ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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現在筆一本という店にいる。人里へは、買い物に来ているだけなのになぜこんなに時間がかかっているのだろうか。


少年の気質、削れ行く少年

 藍は、店主の想いの込められた重い言葉を、雰囲気に飲み込まれるように静かに聞いていた。

 店主の言葉は、まるで自分のことのように、事実を知っているように聞こえた。

 藍は、店主の言葉をぐるぐると頭の中で反芻する。このままだときっと……未来を暗示する言葉が頭の中を回っていく。

 店主は、黙り込む藍に対してそこまでしゃべったところで何を言えばいいのか分からなくなったのか、下を向いて押し黙ってしまった。

 

 

「…………」

 

 

 店主は、藍に向けて少年を変えてやれと口にした。もちろん、そんなことを言ったからには少年のことを他人事とは思っていなかった。

 

 

「俺は、これ以上坊主に何もしてやれねぇ。質のいい筆を作ってやるぐらいしか……」

 

 

 有言実行―――店主はすでに少年に対して1つのことを行っている。

 

 店主は、少年の性質が自分のものと類似しているということを逆手にとって、決して勝負ごとに対して途中放棄をしないという確信をもって勝負を持ち掛けた。少年に対して勝負を持ちかけることによって、暗に体を大事にしなければならないという縛りを少年の中に加えたのである。これで少年は、店主の作る筆よりも先に壊れることは許されなくなった。後は、少年の努力と体に負けないだけの筆を作るだけである。

 店主にできたのは、そんな些細なことだった。

 だが、その良かれと思ってとった行為が良い方向に進んでくれるのかどうかは分からない。もしかしたら、悪い方向に物事が進んでしまう可能性だってあり得る。

 かといって少年を止めるための具体的な案は、何一つ思い付かなかった。何をすれば、どうすれば、考えれば考えるほど分からなくなる。思考の迷路の中で右往左往するだけだった。

 

 

「和友を変える……か」

 

 

 藍の脳裏に昨日の少年の姿が映る。右手を機械のように動かし、電子制御されているような印象を受ける少年の動き―――誰も寄せ付けない圧倒的存在感、次元の違いを感じるような孤高さが思い出された。

 

 

(和友は、変わらない……)

 

 

 藍は、少年を変えることができる自信が無かった。藍がどれほど少年を変えようとしても、少年を変えることは無理なような気がした。

 私の手は、きっと和友には届かない。そう言えるだけの根拠もない自信があった。

 

 

(何をどうすれば、変えられる?)

 

 

 藍は、持ち合わせている頭を使い、思考する。少年を変えることが出来る、少年を動かすことが出来る何かを探していく。

 しかし、何をどうしようとも少年は変わらない、今いる位置から動かない、動いている手は止まらない、すり減っていく心と増大していく心は変わることはなかった。

 力ずくで止める? 理屈で説得する? 何をどうするというのだろうか、何をすれば止まるというのだろうか。

 少年の優先順位は、そんなことでは変わらない。決意を込めた瞳は、揺らがずにそこにあって、変わらずに前を向いている。止めたところでぶつかりながらも動くだけだ。

 藍は、どうしたって少年を止められる気がしなかった。

 

 

「後は、あんたらが坊主を変えてあげてくれ。きっと坊主がこれから生きていくためには、絶対に必要になるはずだ」

 

「ああ、それは分かっている。だが……何をすれば和友が変わるのか、全く分からないのだ。口で言って聞く奴じゃないことは、昨日のことでよく分かっているのだが……」

 

 

 藍と店主は、時間を忘れたかのように店の中で佇み、考える。なんとか少年を変えることができないかと思考し、お互いに無口になり、口を紡ぐ。

 空気は、時間が経つにつれてどんどん重くなっていく。

 藍は、何一つ思いつかない頭に苛立ちを感じ、唇をそっと噛んだ。

 

 そんな重い空気を打ち破ったのは

 

 

 

「まだかかりそう?」

 

 

 ―――少年だった。

 

 店主と藍の二人は、静寂の中に不意に飛び入った声を聞いて慌てて声がした方向へと顔を向けた。

 視線の先には、不思議そうな顔をしている少年の姿があった。どうやら、いくら待っても終わる気配のない二人の会話を待ち切れず、店の中へ入ってきてしまったようである。

 二人の視線が、話題の中心地点にいた少年に集中する。

 少年は、凝視してくる二人の顔を見比べて不思議そうな表情を浮かべた。

 

 

「どうしたの? 僕、何か驚かせるようなこととしたかな?」

 

「お、おう、もう終わるぞ」

 

「待たせたか? ちょっと長話になってしまったな」

 

 

 店主は、少年を変えてあげようとして考え事をしていたなど答えられるはずもなく、焦りながら作り笑いをして話を切り上げようとした。

 藍も店主と同様に、話ができる環境が崩れたことをすぐに察し、話を終わらせにかかる。

 店主は、慌てて藍の方向を向くと頭を下げて謝罪した。

 

 

「八雲の従者さん、余計なことを言ったな。すまない、忘れてくれ」

 

 

 店主は、今日初めて会った少年のことについて、あれこれ言いすぎたと反省した。いきなり見ず知らずの初めて会った人間が、知ったような口を聞いて気分のよい人間などいないだろう。

 しかし―――それでも、それでもである。店主は、少年のことを見て話さずにはいられなかった。

 店主は静かに目をつむり、唇を噛む。

 

 

(っ……)

 

 

 少年の精神は―――自分によく似ている。周りの言葉や環境に揺れ動かない姿勢、ぶれない眼、妥協しない心、まるで自分のことを見ているようだった。

 店主は、どこか親近感の湧く少年が今にも擦り切れそうになっているのを見て、何一つ言わないまま放置するということができなかったのである。

 店主の瞼の裏に想像の中の少年の姿が映る。階段を登ろうとする少年の姿が見える。

 

 

(どうして、そんなところにいるんだ……)

 

 

 店主は、少年のいる場所を見上げた。

 少年の立っている場所は、店主の立っている場所の3段ぐらい上だった。3段―――それだけ聞くととても小さい差に思えるかもしれない。

 だが、店主にとって3段という差は断崖絶壁に見えた。目の前に見える3段分の段差は、足をかけてはならない場所なのだ。本来は、存在しない場所なのだ。

 ここまで階段を登ってきた店主は、頂上を目指した店主は、少年の立っている場所が自分の登れなかった場所であり、そしてそれは―――登ってはならない場所だということを本能的に理解していた。

 

 

(どうやって、いや、どうして……?)

 

 

 少年の立っている場所は、普通ならば登れない場所だった。店主には、どうやって登ったのかも検討がつかないほどに逸脱している位置である。

 少年は、店主に見上げられているのに気付いたのか優しい表情で見下ろしながら首を横に振った。

 

 

(分かってる、分かっているさ。言われなくてもそっちにはいけねぇよ)

 

 

 店主はこれまで生きてきて、人生の階段を登りつめていた気がしていた。努力によって到達できる最終到達地点の極みまで至っていると思っていた。自分のいる所が限界なのだと理解していた。

 だが、それも今日までである。さらに3段分上に少年がいる。

 

 

(坊主は、どうしてそこまで登ってしまったんだ?)

 

 

 少年は、店主の問いに困った顔でごまかすように笑う。まるで、分かっていて踏み込んだと言わんばかりの表情だった。

 店主のいる場所のさらにもう一段先が越えてはならない一段だ。ここまでで頂点だと思っていた店主は、そこがどういう場所であるのか、理屈抜きで判断できた。

 これ以上は、化け物の領域―――越えてはならない一線――それは周りの人間が止めてくれたから分かるし、今の自分ならば理解できる。

 しかし少年は、それのさらに2段先にいる。そしてあろうことか、さらに前に進もうと足を掛けている。

 店主は、少年のやっていることが信じられなかった。誰も止めなかったのかと思うと、気が気ではなかった。

 

 

(まだ、登るのか……? まだ登りつめていないのか?)

 

 

 少年は、静かにうなずいた。先程と変わらない瞳で、変わらない決意で、はっきりと自分の意志を示した。

 店主は―――変わらない少年の意志を悟る。

 

 

(ああ、分かったよ。坊主には、それしかないんだもんな)

 

 

 店主は、少年に悟られないように、さっきまでの暗い空気がまるで無かったかのような明るい表情を作る。少年に気取られないように精一杯の厚手の仮面を被った。

 少年が頑張っているのに、余計な心配をかけるわけにはいかない。ここでやるべきは、なんでを問いかけるのではなく、階段から転げ落ちない様に背中を支えてやることなのだ。

 

 

「……くれぐれもよろしくな」

 

 

 藍は、少年のことを想う店主の言葉をしっかりと受け取った。何の自信もない、何の対策もない状態ではあるが、何とかすると自分に言い聞かせるように告げた。

 

 

「店主……忠告は受け取っておく。任せておいてくれ。筆の件は、よろしく頼むぞ」

 

「あれ? もう買うところまで話が進んでいたの?」

 

 

 少年は、すでに筆を買うところまで話が進んでいることに少しだけ驚いた。なにせ、少年が頼んでいる物は、100年もの間使うことのできる筆である。

 少年は、自分がどれほど無理なことを店主に頼んでいることを自覚していた―――100年保つような筆を作ることがどれほどに難しいのか、ちゃんと理解していた。だから、今日中に話は纏まらないだろうと、外にいた時に考えていたが、現実は思ったより少年に優しかったらしい。すでに買うところまで話が進んでいる、少年はそのことに驚きの表情を浮かべていた。

 藍は、少年の驚いている様子を見て安心していた。もしも、先程まで話を聞いていたのだとしたらこんな反応をすることはないだろう。

 藍は、何事もなかったように平然と嘘を口にする。

 

 

「一通り、話は終わったぞ」

 

「坊主の手に合った筆を作ってやるから心配するな。坊主は、しっかり待っていてくれればいい」

 

 

 安心したのは何も藍だけではなく、店主も同じだった。

 店主は、誰よりも少年に先程の話が漏れることを危惧している。心配する様子を少年に気取られてはいけない。

 それは、少年の足をさらに重くする―――前に進まなければならないのに進む足を重くする、負担をかけることに繋がる。

 それだけはあってはならないのだ。少年は、進まなければならないのだ。進まなければならないのなら、足かせになってはならない。引きずっていては、進めるものも進めない。進んでいる足が悲鳴を上げるのが早くなる。

 それが例え、自身の身を削ることであったとしても、少年自身がそれを止めようとしない限り、足は常に前を向くのだから、足を引っ張ってはならないのだ。

 

 

「ありがとうございます。筆については、よろしくお願いしますね」

 

「店主、頼んだぞ」

 

「任せてくれよ! 文句一つ出ないような、そんな筆を作ってやるからな!」

 

 

 少年は店主に向かって頭を下げお礼を言った。藍も、店主の心意気にしっかりした落ち着いた声で告げ、店主に頭を軽く下げた。

 

 

「行くぞ、和友」

 

 

 藍は、右隣に来ていた少年の左手を掴み、店の外へ向かって歩き出す。

 少年は、藍に手を引かれて体を店の外へと向ける。

 店主は、連れていかれる少年の姿を見て手を振った。

 

 

「またな、坊主」

 

「勝負だからね」

 

 

 少年は、外に向いた顔を後ろに向けた。少年の視界の中には、少し寂しそうな顔をしながら手を振る店主がいた。

 少年は、藍に掴まれていない自由な右手を店主の姿が見えなくなるまで振り返す。名残惜しい様子を感じさせない笑顔で手を振った。

 店主は、店を出て左に消えて行く藍と少年を見送り、誰もいなくなった店の中で大きなため息をつくと、ぼそぼそと呟いた。

 

 

「俺を見下ろしていた時と同じ顔しやがって……俺も、もう一段上がる覚悟をしなきゃならないかねぇ……このままじゃ勝負にすらなりはしねぇし……」

 

 

 店主の言葉は、虚空に消え、拡散する。

 店主の心の中に大きなものを残して。そして、もともとあった大きなものを無くして。

 

 

 

「次は、何処に行くんだっけ?」

 

「もう忘れたのか? 次は、服屋だ」

 

「ああ、そうだったね」

 

 

 少年は、店を出たところで藍と繋いでいた手を離し、藍の隣を歩きながら人里を進む。進む先は、次の目的地である服屋である。

 

 

「藍、聞きたいことがあるんだけど」

 

「どうした?」

 

 

 少年は、頭の中に溜めていた疑問があった。それは、藍と店主の話し合いの内容である。少年は最初、二人は筆を買うという話をしていると思った。

 けれども―――よくよく考えてみるとその考えは明らかにおかしいことに気付く。

 買うという行動の手順は、そこまでややこしい話ではない。売り手がいて、買い手がいる。商品があって、ニーズがある。それだけの話なのだ。

 まして、100年間使うことのできる筆という無理難題の商品を欲している場合は、特に普通に行われる会話というものがあるはずである。

 

 

「さっきは、何の話をしていたの?」

 

(やはり、その質問が来たか)

 

 

 藍は、少年の言葉に心臓を激しく鼓動させた。

 

 

「筆を作ってくれるかどうかについて話していたにしては、かかっている時間が短いし」

 

 

 外で待っていた少年には、二人が店の中で何について話をしていたのか分からなかった。

 しかし、筆を買う話をしているわけではないと見当をつけることは簡単にできる。少年が二人に話しかけるまでの短時間で少年の無理難題である100年の筆を買うというところにまで漕ぎ着くはずがないのだ。

 見たこともない、あるかどうかも分からない、作れるかどうかも分からない―――そんなものを簡単に作るなど言えるものだろうか。

 

 

「だったら筆を買うことをあらかじめ伝えてあったのかなと思ったんだけど……もしも、筆を買うことが決まっていたのなら話している時間にしては長すぎるし」

 

 

 買うところまであの時間内で辿り着くことができるのは、店主がすでに100年使える筆を作ることができる実力を持ち合わせているか。あらかじめ話が通っていて、買うというところまで決まっていたと考えるのが自然である。

 しかし、買うところまで意識があったのであれば、話は即座に終わる。その場合を考えると逆に話している時間が長すぎる。

 そして、なにより使用者である自分が外される理由がない。

 少年は、うちに抱えた疑問を藍に尋ねた。

 

 

「だから、何の話をしていたのかなって」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて、やはりその質問が来たかと身構えた。

 少年がこの質問をしてくるのは、少し考えれば予測できることである。特に自分だけを除け者にされていた少年が、何の話をしていたのかと聞いてくるのは、ごく自然の流れだ。

 藍は、店主と話している間に用意しておいた答えを並べた―――少年に本当のことを告げることはなく、もっともらしい嘘をついた。

 ポーカーフェイスを決め込み、少年に嘘だとばれないように、きっちりと嘘をつき通した。

 

 

「筆の値段の話だよ。要求する条件が高いと値段が張るようでな。支払いをどうするかについての話をしていたのだ」

 

「筆の値段か……」

 

 

 少年は、藍の言葉に少しだけ顔を暗くした。

 

 

「お金は絶対に返すからね。でも、長期的に見ればこの方が安く済むと思うんだよ。これから書き記すのにどれだけの本数を壊すか分かったものじゃないし」

 

「そんなにすぐに壊れるものなのか?」

 

「昨日の僕の書いている作業を思い出してみれば、すぐに想像がつくと思うよ」

 

 

 藍は、追及してこなかった少年に少しだけ安堵しながらも、昨日の少年の姿を思い返す。凄まじい勢いでノートに書き綴られる文字。憑りつかれているように進む手。終わりの見えない作業。鉛筆は、勢いよく擦り減っていく。

 

 

「僕、今までどのぐらい壊したんだろ……」

 

 

 少年は、一生使える筆のことを考えて、これまでに壊した筆記用具の数を思い返す。何度も折って、何度も擦り減らして、何度も削った存在を思い出す。もう、自分の体の一部だと言っても間違いじゃないぐらい身近にある存在を想う。

 手が鉛筆の形を覚えている。確実にフィットし、同じように消耗する鉛筆と共に、文字を書き記す。

 少年のこれまでの歴史は、書き記すものによって支えられ、綴られてきた。残骸になった鉛筆は、まさしく少年の歴史を書き記してきたものなのだ。

 少年は、もはや数えることもおこがましいほどの鉛筆の残骸に瞼をゆっくりと閉じた。

 

 

「うん、壊し過ぎてどのぐらいなんて思い出せないね」

 

「確かに……昨日の和友の様子を考えると、その方が安く済むかもしれないな……」

 

「藍もそう思うでしょ?」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて少年の要求した一生使える筆のことを再度考えてみた。少年の昨日の様子を見ていると、これから先に相当数の筆記用具が壊れることが予測される。

 それを考えると、少年が言うように壊れない筆を一本、高い値段で買った方が壊れるたびに新しい物を買うよりも相対的に安くなるかもしれない。買う手間も省ける、一石二鳥である。きっとその想像は間違ってはいないだろう。

 壊れない筆というものが本当に存在すればという限定的な話にはなるが、それを仮定すればかなりの節約になるはずである。

 

 

「お金を借りている身としては、できるだけ安く済ませたいんだ」

 

 

 藍は、聞き覚えのある言葉に耳をすませる。

 少年は、早朝と同じようにお金を払うと断言している。お金を返そうとする姿勢は今朝も見た。あの時も少年は、かたくなにお金を返そうとしていた、借りておくことを嫌がっていた。

 少年の言葉には、絶対にという言葉が前に付くような確実な意志を感じる。それはまるで、昨日言っていた約束を守る、普通に生きるのと同じような感覚と同じだった。

 

 

「お金を返すと言っているのは、それが決まり事だからなのか?」

 

「ううん、そんな決まり事はないよ。似たようなものならあるけどね」

 

 

 藍の予想とは少し違い、似たような決まり事は存在するがお金を返すという決まり事はないようである。

 似たようなものというのは―――どういうものなのだろうか?

 お金を返すという明確なものではないということなのだろうか?

 似たようなものと言うのならば、別にお金を返す必要はないのではないか?

 藍は、少年に尋ねた。

 

 

「似たようなものならあるのか。それは、一体どういうものなのだ?」

 

「そうだなぁ……必要に迫られない限り、お金は借りちゃいけないって感じになるのかな。別に決まり事でもなんでもないから、僕がそうしたいってだけなんだけどね……」

 

 

 少年は、歯切れ悪く藍の質問に答えた。

 藍は、決まり事ではないという少年の言葉に安心する。決まり事ではないということは、少年に対する強制力はないということである。そうであるならば、少年の意志を曲げるのは比較的楽だろう。

 藍は、少年の気持ちを甘く見て楽観視していた。

 

 

「そうか、決まり事ではないのか。それならば返さなければならない理由は、特に無いということだな」

 

「藍が返さなくていいっていうのなら、返さなきゃいけない理由はないね」

 

「何度も言うが、無理に払わなくてもいいからな」

 

 

 藍は、どうしても払うと言っている少年に向かって別に払わなくても構わないという言葉を送る。事実藍は、少年にかかったお金を少年に払ってもらおうなんて全く考えていなかった。

 

 

「紫様もきっと同じことをおっしゃるはずだ。紫様も、私も、別にお金が欲しくて和友を助けているわけではない。ただ、そうしたいから、そうしているだけなのだからな」

 

 

 別にお金を返さなくてもいい、そう思っているのは藍だけではないだろう。紫に関しても同様に、少年にかかった費用を払ってもらおうなど考えていないはずである。

 少年を助けたのは、紫の個人的な助けてあげたいという感情によるもの、藍のちょっとした優しさによるものだ。少年を助けたのも、少年を引き取ったのも、少年の能力の制御の練習に付き合うのも、極端なことを言ってしまえばやりたいからやっているだけなのである。

 藍や紫は、少年から助けてくれと頼まれたわけでもないのに、お金を請求するほど酷い奴でも守銭奴でもない。それに、無理に返されてしまっては、貸した方の気分が悪くなる。

 

 

「それに、お金を返すと言っても、どうやって返すつもりなのだ? あてがあるわけでもあるまい」

 

 

 正直に言ってしまえば、少年にお金を払えるだけの余裕があるとは思えないというも返さなくてもいいと言っている理由の一つだった。

 少年はまだ子供で、横に繋がりがあるわけでもなく、お金も持ち合わせていない。働くということをするにも、能力の制御を行わなければならないことを考えると時間が取れないだろう。この環境下でお金を返すということは、無理をすればあるいは、というところであろうか。

 藍は、少年が無理をしてまでお金を返そうとするのではないかと不安だった。

 

 

「私たちは、無理をしてまでお金を返して欲しくないからな」

 

「いや、これは僕の我がままだから。藍は気にしなくていいよ。僕、借りっぱなしっていうのが嫌なだけなんだ」

 

 

 少年は、藍の気遣いをよそにお金を払うことについて引かなかった。

 借りっぱなしが嫌、よくある意見ではある。それは、普通の人間がよく持ち合わせている感覚だろう。

 だが、少年の場合はあまりに意固地過ぎているように思う。

 あれほど藍が言っても―――少年の意見は変わる様子を見せない。約束事でもないのに、普通という基準の外に出るわけでもないのに―――なぜだろうか。

 

 

「どうしてだ? 何度も言うが、気にする必要はないぞ。貸している私と紫様は、気にしたりなんかしかないからな」

 

「僕が気にするのさ。気になってしょうがないんだよ」

 

 

 少年は、藍がいくら払わなくてもいいと言っても、払うことをかたくなに譲らなかった。

 藍は、何がそんなに少年の気持ちを作っているのかと少年の顔を見る。

 少年は、真剣な表情で真っすぐな目で藍に訴えていた。

 

 

「僕は、誰かに借りを作りたくないんだよ。借りたものは全部返す。何か残っていたらきっと……気になっちゃうから」

 

 

 少年は、お金を借りっぱなしでいるのが嫌だった。それはお金に限った話ではない。お金に限らず貰ったものは全て返すという気持ちを持っていた。

 それは―――決まり事だからそうするのではなく、少年自身がそうすると決めていたからである。

 少年には、幻想郷に何かを残すつもりは全くない。後腐れや後悔、そんなものを何一つ残すつもりはなかった。

 少年は、あくまで幻想郷の住人ではなく、外の世界の住人なのだ。いずれは、外の世界に戻るつもりでいる。

 少年は、外の世界に戻った時に、後ろ髪を引かれるようなことだけは残したくなかった。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、少年のかたくなな様子を見て、店主の言っていた「坊主は、無理を押し通す、できるかできないかの判断が付いていない」という言葉が頭の中をちらついていた。

 少年は、不可能なことでも無理を押し通すことで可能とする。努力に努力を重ねて、自分を擦り減らしてでも成し遂げようとする。きっとお金を返すということに関しても同じことが起こるだろう。

 藍は、少年の未来が容易に想像ができた。

 

 

「なぁ、和友……」

 

「なあに?」

 

「無理だけはしてくれるな」

 

 

 藍は、少年を静止させるように声を重くして告げた。

 少年が無理をするところだけしか想像できない―――払わなくてもいいか、なんて甘いことを考えている少年が想像できない。少年の未来に靄がかかっていく。前が見通せなくなっていく。

 この靄を払うためには、少年の絶対的な言葉が必要だった。無理をしてまでお金を返さないという言葉が必要だった。

 

 

「…………」

 

 

 少年から返事は返ってこなかった。少年の返事が返ってこないことによって、藍の頭の中にある少年が摩耗して消えるような想像が、思考にかかる靄が濃くなっていく。

 

 

「絶対に無理だけはするなよ」

 

 

 藍は少年を心配し、念を押すように二度目となる無理をするなという忠告をした。そして口から言葉を出すのと同時に、自身の声色に少しの恐怖が混ざっているのに気付いた。

 

 

「なぁ、和友……私は、和友が心配なのだ……」

 

 

 少年は、ガラスのような存在である。

 周りから見れば、非常に真の強い心を持っているように見えるが、実際は薄く引き延ばされた石英だ。少し衝撃与えれば、一瞬にしてひびが入る。より力を入れれば、すぐに崩壊するような脆さを持っている。

 鋭利なものほど欠けやすい……鋭さと脆さは比例しているのだ。少年のその尖った鋭さは、少年の脆さも同時に表している。

 

 

「私は、和友が無理をしているところを見たくない。いいや……私は無理をしてほしくないのだ」

 

 

 藍は、少年が持っている下手に扱えば一瞬で壊れてしまうような雰囲気を感じ取っていた。それはきっと、少年の書き記す作業を見なければ分からないこと、心の中を見なければ分からないことである。

 藍は、少年が壊れてしまう恐怖を感じると同時に、どうしてこんなにも少年のことを心配しているのだろうという疑問を抱えた。

 

 

(……どうして私は、会って間もない和友のことをこれほどまでに心配しているのだろうか?)

 

 

 藍は心の中で呟き、思考する。少年と会ってまだ1日しか経っていない。

 しかし少年は、確実に藍の目を惹く存在になっている。藍の頭の中は、昨日から少年のことばかりである。

 

 

(和友に助けられたから? だから和友に優しくしてあげたいと思っているのか? 私は、和友のことをどう思っているのだろうか……)

 

 

 藍は、心の中で助けられた恩があるから、とても優しくしてもらったから少しだけ心を寄せているのだろうかと考える。

 でも、それだけではない気がする。何かがある、何か違うものがある。

 

 

(私は、何を考えているのだ)

 

 

 藍は、答えの出ない思考を振り払い、少年のことを見つめる。

 少年は、困ったような表情で藍と顔を見合わせた。

 藍は、困った様子の少年に僅かに笑みを浮かべた。

 

 

(私は、和友に振り回されてばかりだな……)

 

 

 藍は、少年に心を揺さぶられてばかりである。少年が怒った昨日も、楽しそうにしている今日も、少年に心を揺さぶられてばかりだった。

 

 

(だが、不思議とそれが心地よい。それはきっと、和友の気質から来るものだろう。和友の本質から……相手を大切にする温かな心から来るものなのだろう)

 

 

 藍は、そうやって少年に振りまわされることに嫌悪感があったわけではなく、むしろどこか嬉しさというか、心地好さを感じていた。

 藍は、そんな気持ちに名前を付けることができなかった。そして、回答をなかなか口にしない少年を心配そうな顔で見つめていた。

 少年からの回答は、未だに出てくる様子がなかった。




暗いよりは、明るい方がいい。でも、暗さが分からないと明るさは理解できない。
ほのぼのとシリアスは、上手く共存できるといいかなって思います。
少年は、相手の気持ちをくみ取るのが結構うまい人間です。
藍が泣き虫になっているように見えるのはなんのことはありません、一度泣き顔を見られているというのはもちろんのこと、こういうことに慣れていないからというのが大きいです。

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