ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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少年は、ふと空を見上げる。
空は青く澄み、雲が流れている。
少年が空に見つけた小さいもの。
空にあったのは―――少年の知らない未知のもの。


空を見上げた、世界が軋んだ

 少年は、ちょっと気になったことがあって空を見上げていた。

 

 

 変わらない日常。変わらない毎日。変わらない日々。そんな現実の世界でまた一日を過ごしていく、変わらない時間を過ごしていく、昨日とほんのり違う今日を過ごしていく。

 まさしく少年は、そんな日々を過ごす予定であった。

 

 

 少年は現在、中学生だった。彼は中学生になって間もない、まだ小学生上がりの中学一年生である。

 そんな中学一年生の少年は、この朝早い時間、午前7時から通学路である雨上がりの坂道を自転車で走っている途中だった。

 少年は自転車をこいでいる間ずっと、今日は雨上がりでじめじめしていて気分が悪い、できるだけ早くに学校に着いてのんびりと缶コーヒーでも飲もう、そんなことを考えていた。

 

 ちなみに少年は、まだ小学生上がりということもあってか、缶コーヒーしか飲めない甘党である。甘いコーヒーしか飲めない、ブラックは論外、黒いのは飲めなかった。

 それはまだ少年の舌が完全に大人になりきっていないからかもしれない。

 しかし、かといってケーキや洋菓子が大好きな甘党というわけでもなかったりする好みのよく分からない少年だった。

 

 最初にも述べたが、少年は雨上がりの通学路の途中で空を見上げていた。

 今日の天気自体はそれほど悪くない、むしろ良い方である。空にはしっかりと光り輝く太陽が昇っている。昨日の夜に雨が降り、今日の朝は晴れという天気の流れだった。

 ただ、ここで勘違いして欲しくないのは、少年は別に天気を見ようとして空を見上げたわけでも、雲を見ようとして見上げたわけでも、太陽を見ようとしたわけでも、虹が出ているのに気付いて、それを見ようとしていたわけでもないという点である。

 

 昨日と違うものを見かけた。少年は、その異様な物質を気にして空を見上げたのである。

 空中には、本来存在しないはずのものが存在している。

 それは、空を飛んでいる飛行機でも空に浮いているバルーンでもない。少年には、空中を見上げた視界に映っているそれが異物であるとすぐに判断できた。

 少年は、その空中を浮いている異物を見たのが初めてではなかった。実の事をいうと先週に2度、空中を漂う異物を見つけている。厳密には水曜日と金曜日に見かけたことがあった。その異物は、今日と同じように空中に漂っていたのである。

 

 ここで先程から言っている異物というのは―――人の上半身のことである。

 

 空中には、上半身だけの存在が浮かんでいる。まるでそこに地面があって植物が生えているような錯覚をしてしまいそうになるほど、当然のようにそこにあった。

 実際には空中から生えているというわけではなく、何もない空間から人の上半身が伸びているわけなのだが、それが自然に見えるのである。

 当然のように空中に浮かび、ごく自然に空中から顔を覗かせた存在からは、これでもかというほどの異常性が溢れ出ていた。そんな異質な存在こそが少年の顔を上に向かせた要因であった。

 

 

 少年は、天気を見るしぐさのようにさっと空を見上げた後に、何事も無かったかのように視界を下ろし、再び自転車をこぐことに専念し始める。まるで何も無かったかのように、まるでそれで普通なのだと言わないばかりに、少年は空中に浮いているそれに対して何かしらのリアクションをとることはなかった。

 少年はこういうことには基本的に関わらないと決めていた。というか、分からないものには極力関わらないというのが人生をうまく生きていくコツだと思っていた。

 そうはいっても全てを拒否しているわけではなく、それでもやらなきゃいけない事はもちろんやるし、自分に与えられている仕事はきっちりとこなしている。

 ただ、本当に触れてはならないことには触れてはならない。少年は、そこらのことについては酷く敏感だった。

 

 少年が何よりも望んでいたのは、そういう奇特で特殊で特別な出来事ではない。普通に生きるという当たり前の日常を送り続けることである。

 異常に触れるということは、少年の守ってきた日常を変える劇薬になる可能性を秘めている。どう転がるか予測もつかないことをしてしまうと未来が酷く不安定になってしまう。おそらく少年は未来永劫、宝くじというものを買うことは無いだろう。

 

 

 少年は、中学校に向かう道をひたすらに走り続ける。寄り道をすることなく、立ち止まることなく、走り続ける。景色が少年の移動速度に合わせて一定のペースで移ろいを見せていた。

 少年は決まったような未来に向かってただひたすら走るだけ、それだけを望んでいる。いつもと同じ道、みんなと同じような道、そんなありふれた道の中を進んで行く、それだけを望んで自転車をこいでいた。

 しかし―――単調に未来へと進んでいる少年に対して声がかかる。

 これが全ての始まりで

 これまでの終わりとなった。

 

 

「あなたには、私が見えているの?」

 

 

 人生において一度も聞くことがないであろう不可解な音が空間に響いた。聞いたことのない声と共に異音が木霊した。

 少年は、空間を支配した音に一瞬だけ気を取られる。動かさないと決めていた気持ちを揺さぶられ、音のした方向へと僅かに意識を持っていかれた。 

 

 

(なに、これ……)

 

 

 それでも、視線は動かさない。気持ちだけを音源へと集中させる。

 少年の意識の先には―――空間から身を乗り出している女性の姿があった。少年が先ほどまで空を見上げて視認していた上半身だけを空間から生やした女性が、なんとも形容しがたい不可解な音と共に自転車の右前に突然現れていたのである。

 

 少年から見た女性は、金髪で髪が長く変な帽子を被っていた。普段見ることがない格好の女性である。

 

 少年は心の中の動揺を押さえつけ、女性の声に対して反応しないように―――ピクリとも動かないように気を張り巡らせた。気付いていることを女性に気取らせないように何一つ反応しなかった。

 

 少年は、声をかけてきた女性のことを完全に無視するつもりだった。急に現れた女性を無表情のまま一瞬見て、離れるように自転車のハンドルを左に切る。自転車の進行方向に人が急に現れたら避けようとするのは当然のことなので、少年の行動はひどく普通の行動と言えた。

 しかし、少年が女性を避けるまでの動作は女性を避けるために十分な早さではなく、普通であれば引いてしまっているタイミングである。本来ならば、事故の加害者として裁かれるような状況であるが―――これが少年にとって功を奏する結果となった。

 なぜならば、少年が女性を避けようとする行動が早ければ女性の存在を認識していることが一瞬でばれたに違いないからである。

 

 

「ねぇってば、私のことが見えているのでしょう?」

 

 

 少年の近くを浮遊する女性は少年に声をかけたが、少年は再び無視を貫いた。少年には最初から目の前に現れた意味不明な女性と関わるつもりなど全くなかった。

 少年は、女性を引き離そうと坂道を立ちこぎで必死に登っていく。

 しかし、少年がいくら自転車をこぐスピードを上げても、目の前にいる女性の位置は変わらなかった。よくよく確認してみると、女性は少年の自転車の速度と同じ速度で進んでいた。

 どうやら少年が女性を避けるタイミングが遅くても少年と女性が接触することはなかったのは、そういう理由からだったようである。

 

 

 本当になんなのだろうか。

 

 

 目の前の女性のことが全く分からなかった。それこそ人間なのかどうかでさえも分からなかった。

 きっとこの女性の存在を知っている者は、この世の中に一人もいないだろう。そんなことを少年は思っていた。

 女性はそう思えるほどの異常性を含んでいる。少年は、関わったら人生が変わってしまうことをいやおうなしに感じ取っていた。

 女性は、空間を移動しながら自転車にへばりつくようにくっ付いてきている。それだけでも人間業とは到底思えない。これが種のあるマジックだとしたら、全く見当もついていない少年に暴くことは決してできないだろう。

 

 

 少年は、立ちこぎで自転車を進ませながらひたすらについてくる女性に対してどうすればいいのか頭を悩ませていた。

 話しかけることは論外、関わることも論外の状況で少年にできるのは、ただただ自転車をこいで学校に向かうことしかない。

 だが、無視という行動には必ず限界が来る。このまま学校まで付いてきてしまえば、さすがに無視することは難しくなるだろう。

 少年は、不安を抱えながら進むべき道を進み続けていた。

 

 

「やっぱり気のせいなのかしら。今までも何度か目線が合っている気がするのだけど……」

 

 

 女性は反応を示さない少年を見て、不思議そうに頭を傾けて少年の目を凝視する。

 少年の耳には女性の声がはっきり聞こえている。女性の言っていることは何一つ間違っていない。少年と女性は何度も目線を合わせているし、少年は女性の存在を認識している。

 少年は必死に動揺しそうになる心を押し殺し、平常心を作っていた。

 

 

「でも、境界を弄っている私の姿が見えるはずないものね。私としたことが早とちりをしたのかしら……」

 

 

 少年は、独り言をぶつぶつと呟いている女性に対して何らかのアクションを取ることは決してなく、女性を無視してひたすらに通学路を自転車で進む。女性がいてもいなくても変わらないといった様子で前進していた。

 しかし、女性の存在は確実に少年の通行の邪魔になっている。女性の存在が少年の視界の大半を奪っているため、自転車で進行するうえで大きな障害になっているのである。

 女性は、本当ならばこのまま少年の自転車に轢かれてもおかしくない位置にいるのだ。

 仮に女性が少年のこいでいる自転車の動きに合わせて動いているのだとすれば、確かに女性が轢かれることはないだろう。

 しかし、今少年の目の前に広がっている状況は、事故が起こらないのならば問題はないだろうというように単純に収まる話ではない。これは気分の問題である。自転車の進行方向に人がいるのは、危機意識が働いて気持ちが悪いのである。

 

 ただ、それでも少年は女性に対して何も言わなかった。

 

 それだけ―――女性に関わりたくない想いが強かった。人を轢き殺すかもしれないという危険性よりも、普通じゃなくなるという危機意識の方が遥かに強かったのだ。

 

 

 少年は、独り言を呟く女性に対して顔を向けることなく、無表情のまま自転車をこいでいく。一瞬たりとも女性に気付いている様子を感じさせることなく突き進んだ。

 だが―――少年が迷いなく通学路を進んでいる途中で女性がいることによる問題が発生する。

 

 少年は、道路を横断しようとしたところでどうしようもない状況になっていることに気付いた。

 

 少年の通っている中学校へ行くためには、必ず大きな道路を横断する必要がある。少年がたった今走っている道は、道路を跨いだところにある中学校へ行くために絶対に渡らなければならない道である。

 

 横断歩道まで遠いから今のうちに通っておきたい、少年の頭にあったのはそんなよくある人間の思考回路だった。

 少年が通う中学校の通学路には、横断歩道が中途半端な場所にしかなかった。その上、その横断歩道で事故が起こることの方が多かった。

 横断歩道は、決まって要所要所に存在するために事故が起こることや遠回りとなることが多いのかもしれない。

 ちなみに、少年がいつも早朝に出かけているのは、交通量が少ないという理由からである。

 

 そんな道路を渡ってしまいたい少年が道路を横断するという何の変哲もない普通の行動に対して問題が一つ発生している。通常ならば発生しない状況が、今においては発生していた。

 少年は、道の途中で進行方向を右側に変えて周りを見渡す。特に後ろと前を重点的に確認しようとした。車道を渡るための安全確認である。

 しかし、少年の視界が女性によって閉ざされているため安全確認ができなかった。少年の右前の視界は女性によって遮られているため、右側から車が来ているかどうかが確認できないのである。

 

 少年は、車が来ているのかどうかを目で判断することができないために音で判断するしかなくなった。音でしか確認できないような曖昧な安全確認で車道を渡るのは、ちょっとばかり危険である。

 

 

 この時、少年に示されている選択肢は大きく三つである。

 一つ目―――危険を承知で車道を横断する。

 二つ目―――女性に対してどいてもらうように言う。

 三つ目―――道路を渡らずに立ち止まる。

 少年は―――選択した。

 

 

「お前がいると右側から来ている車が見えないからどいてもらえるか。俺の目的地はあっちなんだから」

 

 

 少年は、道路を渡ろうとしたところで初めて、今まで無視を続けてきた女性に対して口を利いた。

 少年の右手の人差指は丘のような場所を指さしている。

 少年の通う中学校は、随分と辺鄙(へんぴ)なところにあった。土地が安いからだろうか、自転車で通学するのは不便と感じるような場所で、丘の上に建てられていた。

 

 

「やっぱり見えているんじゃない!」

 

「…………」

 

 

 女性は、少年の言葉を聞いてハッとした表情ですぐさま反応し、騙されたと言わんばかりに凄い剣幕で少年に迫った。

 しかし、少年は女性の言葉に対して返答することはなく、意味不明なものを見るような瞳で女性を静かに見つめていた。

 

 少年には、女性に向けて特に言葉を返すつもりもなく、会話をするつもりもない。相も変わらず、できればこんなのとは関わりたくない、そう思っていた。

 女性が異常者であることは誰の目から見ても明らかである、誰が見ても、誰が聞いても、おかしいと言うだろう、確信をもって言えるだろう。少年は、そんな人物と望んで関わろうとは決してしなかった。

 

 

「騙されるところだったわ。まさか貴方が元凶……いや、でも」 

 

 

 女性は、少年のどいて欲しいというお願いを聞く気が無いようで、少年の右前の位置からは少したりとも動かない。少年の目の前で視界を遮り続け、ぶつぶつと言葉を並びたてているばかりで一向に動こうという気配がしなかった。

 

 

「だから、邪魔だって」

 

 

 少年は、自転車から離れようとしない女性を見て、無表情のまま視線を向ける。そして、目の前に存在する障害物によって発生している危険を取り除くために一旦自転車から降り、女性の体を右手で視界の中心から動かした。

 

 少年の視界は、障害物を物理的に排除したことによって空間的にひらける。

 少年は、障害物が無くなり広くなった視界を存分に使い、顔を右に向けて後方から車が来ていないことを確認した。

 車は、少年の見たところ来ていないようである。

 少年は、そこまで確認したところで再び自転車に乗り、道路を横断した。

 

 少年は、安全管理に関しては律儀なところがあった。命を何よりも大事にする。だからこそ、女性に話しかけてまで身の安全を確保している。

 まぁ、そうはいっても朝だからといって車が来ないというわけではないのだから、安全確認はするべきではあるが、この行動からは―――少年の身の安全に対する優先順位の高さが伺えた。

 

 

「つれないわねぇ……」

 

 

 女性は全く取り合う様子のない少年の態度に寂しそうに言葉を漏らしたが、少年はそんな女性を無視して学校に向かって進んでいく。女性もさすがに話ができないと思ったのか、空間の裂け目に消えていった。

 

 

 少年の世界はこれでいつも通りである。いつも通りの日常に戻った。

 

 

 少年の日常は、酷く普通と言えるものである。学校に着いて、みんなが来るまでの時間をのんびりと過ごし、部活の朝練習に向かい、部活仲間と挨拶をして汗を流して、朝のホームルームを迎える。そして、いつも通りに授業を受けて、放課後が訪れて、部活に行き、帰る。

 そんないつもの一連の流れを進んでいく、何も変わらない日常を過ごしていく。その中でほんのり違うことがあったりもするが、そんなのは誤差の範囲である。そんなものは、あろうとなかろうとどっちでも変わらない。

 

 

笹原(ささはら)! また明日な」

 

「おう! また明日!」

 

 

 ここで初めて少年の名前が出たが、少年の名字は笹原である。

 

 少年は、笑顔で友達に別れの言葉を告げて帰宅する構えに入った。朝に登校したように自転車をこいで帰宅するのである。暗い夜道を爆走する、坂道を爆走する、少し間違えば事故が起こりそうではあるが、そこらへんについてはちゃんとしており、無理な所はブレーキをかけて進んでいた。

 

 平常、少年が家に帰ったころには8時過ぎである。帰ったらご飯を食べて、お風呂に入って、家族と話して、勉強をして、目覚ましをセットして眠る。そして―――再び朝を迎えるのだ。少年の日常は、そういう普通といえるものだった。

 

 

 少年は暗い夜道の中、自転車をこいで帰宅の途をたどっていた。

 

 

「ん?」

 

 

 帰宅の途中、本来であれば絶対にしないような音が聞こえた、風を切る音以外の音が耳に入ってきた。

 不可思議な音がしたと思って右を見る。すると、朝と同じように意味不明な女性が少年の右前に現れていた。先程少年が聞いた音は、朝に聞いた不可解な音と同じものだったようである。

 

 

(またか……)

 

 

 少年は、早朝と同じように1ミリたりとも動じない。そして同時に、昨日の今日で出現した女性を見て朝の通学時に女性へと告げた言葉を思い返した。

 少年は、女性に対して自分と関わるなと言ったはずである。それでも女性が少年に関わってくるということは、相手の女性はそんなことを気にしていないのだと考えられた。

 

 

「お疲れ様」

 

 

 謎の女性は少年の予測通り、朝と同じように話しかけてきたが、少年は登校の途中に出会った時と同様、相変わらずの無視を決め込んでいた。

 話すつもりなどない、一切何事についても話すつもりはない、こいつと関わってはいけない。何度も言うが、少年にはそんな気持ちがあった。

 女性と接触することによって重要なものを失うような予感があった。それは、確信めいたもので肌から伝わってくるように明確な感覚だった。

 

 

「あなた、笹原和友(ささはらかずとも)って言うのね」

 

 

 少年の名前は、女性が口にした言葉によって完全に露呈する。

 少年の名前は笹原和友である。なんともどこかに普通にいそうな名前だった。

 

 ただ、今気にするべきはそんなどうでもいいことではない。問題は、少年の名前ではなく、女性がどうして少年の名前を知っているのかということである。

 確かに少年の名前に間違いはない、少年を指す固有名詞の名前は笹原和友で間違いなかった。

 少年の名前をどこで知ったのだろうか。女性と少年の接点は無いに等しい。当たり前であるが、自己紹介をしたこともなければ、挨拶を交わしたことさえない。それはいうなれば駅の乗り換えですれ違う人ぐらいには接点がなかった。少年がこの異常者を見るのは決まって登校中であり、自転車をこいでいる時に空中に浮いているのを見かけているだけである。

 名前が漏れる他の可能性として他の人間から名前が漏れるということも考えられなくはないが、この女性に対しては考慮に値しない可能性である。

 そんな女性が―――少年の名前を知っている。

 少年は、女性が自分の名前を知っているという事実に驚いた。

 

 

「なんで知っているんだよ」

 

「今日呼ばれていたじゃない、クラスメイトから何度も。クラスの人間達と仲がいいのね」

 

 

 少年が無視の態勢を解いて心の内に湧きあがった疑問を素直に吐き出し、どこか棘がついたような言葉を女性に投げかけると、女性はひょうひょうとした様子で少年の疑問に答えた。

 女性は、知っていて当然のことのように喋っている。まるでその場にいたかのように、ずっと傍にいたというように話している。

 少年は、女性の言い草から自分が監視されていたと予測した。

 

 

「覗いていたのか?」

 

「朝からずっと見ていたわ。登校している途中に会ってからずっと見張っていたわよ」

 

「気付かなかった……」

 

 

 女性には、覗いていたことを悪びれる様子が一切なかった。どうやら悪いことをしているという認識はないらしい。

 そして、言う必要もないことかもしれないが、少年には見られていたような感覚は一切なかった。

 普通の人間は、見られていることを感じ取れるような鋭い感覚を持っていないのだから、少年が見られていることに気付かなかったのは当たり前と言えば当たり前である。

 人間というのは、誰かに見られていることを逐一把握などしていない。他人の視線を把握できるのであれば、犯罪の半分とまではいかないが、3割ぐらいは減るのではないだろうか、そのぐらいの大きな変化である。もしも、そんなことができれば人の世界観が少しばかり変わるほどの変化が見られるだろう。

 

 

「どうしよう……」

 

 

 少年は、女性に聞こえないぐらいの小さな声で、心の内側にある不安を口に出した。

 女性をこれ以上無視するのは厳しい。きっと目の前にいる女性は、少年がいくら無視し続けていても必ず付いてくる。それに、ストーカー被害は放っておくとかえって酷くなることが多い。

 それならば、対処すればいいという話にはなるのだが、残念ながらこの女性は普通のストーカーとは違う。警察も全くあてにできないだろう。

 さらには、普通であれば付きまとう理由があり、その理由は得てして分かりやすいものなのだが、女性の目的が一切分からないのだ。何せ少年と女性は会ったことがないのだから、話したことがないのだから、何を理由に少年に付きまとっているのか皆目見当つかなかった。

 

 

 必死に思考する。結局目の前の女性は何が言いたいのだろうか、何を言いたいのだろうか、少年に対して何がしたいのだろうか。

 けれども、いくら思考したところで少年には、女性が話しかけてくる意図が全く分からなかった。

 

 

「「…………」」

 

 

 お互いの間に沈黙の時間が流れる。

 少年は、分からないものは考えても仕方がないと、女性の言葉を無視して自転車をこぎ続ける。

 女性は少年の反応を待っているのか、暫くの間少年と同じように黙っていた。

 

 

「で、どうしたの? 俺になんか用があるの?」

 

 

 少年は沈黙に耐えきれなくなり、女性に向かって会話を要求するように目を向ける。女性の目がまっすぐに少年の目を見つめ返し、二人の視線が交錯した。

 お互いがお互いを縛るように視線を逸らさない。女性と少年は動くことなく、幾ばくの間、お互いの瞳を見つめ続けた。

 女性は、動き出さない時間を押し進めるように少年に向けて言葉をぶつける。少年の事を異常だと、さも当然なことのように言った。

 

 

「あなたは、異常よ」

 

 

 少年は、女性の貫くような言葉に時間が止まったかのような錯覚に陥った。

 

 

 少年は、目の前の女性に対して心が揺らぐところを見られたくなかった。気持ちが揺らげば一瞬で話の流れを持っていかれる、そんな確信があったからである。

 

 女性は、少年に探りを入れている。少年の大事な部分に対して、閉じている部分に対して手を入れてきている。

 少年は、女性の思う壺にならないように気を張り、僅かに揺らいだ心を押し殺し、平常心を保った。

 

 

「知っているよ。でも、何にも問題ないだろ? だって、どっちだっていいんだから」

 

 

 少年は、自転車をこぎながら静かに口を開く。

 少年は、決して目の前にいる女性に対して弱い部分を見せない。

 

 

「異常だろうと異常でなかろうとどっちでもいい。それに、みんな大なり小なり異常を抱えていると思うよ。ただ、それを外に出していないだけさ。あんたは、そうじゃないみたいだけどさ」

 

 

 少年は、知ったような口ぶりで言う。

 人間は、異常をどこかに抱えていると言いきった。

 

 

「異常のない人間なんていない。異常を持ち合わせていない人間なんて人間じゃない。人間って完璧な存在じゃないよ。完璧な存在だったらこんな面倒なことをしていないからさ。こんな、面倒に生きていない」

 

 

 少年は、知ったような口ぶりで言う。

 人間は、完璧な存在ではないと言いきった。

 

 

「人間は完璧な生き物ではないよ。何処を取ってもそうだ。完全な部分なんてない。どこにあるのか探してみればいい。探してみた所で見つからない。人間であるならば、あるわけがないんだから」

 

 

 女性は、少年の言葉を聞きながら表情を変えなかった。知ったような口ぶりで言う少年の言葉を聞いている間、ずっと真面目な顔のままだった。

 

 

「屁理屈を言うのは止めなさい。問題は大ありよ。あなたみたいなふざけた人間がいるなんて思ってもみなかったわ。そもそも、私を認知できるだけでも相当な異常なのよ。私とこうして喋っていること自体が、すでにありえないことなの」

 

「……あんたに言われなくても知っているよ。そんなことは、前から知っている」

 

 

 女性の言っていることは酷く正しい。そんなことは、少年もよく分かっていた。だからこそ少年も女性の言葉に対して批判を言うことができず、何一つ反論ができていない。

 

 女性が見えている段階で、少年のおかしさは証明されている。

 

 少年は、誰一人としてこんな上半身だけ生えたような女性を見たなんていうことを口にしているのを見たことが無かった。こんな話題性抜群の奴を見たのならば誰かしら言っていてもおかしくはないはずなのに、少年は一度も聞いたことがなかった。

 女性の存在は、それこそテレビで取り上げられてもおかしくないレベルなのである。

 しかし、現実に女性の存在は世間に広まっていない。それはつまり、誰も見たことがない存在だという結論に直結する。

 あくまでそれは、みんなが少年みたいに女性を見ても黙っているという可能性を省いた場合ではあるが、そんなことはありはしないだろう。人の口に戸は立てられぬということわざもあるほどに、人の口は軽々しく開くものなのだから。

 

 

「異常、異常ってさ。確かに俺は自分自身なんかおかしいなって分かっているけど、何度も言わないでくれるかな。結構傷つくから」

 

「それは嘘よ。そんな無表情で言っても駄目。あなたは、狂っていると言われることを望んでいる」

 

 

 女性の突き刺さるような言葉に、少年の無表情が少しだけ崩れた。




日常の中に異物が紛れ込む。
紛れ込んだ異物は、少年の世界を崩していく。
それはきっと偶然と呼ぶには出来過ぎた出来事。
きっとそれは―――起こるべくして起こった事。

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