ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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現実を知った、何も変わらなかった

「あなたが昨日言っていた、見たことがある、というのはどういうことなの?」

 

 

 女性は、昨日聞くことができなかった内容を少年に尋ねた。正確には、尋ねてはいるがそれに対して少年が答えなかったことを再び質問した。

 少年は、女性の言葉で昨日のことを思い出す。そして、昨日の出来事を思い出すと同時に頭の中に一つの疑問が浮かび上がってきた。

 昨日質問を受けていた少年は、女性と同様に疑問を女性に投げかけている。

 

 

「あ、そうだ。あの時は聞けなかったんだったな。あんたの言っていた世界を変えかねないとかいうのを聞こうとしていたんだっけ。昨日は色々あったせいで、細かい事は忘れていたよ」

 

「それにはちゃんと答えてあげるから。まずあなたから答えなさい」

 

「あの時は、俺の方が先に……」

 

「そんなもの関係ないわ。ここは私の質問を先に答えて」

 

 

 少年は、昨日の夜のように再び女性に質問しようとする。

 しかし、少年は続きの言葉を口にできなかった。女性が少年の言葉を遮ったのである。

 女性は、少年から先に情報を開示するように求める。少年は、女性の一方的な言葉に、反論に移ろうと口を開きかけたが―――それもまた女性からの言葉によって打ち消されることになった。

 

 

「あなたの答えが、あなたへの答えに関係することかもしれないの。二度手間になるのは面倒だわ」

 

「……まぁ、どっちから話してもいいのか」

 

 

 女性は、先に貴方が話しなさいとだけ少年に伝えても少年が先に言わないことは十も承知だった。

 少年の意志や我は非常に強い。思い込んだら一直線になるような、折れ曲がらない金属のようにまっすぐである。だから女性は、先に少年に答えて欲しい理由を正当性と合理性を持って形作り、告げた。

 少年は、女性の言葉を聞いて少しだけ考える仕草を見せたが、その間はほんの数秒ほどで、一瞬にして回答を口にした。

 結局どちらから話を始めても特に問題がないのだ。気になることがあれば、後から質問すればいいのである。

 それに少年の気にしていることなど、答えてもらっても答えてもらわなくても最終的には何も変わらない。少年の中の最終的な結論は、巡り巡ってどっちでもいい、という結論にたどり着くことが多い。質問の結果得られる解答に関しても例に漏れないことが予測された。

 

 

「じゃあ、まず俺から話すよ。見たことがあるって言ったのは、そのまんまの意味だ。俺は、おそらく10回以上経験があったと思う。数えていないから正確な回数は分からないけどさ」

 

「経験があった? それは、あんな目に何度も合っているという事なのかしら?」

 

「それは厳密には違う」

 

 

 少年は、強盗殺人犯に襲われるような状態になったことが10回以上あるという。それは、日常生活において致命的欠陥である。たびたび命を狙われるようなことがあったら、平穏な日常など過ごせていない。なにより、普通というものにこだわっている少年にとっての普通とはかけ離れているように思えた。

 女性が少年の言葉を聞いてすぐさま聞き返すと、少年は女性の言葉に対して訂正を入れた。

 話し合いの状況において重要なことは、勘違いをしないこと―――お互いの認識を統一することである。

 少年は、相互理解をするうえで最も必要なのは、互いに共通の認識をすることだということを分かっていた。

 共通認識ができていないと、話はどんどん変な方向へと向かっていってしまう。最終的な結論が爆発物のように破裂して飛躍してしまう。お互いを理解しようという話し合いにおいて、認識の違いは最も気を付けなければならないことである。

 少年は、女性との意志疎通を正確に取ろうと丁寧に説明する。

 

 

「あんな目に何度もあっているけど、現実であんな目にあったのは昨日が初めてだ。俺は、夢で何度も見たんだよ。あの光景を何度も見た。何度も繰り返した。何度も死んだ。何度も殺した。何度も逃げた」

 

「何度も? あなたは同じ夢をよく見るの?」

 

 

 女性は、少年の言っている意味をしっかりと理解しようと、一つ一つ尋ねて頭の中を整理していく。少年の話で気になるところを、疑問になっているところを聞いて、少年に対する知識を集めていく。

 

 

「夢の内容って大体同じだよ。定期的に見る。そして、定期的に死ぬ」

 

 

 少年は、女性の質問の意図に対して間違えないように気を付け、正確に答える。感情を出すこともなく、淡々と夢の話を口にした。

 少年の夢を見る頻度は、まちまちであり、決まった法則はなく、一定期間にいくつ見るというような周期性はなかった。

 ただ、無くなることがないという特徴、そして、夢の内容が非常に似通っているという特徴があった。

 

 

「俺の夢の9割強は自分自身の死で終わるんだ。夢の内容の半分は誰かに殺される、四分の一は高所からの転落死。後の残りは、色々ってところかな。そして、夢の中で死んで夢から覚める」

 

 

 少年の夢は、ほとんどの場合で死という結果によって終わりを迎える。終わり方は様々であり、それに至る過程には決まった法則や順路はない。

 だが、死という結論だけは変わらなかった。

 少年は、夢の中で何度も殺されそうになる体験をしている。それこそ、様々な形で何度も死んでいる。夢の中で死に、現実で生きている。

 

 

「夢の中に居る時に、途中で夢だって分かっちゃうんだけどね。夢って分かった時点で起きられないんだからたちが悪いんだ。起きることができるんだったら夢の半分以上は、死なずに済んでいるのに」

 

 

 少年は、夢の中で自分が夢の中にいると自覚できた。

 危機意識が働くような場面が存在した場合、それが全て夢であることが多いのだから、夢と判断するのはそう難しいことではない。具体的に言えば、誰かから刃物を向けられれば、それは99%の確率で夢なのである。

 

 

(なんでこんなこと、こんなあやしい人に話しているんだろう……)

 

 

 少年は、女性に向けて夢の話をしていて不思議な気分に陥っていた。自分のしている行動に、すんなりと出てくる秘密に違和感を禁じ得なかった。

 誰ひとりとして伝えたことのない夢の話を女性に対して告げる、これまで誰にも話したことのない夢の話を女性に伝える。この夢の話をするという行為をそう簡単にできると思っていなかった。

 少年が夢のことを誰にも伝えようとしなかったのは、まさしく夢の内容が普通でないとなんとなしに分かっていたからである。話してしまえば、気持ち悪がられると分かっていたからである。

 

 

(それに、どうしてこんな気持ちになるんだろう……)

 

 

 少年は、言葉を口にするたびに心がどこか軽くなるのを感じていた。溜めこんでいたものの一部が削ぎ落とされているような気持ちになった。

 実際に少年は、女性から求められてもいないのに、一人でどんどんとしゃべってしまっている。心が楽になるのに従い、少年の口は心の内を吐き出すように次々と言葉を吐き出した。

 

 

「それに、意識が目覚める時の状況も様々だけど、転落死の時は一番酷いんだ。地面にぶつかった瞬間に現実の体が跳ねるからさ」

 

 

 こんなふうにさ、そう言った少年は、今横になっているベッドの上で一度跳ねてみせた。空中に浮き上がった少年の体は、ベッドの上で一度だけバウンドして落ちる。

 実際には、人が高所から落ちる場合、少年のやったような感じで跳ねることはない。現実にはトマトがつぶれるようにべちゃっとひしゃげるだけである。少年の様子は、トランポリンの上で跳ねたような感じだった。

 少年が跳ねるまでの状況を何も知らない者が見れば、ベッドでふざけているように見えるだろう。こんなところを病院関係者に見られたならば、怒られることは必須である。

 しかし、今ここにいるのは二人だけ。周りから入ってくる音は、相変わらず一切存在しなかった。

 

 

「お目覚めだけは、ばっちりだよ。再び寝る気にはならないからね……」

 

「分かったわ。もう大丈夫。もう十分よ」

 

 

 少年は、乾いた笑顔で告げた。

 女性は、少年の表情からこれ以上夢の話をするべきじゃないと判断し、会話を打ち切る。

 少年は、女性の言葉で唐突に我に返った。少年の表情は、先ほどまでの笑顔を消し去り無表情を作り出した。

 

 

「どうして……こんなに話してしまったのだろう」

 

 

 少年は、自分自身の変化に少し驚き、自分にしか聞こえない声で静かに呟いた。無駄に話をし過ぎたと、どうしてこんなに饒舌になってしまったのだろうかと疑問を抱える。

 しかし、いくら考えたところで解答など出てこなかった。

 少年は、出てこない解答に対して一度全身の力を抜いて落ち着きを取り戻す。そして、考えるのを止めて女性に対して質問を投げかけた。

 

 

「それで……関係があることだったかな? 関係ないんだったら時間を無駄にした気がするんだけど」

 

「…………」

 

 

 少年は、女性に向けて夢の内容を話すことに不安を持っていなかった。

 きっとそれは、相手が異常者だったからだろう、自分の異常な部分の存在を看破した相手だったからだろう。

 そもそも少年は質問を断ることのできる立場ではなく、気にしている余裕などないというもの少年の口を軽くさせる一つの要因だった。

 

 

 少年は、どこかすがすがしそうに病室の外の景色を見つめる。

 外は晴れ渡り、まっすぐに太陽からの日差しが病室に入り込んでいる。少年の視線の先には、綺麗な青空が広がっていた。

 少年は、静かに目を閉じて瞼に光を浴びる。久々に自分の中に閉じ込めていた感情を吐き出したことで心を軽くしていた。

 

 

 女性は、少年から聞きたいことはこれが全部のようで、沈黙によって夢の話を完全に打ち切る。病室には、静かな音のない空間が生み出された。

 女性は瞼を閉じている。たった今少年から手に入れた情報を頭の中でまとめていた。

 

 

「関係あったわよ」

 

「そっか、それはよかった」

 

 

 女性は、暫くすると眼を開き、視線を外の方向へ向けている少年に向けて凛とした声で言いきった。

 少年は、女性の言葉で閉じていた瞳を開けて視線を女性へと送る。少年の視界には、先程と同じ真面目そうな表情を浮かべた女性の姿が映っていた。

 少年は、関係がある、という言葉にある想像をする。自分の引き起こした惨劇と夢との間に、何か関係があるということを言っているのだろうと思った。

 

 

「あなたの異常性は、何となくわかったわ。今回のこの事件に関して言えば、あなたが引き起こしたも同然よ」

 

 

 女性は、事件が起きた原因が少年にあるとはっきりと告げた。

 少年は、驚きを見せることなく受けいれるように静かに頷く。女性は、そんな受け入れるような少年の反応を見てさらに言葉を続けた。

 

 

「今回の事件は、あなたの夢の中の出来事が現実に出てきたことによるものよ。正夢が起こっていると思ってもらっていいわ」

 

「ははっ、これが正夢ってやつか、正夢が起こるのは初めてだな。正夢ってこんな感じなんだ」

 

 

 少年は、女性の言葉に少しだけ笑う、答えを見つけて喜ぶ子供のように無垢な表情で笑う。

 女性は、少年の表情に目を見張った。

 少年は、昨日女性が話していた言葉の意味を理解する、世界を変えるという大それた言葉の意味を把握した。

 

 

「あんたの言う世界を変えるっていうのは、夢が現実になることによって世界が大変になるってことか」

 

 

 少年は、少しだけ上を向いて話を続ける。そして、女性の危機迫るような物言いに対して、心配しなくても大丈夫だという意味の言葉を贈った。

 

 

「とりあえず夢が現実になっても、俺の夢で世界が大きく変わるようなことはないから安心してくれていいよ。大体は俺が死ぬだけなんだから。今回はたまたま警察官が死んでしまったけどさ」

 

 

 少年は、そこまでしゃべったところであることに納得した。昨日起こった不思議なことの連続発生の原因がどこにあったのか理解した。

 

 

「ああ、そうか。そういうことか。夢が現実になったからこんな不思議なことになっているんだな」

 

 

 少年が昨日感じていた違和感は、女性の話で綺麗に無くなった―――昨日の出来事で違和感のあった部分がすっぽりと埋まった。

 

 

「殺人犯が殺人現場である俺の家に何の気なしに戻ってくるわけがない、警察官があんなに簡単に負けるわけもない、パトカーから出る俺をもう一人の警察官が止めない道理もない」

 

 

 少年は、満たされた表情になり、僅かに見上げていた顔を降ろして女性の顔を見つめる。

 

 

「夢が現実に反映されたからっていえば、疑問はなくなるもんね」

 

 

 女性は、笑いながらしゃべる少年に対して目を合わせる。女性から見た少年は、本当に喜んでいるように見えた。疑問が解消されて喜んでいる、子供が問題を解いて喜んでいるように、表情を明るくするように、嬉しそうに見えた。

 

 

「あなたの力はそんな小さなものじゃない。あなたの異常性は、そんなものじゃないわ」

 

 

 女性は、結論を決めつけるような少年に軽く語気を強めて言った。

 女性は、夢の話を聞いて内に秘めていた想像が事実であると確信していた。少年の力の性質が夢を正夢にする程度のものではないと理解していた。

 

 

「あなたは、境界線を曖昧にしているのよ」

 

 

 女性は、言い聞かせるように少年に告げた。少年は、静かに女性の話に耳を傾けている、素直に反論も口を挟むこともなく受け入れていた。

 女性は、静かに聞いている少年に対して説明を続ける。

 

 

「今回の場合は、夢と現実の境界を曖昧にしたことによるもの。あなたの能力は物事に対する境界線を乱す。それがあなたの持ち合わせている能力よ」

 

「境界線を曖昧にする、かぁ……」

 

 

 女性は、少年の能力が境界線を曖昧にする能力だと言う。少年は、女性の口述に僅かに頷く、どこかすがすがしい顔で頷いた。

 少年は、今まで生きてきた人生を振り返る。生まれた瞬間から今を生きているこの瞬間までを回想する。

 

 

「ふーん、なるほど。そういうことか」

 

 

 少年は、この時全てを理解した。今まで起きていた異常や違和感の原因がどこに在ったのか把握した。そして同時に―――酷く安心した。

 

 

「結局俺は、一人だけ異常だったわけだ。まぁそうだよね。みんなこんなふうだったら、気持ち悪いもんね」

 

 

 少年は、自虐するような言葉を並べる。

 

 

「気持ち悪いのは結局、どこまでいっても俺だけ、俺だけか。ははっ、それでいいんだ。それで世界は回っている。その方が気持ち悪くない」

 

 

 女性は、少年がどこか安心しているように見えた。自虐をしながらも、それを心地よく思っている、納得するように頷いている。全てが終わったような、そんな顔をしているように見えた。

 女性は、余韻を残しながら今にも終わりそうになっている少年に向けてこれからの話をする。

 

 

「あなたがこれから生きていくためには、その力を制御する必要があるわ」

 

 

 少年は、表情を変えずに女性の言葉を聞く。先程の満たされた表情のまま、静かにたたずんでいた。

 女性は、どこか突っかかりがとれたような表情をしている少年に対してある提案を持ち掛ける。

 

 

「不安定なまま放置すればどうなるか分からない。あなたの力で世界が変わってしまいかねないの。分かると思うけど、それだけはやってはいけないことなのよ」

 

 

 女性は、子供に言い聞かせるように優しく丁寧に説明し、少年の取るべき選択肢を提示する。

 

 

「あなたには、力を制御できるようになってもらうために幻想郷へ来てもらうわ」

 

「ごめん、それは無理だ」

 

 

 女性は、少年の能力を制御するための手伝いをすると手を差し伸べた。少年の能力は、危険だから制御できるようにしようと、少年に分かるように説明をしたつもりだった。

 しかし、少年は女性の提案に首を横に振った。それは、女性の提案を断るという明らかな意志表示だった。

 女性は、はっきりと断る少年の明確な意思表示に目を見張る。

 

 

「どうして? 私の説明じゃ分からなかったかしら?」

 

「力を制御しなきゃいけないっていうあんたの意見は、何となく分かったよ。そんな力があったら、危ないのはよく分かる。他人に迷惑がかかるっていうのもよく分かる」

 

 

 女性が先程の説明では少年には伝わらなかったのかと優しく尋ねると、少年は女性の意見を分かっていないわけではないと再び首を横に振った。

 少年は、女性の言っていることを理解していた。自分の能力がいかに危険なのか、理解していた。

 

 

「だったらどうして?」

 

「一つ気になっていたんだけど、その幻想郷とやらに行かなきゃいけない理由は何なの? 別に能力の制御だけなら何処に居たってできることだろ?」

 

「それがそうもいかないのよね」

 

 

 女性が危険であることを理解していてどうして拒否の答えになるのか分からず少年に尋ねると、少年は女性の提案を断った理由を告げた。

 少年の言うことは、もっともなことだった。練習を行う場所は、特に大事な要素ではないだろう。

 少年には、その幻想郷という場所でやらなければいけないという理由が分からなかった。少年が女性の提案を断った理由を単純に言えば――――少年は幻想郷という場所に行きたくなかったからである。

 しかし、ことはそう簡単な話ではない。女性は、少年の疑問に対して答えるために否定の言葉から入り、自らの意見に従わない少年を説得する。

 

 

「確かにあなたの言うように、この場所で、あなたの住んでいる場所で能力の制御の練習をしていくのが一番いいのでしょうけど……私は、この世界では余りあなたに付き合っていられない。ここでは、十全に練習ができないの」

 

「やり方を教えてもらえれば、一人でやるよ」

 

 

 少年は、どうにか幻想郷に行かなくても問題がない方法がないのかと代案を提示する。

 少年は、あくまでも幻想郷という場所に行きたくなかった。それは、提案されている幻想郷という場所に問題があったためである。

 少年は、幻想郷という場所を知らない。幻想郷という言葉自体も昨日初めて聞いた単語であり、今まで親しみの全くない言葉である。

 しかし、分からないながらも幻想郷という場所がとてつもなく遠い所であると察していた。病気の治療をするためにアメリカに行くのとはわけがちがうのだと、何となく理解していた。行けば戻れなくなる、少年にはそんな予測が頭をよぎっていた。

 だが、行きたくないという気持ちを持つ少年の考えをよそに、女性は少年を幻想郷に連れて行くための説得を続ける。

 

 

「一人でやられると困るのよ。あなた一人に任せて、もしもがあると困るから」

 

 

 女性は、優しい声で説得するように少年に告げた。なんとか少年に分かってもらうために、自らの意志で幻想郷に来てもらうために理解を求めた。

 

 

「その場であなたを止める誰かが絶対にいないといけない。あなたがこれからやろうとしていることは、火を持ちながら爆発物を扱うようなものなのよ」

 

「なるほど。とりあえず、幻想郷に行かなければならない'理由は'分かったよ」

 

 

 少年は、女性の分かりやすい例えに、自分が提案したことが非常に危ないと、事の危険性を理解した。幻想郷という場所に行かなければ、能力を制御するための練習ができないということを知った。

 

 

「じゃあ、幻想郷に来るのね。良い判断だわ」

 

 

 女性は、少年の言葉に表情を崩し、朗らかな表情を浮かべる。少年の言葉をそのまま呑み込めば、幻想郷に来るという間接的な答えになっていると取られてもおかしくなかった。

 女性は、完全に少年が幻想郷に来ると思っていた。理由を納得して幻想郷に来るものだと思っていた。

 

 だが、少年は

 それでも少年は

 幻想郷に行くことを拒んだ。

 

 

「でも、幻想郷へは行かない」

 

 

 女性と少年のいる病室の空気が凍りつく。

 女性は、少年の拒否の言葉に固まったまま動かない。

 少年は流れのままに口を開く。

 

 

「だって俺は決めていたんだから、このまま普通の生活をするんだって、そう決めていたんだ。普通でいるためには、幻想郷なんていう場所に行っちゃいけない。幻想郷とかいう場所に行った時点で普通じゃない。普通からは限りなく遠ざかる」

 

 

 少年は、少しの間を作った後、はっきりとまっすぐな瞳で口を開いた。

 

 

「だから、それだけはできない」

 

 

 少年は、言葉の中に自身の意志を示す。少年の言葉は、紛れもなく交渉が決裂したと言える一言だった。

 女性は、まさか断られるとは想像すらしておらず、慌てて椅子から立ちあがった。

 

 

「どうしてっ! どうして分からないの!? あなたの能力は非常に危険で、周りの人を巻き込んで、世界を壊しかねないって、私はちゃんと説明したわよ!」

 

 

 女性は、そこまで怒声を放ったところで我に返る。大の大人が子供相手に何をムキになっているのかと一度腰を降ろし、大きく息を吐いた。

 

 

「納得できる理由もあったでしょう。子供が駄々をこねている場合ではないの、ただの意地とかそんなんだったら怒るわよ」

 

「俺はね、能力が暴走して世界がどうなったとしても別にいいよ。他人が死ぬことになっても別にいいよ。世界が滅んでしまっても別にいいよ。そんなものは、結局どっちでもいいさ」

 

 

 女性には、少年の言っている言葉の意味が分からなかった。普通がそんなに大事なのか、普通というのがそこまで重要視されるのか、女性には分からない。分からないからこそ、少年の言葉が理解できない。

 女性は、少年がまだどこかふざけているのではないかと感じ、苛立ちを覚えていた。

 そんな心を乱している女性をよそに、少年は平常心で相対している。

 女性の言葉は、少年の心には届かない。少年には、女性が怒っている理由が分かっていなかった。それに、怒っていることを気にしてもいなかった。

 少年は、声を荒げている女性に対して淡々としゃべり続ける。表情も崩すことなく、どこか遠くを見つめるように話し続ける。

 

 

「けど、自分で決めたことだけは、決めきったことだけは、曲げるつもりはないんだよ」

 

「分からないわ、貴方が何を言っているのか私には全然分からない」

 

 

 少年は、しっかりとした口調で女性に向かって答えた。貫くような視線を女性に向けて、女性に対してしっかりと返答した。気持ちを真っすぐに表現した。

 しかし、女性の言葉が少年に伝わらないように、少年の言葉も女性には伝わらない。女性は、少年の気持ちを理解できず、少年の意図しているところが分からなかった。

 女性は、少年を幻想郷に連れて行くことを諦めなかった、諦めるつもりなどみじんもありはしなかった。最初から連れて行くつもりしかなかったのだから、それ以外には選択肢が一つしかなかったのだから、それを女性は―――選びたくなかったのだから、これしかなかったのである。

 

 

「こうなったら力ずくでも連れていくわ」

 

「へぇ、力ずくね。やれるものならやってみろよ」

 

 

 少年に対して理解できないと告げた女性は、ベッドの上にいる少年の腕を掴む。少年は、挑発するような言葉を吐き出し、抵抗する体勢に入った。

 女性は、少年の言葉を聞いた瞬間から腕を引っ張り始め、顔を病室の外へと向けて進行方向を見つめる。

 

 

「…………」

 

 

 女性は、少年の腕を引っ張ろうと力を入れた所で止まった。唐突に停止した。

 少年は、腕を掴まれただけでその場からは少しも動いていない。女性は、世界が止まったように数十秒の長い間静止していた。

 少年は、動かなくなった女性にしびれを切らし、口を開いた。

 

 

「どうしたの? 力ずくで連れていくんだろう? まさか腕を掴んだだけってことはないよな? いや、俺は幻想郷には行かないけどさ」

 

 

 少年は、時間が止まったように動かない女性の様子に対して不思議そうな顔をしていた。少年も女性が動きを止めた理由が分からず戸惑い、腕を掴まれたまま静止している。

 女性は少年の声掛けにも応じずに少年の腕を掴んだまま固まっていた。少年も女性が止まった動きに合わせて止まっていた。

 時間は止まっていない、時は動き続けている。

 少年は、様子のおかしい女性に再度話しかけた。

 

 

「あの……大丈夫?」

 

「えっ……?」

 

 

 女性は、少年に話しかけられて意識が戻ってきたのか、首が取れてしまうのではないかと思えるぐらいすばやく後ろを振り向き、少年の顔を見た。

 女性の視界には、無表情から少しだけ表情が崩れ、心配するように見つめている少年の顔があった。

 女性は、思わず離してしまった手を見つめ、続いて視線を持ち上げる。

 女性の少年を見る表情は、どこか悲しそうだった。

 

 

「あなたは、いったいどんな……いえ、今は止めましょう……」

 

 

 女性は、少年に向けて再び手を差し出し、口を開く。

 

 

「それでは、ようこそ幻想郷へ」

 

 

 少年にはすでになじみになってしまっている音が病室に響いた。昨日に二度、今日に一度聞いた音である。

 

 白い病室の中に黒い絵の具が付け足され、黒く塗りつぶされる。

 

 そこは、何処に繋がっているのか分からないほど、暗い、暗い、真っ暗な場所だった。先など全く見通せない。女性の言動を信じるのならば、この先に幻想郷という場所があるらしいが、ちっとも想像ができなかった。

 

 

「うおっ、これは気持ちが悪いね。これで空間から飛び出していたわけだ。で、これを通ると幻想郷に繋がっていると……俺は、絶対に行かないからな」

 

「抵抗しても無駄よ、あなたの力は私より遥かに小さい。能力に関しても、純粋な力に関してもね」

 

 

 少年は言葉を発しながらも、女性に引っ張られないように、連れていかれないように逆方向に力を入れる。全身を使ってベッドから出ないように全身に力をいれていた。

 少年は先程の宣言通り、幻想郷に連れていかれないための精いっぱいの抵抗を見せ、自分にできるだけの力で抗っていた。

 女性は、少年の必死の抵抗に少しばかり笑みを作る。見下すような笑みではなく、どこか微笑ましいというような笑顔を作っていた。

 

 

「さぁ、耐えてみなさい」

 

「うわっ!」

 

 

 女性は、軽く少年の腕を引っ張る。すると、連れて行かれまいとする少年の全力の抵抗も空しく、少年の体はベッドから引きはがされた。

 

 

「どう? これが貴方と私との力の差よ」

 

「まだまだ、俺は諦めないぞ」

 

「精々頑張りなさい」

 

 

 女性は、少年を力ずくで引きはがすことに容易に成功する。それでも少年は、ベッドから引きはがされても諦める様子はなかったが、力の差は縮まることはなく、引きずられるようにして女性に連れていかれる。

 女性は少年の腕つかんだまま、黒い空間の中に入っていく。

 

 

「はぁ……」

 

 

 女性に掴まれたままの少年は、真っ暗闇の中に半身を突っ込んだあたりで、肺の中の空気が出尽くすほどの大きなため息をつき、何も言わなくなった。


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