしれない。

 この意見は、間違っていない。

 確かに少年は、初期化を行い続ければ生きていくことができる。病気を発症して、もとの状態に戻して、また病気が酷くなって、それを繰り返すことができれば、寿命が尽きるまで、誰かに殺されるまで生きていくことができるだろう。

 しかし、この考えには―――重大な問題があった。

 

 

「けれど、同様の方法で和友を助けるというのはおそらくもう無理……あいつが二度と動くとは思えない」

 

 

 痛みを止める方法―――つまりは状態の初期化というのが再び使えるような方法ではないということだ。

 おそらくだが、もう二度と同様の方法は使うことができないだろう。

 

 

「和友は、幻想郷に来て1年半であの状態になった。最悪の場合、和友の寿命は後1年と半年ということになる……」

 

 

 紫の予測では、少年の余命は最悪の場合で1年半である。少年の状況が悪化したのは、幻想郷に規定から1年と半年の期間、それならば再発までは少なくとも同じ年月がかかるだろうという計算だった。

 

 

「藍、いつまでも和友に甘えてはいられないわよ」

 

 

 少年を助けるための方法は―――二度と使えない。そして、少年の余命は1年半。この2つの認識が紫に少年を失う覚悟を持つことを促した。今の状況が、藍と紫の二人の覚悟の違いが明確に出ている状況である。

 藍は不安に俯き、紫は先を見つめて顔を上げている。

 

 

「和友は、本当は……」

 

 

 紫は、その先の言葉を口にはしなかった。今の藍が知るには刺激が強すぎる。知ったとたんに精神を病みかねない。紫は、静かに藍を見上げていた。

 

 

「ううっ……和友、私を置いていかないでくれ」

 

 

 藍は、立っていられないほどに狼狽していた。

 妖怪は精神に重きをおく生き物である。人外ともいうべき強靭な肉体を支えているのは、人間と同じ心である。肉体を支えるための精神が弱れば、立っていられないほどに疲弊することになる。

 藍は、まさしく心を折られる寸前だった。

 

 

「私を一人にしないでくれっ……」

 

 

 藍の頭の中で少年の存在が死に始める。自責と後悔と恐怖が一色淡になって混ざり合っていた。

 ちょうど永遠亭にお見舞いに行ったときに、真っ白なベッドだけが置いてあるイメージ、少年が何も残さず、全てを持って消えているイメージが頭の中を支配していく。

 

 

「私には何もない……私の欲しいものは、全て和友の傍にあった。和友のすぐ近くに、全てがあった」

 

 

 藍は、全てを失ったような気がした。持っているもの、積み上げてきたものが全てまっさらになるような感覚に陥った。

 藍の欲しいものは、少年のすぐそばにあった。

 少年には、藍の欲する全てがあった。

 

 

「いやだ、失いたくないっ……」

 

 

 孤独を癒す両手も

 心が落ち着く瞳も

 寂しさを打ち消す温もりも

 苦しみを打ち払う明るさも

 心を躍らせる声も、

 ―――何もかも少年が持っていた。

 

 

「私も、連れて行ってくれ。私は、和友と一緒に……一緒に、いたい」

 

 

 少年のもたらしたものが一瞬の間に消えてなくなっていく。

 藍は、両足を真っ直ぐに伸ばしていられず、膝を曲げて首を垂れた。心が落ちるのと同期するようにして膝を折り、体を地面へと落とそうとしていた。

 

 

「えっ……?」

 

 

 けれども―――藍は落ちなかった。重力に任せて体が下に向きそうになった時、背中に何かが触れたのである。

 

 

「なにが?」

 

 

 ―――何かが触れている。

 背中が程よく暖かくなるのを感じる。

 昔よく感じていた温もりと同じ温度が藍の背中から伝達していた。

 

 

「藍、大丈夫だって。僕はちゃんとここにいるよ」

 

「和友っ!?」

 

 

 ―――声が聞こえた。他の誰でもない少年の声が聞こえた。

 藍は、声が聞こえた方向へと慌てて顔を向ける。視線の先には、姿を見せた少年の姿があった。先程まで欠片も存在感を感じさせなかった少年が目の前に映し出されていた。

 

 

「和友っ!!」

 

「藍、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。僕は、ここにいるから」

 

 

 藍は、流れ出す涙を勢いよく袖で拭うと、少年を力強く抱きしめた。

 少年は、少し苦しそうな表情を浮かべながら藍を抱きしめ返す。2年前に心の中で抱きしめた方法と同じやり方でそっと頭を包んで撫で続けてる。大丈夫だと、ここにいるのだと伝えるように抱きしめていた。

 

 

「ああ!! 和友!! よかった、よかった!」

 

「藍、ごめんね」

 

「すん、ぐずっ。この馬鹿! 心配したぞ!」

 

 

 少年は、藍に自分を失うことを覚悟してほしかった。そのためにこの半年もの間、自分ができることはやってきたつもりだった。

 しかし、そんなもの全く効果がなかった。良くなっているなんて淡い期待でしかなかった。半年経った今ならば変わっているかもしれないという期待は、脆く崩れ去った。

 

 

「……だが、こうして帰って来てくれた。ちゃんと私の所に帰って来てくれた」

 

(何とかしなきゃ……なんとか、しなきゃ)

 

 

 少年は、これからなんとかしなければならないと心に強い意志を刻み、そう遠くない未来を見据える。このままでは共に落ちるだけ。共にいなくなるだけ。そうなってはならない。あくまでも逝くのは自分一人でなければ。重りは置いていかなければならない。

 藍は、そんな少年の気持ちを知る由も無く少年の温もりに体を預けて涙をぬぐい、気持ちを少年に伝えた。

 

 

「良かった……本当に良かった。私は、またあの時みたいになってしまったかと思って……」

 

「大丈夫だから、僕なら大丈夫だからね」

 

「心配したぞ……」

 

「心配させてごめんね」

 

 

 少年は、藍が泣きやむまで大丈夫という言葉を投げかけ、抱きしめた。

 暫くすると、少年の肩に乗せられている藍の顔が離れる。藍の潤んだ瞳には、優しい表情の少年の顔が映った。いつもと同じ表情がそこにあった。

 藍は、瞳から涙を消し、安堵の表情を浮かべた。

 

 

「戻ってきてくれたから、いい。戻ってきてくれるのなら……私はいくらでも待っていられるから」

 

「本当に藍は……仕方がないなぁ……」

 

 

 藍は、少年に再び抱きつき体を預けた。

 少年は、少し悲しそうな顔で藍を抱きしめ返す。

 藍は、抱擁してくれる少年の行動に顔を綻ばせ、少年をより強く抱きしめた。もう二度と離さないと言わないばかりに、少年が身動きできない程度に強く抱きしめた。

 

 

「和友……」

 

「大丈夫だから。僕なら、大丈夫だから」

 

 

 少年は、藍の甘えるような行動を快く受け止め、包み込むようにして大きく両手を回す。

 藍は、そんな少年の行動に対して嬉しそうな表情を浮かべながらより近くにと言わんばかりに身を寄せた。

 

 

「はぁ、あの子はいつも心配ばっかりさせて……」

 

 

 少年を失う覚悟ができている紫も、心の底から少年が無事でよかったと思っていた。失うことを覚悟しているからといって、失って悲しまないわけではないのだ。

 紫は、少しばかりの安ど感を抱えながら藍を包み込むように抱きしめる少年の姿に小さく呟く。

 

 

「本当に、何も変わらないのね」

 

 

 少年は、昔と何一つ変わっていない。誰かを包み込むことができる包容力も、誰かを心配させるところも、誰かを振り回すところも、昔と何も変わっていない。

 少年は―――悉く不変だった。少年が唯一変わったと言えるのは、身長が変わったことだけ。体だけが大きくなったことだけである。

 

 

「さて、私も行きましょうか。藍をあのままにするのも善くないでしょうし……和友をあのままにしておくわけにはいかないわ」

 

 

 紫は、少年と藍の様子を見ながらそっと体を空へと向け、少年と藍のところに移動を始める。紫の視界の中に映る少年は、いつの間にか藍を抱きしめながら片手で頭を撫でていた。

 

 

「相変わらずべったべたね。藍もそうだけど、あの子も藍を甘やかしすぎなのよね。あれでは依存は深まっていくばかりだわ」

 

 

 紫は、ぶつぶつと文句を垂れながら藍と少年のもとへと飛行する。

 橙は、紫がゆっくりと飛んで行くのをぼんやりと眺めていた。

 

 

「お帰り、和友」

 

「ただいま、紫。心配かけちゃったかな?」

 

「何を言っているの、家族を心配するのは当然でしょう?」

 

 

 紫は、二人を優しい瞳で見つめる。

 少年は、紫が来ても藍を抱きしめて離さず、頭を撫でる動作を止めなかった。藍も少年と同様に、少年を離すことはなかった。

 そんな二人を見ていた紫は、何の脈絡も無く少年の頭を撫で始める。少年が初めて幻想郷に来た時に撫でたように、柔らかく触れるように撫でた。

 

 

「…………」

 

「消えていなくなったわけじゃなかったのね」

 

「消えていなくなる時は、挨拶ぐらいするよ」

 

 

 少年は、冗談を言うように笑顔を作った。紫は、少年の笑顔につられて頬笑み、頭を撫で続ける。

 少年は、暫くなでられていると視線を上に上げた。

 

「ところでなんだけど」

 

「何かしら?」

 

「なんで僕まで撫でられているの?」

 

「え?」

 

 

 少年は、紫に撫でられていることが気になっていた。

 今の状況は、冷静に分析してみれば分かるが、非常に異質である。

 少年は、気持ち良さそうに目を細めながら頭を撫でられ続けている。そんな少年の前には、少年に全てを任せきって表情が緩んでいる藍の姿がある。

 少年は、今まで紫と藍と一緒にいる環境で生まれたことのない状況に不思議そうな顔をしていた。

 紫は、どこか視線を泳がせる。どうも少年の頭を撫でることを意識していたわけではなく、無意識のうちに手が伸びて頭を撫でていたようで、どうしてかしら? と不思議な表情で言葉に詰まりながら声を出した。

 

 

「えっと、なんとなくよ。なんとなく」

 

「ふふっ、そっか、なんとなく、なんとなくか」

 

 

 少年は、紫の様子に思わず笑った。

 唯一その場に参加していない橙は、三人の様子を除け者のように眺めていた。

 

 

「私ひとり、仲間外れにされている気がする!!」

 

 

 橙は、一人取り残されているような疎外感に襲われ、いてもたってもいられず、3人のいるところに飛び出した。先程被弾し怪我を負った様子を微塵も感じさせず、3人のいる空中まで痛む体を押してやってきた。そして、これまで抱えていた疑問を不思議そうに口にした。

 

 

「藍様も紫様も心配しすぎじゃないですか? スペルカードの性質だったんでしょう?」

 

 

 橙には、目の前に広がっている3人の状況が分かっていない。何度も言うが、橙は紫と藍の2人と違って、3人で乗り越えた過去を知らないのだ。

 藍と紫は、橙の言葉を聞いて首が取れるかと思えるほどの速度で振り向いた。

 橙の一言に、二人の表情がガラッと変わる。目に力が入り、睨み付けるように橙を凝視した。

 

 

「「橙……」」

 

「ひっ!!」

 

「さすがの私も怒るぞ!!」

 

「貴方は黙っていなさいっ!!」

 

 

 藍と紫の言葉が同時に放たれ、橙に飛来する。到着地点にいた橙は、二人の剣幕に思わず強張った。

 橙の言葉が藍と紫の二人にとって無責任な言葉に聞こえたのは間違いない。

 もし、もしも、もしかして……そんな未来を想像できるだけの実績が少年にはあるのだ。交通事故で友達が死んだ人間にとって、友達が明日いきなり死んでしまうことがあり得る可能性になるのと同じである。

 失うという意味を知っている。無くなるということがどういうことなのか知っている。失わなければ分からない。無くなってから気付く。無くなってみれば分かる。

 それは―――そんな可能性である。橙には少年が消えることを想像できないかもしれないが、紫と藍には考えなくても思い浮かぶほどの鮮明な過去を持っている。それを思えば、二人の反応は極正常だった。

 だが、そんな事情を知らない橙は怯えながら声を震わせ、理不尽な怒りに後ずさる。

 

 

「なんで私が怒られなきゃいけないの?」

 

「藍も紫も怒っちゃ駄目だよ。橙は、何も悪いことをしてないんだからね」

 

「すまないっ、橙。私が悪かった。いきなり怒鳴って悪かったな。ちょっと、気が動転していたんだ」

 

「……ごめんなさいね」

 

 

 藍と紫は、ばつが悪そうな顔で怖がっている橙に向かって慌てて謝罪をした。頭のいい二人は、少年の言葉で先程橙に対して告げた言葉が、いかに理不尽なことを言っているのか即座に理解したようである。

 橙は、謝罪する二人の顔色を伺う。謝罪の言葉通り、悪いと思っているのかどうかを目ざとく見つめていた。

 

 

「本当に大丈夫ですか?」

 

(私も、藍のことを言っていられないわね。これじゃ何も変わらないじゃない……和友のことになると甘くなるのは直していかないといけないわ……)

 

 

 紫は、橙に見つめられながら先程の自分の行動を思い返した。

 橙は、暫くの間二人を見つめると二人の怒った表情が影をひそめているようで安心した表情を見せる。

 

 

「ほら、橙もおいで」

 

「はいっ」

 

 

 少年が橙に向けて話の中に入るように催促すると、橙は満面の笑みを浮かべながら少年の背中にくっついた。

 これで3人の輪が―――4人になった。空中に広がっている4人の様子を見ていると、輪の中心になっているのが少年だということが分かる。ここ2年の流れを少年が作り上げてきたからだろう。少年が巻き起こした風で、中心に紫、藍、橙の3人が集まった。

 少年は、寄りかかる藍に視線を移す。藍の涙でぬれた衣服は、藍がどれほどに自分のことを心配したのかを否応なしに感じ取らせた。

 

 

「ごめんね。心配させるつもりじゃなかったんだけど……」

 

「いい、謝るな」

 

 

 藍は、少年の肩に乗せるように置いている顔を離し、少年と顔を合わせる。藍の瞳は、涙で少しだけ赤くはれていた。

 

 

「ちゃんと、ここに戻ってきてくれたからな。それで、十分だ」

 

「ありがとう」

 

「和友……」

 

 

 藍は、精いっぱいの笑顔を少年に見せ、甘えるように再び少年に抱きつく。少年は、困ったような顔で藍を受け入れた。

 少年は、そっと藍を抱きしめる力を強める。

 藍は、抱きしめ返してくる少年の腕の力を感じて、さらに抱きしめる両手に力を入れた。機嫌も随分と良くなり、ついさっきまで泣いていたとは思えない表情で、安心感の中で溺れている。

 

 

「藍……あなた、まさか……」

 

 

 紫は、二人の恋人のような、夫婦のような雰囲気に心を突き落とされるような感覚に陥った。別に藍が少年を独占しているような環境に不満があるわけでも、嫉妬しているわけでもない。

 ただ―――藍がもしかして少年に気持ちを寄せているのではないかと不安になったのである。

 人間と妖怪が恋に落ちるようなことは、過去にいくらでもあった。

 しかし、そのどれもが上手くいったとは言えない。少年の病気のことを考えれば、なおさら幸せに終わることがないと容易に想像できる。

 ハッピーエンドは、あり得ない。

 はっきりとしたデットエンドが待ち構えている。

 幸せなりたいという願いは―――揺らめくような蜃気楼である。そんなもの、ありはしない幻想なのだ。

 

 

「和友……」

 

 

 紫が声をかけようとしたとき、視界の中に少年の複雑な表情が映り込んだ。

 紫は、少年の表情が気になり、疑問を口にした。

 

 

「どうしたの?」

 

「僕の勝負は、まだ終わっていないから」

 

「……バカっ! そういうことはもっと早く言いなさいっ!」

 

 

 紫は、少年の言葉を瞬時に理解し暴言を吐き捨てると、すぐさまスキマを開き、もともといた位置まで転移した。

 少年は、藍の耳元に口を近づけ、囁くように言葉を口にする。

 

 

「この勝負は僕の勝ちだね」

 

 

 藍は、耳元で囁くように言われた言葉に一瞬ビクッと反応する。そのせいで、少年の言葉を理解するまでにタイムラグが発生した。

 

 

「えっ……どういう」

 

 

 藍は、どういうことだ? と言うつもりだったが、全てを言うことはできなかった。会話を継続できるような時間は、藍には与えられていなかった。

 

 

「見―つけた」

 

 

 少年の言葉と共に激しい破裂音と光が空間に満ちる。光の源泉は、先程までよく見ていた霊力の発光である。

 藍の後ろに弾幕が急に現れ、膨大な量の光が降り注ぐ。

 

「和友……?」

 

「さようなら」

 

 

 藍が少年の顔を見つめると、少年は相変わらず優しい表情をしていた。

 少年の両手が藍の体を押し出す。

 

 

「えっ……」

 

 

 藍は、離れていく少年を見て激しい虚無感に襲われた。少年から離れると同時に閉じられていた視界が一気に広がり、世界が広がり見せる。本来見えているはずだった視界が、はっきりと確認できるようになった。

 少年の近くで少年の頭を撫でていたはずの紫は、すでに少年の近くにはいない。紫ならば、少年の言葉にすぐさま反応し、即座にその場から離脱している。

 橙は、少年の後ろにくっついている。おそらく、弾幕に当たらないように橙を後ろにくっつかせたのであろう。あの位置ならば、被弾することはないはずである。

 藍は、襲い掛かるであろう衝撃を受け入れるようにゆっくりと目を閉じた。

 

 

「っつ!!」

 

 

 藍は少年の弾幕に被弾し、痛みに耐えるような声を上げ、背中に被弾した痛みに耐えながら少年に向かって勢いよくまくしたてる。

 

 

「っ……和友っ、卑怯じゃないか!」

 

「ごめんね。これが僕のスペルカードの性質なんだ」

 

 

 藍は、橙の言っていたスペルカードの性質という言葉は、まさしく的を射た言葉だった。

 少年のスペルカード罔両(もうりょう)「八雲紫の神隠し―連れ去られし少年-」は、少年の言葉がカギになって、暫くの間全てを消失させるもの。そして、一定時間の経過とともに爆発するように弾幕が現れるという初見殺しもいいところのスペルカードだった。

 

 

「スペルカードは任意に止められるような汎用性のあるものじゃないし、それに……あんなに藍が心配すると思っていなかったんだよ」

 

「それは、和友が……」

 

 

 藍は少年向けて何も言い出せなかった。

 スペルカードは、発生を途中で止めることができるものではない。蓄えた霊力と込められた規則にのっとって効果を発揮するものだから、決まった分を決まった量だけ弾幕が生成するのである。途中でやめろといっても不可能なのだ。

 それに、藍が心配し過ぎた件に関しても少年の言う通りで、いくらなんでも藍の心配性は行き過ぎだった。藍も、自分が少年を失うことでこれほどに動揺し、心を震わせ涙を流すことになるなんて思っていなかった。

 

 

「藍様……どうされたのですか?」

 

 

 橙は、先程と同様に重苦しい空気を作り出す藍を見て疑問の声を上げるものの、再び重くなる空気を察して、少年の後ろから出ることができなかった。

 

 

「和友、私は……」

 

 

 藍は、それ以上口から少年に対する想いを吐き出すことができなかった。それは、少年が静かに目を閉じ、苦しそうにゆったりと藍の方向へ倒れたからである。

 藍は慌てて倒れ込む少年を支え、声をかける。

 

 

「和友っ!? 大丈夫か!?」

 

「僕の霊力は、これで限界……」

 

 

 少年は、限界を迎えていた。全身の力が完全に抜けて、体を支えることも、空を飛ぶこともできなくなり、藍に抱きかかえられる形になった。

 橙は、藍に抱きとめられ力を感じない少年に急いで近づいて声をかける。

 

 

「和友、大丈夫!?」

 

「もう、飛んでいられない……」

 

「はぁ……無茶ばかりして。本当にお前は、しょうがない奴だなぁ」

 

 

 藍は、少年の弱弱しい声を聞いて大きく息を吐き、少年をしっかりと抱きかかえるといつものようにおんぶをする。自身の尻尾の上に乗せて少年の体を安定させ、少年が飛ぶことのできなかった頃によくしていた体勢を作った。

 

 

「ふふっ、懐かしい温かさだな……こうやって和友を乗せるのは久しぶりだ」

 

 

 藍は、背中から温かな体温が伝わってくるのを感じ、優しい笑みを作る。

 藍の背中には昔よく感じていた体温がある。少年が飛べなかった時によく感じていた温度があった。

 橙は、藍と少年の様子をどこか羨ましそうに見つめる。藍の背中からは、一定のリズムで呼吸する少年の寝息が聞こえてきた。

 紫は、距離をとっていた状態から近づき、再び藍のいるところまで移動する。そして、藍の背中にいる疲れ切っている少年の姿を確認した。

 

 

「和友は、私の見ていないところであんなスペルカードを作っていたのね。全く、とことん予想を裏切る子だわ」

 

 

 紫は、少年の疲れ切った様子を見て今後の予定を告げる。

 

 

「今日は能力の練習はできそうにないわね」

 

「そうですね。今日はお休みにしましょう」

 

「えっ? 今日は練習お休みなんですか?」

 

 

 橙は二人の言葉に期待を抱え、声を高くする。少年の能力の練習が無くなるのならば、自分の練習の時間も無くなると期待しているようだった。

 

 

「和友の能力の練習が休みになるのなら、私の妖力制御の練習も休みにならないですか?」

 

 

 橙は、少年の能力の練習が無くなるという流れにすかさず乗ろうと、目を輝かせて藍と紫にもう一度質問を投げかける。

 藍と紫は、お互いに顔を見合わせるとかすかに笑い、橙の顔を見つめ、言葉を吐き出した。

 

 

「ならないな」

 

「ならないわね」

 

「私だって頑張ったのにぃ……」

 

 

 藍と紫の二人は、あまりに簡単に橙の思惑を一蹴した。橙は、こうまで簡単に断られると思っておらず動揺しながらなんとかならないかと涙ながらに二人に訴える。

 

 

「くっくっ……」

 

 

 藍は、橙の必死な様子に笑いをこらえる。紫も、同様に笑みを浮かべている。藍も紫も、最初から橙の妖力制御の練習も休みにするつもりだった。

 

 

「冗談だよ。今日はお休みにしよう。怪我の方も悪化しないかちゃんと見なければならないからな」

 

「やったぁ! 藍様大好きです!」

 

「とことん甘いわね……」

 

 

 橙は、嬉しそうに藍に抱きついた。

 紫は、現金な橙の反応と藍と橙のやり取りに苦笑する。本当にみんな甘い。そして、それをはっきりと咎めることができていない自分も甘い。

 紫は、そっと藍の背中に乗っている少年の頭に手を伸ばす。

 

 

「どうしようかしら……」

 

 

 紫は、眠ってしまっている少年の頭をゆっくりと撫でる。先程はあった少年から反応は、何一つ返ってこない。

 紫は、反応を見せない少年から少し寂しそうに手を離すとゆっくりと地上へと降りていった。

 

 弾幕ごっこは、藍の敗北という形で幕を閉じる。

 少年は、藍から初めての勝利を勝ち取った試合となった。

 今回の弾幕ごっこは―――大きなものを紫の心に落としていった。

 

 

「これから、どうしていくべきなのかしら……和友も、藍も……」

 

 

 藍の少年に対する依存性。

 離れることができなくなるほどに、べっとりと浸かってしまっている。

 その温かさに外へと出られなくなってしまっている。

 このまま突き進んでしまえば、最悪の未来が想定される。

 それは、藍にとっても、少年にとっても。

 

 

「私も……」

 

 

 ―――紫にとっても。

 終わりは、もうすぐそこまで迫って来ていた。


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