少年はゆったりと上空へ上がり、高度を維持して直進する。青空の下で周りの景色を見ながら飛行を始めた。
「うん、普通に昼食の時間には間に合いそうだね」
少年は、2年という月日の流れのなかで空を飛べるようになっていた。まだ飛ぶ際の動きはぎこちないところが多く、素早く動けるわけではないが、藍におんぶの状態だったころに比べれば明らかな進歩である。
「もうちょっと速く飛べればいいんだけど……それは、高望みかな。こうやって飛んでいるうちに速くなると思うし、我慢だね」
少年の飛ぶ速度は非常に遅く、マヨヒガまで辿り着くのにある程度の時間がかかる。
ただ、マヨヒガへ帰るのに時間がかかるのは、何も飛ぶ速度が遅いことだけが原因ではなかった。
「それにしても、妖精がくっついてくるのは、どうするのが一番いいんだろう……」
そう、妖精が寄ってくるのだ。
少年の飛行経路は、妖精がまとわりつかないように真っすぐではなく、ところどころ曲がってしまっている。
最初にマヨヒガと永遠亭を行き来していたころは、進路が直進でないことや速度が出せないことも相まって移動に3時間以上の時間がかかったものである。
現在では、2時間以下1時間以上の時間をかけて行き来している状態だった。
「昔よりは飛行速度が速くなっているんだから、やっぱり躱していくのが一番いいのかな?」
少年は、答えの出ないマヨヒガまでの移動についての考え事をしながら帰り際に鈴仙に渡されたさくらんぼを食べる。そして、いつだって少年を迎えてくれているマヨヒガへと帰宅した。
「ふぅ……やっと着いた」
マヨヒガに着いた少年は、玄関の戸を開けて一声発する。
「ただいま、帰ってきたよ」
少年の声が建物の中を徘徊する。そして、少年の声がマヨヒガの中を走り終えた瞬間、慌ただしい足音が鳴り響いた。
どたどたと玄関に向かって何者かが走ってきている音が聞こえてくる。音がどんどん大きくなる。廊下には、足音が単調なリズムで響き渡っていた。
暫くすると足音を響かせている人物が少年の視界に入る。
少年は、微笑みながらその人物を迎えた。
「和友! 帰ってきたか!」
足音をうるさく鳴り響かせ玄関へと走ってきた人物は―――藍だった。
少年がマヨヒガに帰ってきた時に最初に目にする人物は、玄関にすでに誰かいるという状況でない限りにおいて藍である。例外なんてほとんどない。決まって藍が1番に少年を出迎えた。
「無事に帰ってきたか? どこも怪我をしていないか?」
藍は、すぐさま少年の無事を確認し始める。視線を上下に振り、少年の全身を見渡して心配そうな表情を浮かべる。
少年は、心配性な藍を落ちつけるためにできるだけ優しい声で告げた。
「藍、僕なら大丈夫だから。心配いらないよ」
「和友を傷つける奴は、私が懲らしめてやるからな。もしもなにかあれば私に言ってくれよ」
藍は、少年の言葉を無視するように心配するような言葉を口にした。
ここまでが少年が帰ってきた時の藍と少年のいつもの会話の流れ―――いつものやりとりである。
藍は2年前と大きく変わった。正確には半年の間だろうか。
藍は、少年に対してとても過保護になった。普通の人ならば、嫌がってしまうほどに、引いてしまうほどに過保護になってしまった。以前から少年に対して保護欲を持っている節はあったのだが、その時よりもさらに心配性になった。
「藍」
「どうした? やっぱりなにか……」
少年は、せわしなく詰め寄ってくる藍に対して嫌がるそぶりを見せずに優しい笑顔を浮かべる。そして、心をざわつかせている藍を落ち着けるために、優しい笑顔で再び帰りの挨拶をした。
「ただいま」
藍は、少年の言葉にきょとんとした表情を浮かべる。
少年の視線は藍からそれず、しっかりとした瞳で藍を見つめていた。
「ああ、おかえり、和友」
「ただいま」
藍は、少年の笑顔につられるように微笑み、少年と初めての挨拶を交わした。
「さぁ、中に入ろう」
「うん」
藍は手を差し出し、少年の手を握る。そして、少年の手の感触に笑みを深めて目を細めると少年の手を引いて家の中へと引き込む。少年は、藍に引っ張られないように足並みをそろえて廊下を歩き出した。
少年と藍は、仲良く並びながら廊下を歩いていく。二つの足音は同調して一つの音になった。
「あっ!」
そんな廊下に響く音に気付いた人物が目的地である居間から顔を覗かせる。二人の足音だけが支配する世界に声が飛来し、激突した。
顔を出した人物は―――尻尾を2本はやした藍の式である。
藍は、1年ほど前から式神を使役していた。紫が藍を使役しているように、藍も式神を使役するようになった。
その新しく家族となった式神は、藍と少年に近づきながら言葉を投げかける。
「和友、おかえりなさい~」
「ただいま。橙は毎日元気だね」
少年が橙と呼んだ藍の式神は、少年の腰に横からしがみついた。
少年は藍と繋いでいない、空いている手で橙の頭を優しくなでる。
「ん~~」
橙は、気持ち良さそうに目を細めた。
少年は、橙にくっつかれて歩く速度が遅くなり、歩く速度の変わらない藍から手を引っ張られる形になる。
足音は―――1つから3つに増加した。
「橙、和友が歩きづらそうにしているだろう。少し離れなさい」
「はーい」
橙は、藍の言葉に従い少年に抱き付いていた力を僅かに緩める。
しかし、力を緩めただけでくっついている状態に変わりはない。少年は藍に引っ張られるがまま、橙は少年にしがみつくまま、居間へと入りこんだ。
「紫、ただいま」
「和友、おかえりなさい。もうそろそろご飯ができるから。待っていなさい」
居間には2年前までは考えられない光景が広がっていた。
2年前と大きく変わっていたことは、紫が昼飯を作っていたことである。これまでであれば、絶対にありえない光景であるが、この光景はマヨヒガではもう当たり前のこととして定着している。
藍は、握っていた少年の手を離して自分のテーブルに供えられた指定席に座り、橙もくっついていた少年の傍から離れて自らの指定席に座った。そして、少年も見なれたものを見るように自分の席に座った。
「今日の紫様の料理は、いかほどでしょうかね」
「楽しみです!」
「紫の料理は、日に日に上手になっているからなぁ……」
「期待して待っていなさい。今日こそ藍の料理を越えて見せるわ」
食卓テーブルは四角形であり、上から見た時に少年は左下、少年の隣には橙、少年の正面に座るのが藍、橙の正面、少年の対角線上にいつも紫が座っていた。
「まだまだ紫様に越えられるとは思えませんが? 私の料理はその程度のものではありませんよ」
「そうやって油断しているといいわ。せいぜい今のうちに高みからの眺めを目に焼き付けておきなさい。今に地を這うことになるわよ」
「口でなら何とでも言えますよ」
「っ……本当に生意気になったわね。教育が必要かしら」
「武力行使は反則ですよ!?」
いつものように繰り広げられている藍と紫の戦争が勃発している。
紫は、料理をするようになってから藍の料理を意識するようになった。やはり、比較対象として藍の存在は大きかったのだろう。これまで藍の料理を越えることを目標に試行錯誤を重ねてきた。
しかし、いまだに経験値が足りないからなのか藍の料理に及んでいるということはなく、悔しい想いを抱えてきた。
紫は、今日こそ、今日こそはという想いで調理を進める。
少年は、お互いを意識し合っている二人を見て苦笑しながらゆっくりと背中を伸ばした。
「んー……あ、そうだ」
少年は、大きく一度背伸びをしながら大きく息を吸うと思い出したようにカバンを漁り始める。
そういえば―――今日は藍に渡さなければならない物があった。
「はいこれ、今月分の給料だよ」
「ん? ああ」
少年は、向かい側に座った藍に向かって封筒を差し出す。
封筒の中には、永遠亭で働いた今月分の給料が入っている。
「今月分、確かに承りました。大事に使わせてもらうからな」
藍は、少年の差し出した封筒を笑顔で受け取り、テーブルの上で封筒の中身を確認する。
少年は、藍に対してお金を納めていた。この場合、藍に対してというより八雲家に対してという方が自然だろうか。
少年が払っているのは、これまで借りていた過去の借金とこれからの生活費である。
少年は、紫や藍からこれまでに貰った分の恩、筆の代金、生活費を払い切ろうとしていた。
「今日もいつも通りの金額だな」
「働いている時間は変わっていないからね」
「うむ、それでは」
藍は、少年から手渡された封筒の中に入っている大部分のお金を抜きとると、いくらかお金の残し、封筒を少年に返した。
「これが今月分の和友の小遣いだ」
「ありがとう」
お金の一部は、必ず少年に返ってくる。少年がもともと働いて手にしたお金であり、少年にだって欲しいものがあってもおかしくはないのだから貰って当然といえば当然であるが、少年はいつも藍に全額渡してからその一部を返してもらう形でお金を受け取っていた。
少年の貰っているお小遣いの使い方は大体決まっているが、お金の使い方に関してはまた今度の話である。
「紫様は、まだ料理に時間がかかりそうだな」
「そうみたいだね」
「ふむ……」
藍は、紫が作っている料理が完成するまでの間、少年との会話を楽しもうと考え、話題を提示した。
「永遠亭での仕事の調子はどうだ? 上手くやれているのか?」
「私も気になる!」
藍は自分が見ることの出来ない、永遠亭での少年の様子を非常に気にしていた。
「上手くやっているつもりだよ。やり始めのころに比べれば大分慣れてきたしね」
「…………和友」
藍は、少年の答えを聞いて頭の中にある記憶の中の光景がよぎり、次に言葉が繋がらなくなった。永遠亭、慣れている、二つの単語が半年前の光景を想起させ、頭を硬直させる。
橙は、固まってしまった藍を置き去りにして少年と会話を進めていく。
「仕事ってやっぱり忙しいの? 大変?」
「そうだなぁ……忙しくはないし、大変でもないけど。何か足りない気はするかな」
「……よく分からない答だね」
「うーん……難しいなぁ。どう言ったら伝わるかな?」
少年は、橙の質問に考え込む。
少年の働いている時間は非常に短いため、忙しいといえば忙しくはないし、大変といえば大変ではない。仮に忙しかったとしても、それを言葉に出して言える状況ではないことぐらい少年にも分かっている。忙しいと言ってしまえば、仕事を辞めさせられる可能性があるのだから。
でも、仕事に対して他に何か言えることがあるだろうか。やりがい? 責任感? 何を話せばいいのだろうか。少年は、なかなか取り出せない答えをひねり出そうと頭を悩ませていた。
そして、ちょうどそのとき、藍は二人の会話を聞きながら心臓が激しく動悸するのを感じていた。
「なぁ、和友……」
「何かな?」
少年は、藍の呼びかけに優しい声で答えた。藍は、平常心を保とうと必死にいつも通りの自分を演じようとする。
しかし、少年に気を遣わせないように自分の気持ちを偽ろうとするが、心臓がうるさいぐらいに鳴り響き、胸が苦しくなる。必死に堪えても声が震えてしまう。体の震えが止まらなかった。最近ずっとこうだった。半年前から患っていた持病のようなものだった。
「和友、無理だけはしないようにな。前みたいなことになったら私は、私はっ……」
「藍様? どうしたのですか?」
橙は、時折起こる藍の異変にうろたえる。こうなったときに何かできた試しがない。どうすればいいのかも分からない。
橙は、時々見られる藍の不安そうな表情に、何もしてあげることができなかった。
「私には……耐えられない」
藍は、心の奥底から溢れ出る想いが止められなかった。瞳に涙を溜めて悲しそうな、辛そうな表情で俯いた。
「私は、私には、無理だ。絶対に嫌、それだけは。私には、和友、お前が……」
「藍は、心配し過ぎだよ」
少年は、下がってしまった藍の頭の上に手を乗せて優しく撫で、安心させるように笑顔を作り、微笑む。
藍が心配性になっているのは、少年の責任によるところが大きい。藍が心を痛めている原因は、間違いなく少年にあるのだ。
そんなことは少年も分かっている。だからこそ、藍を慰めるのは自分の役割で、自分が藍を支えてあげなければならないのだと思っていた。そうしてしまった自分が責任を果たさなければならないと考えていた。
「大丈夫だから」
「ああ……分かってはいるのだが」
「僕なら、もう、大丈夫だから」
「ん……」
「大丈夫だから、大丈夫、大丈夫」
「??」
橙は、不思議そうな表情で二人のやり取りを眺めていた。
橙には、毎回のように発生する主が落ち込む状況を理解できていなかった。人が変わったように悲しい顔をする藍の姿を見つめながら、傍にいることしかできなかった。傍にいる以外に何をすればいいのか分からなかった。
橙は、少年が苦しんでいた時期を深く知らない。そもそも橙がマヨヒガの一員になったのは、少年が病気で苦しんでいた時期の終わり頃である。ちょうど、藍がこうなってしまった後のこと。
後から来た橙には、二人がどうしてこんなやりとりをしているのか分からず、ただただ眺めることだけしかできなかった。
藍は、少年につられて笑顔を浮かべた。少年は、藍の表情を見て手を引く。藍は、少年の手が頭から離れると同時に瞳に溜まる涙をふき取り、少年へと告げた。
「和友、信じているからな」
「僕なら大丈夫だよ」
藍は、はっきりと断言する少年に一瞬複雑そうな顔を作ったが、大きく頷いた。信用性が余りあるようには思えないが、それ以上の保証ができないのも真実―――藍には少年の言葉を信じることしかできなかった。
「それにしても、随分と涙腺が緩くなったものだ。これも和友せいだからな」
「そうなのですか?」
橙が藍の言葉を聞いて、少年に向けて質問を飛ばす。少年は、まさかの責任の放り投げ方に驚きの表情を浮かべながら疑問を口にした。
「えっ、僕のせいなの?」
「ふふふ、冗談だ」
「そういう冗談はやめてよ。僕もそうだけど、橙が本気にしちゃうでしょ?」
「すまない、以後気を付けよう」
少年は、藍に対して責任を感じている。自分の責任で藍が涙もろくなってしまったことは、確かなことだと分かっている。
だが、今すぐ責任を取れと言われても何もできないのが実情である。今の藍に対して心配をかけないようにするなんて、四六時中一緒にいるしかない。
それに、涙もろくなった責任を取れなんて―――藍が本気で言うことではない。少年を困らせるために言っているのがまる分かりである。こういうことを言われて、本気でとってしまう少年だからこそ、こんなことを言うのだ。
その証拠に―――藍は続けてこう言った。話を蒸し返すようにこう言った。
「涙腺が緩んだのが和友の責任だというのは、あながち冗談ではなかったりするが」
「やっぱり和友のせいなの?」
「だから、止めてって言ってるじゃないか」
「ははっ、すまない。つい口が滑ってしまった」
藍は、嬉しそうに言った。朗らかな表情で、先程の暗い雰囲気はどこに行ったのか分からなくなるぐらいの明るさで言った。
だが、橙から向けられる怪訝そうな視線は変わらないままだった。
「橙は、ずっとそんな目で僕を見るつもりなの?」
「藍様が悲しむ理由を和友が持っているのなら私が何とかしないと。和友は、本当に藍様に何もしていないの?」
「橙、和友は何もしていない。私が心配性なだけだ。私を心配してくれてありがとうな」
「私は藍様の式ですから当然です!」
橙は、藍に褒められて嬉しそうに微笑む。
少年は、笑顔の二人を見届けると調理場の方に目を向けた。少年の視線の先には、慣れた手つきで料理を作っている紫の姿が確認できた。
紫の料理をしている光景は、2年前を思い出すととても不思議に思える光景である。
「それにしても紫が調理をする姿も随分と様になったね。最初のころはあんなにおどおどしていたのに」
「2年もやっていれば上手くもなるわ。今の私は、あの頃の私とは違うもの」
紫は、少年の言葉に口角を上げて答えた。
紫が料理をするようになったのは丁度2年前からである。
始まりは少年の一言。ちょっとした場の流れが今の紫を作っている。あの時から―――少年が来た時からマヨヒガの日常には七色の色彩が彩られた。
「できたわ」
紫は、自信満々な表情を浮かべ、テーブルの上に自分の手で作った料理を並べ始める。数分の合間にテーブルの上には紫の作った美味しそうな料理が並んだ。
「さぁ、噛みしめるようにして味わいなさい」
紫は、不敵な笑みをその顔に張り付けながら自分の定位置に座る。
これで4人は、いつものように定位置につく形となった。
4人は、それぞれ目線を配ると両手を揃え、パンッと乾いた一音を響かせる。音が綺麗に重なった直後、各々一斉に言葉を吐き出した。
「「「「頂きます」」」」
食事の形式は、バイキングの形になっている。それぞれに分けられているわけではなく、中央に置かれた料理を自分の食べる量の分だけよそうという形式を取っていた。
「うん、おいしい」
少年は、紫の作った料理を一口食べると、料理のおいしさに感嘆し、素直に味の感想を述べた。紫の料理は、昔と比べれば、見た目もさることながら確実においしくなっている。
「紫は、本当に料理がうまくなったね」
「料理が上手くなったのは事実でしょうけど、藍より美味しいかどうかと言われると……まだまだよ」
紫の目標は、藍の料理を凌駕することのようである。紫は、まだまだ藍の料理の域には至っていないと感じているようで、悔しさをにじませていた。
「藍は、随分と昔から料理をしているからね」
「経験が足りないなんて、見苦しいただの言い訳よ。こういうのは、センスがものを言うの」
「うーん、でもなぁ」
少年は、紫の料理が藍の料理に及ばないことが、仕方がないことのように思えた。
紫は、遥か昔から料理をしている藍と比べると、どうしても経験が足りない。センスどうこうの前に、知識も足りなければ、体の使い方も分かっていない状態なのである。
今目の前にある紫の料理は、所詮これまで見てきた、食べてきた料理の模倣にすぎない。
様々な料理をする中で独創し、美味しいものを作る。そういうのは、経験があってこそできることなのだ。経験がない状況で新しいものを取り入れてもよく分からないものができるだけ。
未知のものができるという意味では確かにいいのかもしれないが、問題は味の方向性を見失うことが多いということである。そんなことでは冒険することがあっても成功することは少ないままだ。
それは、経験が足りないから。紫の料理が藍の料理に大きく負けているのは、主にそういうところにあった。
「私も負けてられませんね。日々精進です」
藍は、紫のライバル視するような言葉に、自分の料理が認められているのだと嬉しくなり、口角を上げる。藍の瞳には、密かに紫の料理に対して対抗心を燃やしている炎が見え隠れしていた。
「まぁ明日は、僕達の料理当番だけどね」
「和友、とびっきり美味しいのを作ろうね」
少年と橙も藍の言葉に感化されたのか、同じようにやる気を出し始める。
八雲家ではある時から料理を当番制にしており、順番に回していた。あくまで昼だけという条件のもとであるが―――藍、紫、少年+橙の3つで回っている。今日は紫だったので、次は少年と橙の番である。
「私も上手くなっているところを藍様や紫様に見せてみせます」
ここまで話が展開されると理解できるが、橙の口調は少年と同じように相手によって使い分けられている。具体的には、少年に対してはため口で、藍や紫に対しては敬語を使っていた。
少年に対してのみため口になっているのは、少年が敬語を使う必要はないと橙に言ったからである。そして、藍と紫に対して敬語を使うようにさせたのも少年がそうしなさいと言ったからだった。
橙は、少年が何も言わなければ、誰に対してもため口を使ったことだろう。もともと生まれたときからそういう奴で、一緒にいたときから図々しくて、気まぐれな妖怪だった。
4人は、次々に紫の作った食事を口に運ぶ。
少年は、美味しそうに料理を頬張っていく。紫は、いつも美味しそうに食べてくれている少年に笑顔を向けた。
「私の料理はおいしい?」
「うん、おいしいよ」
「そう」
紫は、少年の回答に満足げに微笑むと食事を再開する。私の料理は、という風に聞くあたりに藍に対する対抗意識が見て取れる。
しかし、対抗意識丸出しの紫とは異なり、藍には紫を意識する雰囲気が一切感じられなかった。
「和友も橙もどんどん食べるんだぞ」
藍は、唐突に食事中に料理を持って立ち上がる。紫は、急に立ち上がった藍に厳しい視線を送った。
藍は、紫の厳しい視線に気付くことなく少年と橙のいる向かい側に歩き出し、二人にもっと食べるように料理を分けようと動こうとする。
「ほら、まだまだいっぱいあるんだからな」
「藍、止めなさい」
紫の手が移動しようとしている藍の服を掴んだ。
藍は服を掴んだ紫へと顔を向ける。紫の藍を見る目は、非常に厳しいものだった。
「マナーがなってないわよ」
「は、はい……」
「もともとそんなことをしないように場所を変えたのに、それでも動くということはまた別の方法を考えなければならないかしら? いっそのこと一緒に食事をとるのを止めてみる?」
「も、申し訳ありません……これからはないようにしますので、このままでお願いします……」
藍は、紫から注意を受けて紫に対して深々と頭を下げて謝罪し、しょんぼりと視線を落とした。
現在の藍の座る位置が紫の隣で少年の正面になっているのには―――大きな理由があった。たった今起こった、食事をとりわけるような行動に出るなどの軽いものから、重いものまでさまざまなことがあった。要は藍が少年や橙のことを構いすぎるため、色々と面倒が起こるということがあったのである。
そのため、藍は少年や橙から最も遠い場所に配置されていた。
「気をつけなさい」
「はい……」
紫の釘をさすような言葉によって、藍は落ち込んだ顔のまま元の位置へと座った。
橙は、落ち込んだ藍の顔を黙って見ていられず、慌てて立ち上がり藍へと声を掛けようとする。
「藍様、私が貰……」
「ば、馬鹿っ!」
「もがっ!?」
少年は、落ち込んでいる藍にフォローを入れようとする橙の口を慌てて塞いだ。
橙は、少年が言葉を遮る理由が分からず、口を塞いでいる少年の腕を勢いよく引っ張る。橙の引っ張る力は少年の力よりもはるかに強く、少年の手は橙の口元から一瞬にして離れた。
少年の手を払いのけた橙は、藍に聞こえないように少年の耳元に向かって小声でしゃべり始める。
(ど、どうして止めるの? 藍様が可哀そうだよ)
(それは藍のためだよ。ここで藍の善意を受けてしまったら座る場所を移動した意味がないからね)
小声で橙に話しかけられた少年は、同じように藍に聞こえない程度の小さな声で橙の質問に答えた。
現在の食卓テーブルの座る位置は、できるだけ少年と橙が藍から離れるようにという条件で紫が配置している。距離を離している理由は、まさしく藍の極度の依存度をどうにか下げられないかという試みからである。
(もともと藍がこの位置に座るようになったのは、藍の僕達に対する依存度を少しずつ小さくしようという紫の発案なんだから)
(そうだったのっ!? 私、聞いてないよ!)
橙は、座る椅子の位置決めについては何も聞かされていなかった。座る位置が変わった時には「座る位置は年や季節によって変わるんだ」と一人で思っていたのである。
(どうして私に黙っていたの!?)
(いや、黙っていたというか、言える状況じゃなかったというか……橙は寝ていたし……)
橙が勢いよく少年に迫ると、少年は都合が悪そうに橙から視線をそらした。
少年は、紫が藍の席を変えようと進言した時のこと―――紫と話していた時のことを思い返す。
その場には、当然ながら藍はいなかった。同様にして橙も二人の会話の聞こえる位置にはいなかった。さらにいえば、単に近くにいなかっただけではなく、眠っていた。
橙は、少年を攻めるようにして怒気を強める。
(起こしてくれてもよかったじゃないっ!)
(んー、起こそうとは思ったんだけど……)
少年は、紫が藍のことについて話をした時、橙にも話した方が良いだろうと橙を呼びに行っていた。別に橙を仲間外れにしようとして起こさなかったわけではない。少年が橙を呼びに行った時の状況が、それを許さなかったのである。とてもじゃないが話しかけることができない状況だったのである。
(ちょっと起こせる雰囲気じゃなかったっていうか……)
(その時の私はどんな状態だったの?)
(橙は、藍の尻尾を枕にして寝ていたんだ。それに、藍が寝ている橙を尻尾に乗せたまま別の部屋に連れて行ったから、話すにも話せなくてさ)
(そ、それはさすがに無理だね……)
橙は、落ち度が自分にあるのだと自覚し、勢いを無くした。
少年と橙は、お互いに顔を見合わせたまま固まり、茫然とする。
一方、紫に叱られた藍は、必死に気持ちを切り替えようとしていた。
(私はいつまで気にしているのだ。これから気をつければいいことではないか。気持ちを切り替えよう)
藍は、顔を振り先程紫に告げられた言葉を振り払う。気に病んでも仕方がないと、これから気をつけようと自分の中で折り合いをつける。すると、落ちていた視線は気持ちの立ちあがりに追随するように上がっていった。
「ん?」
持ち上がった藍の視線の先には、こそこそと話をしている橙と少年の二人の姿があった。
藍は、目前で聞こえないように話をしている二人の様子がとても気になり、質問を投げかける。
「二人ともどうした? こそこそとしゃべっているが、何かあったのか?」
「な、なんでもないです」
「うん。ちょっと橙が午後の練習の作戦会議をしようって言ったから、どうしようか話をしていたんだよ」
藍に尋ねられた二人は、慌ただしく藍の方向へと顔を向け、焦りながらもそれぞれ藍の質問に対応した。橙は両手をバタバタと動かし、少年は額に汗を滲ませている。
少年は、何とかして話題を変えようと、午後に行うことになっている弾幕ごっこの練習についての話題を提示した。少年と橙と藍には、食器を洗い終わった後に弾幕ごっこをやる予定があった。
弾幕ごっこは―――半年前から続いている習慣の一つである。
「はぁ……」
紫は、焦る二人の様子に溜息を吐き、二人のフォローをするために動きを見せた。
「それは結構なことね。私もそろそろ二人が勝つところが見たいもの、頑張りなさい」
「私は、まだまだ負ける気はありませんよ」
少年と橙は、藍の言葉に安心して表情に安堵の気持ちをにじませる。紫は、表情を変えることなく、自分の作った料理をほおばった。
4人は、そんなこんな会話をしながら紫の作った料理を食べ、テーブルに置いてあった料理を胃袋へと収めた。
「藍、ほどほどにしておくのよ。和友は、これが終わったら人里に行く予定があるのだからね」
「分かっていますよ」
料理の後片付けを終えると―――全員が縁側を超えて草原の中央に飛び出す。紫は縁側の位置で立ち止まり腰を下ろし、残りの3人は紫の位置からから20メートルほど先の所で向かい合うように止まった。
藍は、紫に返事を返してゆっくりと空中に浮かびあがると、地に足をつけている二人を見下ろしながら言葉を投げかける。
「さぁ、二人とも準備はいいか?」
「僕はいつでも」
「藍様、私も準備できています」
地上に足をつけている二人は、上空で浮いている藍に向かって視線を向けて応える。
紫は、二人の答えを聞いて大きく息を吸いこみ、3人に聞こえるように大きな声を発した。
「合図出すわよ!! スペルカードは全部で3枚」
これから始まるのは、これから幻想郷に適応される決闘のルール、スペルカードルールの模擬戦闘である。
「よーい、始めっ!!」
今―――開始の合図が放たれた。