ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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全6話編成の第12章1話目です。
12章は、永夜抄のお話になります。


第十二章 東方永夜抄
好きの居場所、芽生えた気持ち


 何もしなくても、溢れ出てくる。

 昨日の焼けつくような光の暴力が、瞼を貫通して視界を彩っている。

 余りの光景に、私は時間に置いて行かれることになった。

 

 それはつい昨日の出来事。

 見て思い知った。

 目から入ってくる光に、瞼を閉じたくなった。

 目の前に広がる現実に、眼をそむけたくなった。

 

 

「何よ、これ……」

 

 

 悲しみの溢れる世界に、いくつもの努力の結晶が立っている。

 負けずに、折れずに、生き残っているモノだけがそびえている。

 

 

「ようこそ、ここが僕の世界だよ」

 

 

 朽ちていったモノが溶け込む海の中で、少年は独りで悲しそうに笑っていた。

 こんなことがあっていいのだろうか。

 こんなことが許されるのだろうか。

 そう思わずにはいられなかったけど、これが現実なんだ。

 どれほど疑っても、これが事実なんだ。

 どうしてか、立ちはだかる壁がいつもより高く見えた。

 ――そして今、私は立ちはだかる壁を前にしながら何もせずに1日を終え、朝を迎えていた。

 

 

「圧倒されちゃった……」

 

 

 和友の心の中は、圧巻の一言だった。何も出てこなくなって、何も言い出せなくなって、吐き気だけが残った。

 ただ気持ち悪さをかき混ぜただけ。

 湧き上がってくる吐き気を抑え込んだだけ。

 表情を取り繕う余裕なんてなかった。

 

 

「なごみも同じ顔をしてたもんね……」

 

 

 そっと横を見てみれば、そこには時間を止めたかのように表情の固まった、生気の感じられないなごみの顔があった。

 多分、私の顔も同じような表情をしていたのだと思う。まるで鏡を見るようにうり二つの顔があったのだと、見てもいないのに――そう思った。

 私たちは、和友の心の中という広大な世界で独りになった。

 

 

「百聞は一見に如かずっていうか、むしろあれは論より証拠って感じだったよね。見なきゃ一生理解できない――そういう類のやつ」

 

 

 圧倒されたのは、私となごみだけじゃない。紫と藍以外はみな、一言も話すことなく夜を超えた。まるで溜め込んでいた吐き気を外に出さないように、心に想いを溜め込んだまま浅い眠りについた。

 どこに行ってしまったのか、影狼と大妖精の姿はここには見当たらない。きっと眠れなくて夜の闇に消えたのだろう。想いを上書きされたから、心を塗りつぶされたから、自分の色が見えなくなったから、見えなくなった自分の色を探しに行ったのだろう。自然とそう思ってしまうぐらいに、和友の心の中は色濃かった。

 

 

「瞼の裏が透けているみたいに見えてくる。思い出そうとしなくても勝手に見せつけてくる。焼き付いているように、離れずに残ってる」

 

 

 いくら無心を貫こうとしても、何も考えずに眼を閉じることはできなかった。眼を閉じることで瞼の裏側に浮かんでくる光景にせりあがってくるものを止められなかった。

 だけど、時間の流れに逆らうことはできない。私は、時間の流れに乗って今日を迎えた。無理矢理に夜を超えた。

 何も捨てられず、全てを抱えたまま、何も変わらない今を得た。

 

 

「ねぇ、なごみは何か思いついた? 和友を助ける方法とか、今の状況を打開する方法」

 

 

 ふと部屋の隅で力なく座っている存在に声をかけながら長年勉強してきた手話を飛ばす。

 布団をしまうこともなく、座ったまま肩を落とした状態のその者は、赤くなった目を隠すこともなく首を横に振った。

 ――だよねぇ。

 見つからない。見つかりっこない。

 だってこれは、なんの変哲もない普通のことなのだから。自然な心の作用なのだから。

 それは息を吸ったら吐くようなもの。疑問に思うような話でもなんでもなく、不思議に感じることでもなく、あるようにあればそうなるようなもの。

 大切なモノを失い、悲しむ。

 大切な人を亡くし、涙する。

 今起こっていることは、そんな当たり前のことなのだ。

 問題視することでも、解決しようとする内容でもない。

 

 

「和友の苦しみは、止めようとする方が間違っている気がするよね。両親のことを忘れるっていうのもおかしいし、どうでもいいと切り捨てるのも間違っている気がする」

 

 

 昨晩からずっと考えていた。

 何とかできないかって、ずっと考えていた。

 だけど、考えれば考えるほど、このまま終わってしまう形が最も自然なのだと感じてしまう。理性が訴える、感情が訴える、これで正しいと自分が言っている。

 この件で腑に落ちないのは、曖昧にする程度の能力を和友が抱えてしまったことだけだ。制御できない能力を持ってしまったことだけが引っかかっているだけで、他に喉を通らないものは何もなかった。

 この納得感が――さらに吐き気を呼び起こしてくる。まるで、すんなり飲み込めていることに対して心が拒否しているみたいだった。

 

 

「なんで和友なんだろう。どうして、こんなことになっちゃったんだろう……」

 

 

 なんで、和友に曖昧にする程度の能力が発現したのか。

 どうして、そんな力に選ばれてしまったのか。

 そんなふうに、結果が導かれた原因ばかりに思考が囚われる。

 

 

「ん……」

 

 

 考えにふけっていると、唐突に肩を叩かれた。トントンと二回叩かれた衝撃で思考の海から現実に戻ってくる。開かれた視界の先には、なごみの想いがつづられたスケッチブックが提示されていた。

 

 

(能力を制御する方法、消す方法を考えるのが和友の病気を治す正攻法だよ)

 

「……うん、そうだよね。なごみもやっぱりそう思ったんだ」

 

 

 両親のことを忘れるわけでもない。

 感情を捨ててしまうわけでもない。

 無関心になるわけでもない。

 あくまでも制御不能になっている能力をどうにかする。

 それが正攻法、正しい攻略方法――そう表現された言葉になごみの想いが伝わってくるようだった。かくいう私も、同じ気持ちだった。

 ――にしても、なごみは変わった。こうしてなごみと話していると、随分と変わったように感じる。学校に通っていた頃とは違って、生き生きしている。表情に生気を感じるようになった。

 

 

「話は変わるんだけど、和友のことも驚いたけどさ、なごみにも驚いたよ。随分と魔法が使えるようになったみたいじゃん! 言葉が話せなくたって、耳が聞こえなくたって、頭の中で会話できるようになったんだもんね」

 

(みんなのおかげ)

 

「そんな謙遜しなくてもいいって。なごみの頑張りがあったから今がある、そうでしょ?」

 

 

 なごみは褒められ、少し恥ずかしそうに笑う。はにかんだ笑顔で、昔と比べて大きく変わった無垢な表情を浮かべる。

 そんななごみの笑顔を見て、私の顔も自然と綻んだ。何も手にできていなかったあの頃と違う、最近見せるようになった顔が微笑みを作らせた。

 2人だけの空間に柔らかい雰囲気が包むと、なごみの右手がゆっくりと私に伸びてきた。まっすぐ伸びた手が私の頬に添えられ、なごみの温度が頬を伝う。

 

 

「どうしたの?」

 

「希には、どうしても私の言葉で伝えたかったから。私の言葉で伝えるね」

 

 

 頬に添えられたなごみの手から僅かに光が漏れ出すと同時に、頭の中になごみの声がこだまする。まだ慣れないはずのなごみの声が、なごみと同じ温度を持った言葉が、ずっと昔から聞いていたような懐かしさを呼んでくる。 

 ――抑揚が緩やかで、でも棒読みじゃない、そんな優しい声。

 

 

「今まで守ってくれてありがとう。助けてくれてありがとう」

 

「急にどうしたの? 私は別に何もしていないよ」

 

「希からしてみたら当たり前のことだったのかな? 自分がやりたいようにやっただけなのかな? うん、そうだと私も嬉しいな。希にとって私は特別じゃないほうが私にとっても嬉しい」

 

 

 私には、なごみの言いたいことがピンと来なかった。すぐにどんな話なのか理解することができなかった。

 でも、次に放たれた言葉が心の奥底に沈めた記憶を突き始めた。

 

 

「希は特別だった。希は私にとってヒーローだった。困った時に助けてくれる。苦しい時に守ってくれる。だけど、守ってもらうたびにいつも思ってた。私が、私という存在が希のことを縛っているって」

 

 

 刺激された記憶が痛みを訴え始める。

 なごみを守ってあげていたのは。

 なごみが困っていたところを助けようとしたのは。

 ――どうしてだっただろうか。

 ――どうして私は、なごみと友達になったのだろうか。

 始まりの記憶が嫌な顔をのぞかせ始める。

 私は、息が止まりそうになるのを抑えながら否定の言葉を口にしようとした。

 

 

「そんなことない、なごみは私にとって」

 

「そんなことある!!」

 

 

 初めて聞くなごみの大きな声に喉まで出かかっていた言葉が止まる。勢いの止められた私を追い込むように、なごみの想いの勢いは増して濁流のように私に迫ってきた。

 

 

「私を守ろうとしなかったら、私を助けようとしなかったら、希はこんな目に合わなかった。苦しむことはなかった。私にとってのヒーローに重荷を背負わせたのは私だよ……」

 

 

 力強く握られた手が震えている。

 声が揺れて、表情豊かになった顔が酷く歪んでいる。

 泣いちゃいけないと戒めるように、苦しみを隠すように、下手くそな微笑みが作られた。

 それは、私のよく知った顔だった。私の一番知っている顔だった。私の心に一番深く刻まれた表情だった。

 初めてなごみを見つけた時、あの時も同じような顔で、歪んだ顔で、苦しげな表情で、ハリボテの笑顔を浮かべていた。常にうつむいていた顔が、助けを訴えていた。

 

 

「私は、こんなだから。怖がりで、自信がなくて、話せないから。伝えられないから。周りから嫌われて、疎外されて、いじめられても仕方なかった」

 

 

 なごみは、教室で一人ぼっちだった。

 いつも孤独だった。

 場違いだった。

 そこにいることが間違っているような錯覚さえ覚えた。

 誰とも親しくなれず、誰にも近寄れない。

 筆記による筆談は、ちぐはぐで。

 心と出てくる言葉には大きな乖離があった。

 悪口を言われていることを雰囲気で察することができても、気のせいだとごまかしていた。

 涙目になった顔が、必死に嘘を破っていた。

 見せないようにうつむく顔がなごみの表情の全てだった。

 

 

「私には音が聞こえないから。人と違うから。劣っているから。「な、ゴミ!」と言われても分からないようなそんな奴だったから!」

 

 

 近くで見ていた私には、よく見えていた。

 毎日、苦しそうで。

 毎日、辛そうで。

 毎日、何かを探しているように見えた。

 昔と変わらない表情を張り付けたまま繰り出されるなごみの言葉が心に突き刺さる。

 そのたびに、出会いの始まりの記憶が掘り起こされる。

 どうして、なごみに近づいたのか。

 どうして、なごみを見つけたのか。

 私がなごみに接触した理由が頭の中を徘徊する。

 

 

「だから、いつも独りだった。だから、希に迷惑をかけた!」

 

 

 ああ、それ以上言わないで。

 それ以上、何も言わないで。

 心がなごみの心に共鳴するように大きく叫ぶ――絶叫のような声を上げる。

 私がなごみを選んだ理由が――心にナイフを突き立てる。

 深く、鋭く、めり込んでいく。

 

 

「そんなどうしようもない奴だから、優しい希を引っ張ってきちゃった。こんな辺境の地まで、幻想郷まで連れてきちゃった。あの時、落ちたのは私だけだったはずなのに。引きずってきちゃった」

 

 

 幻想郷に来ることになったのは、転落事故からだった。

 学校の屋上から落ちたのが、外にいた時の最後の記憶だ。

 私たちは落ちた。学校の屋上から転落した。

 落ちる直前になごみが手を掴んだ。

 掴まなきゃいけないと思ったわけじゃない。

 心が動く前に、体が動いた。

 なごみと手が繋がったころには、地面と足は繋がっていなくて。

 手を引かれるように落ちた。

 

 

「だからここに来た時、変わらなくちゃいけないって思った。和友が努力している姿を見てからその想いはもっと強くなった。変わらなくちゃ、変わらなくちゃって! 希の手を引っ張るような存在から、横を歩けるような存在になるんだって!」

 

 

 ――違う、違う、そうじゃない! 私は、なごみのヒーロ―になれるような人間じゃない! 私がなごみに声をかけたのは、私がなごみに手を伸ばしたのは――

 かつての動機を言葉に出そうとしたが、口が開かなかった。まるで怖がっているように、口が震えて言葉が出なかった。なごみの純粋な強い想いに押し負けた。

 

 

「もう、大丈夫だから。私は一人で歩いていける。だから心配しないで。希は、希の好きなように生きていいから! 困ったことがあったら今度は私が助けるからね!」

 

「…………」

 

 

 何も言えなかった。

 どういたしましての言葉さえも、出てこなかった。

 何も言わない私をしばらく見つめたなごみは、頬に一筋の線を描いたまま手を引いた。頬に触れていた温かさが消えると同時に、まぶしいほどに明るい表情が眼前に広がった。

 

 

(顔、洗ってくるね)

 

「…………」

 

 

 やっぱり何も言えなかった。

 なごみは、私を置き去りにしてふすまを開け放って外へと駆け出した。

 なごみの影が完全に見えなくなってから数秒経って、ようやく私の口は命を宿した。

 

 

「あれが、本物のなごみの笑顔……」

 

 

 故意に作ったものではなく、無理を張り付けたものではなくて、自然と顔に浮かんだもの。今までで一番綺麗な輝きを放った笑顔だった。

 その輝きが――私の影を色濃く見せた。

 

 

「なんで違うって言えなかったのかな、私……」

 

 

 私は、なごみを助けようと思って手を差し伸べたわけじゃないんだって。

 私は、なごみを救ってやろうと思って両手を広げたわけじゃないんだって。

 私は、なごみのヒーローではないんだって。薄黒く汚れたやつなんだって。

 どうして言えなかったのだろうか。

 なごみは想いを吐露してくれたのに、どうして真実を告げられなかったのだろうか。

 

 

「一旦外に出よ……太陽の光を浴びれば気分も少しは晴れるでしょ」

 

 

 薄暗い部屋の中から逃げ出すように日の光を求めて、なごみが開け放ったふすまへと移動する。降り注ぐ光の量にわずかに目を細めて大きく息を吸う。

 あーあ、何をしているのだろう。何を悩んでいるのだろう。

 

 

「おはよう。なごみもそうだったが、二人とも随分と起きるのが遅いのだな。日々の自己管理は大事だぞ? 早寝早起き――人生を節度よく生きる最初の一歩目だ」

 

 

 その嫌味ったらしい言い方と声で誰が話しかけてきたのか一瞬にして理解した。

 どうしてか、九本の黄金の尻尾を携えた妖怪――八雲藍はいつも私に対して棘のある言い方をしてくる。言っていることが正しく聞こえるのもさらに苛立ちを加速させる。

 でも、最初の頃よりは当たり障りなく関係を持てている。一時期は話せば喧嘩になっていた一触即発のレベルだったが、今となっては慣れてきているのもあって、大分マシな会話ができるようになっていた。

 

 

「遅かったのは今日だけよ」

 

「反論するのは構わないが、まずは挨拶を返すのを忘れないようにな」

 

 

 喧嘩を売っているのだろうか、相手を間違えればそう取られなくもなさそうなセリフに頭の琴線が触れる。

 こういうところだ。こういうところがなければ、なんて思わなくもなかったけど、私にとっての八雲藍という存在はそういうもの。

 でも、昔みたいにその場の苛立ちで噛みつくことはなくなった。イライラはするけど、抑えられるようになった。

 

 

「……おはよう」

 

「おはよう」

 

 

 穏やかな表情で挨拶に応えた藍の表情を見て、やっぱり違うなと思った。

 藍は私たちとは違う。私やなごみとは違う。

 藍は、昨日のことをどう思ったのだろうか。和友の心の中で何を感じていたのだろうか。和友の心の中に入った時、紫と藍だけが表情を変えずに遠くを見つめていた。遠くのどこかを見ていた。俯瞰しているわけでもなく、黄昏れるわけでもなく、ある場所に向かって視線を向けていた。

 

 

「……藍は知っていたんでしょう? 和友の心の中の状態を。あの、どうしようもない状況を」

 

「そうだな。2年ほど前から知っていた」

 

「やっぱりどうしようもないの? 和友のために何かできることって何もないのかな?」

 

「分からない。どうにかしようとは思っているが、実行できるような策がな……助けられる方法はあるにはあるのだが」

 

「え!? 助ける方法があるの!?」

 

 

 予想しないまさかの言葉に声が漏れた。

 助けられる方法がある。

 助けられる、続けられる、繋げられる。

 ずっと病気と付き合ってきた和友が無理だと言っていたから無理だと思い込んでいた。藍の言葉には、真っ暗な中に明かりを見つけたような驚きがあった。

 

 

「落ち着け。話は最後まで聞くように。そして、私に気安く触れるな。その腕、へし折るぞ?」

 

 

 細められた目に敵意を感じ、寒気が一気に背中を走り抜ける。

 私は、恐怖に引きずられるように無意識に伸びていた両手を慌てて引っ込めた。

 

 

「う、うん。ごめんなさい。ちょっと取り乱しちゃって。和友を助ける方法は無いものだとばかり思っていたから」

 

「使えない策など無いのと同じだ。私ですら思いついた策、紫様の頭には既にあるはずだろう。そして、和友もきっとな。それでも言わないのは、そういうことなのだ。それを和友が良しとしないから。それを誰かが良しとしないからだ」

 

「何それ、助ける方法があるのに助けないっていうの!? 助けられる方法があるのなら行使すべきじゃない! 助けられるのに助けないのは、それは見殺しにしているのと同じよ!」

 

「誰かが助かるのに、等価の誰かが犠牲になったら意味がないだろう? 世界の成り立ち上、何かの犠牲によって生が成り立っているとはいえ、この方法では誰も納得できない。私も、紫様も、和友も、満足できない」

 

 

 私には、藍の言っている言葉の意味が分からなかった。

 助けられる方法があるのならば、助けるべきだ。それをしないのは不義だと言ってもいい。

 満足するかとか、納得するかとか、そういうのは本来後からついて回る言葉のはずだ。行動に納得していたかという問いに対する答えは、結果論でしか語れないのだから。考えるのは、結果が出てからで十分だと思う。

 それで本人がどう思おうと、生きていさえすればいくらでも変えていける。生きていさえいれば、終わりを決められる。

 後でいくらでも謝ればいいじゃないか。

 後でいくらでも後悔すればいいじゃないか。

 終わってさえいなければ――いくらでも可能性はあるのだから。

 終わってしまえば――考えることすらできないのだから。

 

 

「満足するとか、納得できるとか、それってそんなに大事なの!? そんなもの後からいくらでも変えていけるじゃない。後付けで理由をつけてさ、振り返ってさ、反省すればいいじゃない。生きていなきゃ、何もできないんだよ? 何も、できないんだよ?」

 

 

 不思議と声が上擦った。溢れてくる感情に戸惑った。

 そうなったのは、きっと口に出した言葉に現実味があったから。

 昨日見た景色が、言葉に色を付けている。

 一度死にかけた経験が重さを着けている。

 目の前にいる藍も、どうしていいのか迷っているのか動揺している私を見て困った顔をしていた。

 

 

「ごめん。ちょっと取り乱しちゃった。気にしないで」

 

 

 私は、勢いよく頭をぶんぶんと左右に振ると目元を袖で擦った。

 

 

「そこまで言うのだったら問おうか。例えばだ、妖怪に供物を捧げるとして人間が一人選ばれた。その人を助けるために他の誰かが自分が人身御供になると言った。最初の一人は助かった。希は、これを良しとするのか?」

 

「その話は、大本の悪い妖怪を倒せばどうにかなる話だよね?」

 

「ふぅ……希には難しい話だったようだな」

 

「なにその冷めた目!」

 

 

 がっかりだと言わんばかりにため息をつく藍に勢いよく突っ込んだが、藍はそれ以上口を開くことはなかった。

 何か間違ったことを言ったかな。根源を断ち切ることがハッピーエンドを得るための方法には違いないと思ったのだけど。

 それにしても、私は和友が死んでしまいそうになっているという事実にこうも感情を揺さぶられているのに、どうして藍は平気そうな顔をしているのだろう。

 私は、少しでも昨日を思い出すと思わず泣きそうになる。和友の不憫さを想うたびに、こみ上げてくるものに耐えられなくなりそうになる。一緒に暮らしている家族が死にそうになっているという現実に、打ちひしがれそうになる。

 聞いた話だと、藍は昔から和友と暮らしていたらしい。私たちが幻想郷に来る前は、紫と藍と一緒に暮らしていたと和友は言っていた。それに、藍が和友に好意を寄せているのは見ていて一目瞭然だった。

 好きだというのならば取り乱しそうなものだけど、どうして冷静にしていられるのだろう。私の思い違いなのかな。

 

 

「……あくまで憶測なんだけどさ。藍は、和友のことが好きなんだよね?」

 

「好きだ。この世の中で一番好きだと言っても過言ではない。和友のためなら油揚げだって我慢できる。もちろん、我慢している分の対価を和友からもらえないと我慢できないが……」

 

「油揚げと比較されていることには突っ込まないとして……」

 

 

 好きだと恥ずかしげもなく告げる藍を少し羨ましく思う。素直に感情を口にできるその真っすぐな姿勢に劣等感を覚えた。

 藍のように思ったことを素直に言えたら、言えていたら。きっと、今という時間はなかった。過去という昔もああじゃなかった。ついさっきだってなごみに言えていたはずだった。

 ――私は、今の自分に後悔をする。今の無力で何もできない自分が嫌いだった。

 藍は後悔しないのだろうか。好きな人を失いそうになっている今を変える術を持っていてそれを使わないことを。好きな人ができたことのない私には好きな人の優先順位は分からないが、満足とか後悔とかそういう気持ちで助けないという選択ができるものなのだろうか。

 私は、未だに体験したことのない好きという気持ちを持っている藍に問いかけた。

 

 

「私、これまで誰かを好きになったことがないのだけど、好きってどういう気持ちなの?」

 

「質問の意図が分かりかねるが……好きという気持ちは、別の言葉で表すことはできないものだぞ? 好きという感情はあくまで好きという想いでしかない」

 

「……意味が分からないのだけど」

 

「好きも感情の一部ということだ。楽しいはあくまで楽しいという感情だろう? それ以外の言葉で表せるのか? そもそもそれ以外に言い換えたところで何か理解できるのか?」

 

「共感できる気持ちとか、納得できるものがあれば、何か分かるんじゃないの?」

 

「当たり前だが、好きという言葉をどんな言葉に直したしたところで、好きという言葉から大きく外れたりはしない。当たり前だ――好きという言葉を別の言葉にしているだけだから差異ができるわけがない。つまり、好きという感情が理解できない者に何を言っても伝わらない、私はそう思うがな」

 

 

 そう言われるとそんな気がした。

 楽しいという感情を知らない相手に、どうやって楽しいという感情を伝えるだろうか。

 感情のない人間に、どうやって心を伝えるだろうか。

 死んでいる人間に、どうやって温かさを伝えるだろうか。

 私には、分からなかった。

 

 

「……だったら、質問を変えるわ。どうして和友のことを好きになったの?」

 

「はぁ……希、お前は本当に何も知らないのだな。その問いを聞くだけで誰も好きになったことがないというのがよく分かる」

 

 

 本日二度目の大きなため息に、間違いを犯した空気が蔓延する。

 ――私、変なこと言った?

 ため息をついた藍は、やれやれと言わんばかりに告げた。

 

 

「どうして好きになったかという問いは、問われた全員が同じ答えを返すと思うぞ。私に限った話ではないだろう。誰に聞いても同じ答えが返ってくるはずだ」

 

「……ちなみにその決まった答えっていうのは?」

 

 

 私の問いに対する藍の答えは、なんともシンプルなものだった。

 

 

「好みと合致したから。後からそれが好みになったのか、昔から好きだったのかは分からないが、どうして好きになったという問いに対する答えは、自分の中の好きと重なったから以外にないはずだ」

 

「そういうものなの? 思ったより俗物的っていうか、特別感がないっていうか、随分と普通な気がするんだけど……なんか納得できない。本当にみんなそうなの? もっと、ちゃんとした理由があるんじゃないの?」

 

「希は、好きになることが何か特別なことだと思っていないか? 好きになるのなんて特定の食べ物が好きな理由と同じだ。触感が好き、味が好き。だから好き。それだけのこと。どうしてその味が好きなのかと問われたらどう答える? 好みだからとしか言いようがないだろう?」

 

 

 言われてみれば、それもそうな気がした。

 好みと合わなければ、好きになることなんてないだろう。

 というか、尋ねるべき問いを間違えた。答えてほしい内容の問いではないことに気付いた。

 私が聞きたかったのは、どうして好きになったのかではない。

 私が聞きたかったのは――好きの居場所だ。

 どこが好きになったのかという問いの答えである。

 

 

「じゃあ、和友のどこが好きになったの?」

 

「どこが、か……」

 

「やっぱり優しかったからとか、真っすぐなところに惹かれたとかそんな感じ?」

 

「…………」

 

 

 藍が僅かに顔を曇らせて悩むそぶりを見せる。口元に手を当てるしぐさをして、少しの間を開けた後に質問に対して答えた。

 

 

「ふむ、こうして考えてみると不思議なものだな。和友のどこが好きになったのかという疑問に対して浮かんでくる言葉の中にピンと来るものがない。きっと私は、和友のどこかが好きになったから好きになったわけではないのだろうな。もちろん優しいからとか、助けてもらったからとか、挙げられる理由はあるが……違うな。しっくりこない」

 

「え、違うの? 私としては優しいからとか、困っているときに助けてもらったからとか、一生懸命な姿がかっこいいからとかのほうがすごく分かりやすいんだけど……」

 

 

 女子の間で好きな男子の話をする場合、大体こういう理由がやり玉にあがる。

 スポーツしているところ、楽器を弾いているところ、一生懸命な姿に心を打たれる。たまに話す会話の中で、共通点を見つけて盛り上がる。困ったときに手伝ってもらった。手助けをしてもらった。きっかけがどこかにあって、どこかに惹かれる。そういうものだとおもっていた。

 

 

「もちろん好きな部分はある。ただ、それが全てではないからな。嫌いな部分もある」

 

「嫌いなところがあるのに、好きになるの?」

 

「嫌いなところがあることと好きになることは関係がない。自分と相手は違うのだ。相手の全てが好きになるなんてありえない。好きな相手にだって嫌いな部分は必ずある。全てが好きで構成されている奴なんていうのは、頭の中の虚像だけだろう」

 

「……そうかも」

 

「和友にも、もちろんある。書き記す作業をしている和友は狂気の沙汰だ。ない方がいい。他にも思い通りにいかないことは山ほどある。私としてはもう少し甘えさせてほしいのだが……嫌がることは余りしたくないからな。もちろん甘やかす方でも私は構わないのだが、それもまた」

 

「いや、そんなことまで聞いてないから」

 

「ただ、そういう部分もひっくるめて愛しく思う。嫌いな部分も、好きな部分も全部が和友だ。そういう存在だ。そういう存在の和友がいいのだ」

 

 

 聞いているこちらが恥ずかしくなりそうだった。

 好意を平然と口にする藍の顔は涼しげで、それに反比例するように私の顔が熱くなる。見ることはできないが、私の顔は真っ赤に染まっているだろう。

 そこまで話すと藍の視線がどこか遠くに向かう。はるか遠くの青い空の果てに視線を飛ばしていた。そして、少し考え込むしぐさを見せると――何かを思い出したのか頬を染めた。

 普段からすました顔をしているばっかりの表情しか知らない私は、初めて見た藍の女性の顔に思わずドキッとした。

 

 

「ああ、そうか……私が和友のことを好きになったのは、私がそういう私に成れたからだ」

 

「そういう私に成れた?」

 

「和友の傍にいる私が好きになったから。隣でドキドキしている私が好きになったから。自然と笑っている私が好きになったから。和友の隣が私の胸の中を一杯にできる場所だったから」

 

「それだと和友が好きっていうより、自分が好きになったからって言っているように聞こえるんだけど」

 

「そうだな。それで、間違っていないのだろう。私は、和友のどこかが好きになったから和友のことを好きになったわけではない。和友の傍にいる私が好きだから。だから、和友と一緒にいたいと思うし、和友を大切にしたいと思う。そんな私を見せてくれる和友を愛しく想うのだ」

 

 

 藍から和友を大切に思う気持ちがひしひしと伝わってくる。

 温かい好意と、素直な眩しさが光っている。

 和友を大切に想うのは――和友が好きになったのは、好きな人の隣にいる自分が好きだから。和友と一緒にいる自分が好きだから。

 こんなことを外の世界で言ったら、世間はあまりに自分よがりだと、自分勝手だと、相手のことを考えていないと笑うだろうか。

 私には、藍の自分勝手な理由を笑うことができなかった。

 なごみの傍にいることを自分の都合で選んだ私には、笑えなかった。

 

 

「だったらなおさら助けたいと思うんじゃないの? 大切な場所なんでしょ?」

 

「希は私の話を聞いていたのか? 和友の隣にいる自分が好きだから大切なのに、どうして和友を助けて後悔するような選択ができる? それをしてしまったら私は私を嫌いになるだろう。罪悪感と共存するような形になれば、私は和友の隣にいることに耐えられなくなる」

 

 

 罪悪感に耐えられなくなる。

 意識したことで芽生えた気持ちに見て見ぬ振りができなくなる。

 どうしてそんなことをしてしまったのか。

 どうして嫌われるようなことをしてしまったのか。

 どうして自分が嫌いになるような選択をしてしまったのか。

 嫌いな自分を好きな場所に置きたくなくなる。

 

 

「それでは――このまま和友を失ったのと同じだ。未来にかけて変えられることならばいいのだが、この選択はそういうわけにもいかない。一生引きずることになる。希、お前は後悔をしながらその者の隣に居続けることができるか?」

 

「……そんなの、分かんないよ」

 

 

 藍の問いかけに先ほどのなごみの笑顔が脳裏をかすめ、芽生えた罪悪感がこちらをじっと見つめていた。

 




遅ればせながら、何とか更新いたしました。

今回の話は、希視点で進んでいます。
希の迷いがうまく表現できているといいですね。
・のぞみに接触した理由、理由を話せなかったわけ。
ここを中心に考えてもらえば、話の中身が理解できるかと思います。

次回は、なごみと希の会話を挟んだ後に
日常的なところを書くかと思います。
その次から永夜抄ですね。

今後ともよろしくお願いいたします。

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