ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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心の中から帰還します。


標識の存在、思い出した罪

 少年と藍の二人は、約400メートルの距離を歩いて標識まで辿り着いた。

 

 

 二人の目の前には、先程少年が藍の所までやってきた時に使った標識がある。

 標識の前にやってきた少年は、藍の手によって塞がっている右手を離すことなく、空いている左手で標識に触れた。

 

 

「じゃあ、標識まで来たし、あいつの所まで移動するかな」

 

「あいつ?」

 

 

 藍は、少年が言っているあいつという人物が一瞬誰のことなのか分からず疑問を口にした。

 少年は、困った表情で藍を見つめる。どうやら、あいつと言っている人物の名前が頭から出てこないようで頭を悩ませているようである。

 

 

「…………あいつだよ」

 

「ああ、紫様のことか」

 

「そう、そいつのところ」

 

 

 少年は、藍の言葉に困った表情を一転させて頷く。幻想郷で少年が知っている名前など、藍を除けば一人しかいない。少年の反応を見るにあいつというのは、紫のことで間違いなかったようである。

 

 

「多分、向こうにいると思う」

 

「今和友が指さしている方向に紫様がいらっしゃる、ということでいいんだよな?」

 

「そうだね。はっきりとしたことは言えないけど」

 

 

 少年は一度標識から左手を離し、ある決まった方角を指差している。

 藍は、少年の指差した方角に視線を向けた。視線の先には、何一つ何かがあるようには見えない。あるのは、動き続ける人と建物、境界線だけである。

 だが、少年はどこかを確実に指さしている。

 どこかと表現するしかないのは、この世界に方角が存在しないためである。

 この世界には、東西南北を示すものは何一つないのだ。右もなければ左もない、前後もない。太陽は昇らないし、磁場があるわけでもない。ただ、上下はある、重力もある。

 ここは、少年の心の中の世界なのである。現実のものと似かよっている部分があるといっても、地球とは全く違う法則で回っている世界だった。

 

 

「見えないな……」

 

 

 少年は、揺らいでいる世界の中で揺るがない方角を指差している。どこか確信を持って指さしている。

 藍は、少年の指差している方角により注意を払ったが、人影どころか何かがある様子すらも確認することができなかった。

 

 

「俺にだって見えているわけじゃないよ」

 

「ならばどうして分かるのだ? 私には、どこに何があるとかさっぱりなのだが……」

 

「ここ、一応俺の心の中の世界だからさ。違和感ぐらいはなんとか分かるんだ。遠すぎて分かりにくいんだけど、なんとか感じ取れる」

 

 

 少年は、この世界が自分の心の中だとはっきりと答えた。

 藍は、少年の言葉に耳を疑う。この無秩序な世界が少年の心の中の世界だという事を初めて聞いて、固まってしまった。

 藍は、この心を折られそうになった世界が少年の心の中であるということを信じられなかった。少年の言葉に衝撃を受け、この意味不明な、無秩序な世界が少年の心の中だという事実に思考を凍結させられた。

 少年は、固まる藍の思考を置き去りにして話を進める。

 

 

「そこに何があるか、それがどんなものなのか、そういった細かいところまでは分からないけどね」

 

「ここが、和友の心の中……」

 

 

 藍は、これまで少年に話してきた自分の言動を思い出す。この意味不明で無秩序な世界が少年の心の中だというのであれば、先程までの自分の言動は少年の心の中を色々と罵倒していたことになる。

 藍は、知らず知らずのうちに少年を傷つけていたのかもしれないと、慌てて言葉を取り繕うように少年の心の中について擁護し始めた。

 

 

「そ、その、和友の心の中は随分と個性的な世界だな」

 

「個性的かぁ……」

 

「人の心の中は、こんなに秩序の無い世界なのか」

 

「んーどうだろうね。でも、間違いなく言えるのは―――俺の心は、こうなっているということだけだよ」

 

 

 少年は、自分の心の中の様子に対して悩む様子を見せる。

 藍は、自分が口にした暴言のような言葉に少年が傷ついているのか測りかねていた。これまで藍が吐き出してきた暴言の数々は、今更撤回することなどできない。無自覚に口にしていた言葉が本心であることは、誰の目から見ても明らかなのだ。少年もそう感じていてもおかしくなかった。

 

 

「本当に、なんでなんだろう?」

 

「和友、これまで私が言っていたことは気にする必要はないぞ? 何も聞かなかったことにしてくれればいいからな」

 

 

 藍は、少年からの印象を気にして優しい言葉を使う。

 藍は、一般的な人間の心の中というのが目の前に広がる無秩序な世界であると、普通の人間の心の中も今いる世界と同じように無秩序な世界が広がっているものだと、自身に都合のいいように、自分が望むように勝手に解釈した。

 

 

「ふふっ、そんなに気を遣わなくてもいいよ。それこそ、この世界のことを個性的だなんて無理に悪く言わずに表現しなくても。俺は、俺自身がこの世界をおかしいと思っているからさ」

 

 

 少年は、無理矢理言いくるめているような藍の発言に苦笑し、どこか悲しそうな表情で自分の心の中をおかしいと表現した。

 

 

「それに他の人の心の中がどうなっているのかについては、どうなんだろうね。俺は、俺以外の心の中を覗いたことがないから……でも、俺の中は普通の人とは違うと思う。あいつには言ったけどさ、みんな俺のような心の中をしていたら気持ちが悪いよ」

 

 

 少年は、自信を現すようにはっきりと告げる、自分の心の中の気持ち悪さについて何一つ気にすることなく、悪口をぶつける。自分の心のことなのに―――悪口を言う。

 

 

「もし、そんな奴がいるんだとしたら……会った瞬間に分かるはずだから」

 

 

 少年は、普通の人間の心の中を見たことが無くても他の人の心の中が自分の心の中と異なっているという確信があった、絶対に違うという自信があった。

 少年は、ある悩みを抱えている。心の中の様子がその少年の悩みを具現している。広すぎる心、無秩序な心が少年の悩みを表現していた。

 もしも、自分の心の中と普通の人の心の中が同様の構造をしているのならば、きっと普通の人も少年と同じような悩みを抱えているに違いなかった。

 しかし、少年は自分と同じ悩みを持っている人間を見たことがなかった。それに、同じ悩みを抱えている人間がいるとも思っていなかった。

 なぜならば、いたとしたらそれは―――会った瞬間気付くはずだから。

 出会った瞬間に―――分かるはずだから。

 きっと、そうなるはずだから。

 

 

「和友……」

 

「ああ、これも気にしないで。俺は別に気にしていないから」

 

 

 藍は、自虐する少年をどこか悲しい目で見つめていた。傷心しているように見える少年に向けて慰めや励ましの言葉を送ろうとしたが、いくら思考を巡らせても、考えを深めても、言葉は見つかず、のどに詰まって言葉が出てこなかった。

 

 

(きっと何かが和友の心を無秩序に変えたのだ……)

 

 

 少年は心の中の様子を気にしないでと言うが、藍は気になって仕方がなかった。特に原因もなく、心の中が無秩序な膨大な世界になるとは考えにくい。

 藍は、少年が自分から望んでこんな世界に成ったのではない、きっと何か事情があるのだと思った。

 

 

(私がこれから和友の心を変えていけるような何かができれば……この世界も変わるのだろうか?)

 

 

 藍は少年にもらった恩を返すために、いずれその原因を取り除くことができればと、小さな目標を自身の中に作る。

 

 

「こう、実際に見てしまうと実感しちゃうなぁ。変わらない、変わっていない。何も、変わることができない」

 

 

 少年は、藍の視線を全く気にせず、軽く上を向いてぼそぼそと呟いている。空さえも歪んでいる世界で空を仰いで感傷に浸っている。

 

 

「そんな―――変わらないものはどうでもいいんだ。今やるべきことは、別にあるんだもんね」

 

 

 少年は、言葉通り心の底から自分の心に関して深く気にしていなかった。少年にとって大事なのは、どうにもならない過去ではなく、どうにかなる未来なのである。

 少年は、空を見上げながらこれから向かうべき紫のいる目的地にたどり着くための道筋を立てていた。

 

 

「あっ、そっか。そういうことも考えられるのか、どうしよう……」

 

 

 少年は、唐突に標識にずっと触れていた左手を下ろし、複雑な表情で何かを考えているしぐさをする。

 藍は、少年の様子が気になり、質問を投げかけた。

 

 

「どうした? 何かあったか?」

 

「話していて思ったんだけど、ここで好き放題されたらどうしようもなくなるまで俺は分からないかもしれないね。何か対策がいるかもしれない……」

 

 

 少年は、藍からの心の中についての質問であることに気が付き、頭を悩ませた。自身の心の特徴である広大な世界の問題についての課題を発見したのである。

 もしも、心の中に入ってくる人物がいた場合にこれだけ広大な場所だと現場まで行くのに時間がかかるのはもちろんのこと、何かをされているのかどうかにすら気付かない可能性がある。

 少年は、知らず知らずのうちに心の中を荒らされる可能性を危惧していた。

 

 

「そのような対策をする必要はないと思うぞ?」

 

 

 藍は、少年の心配が徒労であり、酷く無駄のように思えた。少年の心配事の内容は、心の中に入ることができる人物が往々に存在するときに成立するものだからである。

 

 

「心の中に入るなんて悪趣味なことするのは紫様をもって他にはいないだろうからな」

 

「そっか、なら大丈夫かな……?」

 

「うん、うん。大丈夫だ、心配いらないさ」

 

 

 少年の心配は、はっきり言って杞憂である。心の中に入ることができる人物は、主に紫以外に存在しないのだから、心配するだけ無駄なのである。

 少年が藍に言われて険しい表情を少しだけ緩ませると、藍は少年の反応に満足するように2度頷いた。自分の意見を受け入れ、納得してくれたのだと満たされたような気持ちになった。

 しかし、少年は、時を巻き戻したかのように再び表情を硬くして小さく呟き、心配する。

 

 

「でも、ちょっと心配だな」

 

「和友は、心配し過ぎだ。何も心配することなんてない。紫様には、私から言っておくからな」

 

「でも……」

 

「もっと肩の力抜け。気を遣いすぎると疲れるぞ?」

 

 

 

 藍に何度言われても少年の表情は変わらない。藍は、少年が思いのほか心配性なのだと知った。これも少年の新しい一面である。少年は、藍から何度大丈夫だと言われても納得することができないようだった。

 確かに心を荒らされる可能性は、非常に低いものだろう。

 けれども、確率の低さと相対するように荒らされた時の被害は甚大になる。

 少年は、万が一のことを考えると気が気ではなかった。

 

 

「力を抜きたいのは山々だけど、心の中って大切なものが山ほどあるじゃないか。どうしても気になっちゃうんだよ。お前だって、心の中を荒らされたら嫌だろう?」

 

「心を荒らされる、か……」

 

 

 藍は、主である紫が心の中に入り込み、心の中を荒らしていくのを想像する。想像するのは難しいと思っていたが、笑顔のまま大事なものを蹴散らしていく主人の顔が容易に想像できた。

 藍は、紫が心の中を荒らしている様子を想像しただけで、あまりの恐ろしさに身の毛がよだち、思わず気持ち悪くなって顔が若干青ざめた。

 

 

「それは、そうだな……」

 

 

 藍は、沸き立つ恐怖を押し殺して口を開いた。

 だが、恐ろしいとしても、不安だとしても、杞憂には違いない。

 藍は、少年の気持ちを楽にさせるために言葉を投げかける。

 

 

「でも、気にしすぎも辛いだろう? 気を張り続けているといつか切れてしまう。心配事や不安は、心に対する毒にしかならないからな」

 

「俺は、大丈夫だよ」

 

「なんでそうもはっきりと……」

 

 

 少年は、藍の心配する言葉に自分には関係のないことだと言わんばかりに、はっきりと即答した。

 藍は、どこにそんな自信があるのかと少年に聞くために口を開こうとしたところで少年の屈託のない純粋な笑顔が視界に入った。

 

 

「でも、俺のことを心配してくれるんだね、ありがとう」

 

「あ、ああ」

 

 

 少年は、とても嬉しそうにしながら藍が声を発するよりも先に告げた。少年の心のこもったお礼は、藍の心の中にまっすぐ入り込み、なだれ込んで来た。

 藍は、あまりに純粋な少年の気持ちを直視できずに頬を赤く染めて顔を背ける。ついさっき言おうとしていたことも忘れて、心の鼓動を抑え切れずに目を逸らした。

 

 

「ふふっ、何でお前が恥ずかしがるんだよ」

 

「も、もしかして私をからかっていたのかっ!?」

 

 

 少年は、あまりにぶっきらぼうな藍の反応に笑う。自分が原因で藍が恥ずかしがっているなど思いもせず、屈託なく笑った。

 

 

「からかっているつもりはなかったんだ。俺は、ただ思ったままを言っただけだったのに、返ってきたお前の反応が面白くてさ、ふふっ、はははっ」

 

「そ、それは、和友があんなことを言うのが悪いのだ!」

 

 

 藍は、少年の表情に自分が遊ばれていたのかと声を大にした。少年は、動揺する藍を見てさらにおもしそうに笑う。屈託のない笑顔を浮かべる。

 藍は、不機嫌な表情になり少年に詰め寄る。少年は、距離を詰める藍を避けることもなく、笑いながら手を標識へと掛けた。

 

 

「はははっ、俺のせいか、俺のせいね。ふふっ、それでもいいや。今度から気をつけるよ。ふふっ」

 

「笑うなっ!!」

 

 

 藍はしっかりとした反論の言葉が出てこず、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま少年にぶつける、反論の形にもなっていない思ったままの言葉を、偽りのない言葉を送った。

 少年は、子供のような藍の言動にさらに笑みを深めた。

 

 

 

 

 

 少年と藍は、面白おかしく話をしながら前へと進んでいった。紫の第一印象や、幻想郷についてなど、これから共通の認識をするであろう事柄を話題として使いながら歩みを進めた。

 

 

「初めて来た幻想郷はどうだった?」

 

「初めて幻想郷に来たときは本当に驚いたよ。緑がいっぱいで、空が青くて、綺麗だった」

 

「そうだろう! 幻想郷は、紫様が崇高な願いのもとに作り出した妖怪の楽園なのだ! 幻想郷にはさまざまな種類の妖怪がいて、人間とうまく共生している。それにな……」

 

 

 藍は、1年ぶりに人と話ができて心を躍らせ、時間を忘れていた。少年も嬉しそうに話す藍につられて笑顔を作る。

 

 

「幻想郷は、あいつの願いから生まれたんだね。妖怪と人間が共生する世界……夢のような話に聞こえるけど」

 

「それでも紫様は成し遂げた。本当にすごいお方だよ。しかしだな……紫様には、優れた点もさながら、悪い点もあってだな」

 

 

 少年は、藍の話題にしっかりとついてくる、楽しそうに笑顔を浮かべて受け答えをする。

 藍は、にこやかに話に答えてくれる少年に、口を軽くした。思わず主である紫の悪口を言ってしまうほどに、少年に心を許していた。

 

 もう―――どのぐらい進んだだろうか。すでに数十分は経っているだろう。二人は、標識を使って次々移動していた。

 藍は、少年と手を繋いだまま目の前で移り変わる標識を見つめる。

 何かを忘れている。藍の頭の中で何かが引っかかっていた。標識という存在に何かしらの身に覚えがあった。

 

 

「何か、忘れている気がする……」

 

 

 藍は食い入るように標識に視線を集め、少年の心の中に刺さっている標識の性質について思考を巡らせる。

 けれども―――結局引っかかっている物が何だったのかこの時は思い出せなかった。

 思い出せたのはおおよそ十数個の標識を使い移動した時のことである。まだ目的地にたどり着くには若干の距離があり、後数回は標識による移動をしなければならない状況の時だった。

 藍は、少年に向けて唐突に口を開いた。

 

 

「すごいな、標識はこうやって移動するのに使うのか」

 

「その通りだよ。標識は移動に使うというより、目印に使うという方が正しいけどね。俺、標識の位置と立て札の位置は完璧に分かるから」

 

 

 藍は、少年の心の中にある標識の性質を把握した。標識は、移動に使う座標を特定する物、それが藍の中の標識の認識になった。

 標識には文字が書かれており、それぞれが違う標識であることを示している。これによって場所と位置を正確に把握することができるのだろう。

 藍は、標識についての情報を集めるとともに、握っている手についても憶測を立てた。

 藍は、自身の優秀な思考が導き出した答えがほんのり間違っていて欲しいと思いながらも少年に問いかけた。

 

 

「手を繋いでいるのは、一緒に移動するためという認識で間違いないか?」

 

「それで間違っていないと思う。おそらく触れていないと一緒に飛ぶことは難しいんじゃないかな。あいつとは手を繋いでいないせいで離れ離れになったんだと思うし」

 

「そうか……」

 

 

 藍は、少年の答えに残念そうに呟いた。

 頭の片隅では、少年が優しさから自分を気遣って手を伸ばしてくれたのではないかと淡い期待を持っていた、自分のために手を差し出してくれたのだと思いたい気持ちもあったが、残念ながら現実にはそんなことはなかったようである。

 期待は、少年の一言で泡となって消えた。

 藍は期待を裏切られ、少しだけ気持ちを落とした。

 

 

「どうしたの? また気分でも悪くなった?」

 

「いいや、なんでもない。私は大丈夫だ」

 

「そっか、それならよかった」

 

 

 少年は、藍からの返事に心の底から安心するようにほっと一息ついた。

 少年は、自分の心のせいで藍が気分を悪くしているのではないかと気を遣い、気落ちする藍の様子を心配していた。

 

 

(なにを和友に心配させているんだ……気持ちを切り替えないと)

 

 

 少年に心配をかけさせてはいけない。藍は、心配して覗き込んで来る少年の顔を見つめ、少年に気を遣わせてしまっている今を憂い、首を横に振って沈んだ気持ちを切り替える。大きく息を吐いて先程までの楽しい雰囲気を作ろうと話題を投げかけた。

 

 

「和友、私には先程から気になっていることがあるのだが、質問しても構わないだろうか?」

 

「ふふっ、いきなり他人行儀になったね。俺の方が圧倒的に年下だろうし、しゃべりやすいしゃべりかたで話してくれていいよ」

 

「その、これはだな」

 

 

 藍は、少年の鋭い指摘に少年への対応が急変していることに気付き、再び動揺する。どうやら少年を心配させてしまったことで意識してしまい、言葉遣いが変化してしまったようである。

 

 

「まだ、和友にどう接していいのか分からないのだ」

 

「自然なままでいいんだよ。一番楽な状態で話してくれればいいさ」

 

 

 少年は、何処にも力が入っていない状態で話して欲しいと藍に告げた。

 無駄に気を遣われてしまうと自らも気を遣ってしまう、そんな関係は疲れるだけだ。少年は、藍と力の入っている関係を作りたくはなかった。

 

 

「質問については、俺が答えられることならなんでもいいから、何でも聞いてね」

 

「……それでは、和友の言葉に甘えさせてもらうぞ。標識に書いてある文字にも意味があったりするのか? この新垣努(あらがきつとむ)と書いてあるのも意味があると……」

 

 

 少年が藍の申し出を快く受け入れると、藍は少年の一言で一呼吸入れ、先程から空回りしてばかりの心を落ち着け、少年に聞きたかった事柄について尋ねた。

 

 藍は、標識に書かれている文字について疑問を持っていた。幻想郷において看板があるとすれば、基本的に場所の地名や向いている方角などの位置情報が書かれている。

 しかし、少年の心の中にある標識には、番号や記号が書かれているわけではなく、人の名前や物の名前のようなものが書かれており、場所を指し示すような言葉は一切書かれていなかった。

 ともすれば、人の名前や物の名前が場所を指し示す言葉ということになるのだが、藍はどうして少年がこのような言葉を標識の識別に使っているのか疑問だった。

 

 

「それは、友達の名前だよ」

 

「ああ、そういうことか。毎日聞いたりする言葉なら覚えやすいな。特徴とかもあるだろうし、場所と人を関連づけて覚えれば効率がよさそうだ」

 

 

 少年は、少し気になる程度に間を空けて藍の質問に対して答えた。

 藍は少年の言葉に納得し、なるほどと頷く。友達というのは、一人一人違う個性を持っており違いが分かりやすい、場所と友達の特徴を関連付けることで記憶することは飛躍的に容易になるだろう。

 藍は、標識を識別するために友達の名前を入れるという斬新な考えに、驚きと感嘆の感情を抱いた。

 そういうことだったのか―――藍は、無秩序な世界の中で思いの他効率化された標識に意識を集中する。興味深げに穴があくほどに見てさするようにして触った。

 

 

「この感触……」

 

 

 藍は、標識を触っている途中でどこか懐かしさを覚えた。先程引っかかっていた部分に直撃する違和感である。

 

 

「私は……標識に触ったことがある……?」

 

 

 藍は、誰にも聞こえないほど小さい声で何かを確かめるように標識を触りながら記憶を探し回り、特定の情報を探る。そして、しばらくすると唐突に手の動きを止めた、喉に引っかかっていた棘が何なのか把握して固まった。

 

 

「…………」

 

「どうしたの? なんかあった? 標識に不備でも見つかった?」

 

 

 少年は、時間が止まったように動きを止めた藍に向かって疑問を口にした。

 藍は、少年に話しかけられて少年の方向に視線を移す。少年を見る藍の眼は酷く泳いでおり、心なしか手も震えているように見えた。

 少年は、不思議そうに藍を見つめている。藍は、おどおどと手を震わせながら少年から視線をそらし、後ろめたそうに口を開いた。

 

 

「ち、ちなみになのだが……この、ところどころにある標識とか立て札って大事なものだったりするのか?」

 

「当たり前だろ。これがないとこの世界で移動ができないし、迷うことになる」

 

 

 少年は、藍の標識と立て札という単語の入った言葉を聞いて目を見開いた。

 藍は、やはりそうかと申し訳なさそうな顔をする。少年は、そんな表情をコロコロと変える藍を見ていて嫌な予感がした。

 

 

「ねぇ、分かっていないようだから今はっきり言っておくけど」

 

「っ……」

 

 

 少年が真面目な顔をして藍に詰め寄ると、藍は急に近づいた少年の顔に圧迫感を覚え、少しばかり後ずさる。

 

 

「……はぁ、大事なことだから良く聞いてよ」

 

 

 少年は、まずいといった表情をしている藍が何をしたのかすぐに察し、ため息をついた。藍のしたことは、おそらく自分にとってとても大事で、とても重要なことで、とても問題になることだ。

 しかし、まだ本当に何かをやらかしてしまったのか確証が得られていない。本当のことは、藍から事実を聞くまでは分からない。

 少年は、自分の中の予測を藍に叩き付けるようには言わず、会話の中にさりげなく織り交ぜて話を進め始めた。

 

 

「標識は、大事な大事な地図みたいなものなんだよ。それに立て札はもっと重要だ。あれはこの世界の楔みたいなものだからね。標識も立て札も、誤っても壊してくれるなよ」

 

「あっ、あのだな……」

 

 

 少年は、真剣な表情で藍に話し、標識と立札の重要性を伝えた。標識の重要性については、藍も理解しているところである。藍は、少年が標識に書かれている内容によって心の中の世界の位置を確かめているのを何度も見ている。

 

 

「ねぇ、顔色悪いよ?」

 

「…………」

 

「やっぱり、もしかして……」

 

 

 藍の額には、冷や汗が浮かんでいた。

 少年は、藍の様子から先程立てた予測が当たっているような気がして、内心動揺していた。

 藍は、言い難そうに口を開いたり閉じたりしている。何かを言おうと口を開くものの、言葉が出てこず、必死に言葉を吐き出そうと声を出そうとしている。

 少年は、何かを悟ったように悲しそうに藍を見つめながら取り返しのつかない状況になっていることに気持ちを揺らしていた。藍は、悲しそうな表情をしている少年を見ると余計に言葉が出てこなくなった。

 しかし、だからといって話さないという選択肢を選べるほど、藍は不誠実でもなかった。

 

 

「すまないっ!! 標識を二つ壊した!」

 

「あ!? 壊しただって!?」

 

「うっ……」

 

 

 藍は、とても潔い性格をしていた。謝ることを躊躇することなく、悪いことをしたと頭を下げて事実を露見させている。

 少年は、予測していた最悪の状況が当たり、怒りを内に秘めたが、藍の潔さに湧き上がっていた怒りを少しだけ抑えた。

 しかし、ここでちゃんと藍に向けて怒らないと今後が心配になる。何もしてもいいのだと勘違いをされると問題である。

 少年は、怒りを少しだけ抑えた状態で藍に向けて声を荒げた。

 

「本当に壊したのか!?」

 

 

 少年が怒ると同時に放たれている威圧感が一気に上昇する。

 藍は、少年の怒りの言葉にビクッと震え、少年から放出されている威圧感に先程下がった位置からさらに後ずさった。

 

 

「逃げるな!」

 

 

 少年は、離れようとする藍を繋いである右手を引くことで逃がさないと言わんばかりに藍の体を近づける。少年と藍の距離は、一気に縮まり、体と体がぶつかるほどに近づいた。

 

 

「こっちを見ろ!」

 

「っ……」

 

 

 藍は、少年に引き寄せられて怯えながらも少年の瞳を見つめる。少年の瞳には激しい怒りの炎が宿っており、酷く逃げたい衝動に駆られた。

 藍は、何とか縮まった距離を離そうと力を入れる。

 だが、少年の体にくっつきそうになっている自身の体を離すことができない。少年は、決して藍を逃がそうとはしなかった。

 

 

「和友……」

 

 

 再び藍が恐る恐る少年の顔を確認すると、やはり少年はかなり怒っている様子だった。藍は、少年をチラチラと見て困った表情を浮かべる。

 少年に手を離してくれる様子はない。藍は逃げられない状況に陥って目線を泳がせる。実際のところ自分が悪いのである、責められて当然なのだ。

 

 

「本当にすまない! 悪意はなかったんだ」

 

 

 藍は、決意を込めて少年に対して謝罪の姿勢を示した。

 少年は、怒りの中に見えない動揺と不安を募らせていた。誰にも見えない場所に感情を隠していた。




幻想郷で最初に行くべき場所ってどこでしょうかね……。人里かな?

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