ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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橙という存在、思い出される過去

 空中には、お互いのスペルカードから放たれた弾幕がひしめき合っている。

 藍は、橙と少年の二人の弾幕を幽雅に躱していた。

 

 橙のスペルカード仙符「鳳凰卵(ほうおうらん)」」は、球形に広がり円を描くと、そこから回転して広がるような弾幕である。

 少年が発動したスペルカード朧気「事実と記憶の不整合(じじつときおくのふせいごう)」」は、弾幕が途中で切り替わるものである。

 一直線に壁のような弾幕がしかれて、ある位置を超えるとランダム移動を起こす。弾幕が別物になるという感じだろうか。ある境界線を通るとランダムに弾幕がずれる。速度、位置、向きが変化するというものである。

 ただ、変化をもたらす効果は自分のスペルカードにしか付加されていないため、橙の球がずれたり藍の球がずれたりすることはなかった。

 

 藍は、少年と橙の使うスペルカードを熟知している。中でも橙のスペルカードの性質は細部まで知られていた。それは、橙が藍と一緒に弾幕ごっこの練習をしているためである。

 はっきりいって、橙のスペルカードを一緒に考えたのも藍であり、その練習に付き合っていたのも藍である。藍が橙のスペルカードの性質を知っているのは当たり前だった。

 藍は、二人のスペルカードの宣言にも特に表情を変えることなく、橙の弾幕を華麗に躱す。それは―――少年のスペルカードについても同様で、藍の動きには余裕が見受けられた。

 

 

「この状況でも、藍からすればまだまだ余裕があるでしょうね。藍は、二人のスペルカードを何度も見ているわけだし」

 

「ほら、もっとだ。もっと攻めたてて見せろ!」

 

 

 藍は、華麗に二人の張り巡らせられた弾幕を綺麗に躱し続ける。

 そして―――少年と橙も同様に藍のスペルカードを躱し続けていた。何も、藍だけが二人のスペルカードを知っているというわけではない。少年と橙も藍のスペルカードについてある程度の知識を保持していた。

 もしも、二人とも藍の弾幕について初見だった場合、二人に避けるだけの技量は存在しない。事実、最初に弾幕ごっこをした時は、二人とも一枚目のスペルカードで沈んだ。1枚目で試合は勝負を決したのである。

 藍の宣言したスペル式神「仙狐思念(せんこしねん)」 は、大玉を繰り出し、破裂させ、細かい弾幕となって飛び散るというものである。さながら花火のように咲き誇り、綺麗に後を引いている。

 3つのスペルカードが展開された空間は、まさしく弾幕に満たされているといっていい状態だった。外側から見れば、何がどうなっているのか分からないほどである。

 しかし、紫には中の様子がはっきりと見えているようで、静かに状況を分析していた。

 

 

「藍は、橙の弾幕ごっこの練習を担当しているから橙のスペルカードを知っているのは当然として……和友が練習しているときも随分と熱い視線を送っていたから、知らないわけがないのよねぇ」

 

 

 藍は、あくまで橙の弾幕ごっこの担当であり、少年の弾幕ごっこの練習に付き合っているわけではない。あくまでも少年の弾幕ごっこの練習は、紫の領分である。

 しかし、藍は紫と少年が弾幕ごっこの練習をしている時に見ていなかったわけではなかった。心配性の藍は、少年が怪我をしないか心配で常に弾幕ごっこの最中ずっとじろじろと視線を送っていたのである。

 紫は、知られていないと思っている藍をよそに、見られていたことを知っている。

 

 

「やっぱりスペルカードの特徴を知っているというのは大きいわね。藍の表情からは、かなりの余裕が見て取れる」

 

 

 二人の弾幕の特徴を把握している藍は、二人の弾幕を軽々と避け続けている。紫から見ても、藍の顔には多少の余裕が見受けられた。

 紫は、視線を流れるように藍から少年と橙へと向けた。紫の視線の先には、藍とは対照的な表情を浮かべている二人がいた。

 

 

「かたや、橙と和友の二人は大分辛そうね。精いっぱい避けているのが表情から丸わかりだわ」

 

 

 少年と橙の二人は、いまだに一発も被弾していないとはいえ、藍の弾幕をぎりぎりのところで避け続けている状態である。

 そこには余裕も猶予も感じられない。ただただ、精いっぱいなだけ。確かに結果だけを見れば、弾幕の嵐の中をそれぞれが自分の意志を持って正確に避け続けているが―――あんなものは決して長続きしない。

 それでも藍は、精一杯ながらも正確に避けている二人の様子に嬉しそうに表情を緩めた。

 

 

「二人ともやるな、前回より進歩しているぞ!」

 

 

 橙と少年の動きは、藍が以前戦ったときよりも無駄がなくなっている。無駄がなくなっているように見えるのは、弾幕ごっこの経験を積んできた分だけ、二人の目が藍の弾幕の速さに慣れてきているためだろう。

 弾幕ごっこは、経験によるアドバンテージが非常に大きい遊びである。初見であるかないかでは天と地ほどの差ができる。それは、弾幕の性質にも似たようなことが言えた。瞬時に状況を判断できるだけの経験が大きな差を生み出し、動きに影響を与えるのである。

 橙と少年は、藍からの称賛の言葉に応えるようにして意気揚々と口を開いた。

 

 

「前回より避けるのが下手になっていたら落ち込むよ。前までと同じだったら何の練習していたのか全く分からないからね」

 

「藍様、私達だって上手くなっているんですよ! まだまだ負けたりなんてしませんから!!」

 

「そこまで言うなら期待させてもらおうじゃないかっ!!」

 

 

 藍は、二人の応戦するような言葉に気持ちを高揚させる。

 

 

「続けていくぞ! スペルカード宣言、式神「十二神将の宴(じゅうにしんしょうのうたげ)」」

 

「ここからね……ここが二人の鬼門。前回落とされたスペルカード」

 

 

 紫は、藍の宣言したスペルカードに目を細め、以前と同じように二人が被弾するのではないかと不安げに呟いた。

 紫の脳裏に前回行われた藍との弾幕ごっこの一幕が浮かび上がる。少年と橙は、以前に式神「十二神将の宴(じゅうにしんしょうのうたげ)」によって地上に落とされている。今回もここが鬼門になることは間違いがなかった。

 事実―――2対1での試合は、藍の二枚目のスペルカードによってすぐに終わりを迎えることになる。

 

 

「十二神将の宴は、複数の角度から切り込む多角弾幕。多角方向からの攻撃にまだ慣れていない二人には、かなり辛いものがあるわ」

 

 

 藍のスペルは、十二神将というだけあり十二個の魔方陣からそれぞれ弾幕を作り出す。弾幕は、中心に寄せるように広がっていた。

 

 

「弾幕の位置が一瞬で把握できなければ、必ず袋小路に追い詰められることになる」

 

 

 まだまだ経験の浅い二人は、一生懸命に藍の二枚目のスペルカードから発生する弾幕を避けている、なんとかくらいつくように弾幕を避け続けていた。

 しかし、二人の表情は明らかに限界を示唆している。二人の体力が別段低いわけではない、ただ二人が慣れていないだけ。圧倒的に経験が足りないのである。

 

 

「やっぱり藍と闘うにはまだ苦しいかしら? 藍の攻撃に捕まるのも時間の問題ね」

 

 

 橙と少年の目の前には、空間を埋め尽くすほどの弾幕が張られている。

 藍の弾幕は、初心者から見れば、避けることができるなんて欠片も思えないほどの密度がある。下手をすれば、光っていて見えないという人間もいるのではないかと思ってしまうほどの攻撃だ。

 

 

「練習時間が足りなかった? 実戦での練習の密度が薄かったのかしら?」

 

 

 このスペルカードルールというのは、割と最近にできた決闘ルールである。もちろん、最近できたルールに対して慣れるほどの時間があったとは到底言えない。

 それを言えば、少年や橙に限らず、藍も慣れていないと言えばそうなるのだが、どうしても種族の差、基礎能力の差があり、なにより戦闘経験に大きな差があった。戦ったことがほとんどない橙や少年にとっては、弾幕ごっこという遊びは、未知の世界に足を踏み入れているようなものだろう。

 

 

「藍の弾幕の濃さに手も足も出ていない……もう少し練習時間を増やす必要があるようね」

 

 

 橙や少年の弾幕もそれなりには密度があるのだが、躱すことが難しいと思える程度―――無理と思えるほどではない。最初から分かり切っていたことではあるのだが、藍と二人の間には、目に見えて分かるすさまじい力量差があった。

 

 

「今は何とか頭をフル回転させて、逃げ道を見つけて回避行動をとっているけど……それがどこまでもつかしらね」

 

 

 紫の言葉は―――体現するように場に出現する。

 

 

「はぁ、はぁっ……まだまだ!」

 

「相変わらず藍の弾幕はきっついな……もっと集中しないと一気に持っていかれる。一瞬の気の緩みが、全部を終わらせるきっかけになる」

 

 

 橙は、息を切らして歯を食いしばりながら速度を維持していた。

 体の中にあるエネルギーを振り絞るようにして、捻出していく。残りなんて気にしていられない。今しかないのだ。これからの未来を生きるための計算ができるほど賢くはない。

 今が全て。

 だから全てを今に注ぎ込む。

 そして、終わる。

 万物に永遠がないように。

 努力は―――永遠には続かない、必ず終わりを迎える。

 

 

「橙はそろそろ限界かな……大きく動けるのは羨ましいけど、体力が続かないのはちょっと残念なところだね」

 

 

 橙の動きは、徐々にそのダイナミックな動きを小さくさせていた。しばらく藍の弾幕を避けているうちに体に疲労を蓄積させて空中での動きを鈍くしていた。

 

 

「ふぅー、後どれだけだろう……」

 

 

 少年は、橙に対してそこまで疲れている様子は見せていない。少なくとも動きが鈍っているということはなかった。疲れていない理由は単純明快で、橙に比べて圧倒的に小さく動いているからである。

 運動量の差が、今の2人の異なった状況を作り出している。

 少年は、もともと大きく動けないという自身の能力のなさから大きく動くということをしておらず、藍の弾幕が濃いのもあって微小にしか動いていなかった。動けないからこそ必然的に小さくなっている少年の動きは、最終的に功を奏している形になっていた。

 

 

「はぁ、はぁっ」

 

 

 橙は、そんな少年に対して大きく動いている。種族による運動能力や体力の差を考えても運動量が全然違っていた。

 橙は、もともと地上を走って移動をしている。慣れない空中移動を余儀なくされていることも体力を大きく削る要因となっており、二重の重みが疲れと疲労を持ち寄っている。たった今、橙は凄まじい勢いで増加する疲労感に襲われていた。

 橙が捕まるのは―――もはや時間の問題である。

 

 

 とある一幕―――動きの鈍くなった橙の左横すれすれに藍の弾幕が通過する。

 

 

「きゃっ!」

 

 

 橙は、驚きの声を上げて慌てて足を止めた。絶え間なく動かしていた足を止めた。

 少年は、足を止めた橙に目を見開き、大きく口を開ける。

 

 

「橙っ! 足を止めるなっ!!」

 

「っっ!」

 

 

 橙は、接近する弾に怖じ気づくも少年の声にとっさに反応した。視線を前に向けて、前方からせまりくる藍の弾を避けることだけに集中し、疲れで動かなくなりつつある体を無理やりに動かし、右に避けてみせた。

 

 

「はぁ、はぁ。良かった、避けれた……」

 

「そっちは駄目だ!!」

 

 

 橙は、そっと視界を躱した先の前方へと向ける。

 橙の移動した先には、弾幕の壁が存在していた。

 光の壁が迫りくる光景が広がっている。

 逃げ場は―――どこに。

 

 

「ど、何処に逃げれば……」

 

「はぁ、橙はここで終わりね」

 

 

 紫は、小さく息を吐いた。

 橙は、首を勢い良く動かし逃げ道を探す。

 しかし、視界に映るのは藍から放たれた弾幕の嵐だけだった。他に見える光は存在しない。空からの光は一切見えず、空の青さは見えてこない。

 出口のない迷路に入った。

 あるのは、光という行き止まりだけ。

 希望の光ではなく、絶望の光だけ。

 

 

「い、いや! 落ちたくない!」

 

「今回も2枚目で終わり、か……それでも前よりは随分マシよね。初撃で沈んでいた頃を考えれば随分と良くなったわ」

 

 

 橙には、もう逃げ道が存在しなかった。周り全体が弾幕に囲まれて完全に袋小路に入り込んでしまった。

 橙は、紫の言葉と同時に叫ぶ間もなく藍の弾幕に被弾した。

 声も無く地上へと重力に従って落ちていく。ゆっくりと空中を自由落下する。

 

 

「……落ちたわね。さて、誰が拾うのかしら?」

 

 

 藍は、落ちていく橙を見て少年へと合図を送った。

 

 

「和友、橙のことは頼むぞ! このまま続けるっ!!」

 

「あいよっ! 紫っ、橙のことは頼むよ!!」

 

「はいはい、分かっているわよ」

 

「少しばかり霊力がもったいないけど、そうも言ってられないね」

 

 

 紫は、少年の投げやりな台詞を特に気にする様子もなく、提案を受けた。

 

 

(目的地は、橙が落ちてくる落下地点。進め、進め、滑走して、爆走しろ)

 

 

 少年は、藍からの合図に瞬時に反応し、先程までのゆったりした速度を一気に速め、橙の落下地点へと滑走する。少しばかり霊力を放出して意識を失い落ちていく橙の元へと駆けた。

 弾幕の嵐が視界を遮る。進行方向には、多数の障壁が待ち構えていた。

 

 

(前へ、前へ! 最短距離を結ぶ。避けるんじゃない、掠って進め! 触りながら進むぐらいの気持ちで、前に出るんだ!)

 

 

 少年の体からは霊力が吹き出ており、霊力の密度の濃さに引きずられるように色が少し変わっているのが視覚的に分かる。橙と比べるとそれでもまだ少年の速度の方が遅いが、先程までの弾幕を避けている速度よりもはるかに速い速度が出ていた。

 

 少年は、掠るようにして弾幕を躱しながら前に出る。体を捻り、隙間を縫うようにして前に出る。

 怖がったら、恐れてしまったら―――終わりだ。

 恐怖は体を硬直させる。無理だと、危ないと思った瞬間に動きが鈍り、被弾してしまう。

 進め、前に進め。目的地は視線の先にある。何もかも振り切って、何もかもを抱えて前に進め。

 少年は―――目的地まで駆け抜けた。

 

 

「ここが落下点! さぁ、来い!」

 

 

 少年は、落下地点へと間もなく落下してくる橙に視線を向け、意気込むように声を発する。

 橙は、他の弾幕に当たることなく真っ直ぐに落下していた。少年は、一瞬だけ橙へと視線を向けた後、体全体に霊力を循環させて橙の落下の衝撃に備える。

 

 

「ううう~、頭痛い~」

 

「結構きついな!」

 

 

 橙は、少年の手の中にすっぽりと入りこむ。

 少年は、勢いを殺すように円を描いて橙を抱きかかえ、痛そうに唸っている橙を抱えることに成功すると横方向へと軽く放り投げた。

 

 

「紫、頼むよ」

 

 

 当然ながらこの時の少年の声は、距離の関係上紫まで届いていなかった。

 それでも、少年が橙を放り投げた瞬間、橙の進行方向に真っ黒な空間が出現する。

 紫は、少年の言葉が聞こえていなくても橙が放り投げられた方向に向かってスキマを展開し、橙を自分の膝へと移動させた。

 紫の膝に座る形で移動した橙は、藍の妖力弾が当たった部分をさするようにして痛がる様子を見せる。

 

 

「う~、痛いー」

 

「ほら、見せてみなさい」

 

 

 紫は、橙のさすっている手をどけて痛がっている部分を見つめる。被弾した箇所は赤く腫れていた。

 しかし、見たところ大事に至るようなダメージではない。

 紫は、静かに橙の手を放して口を開いた。

 

 

「とりあえず、大丈夫そうね」

 

 

 紫は、怪我の状況を把握すると続けざまに非難の言葉を投げつける。

 

 

「橙、お疲れ様。あなたはもう少し頑張りなさい。2枚目で終わったら以前と変わらないでしょう?」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「ほら、落ち込んでいる場合ではないわ。しっかりと見なさい。次に繋げるために今できることをしなさい」

 

「はい……」

 

 

 橙は、紫の言葉にしょんぼりとうなだれた。

 紫は、別に謝ってほしくて橙を叱っているわけではなかった。

 橙はまだまだ経験が足りないし、知恵も足りていない。紫は、落ち込むよりも今得られる経験を大事にしてほしかった。

 

 

「さっさと顔を上げなさい」

 

 

 紫は、うなだれる橙のあごに手をまわして軽く持ちあげ、視線を上げるように促す。橙は、紫の意志をくみ取り、視線を弾幕ごっこを続けている少年と藍へと向けた。

 

 

「見ていれば分かることもあるわ。橙と和友で何が違うのか。藍の弾幕は、どんなものか。外から見た景色を目に焼き付けなさい」

 

 

 紫は、橙の視線が持ちあがるのを確認すると、橙から弾幕ごっこをしている二人に視線を向ける。紫の視線の先には、藍の弾幕を先程と同じように避け続ける少年の姿があった。

 少年は、相変わらず空を飛ぶことはせず、地面を滑っている。霊力を温存し、精いっぱいの省エネを心掛けていた。

 

 

「良かったわ。どうやら橙を助けるときに被弾したということは無いようね」

 

「私のせいで当たってなくて良かったです……」

 

「以前、藍と和友が弾幕ごっこをやった時は、橙と同じく2枚目で被弾したのよね……今日は3枚目までいけるかしら?」

 

 

 少年は以前、今の橙と同じように藍の2枚目のスペルカードで落とされている。霊力切れと体力切れもあったが、なにより弾幕を避けることに慣れていなくて落とされた。

 

 

「和友の弾幕ごっこの練習には私が付き合ってあげているのだから、以前と同じところで落とされるなんて許さないわよ」

 

 

 少年の弾幕ごっこの練習は、普段から紫が一緒に行っている。

 紫が少年の弾幕ごっこの練習に付き合っている理由は、藍が少年の能力の練習をやっている分負担が大きくなると思ったから―――ではない。藍の少年に対する依存度を下げるためである。

 藍は、これ以上少年に肩入れすれば、少年と別れることができなくなってしまうと思えるぐらいに少年に依存している。それこそ、和友が死んでしまえば廃人になってしまうのではないかという不安さえよぎるレベルである。

 そうなってしまったのには―――どうしようもない理由があるのだが、今となってはどうしようもなかった。

 

 

「あんなことがなければ……いえ、考えても仕方ないことね」

 

 

 紫の頭の中に、藍が少年の大きく依存してしまった原因となっている半年前のことが鮮明に映し出される。

 今から半年前、少年は死にそうになった。死にそうになっただけならまだよかったのだが。まぁ、死にそうになったことがよいわけではないが、文字通りそれだけならよかったといえる状態だった。

 あの時の状況は、まさしく最悪だった。最悪以外の何物でもなかった。上げて落とされるというのは、こういうことを言うのだと、理解するのにもっとも良い例と成り得るほどだった。

 誰もが良い方向へ進んでいたと思っていたものが真逆だったのである。前に進んでいると思っていたら―――終わりに進んでいた。

 そんなどうしようもない状況で、全部が台無しで、全てが壊れそうになっていた。

 

 

「もしも、どうしようもなくなったらさ……僕のことは諦めてくれればいいから。僕は、どんなことがあっても二人を恨まないからね。今までありがとう、紫、藍。感謝しているよ」

 

「駄目……今それを思い出しても意味がない」

 

 

 少年から告げられた言葉が今でも思い返される。

 紫は、記憶のフラッシュバックに慌てて顔を振った。紫が今考えたことは、今考えても仕方のないことである。

 少年は現時点でちゃんと生きている。それだけで、過去については何も問題ないではないか。

 紫は、問題はこれからのことなのだと考えを改めようとするが、そんな紫の思考を引き戻すように橙の言葉が飛んできた。

 

 

「紫様、どうかなされたのですか?」

 

「……なんでもないわ。少し昔を思い出していただけよ」

 

 

 紫は、橙の言葉で一時停止を余儀なくされ、少しだけ気分が悪くなった。

 橙は、そんな紫の表情の変化にも気づくことなく、不思議そうに首をかしげながら紫に疑問を投げかける。

 

 

「前々から気になっていたのですけど、紫様の言っている昔って私のいなかった頃のことですよね?」

 

「……そうね」

 

「まだ、話してはくださらないのですか? 藍様も話してくれませんし、私にはまだ話せないことなのでしょうか?」

 

「…………」

 

 

 紫は、橙に半年前にあったことを話すべきなのかどうかについて前々から悩みを抱えていた。

 橙は、少年と紫と藍の間にあった出来事を何一つ知らない。橙が知っているのは、今の状態の3人だけである。

 ただ、紫はこれからも話さずに通せるとは思っていなかった。家族として暮らしていくのならば、いずれ必ず露見する話である。

 紫はちょうどいいと考え、過去を語ろうと気持ちを後ろに向けた。

 

 

「いえ、もうそろそろいいかしらね。このまま黙っているのも良くないでしょうし、なによりもいずれ知ることになるもの」

 

 

 最悪の場合、橙が藍の逆鱗に触れることになるかもしれない。それほどにあの時のトラウマというのだろうか、重たい感情は藍の中に強く刻み込まれている。

 そう―――そしてそれは藍だけではなく、紫の胸にも大きく突き刺さっていた。思い出しただけで、気分が悪くなるほどの思い出が詰まっていた。

 

 

「橙はあの時いなかったわ。いたけどいなかった」

 

「いたけどいなかった?」

 

 

 橙は、紫の言い回しに疑問を持つ。いたけどいなかった。それが―――どういう意味なのか分からなかった。

 

 

「あなたは、あの時のあの子を見ていない……和友の姿を見ていないのよ」

 

 

 紫は、思い出すようにしてゆっくりと口を動かす。少年がもっとも苦しんでいた時期、少年が最も努力していた時期、そして紫と藍がもっとも気落ちしていた時期のことを思い返しながら言葉を口にした。

 

 

「あなたは、和友と一緒にいたわ。和友が橙を呼んできたのか、橙が和友を見つけたのかは分からないけれどね」

 

「……?」

 

 

 橙は、身に覚えが無いことに頭が回らず、不思議そうに頭をかしげる。

 橙は、半年前のある時、いつの間にか少年のもとに現れていた。少年の膝の上で眠っていた。少年に聞いても、「いつの間にか膝の上にいたんだ」ということしか口にしなかった。それ以外のことを言葉にしなかった。

 

 

「和友はあなたをとても可愛がっていた。本当に大事にしていたわ」

 

「私の身に覚えのないところで、そんなことがあったのですか……?」

 

 

 紫は、橙のことを大事にしていた少年を知っている。いつもそばに置いて、動かせない身体で餌をくださいと他の人に懇願する程度には、大事にしていたことを知っていた。

 

 

「紫様……私が藍様の式神になったのは、なぜなのでしょうか? 紫様の言い方だと、私の主人は和友だって言っているように聞こえます」

 

 

 橙という存在は、紫の話を聞いているとどうも少年に仕えていたという雰囲気が感じられる。少年のもとで生活をしていたということが伺える。

 ならば、どうして橙は―――藍に仕えているのだろうか。流れでいえば、少年に仕えるのが自然の流れに感じられた。

 

 

「あの時はそうだったでしょうね。主従というよりは、友達のように見えていたけどね」

 

 

 少年と橙の関係は、主従と言うよりは友達という雰囲気で、互いがあるようにそこにあるだけの形を取っていた。縛られることなく、自由な関係。名前をあえて付けることで、関係性をはっきりさせることができるようになる程度の曖昧なもの。

 名前も―――橙ではなかった。

 

 

「橙の存在が藍へと渡ったのは、貴方が和友のところに住みついて1カ月経ったぐらいかしら……和友が貴方を藍へと送ったのよ。覚えていない?」

 

 

 紫は、当時はなぜ少年が藍へと橙を渡したのか分からなかったが―――今ならば分かる。

 橙は、少年から藍へと送られたプレゼントのようなものだったのである。プレゼント、贈り物。他でもなく、藍のための贈り物だった。

 橙は、身に覚えのない情報に頭を混乱させる。

 

 

「私が送られた……ですか? 覚えがありません……」

 

「やっぱり覚えていないのね。あの時は…………」

 

 

 紫は、次の言葉に詰まり、喉から出てこなくなった。暗い思い出が足を引きずるように喉を開かせようとしない。

 紫は、思い出したくないことを先送りするように話題を変えた。

 

 

「……この話は止めにしましょう。今は弾幕ごっこの方に集中するべきだわ」

 

 

 紫は、結局―――橙に半年前の出来事を話すことができず、意識をそむけるように弾幕ごっこの方へと視線を向ける。

 視線の先には藍と少年の生き生きした姿が映っており、半年前の出来事など全く想像できないような表情が浮かび上がっていた。

 

 

「そう、これで良かったのよ……」

 

「紫様?」

 

 

 紫の瞳は、静かに藍と少年を捉えていた。


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