「確か……紫様は、自身の部屋と私の部屋以外の部屋なら好きに使ってもいいとおっしゃっていたな」
藍は、廊下を歩きながら紫と少年が話していた言葉を思い返す。紫は確か、少年に対して好きな部屋を使っていいと言っていたはずである。
それならば少年は、マヨヒガにあるどこか空いている部屋を使っているということになるが―――
「マヨヒガには、空き部屋など山ほどあるが……和友はどの部屋を使っているのだろうか、見当もつかないな」
ここで問題となったのは、マヨヒガの部屋の多さである。
マヨヒガには、使われていない部屋が膨大にある。現段階では、少年がどこの部屋にいるのか判断がつけられない。
藍は、左右を見ながら廊下を歩いて少年が使っている部屋を探す。手がかりが一つもない状態で少年のいる場所を見つけるのは、ちょっとばかり骨の折れる作業である。
藍は、何か見つけることのできる目印でもないかと頭を回転させる。
「ああ、なるほど。ふすまが閉まっている部屋を探せばいいのだな」
藍は、少し考えると少年のいる部屋を見つけることが予想に反して楽だという事実に気付いた。なぜならば、マヨヒガでは使わない部屋のふすまを基本的に解放しているからである。
少年がもし部屋を使っているのであれば、そこの部屋はふすまが閉じていることだろう。ふすまが閉まっていれば、その部屋に少年がいることが判明する。
もしも、少年がふすまを空けたまま部屋にいるというのならば、少年の姿が露見しているので、どちらにしてもいるかどうかの判断がすぐにつくはずである。
藍は、先程思いついた方法を実践し、左右に点在する部屋を見回しながら足を進めた。
「見つけた。思いのほか近かったな」
暫く歩くと、ふすまが閉まっている部屋を発見した。
ふすまの閉められた部屋は居間から割と近い場所で、どうやら少年は居間から近くの部屋を選んだようである。
「和友、いるか? 今から夕食を作ろうと思うのだが、食べるよな?」
藍は、少年がいるはずの部屋のふすまの外で足を止め、内側にいるはずの少年に向かって夕食を一緒に食べようと提案を持ちかける。決して少年の過去の経歴を見ようなんて無粋なことを言ったりしなかった。
藍は、部屋の中へ言葉を投げかけてから少年の反応を待ち、暫くの間襖の前に佇む。
しかし、暫く待っても少年からの返事は一向に返ってこなかった。
「…………部屋を間違えたか?」
藍は、部屋を間違えた可能性を考える。部屋の中に誰もいないのならば、返事が返ってくる道理はないが、ふすまが閉まっている以上、少年が藍の目の前の部屋の中にいることはほぼ間違いがない。
藍は、すぐさまありもしない考えを振り払う。
「いや、そんなはずはないな」
もしもこれで少年が部屋にいなかった場合、少年がわざとこの部屋のふすまを閉めて、中を使わずに別の部屋にいるということになる。少年がそんな面倒なことをするだろうか。
藍には、そんなことをする人間の思考回路が理解できなかった。
藍は、再び部屋の中に向けて声を発する。
「和友、聞こえているのか? もしかして寝ているのか?」
声が返ってこない理由は、色々考えられる。部屋の中にいる少年が寝てしまっている可能性、単に藍の声が聞こえなかった可能性、少年が返事を返したが藍が聞き取れなかった可能性、ちょっと考えるだけで色々出てくる。
どの理由によるものかは分からないが、いくら待てども再度の呼びかけに答える様子は、全くなかった。
藍は、一向に帰ってくる気配のない様子にしびれを切らし、少年の了承なしに部屋の中へと入りこもうとした。
「入るからな」
藍は、部屋の中にいるはずの少年に一言入る旨の言葉を告げる。
返事は、またしても返って来なかった。
藍は、返事が返ってこないことを確認すると部屋のふすまを開ける。右足から薄暗い部屋の中へとゆっくりと入り込み、視線を部屋の奥へと向けて奥にある机の前に座っている少年の姿を確認した。
どうやら部屋を間違えたということはなさそうである。
「やはりいるじゃないか」
少年は、下を向いてひたすらに右手を動かし続けており、何かをしているようだった。
「集中しているから聞こえなかっただけか……」
藍は、視界に入っている少年の姿を見て、なぜ返事が返ってこなかったのか理解した。少年は、何かに集中していたために、藍からかけられた声に気付かなかったようである。
藍は、一人納得した様子で徐々に少年との距離を詰める。薄暗い部屋の中でぼんやりと見えていた少年の姿は、距離を詰めていくごとに徐々にはっきりとしてきた。
「和友? いったいなにをして……」
藍は、少年の姿を見てかけようとしたところで、目に入ってきた光景に声を萎ませ、その場で固まってしまった。
「っ……」
藍は、信じられない物を見るかのように瞳を見開き、視界に映る少年の姿に圧倒されて暫くの間言葉を失った。
少年は、先程紫から貰ったノートと鉛筆を使い、永久的に同じような動作を繰り返している。まるである一定の動作をするようなプログラムがインプットされた機械のように動いている。
藍は、少年の機械のような動きを見て素直に気持ち悪くなった。少年の動きは、あまりに洗練されすぎて人間味を失っている。
藍は、暫くの硬直の後、意識を取り戻したように瞬きをすると、目の前の光景を脳内で無理やりにでも処理し、どうにかして口を開いた。
「な、何をしているんだ?」
「えっ?」
藍は、沈黙を破るようにして鉛筆がノートの上を走る音しかない部屋の中に、全く違う音を投じた。
少年は、先程ふすまの外から声を出した時とは違い、藍の声に反応して声のした方向へとゆっくり振り向いた。
「あ、八雲、藍? で合っているかな?」
「…………」
少年は、部屋にやってきた存在が藍だと認識すると笑顔を作って言葉に詰まりながら藍の名前を呼んだ。ぎこちない笑顔を浮かべながら、名前が正しく合っているのか疑問符を浮かべている。
少年の言葉は余りに不安定で藍の心を動揺させるには十分な魔力を持っていた。心の中で何かがざわついている。警戒 不安 恐怖 そのどれとも言えない感情が複雑に絡み合って未知の彩を作っている。
藍は、複雑な表情をしながら質問をしてくる少年に向けて何も言い返すことができなかった。
少年は、返事を返してくれない藍を見つめながら困った表情を作ると、申し訳なさそうに告げた。年相応にアルバムで写っていたような無垢な笑顔で喋りだした。
「うん、やっぱりまだダメみたいだ。いまいち区別がついていない。やっぱり名前を呼ぶっていう約束は明日でお願いね」
藍は、少年の不自然な様子に尻尾の毛のよだつような気味の悪さを感じていた。
「多分、後3時間ぐらいは粘らないといけないかな」
「3時間……」
少年は、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
藍は、少年の絞った声を耳にし、少年の言葉を疑う。
3時間という数字は、どこから来ているのだろうか。少年は、後どのくらいこの作業を続けなければならないのか分かっているように、3時間という明確な時間を示している。
藍は、些細な疑問を感じながらも、少年の言っていることが冗談ではなく本当のことだと直感的に理解した。
「あっ、そういえば、お願いしたいことがあるんだよ。後3冊分のノートと書く物をくださいと、あいつにお願いしてもらえないかな、お願い」
「…………」
少年は、藍の思考を置き去りにしたまま思いだしたように言葉を並べ、ぎこちない笑顔をそのままに、両手を合わせて懇願した。
しかし、藍は少年の言葉に頷くことができなかった。藍の瞳は、信じられない物を見るように少年を見つめたままで動く様子は無かった。
少年は、反応を見せない藍に対して不思議そうな表情を浮かべながら疑問を投げかける。
「えっと、どうしたの? 具合でも悪いのかな?」
藍は、恐る恐る笑顔の少年の横に置かれている物に注視する。自然な笑顔を作っている少年の横には、現在2冊分のノートが積み立てられていた。少年の手元にあるのは、3冊目のノートのようである。
藍は、横に置いてあるノートの中身に何が書かれているのか少年の手元にあるノートの中身から察していながらも、少年に向けて疑問を投げかずにはいられなかった。
「和友……何をしているんだ?」
「名前を覚えようとしているんだよ。書いて覚えるのは、基本でしょ?」
「何を、言っているんだ?」
「何って言われても……」
少年は、ふざけているように感じ取れる回答を藍へと返した。
少年は、居間にいたときと同じような態度で藍と向かい合っている。あの時と同じように真面目に対応しているつもりのようで、何も変わっていなかった。
藍は、足音を立てずに触れるぐらい距離―――少年のすぐ隣にまで接近する。
少年は、近づいてくる藍に視線を上げた。座っている少年から見た藍は、非常に大きく見えた。
藍は、少年の隣まで来ると少年の横に重ねられているノートを上から一冊手に取り、ゆっくりと開いた。
「うっ……」
ノートの中身を見た瞬間―――中身をあらかじめ想像していたにもかかわらず、頭が真っ白になるような衝撃を受けた。
「黒……真っ黒だな」
目の間に飛び込んできたのは―――圧倒的な黒さである。
ノートの中身は―――真っ黒であり、真っ白なはずの紙が真っ黒になっていた。ノートには、隙間なく真っ黒になるほど何かが書かれている。もはや何が書かれているか分からないほど真っ黒になっていた。
「赤黒い跡……」
藍は、真っ黒の中にわずかに違う色があるのに気が付いた。ノートの中のところどころには、赤黒く変色している部分も見受けられ、血が染み込んでいることが読み取れる。
「これは……」
藍は、ノートに書かれている少年の筆跡を指でなぞる。藍の指は、ノートに堆積した鉛筆の炭素で黒くなった。
藍は、少年のなぞった筆跡からノートに何が書かれているのか、少年が何を書いていたのかすぐに悟った。
「八雲藍、私の名前……」
ノートの白い紙に所狭しと並べられていたのは―――八雲藍という名前、そして八雲紫という名前だった。
「…………」
藍は、表情を重くしながらページを次々とめくる。1枚1枚、中身の内容を確かめるように、ゆっくりと目配せする。
藍は、予想していた展開に頭の中でふつふつと何かが煮えたぎるのを感じ始めていた。そんなつもりで少年を呼びに来たわけではないのに、ご飯を一緒に食べようと呼びに来ただけなのに、湧き上がってくるものを抑えきれなくなってきていた。
視界から入って来るのは、当然のように書き記されている名前の羅列である。ノートの何処を見ても、自分たちの名前しか書いておらず、いたるところに八雲藍という名前と八雲紫という名前が狂気を具現するように並べられている。
藍は、少年の狂気の一部に触れているような気になった。ノートを持つ手が、怒りからなのか、恐怖からなのか分からないが自然と小刻みに震え、持っている手に力が入り、ノートが音を立ててあらぬ方向に曲がっていく。
少年は、そんな藍の様子を見て心配するように声をかけた。
「大丈夫?」
「これは、なんだ?」
藍は、何も分かっていない少年に向けて怒気のこもった声でどうしてこんなことをしているのか尋ねた。正直なことを言えばそんなことを聞きたくはない、しかし―――聞かないというわけにはいかなかった。
もう、見てしまったのだから。
もう、知ってしまったのだから。
藍の口は、止まることはなかった。
ノートに名前を書いている行為は、きっと少年の異常性に関わるものである。藍は、少年から返ってくる答えがなんとなしに予測でき、間違いなく嫌な答えが返ってくると確信していた。
それでも藍は―――少年に対して疑問を投げかけた。
それは―――少年に助けてもらったという恩があったから。
少年の心の中でのやり取りから少年を支えていくと決心していたから。
どんなことがあっても少年を守ることを覚悟していたから。
藍には、ここで引き下がるという選択肢は、最初から存在しなかった。
少年は、そんな藍の気持ちを知ってか知らずか、投げかけられた質問にきょとんとした表情を浮かべ、当然のようなことを口にする。
「ノートだよ? あの人から貰ったノート。受け取った時に確かこたつに座って見ていたよね。ちなみにこれは鉛筆ね。これもまた」
「そういうことじゃないっ!! どうしてこんな事をしているんだ!?」
藍は、平然としゃべる少年に我慢ができなくなり、少年の言葉を途中で遮ると少年の右手を掴み上げる。
少年は、腕を不自然に上げる形となり辛そうな顔になった。
「自分の手を見ろっ! 赤くなっているじゃないか! それに、血まで出てっ……」
藍は、苦痛に表情をゆがませる少年を気にすることもなく、声を大にして少年に向けて叫び、視線を少年の右手へと集中させる。
少年の手は、ペンを握っている箇所が圧迫され続けて真っ赤になっていた。指先からは軽く血が流れており、ノートの赤黒くなっている部分が指先から流れた血によるものだと確証づけられる。少年の指から流れている血は、常に書き続けているため乾くことなく、とめどなくあふれ続けていた。
藍は、指先から少年の顔へと視線を向ける。藍の位置から見た少年は、高低差もありどこか項垂れているように見えた。
藍は、少年の落ち込んだ様子を見てさらに声を荒げる。
「どうしてこんなことになっている!!」
「鉛筆削りが無かったから……指でむしり続けていたんだけど、血が出ちゃって……ははっ……」
少年は、ばつが悪そうに下を向きながら答えた。
しかしながら、声に感情がのっていないことは誰からでも分かるような声で、それがさらに藍の心をざわつかせた。
少年は、当然のことのように感情の波一つなく淡々と藍に対して説明している。もしかしたら下を向いているため藍からは分からないだけかもしれないが、少なくとも藍は少年が普段と態度をあまり変えていないように感じていた。
少年は、あくまで乾いた、作られた笑顔を崩していない―――そう思った。
藍は、少年の態度にさらに怒りの色を強くする。
「何を笑っているんだっ!!」
「っ……」
少年は、藍の怒鳴り声にビクッと反応し、怯えた顔になる。
しかし―――それもつかの間である。少年はすぐに表情を戻し、必死の笑顔を作った。まるで、呪いがかけられているように表情を頑なに変えようとはしない。
藍は、すぐに戻ってしまう少年の表情に思わず唇をかみしめた。
「和友、どうしてそこまで……」
「俺なら、大丈夫だから」
「なにが大丈夫なのだ……何も大丈夫ではないだろう?」
「ほら、こっちを見て。ね、辛そうに見えないでしょ?」
藍は、すぐに少年の表情と言葉から少年の内情を察した。
少年は、藍が心配しないようにと笑顔を作っているのだ。藍は、少年の無理矢理の表情から少年が自分に対して気を遣っていることを理解した。
「どうして私は……」
藍は、困ったような表情を浮かべる少年の様子を見て心を揺さぶられていた。
どうして、こんなにも少年に対して怒っているのだろうか?
どうして、晩御飯に呼びに来ただけなのに叱りつけているのだろうか?
和友は、何か悪いことをしたのだろうか?
私に対して、迷惑なことをしたのだろうか?
「どうして……」
「俺なら大丈夫だから、心配なんてしなくても大丈夫だよ」
「ふざけるな」
「俺は、慣れているし……大丈夫だから、ね」
「っ……」
悪いことというのは―――‘誰にとって’悪いことなのだろうか?
どうして、無理矢理に作った笑顔の和友に対してイライラするのだろうか?
どうして、怒りを抑えることができないのだろうか?
どうして―――和友が自分に気を遣っているのだろうか?
藍は、自分がしていることがとても悪いことで、少年がそれに耐えているような図式に心の動揺を抑えることができず、歯ぎしりする。思わず、歯が削れてしまうのではないかというほどに力の加減ができなくなっていた。
空間に気持ち悪さだけが充満し、状況が暗転する。
藍は、目の前がノートと同じように真っ黒に染まっていくような感覚に陥った。
未来が真っ暗で足元がぐらついてくる。倒れろ、倒れろと言わんばかりに外乱が心を煽ってくる。
藍は、踏ん張るようにして少年へと言葉を吐き出した。
「そういうことじゃない! 怪我をするまでなぜ黙ってやっているんだ! ここまでしないと覚えられないのか? ここまでしないといけないのか?」
藍は、少年に対して内に溜め込んだ怒りをぶつける。少年は、怪我をしても傷の手当てをせず、誰かに助けを求めることもせず、鉛筆削りを貸してほしいと頼みに来ることすらしていない。そのことが何よりも藍の心を深くえぐった。
「なぜ、頼ってくれなかった! どうして、言わなかったのだ!」
なぜ、頼みに来なかったのか。
なぜ、何も言い出さないのか。
なぜ、誰にも頼ろうとしないのか。
「私じゃ、頼りないからか……?」
それは、単純に考えて―――信用がないからである。
あれば、頼りにしてくれたはずだ。
信用していないから、言ってくれなかった。
助けられると思っていないから、言ってくれなかった。
藍は、怒りから短絡的な思考に陥っていた。少年が頼ってこなかったことが、少年が紫と藍のことをまるで信用していないからだと考えて疑わなかった。
ただ、藍が怒っている理由はそれだけではない。
藍は、自分の不甲斐なさにも怒りを覚えていた。
少年の行動は、イコールで藍という存在が少年から秘密を喋るだけの価値がある存在ではないと思われていることに直結する。少年が藍に対して助けを求めないこと、自身の異常を告げないことの原因には、藍自身の問題もあるのだ。
そう―――藍が少年に対して信頼を受けるだけの何かを一切できていないという現実があるのである。
藍は、そう思うと何もできていない自分自身に怒りを覚えて仕方がなかった。
「なぁ、和友……どうして言ってくれなかったんだ……」
藍は、まだ少年と会って1日しか経っておらず、少年のことを深く知っているわけではない。
しかし、少年とはきっと良好な関係を築いていけると思っていた。
それは、少年があまりにも藍に対して優しく、言葉でも行動でも優しさを示してくれていたからである。
藍は少年の優しさに触れて、これから少年の支えになってあげようと、貰ったものを返すことを決意したばかりだった。少年の行為は少年を支えると決意した藍の気持ちを裏切るような行為に他ならない。
藍は、少年の行為に動揺を隠せず、切実な想いを漏らす。
「和友、どうしてなんだ……?」
「ごめん、なさい……言わなきゃいけないなんて、思わなくて……」
「っっ……」
少年は、今にも泣き出しそうな表情で藍に告げた。
藍の心は、少年の言葉でさらにぐらつく。言わなきゃいけないと思わなかった……藍は、そう告げた少年の言葉に唇をかみしめながら掴み上げていた少年の手を離した。
「そうか、そうだったのだな……」
藍は、少年の言葉を聞いて全てを理解した。少年は、別に藍を信用していなかったから助けを乞わなかったわけではなかったのだ。
少年にとっては―――これが普通なのである、普通のことをいつも通りやっているだけなのである。
誰が息をするのに、息をしていいですかと尋ねるだろうか、そんな人間などいない。
少年にとって書き記す行為が普通の事であるということについては、少年の洗練されたような、ルーチンワークをこなすような動きが、これまでずっと書き記す行為を行ってきた証拠になっている。
「だとしたら、和友は……」
藍は、ここでさらに少年の行動の中に悪い部分が一切ないことに気付いた。
少年は、ただ紫からノートと鉛筆を貰ってそれを正しい用法で使っていただけで、他に何もしていない。
鉛筆を使ってノートに文字を書き記す―――決して間違った使い方をしているわけではない。
少年は、誰に対していも迷惑をかけているわけでもないし、悪いことをしているわけでも、間違ったことをしているわけでもなかった。
それなのに藍は、何も悪いことをしていない少年に対して怒鳴り散らしてしまっている。それはまさしく、少年の異常性を拒否したということに他ならない行為である。先程受けた信頼されていなかったという想い以上に、相手を拒絶するような一撃だ。
藍は、多少の異常性は受け入れてやろうという気持ちを持っていたにもかかわらず、理由を聞くこともなく受け入れきれずに少年を叱ってしまった。
藍は、それこそが少年に対する裏切りなのではないかと思えて仕方がなかった。
「私は、なんで……」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
怒られた少年は、何一つ悪いことをしていないのに悪いことをした後のように声を小さくして落ち込み、泣きそうになりながら藍に向けて謝っている。
藍は、少年の様子を見て、こんなことをするはずじゃなかったと、優しくするはずだったと、自身の不甲斐なさに苛立ちを感じた。
藍は今からでもと思い、気持ちを切り替えようとする、できるだけ少年に対して優しく接しようと試みる。
「急に声を荒げてすまない……でも、ここまでする必要はなかっただろう?」
「でも、ここまでしないと……いや、これでも足りないんだ。この後さらに倍の努力が必要だよ。これまでの経験から分かるんだ」
少年は、わずかに潤んだ瞳で藍を見つめながら言葉を吐き出す。そして、そこまで言葉を口にしたところで慌てて訂正をいれた。
「あ、違うや。二人分の名前を区別しなきゃいけないから、後4倍だね……」
少年は、落ち込んだ様子を見せないように精いっぱいの笑顔を作った。目元に涙を溜めながらも藍を心配させないように虚勢を張っていた。
藍は、自分をすり減らすような少年の行動が痛々しすぎて見ていられなかった。
紫が少年の家から帰ってくるまでに2時間もの時間がかかっていることから、少年が部屋に閉じこもってから2時間ほどの時間が経過しているということが分かる。
それの―――4倍。
つまり、少年はこのまま後6時間分の作業がまだ残っているということになる。
少年は、そこまでやってようやく二人の名前を覚えられるらしい。少年の経験というものがどの程度あてになるものかは分からないが、それはきっと正しいのだろう。
「もうちょっと待っていてくれないかな。別に、先にご飯を食べてもらっていてもいいからさ。俺は、このまま終わるまで続けるから。ちゃんと明日には名前を覚えておくから……名前を呼ぶことについては心配しないでね」
「どうしてそこまで、別に休みながらでもいいじゃないか……ずっとやっていては、体が持たないだろう? 休んで、それからやればいいだろう?」
藍は、少年から提示された想像を絶する時間を聞いて、無理をして笑顔を作っているように見える少年を諭すように休息をとることを提案した。
その提案は、これ以上自分をすり減らすような行動を見ていられないという藍の気持ちを含んだ提案だった。
少年のしている行為が、藍のための行為だということが藍の心に強く突き刺さり離れない。藍は、名前を呼んで欲しいと頼んだことについて凄まじい罪悪感に襲われていた。
「途中でやめちゃうと……また分からなくなっちゃうんだよ。これまでの努力が無駄になる……」
少年は、藍の想いを無視するように休憩を入れるという提案を拒否すると、作った笑顔を崩して悲しそうな表情を浮かべた。
「俺だって休みたいし、こんなことやりたくない。この作業は辛いよ。やっていて辛い」
少年は、今行っている作業を、何も思わないロボットのように黙々とこなしているわけではない。苦痛を感じながらも、目的のために逆風の中を前に進んでいる。ひざを折ることなく、目を背けることもなく、目的地に向けて足を進めている。
「こんな事やりたくない。こんな事やりたくない。こんな事、やらなくていいならやりたくないよ……」
少年は機械ではない、心を持った人間である。それが例え、普通というものとは異なっていても、心を持っている人間である。
少年は、決意と覚悟をもって、突き刺さる苦痛の中を進む。どれだけ辛くても、普通という存在に成るためならば、異常に負けないためならば、少年は戦うことを選んだ。
少年は、しっかりとした瞳で藍を見つめた。
「でも、もっと大事なことがあるんだ。お前は、俺と約束したよな。約束事は守る。お前の事は名前で呼ぶ。これは、決めたことなんだよ」
「和友……」
少年の意志は絶対に曲がらない。先程まで張り付けていた笑顔を崩しても、心を崩すことはない。
少年は、藍との約束事を守るために後ろに引くことなく、藍の瞳を一直線に見つめていた。
藍は、少年の真っ直ぐな瞳の中に、少年の生き方の一部を見た気がした。
少年の識別維持時間は、何もしなければ、もって一日です。印象の薄いものは、その場で忘れます。