ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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藍は、少年の区別するというものの難しさを目にする。


心の揺らぎ、固まった決意

 藍は、目の前の少年に対して何一つ行動できなかった。

 

 

「和友……」

 

 

 少年のものを書き記す動きは、年季の入ったものを感じさせる。それは気のせいでも、勘違いでもなんでもない、熟練した動きに見えるのは当然のことだった。

 少年は、これまで相当の場数をこなしている。これまで覚えなくてはならない人の名前など、小学校のクラスメイト、近所の人間、親戚の人間、少なくとも50人はいたはずだ。

 藍は、驚愕と恐れを含んだ表情で思考し、少年に聞かれないように頭の中で疑問を呟いた。

 

 

(和友の親は、これを止めなかったのか? こんなことを、こんなことをやらせ続けていたのか?)

 

 

 少年の行為は、明らかに常軌を逸している。少年の欲している普通とは、圧倒的な距離感を持って存在している行為だ。

 そんなもの、少年の親が少年の行動を見れば―――少年を止めるはずなのである。

 しかし、少年の行っている普遍的動作は、誰かから止められて出来上がったものではない。なぜそんなことが言えるのかというと、止められていたならば、こんな熟練さは出ないはずだからだ。

 少年の親は、少年に対して書き記す行為を黙認していたか、推奨していたと考えるのが自然だった。

 

 

(和友は、両親のことを慕っていた。心の中では間違いなくそうだった。だが、かといって紫様が嘘をついているとは考えにくい……)

 

 

 藍の頭の中を、紫が告げた少年の親に対する言葉と、少年が自分に話してくれた親に対する言葉、両者の矛盾が駆け巡る。

 藍は、少年の親が少年の行為を黙認していた、あるいは推し進めていたという考えを到底信じることができなかった。

 少年の慕う親というのが、少年にとって辛い、苦しい作業を行わせるような親であり―――そんな親の事を少年が自慢に思っているのかと思うと信じることができなかったのである。

 

 

「和友の両親は、このことを知っていたのか?」

 

「そりゃ、もちろん知っているよ」

 

 

 藍が困った表情で視界を覆うように顔に手を当てながら少年に尋ねると、少年は藍の言葉をはっきりと肯定した。

 

 

「この方法を最初に考えついたのは両親だからね。両親が一緒に悩んで見つけてくれた、物事を区別して覚えるのに一番楽な方法だよ」

 

「この方法が、一番楽だって……?」

 

「そうだよ? 他にもいろいろやったけど、これが一番簡単だった」

 

 

 少年は、両親の指示に従って書き記す方法で物事を区別していると明言するだけでなく、書き続けるという行為が一番楽な方法だと断言した。

 言葉に迷うことも、言いよどむこともなく話す少年の様子だけを見ると、嘘をついているようには全く見えない。

 少年はまぎれもない本心で本当のことを口にしていると、藍は思った。

 

 

「両親は、何か言わなかったのか? 止めたりはしなかったのか?」

 

「両親は俺の事を止めなかったよ。泣いていたけど、止めることはなかった……」

 

 

 少年は、藍の疑問を聞いて過去を思い出す―――昔、初めて作業を始めた時の両親の表情を思い返した。何度も何度も見た光景を、網膜の裏に焼き付いている表情を、振り返った。

 少年は、過去を思い出しながら、わずかに震える声で言葉を絞り出す。

 両親は、少年のことを決して止めなかった。

 

 

「両親は俺にやらせながら謝ってきたよ。ごめん、ごめんなさいって謝ってきた」

 

「和友の両親は、苦しんでいたのか……」

 

 

 藍は、両親が少年に対して泣いて謝ってきたという事実から、少年に故意にやらせていたわけではなく、やらせたくなかったという想いを持っていたことを理解した。両親は、好きで少年にやらせていたわけではなかったようである。

 だが、それを認めた場合、余計に不思議な部分が生まれた。

 藍は、頭に当てていた手を下におろし、両親が少年を止めなかった理由を考える。両親には、やらせたくなくてもやらせなければならなかった理由があるのだろう。

 

 

「ならば、なぜ和友の両親は止めなかったのだ……」

 

「それが最もこれからを生きていくために楽な方法だったからじゃないかな? 俺は、今でもそう思っているよ」

 

 

 少年の言葉には、きっとそれでよかったんだという気持ちがあふれてでていた。

 

 

「どうして両親が俺に謝っていたのか、俺にはいまだに分からないけど……俺が頑張れば両親は泣かないと思って頑張ったんだ」

 

 

 少年は、これまで誰にも話したことがなかった事実を藍へと吐露していく。

 

 

「実際、小学校の6年生になるころには両親が泣くことはほとんどなくなった。このことで悩むことは無くなったんだ。ほとんどやることがなくなったからね」

 

「そうか……」

 

 

 藍は、やることがなくなったという少年の言葉の意味を理解した。

 少年は、生活する上で覚えなければならないことを一通り覚えたのだろう。長い間努力を積み重ねて、区別という作業がついに終わりを迎えたのである。

 やらなければならない内容がいくら多いといっても、始まりがあればいずれ終わりが訪れる。その終わりが小学6年生のときに訪れたのだ。

 しかし、それを聞くと同時に疑問も湧いてくる。終わりが小学6年生ならば、始まったのはいつなのだろうかという疑問である。

 

 

「終わったのが小学六年生ということは、いつごろからこんなことをやっていたのだ?」

 

「そうだなぁ、多分6歳ぐらいだと思うよ。この書き記す作業になったのは、もうちょっと後だけど」

 

「6歳から……そこからずっとやってきて、区別することがなくなったからやる必要がなくなったんだな」

 

「その通りだよ。小学6年生になるころには、努力しないと区別がつかない事はほとんど無くなった」

 

 

 藍は、少年から告げられた予想以上の期間の長さに言葉を失いそうになる。

 書き記す行為を6歳から続けていたということ―――それはつまり、少年には自由な時間が殆どなかったことを示している。

 藍は、自由な時を過ごせなかった少年を悲しそうな瞳で見つめた。

 

 

「俺が頑張ったから早く終わったというよりも、両親が覚えなきゃいけないことを選別したから早く終わったのかもしれないけどね」

 

 

 少年は、そう言うと乾いた笑みを浮かべて作業に戻ろうと行動を始め、藍に向けていた体を机へと向けて再び肩に力を入れた。

 

 

「…………もう、いいよね? 疑問は解消されたと思うし……出て行ってもらえるかな? 俺は、これから後6時間やらないといけないんだから」

 

 

 少年は、鉛筆を握る右手に力を入れて机に向かう。

 少年には、書き記す行為を止める気などさらさらなかった。少年が書き記す行為を中断したのは、あくまで戸惑っている藍を気遣っていただけであり、誰に止められようとも全てを終わらせるまで辞めるつもりなど微塵もなかった。

 藍は、目の前にいる少年が再び作業に戻ろうとしているのを見て、これから少年が行おうとしている所業にぞっとし、どうにかして止めようと少年に声をかける。迷うことなく、遮るものもなく、目の前の少年の行為で揺さぶられる心そのままに突き進み、静止をかけようとした。

 

 

「か、和友っ……」

 

「邪魔をしないで。俺は、お前たちの名前を確実に覚えて区別できるようになるまでやめる気はないから」

 

「私の名前……」

 

 

 藍の立っている位置からは、少年が書いている文字が見えた。

 ノートの上には、八雲藍という文字が勢いよく書き足されていっている。機械のように均一な速度で、同じような文字でノート上に黒が連なっていく。

 

 

「私のせいか、私の……」

 

 

 藍は、少年の行動が自分の責任だと自らを責めた。

 目の前の光景は、間違いなく藍によって引き起こされたものである。藍が少年の心の中で、少年に対して名前で呼んでほしいなどと言わなければ、少年が名前を呼ぶために苦労することはなかった。

 少年が苦しそうに、辛そうにノートにひたすら文字を書き続けているのは―――はっきり言ってしまえば藍と紫のためなのである。

 少年は、二人の名前を覚えるために一生懸命神経をすり減らして、その身をすり減らして覚えようとしている。

 藍は、見せつけるようにして行われている所業に表情を歪ませた。

 

 

「もう、やめてくれ……」

 

 

 藍は、沸き立つ想いにわなわなと体を震わせ、いまにも消え入りそうな声を出した。

 だが、少年の右手の動きが止まる様子は全く見受けられなかった。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、苦虫を噛み潰したような顔を藍に見せることなく、手を動かし続ける。

 少年の耳には、藍の声がしっかりと届いている、十分に聞こえている。

 ただ―――少年は藍の言葉を無視していた。

 少年は、藍ともう話すまいと心に決め、名前を覚えるための行動をただただ遂行していた。

 

 

「そうか……」

 

 

 藍は、動きを止めない少年の横で、心の中で交わした少年との約束事を思い出した。名前で呼んでほしいと告げた時の少年の態度がふと脳裏によぎった。

 

 

「その、私のこと、名前で呼んでくれないか? 紫様と話していた時も言おうと思っていたのだが、人の名前はちゃんと呼ぶべきだと思うぞ」

 

「明日には、ちゃんと名前で呼ぶから、それで勘弁してもらえないかな? 今日はちょっと……ごめん……」

 

 

 少年は、藍に対して名前で呼ぶことを渋っていた。

 

 

「そういう、ことだったのだな。あの時、名前で呼ぶのを渋ったのは……」

 

 

 藍は、少年の今の状況を目にして心の中で言っていた少年の言葉の意味をはっきりと理解した。

 心の中で名前を呼んで欲しいと言った藍に対して、少年が答えを言い渋ったのは別に恥ずかしかったわけでもなんでもない。名前を呼ぶことができなかったから、呼ぶことが難しかったからなのである。

 

 

「和友は、ちゃんと私の名前を呼ぼうとしてくれているのだな。私との約束を、守ろうとしてくれているのだな……」

 

 

 少年には、その場で誤魔化すということもできたはずなのだ。名前を呼んでほしいと言われた時に、藍の名前を一言だけ喋るという選択もあったはずなのである。いくら区別ができない少年でも、その場限りでなら藍の名前を呼ぶことは可能だっただろう。

 しかし、少年はその場をやり過ごすためだけに藍の名前を呼ぶことはしなかった。それは―――名前を呼ぶという行為が今から未来へと繋がっていくものだと分かっていたから。藍から言われた言葉の意味がその場限りではなく、これからの未来にまで影響を及ぼす言葉なのは明白だったから。

 

 

「本当なら、断わりたかっただろうに……」

 

 

 これほどのことをする必要があるのであれば、名前を呼ぶことを断ることだってできたはずである。それなのに、少年は藍の想いを受けとめ、約束を果たそうとしてくれている。

 藍は、少年の気持ちに心を揺さぶられながら少年の抱えている問題について把握した。

 

 

「これが、和友の持っている異常性、区別ができないという特異性か……」

 

 

 人の名前を呼ぶということを行うには、その行動の過程で必要なことがある。

 相手を名前で呼ぶという行為をするためには、相手を区別する必要があるのである。それが誰なのかを理解する必要がある、見るたびに脳内でこの人は誰だと区別する必要があるのだ。

 普通の人間であれば、見えている相手が誰なのかという判別を瞬時に行うことができる。

 しかし、書き続けるという行為でしか区別が出来ない少年にとっては、人を見分けるという行為は非常に大きなものである。

 だからこそ少年は―――その場での回答を言い渋った。それでも、名前を呼んでくれている相手に対して申し訳ないという気持ちがあったから藍の要望に応えようと、明日には呼べるようにすると約束したのである。

 

 

「やめてくれ、私のためにそこまでやるのは……やめてくれ」

 

 

 藍の心は、手に取るように分かってしまう少年の行動の理由と気持ちにぐらぐらと揺れ、蝕ばれる。

 藍の口からは、思わず口から心の声が漏れ出した、出すつもりもなかった言葉が自然と溢れ出た。

 

 

「私が悪かったのだ……私があんなことを言わなければ……」

 

 

 藍は、現在進行形で凄まじい罪悪感に襲われていた。藍が名前で呼んで欲しいなんて少年に頼まなければ、少年と約束しなければ、そう思わずにはいられなかった。

 藍が名前で呼んでほしいなどと言わなければ、少年は疲れているときから、幻想郷に来た直後からこんなことをやらなければならないような状況にはならなかったのだ。

 藍の心には、そのことが酷く鋭利に突き刺さっていた。目の前の少年が辛そうにしているのは、ほかでもない自分自身の責任なのだと思うと、罪悪感を覚えずにはいられなかった。

 藍は、襲いかかってくる罪悪感に耐えきれず、涙ぐむ。

 

 

「もういい、もうやめよう? もういいよ、もうやらなくていいから」

 

「何がもういいの? 何もよくないよ。何も変わっていないじゃないか。やる前とやった後で何も変わっていないじゃないか」

 

 

 少年は、藍の震えた声にピクッと反応し、下を向いたまま唇をかみしめた。

 少年の鉛筆の動きは、藍の涙声で一瞬止まったものの、藍の想いを無視するように再び機械的な動きを開始する。

 少年は、藍の制止をかける言葉では止まらない。藍の顔を見ることもなく机に向かい、書き記す作業に戻る。

 

 

「っ…………」

 

 

 藍は、少年の何事も寄せ付けないような拒否の姿勢に挫けそうになる心を必死に支えて、瞳に力を入れる。藍が瞳に力を入れた瞬間、藍の瞳に溜まっていた涙が僅かに飛んだ。

 藍は、重くのしかかる罪悪感を跳ね除けて、涙の代わりに決意を目に浮かばせる。

 

 

「和友はこれまでもずっと戦ってきたのだな」

 

 

 少年の言葉から察するに、生活時間の殆どを書き記す作業に費やしていたことが予測される。遊び盛りの時期だったのにもかかわらず、遊ぶ時間なんて無いに等しかっただろう。

 少年は―――全てを捨てるようにして自身の異常性と戦ってきたのである。

 

 

「それでもここは幻想郷だ。幻想郷は全てを受け入れる」

 

 

 幻想郷は、異常者の集まりの場所。少年の異常性すら飲み込んでくれる優しい場所。幻想郷は―――全てを受け入れる場所。

 少年は、そんな幻想郷に来ても、異常性を封じるように、乗り越えるように努力をしている。昔の自分が判別できなかったことを判別できるようになるために、新しい自分になるために必死に行動している。必死に努力している姿が、藍の目の前にある。

 

 

「和友、別に努力して変わらなければならないわけではないだろう?」

 

 

 藍は少年を説得する、少年を傷つけないために―――自分を守るために。

 藍は、自分を追い込んで自分を殺していくような姿を黙視できず、少年に対して頑張らなくていいのだと優しく諭すように語り掛けた。

 

 

「そこまでして私の名前を覚える必要は無い。別に私の事は名前で呼んでくれなくていいから。私との約束のためにそこまでするのは止めてくれないか?」

 

 

 藍は、目の前の光景が無くなってくれるならば何でもするつもりで、奥の手とも言える行動に出た。

 少年の行動の原動力となっているものが藍との約束ならば、それを放棄してしまえばいい。藍が約束事を放棄すれば、少年が今日中に藍や紫の名前を覚える必要はなくなり、人の名前を区別するための無理な努力をし続ける必要は無くなる。

 藍は、少年との約束事を放棄しようとしだしたのである。

 少年は、約束したことを投げ出そうとする藍に対して露骨に嫌そうな顔を浮かべた。

 

 

「い、や、だ」

 

「止めてくれよ、お願いだ。止めてくれ」

 

「止めないよ、俺は止めない!」

 

 

 少年の答えは、酷く拒否の姿勢を示すもので、藍の想いを打ち砕いた。

 藍は、少年を止めることができると考えた唯一の可能性を潰され、縋りつくように少年の肩に手を置き、懇願する。

 少年は、藍が約束事を破棄しても動くことを止めない。藍は、少年のあまりの意志の固さに行動を曲げることができなかった。

 少年の右手は、感情のこもった言葉とは裏腹に機械のように動き続けている。

 

 

「その手を離せ、もう鉛筆を握らなくていい!」

 

 

 藍は、なんとかして少年の行動を止めようと肩においていた右手を伸ばす。右手を伸ばす先は、少年の握っている鉛筆である。

 藍は、最終手段―――力ずくで止めるという方法を消去法で選択した。約束を放棄するという選択肢を破棄されてしまっては、もはや力ずくというもの以外に選べる選択肢が存在しなかった。

 言葉で何を言っても納得させることができないのならば、物理的に辞めさせるしかなかった。

 

 

「これ以上やらなくていい! これ以上、努力しなくていい!!」

 

 

 藍は、少年の右手が握っているペンを掴んで少年から取り上げ、少年の行動を無理やり力ずくで少年を止めようとする。

 

 

「その手から鉛筆を離せ!!」

 

「おいっ!!」

 

 

 藍は、声を荒げながら少年の右手が握っている鉛筆を掴み、力を入れた。

 妖怪は、基本的に人間よりもはるかに強い力を持っている。藍も例外ではなく、人間よりもはるかに強い力を持っている。

 藍は、容易に少年から鉛筆を取り上げることに成功した。

 手のひらに、ほんのりとした温かさが蒸着する。藍の手のひらには、血の付着している鉛筆から伝達するように血が滴った。

 

 

「ふざけるなよっ!」

 

 

 少年の目は、怒りを宿したように細く鋭くとがり藍を睨みつける。

 

 

「これはやらなきゃいけないことなんだ。どっちにしてもやらなきゃいけないことなんだよ!! どうして分からないんだ、どうして!?」

 

 

 少年は、勢いよく立ち上がると藍の怒りに対応するように声を荒げ、叫ぶ。抱え込んでいた気持ちを一気に吐き出し、詰め寄るようにして藍に迫った。

 

 

「どうしてお前は、俺の気持ちを揺さぶるんだよ。俺は決めたんだって! 俺はお前の名前を呼ぶんだって!!」

 

「私が呼ばなくていいと言っているんだ!! 気持ちを揺さぶる!? それはこちらの台詞だ!! こっちの気も知らないで勝手なことを言うな!!」

 

 

 二人の言い争いはどんどん大きくなり、その場に悪い空気が停滞していく。逃げ場を失った怒りは、その場でぶつかり続け、時間の経過と共にぶつけ合う言葉もどんどん汚くなっていった。

 

 

「邪魔をしないでくれよ! 俺がお前に何かしたのかよっ!? 何もしてねぇだろうがっ! 俺はなぁ! 俺は……」

 

「そんなもの知らないっ!! 和友が私を揺さぶるのだ! 和友が全部悪いのだっ!!」

 

 

 少年は、藍の言葉に呆然とすると目を見開き、流れるようにして視線をそらす。それは、今までとは全く違う反応だった。

 少年は、何かを悟ったように佇み、途端に勢いを失くして暗くなる。

 

 

「……ああ、そうさ、全部俺のせいだよ!! 俺のせいだよ……全部俺のせいだ……」

 

 

 少年は、投げやりな言葉を吐き捨てて力なく座った。

 藍は、一気に豹変した少年の様子に毒気を抜かれ、茫然と見つめる。

 椅子に座った少年は、別の鉛筆を握り直し、作業に戻ろうとしていた。

 

 

「頼むから……邪魔しないでくれよ……」

 

「止めろっ、もう書くのは止めろ」

 

「あっ……」

 

 

 少年の願うような言葉は、藍に届くことはない。藍は、少年の行動を邪魔するように再び少年の持ち直した鉛筆を奪い取る。

 少年は、鉛筆を奪われて悲しそうな表情を浮かべた。

 それでも、少年は新たな鉛筆へと手を伸ばす。決して折れることなく、次の選択肢へと手をかける。

 

 

「止めろと言っているだろうっ!!」

 

「っ……」

 

 

 藍は、少年の諦めない様子にさらに苛立ち、少年の全てを吹き飛ばすように机の上に綺麗に置かれている残りの鉛筆を机から跳ね飛ばした。

 鉛筆は、力の恩恵を受けて机から落ちて地面を転がった。

 少年は、我慢できないという様子で涙目になりながら藍を睨む。藍は、睨んでくる少年をさらに威嚇するように怒りのこもった瞳で見つめ返した。

 

 

「なんでだよ……なんでなんだよ!」

 

 

 そんな一触即発という雰囲気の中―――空気が変わる出来事が起こる。

 

 

「二人とも何をしているのっ!?」

 

 

 騒ぎを聞き付け、紫が少年の部屋にやってきた。二人の言い争っている声は、近くにある居間にまで届いていたようである。

 停滞していた空気が―――紫が入ってくることで少しだけ入れ替わりをみせた。

 

 

「喧嘩……? 一体何があったのよ?」

 

 

 今この部屋にやってきた紫には、二人が争っているようにしか見えなかった。今にも殴り合いが始まりそうな雰囲気である。

 紫は、どうしてこんな状況になっているのか、全く理解できなかった。

 藍は、紫に対して少年を止めるように訴え始める。主である紫ならば、少年を止めてくれるという期待を抱き、主の行動を誘導しようとする。

 

 

「紫様! 紫様からも何か言ってあげてください!」

 

 

 藍は、紫が来たことで少しばかり落ち着きを取り戻したが、少し落ち着きを取り戻したといっても、まだ若干興奮しているのか必要以上に声が大きかった。

 

 

「藍、そんなに大声で言わなくても聞こえるわ。私の耳は、そこまで悪くないわよ。年寄りじゃないのだから」

 

「そのような冗談を言っている場合ではありません! これを見てくださいっ!」

 

 

 藍は、机の上にある少年が先程まで書き記していた名前の詰まったノートを手に取り、紫に手渡した。

 

 

「これは……?」

 

「和友が私達の名前を覚えようとして、他の人間と区別しようとひたすらに書き記す作業を行っていたものです。手を赤くして、血を流して、鉛筆が擦り切れるほどに書き記した努力の欠片です」

 

「やっぱり……」

 

 

 紫は、藍が何を言いたいのか瞬時に理解した。

 紫は、少年の家にあったノート、正確には少年の部屋の机の隣に積み立てられていたノートの束を知っている。

 紫には、藍に手渡されたノートの中身に何が書かれているのかについて、おおよその予想がついていた。

 

 

「…………ふうん」

 

 

 紫は、ノートの内容を知りながらも藍から手渡されたノートを開き、視界に入れる。紫の瞳は、予想通りの書きに書きまくって真っ黒になったノートを映し出した。

 紫は、暫くの間、ぱらぱらとページをめくるとノートを静かに閉じた。

 

 

「部屋にあったのと同じね」

 

「……紫様は、どうも思わないのですか?」

 

 

 ノートに書いてある文字はまるで呪いのようで、少年の異質さを醸し出すには十分な役割を担っている。それなのに、紫はそれを意に介さずという様子で興味なさげに閉じた。

 藍は、そんな紫の反応に戸惑った。

 紫は、戸惑う藍に目もくれずにノートから少年に視線を移す。

 

 

「ねぇ、あなたはここまでしないとどうしようもないの? 他に何かなかったの? そうなるまで……そうなっても、ずっとそうやっていたの?」

 

「質問が多いね」

 

 

 少年は、まだどこか怒っているような口調で紫の質問に回答した。

 

 

「一気に答えさせてもらって悪いけど……この行為は、どうしようもない。これは、どうしようもないことなんだ」

 

 

 少年は、どこか悟ったような顔で紫に告げた。経験から他に方法はなく、如何ともし難いということを伝えた。

 

 

「他に方法はあったけど、これが一番簡単で一番辛くなかった。そして、時間さえかければ普遍的に覚えられた」

 

 

 少年は膝を落とし、藍によって飛び散った鉛筆を拾いながら紫の顔を見ることもなく、言葉を並べる。

 

 

「ずっとそうやって過ごしてきた。これまで生きて行く中で何度も繰り返した。区別するには、基本的にそれしかない」

 

「そう……」

 

 

 紫は、少年の言葉を聞いて静かに呟いた。少年は、鉛筆を拾い直すと再び机の前に座り、下を向いて機械のように書き始める。

 紫は、再び動き出した少年に向けてある言葉を口にした。

 

 

「他の方法っていうのは、決まり事を覚える時にするあれね」

 

「え? 何で知っているの?」

 

 

 紫の言葉でこれまで藍が実力行使に出なければ上がらなかった少年の顔が勢いよく上がった。

 

 

「あれは親と俺だけの秘密で、誰にも言っていないはずなんだけど……」

 

「私は何でも知っているからね」

 

「……ははっ。そっか、知っているんだ」

 

 

 紫は、動揺する少年に向けて冗談交じりに笑顔を作った。

 少年は、紫の表情につられるように、固くなった表情を緩ませる。

 紫と少年のやり取りによって、空気が少しだけ緩んだ。

 しかし、そんな空気も長くは続かない。少年は、すぐさま無言になり書き記す作業に戻る、何一つ変わらない状況へと逆戻りした。

 

 

「あなたからそれだけ聞ければ十分だわ」

 

「紫様!?」

 

「さぁ、部屋から出るわよ」

 

 

 紫は、少年の行動を悲しそうな表情で見つめるて小さく呟くと、藍の手を掴み、部屋の外に出ようとする。少年の行為を止めようとすることを一切することも無く、少年の行動を咎めるわけでもなく、少年を止めて欲しいという藍の願いを無視した。

 藍は、紫に力強く握られ、部屋の外へと引き込まれる。

 

 

「紫様、待ってください!」

 

「待たないわ。あの子の邪魔になるもの」

 

 

 藍は、紫の行動が理解できないといわないばかりに、紫の掴んだ手を振りほどこうと暴れる。

 しかし、紫は藍の抵抗を押さえつけ、掴んだ手を離さない。藍は、力強く握られた手を振りほどくことができずに紫に引っ張られた。

 藍は、紫の行動を容認できず、紫に呼びかけた。

 

 

「紫様!」

 

「私からあなたに言えるのはこれだけよ。これまであなたは、そうやって自分の力と向き合ってきた。なら、頑張りなさい。最後の最後までその能力に抗いなさい。あなたの出来る限りを尽くして戦いなさい」

 

「言われなくてもそのつもりだよ」

 

「紫様は何をおっしゃっているのですか!?」

 

 

 紫は、藍の声を無視してちょうど部屋から出る際に少年に対して背を向けながら言葉を投げかけた。

 藍は、あんまりな紫の言葉に目を見開く。藍には、少年の行為を推し進めるような、後押しするような紫の言葉が信じられなかった。

 

 

「ふざけるのはやめてください!! 和友にこんなことをこれからもずっと続けさせていく気ですか!?」

 

 

 藍は、湧き上がる想いを流石に我慢することができず、ふざけるなと言わんばかりに声を荒げて叫び、内に溜まりに溜まった不満を紫にぶつける。

 紫は、そこではじめて存在を認識したかのように藍の怒りを宿した瞳を鋭く見つめ返した。

 藍は、どうにか分かってもらおうとようやく視線の向いた紫に向けて次の言葉を吐き出そうとする。

 その瞬間―――部屋の中に乾いた音が響き渡った。

 

 

「えっ……」

 

「ふざけているのは、あなたの方よ!」

 

 

 紫は、藍の頬を平手で叩いた。

 藍は、痛みを訴える頬をわずかにさすると状況を理解したのか、紫の事を涙ぐみながら睨みつけた。意味が分からないと、理解ができないと紫に訴える。

 紫は、藍に有無を言わさず、鬼のような形相で追い打ちをかけるように叱りつけた。

 

 

「これ以上この子を貶めるのは私が許さないわ!! こっちに来なさい!」

 

「…………」

 

 

 紫は、頬を叩かれて押し黙る藍の手を引いて部屋の外に出ようと、藍の睨むような視線を無視して藍の手を引く。

 藍は、紫の圧力を受けて抵抗する力を失い、無言のまま項垂れた。何も悪いことなどしていないのに、何も間違っていないのにというような不満を含めた後悔に満ちた顔で紫に連れられていく。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、紫と藍が部屋を出るその直前、動かし続けていた鉛筆を置いて二人に視線を送った。視線の先には、今にも崩れそうな藍の姿があった。

 少年は、そんな藍を見てその場で立ち上がる。そして、泣きそうな顔で二人の様子を見つめ、懇願するように悲痛な想いを口にした。

 

 

「二人とも、喧嘩は嫌だからね……喧嘩は、しないでね……」

 

「和友、私は……」

 

「ええ、大丈夫。あなたは心配しなくていいわ」

 

 

 藍は、少年の声にわずかに反応を示し、泣きそうになりながら少年の名を呼ぶ。

 しかし、藍が何かしら少年に伝えようというところで、紫の言葉に遮られた。

 藍は、力なく紫に連れられる。少年の部屋のふすまは完全に閉じられて、少年から二人の姿が見えなくなった。

 

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 

 少年は、二人の出ていったふすまを見つめると、悲しそうな表情でその場に立ち尽くした。

 




少年の話は、もうすぐ終わります。
個人的な意見ですけど、従者って基本、自分が無理するのは許容できるけど、だれかが無理するのを容認しない感じを受ける人多いですね。紫は、個人的に、きっと止めないんだろうなってイメージ。覚悟を持ってやれば、やりたいようにやればいいみたいな……。

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