紫は、重くなった気持ちを切り替えて少年と藍の弾幕ごっこを見つめていた。
視界に映る少年は、紙一重のところで藍の弾幕を躱している。すれすれといえばすれすれで、一歩間違えば被弾してしまいそうな距離を丁寧に避けていた。
「和友は相変わらずギリギリのところを避けていくわね。私がそうしなさいと教えたとはいえ、見ている方が危なっかしくてハラハラするわ」
少年の避け方は、まるでスリルを楽しんでいるように見える避け方だった。もっと安全に大きく躱してもいいだろうと思わずにはいられない気持ちにかられるが、残念なことに少年の弾幕に対する避け方は紫が教えたものである。
紫は、少年の弾幕ごっこの練習に付き合っているため、さまざまな助言を少年に与えてきた。その中の一つが、弾幕をぎりぎりで躱し、無駄な動きを極力省くことである。
まさに―――目の前の少年は紫の指示に従って動いている状況だった。
「戦っている時と観戦している時では、大きく違って見えるものね……」
紫は、心配という文字を顔に浮かべるように表情を変えながら少年に視線を送る。
練習で少年と相対する時とは見え方が全然違う。また違った視点で少年が見えている。普段少年と戦う側で少年を見ていた紫は、観戦する側になって心がざわつくのを感じていた。
どう表現するのがよいだろうか。
そう―――むしょうに手を出したくなるのである。守ってあげたくなるというのだろうか、保護欲が湧いてしまう。助けに出て行きたくなる。
「こうして傍観している私の立場にいるのが藍だったら、すぐにでも飛び出していきそう」
紫は、自分の立場に藍がいたとしたら一瞬にして駆け出していく姿が想像できた。
その想像はきっと間違っていない。藍が少年の避け方を間近で見ていたのならば、助けに出るか、もっと近くへと寄ることだろう。引き寄せられるように、少年のもとへと足を向けるだろう。
守りたいという欲が、助けたいという気持ちが、失いたくないという想いが、行動を加速させる。その気持ちがどこから来ているのかも分からず、心が命ずるままに足を進ませる。
藍は、少年を見ているときの心の揺らぎがどこから来るものなのか知らない。どこから、どんな想いがあって、どんな理由があって、そんなことを思うのか知らない。自覚していないから―――止まれない。
だったら、知っていれば―――止まることができるだろうか?
いいや、どうしたって動くに決まっている。
藍は、あくまで藍だ。
「本当に難儀な子……」
紫は、複雑な表情を浮かべ、はやる気持ちを抑える。少年を守りたいと思う気持ち、少年を助けてあげたいという気持ち―――それがどこから来ているのか。心のどこから湧いてくるのか、どこが源泉なのか。紫は、気持ちが湧きあがる理由を知っている。
だから―――あえて動こうとはしなかった。動き出そうとしてしまう心の傾きを自分の力で制御していた。
「和友は、別に何も悪いことをしているわけではないのに……あの子は、何もしていないのに。ただ、必死に生きようとしているだけなのに。どうして、和友が……」
少年を守ろうという気持ちが出てくるのは、少年が原因ではない。少年がこれまで何かをしたからこうなったという要因を持っているわけではなかった。
紫は、こんな気持ちになるのは少年の責任ではないとはっきり分かっていたけれども、他に責任の置き所が見えないことに苛立ちを感じていた。
少年のそれは、自然災害と同じである。誰かが引き起こしたわけでも、何かが故意に生み出したわけでもない。
ただ、そうなってしまっただけ、時間が進むのと同じように事象としてそこにあるだけなのだ。
台風ができた原因を誰の責任にするのだろうか。地震が起きた原因を誰のせいにするのだろうか。誰のせいでもない。あえていうのなら神という存在を呪うのだろうか、それとも地球に責任を押し付けるのだろうか。きっとそんなことを考える人間は少数派で、仕方がないと納得する人間が大部分になることだろう。
この気持ちは―――そういった次元のものなのだ。納得する、飲み込むほかない。喉につっかえようが、飲み込むことに苦痛を伴おうが、目の前にある限り飲み込まなければならない。飲み込まなければ、前に進めなくなる、そんな類のものだった。
「…………」
「どうしてあんな動きをするのかな……あんなの危ないに決まっているのに」
紫は黙り込むように口を閉ざして遠くを見つめ、橙は紫とは違う意味で少年に視線を集中させていた。
「紫様、和友はどうしてあんなにギリギリで避けているのですか?」
少年の避け方をまじまじと見る機会は、少年と一緒に弾幕ごっこの練習をしていないためほとんどなく、これが初めてだった。
紫は、藍から邪魔が入るのを避けるために藍と橙の弾幕ごっこの練習の時間にかぶせるように少年と弾幕ごっこの練習をしているので、橙は少年の弾幕に対する躱し方を見る機会に恵まれないのである。
橙が少年と一緒に練習したのは、今までに3度だけ。それも、そのどちらもがほぼ同時に落とされていたので、少年の避け方をじっくり見つめることができたのは今回が初めてだった。
「大きく避けた方が被弾の心配も無くて、安心して動けると思うのですけど……あんなに小さく避けていたら、危ないと思います」
「和友はあの避け方しかできないのよ。霊力の総量が少ないから節約するしかないの。大きく動きまわれば、力を消費することになるわ」
「和友の霊力は、そんなに少ないのですか?」
橙は少年の霊力がそこまで少ないと思っていなかったのか、驚いた表情を浮かべた。
紫は、驚愕するような橙の顔を見てがっくりとうなだれる。
「橙、貴方はもう少し、力の波動に敏感になりなさい」
「えっ、でも和友は、毎日のように練習をしていますよ? 霊力を増やす練習をこれまでずっと欠かさずしています」
橙は、毎日のように霊力を増やす練習をしている少年を目撃していた。一生懸命に努力している姿を知っていた。毎日毎日飽きもせず反復練習を行い、練習後には疲れて横になってしまうぐらいに疲労している姿を見かけている。それほどに努力しているのに、霊力が足りないとはどういうことなのだろうか。
橙は、毎日努力を欠かさない少年の霊力が、空中を大きく動けないというほどに少ないと思っていなかった。
「あれだけ練習しているのに、そんなに霊力が少ないのですか?」
「全然足りないわ。和友には‘才能’がないもの」
紫は、少年の霊力は圧倒的に少ないと即答した。そして、あまつさえ才能がないとまで言い切った。
「橙、これだけは覚えておきなさい。努力で補えるレベルも、才能に依存する。才能が無ければ、伸びるものも伸びないわ。空を飛ぶことも、霊力を使うことも、素養がなくてはできないことなのよ」
霊力の総量は、そう簡単に増加するものではない。増加の幅も初期の量も才能に依存する。どれだけ努力しても霊力が増えない者もいるし、少しの努力で大きく増加する者もいる。
少年は、どちらかというと前者の人間である。全く増えないということはないのだが、そこまで大きくなるような兆しはみられていない。
爆発的に上がる可能性があるとすれば、それは能力が発動した時ぐらいだろうか。境界を曖昧にする能力が限界を突破させるような役割を成せば、あるいは才能の壁を曖昧にすることができれば、というところだろう。
「和友の才能は、それこそ博麗の巫女になった霊夢に比べれば、あってないようなもの……」
少年の霊力は、微々たるものでしかない。博麗の巫女と比べるなんておこがましいと怒られるレベルである。
少年の霊力の総量は、現時点で人里の人間の平均より少ない。人里の人間が退魔の一族の末裔だということを考慮したとしても、妖怪とやりあえるレベルとは到底言えない量である。
「けれども、弾幕ごっこは霊力の量で試合が決まる遊びではないわ。少ないなら少ないなりのやり方がある」
そんなちっぽけな霊力の量でも、やりようによっては上手く立ち回ることができる。それが現在の少年のスタイルである。
「スペルカードの弾幕だって、毎日霊力を溜めこんで使っているのよ。毎日毎日、ちょっとずつ霊力を込めているの」
「そうだったんですか……和友の霊力はそんなに」
橙は、努力をしても恵まれない状況の少年を憂い、細く息を吐いた。
スペルカードルールは、まさしく霊力の少ない少年にとって僥倖の決闘ルールである。スペルカードは、あらかじめ霊力を込めておくことができる。時間をかければ霊力をどんどんつぎ込む事の出来るお札は、少年にとって非常に相性が良かった。時間をかけさえすれば、周りの人間と同じだけの霊力で戦うことができるのだから。
「それでも……」
「ええ、本当によく頑張っていると思うわ。気持ち悪いぐらいに素直で、愚直で、一生懸命な子。だから、手を貸してあげたくなる。そう、思いたいわね」
少年は、藍の攻撃をギリギリのところを躱して弾幕を展開している。藍も少年の攻撃に応えるように、流れるように攻撃を避けている。
藍は、笑顔を浮かべながら少年と闘っていた。
「和友は、地面を走るのは上手いのだから後ちょっとだ!」
「何が後ちょっとなんだよ!」
「飛ぶことは、地上を滑走するのと大した違いはない。そこまで動けているのなら飛ぶことなんて簡単にできるはずだ!!」
「言ってくれるね!」
少年は、余裕のない顔で必死に躱しながら大声で藍へと叫ぶ。
少年は、藍の弾を避けるとき―――地上を素早く移動するときは、両足に霊力をまとって移動している。霊力によって強化された足で地面を蹴ることで回避行動をとっていた。
右足で地面を蹴るときには右足に霊力を込め、左足で地面を蹴るときには左足に霊力を込めている。交互に霊力を込め、効率的に動かしている。
「藍がああ言っても、和友は今後も決して飛ぼうとはしないでしょうね」
「どうしてですか?」
「橙は分かっていると思うけど、霊力―――それ自体はただのエネルギーの塊でしかない。霊力は、役割を与えることで意味を成すのよ」
「…………初めて知りました」
「…………」
紫は、橙の言葉を聞かなかったことにした。
空を飛ぶことは、霊力の運用を正確に行い、常に方向性を持たせることによって成り立っている。霊力、それ自体はただのエネルギーの塊でしかなく、何かを行うことができるわけでも、何かが起こるわけでもない。
霊力というのは、いうなれば発電機から出てきた電力のようなものである。
電力は、何か負荷となる物―――家電製品などに送られることによってはじめて光や音、熱となって形を成す。電気は、役割を与えられることによって初めて意味を成すのである。霊力は、電力とほぼ同じような運用の仕方をする。
飛ぶということを霊力のエネルギーによって成しえようとするならば、霊力というエネルギーの塊に対して飛ぶという概念を与える必要がある。
概念を与える行為は、少年が地上を滑走しているなかで、時折加速する際にも行われている。少年の霊力は、身体能力の強化という概念を与えられて、意味を成しているのだ。
だからこそ―――そこまでできているのだからこそ、藍は少年が空を飛ぶことも別に難しくないと考えていた。
だが、それこそが大きな間違いだった。
「霊力に対して空を飛ぶという役割を与えることと、身体能力を上げる役割を持たせることは、やっていることは一緒でも、中身が全く違う。飛ぶということは、常に役割を変える必要があるもの」
空を飛ぶという行為は、常に意味を与え続ける必要がある。出力を変え、空を飛び回り、運動を行う。右方向、左方向、前方方向、後方方向、上方向、下方向、さらには出力の大きさ(加速力)の組み合わせのある中で役割を持たせなければならない。
空を飛ぶには、霊力を上手く運用する必要があるのである。
「一方方向に飛ぶのがやっとの和友は、絶対に空を飛ばないわ」
下手に使ってしまえば―――当然ながらロスが生じる。役割が役割として消費されず、無駄にエネルギーを消費し、思ってもみない結果を生み出す。そんなことになれば、霊力はあっという間に枯渇してしまう。
霊力の総量が膨大にあるのならば、ロスを考える必要はないかもしれないが、少年の霊力の総量は非常に少ない。そのため、少年にとって弾幕ごっこの際に空を飛ぶという行為は、そのまま自殺行為と等価になるのだ。そんなことを少年がするはずがなかった。
空を飛ぶことに比べれば、地上を滑走することは霊力の使用量が格段に減る。常備霊力を放出する必要がなく、役割を切り替える必要もない。その省エネ性能こそが霊力の少ない少年が上手く戦えている要因だった。
「はぁ……それにしても……」
紫は、ため息をつくと不安の混じった言葉を吐きだした。
「弾幕に接触すれば酷い怪我を負いかねないのに……無謀というか、なんというか。和友の霊力を考えれば、仕方ないといえば、仕方がないことなのだけど……」
生身の体に力の塊である弾幕がぶつかればただでは済まない。
少年は、あくまでも人間だ。身体強化も危うい初心者である。おそらく少年の体にぶつかりでもすれば、骨が折れるのは間違いない。最悪の場合、当たり所が悪ければ死んでしまうことだってあるだろう。
そんな命が飛んでしまうような状況で―――軽々しくぎりぎりで躱している。
「それを簡単そうにやってのける和友は、どこか壊れているわ」
紫は、よく知っている、少年が今の躱し方になった経緯をよく理解している。
しかし、必要になったからといってそれを簡単に実行できる少年も大概である。死んでしまうかもしれないほどの危険があるとしてもギリギリで避けるという回避行動をとるあたり、余程の自信があるのか、当たってもいいという気持ちでいるのか、どんな気持ちを抱えながらあそこで戦っているのだろうか。
紫には―――少年の思考回路が分からなかった。
「和友は、弾幕ごっこをできるだけの霊力を持っていない。霊力を攻撃するために回すのであれば、防御に霊力を回している余裕はないわ。それぐらいに和友の霊力は少ない」
少年は、基本的に生身の力だけで藍の弾幕を回避し、回避できなさそうな場合においてだけ霊力を溜めこんで避けている。そして、回避行動中に通常弾幕を張り、飛行する藍に向かって攻撃を放っていた。
「現に避けるのだって、ほとんど自力で行っている。足を蹴るときだけ霊力を込めているの。まさに最適化された動きだわ。まぁ、私がそうしなさいと教えたのだけどね」
「私も、あんなふうに動けたらなぁ……」
「橙はこれから妖力がどんどん増えていくでしょうし、真似するのはどうかと思うわよ? 少なくとも私はお勧めしないわ」
橙は効率化された少年の動きを見て羨ましそうに呟いたが、紫はそれを窘めた。
「橙には橙のやり方がある。和友には和友のやり方がある。弱いものが強いものに成れないのと違って、強いものが弱いものに成ることはできてしまう。下手に手を出せば、本当に弱くなってしまうわよ?」
少年の動きは、紫が仕込んだものである。少年の弾幕ごっこの仕方というのか、スペルカードにおける戦法は―――あくまで少年に合わせたものだ。
だからこそ、橙が少年と同じ避け方をするのが良いのかと言われると首をかしげざるをおえなかった。
「大きく動いている方が安定する。動きやすい位置にいた方が避けるのは比較的楽でしょうしね」
「そうなのかなぁ」
橙は、疑問符を浮かべながら二人の戦いを見つめる。力をある程度持っているのであれば、危険を冒してまで少年の避け方を真似する必要は全くない。
むしろ、逆に危険に陥る可能性が上昇する。
省エネ運転は、身を危険にさらすことで成り立っている。少年の避け方は、力があるのならばもったいないと評価を下してしまうだろう。F1カーで公道を走るぐらいもったいない。自分の力に自分で制限速度を設けているようなものである。
「だったら、どうして私だけ……」
橙は、今の弾幕に衝突して落ちて眺めているだけの自分と、今も戦いを続けている少年との間にどんな違いがあるのか―――分かっていなかった。
そして、紫と橙の会話の中で取り上げられていた唯一の戦法をとっている肝心の少年はというと―――苦戦を強いられていた。
「はぁ、はぁ……やっぱり当たらないか。頑張って何とかなるってレベルじゃないな」
少年は、藍に向かって何度も霊力弾を飛ばしている。
しかし、藍は少年から飛んでくる弾幕をものともせず、空中で縦横無尽に優雅に躱していた。
「これじゃ、どうにもならない。紫の言っていた通りだ」
少年は、藍の余裕の様子に紫から言われた言葉を思い出した。病気で苦しんでいた時にかけられた言葉が脳内によみがえってきた。
紫に言われたのは約半年前のこと。半年前に少年が死にそうになった時、あれも少年が頑張ればどうにかなるような問題ではなかった。
「無理をして何とかなるのは、なんとかなる程度のものだけよ。世の中、なんとかならないことは山ほどあるわ。貴方は、もうちょっと無理というものを判断できるようになりなさい」
「返す言葉も無かったな……」
紫の言うとおりだった。無理をすればなんとかなる問題は、所詮その程度の問題なのだ。そんなものは、もともとなんとかできる程度の問題なのである。
そして少年が今対峙している問題も―――無理をすればなんとかなるような問題ではなかった。藍と少年の間にある力量差は、無理をすれば埋まるというものではない。圧倒的な、絶対的な断崖絶壁が存在している。
少年は、今の状況と半年前の状況を重ねていた。
「一定の速度で走って来る相手に対して、ずっと走り続ける。コースアウトは許されない。疲労して、足を止めれば、その瞬間に捕まる。ただの我慢レース……」
半年前の出来事がなんとかならなかったのは、正直な話をしてしまえば、少年がその問題に対してどうにかしようとあまり真剣に思っていなかったからかもしれない。
けれども、それはどうにもならないと分かっていたから動かなかっただけである。そう―――どうにもならないと分かっていたから。何とかならない問題だと判断したからだった。
「ただただ、耐えるだけの耐久レース……」
今の藍と戦っている状態も半年前の死にかけた状態と同じようなもので、ここで少年が単純に頑張ったからといって、藍に対して霊力弾が当たるというわけではない。
そんな都合の良いことは―――決して起こらない。弾幕ごっこという遊びに都合などつきはしない。
けれども少年は、無理とわかっていることに対して諦めるということをするのが非常に嫌いな人間だった。
唯一諦めたのは、今も昔も一度だけ。死にそうになった半年前だけだった。
「でも、誰から何と言われようが、一生懸命やったから諦めるなんてことができるほど、できた人間じゃないんだよね」
一生懸命やったからといって負けたら悔しいものは悔しい。辛いものは、辛い。少年の中には、勝ちたいという確固たる気持ちがあった。
負けず嫌いというものが―――能力に対しても努力を続ける力の源になっている。
勝負に勝ちたいという想いが―――少年を支えている。
少年の負けず嫌いには、限度という‘境界線’が無かった。
「さぁ、笑おうじゃないか。僕が勝ちたいと望んでいる戦いなんだから。何のために戦うのか―――当然、勝つためだ!」
橙は、少年が笑顔で戦っているのを見て思わず心が躍るのを感じた。
少年は、圧倒的劣勢の中で楽しそうにしている。それを見ているだけで、橙の心に少年ともう一度一緒に戦いたいという気持ちが湧き上がってきた。
「あ、あの、紫様っ」
「何かしら?」
「明らかに劣勢なのに和友の表情が楽しそうに見えます。私の気のせいでしょうか?」
「気のせいじゃないわ。あの子は、劣勢の状況を楽しんでいる。勝ちたいという気持ちに飲みこまれているのよ」
湧きあがる楽しさに表情を崩している。勝ちたいという欲が少年の中を支配している。
少年は、少しだけ歪んだ表情で藍にぶつかっていた。
「うふふ」
「紫様?」
紫は、僅かに口角を上げて薄く笑った。
橙は、紫の雰囲気が変化した理由が分からなかった。
「まだ甘いか」
「度々ひやっとする場面が出てきたな、和友の攻撃の精度が上がってきているのか?」
少年と対峙している藍は、少年と同様に表情を崩していた。相変わらず少年からの攻撃をかわし続けており、余裕も見られる。余裕は変わらないが、表情には余裕ではなく喜びが映りこんでいた。
少年の攻撃は、徐々に精度を上げている。徐々に藍を捉えようとしており、藍の体すれすれを飛来する弾の数は確実に増えていた。
「目で捉えてから撃ったんじゃ当たらない。先を予測するんだ。藍の軌道を予測して撃つんだ」
少年は、息を整えるようにして一度大きく息を吐き、藍の動きを目で追う。少年の目が勢いよく藍の姿を追いかける。藍は、目でやっと追い切れるといったほどに速いスピードで空中を飛びまわっている。
少年は、決して逃さないといわんばかりに、藍から目を離さない。藍からの攻撃をかわしながらも、攻撃の手を止めない。ほぼ全ての霊力を避けるためではなく、攻撃に回していた。
「これだけ攻撃に回すと、霊力の減りが笑っちゃうぐらいに早いね。上手く霊力を取り出せなくなっているのが手に取るように分かる。そろそろ限界かな……」
無理矢理な攻撃は、少年に疲労をもたらす。
少年は、動かなくなってきている体に開き直るような顔になった。
もう、さすがにきついか。ここから勝つ可能性は、勝てる兆しは。少年の頭が精いっぱいの考えを巡らせる。
少年は、思考を巡らしている最中に目撃した藍の動作に目を見開いた。
「ま、まさか。は、ははっ!」
藍は、懐に手を入れて何かを出そうとしている。
弾幕ごっこにおいて何かを出そうとする動作をする必要など―――一つしかない。
スペルカードを取り出すためである。
「勝負をつけに来たんだね。さぁ来い! 最後の勝負といこうじゃないか!!」
「その意気やよし! これで決めさせてもらうぞ、和友!!」
少年は、勝負を決めに来ている藍に向けて精いっぱいの笑顔を向ける。意を決して、最終ステージに上がる準備をする。
藍は、少年の予測通り懐からスペルカードを取り出した。
負けてたまるか。
出し切っていないものが少年にもある。
まだ、出せる力がある。
少年は、藍がスペルカードを取り出すのを確認すると藍の動きに追い付くようにしてスペルカードを取り出す。そして、威風堂々とスペルカードをかざした。
「最後いくぞっ! スペルカード宣言
「こっちもだっ!! スペルカード宣言 境符「
―――スペルカードが連鎖反応するように宣言される。
これで藍は3枚目のスペルカードを使用したことになる。紫が制定したルールでは、これで最後のスペルカードの宣言である。
藍の宣言した
対して少年のスペル境符「
「弾幕張るのも随分と上手くなったなぁっ、和友!!」
「そんなことを言う余裕があるってことは、まだまだってことなんだよっ!!」
藍も少年もお互いに意識が上がっているためか声をあげて吠える。少年が非常に負けず嫌いな性格であることは、もう誰にでも分かっていることだが、和友と張り合っている藍の気持も同様に上がり続けていた。
しかし、戦況は両者共に同じような様子を見せることはなかった。
藍は、少年のスペルカードを苦も無く躱していく。
対照的に少年は、苦しそうに必死の形相で藍のスペルカードを避けていた。
「二人とも気持ちがあがっているからなのか分からないけど、いつもより動けているみたいね。今日はどうやらどちらも被弾せずに終わりそうかしら?」
「す、すごいです……」
紫は、なんとなしにそんなことを呟いた。橙も藍と少年の動きに見惚れるように視線を注いでいる。
気持ちが昂れば弾幕が避けられる理由は特にはない。感情を力にする能力を持っているわけではないので、あくまでアドレナリンが大量に出ているために集中力が上がっているのだろうと考えられた。
「はぁっ、はぁっ……まだ終わってない。まだ終わっていない、まだ終わらない」
「和友! 本当に避けるのが上手くなったな!」
「はぁ、げほっごほっ! ギリギリだよ。息だって上がって、まともに呼吸できていない。こんなの、二度目は無いさ」
少年は、息を切らしながらブツブツと呟き、藍のスペルカードの弾幕を躱していく。
少年の集中力は、最高潮に高まっていた。目がぎらぎらと光っている。楽しそうに、苦しそうに、活きている。
「二度目はないだって? その言葉は嘘になるだろう。和友は、見事に私のスペルカードを乗り切って見せたのだからな」
少年は咳き込み、ふらふらになりながらも藍のスペルカードを乗り切った。
藍の発動したスペルカードは、時間経過によって終了を迎え、通常弾幕に切り替わる。少年のスペルカードもいつの間にかその効果を失っていた。
「さぁ来い、和友! まさかこれで終わりなんて思っているわけじゃないだろ! 私を落としてみせろ!」
「もちろん分かっているさ! これで終わったなんてこれっぽっちも思っちゃいないよ!」
本来ならば―――スペルカードを3枚攻略された時点で勝負は決している。
しかし、二人の勝負はまだ終わらない。なにせ、少年のスペルカードも通常弾幕も藍には一切当たっていないのだから。
ただ、藍の方がスペルカードを先に使いきっただけのこと。それでは少年の勝ちとは到底言えない。これは―――弾幕ごっこといえども練習なのである。
「最後に僕のとっておきを出してあげるよっ!」
少年は、最後の力を振り絞るように大声で高らかに宣言する。
最後に残った切り札、3枚目のスペルカードを切った。
「スペルカード宣言
「なんだって!?」
「なんですって!?」
「えっどうしたの? 何が起こったの!?」
少年は、最後となる3枚目のスペルカードを宣言した。
藍と紫は、ほぼ同時に驚きの声を上げる。
藍は、少年の発動したスペルカードに聞き覚えがあった。同様に紫も、見知ったスペルカードの発動に思わず腰を上げた。
「僕を捕まえてごらん。藍に僕が見つけられたらの話だけどね」
少年は、楽しそうな笑顔を浮かべたままスペルカードを宣言し、空中に体を浮かべるとレーザーを十字に切る。そして―――球形の弾幕を飛ばすと姿を消した。
八雲紫の神隠しは、名前の通り紫のスペルカードの名前である。きっと紫のものを模倣したのだろう。少年のスペルカードは紫のスペルカードに酷く酷似していた。名前も性質もよく似通っていた。
紫は、少年の予想外のサプライズに嬉しそうにする。
「あの子は、いい意味で期待を裏切ってくれるわね。いつの間に使えるようになったのかしら?」
少年は、現れては消え、現れては消えを繰り返し、弾幕とレーザーを残す。藍を追尾するように現れては消え、現れては消えを繰り返している。
少年は、この時ばかりは今までの省エネ運転をしておらず、持ち合わせている霊力の全てを振りきり飛んでいた。
とっくに限界を超えているだろうに、どこからそんな力が出ているのだろうか。スペルカードに込められるのはあくまで弾幕のみ。飛ぶための霊力は自分で賄う必要がある。能力でも使っているのだろうか。
「ふふっ、和友は本当に教えがいのあるというか、可愛げのある子ね」
紫にとってそんなことはどうでもよかった。紫にとっては―――少年が自分の真似をしていること、真似できるだけ成長していることが嬉しくてたまらなかった。
紫は、少年の成長に心を躍らせる。少年が自分のスペルを真似できるだけの技量をもったこと、さらに少年と最初に相対した時に使っていた、境界操作による姿を消すということを少年がやってのけたことに対して称賛の声を上げた。
「それに、境界を曖昧にして自身の姿を見えなくするところまでやってのけるなんて、いつの間に練習したのかしら? うふふっ、しっかりと能力の練習をやっていたようね!」
「紫様のスペルの真似のようだが、紫様の弾幕の密度に比べればこの程度避けるのは造作もない!!」
藍は、驚きに打ち震える心を制御し、少年のスペルカードが紫の劣化版であると確信して弾幕を躱し始める。実際、少年のスペルカードの弾幕は、紫のスペルカードよりも薄いのは確かだった。
「これは何かが……違うのかしら?」
紫は、少年のスペルカードに違和感を覚えた。少年がとっておきと言ったスペルがこの程度のはずがないと思わずにはいられなかった。心に沸き立つざわつきが、何かがあることを物語っている。
紫は―――きっと何かあると思い、少年の作り出した弾幕を、目を凝らして見つめる。
「えっ!?」
紫は、自分の使っているスペルカードだけあって違和感の原因に真っ先に気がついた。
一定時間が経過すると、少年のスペルカードの雰囲気が変わり始めたのである。
具体的には、放たれている弾幕に変化があった。レーザーは震えるように左右に振れて、放たれる弾幕も同様にぶれながら飛んでいる。
紫は、初めて見るスペルカードの変化を見てできるだけ気をつけるようにと藍に向けて言葉を放った。
「藍、気をつけなさい! これは私のスペルとは違うわっ! 油断していると落とされるわよ!!」
「紫様、分かっています」
少年が何かをしでかした場合、心配するべきは少年ではなく、相手側である。
少年は、予想外の結果を導き出すことが多い。結果として現実に反映されるのは、自身に対してではなく相手であることがほとんどだ。
少年は他人を振り回す。まるで台風のように影響を及ぼす。当の本人は知らんぷりで、周りを巻き込んでいく。
少年には、紫と藍が作った決まり事があるのだからよっぽどのことが無い限り命が危険にさらされることが無いため、余計に藍の心配をするべきだった。
「レーザーの境界線が揺らいでいる。それに霊力弾の境界も揺らぎ始めている……だが、大きく避ければ問題はないはずだ」
藍は、大きく避けることで少年のスペルカードに対処する。
先程も言ったように、少年の弾幕は紫の弾幕に比べれば遥かに密度が薄い。弾幕がぶれて、範囲が広くなったとしても避ける分にはそれほど辛くはなかった。
「和友の飛行速度は、私よりも圧倒的に遅い。見てからでも十分に引き離せる!」
それに少年の姿がいくら見えないからといって、少年が藍の速度について来られるわけではないのだ。
藍は、少年との速度の差を生かして上手く弾幕を躱していった。
「これは、引き分けだな」
藍は―――間違いなくそう思った。結果を決めつけにかかった。
少年は、結果を決めつけるような藍の台詞に苛立つ。戦っている相手に対して、侮辱とも取れる言葉が普段温和な少年の心をざわつかせた。
「結果を決めつけんな。結果は、出るまで分からないんだよ」
少年は―――昔からそうだった。諦めろという言葉が嫌いで、結果を決めつけるような言葉が嫌いだった。
少年の境遇を考えれば―――仕方のないことと言えるだろう。無理を押し通して今まで生きてきた少年にとって、無理だと結果を決めつけられるのは―――生きることを諦めろと言われているに等しいのだから。
「僕がここにいるのに、勝手に勝負の結果を決めつけるな」
消えている少年の声は、誰にも聞こえない。声までもが行方を失っている。
けれども―――少年の心は確かにここにあった。少年の心は、激しく燃え上がっている。藍の勝手な物言いに猛っている。
少年の攻撃は―――ここで終わらない。
「そして、少年は連れ去られた……」
「「和友?」」
少年の言葉がどこからか聞こえてきた。音のした方向は分からない。ただ、思いの込められた言葉が頭の中に流れ込んだ。まるで頭の中で喋られたような感覚だった。
空間には、少年の弾幕が消えて何一つ存在しなくなる。もともとあったものは、最初から無かったかのように何一つ無くなっていた。
「終わった……のか?」
「……どういうことなのかしら?」
「消えた……?」
藍と紫と橙の3人は、3者同様に疑問を口にする。
少年の姿は、どこにも見当たらなかった。