ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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与えられた温かさ、分からなくなる実体

「藍は、いやにあの子に肩入れするわね」

 

 

 紫は、予想外な藍の様子に疑問を持ち、扇子を口元に当てて心のわずかな動揺すらも悟られないようにして口を開いた。

 紫には、思っていた以上に藍が少年に肩入れしているように見えた。藍の少年に対する印象がついさっきまでと全く違うものになっているように感じた。

 

 藍の少年に対する対応は、心の中に入る前と後とで全く違っている。

 心の中に入る前の藍と少年の関係は、他人という間柄だった。これから同居人になる、これからお世話になる、そういう未来を想定していたとはいえ、関係はあくまで他人である。会話の内容も表情も固めだったといえるだろう。

 しかし、今の二人の関係は明らかに違う。藍の少年に対する声色が凛としている以上に、優しさが含まれている、表情も非常に優しいものだった。

 思えば、少年が居間から出て行くときもそうである。藍は、少年に感謝の言葉を述べている。

 そのうえ、藍は少年のことを名前で呼んでいた。他人という間柄に収まっていた関係が、他人という間柄の範疇をはみ出ていた。

 実際に今の藍の中での少年の立ち位置は、初めて出会った時とは雲泥の差がある。その差を生みだしているのは、紛れもなく少年の心の中での出来事が関係していた。

 藍に与えられた少年からの影響というのは、それほどに大きいものがあった。

 

 

「あの子の中でそれほどの何かがあったのかしら?」

 

「色々ありましたよ、色々と。和友も言っていたでしょう? 私は、和友の心の中の世界で1年近く過ごしたのですから」

 

「ああ……そうだったわね。あそこで1年、そう考えるとよく無事に帰って来ることができたわね」

 

 

 紫は、1年という言葉で心の中で少年が言っていたことを思い出した。時間の進み方が違う、それは少年が紫の下に辿り着いた時に告げた言葉である。

 紫は、少年の心の中で1年という期間を過ごし抜いた藍を心から称えた。

 

 

「私だったらきっと、すぐさま出て行ってしまっていたわ」

 

 

 紫は、きっと自分だったら逃げ出してしまっているだろうと、耐えられないだろうと、そう思っていた。

 しかし、紫のその思考には大きな間違いが含まれている。紫のこの考えには、自分の持つ境界を操る能力を使えば少年の心の中から離脱できるという前提条件が含まれている。それが―――間違いなのである。

 少年の心の中は、少年のルールによって成り立っている。少年の心の中は、少年が認めていない能力や技能の使用を許すことはない。

 紫の能力は、はっきりいうと少年の心の中に完全に入ってしまえば使えなくなるのだ。紫が少年の心の中に入れば、脱出することはかなわず、藍と同じ状態になったことだろう。

 違いがあるとすれば―――紫の場合は、流れている時間がものすごくゆっくりであるという点だけである。この点だけが唯一藍よりも条件がいいといえる部分だろう。

 ただ―――それだけである。

 

 

「和友のおかげですよ。私は、和友に支えられなかったら終わっていました。私の心は完全に折れてしまっていましたから……もう、死んでしまおうかとまで考えました」

 

「…………」

 

 

 紫は、死んでしまおうとまで考えたという藍の言葉に何も口に出すことができなかった。

 少年の心の中が藍にそれほどの影響を与えるものであるということは、紫も理解している。あんな無秩序の中に放り込まれていては、自意識を保っていられなくなるのは明白だ。何もかも分からなくなって、希望も曖昧になって無くなっていく。

 そんな世界で生きていられる方がおかしいのだから。

 

 

「心の中に有無を言わさず入れたことについては、悪いと思っているわ……でも、心の中で過ごした1年間とあの子は、関係のないことでしょう? あの子は、貴方を見つけて連れてきただけじゃない」

 

 

 1年間少年の心の中にいたことは、少年の肩を持つ理由にはなりえない。1年過ごしたことと、少年との話は直接的な関係が無いのだ。1年過ごしたということから少年と藍の間に何かがあったことを予測するのは、不可能に近いことである。

 能動的に動いていない紫は、少年の心の中で藍を見つけたわけでも、少年と藍のやり取りを見ていたわけでもないのだ。紫が藍の少年に対する変化を不思議に思うのは当然だった。

 藍は、紫の質問に目を閉じ、心の中での出来事を思い出すように静かに語りだす。

 

 

「あの子は……私を抱きしめてくれたんです。崩れそうになる私を支えてくれた。確かに和友の心の中は異常な世界でした。紫様から聞いた話の通り、和友の異常性を証明する世界でしかなかったです……」

 

 

 藍は、優しい声で語り続け、少年の異常性を受け入れてもなお少年のことを肯定する。

 

 

「それでも和友は、本当に辛い状態の相手にどんなことをしてあげればいいかを分かっています。辛い相手が一番して欲しいことがなんなのか分かっているのです。相手の気持ちを考えることができるのですよ」

 

 

 藍は、胸に手を当てて心をこめて言葉を口にする。少年からもらった温かさを少しでも紫に分かってもらおうと、少年から貰った温かい温度を、その時の想いを引っ張り出して口から言葉にして伝えた。

 

 

「和友は、他人の痛みを分かってあげられる。和友は、根はやさしい子なのです。そんな普通の子なのですよ」

 

 

 少年から受けた気遣いを思い出すだけで自然と暖かい温もりが湧き上がってくる。藍にとって少年のした行為は、それほど心の奥に深く刻まれていた。

 

 

「和友は、今までにあの子自身が辛いことを経験しているからか分かりませんが、母親の真似だと言って私のことを大事に抱きしめてくれました」

 

 

 

 

 ―――和友の心の中に入った当初―――

 藍は、少年の心の中にいた時、ずっと一人で苦しんでいた。絶望と恐怖と寂しさに支配されていた。

 

 

「ここは、どこだ? また紫様の質の悪い遊戯だろうか。紫様には、本当に振り回されるな……」

 

 

 藍は、少年の心に送り込まれた際に、まだどうにかなるだろうと安直に考えていた。これは紫様が悪ふざけでやったことだ、いずれ出られるだろうと高をくくっていたのである。

 しかし、藍のそんな予想とは違って―――紫はいつまで経ってもやってこなかった。

 

 

「いつになったら来るのだ。私は、いつまで待てばいい……ここから出る方法は……」

 

 

 問題は、紫が来ないだけではない。紫に放り込まれた意味不明な世界から出られる可能性が何一つ見つけられなかったことにもあった。

 謎の世界の外に出られる兆しは一切見えてこず、いくら歩き回っても何も見えてこない。

 藍は、そんな途方もない不安を抱えながら、途方もない世界の中で一人きりだった。誰もいない世界で、よく分からない世界で、異常な世界で、希望もなく一人きりだった。

 

 

「誰かいないのか?」

 

 

 藍の言葉に返事が来ることは無い。

 藍の言葉は、決して外には届かない。

 

 

「誰かっ!! 誰かいないのか!? どうして誰もいないのだ!! 私はここにいるのに……どうして紫様は……紫様はっ……」

 

 

 藍は、誰もいないと分かっていながらも大きな声で叫ぶ、不安を押し出すように喉を痛めるほどに叫ぶ。

 けれども、藍の叫びに対して何かが返って来る事はない。

 藍は、無力な自分と助けの来ない絶望的な状況の中で心をすり減らし始めた。少年の心の中では、能力が使えなかった。力を出すこともできなかった。

 藍は、飛ぼうと何度も挑戦した。現実の空間でやっているように霊力を使い、空を飛ぼうとする。

 しかし、体は重力に引っ張られるだけで、飛べる兆しは一切見られなかった。

 藍は、完全に少年の中のルールに沿っていた。

 

 

 ここで一つの疑問が湧いてくる。どうして紫は、少年の心の中でも能力を使うことができたのかという疑問である。

 紫は、少年の心から出る際も、少年の心の中を覗いているときも、能力を行使している。

 少年の心の中の世界で力を使う条件は2つある。紫は、その条件に適合していたために能力の仕様が可能になっていた。

 1:同じ性質の能力

 2:外の世界に体の一部が出ている

 紫が能力を行使した時、紫の体の半分は少年の心の中の世界の外に体を出していた。そのため、体の半分だけルール外になっており、能力が発動できていたのである。

 

 

「俺がなんとかして、こいつを見つけるから。心の中に他人が入っているっていうのも気持ち悪いからな。それに、問題は他にもある……」

 

 

 少年は、心の中に入る前に忠告するように紫に告げている。

 少年の言葉は、紫の能力を発動させるための一役を買っていた。

 

 

「あんたは黙って覗いていてくれ。俺は見つけることはできても、さすがに心の中から追い出すことまではできない。あんたも覗いている場所から動いてくれるなよ」

 

「分かったわ。あなたを信じましょう。私は覗いているだけにしておくわ」

 

 

 少年が完全に自身の心の中を理解していたとは思えないが、この言葉こそ紫の能力を発動させる条件を満たした要因であった。

 けれども、残念ながら藍は紫と異なり、少年の言葉を聞いてはいない。仮に聞いていたとしたら、頭のいい藍ならば能力が使えなくなった原因について把握できていたかもしれないが、そんな仮定の話はするだけ無駄である。藍はその会話をしていた時には、少年の心の中だったのだから。

 

 

「どうすればここから出ることができる? どうすれば、幻想郷に戻ることができる? 私は……本当に幻想郷に戻れるのか……?」

 

 

 藍は、力の出せない状況で、出口の見えないどうしようもない状況で、時間だけを経過させていった。

 藍の心は、少年の心の中でどんどん荒んでいった。孤独の毒と曖昧の歪みが藍の精神を蝕み、時間が経過するのに比例するようにしてボロボロになっていった。

 

 

「どうして、助けてくださらないのですか……? 私なんてどうでもいいということなのですか……?」

 

 

 藍は、主である紫に対して切実な思いを告げる。

 しかし、普段であれば地獄耳を立てている主は、決してやってこない。

 

 

「ふざけてないで出てきてくださいっ!! 私が悪かったですから、私が何かをしたというのなら謝りますっ! だから……助けてください……私を、見つけてください……」

 

 

 藍の心は、半年を過ぎるころには自暴自棄になって周りの物に当たってしまうほどに荒んでいた。

 むしろ、ここまできても耐えることができている時点で相当なものである。普通の人間であれば1カ月も生活できやしない。

 藍が少年の心の中に生えるように立っている標識を打ち壊したのは、そのころである。荒みきって、心が壊れていく最中のことだった。

 

 

「っ……いっそ死んでしまえば、幻想郷に戻れるのだろうか……」

 

 

 藍がいくら暴れても、何をしても誰も反応しない。藍は、何もかもが分からない世界の中で一人きりだった。

 藍は、ついに荒んだ心も維持することができなくなり、死んでしまおうとまで考えた。

 

 

「紫様……私は……」

 

 

 死ぬという考えを進めようとすると、両手を広げて遮るものがいた。藍の中に死のうという想いを押し留めるものがあった。死のうとは考えたが、記憶の中にある思い出たちが藍の最後の行動を押し留めていた。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、最終的に自身の心を守るように俯いて待っているだけになった。体を動かす気力もなく、希望を持とうとすることもない。藍の心を支えるものは、もはや何一つとして存在しなかった。

 

 

 希望がやってきたのは―――そんな絶望に染まり切った時である。

 

 

「…………」

 

 

 藍が何もかもを諦めていた時に、生きることさえも諦めようとしていた時に、希望がやってきた。最も待ち望んだものが、最も求めていたものがやってきた。

 

 

(なんだろうか……)

 

 

 藍は、唐突に感じた頭の上に乗せられた程よい重さが気になり、目を開ける。

 頭の上には、自分のよく知っている形をしたものが優しく載せられている。頭の上から伝わって来る温かい体温が全身へと流れて込んでいく。

 

 

(あぁ、温かい……人の手……これは、人の手の温かさだ……)

 

 

 藍は、温かい人の手の感触に顔を上げた。凍えきった瞳で、塞ぎ切った心のまま数か月ぶりに頭を上げた。

 藍の瞳は、1年間とらえることができなかった人間の姿を映し出す。藍の視界に少年の姿が入り込んだ。

 

 

(ああ、ついに幻覚まで見えるようになってしまった……私は、もう終わりだな。最後に見たのが紫様ではないのが残念だ……)

 

 

 藍は、瞳に映し出された景色を信じることができず幻だと決めつけ、気持ちをふさぎ込んだまま頭を上げるために入れた力を抜こうとした。

 しかし、それを遮るように―――少年から最も欲しかった言葉が藍に向けて投げかけられた。

 

 

「ほら、帰るよ」

 

「っ…………」

 

 

 藍は、声を発した少年に注視した。手の温かさ、少年の姿、少年の声、これは夢ではない、錯覚でもない、幻覚でもない―――確かに、確実にそこにあった。

 少年は、廃れた藍のところにやってきた。藍は、意味不明な世界で一人ぼっちでは無くなった。

 藍の心が、温度をもって騒ぎ出す。久々に感じる人の手の柔らかな感触に歓喜し、人の声が鼓膜を揺らし、響いている音に心が狂喜し始める。人肌の温かさに打ち震え、思わず涙が出そうになった。

 藍は、意味不明な世界で、誰もいないと思っていた世界で―――人間と出会った。

 暴れ出す心は、枷が完全に外れたように動き回り、抑えることができずに爆発する。自然と涙がぽろぽろと溢れ出た。

 

 

「っっ……」

 

 

 藍には、溢れる涙を止めることができるだけの気力など残っていなかった、止めるつもりも無かった。

 

 

「ほら、もう大丈夫だから」

 

 

 藍は、少年の言葉が発せられると同時に大粒の涙を流し続けながら正面に立っている少年の胸に飛び込む。

 少年は、全てを包み込んでくれる暖かさで抱きしめてくれた、包み込んでくれた。少年の優しさと温かさが藍の意識を取り戻していき、荒んだ心を潤してくれた、凍えた瞳を温めてくれた。

 藍は、少年の体温と抱きしめる体から不思議と安心感や守られているような感覚を受けた。少年から伝わる温度は、ここにいるのだと、生きているのだと、一人じゃないのだと伝えてきてくれている。

 

 

「ちゃんと帰れるから、ちゃんと連れて行ってやるから。寂しかったよな。一人でずっと我慢してきたんだもんな」

 

「ああ、ああっ!」

 

 

 藍は、少年から与えられるものにさらに涙腺を緩ませ大粒の涙を流した。優しい少年に弱い部分をすべてさらけ出すように涙を流した。

 少年は、物理的なものだけでなく、言葉によっても凍えて固まった藍の心を溶かしていく。泣きじゃくる藍に対してとても優しく接し、涙が止まるまで抱きしめてくれていた。

 藍の少年に対する気持ちが変わったのは、まさしくその瞬間だったといえるだろう。

 確かに藍は、この自分の心を折った意味不明な世界が少年の心の中の世界だと聞いた時は驚き、なんて言えばいいのか分からなくなった。

 しかし、少年が異常なものを持ちわせていても、それ以上の優しさを持っていることを知っている。少年の優しさは、何よりも素敵で、素晴らしいものだと分かっていた。

 それに、藍が少年を特別視するようになった理由は―――それ以外にもあった。

 

 

「俺の自慢の両親だよ」

 

 

 藍は、少年と話していても少年が異常を抱えているようには見えず、普通の子供のように見えた。名前を呼べないなんてちょっと不思議なことを言う子ではあるが、親のことを自慢し、笑っている少年に心が温かくなるのを感じたのである。

 少年は、変わっている、異常を抱えているといっても、普通の感覚を持っている人間の子供なのだ。

 藍自身が、紫から与えられた情報によって勝手に想像していた少年の印象を打ち崩すには、十分すぎるインパクトがそこにはあった。ちょっと変わったところのあるとても優しい子―――それが今の藍から見た少年の所見だった。

 

 

 ―――回想終了―――

 

 

 紫は、様変わりした藍と少年の関係を理解した。

 藍の心は完全に少年によって救われており、絶望の果てから救ってくれた少年に依存している。潤いを与えられ、手を差し伸べられ、恩を感じている。

 

 

「っ……」

 

 

 紫は、そっと唇をかんだ。少年の心の中へと放り込んだ自分の責任がいかに重いのか、今更ながらに感じ取っていた。自身の身勝手な行動で藍は苦しみ、そのしりぬぐいを少年がしたのである。

 紫は、心の中で反省し、今後無鉄砲なことをするのは止めようと、藍を巻きこむのは止めようと心に誓うと同時に、話を切り替えるように藍に尋ねた。

 

 

「……あの子は、親について何か言っていなかったかしら?」

 

 

 紫は、少年の親について気にしていた。先程の話から察するに、どうやら藍は少年と親についての話をしたような口ぶりだった。

 

 

「何でもいいの。両親に対する印象でも、思い出話でも、なんでもいいわ」

 

 

 紫は、少年の心の中に藍を探しに入るまでに少年と少しばかり話をしている。その際に少年は、不思議なことを言っていた。

 紫は、少年と少年の親について直接的な話をしたわけではなかったが、少年の言動から少年が親のことをどのように思っているかは大体予想がついていた。

 紫の予測が正しければ、藍から得られる答えは一つしかない。

 それは―――少年が両親のことを良く思っていないということである。

 藍は、ゆっくりと眼を開けて紫と目を合わせ、口を開いた。

 

 

「大事な自慢の両親だと言っていました。笑顔で、それこそ自分のことのように喋ってくれました」

 

「そう……それは、本当なのよね?」

 

「紫様、こんなことに嘘をついてどうするのですか?」

 

「……それもそうね」

 

 

 紫は藍が言っていることが信じられず、下を向く。

 藍は、うつむき暗い表情を浮かべる紫の様子の意味が分からなかった。子供が親のことを自慢するのは、酷く普通の事であり、別におかしい所はない。

 しかし、紫の反応は明らかに普通ではなく、どうも腑に落ちないという様子である。

 

 

「どうかしたのですか? 子供が親のことを自慢するのはよくあることだと思いますよ。微笑ましいことじゃないですか」

 

「確かに、それだけを聞くととても微笑ましいように思えるわ」

 

 

 紫は、下げていた視線を上げて口を開いた。

 藍は、昨日の出来事の全貌を知らない。知っているかどうかでこれほどまでに印象が変わってくる言葉もそうはないだろう。親のことを自慢し、笑顔を作る子供。その親は―――つい先日。

 

 

「でもね……藍にはこのことは言わなかったけれど、あの子の両親はすでに死んでしまっているの。昨日話した強盗殺人犯に家族みんなを殺されてしまっている。あの子の家族はもう、この世のどこにもいない」

 

「えっ……それは本当なのですか?」

 

「本当のことよ」

 

 

 紫は、意を決して藍に向けて詳しく話していなかった昨日の出来事―――昨日、少年の親が殺されてしまっていることを重苦しく口に出した。

 藍は、少年の両親が死んでしまっているという事実を聞いて動揺し、身を乗り出す。

 藍は、紫から少年が強盗に襲われて特殊な対処をしたことしか聞かされていなかった。強盗に対しての少年の対応の異常性についてしか聞かされておらず、両親が死んでしまっているなど寝耳に水だった。

 紫は、動揺する藍に追撃するように事実を突き付ける。

 

 

「あの子は昨日の夜に両親を失ったわ。あなたの言うことが本当なら、自慢だっただろう両親を殺されて、失った……」

 

「しっ、しかし!」

 

 

 事実を聞いた藍は、動揺を隠せなかった。藍から見た少年は、酷く普通で両親が昨日死んだなどみじんも感じさせなかった。

 藍は、紫の言葉を鵜呑みにできず、疑問を口にする。

 

 

「あの位の年の子が両親を失って1日後にあんなふうに過ごせるものなのですか? あんな冗談交じりのことを言えるものなのですか?」

 

「そんな訳がないじゃない」

 

 

 紫と藍は、少年がここで普通に話していたことを知っている。両親を失った少年は、普通にここで話をしていたはずである。両親が昨日死んだなんてことをおくびにも出すことなく、悲しそうな表情をすることもなく、3人で話をした、冗談交じりに話をした。

 

 

「だから、あの子はどこかおかしいのよ」

 

 

 あのちょっと不思議な少年が、ちょっと普通とはずれているような少年が、藍を抱きしめて優しくしてくれた少年が、昨日両親を失っているような様子に見えただろうか?

 少なくとも藍には、全く見えなかった。藍だけではなく紫も、少年が両親を失った直後には到底見えていなかった。両親を自慢しているときにも何一つ悲しさというものを感じさせなかったし、悲しい、重い雰囲気が全く伝わってこなかった。それほどに少年の振る舞いは、普通だった。

 

 

「最初はその現実を受け止めていないだけかと思った。気丈に振る舞っているのかと思っていたわ。でも、あの子は私にこう言ったのよ」

 

 

 ここで―――紫は、衝撃の事実を藍に告げる。

 

 

「そんなのは別にどっちでもいいよね。親が死んでは駄目なんていう決まりはないんだからって」

 

「そんなことを和友が言ったのですか!? 決まりがあるかないかなんて、関係がないでしょう!?」

 

 

 藍は、紫の言葉に気が気ではなかった。

 普通であれば泣いて悲しむはずなのに、普通であれば失ったものの大きさに立つことすら難しいはずなのに、少年はあろうことか両親が死んでもどっちでもいいと言ったのである。両親が死んでは駄目なんて決まりはないと真顔で言い放ったというのである。

 紫が両親についてあまりいいように思っていないと考えた根拠は、その少年の言葉からだった。その言葉があったから藍に少年が両親の事を自慢していたという事実を聞くまで、少年は両親の事を嫌っていると考えていた。

 

 

「ええ、そんな決まりなんてあるはずがないわ」

 

 

 藍の言う通り、親が死んで悲しまなければならない決まりなど存在しない。

 それは決まっているからどうするというものではなく、自然と感じるものであるからだ。両親が死んで悲しむのは、悲しまなければならないという決まりがあるからではない、失ったことによる喪失感が悲しみを自然と呼び起こすからである。

 決して誰かに決められて感じるわけではない。感情とは誰かに与えられるものではないのである。

 

 

「親のことを尊敬している、自慢にしている人間は、親が死んで悲しまないわけがないでしょう。それもそんな冗談交じりのことを真顔で言うなんて絶対にありえないわ」

 

「どうやったらそうなるのですか……私に見せてくれた優しさも、少し抜けているところも、和友の一部でしょう。けれども、そんな異常性も、和友の一部としてある。どうやって生きてきたらそんな、歪になるのでしょうか……」

 

「藍もそう思うわよね。あの子は、どうやってこれまで生きてきたのかしら……」

 

 

 藍は、紫から少年の異常性を語られて声をしぼませる。

 紫の話を聞けば聞くほど、少年の事が分からなくなる。不思議な子供、優しい子供、異常な子供、どれが本当の少年なのかが分からなくなっていた。

 少年は、外の世界で普通に学校に通い、普通の生活をしている。

 しかし、あまりにも目で見えるそれぞれの側面が違いすぎる。普通として生きていくためには、もっとうまく立ち回る必要があるだろう。

 紫は、少年と交わした言葉を思い返しながら口を開いた。

 

 

「あの子は、普通というものにこだわりを見せている。それなのにその普通とはかけ離れているような、そんなことを当然のように実行しているわ」

 

「もしかして、多重人格という可能性は無いのですか? それなら、いろんな側面を持っていることが理解できます」

 

「それは無いわ」

 

 

 藍は今ある情報から考えられる可能性を述べたが、紫は藍の提示した可能性を一刀両断した。

 

 

「心の中の世界を見たでしょう? あくまであの子の世界は一つしかないのよ。世界はとてつもなく広かったけど、世界が複数あるわけではないの。それこそが、多重人格を否定する証拠になっているわ」

 

「だとしたら、一体……」

 

 

 紫は、少年が多重人格という可能性を打ち消すことができるだけの証拠を保持しており、藍の言う多重人格という可能性を消し去った。

 藍は、提示した可能性を一瞬にして潰され、他に何か思いつくこともなく押し黙る。

 

 

 

「「…………」」

 

 

 二人の間に再び沈黙が訪れる。

 紫は、少年のことについて黙々と考えていた。少年がこんなふうになったのには必ず何かあるはずである、原因が全くないということはないだろう。

 ならば―――原因はどこにあるか。それは、少年の過去の何処かに置かれているはずだ。

 少年は、これまでずっと生きてきたのだから。

 暫くの間沈黙が場を支配すると、紫は座っていた状態からひざを伸ばして立ちあがった。

 

 

「藍、私はちょっとあの子の家に行ってくるわ。何か見つかるかもしれない。この子を育てた、その経過を記したものがあれば、何か分かるかもしれないわ」

 

 

 紫は、少年のことを調べるために少年の家に行こうと考えた。

 幸い、少年の家は一度少年と一緒に行ったことがある。少年が下校中について行っただけであるが、場所が分からないということはない。

 藍は、座ったまま紫を見上げ、口を開いた。

 

 

「和友がこれまで過ごしてきた経歴を探すのですね」

 

「ええ。このままじゃあの子のことがさっぱり分からないわ。あの子と話していると不思議に思うことばかり……何かあるはずなのよ。あの子がああいうふうに生きている何かがあるはずなの」

 

「紫様。絶対に、絶対に見つけてきてください」

 

「ええ、任せなさい」

 

 

 藍は、願うように言葉を口にした。

 紫は、少年が一番長い時間を過ごした場所、少年が一番長く接していた人間がいた場所、少年が一番多く学んだ地へと向かう。少年が過ごしてきた、少年が生きてきた手掛かりを探しに行くことを決意し、現場へと移動を開始する。

 

 

「行ってくるわ」

 

「いってらっしゃい」

 

 

 紫は、藍と挨拶を交わすとスキマを作ってその中に消えて行った。少年のこれまでを探すために、少年の心をさがすために、少年の家へと向かった。

 紫は、これから誰一人帰ってこなくなった家の中を探索することになる。誰一人いなくなった家で、誰かが住んでいた証拠を探していく。

 きっとそこには―――‘積み重ねられた’少年の歴史があるはずなのだから。


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