ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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2年もの時間経過、日常の変化

 少年は、幻想郷に来て2年経った今もしっかりと生きていた。

 幻想郷に来て2年経った現在も―――幻想郷で生活していた。

 

 少年は、外の世界に戻るという選択があったのにもかかわらずそれを選ぶことなく、幻想郷に残る選択を選び、幻想郷の中に残っている。幻想郷にやってきてから2年経って、外の世界に帰ったのは結局‘一度だけ’だった。

 しかし、帰る機会がなくとも、外の世界に帰るということを諦めたわけではなかった。帰りたいという気持ちを失くしたわけでもない。帰ってもいいと言われるのならば、帰ることができるのならば、いつだって帰る選択肢を選ぶことだろう。

 けれども、外の世界に帰ることよりも大事なものが幻想郷の中にできて、幻想郷から離れにくくなっていることは事実だった。

 

 

「初めまして」

 

 

 2年の月日の経過は、少年の見た目を大きく変化させている。

 少年の身長は、成長期ということもあり15センチほど伸びて、165センチに届くところまで大きくなった。ちょうど藍と同じぐらいの背丈になるだろうか。もう、藍が少年を見下ろすことはなくなっていた。

 

 

「今日は、どうされたのですか?」

 

 

 少年は、現在仕事の真最中である。

 少年の目の前にはお客様が存在しており、その対応を行っていた。具体的には、椅子に座った状態で同じように座っている10歳に満たない子どもと相対していた。

 子どもと対峙している少年の仕事は、当たり前であるが子どもと戦うというものではない。かといって、子守りをするというような子供の世話をするものでもない。

 

 

「どこか具合の悪いところでもあるのでしょうか?」

 

「先生、すまないねぇ。この子がどうしても薬を飲むのを嫌がってしまって。これがその薬なのですが……」

 

 

 少年の仕事は、永遠亭で行われる医療行為の手伝いである。病気になっている相手の問診をするというのが少年の役目の一つだった。

 決してメインとして手術をしたりオリジナルの薬を作ったりするようなことはしない。あくまで誰かの補助的な役割を担っているのが、今の少年の立ち位置である。

 

 

「どうにかなりませんか?」

 

 

 子供の親は、申し訳なさそうな顔をしながら永遠亭にやってきた理由を少年に告げ、原因となっている薬を手渡した。

 

 

「見たことありますね。人里では、よく使われるお薬なのですか?」

 

「そうです。体調が悪くなって熱が出てきたら飲む薬です」

 

 

 少年は、子供の親から渡された薬を手に取り、子供と視線を合わせる。

 永遠亭に来た理由は、どうやら薬が苦くて飲めないという理由が発端のようである。

 

 

「先生なら、苦みなく薬を飲ませることができると聞いたものですから……」

 

「…………」

 

 

 子供は、バツの悪い表情を浮かべたまま口を閉ざし、黙り込んでいる。嫌々連れられてきたことが見ていて分かるような顔をしていた。

 

 

「できますよ。どんな薬であれ、どんなものであれ、問題ありません」

 

「噂は本当だったのですね」

 

「その噂は、何処でお聞きに?」

 

「人里では有名ですよ。新しくここに来られた若い先生は、子供に苦みを感じさせず薬を飲ませることができると、皆が言っています」

 

 

 子供の親は、どこかから聞いたか分からないような噂話の情報を口にしている。そんな噂を少年が流すわけがない、おそらく独りでに流れたのだろう。

 事実、薬を苦みなく飲ませることができるという少年の噂は、すでに人里中に蔓延しているレベルで知られていた。

 

 

「して頂けないでしょうか?」

 

「薬を飲ませる件については、別に構いませんよ。今からやりましょう」

 

 

 少年は、ほがらかな笑顔を浮かべて、子供の親に対して気にしないでくださいと手を横に振った。

 苦みなく薬を飲ませることができる―――何ともどうでもいい理由である。診療代を取れるわけでもなく、薬代が出るわけでもない仕事内容に何とも言えない顔になっても仕方がない状況だ。

 しかし、少年は決して嫌そうな顔をすることはなかった。これが初めてならば少し表情を変えたかもしれないが、子供に薬を飲ませることができるからという理由は、少年の下へとやってくる理由の中で割とよくある理由の一つだったのである。

 

 

「ですが、わざわざ永遠亭まで来られるのでしたら、人里で歩いているときにでも私に声をかけてくださればやりますからね」

 

 

 少年は、薬が飲めないからという理由で永遠亭にやってくる人物に対して毎回のように人里で言ってくれればやりますという旨を伝えていた。

 しかし、いくら伝えても、いくら言っても、些細な理由で永遠亭にやってくる人物の数は全く減っていない。

 

 

「人里にいる際は、隣に妖怪がいることが多いですが……気になさらずに話しかけてもらえればと思います」

 

 

 些細な理由で永遠亭にやってくる人数が減らない原因は簡単なことで、人里にいる時には少年の隣にいつも藍がいるからだった。

 妖怪の隣を歩いている少年に声をかけることは非常に勇気が必要なことで、危険を顧みずに些細なことを告げる人間はほとんどいなかったのである。実際のところの原因は単純にそれだけではなかったが、少年はそう思っていた。

 

 

「そう言ってもらえると助かります」

 

 

 親御さんからのお礼の言葉を聞いた少年は、目線でお礼に対して応える。そして、問題になっている薬を飲むことができないという子供に意識を向けた。

 自分の今やるべきことは、子供に薬を飲ませることである。少年は、自らに求められている仕事に意識を集中し始めた。

 

 

「はい、口を開けてね。苦くないから大丈夫だよ」

 

「ほんとに?」

 

 

 少年が子供を安心させるように優しい声で子供に語りかけると、子供は目元を潤ませながら少年に向けて声を発した。

 少年は、泣きそうになっている子供を見て、親から渡された薬がそれほどに苦いのかと少しだけ驚く。確かに今子供に飲ませようとしている薬は、一般に作られている漢方薬であり、八意永琳(やごころえいりん)の作った薬ではない。

 一般に流通している漢方薬は、苦いものが大半である。苦い薬が多いことは、良薬口に苦しということわざがあるように、仕方が無いことなのかもしれなかった。薬は苦い物の方が良く効くという偏見が存在するため、作られる薬というのは総じて苦くなることが多いのである。

 

 

「これ、そんなに苦いんです?」

 

「ええ、少しばかり……私も子供のころは呑むのを嫌がって親を困らせたことがありまして」

 

「そんな手前、強くは出られず、ここに来たと」

 

「そういうことです」

 

「まぁ、どれだけ苦くても関係ありませんよ」

 

「本当に苦くなくなるの?」

 

「大丈夫。信用してくれていいよ」

 

 

 少年は、内心の驚きを相手に決して悟られないように、故意に表情を優しいものから少しも変化させなかった。

 先生と呼ばれる人物は、どっしりと構えている必要がある。不安や動揺は、空気を媒介に簡単に伝染する。特に身を任せられる人物は、それなりの覚悟と意志が必要とされるのだ。

 少年は、誰かから頼られている時、自分が相手に対して弱いところを見せてはいけないと考えていた。

 

 

「私は、嘘はつかないからね。ほら、あーん」

 

「……あー」

 

 

 少年が優しい表情のまま子供の口元に向けて薬を近づけると、子供は少しばかりの不安を抱えながらも少年の声に合わせて口を開けた。

 少年は、子供の口の中にそっと粉末状の漢方薬を入れる。子供の舌の上には、茶色の粉末が乗った。見るだけでも苦そうな色である。

 少年は、口に薬を含んだ子供に対して用意していた水を差し出す。

 

 

「はい、水で流し込んで」

 

「んっ」

 

 

 子供は、少年から渡されたコップを受け取ると、勢いよく水と一緒に漢方薬を飲み込む。ごくごくと子供の喉が鳴り響いた。

 

 

「ほんとだっ……苦くなかったよ!」

 

「だから言っただろう? でも、よく飲めたな。えらいぞ」

 

 

 少年が元気よく声を出す子供の頭に手を乗せてそっと撫でると、子供は安心した表情を浮かべて瞳に溜めていた涙を拭き取った。

 

 

「今度からはちゃんと嫌がらずに薬を飲むんだよ。どうしても気分がすぐれないときや飲み込めないときは、またここに来ればいいからね」

 

「うん!!」

 

 

 子供の元気いっぱいの声は病室に大きく響き、少年と子供の両親はクスリと笑った。

 

 

「お話は、以上ですかね?」

 

「はい、先生ありがとうございました」

 

 

 これで少年の仕事の一つは完了である。

 少年は、現在永遠亭で仮就職をしている。仮という表現を用いているのは、少年が永遠亭で完全に就職している状態ではないからである。

 少年の働く時間は、仮就職ということもあってまちまちであり、8時間というような長時間を働いているわけではなかった。日々の労働時間を平均すれば1日に4~5時間というところだろう。労働時間にしては非常に短く、いうなればアルバイトに近い状態である。

 ただし、受け持っている仕事の内容は少年にしかできないものが多い。

 少年の永遠亭での働きには、少年の能力である曖昧にする程度の能力が大きな意味を持っており、大きな役割を担っている。

 今、子供していたのは、苦みを曖昧にして薬を飲ませるというものである。このような応用は、医療機関である永遠亭においていたるところで役に立っていた。

 

 

「ほら、行くぞ」

 

「うん!!」

 

 

 診察の終わった子供は、椅子から立ち上がり、隣にいる親としっかりと手を握る。何とも微笑ましい光景である。こういう親子の様子を見ると、本当ならば、普通ならば、と考えてしまいそうになるが、少年はそんな考えを無理やりに排除した。

 考えても、戻ってこない。後悔しても、変わらない。失ったものは、二度と手に入らないもの。失った代わりに手に入れたものも、二度と手に入れることのできないもの。

 少年は、変わらないと知っていながらも後悔を抱えて生きている。その後悔が少年を支えていて、重りになっている。

 少年は、大きなものを背負って人生の道を歩いていた。

 

 

「ありがとう、先生!」

 

「先生、本当にありがとうございました」

 

「どういたしまして、お体には気を付けてくださいね」

 

 

 子供は、永遠亭に来た時とはまるで違う表情で、少年に向けて大きな声でお礼を告げた。

 少年の治療は、特に子供相手の医療行為に絶大な効果を及ぼしている。少年の能力は、痛みを感じさせない注射、痛み止めの低減、症状の緩和などで役に立っていた。その効果もあって、少年が診察をするようになってから、子供連れや些細な風邪の人といった軽い病状の人間が診察に来ることが多くなった。

 些細なことの例としては―――先程の薬が飲めないというようなことに関しても人が訪れるようになっている。少なくとも、永遠亭と人里に住んでいる人との距離が近くなったのは間違いなかった。

 人が訪れるようになった原因は、治療に対して痛みがないというのももちろんあるが、少年の年齢が低いことが最も大きい。年齢が低い少年のおかげで子供の患者が恐がるようなことが少なく、気軽に永遠亭に来ることができるようになったのである。

 本来ならば、重要な局面において年齢が低いということは負の方向へ働く要因になるが、少年の行っている仕事はあくまで補助であり、大きな仕事をほとんど行っていなかったため、不安を煽ることもほとんどなかった。

 八意永琳が診察を行っていた時期を考えれば、変化の程がよく分かるだろう。八意永琳が診察をしていた時は、よほどの急病でもなければ診察に訪れる者はほとんどいなかった。

 それは、八意永琳が普通の人間から見ると不気味に見えていたためである。普通の人間から見た八意永琳という人物は、何を考えているのかさっぱりで、何をしたいのかさっぱりで、対価もさして求めない様子に、どうしても気味が悪く見えて仕方がなかった。

 少年は、八意永琳と対比して見られることで大きな安心感を人里の人間に与えていた。

 

 

「お大事に。また会った時は、よろしくお願いしますね」

 

 

 少年は、手を振り部屋を出ていく親子を見送った。

 少年の診察は、大体このような軽いもので終わることが多かった。重いものは、少年の範疇ではなく、八意永琳の管轄になっている。

 

 

「ん~」

 

 

 少年は、一息ついて背伸びをし、大きく息を吐いて気持ちを落ち着ける。能力を使った後はいつもこうだった。

 

 

「上手くいって良かった……」

 

 

 少年は、能力を使うことに未だに不安を抱えていた。失敗したらどうしようかという想いを引きずっていた。

 少年は、自身の境界を曖昧にする能力を正確に制御できるわけではなかった。能力の制御の練習を開始してから2年もの月日が経っているにもかかわらず、完全な制御ができていなかったのである。

 少年は、能力を行使した後、いつも大きな息を吐き出し、気持ちを落ち着けている。緊張と不安は、溜まったらすぐに抜く。患者に悟られるのだけはどうしても避けなければならない少年にとって、息抜きはとても重要な要素だった。

 

 

「曖昧にした後の線引きが一番難しいんだよね。曖昧にするだけだったら何も考えなくていいけど、相手が引いている苦みの境界線を元に戻さなきゃいけないのがものすごく難しい」

 

 

 少年が曖昧にしたものは、曖昧にしたまま放置してならない。

 先程の子供を例にとっていえば、曖昧にした苦みの境界線を、再び引かなければならないのだ。そうしなければ、先程の子供はこれ以降の人生で苦みというものを感じなくなってしまう。

 曖昧にするだけなら能力で何とでもなる。適当でも何も問題ない。だけど、世の中はそうではないものが大半である。

 

 

「どれだけ曖昧にして、元の境界線を維持するか。力加減って難しい。鉛筆で引いた線を消しゴムで薄くするぐらい簡単だったらよかったのに」

 

 

 少年が行っているのは、境界線を再び引くということ。正確には、能力の効果を徐々に薄めていくことで元の境界線を浮かび上がらせるということをしている。これが何より難しい。完全に曖昧にしてしまうとどこに境界線が引かれているのか全く分からなくなってしまうので、ほどほどにして、引いている線を薄くするのである。

 

 

「あ、先生」

 

 

 少年がほっと一息ついた後、出て行った親御さんと入れ替わるように左右を赤と青に染めている変わった服を着た銀髪の女性が入ってきた。

 

 

「貴方……またどうでもいい理由で来た患者の相手をしていたのね」

 

 

 部屋に入ってきたのは、八意永琳―――この永遠亭の頭脳であり、医療行為の中心を担っている人物だった。

 永琳は、若干表情を曇らせながら先程やってきた人間について苦言を呈した。

 

 

「対応する貴方もそうだけど、患者の方もたいがいだわ。薬が苦いからってわざわざ永遠亭を訪れるなんて、本当……どうかしているわ」

 

「それも、仕方がないんじゃないですかね」

 

 

 永琳は、最近増加しているどうでもいいような、自分たちで何とかできるような理由で永遠亭を訪れてくる人里の人間に対して複雑な気持ちを抱えていた。

 薬が苦くて飲めないからなんていうのは、どうでもいい理由の中の最たる理由である。

 永琳は、苦い薬が飲めないというのならば、自身が作った薬を飲めば済む話だと言いたくなる気持ちをいつも押さえていた。

 

 

「八意先生の作った薬ならいざ知らず、薬草から作った漢方薬は総じて苦いものですからね」

 

 

 少年は、永琳の言葉に苦笑しながら先程帰って行った親御さんを擁護する。

 少年が患者の擁護に走るのは、いつものことである。いつだって患者優先で、自分のことを後回しにする。自分の負担よりも、困っている誰かを優先していた。

 

 

「子供には、辛いものがあるのではないですか? 風邪を併発しているのなら飲み込めないのも、億劫になるのも分からなくもないです」

 

「はぁ、貴方って本当に人が良いのね……」

 

 

 永琳は、予想通りの少年からの解答にため息をついた。

 永琳から言わせれば、億劫だからという理由で少年の能力に頼る方がどうかしている。不安だから誰かに頼るのか、するのが難しいから自分でできることを放棄して他人に縋るのか、一人だと心配だから誰かに手を貸してもらうのか、どれも理解できない感覚で、理解に苦しむところがあった。

 そして何より少年の能力を苦みを和らげるなんていうどうでもいいことで使っていることに思うことがあった。

 

 

「貴方の能力をこういったところで使うのは、私の意図したところではないのだけど……」

 

 

 少年の能力の使い道はもっと有意義なことに使うべきで、代替の利くような事案に用いるべきではないのだ。

 物質は必ず摩耗し、損耗する。時間が経って風化するもの、使用されて劣化するもの、損耗には様々な形があるが、例外はない。単純に木材では腐り、金属では錆びて、人間で老いるようなものである。能力だって同じだ。

 貴重なものは、丁寧に使われなければならない。代替のあるものは、それで補えばいい。永琳の考え方は、そういった合理性で構成されていた。

 

 

「苦くて飲めないなんて……漢方薬じゃなくて私が作っている薬を飲めば済む話じゃない」

 

「確かにそうですね。先生の薬は、苦みなんてほとんどありませんから」

 

「さっき、別の薬を飲ませたばかりの貴方がそれを言う? だったら私の薬を勧めなさいよ」

 

 

 永琳の意見には、反論する余地など一切無かった。八意永琳の作る薬には、ほとんど苦みという成分が存在しない。

 苦みは―――不必要だからという当たり前の理由から除去されたのである。確かに薬を飲む際に苦みは邪魔になるだけで、有意な効果を示さない。ポジティブな効果を引き起こすのは、苦いものを我慢して飲んだからきっと症状がよくなるだろうという気の迷いだけである。

 ここで簡単に苦味を取り除くことができるものだという前提で話をしているが、苦味は当たり前であるがいらないからといって簡単に取り除けるものではない。それは、勝手に付属してくるもので、水道水を飲んだら塩素成分も一緒に飲み込んでしまうのと一緒だ。簡単に分離できるものではない。

 しかし、それを容易にこなして見せるのが八意永琳という人物だった。

 

 

「私が貴方の能力を活用したかったのは、痛み止めの効果を上手く調整すること。そして、新しい薬を作ることよ」

 

「分かっています」

 

「いいえ、分かっていないわ」

 

 

 永琳が少年の能力を使いたかった部分は、痛み止めの効果を上手く調整すること、新しい薬を作ることに対してである。

 いつか―――永琳は少年に対して説明している。

 

 

「痛み止めは、何も全ての痛みを消し去ればいいというものではないわ」

 

 

 痛み止めというのは、痛みを止める境界線を引くことが非常に難しい薬である。境界線を引くことが難しい理由はいたって簡単で、痛み止めというものは痛みを全て取り除ければいいというものではないからだ。

 

 

「痛みが無くなってしまえば制御が利かなくなる。痛みは、行動を自制させ、自分が怪我をしていること、病気であることを自覚させるのにもっとも有効な信号になるのよ」

 

 

 痛みというものは病気と違い、無くてはならないものである。痛みを完全に消してしまえば、怪我をしていることや病気になっていることを忘れて無茶をする可能性がある。痛みを完全に無くしていいのは、あくまで手術中といった特異な状況下においてのみなのだ。

 痛みは―――耐えられる程度に残っているという状態がベストである。

 だが、この程よく残すということが難しい。

 永琳は、ぎりぎりの境界線を得るために、ベストな薬を作るために、少年の曖昧にする能力を必要としていた。痛みを完全に消し去る薬に対して少年の能力を適応すれば、痛みを中途半端な状態で残すことが可能となる。

 少年の境界を曖昧にする能力は、痛みを半分にする薬というような、そんな中途半端なものを作ることができない永琳にとって非常にありがたいものだった。

 新しい薬に関しては、言わずもがなである。少年の能力を使えば、作ることのできる薬の幅が増加する。決して混ざることのないものを混ぜることができる―――それだけでも可能性の広さを察することができるだろう。

 永琳は、少年に頼っている部分があるだけに、少年が意味のないところで能力を使い、疲弊するということを余り良く思っていなかった。

 

 

「私は、できればこんなどうでもいいことに能力を使ってもらいたくないのよ」

 

「すみません、私がやりたくてやっていることです。迷惑でしたか?」

 

 

 永琳は頭を下げる少年に眉をひそめた。

 少年は、永琳の意図を上手く汲み取れていない。永琳は、自分の意志がきちんと少年に伝わっていないと感じ、正確な意志の疎通を図ろうとした。

 

 

「迷惑とか、困っているとか、そういうことではないのよ。私は助かっているから別にいいのだけど……」

 

 

 永琳自身は、少年が仕事を行ってくれるおかげで随分と楽になっている。普段やらなければならない業務の一部を少年が処理してくれているため、時間的な猶予ができた。簡単な仕事を少年が処理してくれていること、偶に薬の製作を手伝ってくれることで楽をさせてもらっていた。

 永琳が気にしているのは、迷惑がかかっている云々のことではない。少年の摩耗のことである。

 永琳は、あくまで少年の仕事量が増えることで少年が疲労を溜めこむことを心配していた。

 

 

「それよりも貴方の体の方が心配よ。最近、仕事の量が増えて疲れているんじゃない?」

 

 

 実際に少年が働くようになってから、先ほどの患者のような簡単な仕事が舞い込んでくることが多くなった。月日が経るごとに少年の仕事の重みは、増している。

 

 

「貴方は、もう永遠亭に必要な人間になっているし……それに、もしもがあったら妖怪の賢者から何を言われるかわかったものではないわ」

 

 

 少年にもしものことがあれば、永遠亭に大きな損失が生じる。そして、影響があるのはなにも永遠亭だけに限った話ではない。八雲紫からの影響力も凄まじいものがあった。少年に何かがあれば、八雲紫から何を言われるか分からない。それが、少年が故意にやったことであっても、責任を追及されることは間違いないだろう。八雲紫は、それほどに少年のことを心配している節があった。

 永琳は素直に少年のことを心配していたが、少年はまたしても仕事が増えたことによって自分の行っている仕事の質が落ちているということを言っているのだと永琳の意志とは異なる意味に捉えた。

 

 

「それは、私の仕事の内容が雑になってきているということでしょうか? 先生からは、私が疲れているように見えるということですか?」

 

 

 少年は、頭を下げて永遠亭で働かせてもらっている立場だった。少年が働き始めた半年前、永遠亭は特に人を必要としておらず、永遠亭で働くためには働かせてくださいとお願いしなければならなかった。実際に、少年は無理を言って永遠亭で雇って欲しいとお願いをしている。

 つまり―――少年は無理矢理に入り込んだ存在なのだ。

 少年は、無理に働かせてもらっているという事実もあり、永遠亭で自分があまり良いように思われていないのではないか、必要とされていないのではないかと不安を抱えていた。

 永琳は、少年のそんな不安をぬぐうように首を振った。

 

 

「そうじゃないわ。あなたは、大事なことは一回でしっかりと覚えてくるし、仕事もよくやってくれている。ただ、昔の貴方を思い出すとこうやって働かせているのに抵抗があるのよ」

 

「今は、あの時とは違いますよ」

 

「何も変わっていないわ。あの時とちっとも変っていない。何が変わったというの? それは、貴方が一番分かっていることでしょう?」

 

「…………」

 

 

 少年は、約半年前に大きな病気を患っている。その時の少年の様子を知っている永琳としては、働かせるということはとてもじゃないが正気の沙汰ではなかった。少年が永遠亭で働きたいと熱心に頼みこんでこなければ、働くことを決して認めなかっただろう。

 結論として働くことができているのは、職場が永遠亭ということで、近くで見ていられる分働いてもいいと妥協したからだ。勿論熱意に押されたというのもあるが、最もそれが大きかった。

 

 

「けれども、貴方の代わりがいないのも事実……何か負担を減らす方法があればいいのだけど……」

 

 

 少年の負担が大きいというのならば、その負担を減らすために何か対策ができればいいのだが、永琳には代替案が浮かばなかった。

 永琳では、少年の替わりは務まらない。少年の代わりに患者の対応を行えば、患者の不安をあおる結果になりかねない。

 そもそも、少年を求めに来たのにもかかわらず、永琳が対応するなんて論外なのである。

 

 

「貴方の代わりに私がやるのは論外として、ウドンゲが診察できればいいのだけどね。そうすれば貴方の負担も減るでしょうし……」

 

「鈴仙に任せるんですか? それはちょっときつい気がします」

 

「そうなのよねぇ。ウドンゲは人に慣れていないから貴方の代わりにはならないわよね。結局のところ、永遠亭に貴方の代わりをできる人材はいないのよ」

 

 

 ウドンゲ―――鈴仙・優曇華院・イナバは、少年の代わりには決してなりえない。

 鈴仙には、人見知りという欠点が存在する。人に慣れていない、人と話すのが苦手、よそよそしい態度は、患者と直接対峙することになる診察において致命的な問題だった。

 

 

「どうしたらいいのかしら……」

 

「私は、別にこのままで問題ないですよ? 私なら平気です」

 

 

 少年は、自分は大丈夫ですという旨を伝えた。

 実際のところ、少年の行うべき仕事が増えても労働時間が増えることがないため、実質的には大きな負担になってはいなかった。

 人里から訪れる人間は、少年が午前中のみ対応していることを知っている。少年の活動時間や目撃時間が一緒に噂として流れているため、午後に永遠亭に来ても少年がいないことは、周知の事実なのである。少年に用事のある人里の人間は主に午前中にしか永遠亭訪れることはなく、少年の負担は実質増えていなかった。能力を使うという部分を除いて―――。

 

 

「どちらかというと私は、藤原さんに迷惑かけているようで悪い気がします。毎回、迷いの竹林の奥にある永遠亭まで人里の人間の道案内をするのも大変でしょうし……」

 

 

 少年には、自分の仕事の内容よりも気になることがあった。

 人間が永遠亭に来るためには、二つの障害がある。

 一つ目は、人里から随分と離れたところに立地しているため遠いという距離的な問題。2つ目は、永遠亭と人里の間にある迷いの竹林の存在である。

 特にこの2つ目が大きな障害だった。永遠亭にたどり着くためには、迷いの竹林を抜ける必要がある。迷いの竹林というのは、その名の通り人を迷わせる竹林のことである。

 迷いの竹林に生えている竹の成長速度は極端に早く、深い霧、緩やかな傾斜によって自分の向いている方角が分からなくなる。目印も迷いの竹林では意味をなさない。そのため、自分が今どこを歩いているのか分からなくなり、道に迷うことになるのだ。

 それは、人間でなくても妖怪でも同様に起こる現象である。飛べる妖怪はもちろんのことながら例外ではあるが、飛ぶことが出来ない者はとてもじゃないが永遠亭へとたどり着くことはできない。

 空を飛ぶことができない人里の人を永遠亭へ導くためには、地理を熟知している案内人が必要だった。

 

 迷いの竹林を案内して永遠亭にまで案内する役目を担っていたのは―――藤原妹紅(ふじわらのもこう)という人物である。

 

 藤原妹紅は、もともと人間に対して永遠亭への案内を行っていなかったが、少年が頭を下げて頼み込み、案内をやってもらっている形になっていた。

 永琳は、心配事を並べる少年に心配する必要はないと告げる。

 

 

「本当に大変ならやっていないと思うわよ。あの子もきっと、まんざらでもないのでしょう」

 

「そうならいいのですが……」

 

 

 少年は、一言呟きながら壁に掛けられている時計に目を向けた。永琳も同様にそっと時計に目をやり、時間を確認する。時計の針は、11時を指していた。

 

 

「もうこんな時間ですか……」

 

「時間の流れは早いわね。ここ最近、さらに早くなった気がするわ」

 

 

 時間を確認した少年は、マヨヒガへと帰るために身支度を整え始める。仕事をしているという割には、かなり早い帰宅である。

 永琳は、帰ろうとしている少年に対して、特に不思議そうな顔をすることはない。少年の帰る時間としては、もういい時間なのである。

 少年の労働時間は4~5時間と決まっている。

 少年の労働時間が極端に短いのには、理由があった。

 

 

「お昼ご飯までには帰らないと……藍が心配しちゃう」

 

「今から出れば十分間に合うわよ」

 

「何事もなければ、ですね」

 

「そうね。何事もなければ―――いつも通りの時間に出ればいつも通りの時間に着くはずよ」

 

 

 少年は、昼ご飯を食べるためにマヨヒガへと帰らなければならないという条件を抱えていた。より正確に言えば、マヨヒガにいる藍に顔を見せに行かなければならなかった。

 藍は、少年のことを極度に心配している。きっと今も、待ちきれない想いを抱えて少年のことを待っていることだろう。少年は、心配性な藍のためにもマヨヒガへと帰らなければならなかった。

 もしも用事がありマヨヒガへ帰ることができない場合―――普段以上の時間永遠亭にいる場合には、藍に連絡をする必要がある。

 勿論のことながら今日は、藍に遅れることは伝えていない。

 少年は、申し訳なさそうな顔をしながら永琳に向かって頭を下げた

 

 

「八意先生、ここらで失礼します。そろそろ時間なので」

 

「お疲れ様。これ、今月分ね」

 

 

 永琳は、頭を下げている少年に対して懐に片手を入れて、懐に忍ばせてあった封筒を取り出し、少年に手渡した。

 少年は、差し出された封筒を両手でがっしりと掴むと再び大きく頭を下げ御礼を告げる。

 

 

「ありがとうございます」

 

「そこまでの礼を示されるほどの量ではないわよ?」

 

「いえ、これは私のそのままの気持ちなので」

 

 

 封筒には、少年が働いた分のお金が入っていた。

 永遠亭で働いている少年は、月給をもらっている。働いているのだから、対価としてお金をもらっているのは当たり前である。

 少年がもともと永遠亭で働き始めたのは、患者を助けたいという想いがあったからではない。少年の働いている理由は―――お金のためという現金なものである。

 少年は、永琳から受け取った封筒をカバンに大事そうに入れた。少年が永琳から貰っている給料は、年齢や勤務時間からいえばそこそこの量の金額だった。

 少年の給料となっているお金がどこから出ていると言われれば、永遠亭が行っている医療行為から算出されたものであることは間違いない。

 永遠亭での資金源は大きく二つで、診療と薬によるものである。永遠亭では、人間や妖怪に対して医療行為を行っており診療や薬の処方をしている。

 それ以外に具体的に行っている仕事としては、人里の各家庭に薬箱を置くというものが挙げられる。季節の変わり目になると人里へと出向き、薬箱の中の薬の使用状況を確認する。そして、使われた足りない分の薬を補給していくというシステムである。勿論であるが、消費されて補充した分の代金は、消費した家主に要求している。その分のお金が永遠亭の主な資金源となっていた。

 当然のことながら家庭においてある薬箱で病気の全てが完結するわけではない。珍しい病気や症状、緊急を要するような病気を発症した場合には永遠亭に直接来る、または直接向かうということになっている。

 永遠亭は、利益を目的に医療行為をしているわけではないため、薬も効果の割に値段は良心的で、診療も格安で行っているが、それでも少年に十分な給料を与えることができていた。それだけ永遠亭の医療システムが人里で浸透しているということが伺える。

 それだけ浸透したのは―――少年に依るところ大きい。

 この現実が永琳にある悩みをもたらしていた。

 

 

「それにしても、こんなに少なくていいの? 貴方の貢献度から考えれば、大分少ないような気がするのだけど」

 

「いいえ、私にとってはこれで十分ですよ。十分すぎるほどにもらっています」

 

「そうはいうけれど……」

 

 

 永琳からすれば、少年に与えている給料が働きに対して少ないように思えた。

 少年の永遠亭での貢献度はかなり高い。診察に来る人も増え、人里からの評判も良くなっている。不気味がられる永琳の薬がこれほどまでに人里に受け入れられたのも、少年が仲介として入っていることが大きい。さらに、新しい薬を作る上でも非常に面白い結果が出てきており、薬の効果に幅ができていた。

 

 

「気にしないでください、昔助けてもらったお礼ですよ。無償で治療を行ってくれた、感謝の気持ちです。僕が満足するまでは、半分は貰っておいてください」

 

「……そう、それなら気にするのは止めるわ」

 

 

 永琳は、頭の中の言葉を飲み込むと少年につられるように微笑んだ。

 少年はいつだって頑固で考えが固い。永琳は、本当に頑固で譲らない人間ね、と頭の中で呟いた。決して口には出さずに心の中で言った。

 少年は、永琳の表情を見て反論が無いことを確認すると足を部屋の出口へと向ける。永琳は、その場で立ち止まったまま少年を見送る体勢に入った。

 少年は、満足げに扉の出入り口付近で足を止めると、振り返り、3度目となるお辞儀をする。

 

 

「では、お疲れ様です。お先に失礼します」

 

「お疲れ様、気を付けて帰りなさいよ」

 

「はい」

 

 

 永琳は、診察室の閉められた扉の奥をしばらく見つめると、自身の仕事に取り掛かった。

 少年は、給料の入っている封筒の中身を確認することなく、廊下を少しばかり早く歩いて永遠亭の出口へと向かっていた。

 

 

「あっ……」

 

「笹原さん、上がりですか?」

 

 

 少年は歩いている途中で呼び止められ、声を発した人物の方へと振り向く。少年の目の前には、さくらんぼを入れた籠を抱えている兎の耳が生えた女の人がいた。

 その女の人とは、数多くいる迷いの竹林の兎のリーダーである因幡てゐに指示を出している人物であり、人里の置き薬システムにおける薬の補充を基本的に担っている人物である―――鈴仙だった。

 

 

「うん、そろそろ帰らないとね」

 

「あ、あのっ」

 

「なにかな?」

 

「お、お疲れ様ですっ」

 

「うん、お疲れ様。僕は先に上がるけど、お仕事がんばってね」

 

 

 鈴仙は、八意永琳も言っていたように人付き合いが苦手だった。苦手というか避けているところがあった。

 鈴仙は、自分から見知らぬ誰かに話しかけることはほとんどなく、見知った相手だとしても、話しかけられるまで待っていることがほとんどである。今の鈴仙を見ていても、人見知りということがひしひしと伝わって来る。人見知りの傾向は、少年に対しても大きくは変わらない。

 しかし、少年に対しては話しかけるぐらいのことはできるようになっていた。もちろん永琳や永遠亭に住んでいる者達に比べれば、比較するのもおこがましいが、確実に前に進んでいる。この鈴仙の変化も、少年がもたらした良い影響の一つだった。

 

 

「こ、これっ、持っていってくださいっ!」

 

「さくらんぼ?」

 

 

 鈴仙は、恥ずかしそうに頬を赤く染めながらも少年と目線を合わせて震える口から言葉を吐きだし、昼食に出そうと考えていたさくらんぼを少年へと手渡す。

 現在6月から7月に差し掛かろうとしているこの時期を考えればさくらんぼは旬の果物である。

 少年は、鈴仙に向けて笑顔でお礼を言うと、さくらんぼを受け取った。

 

 

「ありがとう。貰っていくよ。お疲れ様、また明日ね」

 

「はい、また明日……」

 

 

 鈴仙の声は、今にも消え入りそうだった。

 少年は、鈴仙に別れを告げて永遠亭の外へと出た。

 目指すは―――家族の待つマヨヒガである。

 


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