ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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心からの帰還、心についての議論

 紫と藍と少年の3人は、ほぼ同時刻に意識を取り戻し、少年の心の中に入るまで話をしていた場所―――居間にある炬燵を中心に帰ってきた。

 少年の心の中から出て意識を取り戻した3人は、座った状態のままそれぞれの顔を見て、全員が帰ってきていることを確認する。視線を交わし、3人とも無事に帰ってこられたことに安心した。

 

 

「「「はぁ………」」」

 

 

 3人は同時に一息つき、肩を落とす。

 

 

「戻って来たのはいいけれど……これから話を続けていけるような雰囲気じゃないわね」

 

「疲れました……」

 

 

 紫と藍の二人は、少年の心から出てきて早々に話を始めるつもりはなかった。いくら話が途中で断絶しているとしても、それを今から繋げて行く気力がなかった。

 言っては悪いがあんなところに行った後では、何かをしようという気はとてもじゃないが湧いてこない。

 この反応はごく普通の反応であり、特に藍は1年近く少年の心の中で過ごしているため、少年の心の中から戻って来てすぐに話をするのは止めておこうという意見は無理もない話だった。

 

 

「俺は、あんまり疲れてはいないけど……」

 

 

 少年は、そんな疲れを見せている二人とは違っていた。少年は、自分の中の世界ということで適性があったためか疲れてはいないようだった。

 

 

「でも、話しができる雰囲気じゃないし、この状態で話を進めていくのはやめにしておこう。こんな状況で話を進めても考えがまとまらないだろうしね」

 

「ああ、そうしてもらえると助かる」

 

「いったん休憩ね。しばらくしたら話をしましょう」

 

「うん、その方が頭もまわると思うし、そうしようか」

 

 

 少年は、疲れているわけではなかったが疲弊した顔をしている二人に合わせて話をやめるという意見に便乗した。会話というのは、独りよがりのものではない。少年が元気だとしても、相手が喋る元気が無ければ会話は成り立たないのだ。

 

 

「それに……俺はこれからやることができたからさ。部屋を一つ貸してもらえないか? それと紙と書くものをちょっと多めにくれると助かるんだけど」

 

「それは構わないけれど……紙とペンを一体何に使うの?」

 

 

 少年は、その場で立ち上がると続けて紫に視線を向けて部屋を一つと紙と書くものを要求した。

 紫は、座ったままの状態で少年を見上げて怪訝そうな表情を浮かべる。

 紫には、少年の要求の意図がつかめなかった。部屋を欲しがる理由については分からなくもない、これから生活するために自分の部屋は必要だろう。

 しかし、少年が紙と書くものを欲しがる理由が思いつかない。

 少年は、日記でも書いているのだろうか……少年との関わりが薄い紫には、思い当たる節がまるで無かった。

 

 

「部屋は空いているところが沢山あるから好きな所を選べばいいわ。ただし、私と藍の部屋は勿論駄目だからね」

 

「分かっているよ」

 

 

 少年は、紙と書くものを何に使うのかという紫の質問に答えることなく、部屋に関しての話にだけに返答した。

 紫は、答えを述べない少年にもう一度聞き返すべきか考えたが、少年が自身の質問を聞き逃したのだろうと勝手に解釈し、深くは聞かなかった。

 所詮渡すのは、紙と鉛筆のような何かが起こることがなさそうなものである。

 紫は、紙と鉛筆ならば別に何に使ってもかまわないかと一人納得し、左手をスキマへと突っ込む。そして、隙間に伸ばした手をもぞもぞと動かし、目的の物品を取り出した。

 紫の手には、ノートを4冊とHBの鉛筆6本が掴まれていた。

 

 

「じゃあこれ、使っていいわよ」

 

「ありがとう、これだけあれば大丈夫だと思う」

 

 

 紫は、掴んだノートを4冊とHBの鉛筆6本を少年に手渡す。少年は、ノートと鉛筆を受け取ると紫に対してお礼をし、すぐに行動に移った。

 

 

「それじゃあ、どこか適当な部屋を使わせてもらうね」

 

「ええ、好きな場所を選びなさい」

 

 

 少年は、紫から受け取ったノートと鉛筆を両腕に抱えるようにして保持し、足をふすまへと進める。そして、ふすまを開けて部屋を出ようとしたが、予想外の状況に陥った。

 少年は、ふすまの前でもじもじと動き、立ち往生している。両手がノートと鉛筆によってふさがっているためにふすまを開けることができないようだった。

 

 

「んっ……このままじゃ開けられないな」

 

 

 少年は、ふすまを開けるために、良心地のいいところにノートと鉛筆を持ち、両手を最大限稼働できるように位置を調整する。そのかいもあり、少年は大分ぎこちない開け方になっているが、なんとかふすまを開けることに成功した。

 紫や藍が少年の代わりにふすまを開ければいいだけの話ではあったのだが、紫も藍もおそらく酷く疲れていたのだろう。ふすまを開ける人物もいなければ、誰一人ノートと鉛筆を下に置いて開ければいいのではないかという助言も告げなかった。

 

 

「二人とも、色々ありがとうね。それから、これからよろしくね」

 

「ええ、よろしく」

 

「…………」

 

 

 少年は、お礼の言葉を残して廊下に出ようとする。

 紫は少年に生返事のような感情のこもっていない言葉を返し、藍は部屋を出ていく少年を黙って見つめていた。ただただ、部屋で座り込み少年が部屋から出ていくのを眺めていた。

 

 

「和友!」

 

 

 

 唐突に少年の名前が部屋の中に響き渡った。

 藍は、部屋を出て行く少年を見て、不意に少年が消えてしまうのではないかと不安にかられ、心を揺さぶる衝動のまま立ち上がって声をかけた。

 

 

「ん? どうしたの? なにかな?」

 

「…………」

 

 

 少年は、名前を呼ばれて廊下に足を踏み入れた所で振り返る。いつもと何ら変わらない表情を、名前を呼んだ藍へと向けていた。

 藍は、振り返った少年の顔を見て、何も言いだせなくなった。どうして、消えてしまうと思ったのだろう。何を不安に思ったのだろう。藍には、心のざわつきの原因が分からなかった。

 少年は、黙っている藍を不思議そうに思いながら立ち止まったまま静止する。

 藍は、一瞬の間に沸き立った心のざわめきを気のせいだと振り払い、少年に向かって笑顔を作った。

 

 

「ありがとうな」

 

「いいよ、どういたしまして」

 

 

 少年は、藍の笑顔につられるように笑顔を作り、部屋から出て行く。ぎこちない様子で開けたふすまをしっかりと閉めて、廊下を歩いて行った。

 少年が廊下を歩く足音が響いている―――部屋に取り残された紫と藍の耳には、少年の足音が遠ざかっていくのが聞こえていた。

 足音は、暫くすると自然消滅したかのように消えてなくなる。鳴っていたのかどうかさえも分からなくなるように、存在を打ち消した。

 

 

「「…………」」

 

 

 少年が部屋からいなくなり、紫と藍が居間に取り残される形になった。静かな空間に二人きりで、沈黙が部屋の中を支配している。

 紫と藍は、何か大きな流れの中で取り残されてしまったような寂しさに襲われていた。部屋から少年が居なくなっただけなのに、取り返しがつかない物を失ったような気持ちに陥った。

 そんな喪失感の中、紫はそっと口を開いた。

 

 

「行っちゃったわね……」

 

「何か、大きな穴が開いたみたいな感覚に陥りますね」

 

「それだけ存在感があるということなのかしら。境界が曖昧になっているから、その分存在が大きく感じられるのかもしれないわね」

 

 

 紫は藍も同様の感覚に陥っていることを知り、ある仮説を立てた。少年の大きい影響力の原因が少年の持っている能力にあるのではないかという予測である。

 

 

「「…………」」

 

 

 紫の言葉は、藍には拾われることなく空中に拡散し、空間には再び静寂が訪れた。誰も口を開こうとはせず、音を出そうともせず、動き出すこともない。

 紫と藍は、再び場に静寂を停滞させる。

 

 

「ん~~」

 

 

 紫は、時間だけが過ぎていく空間の中で精いっぱいの背伸びをして上半身の筋肉を伸ばす。全て伸ばしきった後、筋肉をゆっくりと緩めて大きく息を吐く。頭の中に酸素を取り込み、気持ちを一転させて思考をクリアにする。

 藍は、背伸びをする紫の目をずっと見続け、時が来るのを、紫が話し始めるのを待っていた。

 

 

「…………」

 

 

 紫は、藍の視線に答えるように話をしようと考えて口を開こうとしたが、口を開きかけたところで言葉が出てこなかった。

 紫は、藍と二人きりになった部屋で何から話せばいいのか分からなかった。話さなければならない疑問は山積みで、処理できていない話は山ほどある。

 しかし、紫はそれを口に出すのを躊躇った。口に出そうとしているその話は、少年を否定することになる話であり、少年を批判することになる話である。

 紫は、果たして今の藍が少年の悪口を言われても、何も言わないで我慢ができるのか心配だった。

 そっと、藍へと視線を向ける。藍は、揺らぐことのない瞳で紫の瞳を見つめ返してきた。まるで逸らすことを許されていないように、ひたすらに見つめてきている。

 紫は、視線を動かさず待ち続ける藍を見て気持ちを固め、話をしようと心に決めた。

 

 

「あの子は、紙と鉛筆で何をするのかしらね?」

 

 

 結局のところ紫が沈黙を破って言い出せたのは、先程の些細なことで先程少年にした質問だった。

 少年は、先程紫の質問に対して紙と鉛筆を使って何をするかについて言及していない、そこについての疑問である。

 紫は、もともと話そうとしていた少年の心の中についての考察には触れることができていなかった。

 しかし―――会話は始まる。ここから話は前に進んで行く。きっかけを得た物語の歯車は、確かに回転し始めた。

 

 

「それは決まっています、何かを書くんですよ」

 

「ふふっ。藍、あの子の真似をする必要はないわよ。そんな当たり前のことは別に言う必要はないの」

 

「この前のお返しです」

 

 

 紫は、藍の予想外過ぎる解答に顔を綻ばせた。藍は、少年の心の中に入る前に話していた、ふざけたやりとりのことをいまだに根に持っているようである。

 

 

「それは、私じゃなくてあの子に返してあげなさい」

 

「それも、そうですかね」

 

 

 紫は、自分に返すのはお門違いだと、少年にこそ言うべきだと告げた。

 藍は、ぼんやりとした様子で紫の言葉を肯定した。

 しかし、あの時に悪意があったのは間違いなく紫であり、少年に悪意はない。藍のお返しが紫に向いているのは、何も間違ってはいなかった。

 

 

「はぁ…………」

 

「…………」

 

 

 紫は、反応の薄い藍を見つめたまま口を閉ざした。少年に繋がる話題を出したにも関わらず、またしても静寂が空間を包みこむ。冗談交じりの会話が二人の間に飛び交うような空気は長く続かない。

 紫は、少しも少年の話が展開していかないことに億劫な気持ちになった。

 

 

「どうにも慣れないわね」

 

「なにがでしょうか?」

 

「貴方との会話よ」

 

「申し訳ありません……」

 

 

 もともと紫と藍は、そこまで会話をバリバリと交わすような間柄ではない。会話をする必要がなければ、会話をする関係でないことはもちろんであるが、紫は殆どの時間を寝て過ごしているため藍との生活時間が合わず、話し合いの時間などほとんどなかった。

 

 

「藍、特に悪いことをしているわけでもないのに謝るのは止めなさい。そういうところが貴方のダメなところなのよ。もっと主体性を持ちなさい」

 

「申し訳、ありません……」

 

「だからそういうところがダメなの。確かに私たちは、そこまで親身に話をしてこなかった。私が命令して藍がそれを遂行するだけだものね」

 

「はい……そうですね」

 

 

 さらに言えば、紫が藍に向かって言葉として与えるのは、基本的に会話と呼べるものではない。

 言葉に含まれているほとんどの内容は、命令と教育である。

 紫と藍の関係は、雑談を気軽に交わしているような関係ではないのだ。あくまで紫と藍の関係は主従関係であり、横の関係になることは全くなく、どんな場合においても紫の立場は常に藍の上であり、不変なのである。

 紫にとって藍の言葉は下から湧いてくるものであり、すくい取るものである。

 藍にとって紫の言葉は上から降ってくるのであり、受け取るものだった。

 

 

「はぁ……藍は本当に融通が利かないわね。何もあの子みたいに別人になるほど切り替えろというわけではないのよ。ただ、自分というものを持ちなさいと言っているの」

 

「ですが、急に変えろと言われましても、どうすればいいのか分からないのです」

 

「じゃあ、まず藍自身が考えて動くところから始めなさい。これからする話は藍にも関係があることなのだから自ら考えて自分の気持ちをしっかり持ちなさい」

 

「はい、分かりました」

 

「はぁ……藍、良く聞くのよ」

 

 

 紫は、あくまでも従順な様子の藍に不安を抱えながらも、藍との間に立ち込める重苦しい空気を変えるために、話題を一気に変えた。

 

 

「あの子のことなんだけど……」

 

 

 二人が話すことはやはり、共通の認識を持っている少年のことである。他にも色々と共通の話題があるにはあるのだが、ここで紫が藍に任せている仕事の一つである博麗大結界の話をしても上下関係は崩れず一方的に喋ることになるだけである。

 それに、なによりも少年の話に持っていくことが難しくなる、そんなことは―――容易に想像できる。

 紫は意を決し、厳かな声で少年のついての話を始めた。

 

 

「藍はもう分かったと思うけど、あの子は異常よ。あの心の中の様相は明らかに異常だった」

 

「…………」

 

 

 藍は、紫の言葉にぴくっと反応した。

 紫の言葉で場の雰囲気が一変する。口にしている言葉の内容は先程と同じであり、少年のことで変わり無いものの、ものの質が変わった。まるで別の話をしているのではないというぐらいに変化した。

 

 

「異常だったというのは、紫様がこれまで見てきたものと明らかに違うということですか?」

 

「そうよ、あの子の心の中は明らかに普通とは違っていたわ。それは、初めて心の中に入った藍でも感じ取れたのではないかしら?」

 

「それは……そうですね……」

 

 

 藍は、真剣な表情で紫の言葉を吟味する。

 紫が口にする少年の心の中は異常だという言葉は、少年の異常性を立証している言質である。ここでは、言葉の内容というよりも紫が言っているというのが何よりも問題だ。

 他の誰かが言ったのであれば、信じるに値しない虚言や妄言になったことだろう。なぜならば、普通の心の中というものを見たことがない者は、基準となる定規を持っていないため異常性の度合いについて語ることができないからである。

 しかし、紫は少年の心に入るぐらい造作も無い、と言った言葉通りに楽々と心の中に侵入できる。少なくとも紫の言動からは、これまでに様々な人の心の中に入ってきたということが伺えた。心の中に幾度も入った経験を持っている紫がおかしいと言うのであれば、それはまさしく、少年の心の中が普通ではないということを示している事実と変わらない。

 それに、心の中に入った経験を持った者でなくても実際に心の中に入ってみれば少年の心の中が異常であることは十分に感じ取ることができる。少年の心の中に入って心まで折られた藍は、特に少年の心の中の異常性について感覚的ではあるが理解している。

 紫の言葉は、藍が少年の心の中で感じ取った異常性を確信に変える、そんな後押し―――絶妙な押し込みになった。

 

 

「藍は知らないかもしれないけど、心の中というのは、一人分しかないものなのよ。それはちょうど1人部屋のようなもの。それは、その大きさが一番適しているからよ」

 

「私は、今回が初めてなので分からないのですが……心の中は、一人部屋ほどの大きさしかないものなのですか?」

 

「厳密に言えば、一人部屋ほどの大きさが必要なのよ。大きすぎても小さすぎてもダメ」

 

 

 紫は、先程少年に渡したものと同じノートと鉛筆をスキマから取り出す。そして、流れるように炬燵の上にノートを開いておくと、今まで見てきた心の中の一般的な絵を描きながら藍に説明し始めた。

 

 

「そうね……」

 

 

 紫は、手始めにノートに四角形の箱を描き出し、箱の寸法を書きいれる。白いノートに黒い線が次々伸びていく。

 藍は、紫が書き記していくノートを見つめた。

 ノートに記された箱には、高さ3メートル、横6メートル、縦6メートルと書かれた。

 紫は、箱を書き記したノートに向かって注意を促すように鉛筆をトントンと突き立てる。

 

 

「これが一般的な大きさになるかしら」

 

「本当に一人部屋の大きさなのですね」

 

「多少の個人差はあるものの、おおよそこの位の大きさになると思ってくれていいわ」

 

 

 藍は、小さな一部屋サイズの大きさを頭の中に思い描く。それは、本当に一人が生活する場である。二人が生活するには、少しばかり息苦しくなるような―――そんな空間である。

 

 

「心の大きさが一人部屋サイズになっているのには、理由があるのよ」

 

 

 紫は、ノートに書かれている箱の中に物を描き始める。四角形、三角形、楕円の3つの図形を書き記すと説明を続け、ノートの書き記した図形の中にそれぞれ思い出、感情、記憶、と漢字を書き入れた。

 

 

「心の中には、思い出や感情、記憶が置かれているわ。人間や妖怪といった理性と感情を持っている生き物は、これらのものを取り込んだり、取り出したりして生きているの」

 

 

 紫は、これまでの経験から得ている心の中で行われている動きを分かりやすく藍に伝える。

 

 

「引き出しを引っ張るようにして思い出し、タンスにいれるようにして記憶する。人間や妖怪は、そうやって記憶のやり取りを行っているのよ」

 

「なるほど、心の中はそうなっているのですか」

 

 

 心の中は、記憶を押し留める場所であり、知識を蓄える場所である。理性や知性をもった生き物は、その中から欲しい情報を取り出すことで特定のことを思い出し、心の中の何処かへ保管することで記憶している。

 藍は、紫から得た知識を心に刻む。

 しかし、心の中に紫から得た知識を記憶したところである事実に気付いた。心の中に記憶をため込んでいるというのならば、心の大きさはそのまま容量ということになるのではないだろうかという疑問である。

 

 

「もしも、紫様のおっしゃる通りであれば、部屋が大きいほど多くの物が入れられることになりますよね?」

 

「その通りよ。覚えていられる容量は、部屋の大きさで決まっているわ。整理がどの程度できるかでも変わって来るけど、容量自体は大きさが決めている」

 

 

 藍は、新しく入った情報―――心の中という精神世界の大きさが記憶の容量を決めているという情報を心の中の同じ場所へと入れ込んだ。

 

 

「ということは、和友は無限ともいうべき記憶のための容量を持っていることになりますね……でも、紫様が言いたいことはそういうことではないのですよね?」

 

「藍は、分からないのかしら?」

 

 

 藍は、紫からの質問の意図が分からず表情を曇らせた。

 紫は、そんな表情を浮かべる藍を見てさらに問いかけるように情報を藍へと与える。

 

 

「無限に広がる空間を持っているということが、どういうことなのか……想像してみればすぐに気付くはずよ。無限の大きさを持っていることが、どういう結果をもたらすのか」

 

 

 藍は、必死に紫の意図を読み取ろうと頭の中で紫からの言葉を巡らせ、思考する。

 明らかに紫は、藍に何かを気付かせようとしている。少年の心についてあり得ないと断言できる要因を気付かせようとしている。

 

 

「大きさが無限である場合に、何が起こるのか」

 

 

 紫の言葉を全面的に信用した場合―――少年の心の中は何が異常になるのだろうか?

 藍は、実際に自身の目で少年の心の中を見ている。

 少年の心の中は、地球のように広大で無限と言える大きさを持っていた。少年の記憶できる容量は、心の大きさが無限大と想定すると無尽蔵と言えるだろう。

 しかしそれは、溜め込めるというメリットだけではない。先程紫は、心の中に記憶をため込む仕組みについて口に出している。情報は引き出しに入れている、タンスから取り出すと言った。

 

 

「欲しい情報を取り出す手順は……部屋の中でタンスの引き出しを開けるイメージですよね」

 

「それでおおよそ間違っていないわ」

 

 

 藍は、一つずつ道をたどるようにして思考する。想像するのは自身の世界が広がるイメージである、心の中の世界で欲しい情報を取り出すイメージである。

 藍は、心の中の部屋にある戸棚に向かって足を進める。つい最近の記憶を、部屋の中にある戸棚の中から見つけ出す。

 引き出しの中には、つい先日の記憶が視認できた。昨日の記憶ということもあって、細かいところまで綺麗に示されている。

 藍は、戸棚の中から昨日の記憶を取り出すことで昨日の出来事をはっきりと思い出した。

 

 さて―――これが一般的な脳内イメージである。

 しかし、少年の場合は部屋の大きさが違う。

 これを―――広げるのだ。

 

 

「これを無限の広さに拡張する」

 

 

 少年の部屋は、藍の部屋や一般の部屋と異なり地球と言えるほどに広大である。

 藍は、少年と同じ状況を作り出すために、自身の部屋の大きさを地球ほどに大きくするイメージで拡張した。

 

 

「はっ……」

 

 

 藍は、その瞬間に思考がまっさらになる感覚に襲われた。部屋の拡張を行ったその瞬間、世界がまっさらになる感覚に陥った。

 部屋の中というにはおこがましい世界の中には、何一つ見当たらない。何もない場所に、何もなくなった世界で一人きりになった。

 藍は、昨日の記憶を探すという以前に、自分がどこにいて何をしようとしているのか目的を見失いそうになり、暫くの間一人ぼっちで佇んだ。

 その世界では、いくら待っていても誰も迎えに来ることはない、誰かが方角を教えてくれるわけでもない。藍は、そんな広大な世界で一人きりになり、酷く寂しい気分になった。

 藍は、心の中が大きくなりすぎることによる弊害を把握し、少しだけ潤んだ瞳を静かに開ける。

 

 

「見つけられません……自分の部屋の大きさが地球ほどの大きさであった場合、欲しい情報を見つけることができません」

 

「そう、部屋は大きければいいというものではないわ」

 

 

 藍は、紫の期待に応えて答えへと辿り着いた。

 

 

「確かに、部屋の大きさが大きければ置ける記憶や思い出は多くなる。けれども、置いてある記憶や思い出がどこにあるのか分からなくなるわ」

 

 

 部屋の中は、大きければいいというわけではない。

 確かに詰め込む分には、大きければ大きいほどいいだろう。PCのHDDと同じである。容量が大きい方が、たくさんの物を取り込むことができる。

 しかし、物を取りだすのは、あくまで自分自身がやらなければならないのだ。コンピュータが自動的に探してくるわけではない。記録という名の記憶をレジスターから、メモリから引っ張ってきてくれるわけではない。

 あくまでも人間が蓄えた感情や想いの記憶は、自分自身で思い出さなければならないのだ。

 

 

「それもそうなのですが、部屋の大きさが大きすぎた場合、仮に置いてある場所が分かっていても見つけるまでに相当な時間がかかってしまいます」

 

「藍もあの子の心の中がどれだけ異常な状態か分かってきたようね」

 

 

 藍は、記憶や思い出が心の中のどこにあるのか分からなくなるということ以外にも、別の問題が発生することに気付き、さらなる指摘をした。

 藍の認識は、酷く正しい。記憶を置いておいた場所が分かっていても、自分のいる位置よりも遥か遠くにあったのでは取りに行くのに時間がかかってしまう。思い出さなければならない記憶が、地球の真裏にあった場合、果たしてすぐに思い出すことができるだろうか。

 答えは―――当然否である。思いだすのに数時間かかるようなことがあっては、それは忘れているのと大差がない。

 紫は、藍の言動から完全に心の中について理解したと踏み、話しを前に進める。

 

 

「心の中は、大きすぎてもダメ、小さすぎてもダメなの。小さすぎても、物を置くスペースがなくなるわ。だから心の中は、ちょうどいい大きさというものがあるの」

 

 

 部屋の中は大きすぎてもダメだが、小さすぎるのもダメである。

 小さすぎた場合、置けるものが少なくなる、大きなものが置けなくなる、すぐに何も入れ込めなくなる。

 

 

「心の大きさには個人差がある。もちろん私と藍では、心の大きさは違うわ」

 

 

 心の大きさには、個人差が存在する。どこに置いておいたのかを覚えていられるかは、記憶力に差があるように個人差があるのだ。見つけに行くスピードが速い人もいれば、置いてある場所を細かく記憶できる人もいる。

 それらの個人差は、心の大きさや整理整頓の具合に反映されている。

 

 

「それでも、個人差はあくまで個人差よ。絶対的な差があるわけじゃないわ。ある程度の物が置けて、どれもが手の届く位置にあって、すぐに取り出しやすいような部屋の形状をしている。心の中にある感情、想いを、取り出しやすい環境であるはずなのよ」

 

「でも、和友の心の中はとても広大な世界をしていました」

 

 

 藍は、1年近く少年の心の中にいて、少年の世界の中をずっと歩きまわった。どこまでも変わりゆく世界の中でずっと変わらずに歩き続けた。それこそ、無限に続いているような少年の心の中を歩き続けた。

 それでも、一向に終わりが見えることはなく、壁がある様子など一切見受けられなかった。

 

 

「それこそ、無限に続いているような錯覚を覚えるほどに……終わりが見えないほどに。感情も、想いも、何一つ見えてきませんでした」

 

「そう、あの子の世界は広がりを見せていた。正直あの子が、どうしてこれまで生きてこられたのか不思議でたまらないわ」

 

 

 少年の心の世界の広がりがどれほどのものであるかは、心の中で1年間もの間歩き回った藍自身が一番よく知っている。嫌というほどに理解していた。

 藍が少年の心の中身の異常性について把握したところで、話の中身は核心である少年の心の中の異常性に移っていく。それは、紫が話したかった少年の話である。

 

 

「あの子は、あれ程の異常性を抱えた状態で、平然と生きている。性格が異常に捻じ曲がっているわけでもないし、生活に溶け込めていないわけじゃない。現に、中学生として生活しているあの子を見たときはとても普通の子に見えたわ」

 

 

 普通を知っている紫にとって、少年の心の中は異常そのものだった。紫は、あんな無秩序世界、地球ほどの大きな心を保持して、これまで普通に生きてきている現実を信じることができなかった。

 しかし、少年が生きてきた事実は覆らない。少年は中学生として生きており、異常を保持しながらも―――普通に生きてきたのである。

 

 

「本当に凄まじいわ……どうやったらあんな子が出来上がるのかしらね。あれほどの異常を抱えて、少しも外に漏らさない。内にでかい物を抱えた状態で、外を綺麗にまとめている。矯正でもされていたのかしら……」

 

 

 紫は、少年の心の中を覗いて異常性を感じ取るだけではなく、また別の感想も抱えていた。

 あれほどまで広がっている異常性を外に漏らさないようにするのは、並大抵のことではない。

 だが、それを少年は見事に抑えこんで、内に在る異常を見事に隠し通している。

 紫は、少年の見事な隠蔽がこれまで普通の人間として生きてこられた理由なのだろうと考えていた。

 

 

「けれど、いくら上手く隠したところで話をしてみるとおかしい所が目に付くの。その在り方に目がいく」

 

 

 改めて言うが、普通に生きてきた事実が少年を普通と証明する証拠にはなりえない。紫は、普通に生きてきた少年を知っていても、それを普通と認めることは決してなかった。

 現に、今日少年と話をしていて少年の言動には異常なところがあった。少年と話した後である今ならば、少年の心に納得できる部分があった。その言動と心の中の相関性には特に矛盾もない。

 少年の異常性は、もはや見過ごせるレベルではなくなっている。心の中の世界で手を繋いでいた所から察するに、藍と少年は仲良くなったようであるが現実は受け入れなければならない。

 紫は、はっきりと少年の異常性を突き付ける言葉を藍へと告げた。

 

 

「彼は、大きな異常を抱えているわ」

 

「確かに、和友は異常でしょう……」

 

 

 藍は、表情を暗くして呟くように声を発し、少年が異常であるという言葉をゆっくりと染み込ませるように受け入れた。そして、藍紫の言葉を受け入れながらも凛とした表情でまっすぐ紫の瞳を見つめ、決意を持った顔で紫に向けて口を開いた。

 

 

「それでも、優しい―――いい子です」

 

 

 

 藍は、受け入れるばかりではなく紫の言葉に凛とした声で反論する。しっかりと目を開き、現実を目の当たりにしても視線を逸らそうともせず、紫にぶつかる。少年の異常を受け入れながらも、それを庇い立てするように擁護した。

 紫は、初めて真剣な表情で意見した藍に目を見張った。




全ての疑問が消えるまでは、オリジナルが続きます。

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