大きく息を吸って肺に空気を送り込み、心の中に一陣の風を吹かせる。
藍は、風に舞う吐き出したい言葉を拾い集め、素直にそのままの気持ちを口にした。
「今朝訪れました人里でのことなのですが……」
藍が最初に語り出したのは、筆を買った直後にした少年との会話についての話である。
「和友に無理をしないようにと言ったところ、明確な基準を一緒に作ろうと言われました」
藍は、少年に対して無理をしないで欲しいと頼んだ時に、明確な基準がなければ判断がつかないと言った少年の言葉を紫に伝えた。
話の初めに少年にとって何かを判断することは難しいことだということを知らせることで、これから話す内容の指針を確定させる。逸れないように、逃げ出さないように、羅針盤をさし示す。
藍は、強い意志を持って少年の話題の先陣を切った。
「和友は、能力の影響によって区別するという行為をすることが非常に難しくなっています」
区別をするということが少年にとって難しいということは、間違いなくこれからの少年の生き方に関わってくる問題である。
人里での少年の言葉は、明確な基準が無いと無理をしかねないということを示すものであり、それを止めるためのストッパーの存在が不可欠であることを暗示している。
少年は、明確な基準を作ってあげなければ、判断基準を見誤り、容易に暴走するのだ。方程式の解が発散し、藍や紫の予想しないところで収束することになる。
その結果―――世界が崩壊することだってありえる。
境界を曖昧にするというのは、境界を操作できる紫の能力と大きく違う。境界を操作するというのは、イメージとしては境界線を動かす、繋げるという行為に近い。あくまでも境界線は、そこにあってなくなることはない。
例えば、水たまりと地面との境界線を操作しても、水たまりは水たまりでしかないし、地面は地面でしかない。両者は、あくまでも元のままである。
そして、なにより違うのは、境界を操作したものを元に戻すことができるということである。繋げたものを切り離す、ずらしたものを元に戻すということができるのだ。
しかし、境界を曖昧にするというのは、先の例でいえば水たまりと地面を一緒にするということである。水でもなく、地面でもない‘何か’が生まれるということである。
そこには、常識も理解も何もない―――未知というものができあがる。
未知―――無限の可能性を持つものが何を起こしても不思議はない。
それこそ世界の終わりだって作り出せるかもしれない。
そして、境界線が曖昧になったものは、元には戻らない。どこに境界線があったのかも分からなくなる。曖昧なものを定義するには、自分で新しく境界線を引く必要があるのだ。それは少年にはできないことで、境界そのものが無くなるような状態では、紫でさえも手が出せないものだった。
そんな取り返しのつかないことを防ぐためにも、少年を止めるためのストッパーの存在は不可欠といえた。
「和友が幻想郷で安全に暮らしていくためには、しっかりと判断しなければならないことがあります。私たちが和友にとって必要な、確実な基準を作る必要があるでしょう」
「それについては私も協力しましょう。できるだけあの子が、幻想郷で自由に、安全に暮らしていけるようにね」
紫は藍の意図を理解し、二人で考えれば、よりよい基準ができるだろうと言って笑顔を作った。
少年の決まり事には、穴の無いような網を敷く必要がある。壁に見えるような、何者も通ることができない網が必要になる。少しでも通ることのできる穴があれば、少年は容易に逸脱してしまう。そうなってからでは遅いのである。
しかし、穴があると抜けられるからといって穴の無い網を作ればいいじゃないかと簡単に結論付けることはできない。全く抜けどころのない網を作ることは、非常に難しいことである。
ほころびの全くない、どの視点から見ても穴が見当たらない網を作ることは、一人でやるには難易度が高すぎるのだ。1つの角度から見れば穴が無いように見えても、多角的に見れば穴は見つかる。穴は、様々な視点から見なければ、決して埋まることはない。
そのことを考えても、紫の協力は必要不可欠だった。
「和友は、少しでも穴を作れば、そこを抜けてしまいます。しっかりしたものを作りましょう」
「もちろんよ。決して抜けることのできない網を敷いてみせるわ」
「それを聞いて安心いたしました」
藍は、紫の明確な立場の明示に不安を取り払う。面倒くさがりな紫に一緒に思考してもらうという一番の難関を越えて一気に気持ちが軽くなった。
「話はこれだけではないのでしょう?」
「はい、話しておかなければならないことは他にもあります」
藍は、一息つくと、次の話を始めた。
「和友の筆を買った際の話なのですが……」
藍は、人里であったことを次々と言葉にする。他愛もないことから今後に関わるようなことまで、思い出すように振り絞った。
少年の行動や言動の中には、藍が不思議に思っていないだけで重要なことが他にも含まれている可能性がある。一つ一つの何気ないサインを見落としているかもしれない。それを紫に確認してもらうためにも、どんな小さなことでも詳しく話す必要があった。
「……ということがあったのですよ。筆一本の店主は、和友のことについて何か分かっている雰囲気でした」
藍は、思いつく限りのことを口にする。話していないことが何ひとつ残らないように蓄積した記憶を全て口に出していく。
「他にも……」
藍は、一つ一つ話していく最中に、少年と楽しく過ごした時間を思い出し、知らず知らずのうちに笑みを深めていった。
紫は、表情が変化していく藍の様子を興味深げに、けれどそれを悟られないように観察する。
「和友は、本当に楽しそうに笑うのですよ。人里で珍しそうなものを見つけては、嬉しそうに私に尋ねてきまして、そんな和友の顔を見ていると思わずこちらも笑顔になってしまいました」
藍の表情は、笑顔で満たされている。少年との人里でのやり取りがよほど楽しかったのだと容易に察することのできる表情である。
紫は、昨日の重い雰囲気を一掃し、予想以上に仲良くなっている藍と少年の関係に素直に喜びの感情を抱えた。
「私の思っていた以上に有意義な時間を過ごすことができたのね」
「本当に楽しかったです。和友は、今度紫様も連れて行こうと言っていましたよ」
紫は、藍から告げられた少年の提案に静かに目をつむり、口角を上げて一言呟いた。
「考えておきましょう」
「本当ですか!?」
藍は、紫が了承してくれるとは思っておらず、驚いた。
考えておくというのは、紫にとって了承を示す言葉である。
紫は、基本的に曖昧な表現を使う場合には肯定の意であることが多い。なぜならば、嫌であるならはっきりと断るからである。曖昧な表現をするということは、藍の経験上、肯定を示していると言っても差し支えなかった。
「なによ、疑っているの?」
「い、いえ、そういうわけではないのですが……」
「貴方がそれほど楽しかったのに、私がそれを知らないっていうのはなんだか不公平じゃない」
「ふふ、絶対に来てくださいね」
「はいはい、もうその話はいいわよ」
藍は、紫の素直じゃない言葉に笑みを深める。
本当はどんなことがあったのか、どんな思いを抱いたのか、どれほど楽しかったのか気になって仕方がないのだろう。普段なら決して人里での話をしない藍が、ここまで話していることに興味をもっているのだ。
藍は紫の反応に少し嬉しくなった。できれば、このまま楽しい話をしていたいという欲望にかられた。
だが、少年についての話をいつまでも停滞させておくわけにもいかない。話の内容は終盤に差し掛かっている。
話は、藍が最も紫に話しておきたかった内容に入り始める。
藍の話の内容は、ついに本題である帰り際の‘普通ではない出来事’についての話を迎えた。
「分かりました。では、話を戻しましょう。ここからが私の申しあげたいことになります」
藍は、前置きをすぐさま放り投げて本題に入り始める。先程までの明るい声ではなく、落ち着いた声で、真剣な顔で心の中に溜めこんでいた想いを吐き出した。
「結論から言います。和友の能力が外に漏れ出していると思われます」
「そう」
「……驚かないのですね」
「驚くところなんて何もないでしょう? 漏れ出して当然なのよ。だって、まだ何もしていないのよ? 能力の制御の練習はおろか、練習方法も詳しく考えていないのに、和友の能力が漏れ出していなかったらそれはそれで驚きだわ」
「確かに、おっしゃる通りですね……」
紫は、藍の予想に反して驚くことはなかった。
少年の能力が漏れ出しているのは、今に始まったことではない。漏れ出しているのは、外の世界にいたときから変わらないのだ。外の世界でも夢が現実になる程度には能力が漏れ出していたのだから。
能力の制御の練習を一切していない今の状況において、能力の漏洩が止まっている可能性は万に一つもない。それは、自然に止まることは絶対にないのだから幻想郷においても漏れ出していて当然なのである。
「漏れ出しているのは確かだけど、藍がそう思ったということは、そう思うだけの何かがあったということよね? 和友の能力が漏れ出している。藍は、どうしてそう思うのかしら? 詳しく話しなさい」
「人里へ移動している際に、和友が妖精に興味をもったので近づいて触らせたのですが……」
藍は、紫に分かってもらおうと必死に両手を動かしながら事の重要性を伝えようとする。先程と同様に始まりから終わりまでを一言ずつ正確に伝わるように紡いでいく。
「大きな力を持たない妖精は、基本的に人の言葉を話せません。教えでもしない限りは、決してしゃべらないものです」
藍が少年の能力が漏れていると考えるきっかけとなった出来事は、帰り際の妖精が起こした行動の異常性である。妖精が自我を持ち、自分に向かって戦いに応戦したことである。
藍は、自分が感じた嫌な予感というものを紫に対しても感じてもらおうと感情を込めて声を発した。
「ですが、和友が触ったと思われる妖精は、人里からの帰り際に人の言葉を口にしたのです」
「藍、それだけじゃ何も伝わらないわ」
紫は、感情の込められた藍の言葉を鵜呑みにはしなかった。
紫の視点はあくまで第三者からの視点であり、冷静に状況の分析をする立場である。そこに感情が入って見えるはずのものが見えなくなっては元も子もない。
紫は、感情を込めて言う藍に対して落ち着いた声色で告げた。
「和友の能力が漏れ出しているという根拠は何なの? 和友が触れたと‘思われる’妖精がしゃべりだしたという話だけなら、和友の能力が漏れだしていると考えることはできないと思うのだけど」
「人の言葉を何一つしゃべることのできなかった妖精がいきなりしゃべりだしたのですよ。人に悪戯することしか考えないような妖精が自我を持ったのです」
藍は、自分と紫との間に存在する認識のギャップに焦りを感じていた。藍の話に対する紫の反応は、余りにそっけない。
藍は、焦る想いをそのまま言葉に乗せて精いっぱいできる限りの説明を行う。あり得ないことが起きているのだと、新しい情報を並べて紫へと言葉を送った。
「妖精は、和友によく似た自我を持っていました。負けず嫌いで、意志を曲げない、そんな自我を持っていました。生きるために私に戦いを挑んでくるほどの強い意志を持っていました」
「何度も言うようで悪いけど―――藍、それだけでは和友の能力が漏れ出していると断言することはできないわ」
紫は、藍をたしなめるように告げた。
妖精が藍に勝負を挑むというのは、想像することも難しいほどにありえないことである。それが力のある妖精ならばともかく、藍の口にしている妖精が力なき普段空中に浮いている妖精のことなのは明らかであり、そんな力の無い妖精が藍に立ち向かうなど天変地異が起きても起こりえないことだった。
紫は、藍の言葉を聞いて事の大きさにはやる気持ちが無いわけじゃなかった。藍と同じように妖精が勝負を挑んできたという情報に驚き、少年の能力の影響を心配する気持ちがあった。
しかし、紫まで感情的になってはならない。それでは、何も見えてこなくなる。
紫は、あくまで第三者でいる必要があるのだ。同じ思考の人間が二人いても、何も新しいものは見えてこない。見落としている情報は、違う価値観から生まれてくる、違う視点から見えてくるものなのだから。
「まだ、最初から妖精がしゃべることができた可能性、妖精の言葉が貴方たちに
藍は、ハッとしたように表情を変えた。
確かに紫の言う通りである。
少年の能力が
「確証となるものとまでは言わないまでも、後ひと押しが欲しいわね」
「後ひと押しですか……」
藍は、紫の言葉に視線を下げて頭を悩ませた。
「他に、何か和友の能力が漏れ出しているところは……」
藍は、持ち合わせている記憶を総動員して、紫の言う‘ひと押し’となる少年の違和感を探す。少年が幻想郷にやってきた昨日からのことを思い返す。
しかし、いくら考えても少年の能力が漏れ出しているという事例が思い当たらなかった。妖精に大きな影響を与えたこと、それ以外には何も思いつかなかった。
「何か……何かないのか……」
何度も言うようであるが、妖精は人間に対して悪戯するということ以外に意志を持たない。お腹が減ることもなければ、死の恐怖を感じることもない。
けれども、少年に触れていた妖精ははっきりと死を拒絶した。藍は、それこそが少年の能力が漏れ出している証拠だと思った。それこそが藍にとっての少年の能力が
だが―――それは紫に拒絶されてしまっている。唯一の出来事を抑えられてしまっている。
「見つからない……」
藍は、あくまでこの妖精の一件で嫌な予感がしたのである。少年が妖精に与えた影響の大きさにとてつもない異常性を感じたのだ。
しかし、言ってしまえばそれだけである。それ以外の何かがあるわけではなかった。
「先程の話だけでは、納得していただけないのですか?」
「無理ね。断定しかねるわ」
藍は、苦し紛れに紫へと問いかけるものの一刀両断されてしまう。これでは、紫に事の異常性を分かってもらえない。
紫には、なんとしても少年の能力が漏れ出していることを分かってもらわなければならない。そうでなくては、少年の将来や幻想郷の未来に多大な影響が出ることは間違いない。唯一分かっている自分が何とかしなければならない、そんな義務感というのか、責任感が藍をかりたてていた。
「あの……」
「私は、ただ客観的にものを言っているだけよ? 意地悪でこんなことを言っているわけじゃないわ」
紫は、藍の意志の強さを試すように何度も否定の言葉を投げつける。
「貴方の言い草は、余りに自分よがりの憶測にすぎないわ。相手を納得させるのならば、私の反論を論破してみなさい」
「…………」
紫は、あくまで感情を含めずに藍の話を聞いている。
藍の話は、妖精が悪戯でふざけている可能性を捨て切れられない。
紫は、藍とは違って現場にいたわけでも、妖精の悲痛な叫び声を実際に聞いたわけでもないのだ。もしも、実際に聞いていたのであれば、それが演技ではないと分かったことだろうが、今更なにを言ったところで行かなかったという事実は変わらない。
見てきたものをそのまま伝える術があれば―――とは思うものの、そんなものはなく、藍は言葉だけで何とか事の重大性を伝えなければならなかった。
だが、言葉だけでは妖精が立ち向かってきた状況を再現することはできない。口頭の話だけでは、妖精から感じた違和感を余すことなく伝えることができないため、紫を納得させることができないのだ。
紫は、口を閉ざして困った顔を浮かべている藍に向かって他に何も無いのかと疑問を口にする。
「何もないの?」
「…………」
藍は、紫の疑問の言葉に対して何も言い出すことができなかった。何一つ言葉が頭の中に思いつかなかった。
しかし、何度も言うが、なんとかして紫に分かってもらわなくてはならない。
藍は、ないものをひねり出すように表情を曇らせながらも、僅かに口を開いた。閉ざした口を強い意志を持って開けて、最後のひと押しの言葉を吐き出した。
「……私の、勘です」
紫は、藍の言葉に一瞬、呆気にとられた。藍は、紫の他にないのかという言葉に対して自身の勘を根拠として盛り込んできたのである。
「本気で言っているの?」
「本気です。冗談でも何でもありません」
紫の瞳に映る藍の顔は、真面目に真剣なものだった。藍は、ふざけている様子を微塵も見せることなく、紫の目を真っ直ぐ見つめ返している。
藍の言葉は、苦し紛れに出てきた言葉かもしれない。けれども、藍の言葉は自分の信用を賭すだけの確証があるということを示す言葉である。他人に何と言われようとも、曲がらないという感覚に頼った言葉である。
紫は、予想の斜め上を行く藍の言葉に表情を崩すと、笑みを浮かべた。
まぁ傷は無くなるよね。傷は、大抵治るものなんだから。例外はあるけど。