少年は見せつけるように何の傷もない左手を動かしながら、さも当然のことを話しているかのように平坦な表情で紫に向かって質問を投げかける。
「紫は、僕が決まり事を覚えるときの方法を知っているんだよね?」
「ええ、背中に刃物を突き刺して痛みと共に覚えるのよね」
少年は、紫の意見が正しいと示すように一度だけ頷いた。
「そうだよ。やっぱり知っているんじゃないか」
「それを知っていることと、怪我が治っていることに何の関係があるの?」
「あれ? おかしいな」
少年は、紫の言葉を耳にしてなおさら左手の怪我が消えている理由をどうして知らないのか不思議に思った。
少年の中では、決まり事を覚える方法を知っているということは、傷が治っている理由を知っているのと同義なのだ。
少年は、傷が完治している理由を知らないという知識の偏っている紫に向けて別の視点から質問を投げかけた。
「ちなみになんだけどさ。それってどこから得た情報なの? 別に紫が知っていたらいけないってわけじゃないんだけど……」
少年の決まり事を覚える方法については、家族内で
当然法に触れているというのだから―――人に言える内容ではなく、人に話してはならない内容である。だから、少年は今まで一度も他人に対して決まり事の話をしたことがなかった。それなのに紫が知っている。そこも、不思議に思うところではある。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは、別に紫が知っていること自体に問題があるわけではないということである。紫が知っているからと言って、困ることは何もない。ここは外の世界ではなく、幻想郷である。誰かに咎められるわけでも、捌かれるわけでもない。それに、家族である紫にだったらという気持ちもあった。
何処で知ったのかは分からないが、何かしらの方法で知ったのだろう。
だが、そのことを知っていて、どうして左手の怪我が治っていることに疑問を持っているのか不思議だった。
「このことを知っているのは、僕と僕の両親だけだったはずなんだよね。僕は、みんなにまだ決まり事の話をしていないしさ」
「昨日、貴方が私達の名前を覚えていた間に、貴方の家に行って貴方の両親が書いていた成長記録を取ってきたのよ。その中に決まり事について書いてあったわ」
「僕の両親が取っていた成長記録……」
少年は、紫の答えに目を見開いた。
少年は、両親が成長記録を取っていることを知らなかった。両親は、成長記録を取っていることを少年に伝えていなかった。
「そんな物があったんだね。ちょっと失念していたよ。そうだよ、戻って探せばよかったんじゃないか……」
少年は、外の世界から必要なものを探し出して持ってきた紫の行動にある希望を見出すと、考え込むようにして下を向き、ぶつぶつと呟いた。
藍は、俯いてぼそぼそと呟く少年の様子が気になり少年の顔を覗き込むようにして見つめる。
少年は、変わらず下を向いて真剣な表情をしていた。相当に何か気になることがあったようである。
「和友、どうしたんだ? 何か気になることでもあったのか?」
「ううん、なんでもないよ。ちょっと思うことがあっただけ……」
少年は藍の質問に言葉を濁して答え、意識を変えるように顔を振る。物理的に左右に振ることで先程思いついたとある可能性を思考から払いのけ、本来の話題へと意識を切り替えた。
「それにしても……」
少年の頭は、紫の最初の話である両親が記録していた自身の成長記録について考えを巡らせていた。
怪我がすばやく治ることは、明らかな異常である。とてもではないが人間業ではない。少年は、怪我が治っていることについて両親の取っていた成長記録に何一つ書いていないことを不思議に思っていた。
「僕の両親は、このことについて書いてなかったんだね。もしかして、決まり事の話を書いておけば分かると思ったのかな?」
少年は、そっと視線を上に向けて考えるしぐさを見せると、すぐさまいつもの言葉を口にした。
「まぁそんなことはどっちでもいいのか。結局僕が話せばいいんだもんね」
少年は、どっちでもいいのかと一人で納得すると、二人に見せつけるように人差し指と中指の二本立てた。
紫と藍は、少年の立てられた指に注視する。少年は、二人の視線が集まるのを確認すると両親が成長記録の中に書かれていなかったことについて話し始めた。
「決まり事を覚える際に、背中に刃物を突き刺した理由は2つあるんだよ。今の二人なら、少し考えれば分かるんじゃないかな。だって、今の二人は僕の左手の状態について認識しているわけだしね」
紫と藍は、少年の言うように、すでに決まり事を覚える際に刃物を‘背中に’突き刺していた理由が何なのか察しがついていた。
二人は、迷いが無いことを示すように揺らぐことなく真っ直ぐに少年の目を見つめている。
少年は、二人の視線から答えを知っていると踏み、話を進め出した。
「一つ目の理由は、傷跡が目につきにくいからだよ。背中なら、服を着ることになるから他人からはほとんど見えなくなるよね。多分二人は、最初にそう思ったんじゃないかな?」
「まさしくその通りよ」
「うん、それで合っているよ。それが全てではないけどね」
紫と藍は、少年の両親は周りの人間から見られないように少年の背中に刃物を突き立てたのだと、まさしく少年の言ったことを最初に想像した。
そして、刃物を突き刺していたのが間違いなく両親であるということも想像がついていた。
少年の手の長さでは、切り付けるというのならばともかく、突き刺すということをするのは不可能に近い。仮に届くとしても相当な危険を伴うことが予測された。
死なない程度に見えない位置に刃物を突き刺すことは非常に難しいのだ。少しでも力加減を間違えてしまえば、死んでしまうという大きなリスクがあるなかで刃物を刺すという行動をとるのは非常に危険である。
少年は、もう一つの理由を告げようと次の言葉を喉から吐き出そうとした。背中を刃物で傷つけている理由は、別に’他人から’見えない場所であるからと言うだけではない。
「そう……」
「もう一つの理由は、和友自身の目で見えないからだな」
少年は、最も重要な理由を言おうと口を開きかけたが、少年の言葉は先取りされるように藍の言葉で遮られた。
そっと紫の方へと視線を向けてみると、紫も特に表情を変えず、驚いている様子は見られない。少年は、紫が特に表情を変えていないことから藍と同じ答えを導き出していることを悟った。
(紫も……分かっているみたいだね)
少年は、今にも出そうになっていた言葉を飲み込んだ。藍も紫も容易に予測できる少年の次の言葉をすでに頭の中に宿している。両者が察しているというのならば、ここからの話は余分である。
「大正解。そこまで分かっているのなら、これ以上僕が話す必要はないよね」
少年は、察しのいい二人にやわらかな声色で正解を告げると、再びそっと空を見上げた。
空に昇っている太陽には雲がかかっており、影が差し迫っている。
少年の表情は、どこか浮かない表情だった。
紫と藍は、少年の物憂げな様子に顔を見合わせる。二人は、少年の表情から怪我が素早く治るという人間から外れているようなことを少年が話したくなかったのではないかと勘くぐった。
(いきなりどうしたのかしら?)
(もしかして、相当話したくない内容だったのではないのですか?)
(そうだったとしても、ここで引き下がる理由はないわ。いずれにせよ、このままじゃらちがあかないのよ)
ただ、今さら少年の気持ちを気にしても遅い。話はすでに終わってしまっている。気にするのであれば、話す前に気にする必要がある。それに―――少年から話し始めたのだから、気の遣いようもないのだ。
しかし、視界に映る少年の雰囲気からは、空気が重くなるような成分が放出されている。紫と藍の心は、重力に引っ張られるように息苦しい感情に支配された。
紫は、気持ちが落ち込みそうになるのを無視して、先程藍と話をした際に出た可能性について問いかけた。
「和友、貴方は痛みをほとんど感じていないわよね?」
「そうだね。痛みについては、もうほとんどないかな。慣れてしまったのか、能力が原因なのかは分からないけど……」
「やっぱりそうだったのね」
少年は視線を空から紫に向け、物憂げな表情を柔らかくして、特に隠すことなく痛みを感じていないという可能性を肯定した。痛みをほとんど感じていないという異常性を、今まで口から出したことのない事実を―――吐き出した。
紫と藍は、少年が嘘をついている可能性も視野に入れていたが、少年の言葉を信じることにした。
その方が今までのことについて説明がつき、納得ができるという理由で。ここで、少年が嘘をついても仕方がないという理由で。最初から決めつけにかかるように少年の言葉を信じて疑わなかった。
仮に少年が違うと言っても、逆に信じることができなかっただろう。判断材料、状況証拠が揃いすぎている状況で少年が何を言っても、信じることはできなかったはずである。
「痛みを与え続けられて無意識に能力が発動しているのでしょう。自身を守るために、能力が防衛に走っている。痛覚の境界線が曖昧になっているのよ」
「そうなんだろうね。僕には、つねられているのか触られているのかの境界が全く分からない」
紫は、少年が痛みを感じないことについて持論を述べ、能力が無意識に働いているのだと推測した。痛みという肉体に刻まれる苦痛を無意識のうちに少年が拒否しているため、能力が発動しているのだと推察していた。
実際に、少年の痛覚は麻痺している。麻痺しているというより、判断できなくなっている。正確に表現するのならば、境界線がずれているというのが正しいかもしれない。
要は―――痛みを感じるレベルの問題なのである。
具体例を持ち出せば、少年は撫でられるように触られているとつねられている感覚の境界線が曖昧である。
撫でられていることとつねられていることの差は、何が生み出しているのだろうか。それは痛みであり、触覚から得られる情報の違いによるものである。
昨日話し合いで紫から額を扇子で突かれている時のことを思い出してみれば分かる。紫に額を突かれている少年が無表情のままだったのは、それが別に痛くもなんともなかったから。
ただ―――それだけのことである。少年の額は、痛みを警告するように赤くなっていたのに、少年は表情一つ変えなかった。変えるだけの要素が何一つ伝わっていなかった。
「貴方の能力は、何も痛覚だけに発揮しているわけではないわ」
そして、少年の能力が発動しているのは何も痛覚に限った話ではなかった。
「貴方の能力は、痛覚だけじゃなく、痛みを感じなくなって認識できなくなった傷までも曖昧にした。傷は、痛みを認識できなければ無いのと変わらないわ。そんなものは、あってもなくても変わらないと言わないばかりにね」
「…………」
少年は紫の言葉に反論の言葉一つ言わず、沈黙によって肯定した。
少年は、自身の能力が境界を曖昧にする能力だと分かってからいろいろ考えた。今まで生きてきていた中で起こった出来事、今まで生活してきた中で感じた他人との違いによる疎外感の原因、その他、いろいろ考えた。
境界を曖昧にする能力は、その大半の現象を説明するのに十分な役割を果たした。
少年は、暫くの間何か考えるように沈黙した後にゆっくりと俯き、寂しそうな表情を浮かべた。
「紫、後で両親がとっていた僕の成長記録……読ませてね」
少年は、両親がとっていた成長記録を読ませてくれるようにお願いをする。何とも寂しそうな表情で、今にも泣きそうな瞳で訴えた。
「ええ、もちろんよ」
「ありがとう……」
少年は、今にも崩れそうな笑顔でお礼を告げた。紫と藍は、惹きつけられるように少年の顔を見たまま固まってしまった。
少年は、複雑な笑顔を浮かべたまま縁側から部屋の方へと足を進める。一歩二歩と足を前へと進ませていく。
少年は、あるところまで歩くと、くるりと反転して笑顔を作った。そこには先程の暗い雰囲気を少しだけ取り払った少年の顔があった。
「紫、能力の練習を始めよっか」
「和友……」
少年の表情からは、先ほどのずっしりとくる空気は感じられない。空気感が変わったというか、雰囲気が変わったとか、そういうレベルの変化ではなく、境界線が曖昧になってもともとのものが分からなくなる、別物になったというほどの違いがそこにはあった。
「もう、確認作業は終わったでしょ?」
「そうね。さっそく始めましょう」
少年は、何か辛いと思うことがあっても、気持ちを強引に切り替えることができる人間だ。
辛い気持ちをすぐに振り払うのは、大人でもそうそう簡単にできることではない。ましてや少年は、幻想郷へ来るまでに相当に大きいものを捨てている。両親、友達、日常を捨てている。
物事は、連続しているのだ。不連続に感情を切り替えることなど、決してできない。それは、少年にだっていえることだろう。
だからこそ―――少年の引きずる様子を一切見せずに強がる姿は、本当に強く美しいと思った。
紫は、無理をするように笑う少年に合わせて笑顔を作る。決して同情からではなく、少年の笑顔につられるようにして微笑み、少年の後ろに追随して部屋の中に入った。
藍は、紫の動きに慌てて動き出し、二人の流れに追随する。
「私も能力の練習に付き合ってもよろしいでしょうか?」
「もちろん構わないわよ。和友の能力の練習は、藍にやってもらうことなんだから。昨日からそういう話だったでしょう?」
「……そういえばそうでしたね」
藍は、少年の能力の練習の担当が自分であることを完全に忘れていた。もともと少年の能力の制御の練習は、藍の仕事だったのだ。
藍が能力の制御の練習を手伝うことになったのはつい最近のことで、少年が幻想郷に来る一日前に話したことである。さらには、紫は少年と藍と3人で話していた時にも、能力の練習は藍が行うと告げていた。
しかし、藍が少年の能力の制御の練習の担当が自分であることを忘れていたのも仕方がないといえば仕方がなかった。藍には、長い空白期が存在するのである。少年の心の中に入っていた1年間という期間が、間にはっきりと存在している。
藍は、1年も昔のこととなっている記憶を引っ張り出し、確かにそんなことを話したと自分の中で納得した。
「よろしく頼むわよ」
「任せてください」
紫は藍の答え聞いてよろしく頼むと合図を送り、藍は紫の視線に応えるように一度頷いた。
紫は、藍の返答に笑みを作ると少年の隣まで歩いて近づき、少年に視線を向ける。
「和友、ちょっと私についてきてもらえるかしら」
「分かったよ」
紫は、迷うことなくキッチンの方へと歩いていく。
少年は紫の動きに追随し、藍は二人について行った。
少年は、これから行われる能力の制御に―――わくわくする気持ちを抑えて、外の世界に帰りたい気持ちを抑えて、自分のやるべきことを見据えていた。