ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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おかえり、ただいま

「あの時は、いろいろあってだな……」

 

 

 藍は、標識を壊した時のことを振り返り、少年の心の中の世界で過ごした1年間を思い返す。

 1年間の間に様々なことがあった、嫌なことばかりだった、辛いことしかなかった。

 藍は、積み重なった負の感情が爆発して周りにあった標識を破壊した。何度も何度も壊した、原型が分からないぐらいに無残に破壊した。

 藍は、申し訳なさそうに少年に謝罪する。

 

 

「ちょっと自暴自棄になって周りの物に当たりたくなってな。標識以外の物は動きまわっているから、必然的に標識を……」

 

「はぁ…………」

 

 

 少年は、藍の言い訳を聞いた後に大きな溜め息を吐いた。イライラや不満、不安によって物に当たってしまうことはよくあることである。

 それに、少年の心の中の標識を破壊したということからは、藍の溜め込んだ不安や怒りがとても大きかったということが予測される。

 力を制限される少年の世界で物を壊すということは、酷く重労働である。標識は、外の世界と同じように金属製であり人の力で簡単に壊せるものではない。つまり藍は、何度も何度も破壊しようと攻撃を繰り返したということになる。

 藍は、少年の心の中でよっぽど鬱憤を溜めていたのだろう。

 

 

「まぁ、壊した物は仕方がないか。壊れた物は直らないんだから」

 

 

 少年は、藍を引き付けていた右手の力抜いて、少し距離を取る。

 藍は、少年の表情が戻ったことでほっと安心した表情になった。

 

 

「じゃあ、とりあえず新しいものを立てるのが一番いいのかな。標識を立てるのは時間がかかるから面倒なんだけど……」

 

「標識を立てるのには時間がかかるのか?」

 

「そうだね。まぁ……時間がかかるって言っても3~4時間ぐらいなんだけどね」

 

「3,4時間か。二つだから6~8時間ぐらいになるな。一応、1日あれば元には戻るのだな」

 

「簡単そうに言うけど、標識を立てるのは結構面倒なんだからね」

 

 

 少年が言うには、標識を立てるのは時間がかかることのようである。

 藍は、標識を立てるためにかかる時間が思ったよりも少ないことに安堵した。それこそ、二度と立てることができないと思っていたものと比較すれば、雲泥の差である。取り返しが利く、取り戻すことができるという事実は、藍の不安を大きく取り除いた。

 

 

「その壊した標識に書いてあった言葉が分からないと立てようもないし……壊した標識の言葉を覚えている?」

 

「…………」

 

 

 少年が標識を立てるための情報を得るために藍へと問いかけると、藍は少年の質問に少しばかり悩むそぶりを見せた。

 藍は、過去に起こしたことを思い出そうと記憶の引き出しを引いていく。

 しかし、何処を探しても壊した標識に書かれていた文字についての情報は見つからなかった。

 

 

「もしかして、分からないの?」

 

「…………」

 

 

 少年は、考え込む藍を不安そうに見つめる。

 藍と少年との間に静寂が流れた。

 藍は、必死に思い出そうと努力する。

 けれども、忘れてしまっている記憶を取り戻すことはできず、何も思いつかなかった。

 

 

「すまない……思い出せそうにない」

 

 

 藍は、少年との間に停滞する沈黙に耐えきれずに少年の質問に対する答えを返した。

 

 

「壊したのは半年以上前だからな……壊したこともさっき、話していて思い出したんだ」

 

「あー、もういいよ。どっちでもいいや」

 

 

 藍が申し訳なさそうにしながら覚えていない理由を少年に伝えると、少年は覚えていないという藍に向けて仕方ないなとぶっきらぼうにつぶやいた。

 半年以上前に壊した標識のことなど、忘れてしまっても仕方がない。覚えている方がおかしいと言えるレベルである。

 それに、藍が標識のことを覚えていられない理由は別にもある。

 標識は、立っている時はそこにはあるが、壊れてしまえばそこら辺にある有象無象の曖昧な物と同じ扱いになる。人の形をとっているものが流れるように、建物が動くように、少年の心の中の物質は世界に流される。

 藍が壊した標識は、それら有象無象と同じように壊れた瞬間に目の前から消えたはずなのである。残っているものであるならば、度々見ているうちに覚えるという事もあるだろうが、消えた標識のことを思い出せと言っても無理があった。

 少年は、藍が標識に書いてある言葉を知らない旨を聞いて藍に対して怒るでもなく、追求するでもなくすぐさま諦めた。壊れたことを気にしてもどうにもならないという現実と、特に変わっている様子のない現在に気にするのを止めた。

 

 

「こうやって俺が平常に生きていられるんならそこまで大事なことでもないんだろ。標識ならきっと大丈夫だ、きっと大丈夫なはず、きっと大丈夫なはず」

 

「そ、そこまでのものなのか? 標識が壊れてしまったら、死んでしまったりするものなのか?」

 

 

 藍は、標識について現在位置を特定し、移動するための物という認識しか持っておらず、他にも標識は山ほどあるのだから2つぐらい無くなっても問題が無いだろうと、軽い気持ちでいた。

 しかし、少年の反応を見るとそれ以上の何かがあるということが伺える。

 藍は、大丈夫という言葉を連呼する少年に不安を増長させる。標識が壊れるということが、予想以上の影響を及ぼすのだと嫌がおうにも感じ取ってしまう。明らかに自分を安心させるために大丈夫だという言葉を呟いている少年の姿を見て気が気ではなかった。

 

 

「ああ、やばいのだったら相当やばいね。それこそ、一瞬にして人生終わるぐらいにやばい。あんまり変なのじゃないといいけど」

 

「ほ、本当に?」

 

「いや、さすがに一瞬では終わらないけどさ。それでも、変なのだったら随分と苦しいことになると思う」

 

 

 少年は、追い打ちをかけるように藍の不安を増大させる言葉を吐き出した。

 人生が終わる。それは―――つまり死ぬということである。

 藍は、衝撃の事実にパニックに陥りそうになりながら責任を感じて顔を青くする。

 少年は、藍の様子を見て言いすぎたかなと言葉を選び直し、自分自身のことなのにどこまでも他人事のように言葉を使って現状を評価した。

 

 

「あ、でもどうだろう? 変なのだったら結構すぐに分かるし、むしろそっちの方がいいのかもしれないな」

 

「例えばどんなことが書かれているんだ?」

 

「標識の役割は区別だから、間違えないように区別する内容が書かれている」

 

「標識は、区別?」

 

「そう、区別」

 

 

 少年の心の中の世界に立っている標識の役割は―――区別。

 藍は、頭の中に刻み込み、決して忘れないように少年の言葉を刻み込む。

 

 

「これはキャベツでこれはレタスですよみたいな、そんなどうでもいいことだったら別に支障はないんだけど……これは黒でこれが灰色でこれが白ですよ、なんていうことが標識に書いてあると、俺は白黒が区別できなくなる」

 

 

 少年は、藍の要望に応えるように例えを交えて説明する。

 藍は、少年の説明に移動するための便利道具という軽かった標識への認識を改めた。

 

  標識の役割は―――区別である。

 

 藍は、少年の言葉を咀嚼して飲み込む。

 少年の言葉が確かだというのであれば、区別してきたものは無数にあるはずである。キャベツとレタス、果てまでは色までも区別する必要があるのならば、少年の無限に広がる世界に置かれている標識の本数は、凄まじいものがあるだろう。それこそ百本、千本でといった桁ではないのは確かである。きっと数万という単位で標識が立てられているはずだ。

 藍は、少年の出した具体例の意味をより正確に把握しようと質問を重ねた。

 

 

「それは、白い部屋にいても、白い部屋にいるのか黒い部屋にいるのか判別がつかなくなるということか?」

 

「その言葉だと、意味が二つに取れるからちゃんと区別しよう。言葉の雰囲気から察するに、それは白い部屋にいても、白い部屋と判断できずに、部屋の中が黒に見えたり、灰色に見えたりしてしまうという意味で言っているんだよね?」

 

「そのとおりだ。白い部屋にいた場合でも脳が白か黒か判別できないから、黒と判断してしまうことがあり、結果として真っ黒の視界が広がってしまうことがある、という意味で言っている」

 

 

 藍は、少年の区別ができないという意味を脳が誤変換をするという意味で取っていた。

 より分かりやすく藍の言っている意味を説明すると白と黒の区別のできない少年が白い部屋にいる。少年は白と黒が判別できないのだから、白い部屋にいても全面が黒く見えてしまうようなことがあるのではないか。もしくは全面灰色、白色に見えるということを言っているのである。入ってきた情報に脳の曖昧なフィルターがかかり、別の情報になってしまうのではないかと言っているのである。

 

 

「それは違うよ。そこまで深刻な話じゃない。ただ単に、そこが白なのか黒なのか分からなくなるんだ」

 

 

 少年は、藍の間違った認識を改めさせる。

 

 

「簡単に例えると、白い部屋にいれば、もちろん白が見えている。けれども、そこは何色の部屋ですかと問われたときに白という判断ができなくなるということなんだ。分かった?」

 

「ああ、なるほど。理解した」

 

 

 藍は、少年の言葉で標識が行っている区別というのがどういうものなのか理解した。

 少年は、判断ができなくなるというだけで誤変換が起こるわけではないのだ。AがBになったりはしない。AはあくまでAであるが、Bかどうかの区別がつかないだけである。

 

 

「本当に、すまない」

 

「もう、謝らないでよ。謝ったところで何も変わらないんだから」

 

 

 藍が想像していたものに比べれば、少年の区別の具合は良好ではあるが、壊してしまったことは取り返しがつかないことである。

 藍は、申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。

 少年は、頭を下げる藍に対して気にするなと気を遣う。藍に謝られても、壊れてしまったという現実は何も変わらない。謝られている少年の気分は決して良くないし、謝っている藍も気分が落ち込む、何一ついいことはなかった。

 

 

「失った内容が分からないと何とも言えないよ。今はとりあえず、外に向かおう? 失ったものを気にしても何も変わらないんだし……多分、大丈夫だよ」

 

「和友はそう言うが、大事なものなのだろう? そんな簡単でいいのか?」

 

 

 少年は藍の過失を許したが、許された側の藍は少年の言葉を素直に受け止められなかった。

 自分が行った行動は決して許されることではない。藍自身が許されないことをやってしまったと自覚している。先程話していた、心の中を荒されたらどうする? という仮定の話だった状況が今実際に起こっているのである。

 

 

「それに、和友が私を許してくれたとしても私が私自身を許せないのだ……」

 

 

 藍は、相手の大事なものを壊してしまったという罪の意識に囚われていた。被害者である少年が気にしなくても、加害者である藍自身が気になって仕方がないのである。

 自分が起こした身勝手な行動によって少年が困った状況になるのを考えると気が気ではなかった。助けてもらっている側の藍が、少年に対して恩を仇で返すようなことをしていることが心苦しかった。

 

 

「じゃあさ、失ったものはお前がカバーしてくれよ」

 

「えっ?」

 

 

 藍は、少年の唐突な言葉に顔を上げる。

 

 

「失ったものが何なのか分からないけどさ。それが分かったらお前がそれを俺に教えてくれ。俺だけじゃ、気付かないこともあるだろうし……」

 

 

 少年は、自分が失った標識を藍によって埋めようとしていた。標識を失ったことによる区別を藍に任せようとしていた。

 

 

「もしもそれが生きていくために必要な区別だったら、その場で教えてほしいんだ。俺は、その場限りなら分かるから、その場だけなら言われれば区別がつくから。その場面が来た時に逐一教えて欲しい」

 

「分かった。和友が分からなくなったら私が教える。和友が、区別がつかなくなったら私が教えるよ」

 

「お願いな」

 

「ああ! 任せておけ!」

 

 

 少年は、罪の意識にとらわれている藍に贖罪のチャンスを与え、空いた穴を埋めて欲しいと藍にお願いをした。

 

 

「さて、ここからどうしようかな……」

 

 

 少年は、藍に対して出来る限りのフォローをして、次の事を考え始めた。壊れてしまった標識の事を考えるのは、後回しである。まずは、外の出るために紫を探さなければならない、ここから出られなければ区別も分別もありはしないのだ。

 少年は、気持ちを切り替えて前を見据える。

 

 

「私が、和友が失ったものを埋めてあげればいいのだな。そうだ、何のことはない。補ってやればいいのだ」

 

 

 藍は、少年を支えることを決心したところで標識を壊したことについて深く考えるのを止めた。

 少年が言うように、壊れた物はどうしようもない。何を言おうと直らない物は、直らないのである。

 それに、藍は少年から標識を壊した分をフォローしてくれと言われ、犯した罪について許してもらった気になっていた。今後恩返しすることで、壊した分を返せばいいのだと楽観的になっていた。

 

 

「まずは、和友の失ったものを調べることからだな……」

 

 

 藍は、少年が言った標識を壊した分を補完することについて考えを進める。

 藍がしなければならない仕事は、少年が判断できないことを代わりに自分が判断する、少年の違和感を見つけて、何が失われたのかを探るというものである。

 もしも、取り返しのつかないような、元に戻せないことであれば、それを少年が死ぬまで埋めてあげればいい。長寿の藍ならば、人間である少年の人生を見守ることは難しくもなんともない。

 しかし、いざ少年が判断できない場合に教えるという状況を想定すると疑問が生まれてくる。

 藍は、内から出てきた疑問をそのまま口にした。

 

 

「ちょっと気になったんだが、その場限りなら区別がつくのか?」

 

「その場だけならね。ただ、俺は区別する能力が低すぎて、次回同じ状況に陥った時には区別できなくなってしまう。だから、そのたびに教えて欲しいんだよ」

 

 

 少年は、区別する能力が非常に低い。標識で区別がなされていなければ、何であるのか判別ができない、境界が曖昧になって分からなくなる。

 だけどそれは、周りの助けによってどうにでもなる、その場で教えてもらえれば判断ができる。知ることができる。

 けれども、誰かに助けてもらうという方法には問題が一つある。そう、大前提として信頼関係が必要なのである。

 この方法を実践する場合には―――前提条件として教えてくれている人を信用しなければならないのである。ここで言うと、藍の言うことを全て鵜呑みにする必要がある。

 少年の脳では、判断することができないのだから、藍に全面的に頼るしかなかった。

 

 

「ただ、お前が嘘をつかなければという条件が入るけどね。俺は、残念ながら嘘か真実かどうかの判断はできないから」

 

「私は、嘘なんてつかないぞ。和友がそこまで信頼してくれているのに、それに応えないわけにはいかないからな」

 

「ありがとう」

 

「お礼なんていらないさ。私が悪かったのだから、私が責任を果たすのは当然だからな」

 

 

 少年は、藍の嘘をつかないという言葉に嬉しそうにお礼を言う。藍は、お礼を言うのは私の方だと複雑な気持ちを抱いた。悪いことをしたのは、あくまで藍なのである。

 藍は、そんな複雑な感情を抱えながら少年と話していてあることに感づいた。それは、先程話していた内容であり、藍が頼んだ時に少年が了承を渋った話である。

 

 

「もしかしてなのだが、名前が呼べない理由もそこにあったりするのか?」

 

「名前を呼ぶんならずっと呼べる方がいいでしょ? その場限りだけ名前を呼ぶなんて、なんか変じゃないか」

 

 

 少年が名前を呼べない理由は、区別する能力が低いことが原因だった。

 少年は名前を教えられても、人間と人間の区別がつかないためにすぐに呼べなくなる。名前を呼ぶには、毎回相手から名前を教えてもらわなければならないのである。

 少年は、会うたびに名前を教えてもらうような気持ちの悪いことをしたくなかった。だからこそ、藍の名前を呼んでほしいというお願いを断り、いずれ呼ぶという約束をしたのである。

 

 

「本当なら今すぐにでも呼んであげるべきだとは思うんだけど、きっとそれはお前の意図しているところじゃないと思うから」

 

「そうか、私の気持ちをくみ取ってくれたのだな」

 

 

 藍は、少年が名前を呼ぶことを拒否した理由を理解した。

 少年の言葉には、少年のこだわりというのだろうか、藍に対する優しさが垣間見えている。少年の言葉を読み解くと、未来まで見据えていることが理解できた。

 少年は、藍のことをずっと名前で呼ぶと言ってくれているのである。その場限りの話ではなく、未来に続く話と思ってくれているのだ。

 

 

「和友、ありがとうな」

 

「別にお礼なんていらないよ。俺がそうしたいと思っているだけだから。ただの俺のわがままだ」

 

 

 藍は少年の気持ちに応えるように頷き、少年は藍と同じように頷き返し、満足したような表情を作ると正面を見据えた。藍も少年の意識が別に向くのを確認すると、少年と同じように前を見つめた。

 

 

「さて、どのルートで行けばいいのか……」

 

 

 少年と藍は、共通の目的を持っている。二人は、紫のもとへ辿り着かなければならないという目的を持っているのである。

 少年は、暫くの間押し黙り思考する。

 

 

「無限にある道筋を考えても仕方がない、とりあえず進もう。進んでいる間にルートはできあがる」

 

 

 少年は、悩んだ末に深く考えるのを止めて足を前に進めることを決めた。

 少年と藍は再び標識を使って移動を始める。

 藍は、少年の手を握りながら一瞬のうちに移り変わる標識を見つめる。

 目の前には、次々と標識が移り変わっていくのが確認できる。周りの景色は変わっているようには見えないが、標識に書いてある文字だけは変化しているのが読み取れた。

 暫くすると、標識があるところで変化しなくなる。どうやら移動が終わったようである。

 藍がそっと標識から少年へと視線を移すと、少年は進む方角を指し示していた。

 

 

「ここから先に700メートルだ。そこにあいつがいる。さぁ、行くよ」

 

「ああ、やっと出られるのか。長かったなぁ……」

 

 

 二人は、紫のいるところまで歩き始める。

 少年は、標識を使わなくなったことで藍と握っている手を離そうと力を抜いた。藍は、力のなくなった手に不思議そうな表情を浮かべた。

 

 

「どうした? 疲れたのか?」

 

「え? そんなことはないよ」

 

「だったらどうして手を離そうとしたんだ?」

 

 

 藍は、少年の手をしっかりと握ったまま少年に問いかけた。

 藍は、手を離すという概念を失っているようで、もとから離すという選択肢がないようで、力を緩めた少年に対して疑問一色に染まっていた。

 

 

「ごめんなさい、意識が外に向いちゃって力を抜いちゃったみたいだ」

 

「そうか、体調が悪いとかではなかったのだな」

 

「俺なら大丈夫さ。それに、もうすぐ到着だよ。あともう少しで出られる、行くよ」

 

「ああ、行こう」

 

 

 少年は再び藍の手を握る力を入れ、手を繋いだまま前に進む。視界の先には、何者かが居るのが確認できた。

 藍は、きっとそれが紫様なのだと思った。藍の予測を証明するように、前に足を進めると紫の姿がよりはっきりと見えてくる、大きくなってくる。

 

 

「さすがにここまで近づくとあれが紫様だと完全に分かるな」

 

「よかった。間違えていないみたいだね」

 

 

 紫は、上半身だけを隙間から出して少年の心の中の世界に半分だけ顔を出していた。ちょうど上半身が出る程度に身体を出している。

 二人は、半分だけ身体を出した紫に向かって進んでいった。

 

 

 紫は、お互いの顔が分かる位置まで来ると、二人に分かるように手を挙げて左右に振り始める。

 紫が手を振るのを見た少年と藍は、軽く手を振り返した。

 

 

「おかえりなさい、そこそこ早かったわね」

 

「そこそこ? 来てから何分経ったの?」

 

「ここに入って、おおよそ4分といったところね。この広いなかでよくもまぁこんなに早く見つけられるものだわ。自分の心の中だからってことなのかしら」

 

 

 少年がそこそこという曖昧な言葉を避けるように具体的な数字を要求すると、紫からは驚きの回答が返ってきた。紫からの回答は、そこそこの―――4分という答えだった。

 少年が紫の立場であれば、1時間以上かかった藍探しにそこそこという言葉は使わない。

 

 

「ふーん、あんたは4分なんだな。なるほど、やっぱり個人差があるわけだ。そして、俺と出会えば俺の時間に同期するってことか」

 

 

 少年は、紫からの回答を聞いて確信した。

 やはり、少年の心の中では人によって時間の進み方が違う。少年は1時間もかからないぐらい、藍は1年間を超える時間を過ごし、紫は4分ほどであるようである。

 少年の1時間を基準に考えると紫は15倍遅く時間が流れており、藍は8750倍速く時間が流れているということになる。

 少年は、自分の心の中の世界について少しばかりの理解をした。体感時間速度が人によって大きく違い、個人差というにはレベルが違うような気がするが、そんな理不尽なほどの個体差が出る世界のようである。

 

 

「まぁ、そんなことどうでもいいか」

 

 

 藍は、一人で納得する少年の隣から一歩踏み出し、紫に詰め寄ると声を荒げた。

 

 

「紫様、今度という今度は許しませんよ!! 私、死ぬかと思ったんですから! このまま孤独死するかと思いました!!」

 

「えっ、孤独死? そこまでの状況になったの?」

 

「なりましたよっ!!」

 

 

 藍は、涙目になりながらまくしたてるように紫に詰め寄った。

 紫は、藍の言葉が大げさに聞こえて冗談交じりに言葉を返したが、藍は真面目に対応するつもりのない紫に怒りをため込む。

 

 

「そんな、藍は大げさなんだから……」

 

 

 紫は、藍がここで1年もの時間を過ごしたことなど知らない。あくまで4分間しかこの世界に滞在していない紫には、決して藍の気持ちを理解することはできなかった。

 少年は、藍が何故これほどに怒っているのか状況を説明するために紫に藍の状態について伝えた。

 

 

「こいつは、ここで1年近く過ごしたんだとさ。こいつの場合は、時間がものすごく引き伸ばされていたらしい。ちなみに俺は、一時間ぐらいかな」

 

「えっ、そんなに?」

 

 

 紫は、自分と藍が感じている時間の流れの速度の違いに驚いた。

 紫は、4分間しか少年の心の中にいないが、ここで1年もの時間を過ごすことがどれほど苦しいことなのか想像することは容易にできる。

 紫は、1年間という時間の長さを聞いてさすがに悪いことをしたと罪悪感に襲われた。そんなつもりはなかったと言えばそれまでだが、藍の気持ちを考えれば謝らなければならないという良心の呵責に襲われた。

 

 

「そ、それは悪いことをしたわね」

 

 

 紫は、藍に向けて軽く謝罪する。

 紫は、藍に対して謝ったことがほとんどなかった。そのためか、今度は謝った後に残る心のもやもやが容赦なく気分を悪くしてきた。

 紫は、気分の悪くなった気持ちを吐き出すように藍に対してちょっかいをかける。

 

 

「でもこの子とは仲よくなったみたいじゃない。仲よく手を繋いじゃってさ」

 

「こ、これはそんなんじゃないですよ」

 

 

 藍は、動揺する心と同期するように少年と繋いでいる左手をぶんぶんと動かす。

 けれども、少年と藍を繋いでいる手は開かれることなく閉じられたままだった。

 

 

「あんまりぶんぶん振らないでよ」

 

「す、すまない!」

 

「ふふふ、やっぱり仲良くなっているじゃない」

 

 

 少年は、苦しそうに揺さぶられている。標識での移動が終わった今となっては、手を繋いでいることに意味はない。

 しかし、藍は決して少年と結んだ手を振りほどこうとはせず、少年が握る手に入れた力を緩めても決して離そうとはしなかった。それは未だに不安を抱えているから心細いのか、単に離したくないだけなのか、その理由は分からない。

 分からないけど、想像することはできる。

 紫は、そんな藍の様子がおかしくて仕方がなかった。藍の腕を振る様子は、むしろ繋いでいる状態を強調しているように見えるのである。

 

 

「早く戻ろう? ここに長くいる意味はないだろ」

 

「それもそうね。さぁ、どうぞ」

 

 

 少年は、藍の手を引いて紫が上半身を出しているスキマに向かって歩く。

 藍は、少年に引き連れられてスキマの中に向かう。

 紫は、自分の体と少年の体がすれ違う瞬間、一言呟いた。

 

 

「おかえりなさい」

 

 

 少年と藍は、紫の迎え入れる言葉に笑みを作り、一言言葉を返した。

 

 

「「ただいま」」

 

 

 少年は、藍と紫と共に元いた炬燵のある居間へと戻って行った。

 


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