少年と藍の二人は、重くなった雰囲気を置き去りにして次の目的地へと足を進める。進行方向に対して左を歩くのが藍であり、右を歩くのが少年である。
二人が向かう次の目的地は、服屋である。人里で買い物をしていく中、様々なことがあり順調とは言い難いものの、人里に来た当初に立てた予定通りに進もうとしていた。
現在の場所は、筆一本を出て150mほど進んだあたりである。
「これから服を買いに行くんだよね? ここから近いのかな?」
「ここから割と近い場所にある。見えるか? 向こうの方にあるのだが」
「……んー?」
「どうした? 見えないのか?」
藍は、右腕を伸ばしながら指さして服屋がある場所を少年に教えた。少年は、藍が指さしている方向を見つめる。
しかし、指の先には店や民家が並んでいるだけでどれを指さしているのか全く分からなかった。
少年は、見ている角度が悪いのかなと考える。藍と同じ角度から見れば見えるのだろうと行動を開始し、指をさして歩く藍の隣にくっつくように近づき、角度の調整に入った。
「な、なんだ?」
「ちょっと、じっとしてて」
「お、おい、和友?」
藍は、少年の行動に首を
少年は、藍の気も知らずに止まることなく藍にどんどん近づき、体が触れるところまで接近する。藍は、
「ど、どうしたのだ?」
「ちょっとごめんね」
少年は、一言告げるとくっ付くほどに近づけていた体をさらに重ねるように寄せる。
藍は、超至近距離にまで距離を無くした少年に気が気じゃなくなっていた。
「和友っ……ち、近いぞ」
「鬱陶しいかな?」
「い、いや、そんなことはないのだが……」
「じゃあ、もうちょっと我慢してね。よっと……どれどれ?」
少年は、藍の伸ばされた右腕をくぐりぬけて藍の正面に出る。ついに藍と重なるように縦に並ぶ形になった。
正面から見るとちょうど藍が少年に後ろから抱きついているような形になっている。朝に玄関先で少年に後ろから抱きついた時と同じような体勢だった。
「ん~」
「な、な……」
藍は、あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にする。少年と密着するような距離に、心臓の鼓動が大きくなり、速くなる。少年に聞こえているのではないかと思うぐらいにうるさく鳴り響く。
(も、もしかして私に甘えてきているのか?)
藍は、少年の突然の行動に恥ずかしさと共に少しだけ期待を抱えた。自分が少年のことを大事に想い頼っている状況と同じで、少年が甘えてきているのではないかと、心を預けてくれているのではないかと、少しの期待を抱えた。
(抱きしめてやりたい……)
藍は、無性に少年を背中から抱きしめたい気持ちにかられる。少年は、すぐ目の前にいて今すぐにでも抱きしめることができる位置にいる。
藍は、そっと少年を抱きしめようとしたところで周りから向けられている視線を感じ、自分の行動を制止した。
(だが、ここは人の目が多すぎる。いくら何でもこんな公衆の面前で抱きつくなんて、私には恥ずかしすぎてできないっ!)
実際に抱きしめた朝の時と今とでは、明らかに状況が違う。
ここは、マヨヒガの中ではなく人里の通りのど真ん中である。TPOがなっていない。マヨヒガで甘えてくる分には受け止めるような余裕があるが、人里でそのようなことができるほど、心に余裕はなかった。
ただでさえ人里にやってきている妖怪ということで注目を集める藍に、さらに目線が集まっている。緊張のあまりそう思ってしまっているのかもしれないが、視線がいつもより多い気がしていた。
藍は、追い込まれていく状況に顔を赤くして口をパクパクさせると、少し遅れて声を発した。
「か、和友っ!? いきなり何をするのだ?」
「どうしたの? 僕は特に何もしてないよ?」
「いや、この状況が……」
「ん~~?」
藍の眼には、抱きしめられるような形になっているのにも関わらず、特に様子の変わらない少年の後ろ姿が映っている。藍の気も知らないで、何も変わらない平常心の少年が映っていた。
少年は、藍の指し示した方角を再び細めで見ると、藍と同じように指をさす。藍の伸ばした手と少年の伸ばした手が重なるように二人の目的地を指し示した。
「どうした? 同じ方向を指さして」
「こっち?」
藍は、ほんのり赤くなった顔のまま少年の頭が傾くのを見つめる。
少年は、指さした状態で首をひねり、できるだけ藍に向かって顔を向けた。とても困ったような顔が藍の視界に映った。
藍は、そんな顔もできるのだなと微笑みながら少年が何をしようとしていたのか察した。
「はぁ、そういうことか……そうだな、和友が急に甘えてくるわけないか……」
藍は、大きく息を吐いて体の中から空気と動揺を吐き出し、期待と恥ずかしさに揺らいだ心を落ち着ける。
少年は、別に藍に対して甘えてきているわけではない。ただ、藍の指差している服屋がどこにあるのか確認したいだけなのだ。
「あれかな?」
「違う、それは茶屋だ。服屋は、その右側の店だよ」
少年は、指さしている方角が合っているのか確認を取ったが、どうやら指さしている場所は狙った場所とは違っているようだった。
藍は、目の前で歩いている少年の伸ばした右手を掴む。そして、少年の指がさしている位置を分かるか分からない程度に右側にずらした。
「ここなの?」
「そうだ」
少年は、藍に動かされた自分の右手を確認する。目を凝らす、先程と同じように遠くを見つめる。
遠くを見つめる少年の目は薄く細まり、ぱちぱちと
「この方角に服屋が……」
少年は、遠くを見つめ、指さした先に服屋があるのかどうかを懸命に視認しようと必死になっていた。
だが、暫くの間遠くを見つめて疲れてしまったようで伸ばしていた右腕を下げる。どうやら全く分からなかったようで、先程と同じように首を
「はぁ……僕には全く見えないや。僕もそこまで目が悪いわけじゃないんだけどな」
少年には、先程より近づいている今となっても服屋の存在が確認できなかった。ただ、全く見えないというわけではなく、建物が建っているのはかろうじて視認できる。
しかし、それは見えているとは言わない。区別ができなければ、服屋が見えているとは言わない。
最初に、見えるか? と藍が少年に尋ねた時、少年には服屋など欠片も見えていなかった。
少年があれかな? と尋ねた時に指をさすことができたのは、完全なる当てずっぽうで、ただ単に藍が示した方向に向かって指さしただけだった。
「妖怪と人間では、見える距離が違うのだろうな」
藍は、少年が見えなかった理由を述べる。
目で見える距離の違いは種族差によるものだ。
妖怪と人間には、種族差と呼ばれる大きな差が存在する。力の大きさ、生命力、寿命、細かく言えば、藍の言ったような見える距離の違いまで、様々な部分で種族というものによる差が存在している。
種族の差は、二人の間に埋まらないほどの大きな溝を作りだしている。人間と妖怪ではいうまでもなく、妖怪の中でも、鬼、天狗、河童といったように種族による違いというものが能力に大きな違いを生み出している。
それぞれが、それぞれの特性を持ち合わせているのである。
「藍には、この指の先にある服屋がはっきり見えているんだよね?」
「そうだ。私の目には、はっきりと服屋が映し出されているよ」
少年は確認するように藍にもう一度尋ねるが、返って来る答えは同じで、はっきりと見えていると告げられた。
「妖怪と人間って、どうしてこんなに見える距離が違うんだろうね。見た目はそこまで違わないのにさ」
「見た目も全然違うと思うぞ」
「僕には同じように見えるや。妖怪も人間も同じに見えるよ」
藍は妖怪と人間をひとくくりにする少年にすぐさま突っ込みを入れたが、肝心の少年には人間と妖怪の違いが分からない様子だった。
少年から見た妖怪の姿は、少年の知っている人間となんら変わらない。それは、尻尾の生えている藍にだって言えることである。少年には、紫はもちろんのこと、尻尾の生えている藍までも人間に見えている。
妖怪の楽園である幻想郷で1日の間生活をした少年ではあるが、人間と妖怪との区別の仕方が全くついていなかった。
「どこが違うのか僕には、さっぱりだ」
少年は、幻想郷に来て初めて妖怪という生き物を知った。
少年の眼に映った妖怪は、今まで生活してきた中で見てきた心優しい人間と同じに見えている。何一つ変わっているところはない。
妖怪には、特殊な能力があるじゃないか、空を飛べるじゃないかという人もいるかもしれないが、少年にとっては空を飛ぶことができるとか、スキマを作ることができるとか、人間ではおおよそできないことができるとか、そんなことは些細な違いである。
大きい物差ししか持っていない少年は、何をもって妖怪というのか、何をもって妖怪と人間を判断するのか分からなかった。
それを普通と判断するのか、異常と判断するのかは、持っている物差し(価値観)によって決まる。
持っている物差しの長さと形状は、持っている人物によってまちまちである。
普通というのは、自分が持っている物差しで測った値の結果である。
異常というのは、自分の持っている物差しで測れない値の結果である。
人によって持っている物差しが違うのだから、同じ長さを測ることはできない。
1cmは2cmかもしれない、そんなあやふやなものが、価値観というものである。
少年の物差しでは、妖怪と人間とでは違いなんてなかった。それが普通だった。それが、少年の価値観である。
実際、人間と妖怪の区別が付いていない少年は、藍や紫を認識するために、人間を認識する場合と同様の方法を取って認識をしている。書き記すという行為によって識別を行っている。
少年は幻想郷に来てから、紫や藍のことを妖怪扱いしたことは一度もない。話している時も、食事を取っている時も、飛んでいる時も、力を使っている時も偏見の目で見ることはなかった。
少年にとっては、相手が妖怪だろうが人間だろうがどっちでもいいのだ。そんなことはどっちでも変わらない。もしも、藍が人間だとしても少年から見た藍は変わらないままであろう。
大事なのは相手が何であるのかではない―――相手が誰であるかということ。相手が誰であるかが最も大事なことなのである。
藍も紫も、そんな少年の偏見のない純粋な心に気を楽にしているし、心を開くことができている。特別視をされないということは、二人にとってそれだけの意味があることだった。
「まぁ、そんなのはどっちでもいいや。結局考えても答えなんて見つからないし、見つかったところで、何かが変わるわけでもない。僕は僕で、藍は藍なんだし」
「和友のそういうざっくりなところ結構好きだぞ。妖怪を特別扱いしない人間は酷く貴重だ。私にとっても、紫様にとっても、気が楽だからな」
「そういってもらえると助かるよ」
少年は、人間と妖怪でどこが違うのか思考をした結果、終着地点であるどっちでもいいのか、という答えに辿り着いた。
少年には、相手の立場で対応を変えるなんて器用なことはできない。例外としてあるといえば、先生と呼ばれる学校の教師、医者、警察などの制服を来ている人物に対しては、決まり事によって敬語を使う、指示に従うという区別をしている。
そのように少年の中において決まり事で区別しているものは例外であるが、少年は基本的に差別をしない、区別もしない―――というかできない。
少年が学校に通っている時もそうだった。少年は、学校に通っていて様々な人間と出会った。
しかし、少年にとっては相手が大きかろうが小さかろうが、不細工だろうが可愛かろうがかっこよかろうが、そんなものは関係なかった。そのような区分は、少年の中に存在しないのだから。
少年は、書き記す行為によって心の中に刻みこむことで何とか判別しているにすぎない。少年の視点は、常に曖昧で不確定で揺らいでいる。
少年のどっちでもいいという結果は―――見る視点が定まらないことによる帰着だった。
「なんか話が逸れちゃったけど……とりあえず、茶屋の隣に服屋があるのは分かったよ」
少年は、これから考えることもないであろう妖怪と人間で何が違うのかという答えを保留として話を変えた。
「話が変わるんだけど、どうして商店って隣接して建っているのかな? 僕の世界でも商店街があって店が立ち並んでいるけど、あれって理由があったりするの?」
少年は、純粋に疑問に思ったことを藍に笑顔を向けて質問している。少年の様子は、まさに年頃の少年が好奇心であれこれ質問しているのと同じだった。
少年は、目新しい物に触れて心を躍らせている、人里を思う存分満喫している。
藍は、少年の楽しそうな顔を見ているだけで、朗らかな気持ちになった。
「和友、人里は楽しいか?」
「楽しいよ。新しいものがいっぱいあるからね」
少年は、少しだけ前に走りだし振り向き、少年の顔が藍から見て取れるようになる。少年は、喜びをそのままに、後ろに歩きながら藍に満面の笑顔を向けた。
「藍は、楽しくないの?」
「いや、私も楽しいよ。こうやって誰かと人里を歩くのも久々なのだ。人里へ来るときはいつも一人だったからな」
藍は、人里へ来てこれほどまでに楽しんだことがなかった。人里へ来るときはいつだって一人で、用事を完遂することで頭がいっぱいで、別のことなど考えたこともなかった。
藍は、楽しんでいる少年につられるように、今までありきたりだった人里での買い物に楽しさを感じている。少年の楽しんでいる様子を見ていると、引きずられるように自分も楽しくなってくる。少年の振りまく笑顔が藍へと伝搬し、普段固くなっている藍の表情を柔らかくしてくれる。
藍は、心の底から人里での買い物を楽しんでいた。
「いつも一人で買い物に来ていたの? 紫とは一緒に来たりとかしなかったの?」
「紫様は面倒くさがりな方だからな。人里に紫様が来るということは、それなりに影響があることなのだ」
紫が人里へ来るということには色々と問題がある。幻想郷の管理人である八雲紫が人里に来るということがどういうことなのか想像すれば、分かってもらえるはずである。
イメージ的には、国の王様が市民外に降り立つようなイメージをしてもらえばよい。もちろん種族の違いによる畏怖はあれども、大きくは違わないはずである。
「紫様は、人里の人間に群がられるのを嫌がられる。嫌がっている紫様を連れ出すわけにもいかないだろう」
幻想郷を大きく変える力を持っている紫には、どうしても人々からの要望が飛び交ってしまう。人々からああして欲しい、もう少しこうならないかといったお願いをされることが多くなる。
それは、紫が人里の人間から頼られているということを表しているのかもしれないし、頼ってくれる人々からの気持ちは紫からしても嫌なものではないとは思うが、買い物をする分には迷惑な話であり、答えられない要望を聞くのは気分がよくない。
結局のところ人間に良かれと思うこと=妖怪にとって良くないことの構図になることが多いうえに、個人の意見を受け入れてしまえば、なし崩しに願いを聞き入れることに繋がってしまうため、お願いには答えられないのである。
「理由はそれだけではない。買い物に行こうにも、紫様が起きていなければ話にならないだろう? 安全の都合上、夜に買い物はできないからな。朝か昼に行くしかないのだが……起きておいでなければ連れていくことは不可能だ」
実際のところ、藍が一人で行動しているのは買い物に限った話ではない。
紫と藍では、生活のスタイルが違いすぎるため、ほとんどの場合において別々に行動をとることがほとんどだった。
具体的には、紫の活動時間が完全に夜型なので、昼に動いている藍と一緒に行動する機会があまりなかった。藍が紫と一緒にいる時間というのは、主にお互いに起きている夜の時間帯だけである。
少年は、藍の返答に素直に疑問に思う。寝ているのであれば、起こせばいいのである。
「そう言えば、紫ってずっと寝ているんだったね。紫を起こすっていうわけにはいかなかったの?」
「そんな畏れ多いことはできないよ。私と紫様の関係は、そんな親密な関係ではないのだ。思えば、前提条件として紫様と買い物に来て楽しいのかと問われたら頭を悩ませるところだな。息苦しくて耐えられないかもしれない。紫様も別に私と買い物をしたいなんて思っておられないだろう」
藍は、少年の言葉に頬をかき、少し都合が悪そうな表情を作った。
少年は、藍の言葉を聞いて意外そうな顔をする。昨日の様子しか知らない少年は、紫と藍はもっと仲が良く、言いたいことを言い合える仲だと思っていた。
「えっ、でも、昨日は結構気軽に喋っていたよね?」
「昨日は、その、なんというか……和友のことで色々あったからな」
藍は、少年の質問にはっきりと答えることができずに歯切れを悪くしながら言葉を吐き出した。
昨日は、確かに紫に対して言いたいことをバンバンと言えていたような気がする。
会話の内容が少年に関わることだったからなのか、少年の心の中に入って1年の時間を過ごしたためにいつもの精神状態じゃ無かったからなのか、原因は定かではないが、何にせよ少年によってもたらされた変化であることは間違いが無く、少年が原因の一端を担っていたのは明白である。
少年は、話しにくそうにしている藍に向かって、嬉しそうな顔で言った。
「まぁ、紫のことはどっちにしても、藍が楽しんでくれているのなら僕も嬉しいよ」
「ああ、今は和友がいるから一人じゃない。私も楽しませてもらっているよ」
「どこか行くときは、僕も誘ってくれていいからね。もちろん僕は、紫も一緒の方がいいけどさ」
藍は、少年の物言いに嬉しくなった。
少年は、ここにいない紫のことも忘れていない。少年の言うように3人でどこかに出かけるのもいいだろう。
藍は、3人で出かけるイメージを浮かべる。藍と紫の2人だけだと息苦しくなる空気が一切見当たらない。少年がいることで一気に柔らかくなる。
ああ、楽しそうだ。
どこがいいだろうか。紫様のことを考えて、人が余りいない静かな場所が良いだろう。弁当を作って、皆で食事をしながらのんびりするのもいいかもしれない。
いろんな話ができそうだ。いろんなことができそうだ。たくさん笑えそうだ。想像の中の自分は、常に笑っていた。紫様も笑顔を見せていた。その中心には、少年がいた。なんとも、楽しそうだった。少年を中心に笑顔の輪が広がっていた。
藍は、頭の中に広がる想像に頬を緩ませた。
「そうだな。今度は3人でどこかに出かけられるといいな」
「うん! 楽しみだなぁ」
少年は大きく頷き、再び前を向いて歩き始めた。
藍は、笑顔であろう少年の後ろ姿を見つめる。
「誰かと一緒に何かをすることは、楽しいこと。本当にそのとおりだったのだな」
藍は、いつも一人で人里を歩いていた。いつも一人で買い物に来ていた。
だけども、現在は一人ではない―――藍の前には楽しそうにしている少年がいる。
もう、一人ぼっちではなくなった。
誰かと何かを一緒にすることは楽しいことである。
藍は、よく言われている人間達の言葉が分かったような気がした。
楽しさは、伝搬する。感情は―――伝搬するのである。
内側にある明るい感情は、表情にも伝搬して自然と頬を緩ませる。本当に人を笑顔にするのが上手い子だ、藍は少年に対して優しい気持ちが沸き立つのを感じていた。
「あっ……」
少年は、ふと足を止めて藍と歩幅を合わせ藍の隣に並走する。
藍は、唐突に止まった少年の様子に質問を投げかけた。
「どうした?」
「そういえば、質問の答えを聞いていなかったね。それで、店が立ち並んでいる理由ってなんなのかな?」
「そう言えば説明していなかったな」
少年は、先ほど話していた最初の話題をもう一度藍へと振った。確かに先程は、話がそれてしまい店が隣接することに関する話ができていなかった。
「店同士が近くに隣接しているのは、その方が便利だからだよ。人里では店同士で競合することがほとんどないからな。客を取り合うことはほとんどない」
店が隣接している、それが人里の商店が上手くやれている理由の一つだった。
商店は孤立しているよりも集まっている方が、都合がいいのである。
人里には、商業区画が作られている。人里のある場所のある面積に商売人がこぞって集まっている。商業区のように売り場が一か所に集まるメリットは、集客能力の向上である。
「そんな安定した状態でついでにあれこれ買い物をできる状況が作り出されれば、ものが売れやすくなるのは自明の理だろう?」
店が集まる利点は―――物が売れるということである。人里の人間は、商業区画に行けば欲しい物がほとんど見つかる。
人々は、欲しい物を買うために商業地区に集まる。人が集まれば活気が出てくる。人は活気のあるところに集まる。活気があるところに来て気持ちが上がれば、いらないものを買う。来ただけで買うつもりのない人も欲しい物が見つかるかもしれない。
人や物が集まるということは、物が売れるという相乗効果を生み出すのである。
「それってある意味、独占しているってことだよね。商売やると一生生きていけそうな気がするよ」
「そうなったら、誰かが同じような店を構えるのではないか? 儲かると分かれば手を出したくなるのが商人の気質だ。きっとそんなに上手くいきはしない」
少年の意見は、非常に的を射ているように感じられる。ほとんど競合しないということは、独占しているのと変わらない。独占できてしまえば、利益を確保するのは容易である。
しかし現実は、商売をやれば生きていけるというほど甘くはない。人がいて金が入れば、必ず競争が存在する。競争があまり存在しないといえども、需要があれば供給に走る人物は必ず出てくる。そうなれば、数少ない競合が始まる。客は、一定数しか存在しないのだから取り合いが発生するのだ。
その中で勝つために皆、身を削っている。誰には負けたくない。あそこの店には負けたくないといった競争心が抗争を生みだす。その結果、強者が勝ち残るのみである。
戦いで勝ったものが市場を独占する。今の状態で落ち着いているのは、技術が卓越したものだけが残っている現状が存在するからに他ならなかった。
「それに、先程の店主のようにプロ意識の高い人物が店を構えているからこそ物が売れるのだ。儲けばかりを気にして商売をやると長続きしないものだよ」
客は、複数の店があった時、どの店を選ぶだろうか。
幻想郷の人里では、プロ意識の高い店へと需要が集まる傾向がある。プロ意識の高いところほど、安全で快適で便利で長持ちするものを作っているところが多いからである。
優れた物は勝ち残り、劣っている物は淘汰される。儲けを第一にして質を疎かにしてしまえば、一気に負けへと天秤が傾くだろう。幻想郷の人々は、そこまで頭が悪いわけではない。
少年は、藍の説明にうんうんと頷き、ぼそっと声を漏らした。
「結局、何事もほどほどにってことなのかな」
「ふふ、はははっ。それを和友が言うのか? 和友は、ほどほどなんて言葉とは無縁だと思っていたがな」
藍は、少年の口から出た予想外の言葉に思わず笑ってしまった。ほどほどなんて言葉は、少年から最も程遠い言葉である。
藍は、少年がほどほどという言葉を口にできるのであれば、昨日血を流すほど努力をせず、途中で止めることができたのではないかと思えて仕方がなかった。
少年は、それこそほどほどに努力すればよかったのである。おそらく少年がほどほどと言ったのが今ではなく昨日であれば、決して笑うことはなかったであろう。昨日ならば絶対に激怒していたはずだ。
藍は、昨日の少年を知って―――今日の少年を笑った。
少年は、藍に笑われて怒った表情を浮かべ、口をとがらせる。
「あーー、そういうこと言っちゃうかな」
「でも、その通りだろう?」
「……まぁ、反論のしようもないけどさ」
少年の怒った表情は一瞬で瓦解し、降参の白旗を振った。参りましたと言わんばかりに掌をひらひらと振っている。
藍は、少年の様子を見てさらに笑みを深めた。
「ふふふっ」
「ほどほどって、そんなに僕が言うとおかしいの?」
「おかしいさ、おかしくて堪らない。昨日の自分を思い返してみればいい。どこからそんな言葉が出てきたのかと疑うぞ」
藍は、新しい感覚に笑いがこみあげて仕方がなかった。
「ん……難しいなぁ。だったら、僕はどこでほどほどっていう言葉を使えばいいのかな? 藍は分かる?」
「私は、使わないことをお勧めする。和友に何よりも似合わない言葉だ。そうだな、和友の服を伸ばしたような―――丈が合っていないと言うのだろうか」
「身の丈に余る言葉ってこと? 僕がまだ子供だから、ほどほどっていう言葉は相応しくないってことなのかな?」
「子供だからか、そうかもしれないが―――きっと和友には、一生に合わない言葉だよ。いつになっても和友には、似合わないはずだ。似合っている姿が想像できないからな」
「僕が大人になれないってこと? 僕だって大人になるんだよ? 後、10年も経てば立派な大人になれるんだよ。今は、藍の背丈に全然届かないけど……」
会話がぽんぽんとリズムよく跳ねている。
口が自然と言葉を繋いでいく。
どうも噛み合っていないが、なんだか面白い。
今までしたことのない言葉のキャッチボールに心がはしゃいでいる。
藍は、そっと少年の頭に手を置き撫でた。
「ああ、期待しているさ。立派な大人になるんだぞ」
「んー、なんだか誤魔化されている気がするなぁ」
「ふふっ、本当に面白いなぁ」
藍は、笑みを隠さずに笑う。今までに経験したことのない想いに心を躍らせる。
藍は、基本的に紫と話すことが多く、他の人としゃべる機会なんてほとんどなかった。
藍が他の人間と会話をしていない原因は、藍自身が会話を楽しむような性格をしていなかったのが最も大きかった。
話をしたとしても事務的な話をすることが多く、誰かと話すときは目的を話して会話が終わるのが常である。世間話に花を咲かせることはほとんどなく、藍にとっての会話というのは紫との会話が全てだった。
他の人としゃべる機会が少なかったのは、単に藍にとって紫と話すだけでいっぱいいっぱいだったからかもしれない。紫が良くも悪くもおしゃべりで、会話に事欠かさなかったというも原因の一端を担っているだろう。
しかし、紫との会話といっても、紫と藍は対等な関係ではない。
藍は、紫にいいように言われることが多く、紫の上げ足を取れた試しなんて全くなかったといってよかった。何を言っても藍の方が上手く丸めこまれる、それが藍と紫の会話の全てだった。紫との会話に不満を持っているというわけではなかったが、いささか楽しみに欠けていたといえるだろう。
そんな味気ない会話とは全然違う。心が嬉しがっている、面白がっている。
自分がこれほどまでに饒舌だったのかと、新しい自分を発見した。数千年もかかって見つけたもう一人の自分の姿だった。
「僕は、なんだか丸め込まれているみたいで、複雑」
「ははっ、それは悪いことをしたな」
質問が飛び、それに答える。
感情を言葉に乗せて伝えあう。
時にふざけ合い、弄るようにして相手の反応を楽しむ。
紫が自分を弄って楽しそうにしている気持ちが少しだけ分かった気がした。
「すぐに大人になって、ほどほどっていう言葉が言えるようになるんだからね。笑われないようになるんだからね!」
「ふふっ、ああ、分かっているさ。ふふふ、はははっ!」
藍は、どこかの笑いのつぼに入ってしまったようで腹部を抑えて笑いを堪えている。
少年は、藍の笑いを堪える姿を見てさすがに笑いすぎだと思い、藍の見上げるようにして覗きこんだ。
「ねぇ、ちょっと笑いすぎじゃないかなっ!?」
「はははははっ!!」
堪えていた藍の感情は、少年の言葉に後押しされるように口から吹き出す。
藍は、少年との新鮮なやり取りに笑いが絶えなかった。
少年と藍は楽しく人里を歩き、濃い時間を過ごしていく。
楽しい時間は―――まだ終わらない。