ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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感覚の違い、約束の契り

 少年は、さっそく紫のいる場所へと進もうと前を向く。視界の先には、無秩序な世界が両手を広げて迎えてくれている。

 少年は、そんな曖昧な自分の世界と向かい合うと同時に口を開いた。

 

 

「あ、そういえば」

 

「どうした?」

 

「はい」

 

「ん?」

 

 

 藍は、進行方向に向けていた体を少年に向け、少年の顔を注視する。前に進むと思われた少年は、藍を見つめながら手を差し出していた。少年の右手がそっと目の前に提示されている。

 これはなんだろうか。藍は少年の行動の意味が分からず、不思議そうな表情を浮かべる。少年は、相変わらずの反応の悪さに自分の行動がやはり間違っているのではないかと不安に駆られた。

 

 

「あいつもそうだったけど、これやっぱり間違っているのかな?」

 

「ま、まさか手を繋ぐのか?」

 

 

 藍は、少年の意図を察しチラチラと手と少年の顔を交互に見つめ、動揺しながら少年になんとか言葉を返した。

 少年は―――手を繋ごうとしているのである。

 藍は、予想外の少年の申し出に顔を赤くする。手を繋ぐなど何年振りだろうか、それも異性を相手に手を繋いだことなどはるか昔にあるかない程度しかなく、心のざわつきを抑えきれなかった。

 

 

「手をつなぐのは嫌?」

 

「むむ……だが、いや……やっぱり」

 

 

 藍は、向けられた掌を見つめながら湧き上がる感情のはざまで迷っていた。

 本心を言えば、少年の手を掴みたかった。少年の申し出は、先程まで一人きりで淋しさに打ち震え、壊れそうになっていた時のことを思い出すと、すぐにでも掴みたくなるほどの甘い誘いである。

 心は、人肌という安心を求めている。藍は、一人じゃないのだという孤独感からの脱却のために、ぜひとも少年の誘いに乗りたかった。

 けれども―――羞恥心が少年と手を繋ぐことを邪魔していた。八雲藍ともあろうものが、不安に打ち震えているからといって子供のように少年の手を繋いでもいいのだろうかという体裁が藍の行動を抑制していたのである。

 

 

「その方が安心できるかなと思ったんだけどね。平気なようには見えるけど……まだ、不安を抱えているように見えたから」

 

「そ、そんなに私は分かりやすいか?」

 

「分かりやすいというか、分かっちゃうというか……まぁ、そんなことはどうでもいいんだよ。何も気にする必要はないさ。不安に思わない方がおかしいんだから」

 

 

 藍は少年の言動を聞いて、自分の心がそこまで分かりやすいのだろうかと、心を見透かされているのではないかと感じていた。

 この意味不明な世界の中でさまよっていた藍は、少年に助けられて持ち直したとはいえ、未だに不安定な気持ちを抱えている。またいつか一人になるのではないかと不安を持っている。抱きしめてもらったとはいえ、今でも体の震えは止まっていない。

 そんな中の、手を繋ごうという申し出である。藍の気持ちから言えば、願ったり叶ったりの提案だった。

 

 

「でも、本当に嫌なら止めておくよ? どうせ、標識まで行ったら繋ぐことになるから今からでも変わらないと思ったんだけど……」

 

「い、嫌とは言っていないぞ!」

 

 

 少年は、悩んでいる様子の藍を見て伸ばした右手を引こうとする。

 藍は、離れていく少年の手を見て不意にとてつもない不安に駆られた。遠くに消えてしまうのではないかと思った。

 藍は、慌てて左手を伸ばし、少年の差し出した右手を左手でがっしりと掴む。

 

 

「温かいな……」

 

 

 少年の手は、少しごつごつとしているようだったが、確かな温かさがそこにはあった。少年の掌から藍の掌へと、掌から全身へと伝わる人肌の温かさに気持ちが休まるのを感じていた。

 手から伝わる温もりとともに不安が体の中から抜けていく。温度が全身を駆け巡り、余分な力が抜けて、目の前がクリアになる。

 藍は、人の温もりがこれほどまでに気持ちを落ちつけてくれるものなのだなと感心しながら手から伝わってくる安心感に頬を緩めた。

 

 

「ん?」

 

 

 藍は、しばらくするとあることに気付いた。少年が一向に動き出そうとしないのである。

 藍は、手を握ったまま動かない少年に目をやり、どうして動かないのだろうと不信感を持った視線を送る。藍から見た少年は、ちょっとばかり表情を歪めていた。

 

 

「どうした? 何かあったのか?」

 

「そんなに力入れて握らなくても、俺の手は逃げていくわけじゃないから軽くでいいよ」

 

「す、すまないっ!! そ、そのだな、これはちょっとした間違いで」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて慌てて力を抜く。どうやら力加減を間違えて、強く握ってしまっていたようである。

 藍は、恥ずかしそうに下を向き、視線を大きく逸らす。無意識のうちに少年の手を離したくないと思っていたのかもしれないと恥ずかしくなった。

 少年は、コロコロと変わる藍の様子を見て面白いものを見るかのように笑いだす。

 

 

「はははっ」

 

「笑うな!」

 

 

 藍は、少年に馬鹿にされていると感じ、恥ずかしさを打ち消すように声を大にした。それでも繋いでいる手を離すことは無く、緩めた力を少しだけ強めて逃さないように掴んでいる。顔は赤く染めながら不機嫌な顔になっている。

 少年は、藍の矛盾した様子がとても面白く、繋いでいない手を口元にあてがうと怒られているにもかかわらず、反省する様子もなく含み笑いをした。

 

 

「ふふっ、ごめんごめん。ちょっと面白くて」

 

「それ、謝罪になっていないぞ」

 

「こういうときって、どういう謝り方すればいいんだろうね。どうすれば許してくれるのかな?」

 

「笹原、おまえなぁ……」

 

「あ、こんなところで時間潰している場合じゃないね」

 

 

 藍は、先程から少年に振り回されっぱなしになっていた。少年に見つけられて泣いてしまったあの時から少年にペースを握られていた。

 少年には特に藍を意識している様子はないが、藍は泣いているところを見られて、弱い部分を見られて、少年を意識せずにはいられなかった。

 しかも、少年は藍の気持ちを分かっているかのように手を差し伸べてくれている。そんな少年の優しさが嬉しかった。

 藍は、純粋な気持ちで優しくしてくれる少年に強気に出ることができなかった。

 

 

「ここで話しをしていてもいいけど、前に進まなくなるからそろそろ行こうか」

 

「……そうだな。話すのは帰ってからにしよう」

 

「じゃあもう行くよ」

 

「あ、ああ」

 

 

 少年は、藍と一通りのお喋りをすると紫のもとへ行こうと提案し、離れない程度の程よい力で藍の手を握る。

 藍は、少年に手を優しく握られ、心臓を高鳴らせながら少年と同じ力で握り返した。今度は、力強く握ることはなく、適度に力抜いて互いの温度が分かる程度に握った。

 

 

 

「さて、どうやって行こうかな」

 

 

 二人は、手を握り直して前に歩き出す。藍は、少年の歩幅に合わせて隣を歩いている。少年より藍の身長の方が高いために歩幅が大きく、藍の方が少年の歩幅に合わせる形になっていた。

 少年は、迷うことなく先程やってきた標識に向かって歩き出す。400メートルの道を時間が巻き戻るように逆に歩いていく。

 周りには、もちろんのことながら無秩序な世界が広がっていた。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、周りの変わり映えのない景色を見て、再び恐怖に駆られた。

 歩き出したことによって嫌がおうにも見たくない景色を視認してしまう。無秩序な世界をずっと彷徨っていたことを思い出してしまう。

 先程までは下を向いていたためにあまり直視していなかったが、目の前には心を折った世界が嫌がらせのように見せつけられていた。

 藍の脳内に、時が逆に巻き戻っていくようにこれまでの経緯がフラッシュバックした。歯がガタガタと震える。手のひらから伝わる温度は温かいのに体が恐怖で冷え込んでいく。

 藍は、今にも泣きそうな震える声で少年に話し始めた。

 

 

「……私は、この世界に最初に来た時、すぐに出口を探したんだ」

 

 

 そう、藍はずっと歩き回ったのである。出口を探して、希望を探して歩き回ったのだ。ありもしない出口を―――ありもしない希望を―――ひたすらに探し回った。

 

 

「でも、何も見つからなかった。出口も、入口も何も見つからなかった。よく分からないことだらけだった。出口なんてものが、あるのかどうかさえも分からなかった」

 

 

 藍は、少年の心の中で必死に出口を探した。出るための方法を模索した。

 しかし、出るための方法など思いつくはずがない。少年の心の中には、そもそも出口が存在しないのだ。出る方法は、考えても見つかるわけがなかった。

 藍は、少年と歩いている間にこれまで少年の心の中で想ったことを吐露する。悲しさと孤独を混ぜ合わせたような、弱々しい今にも泣きだしそうな声で話す。

 

 

「笹原が来るまで、もう現実の世界には帰れないと思っていた。ずっとこのままだと思ったよ……ずっとこのままで、死んでしまうのだと思った……」

 

「ずっとなんて言っているけど、まだ1時間も経っていないよ?」

 

「嘘だっ!」

 

 

 藍は、少年の言葉に驚愕した。

 藍には、確かにはっきりと思い出すことの出来る1年間の量の記憶があった。迷い続けた期間の重苦しく辛い記憶があった。思い出せば、涙が溢れそうになるほど重くのしかかる記憶があった。

 藍は、声を大にして少年に詰め寄る。

 

 

「そんなわけないだろう!?」

 

「そんなこと言われても……」

 

 

 少年には、藍の言葉が大分大げさに聞こえていた。

 藍は、少年と紫がこの世界に入ったよりも先に入っているが、時間にして30分もない差であろう。それならば、藍のところまで少年が辿り着く時間を考慮しても1時間は経っていないはずだった。

 

 

「私はここに少なくとも1年間はいたぞ! ずっと一人で……ぐちゃぐちゃの世界の中でずっと一人だった」

 

 

 藍の瞳からは、溢れ出る記憶と一緒になって涙が溢れ出していく。言葉を発していくごとにこれまでのことを思い出し、辛い想いがとめどなく心の中を流れていた。

 

 

「どこまで行っても世界の端は見えない。力も出せない、空も飛べない、だからずっと歩いて……ずっと歩いた……」

 

 

 藍は、少年の心の中を歩き回った。広大な、膨大な大きさの少年の心の中を自分の足で進んだ。たった一つの願いをもって、たった一つの希望を抱えて進んだ。

 

 

「この世界には、朝も昼も夜もない。私は、ずっと探しまわった。でも何も無かった。何も、無かった……」

 

 

 藍の歩く速度は、気持ちが重くなるのに従ってどんどん遅くなっていく。

 少年は、崩れそうになる藍の手を強く握り、速度が落ちないように手を引く。さっきまでは、藍が少年に合わせて速度を落としていたのに、今は少年が藍の手を引くようにして進んでいた。

 

 

「ううっ……ぐずっ……」

 

「おいおい、また泣くのは止めてくれ。泣くな、泣いてくれるな。大丈夫だから、ちゃんと外に出してあげるから。外に出てから泣けよ。外に出てから泣いてくれ」

 

 

 少年は、まさかの展開に藍を心配する。

 しかし藍は、少年の言葉も虚しく、泣きやむそぶりを見せない。

 少年は、それほどに自分の心の世界が苦しいものなのかと藍から視線を外し、自分の心を見渡した。

 

 

「……気持ち悪い」

 

 

 少年の視界に、無秩序に様変わりする気持ちの悪い世界が広がった。

 

 

 少年の心の中の世界は、それほどに他者の心を揺さぶるものだった。境界が揺らぐこの世界に存在していて、頭がおかしくならない奴はいないのかもしれない。

 少年の心の中に入り込んできた精神の塊は、その境界の無い世界で境界を失って死んでしまうことだってあるだろう。

 それほどに少年の心の中は、他者の精神に影響を与えるのだ。それこそ、普通の人間だったならば1週間と経たずに人生が終わってしまっているかもしれない、移りゆく環境に心がついて行けず、終わってしまっていたかもしれないのである。

 

 

 

「ここで1年間か……そりゃそうなるよな」

 

 

 少年は、自分の心の中を見つめたまま寂しそうな表情で呟く。

 藍は、どうやらそんな世界に一人きりで1年間もの間いたというのである。それを考えれば、本人が言うように柄にもなく泣いてしまうのは仕方ないと思えた。

 

 

「でも、もう大丈夫だって。俺がちゃんと連れていってやるから、な?」

 

「すんっ……ぐずっ……」

 

「何をすれば、泣き止んでくれるの?」

 

 

 少年は、再び泣きだす藍に対して成す術もなかった。何をしていいのか分からなかった。今も昔も泣いた時に対処されたことといえば、抱きしめて優しく言葉をかけられたことしかない。

 ならば、再び藍を抱きしめてあげればいいのかもしれないが、少年は再び藍を抱きしめることはしなかった。

 やっと歩き始めたのだ、出口に向けて歩いている最中でそんなことをしたくなかった。せっかく歩き出したのに、再び止まるのは嫌だったのである。

 泣く度に抱きしめて慰めていたのでは、紫の下へとたどり着くまでにどれほどの時間がかかることになるのか想像もできない。紫がじっと待っている保証などどこにもないのだから、たびたび止まるような状況に陥ることだけは避けたかった。

 

 

「行くよ? あんまり時間をかけていられないんだから」

 

「すんっ……うぅ……」

 

「…………」

 

 

 少年は、次の目的地となる紫がいる場所を見定め、ある程度藍に声をかけると無視を決め込もうとしていた。

 だが、どうしても泣いている藍が気になるようでチラチラと目を配る。

 少年は、見てられないといった様子で、優しい口調で再び話しかけた。

 

 

「今は、泣くのは止めよう。前を見ろよ。泣くのは終わってから。泣くのは全部終わってからだよ」

 

「っ……す、すまない……また、取り乱してしまった」

 

 

 藍は、諭すような少年の言葉に慌てて顔を上げ、気持ちを切り替えて、頬を伝い流れる涙を袖で拭った。

 

 

「そうだな、笹原の言う通りだ。今はどうやってここから出るかの方が大事なのだからな」

 

「お前の話だと、どうやらこの世界は人によって進む時間が違うみたいだね」

 

 

 少年は、安定を取り戻そうとしている藍の様子にひとまず安心すると藍の話から自分の心の中の性質について考察した。

 

 

「少なくとも俺は、普通の時間を過ごしていると思う。お前を探すのにそれほど時間もかかっていないし、1時間も経っていないという認識にそんな極端な違いはないはずだよ」

 

 

 少年は、自分の心の中では人によって時間の進み方が違うのだと考えていた。少年の感覚的には、藍を見つけるまでに1時間も時間をかけてはいない。それなりに時間はかかったが、少なくとも1年などという途方もない時間を過ごしてはいないと断言できる。

 しかし、藍は1年間を少年の心の中で過ごしたと言っている。藍の話を聞いていると1年間という数字は、あながちウソではないのだと窺い知れる。藍のボロボロになっている衣服を見ても、年月の経過具合が見て取れる。

 少年は、藍が再び泣きださないように言葉を選ぶ。

 

 

「とりあえず……お前は心配しなくていい。これからは俺がいるから大丈夫。心配しなくてもちゃんと外に連れて行くから」

 

「その、私のこと、名前で呼んでくれないか? 紫様と話していた時も言おうと思っていたのだが、人の名前はちゃんと呼ぶべきだと思うぞ」

 

「あー、うん……」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて気がかりなことがあった。思い返してみれば、これまで少年が二人のことを名前で呼んだことはない。自己紹介後も一切名前で呼んでいなかった。

 

 

「俺もそう思う。人の名前は間違えちゃいけないし、その人の名前を呼んであげる。そうしたいんだけど……」

 

「なんだ? なにか問題でもあるのか? 恥ずかしいとかだったら、気にしなくていいぞ。少なくとも私は笹原に名前を呼ばれて嫌な顔をしたりはしないからな」

 

 

 藍は少年の反応を伺う。

 少年は藍の言葉に唸りながら頭をひねり、どう言えばいいのか分からず言い辛そうにしていた。

 

 

 

「だけど、んー……」

 

「何を悩んでいるのだ? 名前を呼ぶだけだろう?」

 

 

 藍は、笑顔を作って隣にいる少年に語りかけた。

 藍は、少年が何に悩んでいるのか分からなかった。名前を呼ぶという行為に悩むことろなど何もない。相手を認識し、相手の固有名詞で呼ぶだけなのだから、難しいところなど何もないはずだった。

 

 

「私は笹原に名前で呼んでほしいのだ。私だけが笹原の名前を呼んでいるのは、不公平だろう?」

 

「それは、そうだね……」

 

 

 藍は、優しくしてくれる、助けてくれた少年に対して心を開き始めており、ある程度心を寄せている。それなのにもかかわらず、少年は藍に向かってお前という言葉を使っている。自分だけが少年のことを名前で呼んでいると、名前を呼んでいるだけなのに余りに一方的で、壁を感じていた。どこか疎外感を覚えて気分が良くなかった。

 少年のお前という言葉には距離感を感じるのである。少年が自分を避けているのではないかと、心の距離が遠いように感じていた。

 

 

「もしかして……私のことが嫌いなのか? どこかで私が何か嫌いになるようなことをしてしまったのだろうか?」

 

「そうじゃないよ」

 

 

 これまで曖昧な返事しか返さなかった少年は、嫌いなのかという質問に対してははっきりと否定する意見を述べた。

 少年は、決してそういう好きとか、嫌いとかで名前を呼ぶことを渋ったわけではなかった。

 

 

「気持ちはすごく嬉しいんだけど。嫌だとか、良いとか、そういう問題じゃないんだ」

 

「話せないことなのか?」

 

「明日にはちゃんと名前で呼ぶから、それで勘弁してもらえないかな?」

 

 

 少年は、目的地に向いていた顔を藍の方向へ向けてはにかみながらばつが悪そうに言った。少年には、どうも藍の事を名前で呼べない理由があるらしい。

 

 

「今日はちょっと……ごめんなさい……」

 

「そんな顔をするな。私が笹原を責めているみたいじゃないか」

 

「ごめんなさい」

 

 

 少年は、申し訳なさそうに小さな声で言う。

 藍は、どうにも納得することができなかったが、少年の様子が藍の追及を許さなかった。深追いすれば、それこそ信頼関係が壊われそうな雰囲気だった。

 

 

「何か理由があるのだろう?」

 

「うん……」

 

「名前を呼べない理由を教えてはくれないのか」

 

「……教えるのはちょっと無理かな」

 

 

 名前を呼べない理由なんて存在するのだろうか。藍には、何一つ心当たりや理由となる原因、一切の回答が思いつかなかった。

 しかし、少年は明日には名前で呼んでくれると言っている。別に藍を名前で呼ぶことに関して呼びたくないというような負の感情を抱いているわけではないようである。

 藍は、特に大きな理由は無いのだろうと判断して少年の明日には呼ぶという妥協案に乗った。

 

 

「謝るな、明日からは名前で呼んでくれるのだろう? なら明日まで待つさ。私は先に呼ばせてもらうけどな、和友」

 

「あ、名前を呼ぶって下の名前だったの?」

 

「当然だろう?」

 

 

 藍が少年を下の名前を呼ぶと、少年は藍の言葉に意外そうに口を開いた。

 少年は名字の方で呼ぶと思っていた。少年がまだ小学生であれば、名前で呼ぶと思ったのかもしれないが、少年は中学生である。平常生活するうえでは名字で呼ぶのが一般的である中学生では、そう思っていてもしょうがないのかもしれなかった。

 

 

「名字の方じゃ私と紫様で被るだろう? 私のことは藍と呼んでくれ、約束だぞ」

 

「了解しました。約束します。また明日ね」

 

「楽しみにしている」

 

 

 藍は、期待を込めて少年に告げ、嬉しそうな表情で少年を見つめる。少年は、藍の明るい表情につられるように微笑んだ。

 

 

 

 

 二人は、手を繋ぎながら標識まで着くまでの間、ずっとたわいもない話をしながら歩いた。紫と会ったときどんなことを話したのかとか、幻想郷での暮らしがどうとか、友達は多かったのか、とかそんな他愛もない話しをしながら前に進んで行く。

 

 

「紫様のいる所までは、ここからどのぐらいで着くんだ?」

 

「うーん、そうだなぁ……目算だけど、20分もかからないと思うよ」

 

 

 紫の居る場所まで、後もう少しである。


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