ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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ぐらつく心、少年が大切にしているもの

 藍と紫の二人は、先ほどまで紫が滞在していた居間に移動していた。

 藍は、紫と一緒に廊下を歩いている間ずっと紫の事を睨みつけているだけで、黙って紫に手を引かれていた。

 紫は、黙ったままの藍に声をかけることなく、藍の手を引いて居間へと足を進める。

 藍は、移動をするだけの気力が無く、紫に引っ張られることでやっとのこと足を前に動かしている状態だった。

 

 

「和友……どうして……」

 

「…………」

 

 

 藍は、後ろ髪をひかれるように少年の名前を呼んでおり、嫌々紫に付いて行っているというのが誰の目から見ても明らかな状態だった。

 本当ならば、今すぐにでも戻って少年を止めたいと思っているのだろう。

 紫は、嫌そうにしている藍の手を黙ったまま引き続け、居間へと入りこむ。

 ここまで紫も藍も、言葉を交わすことは一度もなかった。

 

 

 紫は、居間へと入ると握っている手に入れている力を抜き、藍から手を放す。

 藍は、紫からの引力を失って速度を落とし、居間の入り口付近に停滞した。

 紫は、足を止めた藍を置き去りにしたまま中央にある炬燵まで歩き、少し強張った顔つきで座り込む。紫の鋭い瞳は、居間の入り口で佇む藍へと向けられていた。

 

 

「はぁ……藍は、いつからそんなに強情になったのよ。いつもの藍らしくないわよ?」

 

「どうして……」

 

 

 藍は、うなだれるようにその場に佇んだ後、そっと顔を上げる。藍の顔は、激しい怒りに染まっていて、瞳にはわずかに涙が溜まっていた。

 

 

「どうしてですか紫様っ!!」

 

 

 藍の口からは、部屋中に響き渡るような怒声が発せられた。力の入った腕が小刻みに震えている。掌が痛くなるぐらいに手を握りしめて心の叫びを表現していた。

 

 

「あの子は、あんなことをずっと続けてきたのですよ。ここに来た初日ぐらい、この幻想郷にいるときぐらい、休んでもいいではないですか!」

 

 

 少年に対して抱えていた悲痛な想いが、叫びとして放出される。心に募っていたものが雪崩のように押し寄せてくる。

 

 

「紫様は、何のために和友を幻想郷へと連れてきたのですか!? 和友を苦しませるためですか? 和友を追い込むためですか?」

 

「藍、冷静になりなさい」

 

「私はいたって冷静です! 私には、紫様の判断が全く理解できません!」

 

 

 藍は、少年を止めなかった紫の行動が信じられなかった。紫の行動が矛盾まみれに見えて藍の頭をひどく混乱させていた。

 藍は、紫が少年を外の世界から連れてきた理由を知っている。

 少年を幻想郷へと連れてきた理由は、能力を制御できるようにするためである。決して少年に無理をさせるために幻想郷へ連れてきたわけではないのだ。

 

 

「紫様は、気持ちが擦り切れるほど苦しいことを、これからも和友にさせ続ける気なのですか!?」

 

「藍……一体どうしたの?」

 

「私はどうもしていません! どうかしているのは、紫様の方でしょう!?」

 

 

 少年を幻想郷に連れてきた理由は、能力を制御させるためだけではない―――他にもあった。

 

 

「紫様っ!! 紫様が連れてきたのです! 幻想郷は全てを受け入れる、紫様が言ったのですよ!? あの子の異常は、幻想郷では受け入れないということなのですかっ!?」

 

 

 少年が異常を抱えていることは心の中で確認した通りである。少年は、明確な異常性―――境界を曖昧にするという異常性を抱えている。

 その異常性は、外の世界に住むような普通の人間に受け入れられるものではない。夢が正夢になるレベルに至っていることを考えれば、外の世界での生活は酷く息苦しいもので、辛い思いを沢山したということが容易に考えられるし、これからだってそうなるだろうと思われた。

 外の世界で過ごし難い少年に楽をさせてあげたい、気軽に呼吸ができる場所を与えたい。二人は、少年を連れてくる前にそのような話をして少年を連れてくることを決めていた。

 幻想郷ならば、能力について気にする必要もなく気楽に暮らせる。幻想郷は、その程度の異常性を受け入れられないような小さな世界ではない。きっと、少年の異常性を隠してくれる。

 幻想郷は―――少年にとって居心地の良い世界のはずだから。それが、少年を幻想郷に連れてきたもう一つの理由であった。

 

 

「藍、落ち着きなさい」

 

「紫様は、一体何を考えているのですか!? 私には何も分かりません! 紫様がどうして和友を止めようとしないのかさっぱり分かりません!」

 

 

 藍の心から溢れだすものの勢いは、紫の言葉では止まらなかった。

 藍は、先程まで少年との言い争いで溜め込んでいたものを別の形で吐き出していく。

 

 

「このままでは……このままでは、ダメなのです!」

 

 

 藍は、少年が無理をしてまで内包する異常を抑え込んでいるのを見ていられなかった。

 少年の自身を摩耗させるような行動は本当であればさせる必要のないこと、幻想郷という場所にいればする必要のないことである。

 少年は、幻想郷にいる限りにおいて異常性を無理に隠し通して、苦しんで、努力して過ごす必要はないのだ。少年が保有する異常性を周りに見せないように、周りに気付かれないように努力する必要は、わずかたりとも存在しないのである。

 幻想郷は、少年にとって能力の制御の練習に集中できるし、過ごしやすい環境だといっていいだろう。紫は、そういった利点があるから少年を幻想郷に連れてきたはずなのだ。

 それなのに紫は、少年の行為を止めようとはしなかった。むしろ、積極的にやらせようとしているように受け取れる。

 藍は、紫の意図が全く分からず、紫に向けて次々と言葉を放り投げた。

 

 

「このままでは、和友は何も変わらない。ずっと辛いままではないですかっ!!」

 

「っ……藍、少し黙りなさい」

 

「このまま放置しても、和友は何も変わりません! 私たちが変えてあげないと、和友は何も変わらないのですよ!!」

 

 

 紫は、藍の暴言に苛立ちを覚え、唇を噛みながら冷静さを何とか保ちつつ藍と相対する。

 藍の気持ちは、紫にだって痛いぐらいに理解できた。

 少年の辛そうな現状を考えると、確かに藍の言う通り止めた方が良いだろう。

 何かしら変えてあげなければ、少年は何も変わらない。書き記す行為は、少年が外の世界でずっと行ってきた行為で、幻想郷でなくてもいつもやっていることなのだ。これでは何の変化も得られはしない。

 しかし、それでも紫は少年を止めるわけにはいかなかった。

 

 

「早く和友を止めに行きましょう! 今からでも十分間に合います!」

 

 

 藍の心に負の感情が蓄積されていく。罪悪感が深くなってくる。

 藍の心の中では、少年に区別させるという行為をさせてしまっている罪悪感が降り積もっていた。知らなかったとはいえ、少年が努力をしているのは藍のためなのだということが、藍の心に大きくのしかかっていた。

 それに、少年の未来を想像した時に、余りに苦しい道のりが待っていると思うと酷く不憫に思えて仕方がなかった。このまま少年を放置してしまえば、何も変わらず、苦しいままの人生を送るだろう。それは、余りにも可哀想である。

 辛いばっかりで、何が楽しいことがあるだろうか。

 人生を苦しみでいっぱいに満たしてしまうなんて、未来に希望が見えないなんて、生きる目的が分からなくなりそうな人生を送らせるなんて、そんなのおかしいだろう。

 あんなに頑張ってきたのに。あんなに頑張っているのに。そういう想いが藍の心を揺さぶる。少年の未来を想うとどうしても感情が振り回され、右往左往してしまい、今すぐにでも少年を止めに向かいたい衝動に駆られていた。

 

 

「あのままではっ!! 和友が擦り切れて死んでしまいますっ!」

 

 

 藍の頭の中には、そう遠くない未来に崩れていく少年の姿が映し出されていた。確実に潰れてしまう、すり減ってしまう少年の姿が容易に想像できていた。

 藍は、今にも崩れそうな様子で紫に懇願する。

 藍の瞳には涙が浮かびあがり、今にも流れそうだった。

 

 

「お願いします、お願いですから……和友を助けてあげてください」

 

「藍っ!! 黙りなさい!!」

 

「っ…………!」

 

 

 藍が縋るように頼み込んだその瞬間―――藍の涙を吹き飛ばすように、空間に音が充満した。藍の言葉をさえぎるように紫が声を張り、藍は紫の大声に肩をビクっと動かして押し黙った。

 

 

「感情的になったら、話し合いなんてできないでしょう?」

 

 

 紫は、感情的になる藍を落ち着ける。

 藍は、紫に怒鳴られたことで自制を取り戻し、自分が主に対して何をしていたのか自覚した。

 

 

「……申し訳ありません。熱くなってしまって……」

 

「いいのよ、気にしないで。貴方の言っていることは分かるから」

 

 

 藍の言っていることは、正しさに満ち溢れている。もともと紫は、能力の制御をさせるためにここに少年を連れてきた、決して無理をさせるために連れてきたわけではなく、少年に無理がかからないような環境で練習をさせるために幻想郷へと連れてきた。

 それを考えれば、今の状況が狙ったものでないことは確かである。

 紫自身も、藍と同様に少年に休んでほしいという気持ちを持ち合わせている。

 しかし、藍と同じ気持ちを抱えていても、それに逆らってでも―――少年を止めたくないというのが紫の本心だった。

 

 

「藍の言っていることも理解できるわ。なんていったって、私は貴方の主なのだからね」

 

「紫様……」

 

「落ち着いて話をしましょう。さぁ、そこに座りなさい」

 

 

 紫は、先程までの怒気を含んだ表情ではなく、柔らかい表情で藍に接する。

 藍は、紫の雰囲気が優しくなったことで、少しだけ気持ちを楽にした。時間の経過と共に、心を震わせていた振動はゆっくりと単調減少していく。

 藍は、落ち着きを取り戻すと紫の座っている炬燵まで足を動かし、紫と視線の高さを合わせるように座った。

 

 

「一つずつ、私たちの間にある隙間を埋めましょう。気になることを一つずつ話してみなさい」

 

「はい、一つずつですね」

 

 

 最初に藍は、少年の行為を止めない真意のほどを尋ねた。

 

 

「では、最初に……紫様は、どうして和友にあの作業を続けさせるのですか? さきほども申し上げた通り、和友にこれ以上無理をさせるのには、疑問を感じます」

 

「あの子はずっと、自分のそのどうしようもない力と共存してこれまでやってきたのよ。あの子は、ああやって生きていくと決めたの」

 

「決めたって……」

 

 

 藍は、紫の言葉に違和感を覚えた。

 藍の耳には、少年の決めたことだからという理由で少年を止めることを諦めたと言っているように聞こえた。

 決めたということがどんな意味を持つというのだろうか。

 その重要度の度合いは、決まりによって異なるが―――自分の身を削ってまで守ることではないはずである。何をするにも、自分の身を守るよりも大事なことではないはずだ。

 

 

「そんなのは変えてしまえばいいではないですか。決めたことを絶対に守らなければならないってことでもないでしょう?」

 

 

 藍には、決まりというものが絶対に順守されなければならないものだという認識が無かった。

 例えば、藍に任せられている仕事の一つである、博麗大結界を守らなければならないという決まりが‘仮に’あるとする。

 しかし、幻想郷の住人が全員死んでしまうという事態に陥れば、博麗大結界を守る意味は存在しない。博麗大結界は、幻想郷を守るものであり、幻想郷の住人を守るものなのだから、幻想郷の住人が全員死んでしまえば無用の産物になる。

 中身を度外視してまで外殻を守る意味などない。藍には、そのぐらいの判断ができるだけの融通が利く、それと同じように少年も取捨選択をすればいいだけの話だと思っていた。

 

 

「人の名前を呼ぶことよりも、自分の体を大事にすることの方がよっぽど大事なことです。無理をしてまで覚える必要など、どこにもありません」

 

 

 少年が人を区別しなければならないという決まりを自身に課しているのならば、それよりも自身の体を大事にしてもらえればいいだけのこと。

 藍は、名前を呼ぶという約束を守ることよりも、自身の体をいたわって欲しかった。約束の内容が命に関わるようなことならともかく、今回の場合は名前を覚えるという命に関わらないことである。

 名前を呼ぶことと身を削ることを天秤にかければ、すぐに傾き、勢いの余り中身がこぼれるだろう。損得勘定にのっとれば、身を削るということが名前を覚えるということよりも大事であるはずがないのだ。

 

 

「どっちが大事なのかなんてことは、子供にだって分かることです。ですから、紫様。今からでも和友を止めに行きましょう?」

 

「……それは、できないわ」

 

「なぜですか? 何か理由があるのですよね?」

 

「あの子にとって決まり事は、事実にも似た揺るがないものなのよ。私達が決まりなんて軽々しく表現しているのが間違っているように感じてしまうほど、あの子の中では質が違う」

 

 

 紫は、辛そうな表情をしながら諦めの言葉を口にし、僅かに言葉に間を取ると溜めこむようにしてゆっくりと言葉を吐き出した。

 

 

「あの子の決まり事っていうのはね、彼自身を守るものなのよ」

 

「どういうことですか?」

 

 

 藍には、紫が何のことを言っているのか理解できなかった。

 現実には、決まり事が少年の身を削っている、現在進行形で擦り減っていっている。

 それなのに、守っているというのはどういうことなのだろうか?

 

 

「藍、あの子の心の中にある標識は何? あなたは、あの子から何か聞いている?」

 

「それは、何か話に関係のあることなのですか?」

 

「いいから答えなさい」

 

「…………」

 

 

 紫は、話題を少し変えて少年の心の中にあった標識の話を持ち出した。

 藍は、どうして標識の話がここで出てくるのか理解が及ばず、紫からのいきなりの質問に一瞬戸惑う。

 しかし、藍は紫の露骨な会話の誘導に少し怪訝そうな表情をするものの、紫の話題に乗った。

 

「標識ですか……」

 

 

 

 藍は、紫のことをよく知っている。紫は、相手に説明する際に自分からはっきりと解答を述べることは少なく、遠回りをするようにして最終的に全てがパズルのピースのように嵌るような話し方をすることが多い。

 紫という人物は、他者に動かされる人物ではなく―――動かす側の人物なのである。

 

 

「和友は……標識は、区別だと言っていました」

 

 

 藍は、紫の問いに対しての答えを持ち合わせていた。答えを得たのは、ついさっきの少年の心の中に入っていた時のことである。

 藍は、標識をたどって移動をしているときに標識とは何なのかについて少年から聞いていた。

 

 

「私は、ずっと疑問に思っていたわ。心の中で揺らがずにあった標識の存在は、必ず何かしらの意味を持っているはずだと……藍も思ったでしょう?」

 

「和友に聞きましたが、標識によって曖昧なものを区別しているそうです。人の名前から、色に至るまで……」

 

「それが本当だとするなら、物事の区別をするというのは、心の中に標識を打ち立てる行為ということになるわね。一度立てた標識は、壊れでもしない限り判別が可能になる」

 

 

 紫は、藍の答えから一つの仮説を提示した。

 少年が行っている書き記すという行為は、心の中に標識を打ち立てる行為である。

 標識と立て札だけは、心の中でもある領域を保持して動いておらず、世界の中に確固たる形をもって固定されていた。

 

 

「それが、今やっている書き記す作業だと?」

 

「そう考えるのが自然よ」

 

 

 紫は、大きくため息を吐き、疲れた表情をみせる。

 

 

「区別すること、それはあの子にとってとても大変なことよ。けれどね、物事の区別よりもっと大切なものがあの子の言う決まり事なのよ」

 

 

 少年は、心の中に標識として打ち込むことで、心の中に刻み込み、記憶している。だから区別の出来ない少年でも、一度努力して打ち付けてしまえば物事を間違えることなく覚えることができるのだと考えるのが自然の流れだった。

 紫は、ここでさらなる推測を提示する。

 紫は、少年にとって最も大事なことは区別することではなく、別のところにあると考えていた。

 

 少年の最も大事なもの、それは―――少年の言う決まり事である。

 

 

「疑問に思わなかったかしら?」

 

 

 紫は、藍に問題提起する。

 標識の意味が分かった今、紫の頭の中には、疑問が一つ浮かんでいた。少年の心の中に在ったもので動かなかったものは‘二つ’あるのである。

 片方は標識。

 もう一つは―――立て札である。

 

 

「あの子は、区別するのは標識だと言った。ならば立て札は何なの? 標識と同じように存在していた立て札の役割は何なの?」

 

「そういえば、立て札も標識と一緒で揺らがずに立っていましたね……」

 

 

 藍は、紫の言葉を聞いて怪訝そうな顔をし、思い出したように口を開いた。

 心の中で少年と話した内容を思い返してみると、少年は確か立て札についても何か話していたはずである。

 藍は、暫くの間悩むしぐさを見せた後、はっとした様子で紫に答える。

 

 

「……和友は、標識は区別で立て札は楔だって言っていました」

 

「それ以外には、何か言ってなかったかしら?」

 

「それ以外のことについては、尋ねることもしなかったので……何も……」

 

 

 立て札については標識と異なり、深く触れていない。少年の心の中で交わした会話で、立て札について言及していたのは今も昔も楔だと言ったあの一言のみである。

 

 

 

「今からでも、和友に聞きに行きましょうか?」

 

「それには及ばないわ」

 

「そうですか……」

 

 

 藍は話し合いに必要な情報ならば、と紫に提案を持ち掛けたが、紫は藍の行動を制した。紫が藍の行為を止めたのは、それほど情報が必要でなかったのもあるし、おそらく藍を少年の下へと行かせたくなかったためだろう。

 藍は、そうですかと一言述べ、なぜ心の中で立て札について少年に尋ねなかったのだろうかと頭の中で思考した。すると、理由はすぐに分かった。

 タイミングが悪すぎたのだ。

 標識について少年に話しているとき―――少年に標識を壊したことを告げていた。

 それが―――藍の頭の中から立て札についての考えを吹き飛ばしたのである。

 

 

「聞いたのはあの時か……すみません、標識と一緒に聞いておけばよかったですね」

 

「聞いていないのなら別にいいわよ。今さらどうにかなるものでもないわ」

 

 

 少年は、藍が標識を壊したと告げたとき、思いのほか声を荒げて藍に向けて怒鳴った。

 その瞬間に、藍の頭の中は悪いことをしてしまったという罪悪感と申し訳なさで満たされて、その他のことについての想いを消し飛ばしてしまった。標識で与えられた印象が大きすぎて、立て札について話を聞くという意識が記憶の彼方に飛んでしまっていたのである。

 

 

「それにしても、あの子は立て札を楔と言ったのね……」

 

 

 紫は、悩むような素振りで小さく呟いた。

 紫は、立て札についてある程度の確信を持っている。標識と同じように少年の心の中の世界で揺らがずに存在しているからには、立て札にだって標識と同じような大きな意味があるに違いない、それは―――楔だという少年の言葉からもはっきりと理解できる。

 紫は暫くの考察を経て、何か確信したような顔になった。

 

 

「これではっきりしたわ」

 

「何が分かったんですか?」

 

 

 藍は、不思議そうに紫へと尋ねた。藍の思考は、紫の思考の最終地点へはたどり着いてはおらず、ある所で立ち止まっている。

 紫は、藍を自身が導いた答えへと導くために、もう一度話を最初の地点へと戻す。標識と立て札は少年にとってとても大事なものだと、もう一度藍へと告げた。

 

 

「標識があの子にとってとても大事なものなら、立て札だってとても大事なもののはずよ」

 

「あっ、そういうことですか」

 

 

 標識が区別を行っているものならば、今少年が行動に駆られている理由は何だろうか? 少年は、今何に従って右手を動かしている? 

 藍は、今までの紫との話し合いを思い返し、答えを口にした。

 

 

「和友の大事にしているもの……それが決まり事ってことですね」

 

「そういうことよ」

 

 

 藍は、紫のほんの少しの誘導によって、少年の大事にしているものについて話の流れから結論へと帰着し、頭の中にしっかりとした解答を得た。

 少年が大事にしているものは一律して普通というものである。行動の理由を決まり事を守るということに直結することで、少年の言動や行動が納得できるものになる。

 先程少年が藍に対して言った、約束事は守ると言った言葉も。

 少年が紫に対して言った、普通に生きるって決めたからと言った言葉も。

 その両方が少年の守っている大事な決まり事だと想像できた。

 

 

「おそらく立て札はね、彼にとっての決まり事なの」

 

 

 紫は、藍に訴えかけるようにして話をする。

 

 

「だってそうでしょう? はっきりと正負で別れて、表裏で明確に別れている区別ができるものはいいわよ。でもね、区別ができないものもあるじゃない」

 

 

 紫は、区別ができないものがあることを知っている。

 それは、区別してはならないものであり、判断しなければならないものである。

 

 

「区別できないものが人間にとって、一番大事なものよ。生きていくために、普通を守るために、一番必要なもの。あの子は、それを決まり事として処理してきたんじゃないかしら?」

 

「区別ができないもの……」

 

 

 紫は、悩んでいる藍に向けて決して答えを口に出すことはしなかった。

 紫は、藍に自力で分かって欲しかった。人に与えられた答えではなく、自分で答えを見つけて、少年のことを理解して欲しかった。

 

 

「道徳的なものや倫理的なものですか?」

 

「そう、道徳や倫理に関わることよ。こうするのが普通だという、そういったもの」

 

 

 紫は、藍が自分と同じ結論に至ったことに少し嬉しそうにしながら口を開いた。

 

 

「彼にとって区別できないものは、決まり事に分類される」

 

 

 少年は、物事を区別することができない。それは、区別するための境界が自身の中で曖昧になってしまうからである。人というくくりができても、誰なのかを区別することができない。黒色というくくりができても、色の濃淡までは区別することができない。

 少年は、そんな区別を―――努力でしてきたのである。

 しかし、少年の努力は万物に通用するものではない。世の中には区別できないものが無数に存在する。

 区別できないこととして代表されることは、道徳や倫理に関わる問題であり、万人で意見が分かれるそんなものである。特に善悪を見分けることについては、陪審員制度があるように明確に区別することができないということが理解できるだろう。

 

 

「おそらくその中の一つとしてあるのが普通に生きるってことね」

 

「普通に生きる、ですか……」

 

 

 紫は、少年の保持している決まり事の一つが普通に生きることだと判断していた。

 藍は、紫の言葉を聞いて困った表情を作る。

 

 

「普通に生きるって、どういうことなのでしょうね……」

 

「私には判断付かないわ。普通なんて、私にとっては縁遠いものですもの」

 

 

 藍には、普通に生きるという漠然としたものがどんなものなのか具体的に想像することができなかった。今も行われている少年の行動が対価として見合うのか疑問で仕方がなかった。

 幻想郷に住んでいる普通とは無縁の妖怪には、少年の気持ちなど理解できやしない。何不自由なく生活できている人間が困窮している人の気持ちを理解できないように、同情することはできても真に理解することは叶わない。

 藍は、少年の追い求める普通というものがどれほどの価値を持つのか分からず、弱々しい声で呟いた。

 

 

「普通……きっと私達には一生かかっても分からないのでしょうね」

 

「いえ、案外分かるようになるかもしれないわよ。これからあの子と一緒にいれば、あの子の大切にしている物が分かってくると思うわ」

 

 

 紫は、答えを求めるような藍の言葉に回答を提示することはない。紫も藍と同様に、少年の求める普通など理解の範疇に存在しないのだから。

 普通なんていうものは―――区別できるものではないのだ。普通という漠然としたものは、AとBのように真っ二つに分かれるようなことは決してない。

 紫にとっての普通と、藍にとっての普通には必ず齟齬が生まれる。きっと紫にとっての普通も普通(=A)であり、藍にとっての普通も普通(=B)には違いないのだが、A=Bには決してならないのと同じである。

 

 

「和友が普通というものにこだわっているのは、決まり事だからってことですか?」

 

「世界を繋いでおく楔っていうのは、そういう事だと思うのよ。あの子にとっての決まり事は、人間として社会に溶け込んで生きていくために重要な、倫理的なことを示すものなのでしょう」

 

「決まり事が和友の心と現実の世界を繋ぎとめておくための楔ということですね」

 

「きっと彼の心の中にささっている立て札には、普通に生きるための無数のルールが明示されているんだわ」

 

 

 藍は、紫の言葉を聞いて少年の言っていたある言葉を思い出した。それは、藍に向けられた言葉で強い意志が込められた言葉である。

 約束は守るという言葉である。

 

 

「約束は守る……」

 

「そう、それが今のあの子を駆り立てている決まり事の一つだと思われるわ」

 

 

 暫くの間静けさが場を支配し、重い空気が地面を這う。

 藍は、静けさの中、手を伸ばしてある方向に向かって指をさした。

 

 

「もしかして……それを読んだのですか?」

 

 

 藍は、紫が少年の家から持ってきた両親の書いたと思われる成長記録を指さした。

 藍は、紫と話している際にずっと感じていた。紫と自身の間に存在する―――少年に対する大きな知識の差を。

 自身の持っている少年への知識と、紫の持っている知識との差が何から生まれているのか……考えてみれば、答えはすぐに見つかる―――それこそが藍が指さしているものである。

 紫が少年についての情報を蓄えたのが先ほどであることは、少し考えてみればすぐに分かることだ。少年にとって大事なことであるならば、教育係を任せている藍に告げていないわけはないのだから。ならば、先程藍が少年と話している間に知識を得たというのが自然だった。

 

 

「このまま待っていても時間の無駄だと思ったからね」

 

「……ということは、対処法も何もなかったのですね。今の和友を止める方法や、和友を守る方法は無く、このままやらせておくことが一番いいと……そういうことなのですね……」

 

 

 紫が成長記録を読んでいてなお少年を止めなかったのは、止めてはならなかった理由がそこにはあったから、この方法が最も少年を守っている方法だからなのだろう。

 藍は、何かないのかと必死に思考を巡らせる。

 しかし、頭の中には少年を助けるための方法が何も思いつかなかった。

 

 

「紫様……なんとか、できないのでしょうか?」

 

 

 藍は、歯がゆそうに表情を曇らせ、どうにかできないかと紫に願い出る。なんとかして、少年の行動を止めたいという想いを抱え、少年を止めることを諦め切れていなかった。

 少年が決まり事に従って今も活動しているのは理解ができる、立て札が決まり事だということも理解ができる。

 しかし、少年にこれからもあの書き記す行為をさせていくという思考に辿り着くことができなかった。その思考の軌跡が理解できなかった。

 これからも少年が苦しみ続けてなければならない理由を見つけることができなかったのである。

 紫が少年の事を投げ出してしまえば、少年はこれからどうするのだろうか。親を失った少年が、これからどうしていくのだろうか。あの異常を許容してくれる人物が、許容する世界が他にあるのだろうか。

 少年には、もう戻ることのできる世界が存在しないのだ。

 紫は、そんな少年を守ることができる唯一の人物である。まさしく少年にとってのセーフティネット(安全網)なのだ。

 藍の中には、少年に対する不安だけが存在していた。

 

 

「紫様が言ったのですよ? 似たような能力を持っているあの子を何とかしてあげたいって、何かしてあげたいって」

 

「出会う前までは、そう思っていた……昔の私みたいに、能力に振り回されているのかと思っていた。制御できずに苦しんでいるのだと思っていた」

 

 

 紫は、藍の懇願に対して今の少年に対して抱いている想いを告げる。

 紫は、少年がこれまで成し遂げた事実が、これまで外の世界で上手く生活を送ってきたことが信じられなかった。境界を曖昧にするという異常を持ちながらも、普通の人間として生きている少年が信じられなかった。

 きっと、相当な犠牲をもって、対応する代償を払って生活を送っているのだ。紫は、少年が能力に振り回されて苦しめられながらも必死にあがき、無理をして普通の生活を送っているのだと勝手に想像していた。

 しかし、それは間違いであると少年を見た瞬間に―――理解した。

 

 

「けれどね……あの子は違ったのよ」

 

 

 紫は、少年を見つけた時の衝撃と驚きを藍に伝える。

 

 

「あの子はね、私よりも酷い能力を持っているにもかかわらず、自然に生きて中学生まで辿り着いた。人間の中で普通を保ち続けた。能力を封じ続けたの」

 

 

 生まれた時から不釣り合いな大きな力を所持している場合、決まって不釣り合いな力に重心が傾き、体が力に振り回され、力の重さに支配されて制御が利かなくなる。そんな状況になるのが―――世の常である。

 紫には、自身の持つ境界を操る能力に振り回された経験があった。

 何か急に大きなものを与えられて上手くいくことなんて酷く稀なものである。紫自身も境界を操る能力を最初から使いこなせていたわけではなく、長年の間能力と付き合ってきて修得してきた。

 少年は、それと同じことをこの数十年という人生の中で行ってきたのだ。

 紫は、これまで少年が成してきた努力に賞賛を送る。驚きを含めながら感嘆の声を漏らした。

 

 

「その努力は、並大抵のことじゃないわ。人間だというのが信じられないくらいよ。とっくに押しつぶされていてもおかしくない」

 

 

 少年は、紫のように妖怪だったわけではない。妖怪のように丈夫な体、強い生命力、長寿命を持ち合わせているわけではない。

 少年はあくまで‘人間’である。そんな妖怪よりも遥かに肉体的に弱い人間が、異常な能力を抱えながらも人間社会の中で生きてきたのだ。

 

 

 

「能力によって区別できない現象を心の中に標識を打ち立てることで毎回確認して区別を行う。人として守るべきルールとして、倫理的な問題を、痛みを堪えて立て札を打ちつける。意志の強さが普通の人間とは桁外れだわ。とても人間だとは思えないほどの意志の強さよ」

 

「……立て札を立てるのには、痛みを伴うのですか?」

 

「立て札は、区別できないものを決める決まり事。そんな曖昧なものを確定するには、書き続けるだけでは駄目だったみたいね……」

 

 

 紫は、立て札の立て方を知っているような口ぶりだった。それも、成長記録に書かれていることなのだろう。

 紫は、そこまで話すと少し雰囲気を重くした。

 

 

「本当に、どうして……あの子は……」

 

「紫様、和友はどうやって立て札を立てたのですか?」

 

 

 藍は、口を閉ざそうとする紫に恐る恐る声をかけた。その答えが、酷く苦しいものであると分かっていながら聞かずにはいられなかった。

 そして、その答えは案の定、とても残酷なものだった。

 




少年の一人称の使い分け
目上 私+拙い敬語
対等 俺+相手への気遣い少々
他人 俺+排他的
家族 僕+あるがまま

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