ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

52 / 138
消えた少年、思い出す過去

 藍と紫と橙の3人は、3者同様に疑問を口にする。目の前に広がる奇怪な現状に疑問しか湧いてこなかった。

 少年の姿は見受けられず、弾幕の存在も確認できない。にもかかわらず、スペルカードはいまだ力を失っておらず、力の波動は空間の中に留まっている。

 だからこそ―――意味が分からないというのが3人の見解だった。

 なぜ、勝負がまだ終わっていないのにもかかわらず少年は現れないのか。

 なぜ、スペルカードの効果が終わっていないにもかかわらず弾幕が一つも出ないのか。

 分からないことばかりだった。

 

 3人は、湧き上がり続ける疑問を抱えながら少年がいなくなった空間で視界を固定する。しかし、疑問の原因となっている少年は、待てど待てども一向に現れない。まるでこの世から消えてしまったかのように、姿が見当たらないだけでなく何一つ反応が見受けられなかった。

 

 

「和友、どこにいったのだ?」

 

 

 藍は、待つという行為をし続けることに耐えきれなくなり、消えていなくなった少年を探し始める。声を出して少年の反応を探す。

 だが、いくら探しても少年は見つからない。空間には、見渡せるだけの景色しか存在せず、影も形もない綺麗な景色だけがそこにあった。

 

 

「和友っ……消えて……」

 

 

 藍は、少年か消えてなくなった景色を見て突如として不安に襲われた。

 少年が消えた状況は、頭の中に無理矢理にしまい込んでいる思い出を引き出してくる。鍵をかけていたはずの引き出しを思いっきり力技でこじ開けてくる。

 目の前の光景が―――藍の心の中で頑丈に鍵をかけている金庫を解き放ちにかかっていた。

 

 

「っ……」

 

 

 黒い思い出が、僅かに開き始めた扉から覗いている。

 藍の心の中に産まれた不安は加速度的に増大し、藍の瞳は怯えた暗い色に染まっていく。歯を食いしばり、漏れ出そうとする想いを内に留めるも、徐々に我慢ができなくなってくる。

 せき止めている防波堤が崩れるのも時間の問題だった。

 

 

「和友っ!! どこにいるんだっ!?」

 

 

 藍は、少年を失う恐怖が頭の中を支配し始めるといてもたってもいられず、瞳に涙をためて必死に声を振り絞り、悲痛な叫びをあげた。

 しかし、藍の声は空気中を響き渡り、消えていくだけだった。

 

 

「やっぱり、こうなるのよね」

 

「藍様……」

 

 

 紫と橙は、不安をそのまま叫ぶ藍を複雑な表情で見つめていた。

 紫は、少年に対して相当依存している藍に対する不信から。

 橙は、予想以上に動揺している藍の様子から。

 

 紫は、これまでの暮らしの中で藍の少年に対する薬物依存ともいえる依存の程度を把握している。

 だが、それはあくまでも想像の中から外に出ていなかった。藍の依存の程度は、普段の振る舞い方から予測できる。離れられない、不安になる、心配する、依存のレベルを測ることはそれほど難しいことではない。

 しかし、実際の真値を知ることができるのは、それが失われた瞬間である。今のように少年がいなくなったとき、少年が失われた時―――行動に示されることで予想は真実に接近した。これは、憶測でも予測でもなく、事実なのだと理解することとなった。

 橙は、紫に言われていた依存に関わることについて目の前で見せつけられ、動揺を隠せなかった。あれ程に不安になるのか。あれ程に取り乱すのか。いつもの藍はどこにいったのか。橙は、頭の中でぐるぐると疑問をたらいまわしにする。

 藍は、若干引いている二人をよそに少年を探し、声を発し続けていた。

 

 

「和友! 和友っ!!」

 

「和友は……本当に消えたのかしら?」

 

 

 紫は、取り乱す藍を眺めながら疑問を口にした。藍が不安で押しつぶされそうになりながら叫んでいるのと同時に、紫もわずかな不安に駆られ始めていた。

 

 

「和友の存在が感じられない……」

 

 

 紫は、不安を抱えながら視線を上にあげて必死に少年の気配を探る。

 だが、いつもなら感じ取ることができる雰囲気や空気というのだろうか、そういうものは全く感じられなかった。

 

 

「まさか……また同じことが起こったというの?」

 

 

 少年は、以前にも今と似たようなことになりかけたことがあった。今にも消えそうで、まっさらになって何もかも失いそうになっていた時期があった。

 

 

「まだ半年しか経っていないというのに……何もしていないのに、そんなことあるわけが……」

 

 

 紫は、半年前の少年の姿を思い出し、不安を増大させる。不安をいくら打ち消そうとしても、頭の中にはどうしても最悪の状況が想定される。全てを消し去って、全てを曖昧にして、全てを持っていく光景がフラッシュバックしてくる。

 少年は、二人がいくら不安に襲われていても決して現れない。二人の不安をさらに増長させるように、一向に現れる気配を見せなかった。

 

 

「嫌だ、嫌だっ! もう、あんな想いはしたくないっ! またあの時みたいに、和友が擦り切れてしまったら、私は……」

 

 

 藍は、少年を失うことの不安による心の揺らぎに耐えきれず、顔を両手で隠しながら涙を流す。心が震えるのを抑えきれず、外へと吐き出し始めた。

 

 

「もう、耐えられないっ……」

 

 

 藍の心の中の少年の存在は余りにも大きい。少年の存在は藍の心のかなり深いところまで入り込んでいる。

 近しい者など一人もいなかった藍にとって、少年は愚痴を言えるような、楽しかったことを話せるような、家族としての存在を担っていた。血が繋がっていなかったとしても、種族が違っていたとしても、そんなものは関係ない。日々起こった出来事を話し、笑い、喜び、悲しみを共有できる普通の存在―――少年の存在は藍の中で余りに大きかった。

 藍がこれほどまでに心を揺さぶられているのは―――藍の心における少年の圧倒的支えと絶対的な依存が招いている結果である。

 

 

「和友、私を置いていかないでくれ……逝くのなら、私も一緒に連れて行ってくれ……」

 

「…………」

 

 

 紫は、崩れ落ちる藍を見て押し黙った。

 藍の気持ちは、痛いほど理解できる。少年を失いそうになって、それの後を追いたいという気持ちは分からなくもなかった。

 藍は、少年が幻想郷に来てから何をするにも少年と一緒に行動していた。それこそ、お風呂まで一緒に入ろうとしていたレベルだった。一緒にお風呂に入るということは、少年が明らかに嫌がったためになされることはなかったが、そのぐらいにはべったりの状態だった。

 藍は、今まで見たことのない顔で、本当に嬉しそうな楽しそうな顔で、毎日を送っていた。藍にとって少年の存在は、唯一無二の物であり、代わりのないものであり、変わらないものに成っているのである。

 

 

 少年は、何もかもを藍に与えた。温かさ、冷たさ、嬉しさ、悲しさ、形のないものを何でも与えた。

 その何もかもは―――少年がいなくなれば無くなってしまうもの。

 失う覚悟のない藍は、少年が消えていなくなってしまえば、きっと後を追いかけることになる。取り戻そうとする。そんなことは、誰の目から見ても明らかだった。

 少年は―――そんな藍の行為を認めないだろう。引きずられることを何よりも嫌い、誰かに頼ることを拒否し、貰ったものを確実に返そうとする少年は―――藍を引きずることを善しとしないはずである。

 紫は、はやる気持ちを抑えて藍の行動に目を配ることにした。碌でもない結末を迎えるのを避けるため、藍の動きをすぐ止めることのできる体勢を作り、準備していた。

 

 

(私は知っている。和友が何を欲しがっているのか、何を求めているのかを……)

 

 

 紫と藍の違いは、覚悟を持っているかどうかの違い。

 そして―――少年のことを‘知っている’かの違いである。

 少年の望んでいるもの、少年が欲しがっているもの、それらを知っているのか、これが両者の立ち位置を別っていた。

 

 

(結果論になってしまうけど、和友の世話をしていたのが私だけだったら、きっとあそこにいたのは―――私だったでしょうね)

 

 

 もしも、少年の世話をしているのが自分だったらなんていう仮定をしてしまえば、藍と紫の立場は逆転しただろう。少年の心の寄りかかり、満足し、依存していたことだろう。

 そんな一歩間違えば藍と同じになっていたかもしれない紫だからこそ、藍が起こすかもしれない行動に目を配り、状況を好転させようとしてきた。

 果てには、テーブルの座る位置に至るところまで手を出している。それは、今になっても変わらない。今だって、最善の結果に至るために試行錯誤をしている。

 紫の瞳は、確実に崩れ落ちそうになっている藍を射抜いていた。

 

 

「紫様、藍様……? どうしたのですか?」

 

 

 橙は、あまりに不安がる二人の様子に何が何だか分からなかった。二人の普段と違う様子に何が起こっているのか全く分かっていなかった。

 

 

「和友は、どこにいっちゃったの?」 

 

 

 橙は、半年前にあった少年の闘病生活の一幕を知らない。

 擦り切れながらも、全てを保持しようとして努力していた少年の姿を受け止めていない。

 変わらない意志と負けない心を持った少年の心に触れていない。

 負けず嫌いな子供っぽい笑顔を浮かべた少年の顔を見ていない。

 勝てないと分かっいても最後まで戦った少年の勇姿を見届けていない。

 こういうと、もう少年は死んでしまっているのではないかと思われるかもしれないが、少年は―――今も生きている。半年前に死んでいるわけではない。先ほどまでだって、幽霊でも何でもなく、確かに肉体と精神を持ってそこにいた。

 ついさっきまでの元気な様子を見ていると分からないかもしれないが、半年前は全てを失って死ぬ寸前だった。

 少年は、約半年前に死ぬ予定で、死ぬはずだったのである。

 

 

「私は、和友とこれからも一緒に生きていくのだ。あんなこと、もう二度と……」

 

 

 藍の脳裏には、半年前のことが鮮明に蘇ってきていた。

 

 

 

 ―――半年前―――

 

 

「和友の病気の原因が分からない? そんな……こんなに苦しんでいるのに分からないだって」

 

 

 少年が苦しんでいる原因は、不明でよく分からなかった。よく分からないまま時間を過ごし、苦しみの中に溺れていった。目のくまはどんどん酷くなり、眠ることもしなくなった。病室に誰かを寄せ付けることもなく、一人で黙々と何かをしていることが多くなった。

 藍は、日に日に弱っていく少年にいてもたってもいられなかった。自分にできるだけの看病を行い、少年のために尽くした。

 それでも、少年の病気は一向に良くならなかった。病気の原因が分からない以上、見守って看病してやることしかできず、弱くなる少年を励ますことしかできなかった。

 少年が苦しんでいる症状の原因が判明したのは―――少年が死ぬ寸前の時のことである。

 

 

「紫様! 病気の原因が分かったって本当ですかっ!?」

 

「ええ……」

 

 

 藍は、紫から少年の病気の原因について知ることになった。

 

 

「そ、そんな……私のせい、ですか……?」

 

 

 藍は、病気の原因を聞いて酷く苦しんだ。

 蓋を開けてみれば少年の死ぬ原因の多くを持っていたのは、他でもない藍だったのである。

 

 

「私のせいで、和友が」

 

 

 藍は、当然ながら意図して少年を殺そうとしていたわけではなく、死んで欲しいと思っていたから病気の原因を作ったわけでもない。むしろ助かって欲しいと心から願っている者の一人に違いなかった。

 けれども、いくら助かって欲しいと願っていても、少年が死んでしまう原因は間違いなく藍が作っていた。そこには言い訳も弁解もなにもなかった。藍にそんなつもりが無くても、少年が苦しむ原因を作ったのは他でもない藍自身だったのである。

 

 

「私は……これまで何を……」

 

 

 藍は、少年が苦しんでいる理由が自分にあるのだと、自分が作ったということをずっと知らなかった。少年が死ぬ寸前まで、知らされるまで自覚がなかった。

 だから藍は、何食わぬ顔で少年の見舞いに来ていたし、頑張れと応援の言葉も送り続けていた。

 

 

「頑張れ! 病気になんて負けるな。私にできることがあったら何でも言ってくれ。私にできることなんでも構わないからな」

 

「藍……ありがとう。僕は、最後まで頑張るから」

 

 

 そんなやり取りが日課になっていた。

 少年は、藍に対して辛い様子を一切見せずに、できる限りの笑顔を作って藍を迎えた。影でどれほどの苦痛を抱えているのかを悟られないように、精いっぱいの虚勢を張っていた。

 

 

(藍に気付かれちゃ、いけない。全部、全部飲み込んで、僕の中で留めておかないと今の状況が壊れてしまう。境界線がなくなってしまう)

 

「このまま治療を続けていれば、きっと良くなる。退院したら、人里にでも買い物に行こうか? それともマヨヒガでのんびりして過ごそうか?」

 

 

 藍は、少年の虚勢に全く気がついていなかった。もうすぐ退院できると錯覚している程度には、少年の血のにじむ努力が実になっていたといえるだろう。

 

 

「和友は、どっちがいい? 何がしたい?」

 

「僕は、僕はね……」

 

 

 いくら少年が仮面をかぶるのが上手いといっても、騙し続けるのにも限界がある。少年の努力にも、精神力にも限界があるのだ。無限に広がる心にも限界が必ずあり、境界線が引かれているのだから。

 少年は、最後の最後まで―――人生を終えるまで嘘をつき通すことができなかった。

 

 

「うっ」

 

 

 事実は―――唐突に露見する。

 唐突に喉元に異物がせりあがって来る。理性で押さえつけることは叶わない。もっと生理的な衝動に近い。

 少年は、湧き上がって来る違和感を飲み込もうと必死になった。

 喉から湧き上がってきたものとは―――内側から溢れ出した血である。

 今まで少年は、血を吐きだしそうになる度に飲み込んでいた。それはとても苦しいことだったけど、藍に見られるよりははるかにましだった。

 だけど―――今回は、今までとはレベルが違っていた。これまでも何度かあったことではあるが、いつもと比べるとごまかしのきかない量だった。喉から出ようとする血液は容易に閾値を越えた。

 

 

(や、やばい)

 

 

 少年は、湧き上がる吐き気に耐えきれずに手を口に当てる。口から吐き出された血は、しみだすように手からはみ出していった。

 少年は、これまで隠し通してきた努力もむなしく、藍の目の前で堪え切れずに今まで飲み込んで騙していた血を吐き出した。湧き上がる血を飲み込むことができなかった。

 

 

「……っっ……ごほっごほっ……」

 

「和友!?」

 

 

 藍は、血を吐き出す少年を見て目を丸くする。少年の白い服には大量の血が滴り、白い空間は真っ赤な血で染まった。

 

 

「どうしてっ!?」

 

 

 藍は、少年が血を吐き出したことで初めて少年が無理をしていたことを察した。少年の病状は決して好転しているわけではなく、悪化の一途をたどっているという事実を見せつけられた。そして―――少年が必死に隠していたという現実を知ることとなった。

 

 

「なんでこんなっ……良くなっているはずではなかったのか!?」

 

「今までごめんね。藍を心配させたくないと思ってここまできちゃったけど……もう、僕も限界みたいだ」

 

 

 少年は、藍に対してかたくなに事実を告げなかった。目の前で血を吐き出すという結果が見られてしまっても、どうしてそんなことになっているのか、どうしてそうなってしまったのかについては何も口にしようとはせず、優しい表情を浮かべたままだった。

 藍は、諦めるような雰囲気を醸し出す少年を鼓舞する。諦めるなと、頑張れと、きっと良くなると少年を励ます。

 それは、藍の心の叫びだった。

 

 

「和友、そんなこと言わないでくれ。きっと、きっと良くなる。諦めずに戦えば、きっと状況は好転する」

 

「藍の言葉は、十分なほどの支えになってくれたよ。毎日、会いに来てくれることが……毎日、励ましの言葉を送ってくれることが嬉しかったし、だからこそ頑張ろうと思えた」

 

 

 藍の言葉も虚しく、少年の口から出た言葉は完全に燃え尽きたような感謝の言葉を綴るだけだった。

 少年は、毎日のように会いに来てくれることが嬉しかった。藍が来てくれている間は、一人で病気に耐えきっているよりもはるかに気持ちが楽になった。無理をする時間よりも、藍と話している時間が楽しかった。それが、毎日を生きていくための支えになった。

 だけど、もうその支えだけでは支えられなくなっている。心は、深い闇の中に沈む寸前だった。

 

 

「和友……」

 

「ここからは、僕一人で行く。周りを巻き込んでいくわけにはいかない。僕は、一人で幻想郷に来て、一人で去っていく」

 

 

 少年は、全てを受け入れたような笑顔を藍に見せつける。

 

 

「藍、ありがとう。僕、幻想郷に来てものすごく楽しかったよ。僕は、何も後悔していないから」

 

 

 少年は、それ以来誰も病室に入れなくなった。食事もほとんど寄せ付けず、部屋から出ることもほとんどなくなった。

 

 

「どうしてだっ? 答えてくれ、和友!」

 

「僕から言えることは、もう何もないよ」

 

 

 少年は、藍がいくら病気の原因について尋ねてきても、なぜ悪くなっているのかを問われても、どうして騙していたのかと迫られても、答えを決して口にしなかった。

 藍は、いくら尋ねても答えてくれない少年に尋ねることを諦めた。少年の性格から考えて、無理に聞こうとしても答えないことは火を見るよりも明らかだったからである。

 

 

「和友は、一度決めたことを曲げるようなことはしない。和友にいくら尋ねても答えてはくれないだろう……いったい誰なら、私に答えをくれるのだろうか……」

 

 

 藍は、他に情報を持っている人物の存在を考える。別に少年自身から聞く必要はない。知っている人物なら誰でもよかった。

 

 

「紫様なら、きっと……」

 

 

 少年に向けて突き立てられていた藍の質問の矛先は、全てを知っているであろう紫に対して向けられた。

 藍は、すぐさま紫を探しに行った。そして、少年が病気になってからマヨヒガに姿を見せることが少なくなった紫を探し出した。

 この問いかけが―――藍が少年の病気の原因を知るきっかけとなった。

 

 

「紫様!!」

 

「藍、慌ててどうしたの?」

 

「和友の容体が悪くなっています! 和友は何か知っているようなのですが、私には何も話してくれません。紫様は、何か知っておいでですか?」

 

「…………」

 

「紫様っ! 紫様も答えてくださらないのですか!?」

 

 

 藍は、少年と同じように話そうとしない紫に対して声を荒げ、表情を怒りの色に染める。

 紫は、藍の表情を見て藍の問いに対して解答を告げるべきなのか頭を悩ませていた。確かに紫の頭の中には、藍の問いに対する回答が存在している。

 しかし、藍の少年に対する想いを見ていると、事実を告げてもいいのか判断できなかった。

 紫は、藍の瞳を射抜くように見つめ、問いかける。

 

 

「藍、貴方は本当に真実を知りたいの?」

 

「はい!」

 

 

 藍は紫の言葉に即答する。迷いなく、まっすぐに返答する。

 紫は、猛進するような藍の姿に不安を抱いた。

 藍のそれは明らかな愚直である。地雷原でサッカーをして遊ぶような、何も知らないから大丈夫なだけの、知った瞬間に何かを失いそうな危ない雰囲気があった。

 

 

「貴方には、真実を受け止める覚悟があるの? 和友を受け止めることができるの? あの子の心を包み込んであげることができるの?」

 

「私は、和友を助けるためなら何でもします。私は……和友に、生きていて欲しいのです」

 

 

 藍は、必死に今ある気持ちを口にした。

 しかし、紫には今の藍が少年の支えになれるとは到底思えなかった。

 藍は、少年に対して余りに独りよがりである。少年に助かって欲しいと思っている、その思いの中には少年の気持ちが一欠けらも含まれていない。生きていて欲しいという藍の言葉は、あくまで藍の願望に満ち溢れているだけ、色彩はあくまで一色淡のもの。

 そんなもので―――少年が助けられるわけがない。

 少年が求めているものは、もっと別のはっきりとした救いの形である。はっきりとしていて、空に浮かんでいる星のように決して届くことのない幻にも似た幻想だ。

 藍の想いでは、少年を決して助けることなどできやしない。

 紫は、藍の要請をきっぱりと断った。

 

 

「……駄目ね。今の貴方では、和友の重荷にしかならない。真実を受け取るだけの覚悟も無い。貴方は、和友を助ける方法の一つも思いつかないでしょう……」

 

「なぜですかっ!? 原因が分かれば、何か思いつくかもしれません。そんなことはやってみないと分からないでしょう!?」

 

 

 紫に拒まれた藍は、紫に向けて責めたてるようにまくしたてる。主である紫に対してにらみつけるように反抗した。

 紫は、表情を一切変えることなく、見下すような瞳で藍を見つめる。

 

 

「やってみなければ分からないなんて、そんな戯言を言うのは止めなさい。それは、やってみないと分からない想像力がない者が言う言葉よ」

 

「……時間が、無いのです。もう、和友に残されている時間は酷く少ない……」

 

 

 藍は、次々と思いの丈を吐き出す。

 

 

「和友は、今も苦しんでいるのです。もしかしたら、明日にでも死んでしまうかもしれないのですよ!? 何とか助けてあげたいと思うのが、家族として当たり前なのではないですか!?」

 

 

 紫は、藍の考えなしの言葉に心をざわつかせた。

 藍の言動は、まるで紫が血の涙もない冷血な人間だと言っているのと同義だった。言葉だけ聞けば、紫には少年を助けたいと思っている気持ちがまるでないように聞こえる。そして、それはきっと間違っていないだろう。藍は、そういうつもりで紫に対して口を聞いているのだ。

 紫は、悲しみを含んだ視線を藍へと送った。

 

 

「貴方は、何も知らない……」

 

 

 紫は、何も少年のことを心配していないわけではない。紫だってこの二年間を少年と共に過ごしてきた。それだけの思い入れがある。大事な存在で、家族の一人だと思っている。助けたいと、救ってやりたいと思っている。

 それなのに、どうして動いていないのか。

 それは、ただ―――少年の病気に対して何も‘できなかった’だけだった。

 少年の症状は、紫をもってしてもどうにもできない状況だったのである。

 

 

「貴方は何も知らないからそんなことが言えるのよ……あれは、どうしようもないの。どうしようも、ないのよ……」

 

「やはり紫様は、和友が苦しんでいる原因を知っていらっしゃるのですね!?」

 

 

 藍は、紫の落ち込む様子を気に掛ける余裕すらなく、近づけていた距離をさらに詰め、問いただそうとする。

 藍は、何も知らない。

 和友が苦しんでいる原因も。

 和友が藍に黙っている理由も。

 紫の気持ちも。

 何一つ―――理解しようとしていない。

 藍の心の焦りが本来であれば見えるはずの未来を見えなくしている、視野を狭くしている。少年を失う恐怖にさいなまれ、本来見えるはずのものを見逃している。

 紫は、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐いた。

 

 

「はぁ……」

 

 

 紫は、藍に真実を告げるつもりがなかった。少年が藍に言わなかったということは、つまりは少年が藍に真実を告げることを望んでいないということに違いなかったからだ。少年の気持ちを無視して口を滑らせるわけにはいかないと思った。

 それに―――藍に何ができるだろうか。少年を助けるために、何ができるだろうか。なにもできやしない。自分にだって何もできなかったのだから。藍が何をしたところで結果は変わらない。

 何も分かっていないから、何も理解できていないから、そんなことが言えるんだ。

 紫は―――そう思っていた。

 

 

「紫様、お願いいたします。後のことは私がなんとかしますので……教えてください」

 

「藍……」

 

 

 紫の視線は、揺れ動く心を必死で保持する藍を捉えていた。

 藍は、今にも泣きだしそうな震えた声で紫に懇願する。

 

 

「もう、嫌なのです。心が擦り切れるような、こんな想いをするのは嫌なのです。和友には、ずっとそばにいて欲しい。ずっと笑っていて欲しい。ずっと……これからもずっと……」

 

 

 藍の声は、どんどん小さくなりしまいには聞こえなくなっていった。

 紫は、今目の前にいる藍のことを考えると少年が苦しんでいる原因を告げるべきだと思った。このまま黙っていて少年が命を落とした場合、藍がどうなってしまうのか。真実が後で分かった時、藍の気持ちはどうなるのか。

 それを考えると――――今、告げるべきだと考えた。

 

 

「貴方が、どうしても知りたいと言うのなら教えてあげるわ」

 

「本当ですか!?」

 

「和友が苦しんでいるのは、和友がこんな状態になったのは……」

 

 

 次に紫の口から発せられた言葉は、藍の気持ちを大きく揺さぶった。

 

 

「藍―――貴方のせいなのよ」

 

 

 一瞬で伝えられた言葉が藍の心を打ち砕く揺れを引き起こす。

 全部をまっさらにするような衝撃を伝達していく。

 後に何も残らないように。

 禍根ごと吹き飛ばすような衝撃波が、藍の心に広がっていった。

 

 

「私の、せい?」

 

「そう、和友が死にそうになっている原因を作り出したのは、貴方よ。そして、これから死んでしまうのだって、貴方が起こした要因によるところが大きいわ」

 

 

 藍は瞳を見開き、紫から距離を取るようにゆったりと後退する。告げられた言葉に押されて、心が恐怖して、体が逃げ出そうとする。

 藍は必死に気持ちを押し殺し、瞳を泳がせながら、動揺しながら紫に向けて再び問いかけた。

 

 

「紫様、質の悪い冗談を言わないでください。さすがの私でも怒りますよ?」

 

 

 藍は良く知っている。紫はこんな質の悪い冗談を言う人ではない。

 藍は―――嫌でも分かってしまっていた。紫の言っていることは真実であり、少年の病気の原因は間違いなく自分にあるということを。

 それでも、尋ね返さずにはいられなかった。

 助けようと思っている相手が苦しんでいる原因が、少年が死にそうになっている原因が自分によって作られているなど、信じられなかった―――‘信じたくなかった’。

 

 

「これは真実よ。変わることのない不変の事実。そして、貴方の欲していた答えよ」

 

「どうして私が? どうして和友が苦しんでいる原因が私になるのですか? 私が、何をしたというのですか?」

 

 

 藍は、ガタガタと揺れる心を必死に抑えながら紫に少年の病気の原因となっている理由を尋ねた。

 

 

「それは、貴方が……」

 

 

 紫は、他でもない藍が少年に与えた―――少年の崩壊のきっかけを教えた。

 紫の言葉―――震度8の巨大地震が藍の心を崩しにかかった。もともと擦り切れてヒビが所々に入っていた藍の心は、軋み崩れていく。音も立てずにバラバラになって崩れ落ちた。

 

 

「そういうことよ。これで分かったでしょう? 和友が苦しんでいる原因を作ったのは、まぎれもなく藍なのよ」

 

「……和友の病気は、私のせい……」

 

 

 藍は、心当たりのある紫の回答に頭が真っ白になった。藍の頭の中では、少年を苦しめてしまう原因になった出来事が一気に溢れ返っている。そして、その記憶のどれもが紫の言葉が真実であると進言していた。

 

 

「あ、謝らないと……私はこれまで、ずっと……」

 

 

 藍は、紫の目の前から逃げるように走り出す。勢いよく流れでる涙を止める術も持たず、真っ先に少年のところへ向かって走って行った。

 

 

「これでいいのよ。これで……」

 

 

 紫は、藍の後ろ姿を追いかけるわけでもなく静かに見送り、勢いよく少年のもとへと向かう藍を止めることはしなかった。

 

 

「これでいいの……」

 

 

 紫は、これでいいのだと、納得するように空を見上げる。空には、まばゆいほど光っている太陽と雲が優雅に飛んでいた。

 

 

「ねぇ、和友。そうなのでしょう?」

 

 

 紫の声は、空中を漂い拡散する。誰にも拾われることなく、心に宿る同じ諦めの色を付けて消えていった。

 

 

 

 

 

「和友っ! 和友!」

 

 

 少年が苦しんでいる理由を知った藍は、急いで少年のもとを訪ねた。そして、病室にいる少年の許可を得ることなく病室に入り込み、勢いのままに少年に対して頭を下げて謝罪した。

 藍の瞳には大きな涙が溜まっており、その顔は病室に来るまでに多くの涙をこぼしてきたことが分かる顔だった。

 

 

「すまないっ……私のせいだったんだな。そうなっているのは、全部、全部、私のせいだったんだなっ……」

 

「どうして……ああ、紫が話しちゃったんだね。そっかぁ……そうだよね、紫だって守りたいものがあるんだもん。仕方がないか……」

 

 

 少年は、謝罪をする藍を見て、紫が話したのだとすぐに察した。紫の口を閉ざしておけなかったのは、少年の落ち度だった。

 だが、話してしまった紫を問い詰めることはできない。誰が悪いわけでもない。話した方が良いと紫が判断したのならば、それが紫にとっての正しさに違いないのだから。

 そもそも、紫に話してしまったことが間違いだったのかもしれない。話をしてしまわなければ、そんな後悔も出てくる。

 しかし、ここで後悔しても意味がなかった。もう、伝えられてしまったものは、書き換えられない。

 少年は、事実を知った藍に対して優しい笑みを見せつける。

 

 

「藍、別にいいんだよ。これは、藍の責任でも、誰の責任でもない。ただ、あるようにあった結果がこうなっただけなんだから」

 

「違う! こうなったのは、私のせいなんだ! 私が、私があんなことをしなかったら和友はこうはならなかった!!」

 

 

 藍は、少年の言葉に心を軋ませる。気にするなと言われてその通りにできるほど器用な性格ではなかった。

 

 

「私は何をしていたんだ。和友の隣で頑張れと言うことしかできない、たったそれだけのことしかできなかった……」

 

「藍は、僕に戦う勇気をくれた。僕は、藍からもらった勇気でこれまで戦ってこられた。ここまで生きてこられたのは、藍のおかげだよ」

 

 

 少年は、病気の原因の事実が藍に露見しても、藍に対して何一つ本当のことを口に出すことはなかった。直接的に病気の原因について話すことだってしない。原因を作ってしまったことに対して後悔している素振りも、病気で辛そうな表情を浮かべることも、一切なかった。

 少年は、一度だって藍を責めなかった。

 それは―――藍の責任じゃないと本心から思っていたから。少しでも藍の責任だと思っていたら、こんな顔はできなかった。

 

 

「だから、何もできなかったとか自分を蔑むようなことを言わないでほしい。藍は、僕のために色んなことをしてくれた。僕の気持ちを支えてくれた」

 

「どうしてっ! どうして和友は私を責めないのだっ!?」

 

 

 藍は、少年の予想外の受け入れるような対応に精神的に追い詰められていた。

 少年が自分を責めるようなことを言わないことなど百も承知であったのに、少年に対して詰め寄るように叫び、懺悔を乞う。

 

 

「藍、泣かないでよ。ほらいつものように僕を応援してよ。笑顔で、僕を応援して」

 

「無理だ。私にはもう、できない……」

 

 

 少年は、悲しそうな顔で藍を見つめる。

 最初から―――事実を知ってしまえば藍が自分を追い込み、こうなってしまうということは分かっていたことだ。だから少年は、自分の病気の原因についてしゃべるのを避けていた。

 今からが正念場だ、今から変えていかなければ。過去は変えられない。未来を変える努力を今から始めよう。

 

 

「できるよ、何度だってできる。藍は、いつだって応援してくれたじゃないか。僕の努力を認めてくれていたじゃないか。だから、もうちょっとだけ僕に付き合ってよ。もっと頑張れって、笑顔で応援してよ」

 

 

 少年は、藍の悲しむ顔が―――何よりも見たくなかった。

 藍は、涙を流しながら崩れ落ちるように少年に首を垂れる。病室で寝ている少年に対して縋りつくように頭を下げた。

 

 

「何が頑張れだっ!! 悪いのは全部私じゃないかっ……」

 

「謝らなくてもいいよ……もともとこうなるはずだったんだ。どうしたところで、どこかで袋小路に入ることになっていた。ただ、それがちょっと早かっただけ」

 

 

 少年は、藍の責任だと思っていない。極端なことを言えば、誰がやったところで、どんな方法だったとしても、少年はそれについて咎めることはしなかっただろう。

 全ては、成るようになったのだ。早いか遅いか、そのぐらいが変化の幅の限界値。そんなものだ。

 

 

「それに、藍はちゃんと約束を守ってくれた。それだけで十分だよ」

 

 

 少年は、優しく語り掛けるように震える手で藍の頭をなでながら言葉を投げかける。

 

 

「後悔なんて何もない。僕は、もう十分に‘活きてきた’。ゾンビみたいに生きているだけじゃなくてしっかりと活きてきた。優しい両親に支えられて、藍や紫に支えられて―――十分に満たされている」

 

 

 少年は、自分が死ぬことについて何一つ後悔していなかった。これまで生きてきて、やり残したことなど一つも無いといわんばかりの全て終えたような顔をしていた。

 藍の心は、少年の言葉で傷ついていく。優しく撫でてくれる少年の手から伝わる温もりが、自然と涙を流させた。

 

 

「藍は、何も気にしないでいいんだよ」

 

 

 少年の優しさが藍の心を傷つけ、何度も何度も切りつけていく。藍の心は、少年と会うことでさらに荒み始めていた。

 藍は、涙で濡らした顔をそっとあげて少年を見つめる。

 死期が間近に迫ってきている少年は、どこか満たされたような顔をしていた。泣いている藍の横で、全てを終えたような、そんな表情をしていた。

 

 

「僕はただ、両親のいるところに行くだけ……僕はもとの場所に、あるべきところに帰るだけなんだから」

 

 

 藍は、少年が苦しんでいる原因を自分が作ったのだと―――最後の最後まで少年の口から聞くことは無かった。少年に改めて聞いても少年が藍の疑問に対して答えることはなかった。

 

 

「ほら、大丈夫、大丈夫だからね。よしよし、泣かないで。大丈夫、大丈夫……大丈夫だから、大丈夫だから」

 

 

 藍は、少年の母親が少年を慰める時に使っていた大丈夫という言葉をかけられ、その日ずっと少年の傍で泣きじゃくりながら眠りについた。少年の心の中で慰められた時と同じ方法で、抱きしめられるような形で少年に包まれながら、頭を撫でられながら意識を失っていった。

 

 

 

 藍は、あの時のような想いは二度としたくなかった。何もできなかった自分、何も知らなかった自分が恨めしくてたまらなかった。

 藍は、知らず知らずのうちに少年を傷つけていたと思うと耐えられなかった。

 

 

「和友から与えられてばかりの私達は、何も返してやれなかった。それどころか、毒を盛ったのが私だったなんて……」

 

 

 藍は、少年から山ほどのものをもらっている。かけがえのないものをもらっている。マヨヒガでの生活の幸福感も、人里での買い物の楽しさも、能力の練習の痛快さも、みんなで食べる食事の幸せも、少年が藍にもたらしたものである。

 藍は、楽しい生活が、暖かい生活が手放せなくなってしまっていた。

 

 

「もう、戻れないのか……あの頃に」

 

 

 藍は、今少年を失ったら同じ生活ができるとは到底思えなかった。同じ生活ができないどころか、少年と会う前の昔のような淡白な生活に戻れるかと言われれば、それもまた考えられなかった。

 少年の作った生活は、あまりにも日常に溶け込みすぎている。藍にはもはや、少年の死を受け入れ前に進むという選択肢も、少年の事を忘れて昔の生活に戻るという選択肢も取れなくなってしまっている。

 

 

「僕は、二人からたくさんのものを貰ったよ。十分埋め合わせてくれるだけのものをくれた。現に、二人と送った生活はものすごく楽しかった。本当の家族みたいで楽しかったよ」

 

「っ……」

 

 

 藍の精神状況は、少年の病気の終わり際が最も悪かった。

 藍の心は、それこそ廃人寸前になるところまで追い詰められていた。

 それでも、心が砕けることがなかったのは、少年が最後の最後で、砕け散る寸前のところで藍の心を守っていたからだった。

 

 

「でも、まだ終わっていないんだよね。僕は、まだ生きている。明日、僕には何ができるんだろう。明日は、何をしようかな」

 

「…………」

 

 

 藍は、明日という言葉を口にする少年に思わず涙をこぼした。もうすぐ死んでしまうというのに、もうすぐ終わってしまうのに、まだ明日のことを見ている。

 終わりを迎えるこの瞬間に―――明日のことを考えている。

 

 

「本当なら、貰ったものを全部返しておきたかったんだけどね。それは、もうできそうにないや。藍や紫から貰ったものを、恩返し、したかったなぁ……」

 

「そんなこと、ない。私たちは、和友から貰ってばかりだ」

 

 

 藍は、取り返しのつかないことをしてしまったことに対して悔やんでも悔やみきれないでいた。時間は決して戻ることはなく、少年の病状は悪化の一途をたどるだけである。

 もう―――あの温かな時間は戻ってこない。少年が藍を責めるような言葉を一言でも言えば少しは変わっただろうか。少しでも、気持ちが楽になっただろうか。

 いや、どちらにしても同じだっただろう。結局のところ藍を救えるのは、少年以外にはいなかったのだから。

 

 

「いいや、返さなきゃいけないのは僕の方だよ。まだ、お金も返せていない。ごめんね、かかった分の費用を返せなくてさ」

 

 

 藍は、弱っていく少年に比例するように気持ちを落としていった。少年に毎日会い、話を重ねるにつれて壊れたように下を向き押し黙るようになった。

 それでもなお、少年の所に通っていたのは、そこに救いがあることを知っていたからかもしれない。少年に追い詰められた藍を慰めたのは他ならぬ少年自身だったから。

 そして、ちょうどそのとき―――橙が少年から藍に渡されたのである。

 

 

「この子を、僕の変わりに育ててほしい。僕が大事にしてきた子だから、藍に育てて欲しいんだ」

 

 

 橙は、藍が壊れないようにと少年が考えた、死に際のプレゼントだった。

 藍は、暗い表情のままだったが静かに頷く。少年は、橙を受け取る藍を見て嬉しそうに微笑んだ。

 藍は、少しでも少年の役に立てればと少年から橙を受け取り、自分の式にした。

 

 そして藍は、ボロボロの心を壊すことなく今を迎えている。半年前の経験が今の藍を作り上げている。

 

 そして―――少年に対して依存を深めた今の藍ができあがったのである。

 こうして少年の意図しない形で、望まない形で―――少年の背中に乗る荷物が増えたのだ。




少年の通算成績
vs 藍 1勝 5敗
vs 紫 0勝 64敗
負けすぎ……

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。